長岡市医師会たより No.219 98.6

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 たまに、誤読み込みの見落としがあることと思いますが、おゆるしください。  
もくじ 
 表紙絵「梅雨の晴れ間」       丸岡  稔(丸岡医院)
 和田寛治先生追悼集
 「和田寛治先生を偲んで」      荒井 奥弘(社会保険長岡健康管理センター)
 「和田先生を偲ぶ」         関根 光雄(関根整形外科医院)
 「ロマンの男 畏友、和田寛治君の死を悼んで」
                   杉本 邦雄(杉本医院)
 「和田先生を偲んで」        永松幹一郎(長岡西病院)
 「追悼の念止み難し」        佐々木公一(長岡中央綜合病院)
 
 「犬にまつわるエッセイ その20」  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
 「山と温泉47〜その19」       古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「三星堆遺跡展を見に行く」     郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

梅雨の晴れ間   丸岡 稔

和田寛治先生を偲んで 荒井奥弘(社会保険長岡健康管理センター)

 5月22日、和田先生の死の報に接した時、やはり回復出来なかったのかと痛切な想いに沈みました。

 平成7年、長岡赤十字病院の院長を引継いでもらって、一年も経たないで胃の全剔を行うという不運に遭い、ただでさえ困難な病院の運営のほかに、新病院の建設事業に取組み、病と闘いながら、立派に達成し、大移転を成し遂げられたことに対して心から敬意を表します。

 先生には、私が院長になった昭和58年に副院長になって頂き、同時にその年から発足した救命救急センターの部長を兼任してもらいました。先生は新しく出来た総合医局の入口に陣取り、持前のバイタリティとファイトで、推進役、まとめ役をつとめ、常に積極的に病院の健全経営について進言して下さいました。

 病院の移転新築計画に当っては、建設委員長として、先頭に立って各地の病院視察を行い、各職場の意見を取捨選択して、設計関係者と頻回に折衝し検討を行いました。先生が全力を傾注したこの大事業が完成し、竣工式を挙げる8月19日は、闘病生活の最中であり、しかも大変暑い日でありました。10キロもやせた体で気力を振り絞り、来賓の応対から、責任者としての挨拶まで、やり遂げた満足感で歓びが溢れていました。本当に立派にその大役を果されたと感銘を受けました。

 その式典の謝辞の中で、新病院の「新」「親」について解説しておりますが、先生は漢字や中国の格言に造詣が深く、病院や看護学校の行事や文集には、屡々中国の四字熟語が引用されています。例えば「和顔愛語」「暖日和風」「温故知新」などであります。先生は文字、言葉だけでなく、中国に親しみをもっており、中国医学に興味を示していました。

 その他なかなかの雑学の大家で、スポーツ、芸術にも一家言をもっており、酒量は多くないのに、話題が豊富で酒席はいつも賑やかでした。これが人との交流を多彩にしていたのだと思います。中国の四字熟語で先生を評するなら、「才気燦発」で「直言直行」かつ「胆大心小」というところでしょうか。

 このようにリーダーとして有能な先生に、長岡赤十字病院の将来を託し、新病院の発展は間違いないものと信じておりましたのに、先生に先立たれてしまい、返す返すも残念でなりません。

 先生は新病院の運営が順調になったのを見届け、後任院長には、先生を日赤へ推薦された先輩の武藤輝一先生を迎えられ、最後の責任を果されました。

 先生の遺志を継ぎ、職員一同「和顔愛語」の精神で患者さん中心の医療を行い、長岡赤十字病院の発展を通して新潟県の医療の質の向上に努めて行くことと信じております。

 どうぞ先生安らかにお眠り下さい。ありがとうございました。合掌

 

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和田先生を偲ぶ 関根光雄(関根整形外科医院)

 5月25日、葬儀を終えて改めて和田先生の死去を深く感じている。

 思えばかつて先生は「俺は間違いなく癌で死ぬ筈だ。余りにも癌で死んだ身内が多いので」と云っていたが悲しくもその予言が当ってしまった。

 私とは年代も卒業年次も離れているので面識はなかったが、私の日赤在籍時代から「ワダカン」という名前は有名であった。そして初めて逢ったのは外科の大黒、山口両先生のところを訪ねて来た時である。かの有名な「ワダカン」とはこの男か。成る程、なりは小さいが他を圧倒するような声で次から次へと話題が豊富なドクターであるという印象であった。

