長岡市医師会たより No.218 98.5

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 たまに、誤読み込みの見落としがあることと思いますが、おゆるしください。
もくじ 
 表紙絵「はさ木」          下田 四郎(下田整形外科医院)
 「表紙について」          下田 四郎(下田整形外科医院)
 「開業一年生」           山井 健介(山井医院)
 女性理事初誕生に寄せて
 「理事に任命されて」        小林眞紀子(小林医院)
 「女性理事に期待を」        大関  忍(大関眼科医院)
 「やるっきゃない」         武田さち江(たけだ眼科医院)
 「眞紀子先生応援します!」     森下美知子(森下皮膚科医院)
 「山と温泉47〜その18」       古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「朝はレモンバームの香りから」   郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

はさ木   下田四郎
表紙について 下田 四郎(下田整形外科医院)

 

  はさ木は日本画の好素材です。洋画でも、高校一年後輩の渡辺啓輔氏による日展特選のはさ木の絵が、市立図書館に飾ってあります。

 四季を問わず、岩室地区の夏井には、はさ木を撮ったり、デッサンしたり結構人が訪れています。

 夏井のはさ木の案内板には、「日本一の米どころ、越後平野を古くか特徴づけてきた「はさ木」。かっては、刈り取った黄金の稲を身にまとい、さながらあぜ道の両側に金扉風を並べ立てた様な光景をみせていました。農業の機械化、近代化が進んだ今、はさ木は静かにその役目を終えようしています。しかし、時としては、私たちに雪や霧といった四季の移ろいの中で輝きを見せてくれています。はさ木と平野の醸し出す美しい情景を、すこしでも後世に残していけたらと思います。

 和  名 トネリコ

 別  名 サトトネリコ(モクセイ科)

 俗  名 タモギ、ハザキ(稲架木)

 保存本数 約600本

 用  途 刈り取った稲をはさ木にかけて乾かした

   平成元年八月  岩室村観光協会 (原文のまま)

 また、古老の話では、別名「たもの木」とも呼び、領主が領民に、は木の苗木をたまわり、成長すればはさ木として使い、一旦緩急あれば篝火(かがりび)や松明(たいまつ)に徴用し、太くなったら餅つきの杵(きね)に使用した。そこで、給わった木…たもの木となった由。

 今は、農家が自家米の自然乾燥のためにのみ使用しているようです。栃尾などの山間部では、杉の木をはさ木として使用しています。

 以前は、農家の脊推圧迫骨折の大半は、この木からの転落によるものでした。

 この木は他県では、見たことがありません。

 この木は、趣後の稲作農民の木であったのです。

 私たちの幼少の頃の秋、イナゴ取りの季節には、前途したような金扉の風景は、それは壮観な眺めでした。

 

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開業医一年生 山井健介(山井医院)

 昨年4月2日に開業させていただいてからまもなく丸一年が経とうとしております。私にとっては新規開業ですが、医療法人角原医院を継承するという形を取らせていただきました。角原先生が体調を崩され、一昨年の秋から診療を休まれましたので、しばらく先生の出身の新潟大学第一外科から週に何日か出張医が診療に当たり医院は継続していました。先生が復帰されるようにとの期待が強かったのですが、残念ながら体調の改善が不十分とのことで平成8年末をもって閉院されました。私に跡を継がないかとお声をかけていただいたのが同年10月中旬のことでした。麻雀仲間の杉本伸彦先生が間に入って下さり、とんとん拍子で話がまとまった感じでした。当時私は立川綜合病院の外科に勤務して3年目で若輩ながら医長を仰せつかり、忙しくそれなりに充実した日々を過ごしていました。手術症例も増えてきており、医長としての手腕の見せ所もこれから(?)という時でしたが、一方将来は開業してみたいと考え始めたころでもありました。まだまだ手術もやりたいし、貯えも全くない状態で多額の借金を抱えなければならないことを考えると時期尚早の感が強かったのですが、医院の好立地条件、角原先生自らのお勧めも強いことより数日熱考し、お引き受けすることとしました。

