長岡市医師会たより No.216 98.3
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表紙絵「山里早春〜上越・有馬川」 丸岡 稔(丸岡医院) 「文部大臣表彰を戴いて」 脇屋 誠悦(脇屋医院) 「おめでとう、脇屋先生」 谷口 昇(谷口医院) 「文部大臣表彰を祝う」 田辺 一雄(田辺医院) 「父の後を継いで」 笛田 孝明(自明堂眼科) 「ボウリングへの誘い(いざない)」 大貫 啓三(大貫内科医院) 「山と温泉〜47」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所) 「春を告げる福寿草」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
山里早春(上越・有馬川) 丸岡 稔
前略お許し下さい。
今回の表彰に関し私ごとき者が県内5人の中に入れて戴いたことに先ず驚いています。そしてこれも市医師会長先生他皆々様のお陰と心から感謝しています。厚く厚く御礼を申し上げます。
表彰状も立派ですが日本医師会の記念品(創作漆器文鎮時計)は誠に見事な品です。長く大切に使用させて戴きます。大変簡単ですが心からの御礼の言葉とさせて戴きます。
実は私の父が昭和30年死亡後校医の後を継ぎ42年です。この間人並の仕事をやったことは無いと思いますが、特に印象に残っていることを書いてみました。
昭和40年頃迄の特徴は児童に肺結核患者が9人も居たことです。重症でなく休校しなくて卒業迄に皆全治し大変感謝され嬉しく思ったことは忘れません。他は、精神発達遅滞で就学延期や免除の児童が毎年1〜2名居り本当に気の毒でした。
昭和50年頃迄、軽い気管支端息の児が若干居た他は平穏でした。
現在では、体格栄養可となり、休校する重篤患児は無くなりました。予防医学が発達し、又立派な養護教諭の方の御指導のお陰と家庭の皆様の御盡力(少なく産んで栄養に注意し丈夫に育て早期受診すること等)によるものと思います。但し最近の特徴は肥満児が増したことで、これの対策が大切と思っています。
他これは余談ですが、児童の皆様が立派に成長され、道等で会うた時二コニコして挨拶されると当時を思い出して嬉しく思っています。
以上、若い頃から癖の乱筆乱文で本当に済みませんでした。
脇屋誠悦先生の此度の文部大臣表彰誠におめでとうございます。
私は終戦直後2年位日赤の関原診療所に居りました時、屡々大積の脇屋先生(誠悦先生の御父上)から対診を依頼されて大積まで出掛けて、その都度御宅にお何いした思い出があります。
また誠悦先生は新潟医科大学の御出身で、地域に根づいた診療で御高名であり、先生の御子息の義彦先生は、順天堂大学の御出身で私の三男(修)の先輩であり、色々御指導いただきました。私は数年前心筋梗塞にかかり、日赤に入院致しましたがその時の主治医が義彦先生で、それ以来お世話になって居ります。
脇屋先生、大変お目出とうございます。
先生は昭和十六年新潟医科大学を御卒業後、戦時中のため陸軍軍医学校にすすまれ、樺太の陸軍病院に勤務、終戦後、新大第一内科で研鎖を積まれ、栃尾郷病院勤務を経て父業を継承されました。
名は体を現すの例えの通り、誠実に診療され、地元住民の信望を一身に集められ、お忙しいなか、多年に渡り学校医として尽くされた御功績が今回の表彰につながったのだと思います。故清水常司先生、故櫛谷敏夫先生に次いで文部大臣表彰を受けられ、〃長岡一内会〃 の大先輩の三先生共に文部大臣表彰を受けられたこと心からお慶び申し上げます。
先生には御健康に留意されまして、更に地域住民の為に御活躍下さいますようにお願い申し上げます。
時のたつのは早いもので、私が父の体調不良の為大学より戻り自明堂医院(現自明堂眼科)を継承してからもうすぐ丸3年になります。その間、医院改築等さまざまなことを経験しましたのでここで私なりの感想を述べさせていただきたいと思います。
私は継承当時入局3年目に入るころであり、あまりにも早すぎるうえに大学院進学の予定であったこともあり非常に迷いましたが、自明堂医院を続けてほしいという患者さんや家族、親戚、父の友人等の希望もあり悩んだ末に継承を決意しました。