 昭和54年、彼が日赤病院に赴任して来た時は私はすでに開業していたが、当時の副院長の野口先生と定期的に麻雀を楽しんでいた。そこへ和田先生も加わって何回か手合せをやり、勝負は兎も角大変賑やかな麻雀であった。

 時移り時代も変ってわたしが「ぼん・じゅ〜る」の編集委員の頃一緒に加わって貰い、親しく接するようになって、優秀な頭脳と豊富な知識の持主であることを認識させられた。原稿の足りない時は任してくれと貴重な文章で埋めてくれてどのくらい有難かったことか。

 更にその後平成4年に私が会長になり、彼が副会長を勤めるようになって半年ほど経って私の家内が胃癌を発見され、和田先生の執刀のもとに全摘手術を受けたが予後は絶望的である旨宣告された。その術後何故か私に執拗にに胃カメラ検査をすすめた。バリウムを服んで異常なしであったからと辞退するも許してくれなかった。その頃私も上腹部痛、酒量の低下、CRP反応陽性等の症状があって11月にカメラを服み、直ちに開腹手術になった経緯はかつて「ぼん・じゅ〜る」に記載したとおりである。

 あれから6年、家内は術後1年弱で死亡し、私は幸いにも永久治癒の御託宣を受けた。命の恩人である。

 会長職に復帰した私はほどなく准看養成所の存廃問題に直面した。

 実地修練の場所と職員の充足、そして運営面でも経済上の難問が一挙に噴出して来た。細かい経緯は省略するが真先に全面協力を申し出て実行してくれたのは和田先生であり、日赤病院であった。その後も納余曲折を経て存続しているのは御存知のとおりである。

 新病院建築の忙しい最中に県の理事も引受けて長岡市医師会の存在を強調して貰った。

 和田語録は数々あるが、私は「この世で当てにならないのが三つ、一に女の涙、二に天気予報、三に医者の統計、2例中1例治れば治癒率50%と発表する大バカ者がいる」というのが印象に残っている。

 私には命の恩人であるのでとても「ワダカン」と呼ぶ気持になれず「和田先生」である。彼の性格、行状、功績等に就いては他の先生方が述べられると思うのでここでは触れなかった。短い期間であったが和田先生と私との公私に亘るつき合いを述べて思い出の記としたい。

 どうか安らかにお休み下さい。合掌

 

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 ロマンの男 畏友、和田寛治君の死を悼んで 杉本邦雄(杉本医院)

 とうとう逝ってしまった。彼(君と呼ぶには何か不遜の感を覚えるので)としては、やり残したことが多く残念だっただろう。でも、一生のうちにやり遂げる仕事量は、おおよそ決まっておるようにも云われており、彼は一人の男のそれの何百も何千ものことを成就して果てたようにも私には思え、羨望の念さえ覚える。野辺への車を日赤を経由したのでしたが、その見送りの数、数、数。

 彼との想い出は多く、わずかの紙面では書き尽くせないが、そのごく一端を思うがままに記し、彼を追悼したい。

 ともに昭和30年春、新潟大学医学部進学課程に入学、彼とのつきあいはこの時から始まる。声の大きい態度のデッカイ奴、これが私の彼に対する第一印象だった。試験期が近づくと、一夜漬けに忙しいS君の下宿に、気分転換に麻雀をやりにやって来た。S君の邪魔になるなと注意すると、一夜漬けせねばならぬお前達が悪いと云わんばかりに小生を睨みつける。何と変な奴だと思ったことだったが、彼は頭が良い上、大変な勉強家で世界の異なる男だった。あとになって、この件を問いただすと鮮明に覚えているのには驚いた。

 卒業後のクラス会では彼はいつも主役、彼がいないと、お通夜のようなことがよくあった。又、彼の発言でいろいろの件が即決する。これは、後刻、県医や市医の理事会でも同じようであった。