 長岡には親戚が何軒かありますが、私自身は出身は亀田町です。昭和56年に新潟大学を卒業し、武藤輝一教授(前学長、現長岡赤十字病院院長)のもと第一外科医局に9年間お世話になった後、県立加茂病院に4年間、立川綜合病院に3年間勤務いたしました。周りの方々にご迷惑をかけつつ、且つご協力をいただき何とか無事に開業後一年を迎えることができました。前述したように、病院勤務時代は毎日朝から晩まで、時には深夜あるいは翌朝までほぼ肉体労働を続けてきたのですが、開業後は、患者さんの数も少ないこともありますが、暇な時間が多く、体を動かすことも少なくなり、生活リズムが全く変わってしまいました。体は鈍り、体重は増え、診療も毎日同じことの繰り返しで当初は開業したことを悔やんだこともありました。しかし、時間の経過とともに、多少開き直りもありますが、今の生活もまんざらじやないなと思えるようになってきました。その理由としては家族と一緒に過ごす時間が増えたこと、休日は文字どおりに休め、心身の疲れがそう溜まらないこと、それに何より私が厳選して当院へ来てもらった3人の看護婦さん、2人の事務員さんが良くやってくれ、職場の雰圏気が非常に良いことなどです。ただし、女房にとっては四六時中顔を合わさなければならないし、昼食も希望を入れて作らなければならなくなりました。子供たちにとっても時には口うるさいオヤジが何時でも家にいることになったのです。私も診療が終わってからは通勤もないわけですから一歩も外に出ない日があります。それではたまらんということで、現在の欲求不満解消は月に2回の麻雀、週に1〜2回のスポーツジムと同頻度のパチンコとなっております。勤務医時代は時々同僚医師たちやスタッフたちと街へくりだしたりしていたのですが、今は一人遊びが多くなり、やはり開業医は孤独で寂しいということになりますでしょうか。

 肝心の医院の状況ですが、当初は3か月閉院していたものの角原医院へ通院していた患者さんが少しずつ戻ってくれ8月までは順調に増えていきました。しかし!、あの9月の医療費改定(改悪?)後は伸びが無くむしろ患者数、医療収入ともに減少してきました。何で、どうして、私の開業直後にそんなことやるのか!とどこにぶつけたらよいのか分からない怒りをおぼえたものです。医療法人ですので初めは前勤務先と同じ位の給料を設定したのですが、収入が追いつかず4か月後はかなり下げざるを得ませんでした。約1年経過し最近少しずつ患者さんも増えつつありますが、まだまだ赤字で問屋さんへの支払いが請求額に満たない状況です。以前より着るもの・食べるものが質素になり勤務医時代に描いていた開業医生活とはほど遠い生活を今送っていますが、そのうちに改善されるだろうと願いつつ、本当にそうなる日が来るのだろうかと少しは不安も抱きつつコツコツとやっていく所存です。まだ開業医としては新米、当院を受診してくれる患者さん一人一人を大切にし、その人にとっての最善の医療を心がけたいと思います。そのためには診診・病診連携が重要となり、これからもたくさんの先生方にお世話になると思いますので何卒よろしくお願いいたします。また、開業医として落ち着きましたら医師会にも貢献したいと考えておりますので今後のご指導をお願い申し上げます。

 

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女性理事誕生に寄せて 

理事に任命されて 小林眞紀子(小林医院)

 一生のうちには、思いも掛けないことがおきるものである。今回の医師会の理事任命は、私にとって晴天の霹靂であった。役員候補者の中に、自分の名前をみつけ、驚いて医師会に電話を入れた。勿論辞退のためである。しかしながら辞退の権利はないとのこと。また考えてみれば当選もしていないのに辞退というのもおかしなものであると、自分でも苦笑した。選挙の当日は、分娩があり欠席した。それなりの難産であり、分娩後ひといきついていると、杉本先生より電話が入った。当選とのこと。思いもかけない結果におどろき、寝込んでしまった。自分などにやれるであろうかと悩み続け、できるかぎり頑張ってみようという綿論に達するには、数日かかった。

 私の母は、九州の出身であり、私は、子供の頃から、これからの女性は、技術を身につけるべきであると教育されてきた。母の里は、男尊女卑のはっきりした土地柄であり、母は、そういう気質があまり好きではなかったようである。長岡に嫁いできて、その風土、気質の差に、最初のうちは戸惑っていたようであるが、現在では、女性ものびのびと仕事のできる長岡に、かなり満足しているようである。