一口に継承とは言っても、父と私では診察のスタイルに大きな隔たりがあり(眼科の検査法は昭和40〜50年代に大きく様変わりしたと聞きます)、ほとんどの医療器械を入れ替えなくてはならず、ほぼ新規開業と変わりないほどでした。(後になって考えればこの時に必要最低限の器械は揃いましたので医院改築の時には助かりましたが。)そして、その検査法・治療法の変化に患者さんが戸惑い、「私はこんなことをしてもらわなくてもいい。薬だけもらえればいい!」と怒って帰られる方も出る始末でした。
そんな前途多難なスタートではありましたが、当院スタッフの協力もあり無事1年が過ぎようとする頃、建物の老朽化、診察室が手狭となってきたことなどにより、医院改築の話が持ち上がりました。長岡市中心部の衰退、敷地自体が手狭であることより、郊外への移転も考えましたが、交通の利便性、現在地の知名度等により、改築という方向で話がまとまりました。敷地の狭さは、裏にあった月極駐車場の土地を一部含めることでカバーすることになりました。設計は東京の某眼科専門コンサルタントに依頼しました。眼科診療の流れ、器械等を熟知されているため、診察室・検査室等の診療スペースに関してはこちらの希望を伝えるだけでほぼおまかせできましたので楽でした。一方問題となったのは、旧診療所があった部分がとても間口が狭く、とても使えるスペースではなかったことです。これはその部分を吹き抜けのエントランス・ホールとすることで解決しました。
旧診療所の解体の時には、父が非常に愛着をもっており、そして私にとっても生まれてからずっと親しんできた建物であったことから、複雑な心境でした。解体が終わり、さら地となった旧診療所跡地を見た再来新患の患者さんが、「あら大変、自明堂がなくなってしまった!」とびっくりされ、仮診療所の案内看板も見ずに帰られたことがあったそうです。
そして暫く仮診療所にての診療となりました。当院駐車場にプレハブを建てて仮診療所としたために駐車場が非常に狭くなってしまいましたが、幸い繁華街の中ですので商店街の駐車券を発行することなどで対応できました。
そして昨年2月現診療所が完成しました。以前より予測はしておりましたがやはり場所が変わるとカルテの流れ方に慣れるまでスタッフが敏速に動けないものです。新規開業でしたら準備期間を設けることも可能ですがそうはいきません。この面からは2月という患者さんの少ない時期の完成で良かったと思います。
改築してから気付いた問題点をあげてみますと、やはり以前から問題となっていた敷地の狭さがあげられます。郊外と違い駐車可能台数に制限があること、また白内障日帰り手術を始めた場合や医療の進歩によって器械が増えた場合に手狭になってしまうことが予想されます。また長岡は雪国であるので床暖房を採用し、とても暖かく患者さんには好評ですが、温度調節が難しく早めにスイッチを切らないと午後には逆に暑すぎる程になってしまうところが欠点です。
最後になりますが、市医師会会員の皆様には、父が長年大変お世話になったことに深謝致します。今後とも宜しくお願い申し上げます。
シユル、シユル、シユル…、スパーン。長岡の大花火の音ではありません。ボウリングでストライクが出た時の音のつもりです。会員諸兄のなかで一度もボウリングをしたことがないという人は、まずいないのではないでしょうか。そして、めったにしない人でも、あのストライクが出たりスペアを取ったりした時の壮快な気分を覚えておいでの方は、多いと思います。この度は、「ぼん・じゅ〜る」の紙上をお借りして、長岡メジカルボウリングクラブの御紹介を致したいと思います。当クラブは、昭和47年に創立され、それ以来毎月第二月曜日の午後7時から初めは第二ミナミボウルで、現在はアルピコボウル(旧松電ボウル)でボウリングを行ってきました。