 彼、昭和54年、長岡赤十字病院へ赴任。その歓迎会の案内文に、和田教室がいつまでも続くようにと書いた。長かったのか短かったのか時は流れた。

 市医の理事選挙に彼を推した。反対する方もあったが、理事に当選、その後、副会長まで勤めた。

 県医理事の候補がなかなか決まらず、「それなら俺が出る」と云ってくれた時は、小生、とても嬉しかった。然し、彼、副院長時代で、病院新築の気運が出て来ていた時なので、やって貰えるのか半信半疑でもあった。彼、翌日7時に、荒井院長(当時)の許可を受けに走っている。それから発病までの数年間、彼との県医理事会通いは意味のあるものだった。

「会議は長くとも一時間半が限度、それ以上は、意味がない」、「意味がない」が彼の口癖だった。

 経口摂取不能になりIVHを入れてからは、「生かされている」と云いつつも、新築病院の落成式も暑い日ではあったが、点滴もはずし無事乗り越えた。何しろ信念の強い男。何度も危機をくぐり抜け、この2月頃には、点滴からの水分量より尿量・不感排泄を引くと負になる。これはうがい水が吸収されるようになって来て、やや腸管の疎通性がもどって来たのではと、自然治癒へのかすかな期待をほのめかしていた。

 又、彼は、充分に患者サイドに立った医業をやって来たつもりだが、病に倒れてみて今迄の自分の医療に対する姿勢が軟弱だったとも述懐している。私ごとで恐縮ですが、彼にお世話になった小生の亡妻の入院中、何か質問すると「素人みたいな質問をするな」とよく怒られた。が、病後の彼に同じ質問をしたら、もっと暖かい返答が質えたかもしれない。たとえ医者でも肉親の場合は藁をもつかむもので一寸でも良いことを聞き度いものなのです。又、そのころ、彼は小生にも検診を推め、「俺は半年に一回受けている、場合によってはカジって(ブローベ)いる」と云っていたのだったが、院長就任、県医理事になった頃から、多忙故の検診なしの状態になったように思える。

 豪放磊落で、しかも繊細な人と弔辞での言葉が多くあったが、全くその通り、もう一寸、琴線をゆるめていたら、こんな早逝はなかったとも思われる。

 奥様、三人のお嬢様の厚き看護のもとでの入院生活一年、大変恵まれていたように見えたが、いろいろ辛かったこともあったろうと想像する。オピスタンを10本以上注っていた頃に比べ、本数が減って来たのはよい徴しのようにみえたが、心の準備期間だったのかもしれない。

 グダグダと書いて来た。〃いい加減でやめれ〃と云われそうだ。よしやめる、不謹慎な文で悪かったとも思うが許して下さい。僕には淋しい文章は書けない。貴兄の法名「安養院釈寛医」とても気に入った。初七日に奥様からお聞きしたのだが、貴兄の命名なんだって。

 大変々々、お世話になった。ゆっくり休んで下さい、そして余裕が出来たら、そちらの何人かの同級生の名簿を作って待っててくれ!。

 しばしの別れ  バイ

 

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和田先生を偲んで 永松幹一郎(長岡西病院)

 5月22日朝、和田寛治君が永眠したとの連絡を受けた。2年余におよぶ闘病だった。長岡赤十字病院のトップとして超多忙のなかで、ご家族や周囲の方々の支えがあったとはいえ、ほんとうによく頑張った、心からご苦労さまでしたと言いたい。

 彼と私は医学部の同級で、ポリクリのグループ(小船井、内藤、小坂井、岩崎、故人の岡村、和田、私)も一緒だった。二学期制で、夏と冬に、毎週末に一科目ずつある期末試験がおわると、その日必ずグループで飲んだ。次週の試験に備え気力・体力をつけるためにである。当時の西堀にずらっと並んでいた屋台の飲み屋か、古町通りを十歩も二十歩も入った裏通りの当然安い店ばかりであったが、週一回ずっとはいえ、毎週続くと皆金が無くなってくる。試験の終わった科目の教科書を、そのつど西村書店に売ってもまだ足りない。そんなときは、末っ子で、市内に嫁いでいる姉さんたちの多い和田が頼りで、姉さんたちを回って金の無心をして貰っては飲んでいた。