 昨今、女性の社会進出は、母達の時代からは到底想像も出来ないほど当然のこととなっている。

 しかし実際に家庭を持って働くということは、それなりに大変なことであると痛感している。家族の理解に支えられて、はじめて続けることが可能である。

 私は、年に数回「女医の会」に出席している。主として川西地区を中心とした同世代の女医の集まりである。だれからともなく、なんとなく始まった会であるが、今ではその集いが、とても待ちどおしく、楽しみである。日常での悩み、喜び、ななど、とりとめのないことを語り合うのであるが、会の終わるころになると、なぜか元気がでてきて、ストレスも殆ど解消しているから不思議である。その席で、女性の理事が誕生して、とてもうれしいとの声も聞き、あらためて責任の重さを感じている。

 年々歳々人同じからずである。

 平成2年4月に産婦人科を開院し今年で9年目に入る。仕事と、子育てに無我夢中の毎日であった気がする。

 このたび医師会の理事に任命され、これからどのような日々が始まるのか不安もいっぱいであるが、医師会長はじめ諸先生方の御指導を仰ぎながら、出来得る限りのことを致すつもりでおりますので、どうぞよろしく御願い致します。

 

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女性理事に期待を 大関 忍(大関眼科医院)

 今回、小林眞紀子先生が女性初の理事に就任されたことで会員としての要望、期待すること等を書いて欲しいとの依頼を受けましたが、実のところ医師会の理事の仕事が解らないものですから何を書いたらいいのか困っています。主旨から外れるかも知れませんが感じた事を少し書いてみたいと思います。

 「ほん・じゅ〜る」「お知らせ」等に目を通しますと市の医師会も新しい企画、広報等いろいろな面で積極的に活動しておられますが、最近は多方面からの情報量も多過ぎて私を含め実際どれだけの先生方が関心を持たれ参加しておられるのかと思う時があります。

 私も2年前から准看護学校の眼科の講師をやらせて頂く様になり医師会館にも出入りする様になりました。この事がきっかけで宮崎秀樹参議院議員立侯補者の署名運動にも3回目の用紙が廻って来てからそれこそ自分で患者さん一人一人に署名をお願いする等、やっと自分で動く気になりました。どの団体でも主に役員の方々が陰で努力をしていて下さり他の者はある程度協力するけれども余り関心が無いと言うのが一般的ではないのでしょうか。私個人の場合でも何らかの役割分担を課せられた事で医師会と関わりが出来、多少とも関心を持つ様になった気がします。どうしたら一般の会員の方々にも医師会活動に関心を持って頂けるか工夫していかなければならない様な気がします。それには広く会員の先生方から医師会活動に参加して頂く必要があるのではないでしょうか。そのために、一概には難しい点もあるのかも知れませんが役員の輪番制と言う事も一つの方法だと思います。そうすれば一人一人が直接医師会に目を向ける機会が出来、理解するのではないでしょうか。広く医師会活動に参加して頂くという点で今回女性から理事が選ばれた事は男性の理事の先生方とは違った見解やきめ細やかさが加わり、今後の長岡市医師会の活動に大きく貢献されることと思います。

 

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「やるっきゃない」 武田さち江(たけだ眼科医院)

 「やるっきゃない」。旧社会党(今は何て言うのかしら)の土井たか子さんが、党首をひきうけられた時の弁です。

 先日、「理事になられた抱負をきかせて。私、先生への応援文を書くことになったから」と電話したところ、「それがねえ…。毎日の診療に忙しくてまだなの」とのこと。さもありなん。で、文頭の言葉を思い出しました。まず役職をひきうけ、その仕事をしながら方向を見い出してゆこうとの御決意と察しました。おおらかで、大海原の様な御性格の先生でいらっしゃいますが、理事の仕事と日々の診療とのストレスがたまった時は、いつでもお電話を下さい。万難を排して(少しオーバーかな)お付き合いいたします。陰になろうと陽になろうと、私にできることはその程度ですので。

 ともかく、今月18日の川西地区の女医の集い(仮称)は先生の激励会になるでしょう。十二階から長岡市街の夜景をみながら、おいしい料理を食べながら(ぼん・じゅ〜るを読んで下さっている皆様方、会場はどこだかおわかりになります?)、「こんな意見を反映して欲しい」とか「この議題の内容を教えて」とかの声が出るといいのですが。