私が当クラブに入りましたのは、開業した翌年の1月からですから、もうすでに5年になります。たしか私と中村先生がその年の新入会員であったと思いますが、行ってみてびっくり致しました。と申しますのは、フレーム毎にレーンを替えて投球するのですが、参加されている先生方はただ黙々と投げているだけのように見えたからです。テレビで見るボウリング大会風景とは異なり、ストライクが出たりスペアを取ったりしても、手と手を叩き合うこともなく拍手をするだけなのです。そして私よりも10から15歳も年上の先生方が、4ゲームを投げきる間、まったく息を切らすこともなくそれこそ黙々と投げ続けるのです
しかし、何回か参加して行くうちに、投球の合間の会話や派手さこそないものの心のこもった拍手のなかに、メジカルボウリングの温かさと紳士的な物腰を感じるようになりました。
ここで、現在メジカルボウリングに参加しているメンバーを紹介し、私なりに解説してみたいと思います。
鳥羽嘉雄先生 先生のボウリングは、スマートそのものです。二番スバットを通ったボールがピンの間際でフックしストライクになる様子は、まさに一幅の絵と申せましょう。ハイゲームをしばしばお取りになるほどの実力ですが、腰を痛められてこの一年は実戦から遠ざかっておられます。一日も早く復帰されますことを祈っております。
田辺一雄先生 先生のボウリングは正確無比の言葉がぴったりです。スピードこそ若い人にはかないませんが、ツボに入った時はストライクが三つも四つも続きます。
三上英夫先生 先生のボウリングはいわゆるブルックリンからストライクを狙うバックアッブボールを投げるのが特徴です。ボールを離す瞬間の指の動きで、微妙にコントロールされる様子は、芸術品です。
野村権衛先生 先生の球筋は、医者を辞めてプロボウラーになった方がよいのではと思われるほどの、それはそれは見事なカーブボールです。さすがの名人も最近はボールコントロールにお悩みのようです。
一橋一郎先生 先生のボウリングは先生のご気性の通りのズバッとしたボールをお投げになります。体力に合った重い球をまっすぐにキーピンめがけて投げる様子は豪快そのものです。
茨木政毅先生 一昨年も昨年も年間のアベレージが一七五で、当クラブ随一の実力の持ち主です。ダイナミックなバックスイングからフォワードスイング、リリース、フォロースルーに至るまでの美しい投球フォームは、ほれぼれ致します。昨年もハイゲームを4回獲得され当クラブの中心メンバーです。
中村敬彦先生 先生のボウリングの特徴は、マラソンで鍛えた足腰から繰り出される回転しながらレーンに吸いつくように滑るように進むボールにあります。先生は、賞品が出る大会に強く、新春ボウリング大会に三年連続して優勝を飾ったことは、皆様すでに「ぼん・じゅ〜る」を通じてご存じの通りです。
明石明夫先生 先生のボウリングもバックアップボールでブルックリンを狙うものです。メンバーの中では、田村先生と並んで最も速いボールを投げるお一人です。コントロールも抜群で、昨年はハイゲームを三回獲得した当クラブでは茨木先生に次ぐ実力者です。
福本一朗先生 先生は当クラブで最も重いボールを投げておられると思います。先生の真面目な性格は、ボウリングにもよく表れ、いつも淡々としっかりとしたボールを投げられます。コントロールに確実さが増せば、更なるハイスコアが期待できます。
佐藤 充先生 先生は、いつもにこにこ笑顔を絶やさず投げていらっしゃいます。素直なストレートボールを投げられ、投げるときも紳士的でいつも淡々としておられますが、いったんレーンのコンディションをつかむとストライクが続きます。
高野吉行先生 先生は、野球帽の様なものを被り、フラリと現れてバタバタと投げ込んでサッと帰って行くといったタイプのボウラーです。昨年はお忙しく3回の参加にとどまりました。
田村隆美先生 昨年の一月から当クラブに仲間入りし、旋風を巻き起こしました。ものすごいスピードボールを投げ込みピンも壊れんばかりで、その破壊力は当クラブ一番です。昨年は、ハンデキャップ戦で年間のグランプリに輝きました。
横山博之先生 先生は、アプローチでじっと構えることはありません。いつの間にかアプローチに入りいつの間にか投げ終わっているというタイプです。昨年三月から参加されましたが、今年のホープの一人です。