 白山浦の自宅から通っていた彼は、切りイカやデンブの入った小さなおかず入れと、飯の入った厚くて大きなアルマイトの弁当を持って教室に一番早く来ていた。これが帰りには空になり、おかず入れが大きな弁当の中に入りハンカチで包んでぶら下げて歩くとガチャガチャと大きな音をたてた。飲むときにはこの空弁当が恰好のリズム楽器になり、これを振り振りボール・アンカのダイアナやキング・コールのキサス・キサスを、狭いカウンターの上で身体を振り振り歌った。彼のリズム感を培ったのはあの空弁当である。

 医学部を卒業して、和田・佐藤実・私の三人で福島県立会津若松病院でインターン生活に入った。当時の病院敷地内には、旧陸軍病院時代の病室をちょこっと改装したモンテンルバと通称された独身男子職員が入る寮があり、畳六枚ほどの一室に我々三人も収容された。同じ敷地内にすこし離れて看護学校の寄宿舎があり、二年生で 〃ミヨちやん〃という可愛い生徒がいた。この子に、純情で若く独身の外科の某先生が密かに好意を持っていることをしばらくしてから知った我々は、夜な夜な寄宿舎の窓の下に立ち、平尾昌晃の歌をすこし替えて「私の可愛いミヨちゃんは、色が白くて背が高く、三つ編み垂らした可愛い子、あの子は看護学校二年生ぇー」と、先輩を思いやって何回も歌った。その甲斐あってと今でも信じているが、某先生とミヨちやんは卒業後晴れて結ばれた。一方、我々の行為がかなり歪曲されて大学に伝わり、三人の中で一番声の大きい和田が、学長および堺哲郎教授の命で、両先生の目がとどく大学で残りのインターンを終了すべく半年後に会津若松を去った。

 入局後はそれぞれ別々の道を歩んだが、懐かしくほろ苦い青春時代を思い出すと、明るく行動力があり声の大きい和田にいつも引っ張られていたように思う。

 向うでも、旨い酒を飲ませる店を見つけておいてください。いずれまた一緒にやりましょう。さようなら。

 

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追慕の念止み難し 佐々木公一(長岡中央綜合病院)

 病勢から和田先生とお別れする日が近いと覚悟していたものの、計報に接した瞬間、張り裂ける慟哭の思いを押さえることができませんでした。盛大な通夜葬、告別式の真っ只中も小生の頭の中は先生とのいろいろな思い出が走馬燈のようにゆっくり廻り続けていました。

 初めて先生に出会ったのは昭和43年、小生が青医連非入局研修医として旧外科十一研に配属されたときでした。運命の神に感謝するとすれば、先生の隣に机が与えられたことです。当時、先生は外科医として意気軒昂の極にあるかのように、早朝の胃内視鏡検査から夜遅くまで、凄ましいばかりの勢で大学病院の中を飛びまわっておられました。今も廊下に響きわたる甲高い声とゴム草履の足音が耳に残っています。先生の机の上は常に参考文献や内視鏡フィルムなどが雑然と山のように積み上げられていました。わずかに空いたスペースに原稿用紙を置いたかと思うと、あの特有な字体で書き出し、翌朝には紙纏りが通った論文が出来上がっている、その並外れた集中力に目を見はるばかりでした。

 うさん臭そうに見る先生の眼力が恐ろしくもあり、距離を隔てることに腐心していた小生の首根っこを引き据えるかのように、突然「糖尿病を合併した外科患者の検討」という題で論文を書いてみろ、と言われました。駆け出しの研修医には到底歯の立つ代物でなく、突き放すような先生の態度を恨めしく思いました。しかし、「駄目な野郎だ、馬鹿モン!」の烙印が恐ろしいばかりに、呻吟する思いで書き上げたものです。小生の懐かしい最初の論文となりましたが、会誌掲載料を先生が支払って下さっていたことを知ったのはずっと後のことでした。