 「初めての女性の理事」ということで、男性陣の期待も高まっております。大変でしょうが、よろしくお願いいたします。

 

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眞紀子先生応接します! 森下美知子(森下皮膚科医院)

 海外からの救急患者受け入れの実状報告のため、札幌医大の先生方と厚生省に出向く機会がありました。驚いたことに、省内で出会う人は男性ばかりでした。結局出会った女性といえば、売店のおばさん一人だけでした。社会福祉や社会保障・公衆衛生を司る機関なのに、すべて男性に委ねていいのかしら、とその時、単純に思いました。

 日本医師会の役員の顔触れをみますとこれまた男性ばかりで、会員の種々のお世話役を、すべて男性にお願いしていいのかしらと思っておりました。

 そんなわけで、この度眞紀子先生が理事に就任されましたことを、とても嬉しく思っております。医療の現場を通した女性の視点も役立つのではないでしょうか。先生の職務担当を見ましてまさにナイスキャスト。お忙しい中大変なことと存じますが心から応援したいと思います。

 

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山と温泉47 (その18) 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 「苗場山」記行の一部を書き出してみます。「苗場山は越後第一の高山なり、魚沼郡にあり登り二里といふ。絶頂に天然の苗田あり、依て昔より山の名に呼なり。峻岳(じゅんがく)の巓(いただき)に苗田ある事甚奇なり。余其奇跡を尋んとおもふ事年ありしに、文化八年七月(1811年)偶(ふと)おもいたちて友人四人・嘯斎・●斎・扇舎・物九斎従僕等に食類其外用意の物をもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三ッ俣という駅に宿り、1次日暁を侵して此山の神職にいたり、おのおの祓をなし案内者を傭ふ。案内は白衣に幣を捧げて先にすすむ。清津川を渉りやがて麓にいたれり。巉道(さんどう)を踏嶮路に登るに、椈樹(ぶなのき)森列して日を遮り、山篠生い茂りて径を塞ぐ。云云……(略)…暫く憩でまたのぼりのぼりて神楽岡といふ所にいたれり。云云……またのぼり少しくだりて御花圃といふ所、山桜盛にひらき、百合・桔梗・石竹の花などそのさま人の植やしないに似たり。云云・・・・(略)」、更に、頂上よりの眺望を次の様に記している。「さて眺望(みわたせ)ば越後はさら也、浅間の烟(けむり)をはじめ、信濃の連山みな眼下に波涛(はとう)す。千隈川は白き糸をひき、佐渡は青き盆石をおく。能登の州崎は蛾眉(がび)をなし、越前の遠山は青黛(せいたい)をのこせり。ここに眼を拭(ぬぐい)て扶桑(ふそう)第一の富士を視いだせり、そのさま雪の一握りを置が如し。人人手を拍(うち)、奇なりと呼び妙なりと稱讃(しょうさん)す。千勝万景応接(おうせふ)するに遑(いとま)あらず。雲脚下に起るかとみれば、忽晴(たちまちはれ)て日光眼を射る、身は天外に在が如し。是絶頂は周一里といふ。云云……」(岩波クラシックス北越雪譜)

 鈴木牧之(ぼくし)一行十二名は、この文章から推察すると、現在の登山道「三俣・祓川(はらいかわ)道」とほぼ同じ登路を利用したものと思われます。昼尚暗いブナ林、清津川左岸の大島集落よりの、胸突八丁、鉢巻峠への急登は現在ではみられなくなりました。湯澤村(町)−芝原峠−三俣(湯澤町三俣)−清津川渡渉−大島(湯沢町大島−鉢巻峠−祓川波渉−神楽峰−頂上をたどったものと思われます。