市川健太郎先生 先生のボウリングは、まさに若さそのものです。彼もブルックリンを、ストレートボールで狙うタイプです。スペアを確実に取る技術も持っており、昨年はハイゲーム2回の実績があります。
竹樋事務長 数年前までは、華麗なフォームで周りを魅了しておりましたが、腰を痛めてからは参加されておりません。一日も早い復帰を願っております。
長々と当クラブをご紹介致しましたが、ここで当クラブについて更に詳しく御紹介致します。
当クラブの運営は、野村先生、茨木先生、明石先生を中心に行われており、毎回の会費(1400円)集めは茨木先生が、毎回のスコア集計は明石先生がなさっておられます。年の終りの納会もこれらの先生方のご尽力で毎年割烹青善で行っております。
納会では、毎年参加賞として全員に、野村先生が選ばれたホヤクリスタル製のグラスが授与されます。更に年間の優秀者に対する表彰も行われます。この納会は、誠に和やかな雰囲気で、ボウリング談義あり、医師会談義あり、ご自分のかかえた病気に対する専門家の個別指導ありで、大変な賑わいです。
もちろん酒豪も多く、昨年の納会でもテーブルの上は、空のビール瓶やお銚子で一杯となりました。これを見た文学青年の一橋先生は「さすがメジカルボウリングらしく、ビールの瓶やお銚子がボウリングのピンのようにバッタバッタと倒れているね。」と愉快そうに話しておられました。
当クラブへの入会はいつでもオーケーです。医師会またはメンバーのどなたにでもお申し込み下さい。ハンデキャップ制を取っており、最初の年の12月までは、ご自分が申告されたアベレージスコアを基に適正にハンデキャップを決めますので、過小申告をされますと新人の方が優勝するチャンスが多くなります。
ボウリングは誰でも気軽に出来るホントに楽しいスポーツです。毎月一回私達と一緒にボウリングを楽しみませんか。
たくさんの方の入会を、心よりお待ち申し上げております。
暫く休ませて戴いたのですが、再び連載いたします。「ぼん・じゅ〜る167号」収載、「山と温泉」・(47)その16、「苗場山群と温泉」から始めます。(47)その17になります。
苗場山の古文書に見られる記録は極めて少ない。昭和39年、新潟・長野両県教育委員会による予備調査報告書「苗場山頂と小松原湿原の地質並びに植物と山麓の民俗」に、森野周野氏の次のような記述がある。
「苗場山がいつの時代、どのような人によって開かれたかは、記録、伝承いずれを漁っても明らかにすることはできない。ただ言えることは、今から1060年の昔、延喜年号以前既に頂上に参詣し、その神秘的な情景にうたれた者がいたといわれている。この山が仏門の僧及び修験道の行者によって開山されたものではあるまいかということである」(湯沢町誌)。尚、古文書にみられる苗場山については、藤島玄氏の「越後の山旅」下巻「苗場山塊」に、文献資料など、かなり詳細に説明されているのでそちらを御覧下きい。日本の山・山岳は古代宗教の場となっています。それが、神道であれ仏教であれ、歴史的に、時代を経て混淆し、山岳宗教、山岳信仰となっているもののようです。したがって、山麓の集落に社殿を置いて、祭り、山頂に奥社を設ける形態を取っています。自然に対して畏敬し、救済を求めた原始宗教は、山へ、海へ、そして天空へと、祈りが輪廻し、そうする事に依って、高い処が、祈りの場となったのであろうと想像するのです。苗場山の場合は、山麓・湯沢町三俣に「伊米神社」、山頂に奥社があります。周辺の、鳥甲山、赤倉山、佐武流山、白砂山の頂上には奥社らしきものはみられません。ただ、鳥甲山山頂に、山の神「猿田彦神」を肥った小さい石の祇があったように記憶します。文化六年刊行の『新編会津風土記』(西暦1809年)には、「苗場山・高山にて盛夏も雪あり」、同年代刊行の『越後野志』には、「苗葉山・上田郷二居駅より行程四里……高くして嶺上四時雪あり…草は稲苗に似たり、因って山名を苗葉と名づく…又雨後山上に登れば長さ尺余の足跡を稀に見る事あり…」(越後の山旅)。明治39年(1906年)刊行の「日本山嶽志」には苗場山(別称・幕山)としてあり、又、「山頂の苗代と言うは苗場の附会したるならん。古言地震をナ井と言う。古人は地震の此の山より起こるなどと想へるより其名出てし云云」。著者は高頭式、通称仁兵衛、市内深沢町旧家・高頭家に生まれ、片貝尋常高等小学校教師・大平最氏により山岳への興味が引き出され、近代登山の門を開けた人。大平氏と共に日本山岳会創立発起人となりました。しかし、山岳研究のため、家業は衰退、この地方きっての地主で旧家を傾かせる結果となった。氏は、83歳で、昭和33年亡くなっています。