 以来30年、先生の感性豊かな人間性を垣間見るたびに、畏敬の念はつのるばかりでした。ときには兄のように、あるときは父のようにさえ思われる先生へのあわあわとした甘えは、本当に心地よいものでした。小生が選択を迷う曲がり角にはいつも先生の存在があり、数多くの指針をいただきました。「来いよ、長岡で一緒に面白いことをしようぜ」のひと言が小生を決心させ、今日があります。

 いつの機会にか 〃交友録〃 を書くとすれば、底知れぬ魅力を持った先生を、真っ先に掲げてみたいと思います。先生が愛読された司馬遼太郎の小説に登場する主人公−吉田松陰、河井継之助、坂本竜馬、大村益次郎、高杉晋作、高田屋嘉兵衛…−動乱の時代を強烈な信念と弾けるエネルギーで駆け抜けた人物達。彼等に対する先生の思いは、ときに少年のように激しく純粋であり、志し半ばに斃れた彼等の無念さを語る先生の眼には涙さえ滲んでいたことが鮮やかに思い起こされます。先生ご自身、そのときどきの場面で懸命に思索され、阿修羅のように行動されました。見事に完遂された病院の移転新築事業での智略の展開は、常に 〃斯くありたい〃とする先生の美意識をそのまま凝集させたものに違いありません。

 先生、もっと、もっと語り続けたかった。沢山の楽しい思い出を造り上げたかった…

 病床に臥されたまま「俺の遺言だ。」と小生に話して下さった一言一句は貴重な珠玉として胸の奥にあります。ときには身をもって教えていただいた数多くの思い出とともに、小生に確たる進路を示す羅針儀になってくれるものと信じています。

 先生、黄泉の国から、篤と御照覧あれ。合掌

 

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犬だって息切れをする 郡司哲己(長岡中央綜合病院)

〜犬にまつわるエッセイ その20〜

 ある晩夕食を食べ終わり、家人は食器洗いをし、わたしはテレビを見ながらソファでごろ寝をしていた。

 ふと見ると、その隣でいつものように、飼い主同様にごろ寝をしている飼い犬の 〃コロ太〃 の呼吸状態が異常なことに気がついた。

 熟睡しているのだが、どうも呼吸が速くて荒いのである。医学用語で言えば多呼吸、陥没呼吸、鼻翼呼吸と言った呼吸困難の兆候があるように見えた。

「ちょっと来てみてよ。〃コロ太〃の様子が変だよ。」

「どうしたの?」と怪謝そうな家人。

「そう言えばここ数日、散歩の帰り道にさ、〃コロ太〃が息切れして立ち止まるので、なんだか可哀想で、抱いて帰っていたじやない。」

「そうね、めっきり年を取って体力がなくなっちゃったわね。」

「自分もてっきり老化のせいだと思ったんだけどさ。違うよ。こんなに安静に寝ているのに息苦しそうなんだもの。あれって労作時呼吸困難ってやつだったんだよ。」

「どういうこと?」

「やっぱりこれは病気なんじゃないかな。ぼくは『動物のお医者きん』じやないから、よくわかんないけどね。もしも人間でこんなふうだったら、気管支端息か肺炎、例外的な鑑別診断として心不全を疑うね。」

「肺炎ならお熱があるかもね。どうかしら?」

「うん、体表は毛皮だし、いつもぼくらより暖かいから触ってみてもわかんないよ。確か犬の体温は、平常でも人間より二度くらい高いんでしよ。」

「獣医さんでもなきや、〃コロ太〃は直腸検温なんかおとなしくさせてくれっこないわね。」

 家人はこどもにするように、自分の額を 〃コロ太〃 の額に押し当てて体温を比べたが、首をかしげただけだった。

 じつは五月の連休中のことで、翌朝電話をして見たが、かかりつけの獣医のH先生はまだ休診で留守電だった。やむなく一日家にあった気管支拡張剤を試しに与えて様子を観察してみた。その結果、呼吸状態は余り改善がないようであった。我が家の愛犬〃コロ太〃 はこの6月で満13歳になる柴犬である。それは人間では70歳ないし80歳くらいの老人に相当するらしい。1年程前から散歩の途中でも、たまに足をもつれさせることがあり心配していた。犬を飼っているよその方からは、「お宅の 〃コロ太〃ちやんは若いわ。全然毛艶が良いもの。」などと言っていただいていた。