 この記行文が、昭和年代に入って面白い論争を引き起こしました。「苗場山から富士山が視えるか?」越後山脈からは、例えば、谷川岳、万太郎山、三国山で富士山が視えたと言う人が多くいます。尾瀬の燧(ひうち)ヶ岳からの富士は視認されています。ところが、苗場山ではどうか?。武田久吉氏が、昭和15年、雑誌「山と渓谷」に、昭和13年(1938年)8月苗場山入山一遮間の山行記録「苗場山の富士」を報告した。氏は、苗場山入山、一週間滞在、その間富士山を視認していない。「無類の晴天にも拘わらず富士山は視ることができなかった。8月に富士山が真っ白な筈もないから、雪の一握は多分雲を見誤ったものだろう」。鈴木牧之の前述・「富士を視いだせり」の文章は、文化8年7月5日より7日にかけての登山記録。これを、現在の新暦・太陽暦に直すと、1811年8月23日より25日となりますので、富士山誤認の疑問を投げたわけです。私も、大戦後昭和21年から厳冬期を除いて入山していますが、頂上より富士山の姿は眼にしていません。山麓の住人、仙人、山好きの連中のなかに[富士を視た]と言う人は無く、富士が視えるそうです、の風聞にすぎなかったようです。逆に、東京から苗場山が硯える、と書いた人がいたのです。昭和6年に刊行された「山の憶ひで(上・下巻)」に著者木暮理太郎は、次のように書いている。「大正12・3年頃赤羽(台)から八倍の双眼鏡で仔細に調べてついに苗場山に相違ない事が判明した。東京との距離は百六十粁、即ち約四十里……展望の季節は、12月から4月、稀に5月上旬、視える日は2日、3日あるに過ぎない云々」。これは確認されています。同じ文章の中に「苗場山から富士の見えないことは武田君が実証されたし、又、8月に富士山が真っ白な筈もないから、雪の一握は多分雲を見誤ったものであろうと、これも武田君の話である」があり、永らく『見えない』と言う事になっていたようです。山からの展望と山名同定を一生懸命やっている人達がいます。藤本一美、田代博氏が書いた「展望の山旅」はそうした調査・研究の成果ですが、その「続・展望の山旅」(平成2年(1990年)刊)に、武田氏の記述は納得出来ない、としてあり、20万分の1地勢図などを利用した机上作図・計算では、硯えるとすれば、白砂山西陵に頭を出すことが判明した、と書いている。この藤本氏の推測が(変な言い方ですが)当ったのです。平成5年(1993年)「岳人」12号リーダーズボイス欄に「苗場山からの富士を実証」で藤本氏が報告更に、平成7年(1995年)刊行「続々展望の山旅」で田代氏が報告しました。最初に実証された人は、パソコン通信仲間のWalstone氏。氏は平成5年10月10日、苗場山山頂から富士山を硯認、証拠写真撮影に成功、同年11月・地図情報研究会(パソコン通信仲間の山岳展望研究会)甲府大会で、自身でスライド発表されたもの。次に実証された人は、米山一郎氏で同年11月、「特に探すことなく目に飛び込んできた」(展望の山旅)と言っているくらいに、なんとなく視認し、赤外線フィルムを使用、写真撮影し確認しているのです。あっけない話です。富士山を視認したい人の為に、「岳人」の田代氏の文章の一部を紹介します。尚この文章はWalstone氏の報告の一部です。『偏角を考えれば富士山は180度あたりに来るはずです。……遊仙闇の近くの頂上で明けの明星と日の出を撮影した後、180度の方向を探すとそこはちょうど白砂山の山頂部、ピークとピークの間の鞍部になるはずです。そう思って目を凝らすと、ごくわずかに、富士山の山頂らしきものが見えます。友人も富士山だと言いましたが、証人をふやそうと、興味深そうに見ていた人に双眼鏡を覗いてもらっても、首をかしげているだけ。西方の山頂ヒュッテ付近の石碑の所に行って、もう一度探すと、富士山山頂部が今度は白砂山山頂の稜線が西へやや下がり始めた所になるため、富士の見え方もいくらか大きくなったのです。一段上の山頂ヒュッテ前(テント場になっているところ)だともう少しよく見えるような気がしました。2階の窓か、屋根からだともっといいのかもしれません。富士からの距離では苗場山と同じくらいの谷川岳やさらに遠方の燧ヶ岳からは容易に富士山を見たことがあったため、天気さえよければ苗場山からも簡単にわかるだろうと気軽に考えていたのは大きな間違いでした。私の矯正視力は1.2〜1.5ですが、視力が2.0でも肉眼で確認することは難しいのではないでしょうか。江戸時代の鈴木牧之は双眼鏡など使わなかったでしょうから、目がよかったのか、空気が澄んでいたのか、驚くばかりです。この連休には、何百人という人が苗場山を訪ねたでしょうが、富士山を見たのはわれわれだけだったろうと友人とほくそ笑んだものです。(FYAMA(展望の広場)会議室1392番)』。三俣道の最後の通称胸突き八丁、お花畑より標高差二百米、雲尾坂急坂を一挙に登ると大草原、更に半道で雲尾東岳の遊仙闇、ここから西に二百米、三角点補点である。この付近が県境界線になっているらしい。それが証拠に、三角点補点近くの西側、秋山郷側に長野県栄村・村営小屋「頂上ヒュッテ」がある。富士を視認し、写真撮影出来たのは、この一帯と思われます。富士山を見ようと思えば、平頂の最高点周辺で、双眼鏡を片手に、見える場所を選ぶ必要があるようです。季節は、厳冬期が良いように思えるのですが。秋でしょうか。最近は、パソコンを使って山岳展望図作成が盛んに行われるようになりました。望遠、超望遠が可能になったためと思います。