ここで、湯沢町誌にある、王朝期にかかわる伝説の項に、「苗場山略緑記」と言う話が記述されている。その要点のみを拾ってみます。
「抑苗場七社作神守護の神と奉称古へは人皇四十五代聖武天皇天平丁丑年(749年)御創建の地にし添も祭る神は保食命(稲成明神)天児屋根命(春日明神)大己貴尊(大國神)我勝之命(毘沙門天)猿田彦(大蔵明神)天鈿女命(厳島明神)事代主命(恵比寿神)にして薬師七如来瑠璃光の霊地なり其後人皇五十一代平城天皇御宇大同元丙年(806年)天台聖教大阿闇梨法印霊雲上人北国弘通の時暫く此の山に止里たまふ折から深山に景雲たなびきしを見て妙智悟道の上人源山にわけ入里終に頂に登里けるとき白髪の翁顕れ五口上人待事久し五口は此山の地主明神なり五穀成就生物群生国土安穏を守るべし上人供に人法を擁護すべしと神勅ありき誠に十万諸国土無剣不現身の金言むなしからず信心渇仰の輩願望すみやかに満足すること響の声に応ずる如し即開山と成れ云云……。」又、「いただきの広さ四方へ三里余南方一体に田面の形ちあり春の頃田毎に苗植あり青々として群生す秋にいたれば稲美のるその頃苅取のみして何方へ特はこび給ふやらん凡人の知る所にあらす云云……」次にこの緑記の著者とおぼしき人名が登場する。「安徳天皇の御宇養和寿永の年頃(1181年)木曽義仲公滅亡の側士卒多数この麓に集りほしいままに乱入すその中に不当猛悪のものありて人民難しあまつさえ寺院民家焼亡なして失けるにより別当寺安楽寺は中仙道倉賀野宿にうつり今成々としてあり麦に弘化年中越後国の産行者勇道房一心日本六十余州神社仏閣霊場巡拝して今年六十余歳にして此御山に登り誓願ありて三七日絶食して瀞心に修行すること軍なりき然るに二十一日目の夜半の頃不思睡眼す不思議なるや白髪の老翁忽然と顕れ行者に告白く汝不宵誠心なり数年来普く身命を倍まず雪霜寒暑のうれい厭はず身体堅固に修行成事奇特なり吾往古より此の山に在りて国家安全五穀成就の守護なすこと幾数年なり往古の如く再興なさば多生の利益与ふべし汝世間に出て再建なさずやと告たまうて稲成神社に入せたまいける……略七仏薬師霊場の徳とかや苗場山の略縁起あら如し爾かり云云…」最後に嘉水元年吉日(1848年)行者敬白、としてある。この略縁記を書いたと思われる、行者男道房一心なる人物は、その生涯についてなど一切明らかなものは残っていないと、同湯沢町誌にある。しかし、三俣の関家に残る「三俣庚由講年代記」に同じ人物と思われる名の記載がみられる。三俣庚申請代記の抜き書きは次のようである。「嘉永二年酉八月同国蒲原郡泉村男頭坊一心と由者貝掛茂木与之助と同頭にて東都叡山役所順出当山苗場山再建仕度由願出御免状被下当村末へ奉堂相立甲候云云……楽書
一心のとどかで金の苗場山 志ら髪のけて、こけの世話人
此時東叡山役人多分来申候又壱句
東から大小指して苗場山 いめの神社か 夢の神社か
可々大笑被下度秦願上候」。
この人物に対し、湯沢町誌は更に、「この勇道房一心なる人物、苗場山を舞台に一芝居目論んだ相当の者であったらしい。それにしてもこのことが伊米神社と真実どんな関り合いがあったのかはっきりとしたものがわからない。苗場山今昔物語の一頁というべきであろう。」沸教伝来の頃に苗場山は開山したのであろう、としてよい、と思うべきと考えます。伊米神社と苗場山との関わりははっきりしていない。伊米神社は、山麓・三俣集落東側、旧国道17号線沿いに社殿がみられます。仲々立派な社です。この社の創建年代は不詳ですが、平安中期の法典−西暦900年代−延喜式に、式内神社として記載されている。即ち、越後五十六座、魚沼郡五座、魚沼神社、大前社、神坂本神社、伊米神社、川合神社である。平安時代にすでに創建されていると思われますが、現在地にあったものかどうかは全く分っていません。明治12年に社殿再建すると伝えられています。(湯沢町誌)口碑には、「本社の奥の院と称するは苗場山の頂上にあり」となっています。確かに、頂上、一等三角点補点近くに、石洞がみられます。山の蜂、登山道に石洞、石碑と数多くみますが、この苗場山は殊に多い様に思います。登山の機会は注意して登って下さい。