 しかし半年前からは耳がすっかり遠くなり、現在はほとんど音が聞こえていないようである。

 そしてつい1週間前から朝夕の散歩の際に、いわゆる息切れが目立ち始めていたのであった。また食欲もめっきりなくなり、これが『老犬性変化』なら仕方がないのだが、この急速な悪化の様子はどうも違うように思えた。

 連休明けの朝、電話予約を入れて家人は 〃コロ太〃を連れてH先生を受診した。胸部X線

影でやはり肺炎が発見されたのであったと、その夜、帰宅したわたしに家人が少し興奮気味に報告する。

「わたしもプロテクターを着て、胸部X線撮影二方向というものに協力したんだよ。〃コロ太〃もすごくおとなしくて良い子だったわ。」

「右肺が真っ白ですって。」

「H先生が咳が出ていたでしょうと訊ねて、犬の咳のまねをしてみせてくれたら、そっくりだったわ。そういえば 〃コロ太〃もときどき咳払いみたいにして口の中に痰を出してはそれをまた飲み込んでいたのね。」

「体重は以前より2キロも減少ですって。」

「血液検査はここにデータの用紙をいただいてきたわ。炎症反応はそう強くないけど白血球増多があり、細菌性肺炎でしょうって。」

 差し出された検査データには、犬の血液検査値が記され、また正常値範囲とその異常値が高い場合、低い場合の病態が略記されていた。

「なるほど白血球が17000でCRPが2++か。肝機能や腎機能は正常だな。−でも良かったよな。

息切れは、老化のせいとあきらめていなくて。肺炎なら治るもんね。」

「注射を3本打ってくれたわ。〃コロ太〃ちやん、またわたしの脇の下に顔を入れて隠れたの。」

「前も注射のとき、そうだったよ。〃コロ太〃 は相手が自分から見えなくなれば、うまく隠れたつもりなんだよね。昔から言う『頭隠して尻隠さず』って、犬のためのことわざと言う気がするなあ。」

「それでお尻に注射よね。でも採血も全然暴れないで、奥さんのはなえ先生も感心していたわ。あとは朝晩2回の抗生剤や気管支拡張剤の飲み薬が出たの。」

 その後は散歩も以前通りに歩けるようになり、めきめきと食欲も回復した。獣医さんはよくステロイド内服を処方するので、おそらくそのせいもあるだろう。治療開始5日後では1キロ体重増加があった。明らかに快方に向かいつつあるが、もとが高齢犬であるから、治癒にも時間がかかるのだろうか。いまだにわたしの脇でゼイゼイしたり、漆の出るような咳をしたりしている。それがまた口内に出た痰を飲み込んでしまうのである。

 その咳き込み、痰を出せない犬の姿を見ていると、ふと母のことが思い出された。自分も幼い頃に病気をして咳き込んだ時に、痰が出るとよく言われたものだ。

「ちりがみにペッしなさい。それはバイキンだから飲んじゃいけませんよ。」

 