(つづく)

 

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朝はレモンバームの香りから 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 庭先に群生するレモンの香りのするレモンバームなるハーブの生葉を十数枚ポットに入れて熱湯を注ぎ、数分後にマグカップに移して蜂蜜で甘みをつけるとおいしいレモネードもどきの出来上がりである。これを庭先で飲みながら、毎朝、さて今朝は園芸仕事は何をしようかと考える。

 さわやかな冷たい空気、わずかに小鳥の声が響くのみの静寂な中にゆっくりと時間が流れる。

 さきほど犬と散歩の途中、近所で昨秋に新築された家で、庭が手つかずのまま放置されていたところを通った。むき出しの地面にいくつかの畝が作られていて、若い女性がしゃがみこんで植わったばかりのトマトの苗の手入れをしていた。

 顔をあげると、化粧気のない色白でまぱゆいような笑顔を見せた。

「おはようございます。」

「早起きでおられますねえ。」

「朝はさわやかで、ほんとに気持ちがよいですね。」

「野菜作りを始められたんですね。」

「そうなんです。この土地は土が悪いので、うまくいかないかもしれないですけど。」−ちょっと予想外の言葉であった。

 この都会風の女性が土質に詳しいのであろうか?農家出身なんだろうか?亭主の受け売りかしらん?

 茄子、ピーマン、トマトと三種の畑作りの入門者コースのABCが植えられていた。農作業でなく「ガーデニング」だから、若い主婦も家庭菜園で野菜作りに取り組みやすいのかもしれない。

 貴女にはしモンバームの香りや薔薇のブルームーンの色合いが似合いそうですよ。……もちろん言葉にはしないが、心の中でそう思った。

 「ガーデニング」と名称変更された「園芸」が最近ブームである。

 不景気なせいか?家庭での園芸は安上がりな趣味である。環境・健康問題のせいか?園芸は自然に親しみ、環境破壊に荷担せず、健康的活動である。この英語のカタカナ化流行はいかにも日本的な事象である。

 畑仕事、庭仕事、花壇作り、鉢植えなどの総称は「園芸」である。きっとカタカナ名前にすると若い連中の関心を呼びやすいと、誰かが言い出したんでしょうな。

 先日もゴルフ場の昼食時の会話で、「今朝も畑を耕したんで筋肉疲労で、スコアが悪いのかもしれない。」などとへたな言い訳をして、わたしはビールを飲んだ。

「ガーデニングがご趣味ですか?」と若い同伴の男がたずねる。

「まあ英国ガーデン風のバラ花壇と日本式のマルチング野菜畑にハーブ畑で、向こう風にいえばキッチンガーデンですかね。植物を育てるのはおもしろいですよ。」

「コンポストなんかも利用していますか?」

「えーっと、それは生ゴミなんかを放り込んで堆肥を作る容器のことだね。ふたつ使っていますよ。中でミミズを繁殖させているけど、処理効率はあまりよくないね。」

「イー・エムは使わないんですか?」

「何ですか、そのイー・エムとかいうのは?」

「土壌の細菌を添加して有機物の分解を加速させるらしくて、たしかエンバイアラメンタル・マイクローなんとかって…。はやってますよね。」

 昔から土をかけたり、雑草を根土ごと入れたり、天然の土壌中の微生物を日本では堆肥作りに利用している。農業の伝統的な有機性類似物に「ぼかし」なるものもある。

 若者がコンポストやイー・エムを語るんだから、やっぱり趣味の「ガーデニング」の時代なんですな。

 

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