古文書にみる苗場山記録は、何んと云っても、「北越雪譜」二ノ巻「苗場山」以外にはないようです。「北越雪譜」は初編上中下三冊、二編春夏秋冬四冊都合七冊からなっている。(岩波クラシックス、北越雪譜)と云われています。著者は鈴木義三治、俳号牧之、明和7年生、天保13年、73歳死去、(1770−1842年)。文化8年(1811年)、牧之41歳、『苗場山記行』を書いている。更に、58歳で『秋山記行』を書き、その文中に苗場山についての記載がある。
「福寿草がついにきょう咲いたから、あしたの朝いっしょに見てみようよ。」と家人が夕食の際に教えてくれた。
「おう、そうかあ!やっと咲いたかあ。」と笑顔のわたし。
「あら、自分の大好きな花だと反応が良好ですね。」
「そうかなあ?」
「そうよ、このあいだ庭のマンサクがもう咲いたよーって教えたときは、興味なさそうにフーンと一言だったのよ、あなた。」
それはお正月に出回る鉢植えの福寿草を地植えにしたものなのである。
ご近所の園芸一般に詳しい先輩のN先生にうかがうと、市販の鉢植えの福寿草は無理に根を入れてあるから花が終わったら大きな鉢に植え替えないといけないとのことである。数回試してみたが、やはり夏場で枯れてしまう。
その後園芸書を調べてみると、春先の開花後旺盛に生育した葉は夏場に枯れるが、地株は秋にまた活動を再開するのだそうだ。乾燥には弱く林の中でも湿気の多い枯れ葉のつもった地面などに群生するとあった。鉢のままでは夏場に乾燥させやすくそれが原因で枯れてしまうものと思われた。
そこでわが家の庭ではもっとも落ち葉が積もり、ついでとはいえ、夏に水やりをする花梨の大木の根元付近に植え込んだのであった。
福寿草は毎年、夏にはすっかり葉は枯れて姿を消すが、また晩秋になると枯れ葉をかき分けるようにして、っぽみの前段階でひょっこりと地表に顔を出すようになった。そしてそのまま冬を迎えて、雪の下に埋もれてしまう。
残り雪もようやく溶け始めた頃、思い立って様子を見に行った。ある、ある。枯れ落ち葉の間に先のっぽみが黄色く色づいた福寿草があちこちに出ている。本格的な春の訪れを今か今かと待っているようであった。
近所で同じく春を告げる植物であるフキノトウがほころびかけたのを先日散歩中に見かけたばかりだ。
「あっ、フキノトウだ。春だねえ。取って食べたいな。ね、いいかな?」
「いいわけないでしょ、Yさんちの庭に生えているんだから。だめよ。」と家人がたしなめる。
その数日後、夕食の食卓に削り節のたっぷりかかったフキノトウのお浸しがあがっていた。
「ああ!どうしたの、これ」
「N先生の奥さんが息子さんと散歩に出かけて、取っていらしたのを、お昼に持って来てくださったのよ。」
「ありがたいね。ひょっとしてぼくがあんまり食べたがっていたんで、きみが犯行におよんで、Yさんちから失敬したのかと思ったよ。」
「ばかね、そんなことこの気の弱いわたしができるわけないでしょ。」
「最近、愛のためにスプレー撒いて警察署から留置中の夫を救出して逃走した若い女性もいたからねえ。」
さて翌朝、雪囲いをはずしたものの雪塊のあちこち残る庭に、家人に誘われて、福寿草を見に行った。
「あれ、変だなあ…昨日はきれいに開いて咲いていたのにー。」
「信用するよ。ほら福寿草も日光が当たると開花して、暗くなると閉じる性質だから。」
「ああ、そうだったわねえ。すっかり忘れていたわ。せっかく咲いたのを見せてあげようと思ったのにがっかり。」
……次の日曜日にでもゆっくりと、春の日だまりの中に咲く福寿草を鑑賞することにしよう。