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山と温泉47 (その19) 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 『北越雪譜』は、天保8年・西暦1837年、いまから150年前、当時江戸で発売されている。現在の塩沢町を中心に、丈余(一文は十尺・三米以上)の積雪に埋もれる雪国越後の生活を、図解の絵画、俳句を入れ、読み物としたもの。当時の江戸で爆発的に売れ、読まれたものと言われ、解説書にはベストセラーであったろう、と書いてあります。克明な観察、詳細な調査の報告は、雪国越後の説話、伝説を加えて驚くべき労作です。新幹線、高速道路が走っても雪国は変わらず、現在も「北越雪譜」の世界です。平成年代になってもこの書物以外、深い雪に閉ざされた雪国生活を読み物として紹介した書物は見ないようです。余談ですが、鈴木牧之の人物像に就いて面白い話。塩沢(塩沢宿=現在の塩沢町)の集落形成は、出土品の紀年銘からは鎌倉時代末(1311)頃(塩沢町誌)。鈴木牧之は、南北朝時代(1311〜1392)、上野国(現在の群馬県)より新田一族大館氏が居館を築いたと、「永世記録帳」に書いている。鈴木牧之は、この宿の、縮布の仲買人で質屋を営む家の長男として生まれている。父親は、次男であるがため、僅かな分家の為の分金を元手に縮布の仲買いから始め、死に物狂いの働きをし、母親の縞布の機織りもあって、質業を営む迄に財を成した。一代にして分限者となった父、寝る間も惜しんで縮布機を織りつづけた母、このような環境に生まれ育った牧之には、「衣食住の驕り、青楼、飲酒、喧嘩口論、博打」などは、常の人たちが陥りやすい欲望であり、悪徳であった。もしこうしたことに溺れたとすれば、それは家業の存続を断つことにつながる。牧之の信念とする根本思想は『窮慎む』『堪忍』であった」(山岡敬・越後国雪物語より)と言う生活を続けた事になっている。北越雪譜の出版には、江戸の滝沢馬琴・山東京伝に依頼してから約40年、江戸の文人、商人、版元との、交際、交渉に要した経費は莫大であった。田舎者は、仕方ないもので、「生き馬の目を抜かれた」のだろう。しかし、牧之の信念に依るものか、一時、家業傾きかけたがこれを建直し、莫大な費用も捻出している。そのうえ、上田庄代官所より塩沢宿町年寄の筆頭格に任命されている。この役職であるためにも、可成の出費があったであろうと思われる。酒は飲まず、博打、女遊びせず、身を慎み、辛抱・忍耐・倹約(節約)に徹する事で家業の繁栄、資財の蓄積に専念している。そのためには、風流事の句作、北越雪譜の執筆をも中断している。兎も角も、牧之60余才にして北越雪譜が世に出、忽ち、今で言うベストセラーとなりました。聴力障害、右眼失明、中風と重なり、江戸で、大評判の北越雪譜の噂さの中で、73歳で亡くなっています。最後に看取った「りた」は、長岡の米屋の後家、牧之の書くところ「側室」としてあるが、正妻でもない、妾でもない、女子衆(女中衆)であったのだろう。牧之は、生涯に6人の妻及び妻らしき女性を迎えている。死別1人、離別2人、駈け落ち又は、家出により離縁2人、妾又は女子衆の代わり1人、現代の眼から見ると、少し異常であるか。最後の1人が結果として牧之の最後を看取った。大藤宏氏の著書「秋山郷を旅する」の「鈴木牧之、その処世と女性」の項に前記の事が書かれている。牧之は、北越雪譜中に書かれてある雪国の人の生活に同情し、暖かい眼で観ているが、一方で、雪のため何もしないのは如何かと、冷徹な見方をしている。江戸の商家のような、番頭・手代・丁稚と多くの使用人を抱えての商売とは程遠い、家内の他には僅かな手伝い人での家業であったからであろうか、妻は、同時に妾であり、女子衆(女中)であるため、家業、家事、育児に細かく口を挿み、くどくどと指示する。自らは、余人が寝に就いてからも、後始末、掃除、整理、これではいかな女性も居たたまれない、生涯に、6人もの女性が替わったのもうなずける。牧之自身の性格でしょうか。所謂、女嫌いではなく、むしろ好き者であったようで、ただの1回、出雲崎の青楼で遊んでいる。「秋山郷を旅する」には、牧之の金銭感覚の問題であろうかと記されています。「タダホドヤスイモノハナイ」のでしょうか?

 牧之は、(鈴木)儀右衛門、又は、義三治幼名弥太郎、俳号・牧之、正式には鈴木の苗字は無いと言う。屋号として残っていたと言います。父恒右衛門、排号・牧水、母とよ、近在の人。牧之の「永世記録帳」に、先祖は、上杉謙信に仕え、会津転封の時離れた鈴木家、魚沼塩沢の地に帰農した四代助右衛門であり、代々儀兵衛、儀右衛門を名乗っていたとある(北越雪譜・・岩波クラシックス)。

 苗字を持たなかったと言う事の奇妙な話しを一つ。前記のように、鈴木は屋号が正式な苗字ではない。小千谷の陣屋への書類はすべて、儀右衛門とされている、と言う。(大萩宏・「秋山郷を旅する」より)、牧之、20才の時、苗字帯刀を訴されたが、帯刀の許しは受けたが、苗字については、辞退している。領主ではない村松藩主より苗字帯刀を訴されながら、これを辞退したのはどういう事か。」苗字辞退理由・「百姓のことゆえ」(秋山郷を旅する)。当時の塩沢宿は、幕府領、会津藩預かり地で、小千谷に陣屋があった為か?縞布献上、御用金調達上納と役人の要請に応じている事により町年寄に所謂出世しているのに、辞退とは?大藤宏氏も「秋山郷を旅する」に『辞退の事情解明は難しい』と書いている。この事は、牧之という人間の一面をみせたものと考えると、私にはなんとも面白いのですが。少し長文になりました。

 

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三星堆遺跡展を見に行く 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 「私は、誰だかわからない…。」

 こんなキャプションと黒い背景の中心にオレンジの光に包まれて黄金のマスクをかぶった青銅像。

 学会参加のため上京し移動中に見た電車内の広告で、わたしの目を意きつけたポスターがあった。

 アーモンド型の巨大なつり上がった目、大きなあぐらをかいた鼻、真一文字に結ばれた大きな口、狼のような立ち耳。古代中国人というよりウルトラマンみたいな特異な顔貌である。

 中国古代文明の三星堆(さんせいたい)遺跡の出土品が、日本で展示されている。

 その学会の際には日程に余裕がなかったし、考古学に興味のある家人と二人で鑑賞したほうが楽しい。

 さっそく次の日曜日、家人を誘って早朝の新幹線で上京した。ガイドブックを見ながら、東急新玉川線で用賀下車、バスで世田谷美術館に着いた。開館時間の10時少し前に着くとすでに多勢が並んでいた。

 紀元前千年以上前、中国四川省のとある盆地に古代王国があり、その名は濁と言った。今回10年程前に発見されたこの場所、三星堆遺跡からの出土品は今世紀最後の考古学上最大の発見とも言う。たとえればエジプトのツタンカーメン王墓の発見くらいのインパクトらしい。

 これまでは紀元前15から10世紀の黄河流域の段の遺跡が最古のものらしいが、同時代頃の長江流域西方の山地にまったく独自な青銅文化がつい最近発見されたのである。巨大な青銅で鋳造された立人像や頭像、そして黄金の仮面。巨大かつ精巧な鳥や果実がデザインされた青銅製の神の樹。彫刻された黄金の王杖。

「おもしろいね。古代中国じゃないみたいだね。」

「古代エジプトやギリシアの遺跡も実際見て感動したけど、これもすごいわね。」

 懇切な解説ビデオも会場内に三種類設置されていて、歴史理解の参考になった。展示は2時間たっぷりと見学した。

 帰りには美術館内のフランス料理のレストランで昼食を取った。ワインやアラカルトで注文した魚料理もおいしかった。家人はすっかりごきげんである。

「ねえ、なんだか久しぶりに文化的な生活って感じねえ。」

「そうだね、たまにはいいよね。もっとも田舎のネズミは都会のネズミにはなれない面もあるけど。」

「ところであの古代の濁の人たち、中国人の顔じゃないわよね。」

「そうだよね、なんかもっと西の民族かもね。」

 展覧会場で購入した関連本を帰路に読んでみると、チベット系民族との説が書かれていた。そしてこの王国と文化は、中国の古い伝説の書物「山海経」に合致する記載があるのだそうである。「史実としての山海経」なる副題があった。シュリーマンは伝説の実在を信じてトロイの遺跡を発見したが、今回は煉瓦工場建設の工事現場での偶然の発見とはいえ、伝説の実在が一部確認されたのだそうである。

 この「三星堆・中国古代文明の謎」なる本を書いたのは、徐朝竜という四川大学と京都大学大学院卒業の40代の考古学者なのであるが、略歴では四川省出身とある。

「見てごらんよ、この写真。」

「まあ、この徐先生は劉王国の子孫に間違いないわね。」

 本の裏表紙の著者の写真には、特徴的な濁の青銅仮面像そっくりな顔が、ポロシャツ姿で真一文字に口を結んで写っていたのである。

 

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