長岡市医師会たより No.220 98.7

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 たまに、誤読み込みの見落としがあることと思いますが、おゆるしください。
もくじ 
 表紙絵「緑陰(蔵王堂城址)」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「TUR-P貴重な体験(1)」       内田 俊夫(内田医院)
 「長谷川泰先生略伝 後編 その32」 田中 健一(小児科田中医院)
 「紅茶は好きなんですが」     郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

緑陰(蔵王堂城址)   丸岡 稔
TUR-P貴重な体験(1) 内田俊夫(内田医院)

※表示上の都合により、一部正確な表現ができておりません。ご了承ください。

まえがき

 昨年10月大変神経質な私がデリケートな部位を手術される患者になって体験した事をお話しようと思いましたが、うまく書けず何度か止めようと思いました。

 でもこの患者の側面を知って頂くのが大切な事だと思い直し、拙い文章を作りましたので御覧頂きたいと思います。

病歴

 3年程前になりますが、ミラノ・スカラ座が来日してPucciniのオペラ「西部の娘」を東京文化会館でやった時、たまたま我々の前の席におられた伊藤本男先生と幕間にロビーで色々お話した事がありました。

 伊藤先生から父のProstata Krebsを見付けて頂き大変お世話になった事があり、このオペラ観劇の様な幕間でトイレが非常に混んでいるような時、私の排尿の具合がスムースに行かない事を相談しました。「いつでも診ますよ」とおっしゃって下さったのですが、Genitalienの事となるとやっぱり足が進まず排尿時のスタートが遅い事、尿線が細い事、用をたした後でもまた行きたくなる事の繰り返しを2年間続けた昨年8月21日、父のProstata Krebsが頭から離れない事もあってやっと診て頂こうと決め、「Harnを溜めて来て」と云われた伊藤先生の外来を訪れました。どこまでズボンや下着を下げるのか患者の私としては問題で、直腸診であれば背臥位で足を組んで腕で抱える姿勢でGesasだけを出せば良いのは分かっていますが、エコーの場合はどうなのか。私のAnusから指葵をはめた指を抜いた先生は「少し大きいけれども弾力性があるからmalignantなものでは無いと思うよ。エコーで見ておこう」と云われて私のズボンと下着をSchamhaareすれすれのところまで下げられた。これ位で良いのかと一応安堵したのは勿論です。

 下腹部にゼリーを付けブローブを動かすとモニターに画像が写り、私に見せて下さって「ProstataがBlaseの中に突出しているでしょう」と説明されてから、残尿を見る為に排尿後再びエコーで診て下さって「残尿もあるし、暫くの間内服薬(プロスタールLとハルナール)を2週間分飲んでみて下さい。別に血液検査(γ‐Sm,PSA&PAP三点セットとか申されて)もしておきましょう」と云って採血された。初回のPSA(前立腺特異抗原)が4.2ng/mlで基準値より高い事が気になったとその後云われました。

 4週間内服しても自覚的にもエコー画像上にもたいした変化はなく降圧もみられたため、72才と云う年齢とmalignancyの点から考えて下さった伊機先生の頭の中も私も手術をしたほうが良いのではないかと思うようになりました。

 それで日赤病院泌尿器科の森下英夫部長に手紙を書いて下さったので9月20日午前11時頃新しい日赤病院を訪れました。

日赤病院で手術決定

 新築なった日赤は見事で足を踏み込んだだけでもその素晴らしさは分かります。

 和田寛治先生が病苦と闘われて完成された事に頭が下がりました。でも私はwein lieblicher Penis を中心にした検査例えば尿道造影とか内視鏡的な検査などやられるのではないかと云う気持ちが先に立ち、落ち着いてアチコチ眺める気持ちにはなれず、真直ぐ泌尿器科へ行き指図どおりに待合室の空いている椅子に腰かけました。

 大勢の患者さんがおられじろじろ見られている様でもあり、何時呼ばれるかも分からないので30〜40分の間緊張して待っているうちに、私の名前が呼ばれ部屋に入ると森下先生がおられ、computerを操作しながら優しく鄭重に対応して下さいました。

 採血、採尿後の説明ではエコーで調べる事、国際前立腺症状スコア (I-PSS)による自己チェック、ジュースを飲んで尿流量検査をしてから再びエコーで残尿を調べる事を告げられて、別の部屋へ入ると幾つかのペットがカーテンで仕切られてあり、ズボンと下着を下げてペットに横になりました。枕の右横にモニターが置いてありました。

 ややあって森下先生が乗られ、私のズボンと下着をあっと云う間にwein Penisschft が半分見える所まで下げられ、画像を見ると伊藤先生の時と同じ様にProstata は Blase 中に突き出ていました。「このエコーは体積も測定出来るので後程の残尿はこれで測定しましょう」と云われ、Niereも譲べて下さってOBですよと云われた後、自己チェック表を看護婦さんから受け取りました。

 私は夜間には1〜2回しかトイレに行きませんが排尿異常(専門用語で云う苒延性排尿や遷延性排尿)があったり、尿線は細く勢いは悪いのですが、毎日そうかと云うとそうでもない、あんまり正確でない印の付方でしたが私の場合21点でした。/このI-PSSが0〜7点の場合軽症、8〜19点中等症、20〜35点重症で、私の場合は重症になります。これは日本医師会雑誌(3月1日、特集前立腺の臨床から)によったものですが、このテストがそんなに重要で治療方針の決

定に役立つとは知りませんでした。

 それから缶ジュース一缶飲んだけれども緊張の為なのでしょうか中々尿意をもよおさず、もう一缶買って飲んだのにまだ駄目、もう一時間位になるので泌尿器科の方へ行き看護婦さんにその由伝えました。Uro.の待合室の一扉開けた所に尿流量検査測定器(これは流体力学的で興味がありました)があり、ここでHarnをした後、看護婦さんからGraphを見せて貰うと惨めなダラダラとした尿線に過ぎませんでした。その後エコーで残尿を見て頂いた所75mlありました。

 森下先生からどのような判断を示されるのか、もし手術と云う事になればどのくらいの期間休診したらよいのか、その間の患者きん達をどのようにしたら良いのか? 次から次ぎへと気になる事が思い出されましたし、今日は皮膚科の新潟地方会があり伊藤雅章教授に論文を手渡す必要があるので時間が気になり出しました。

 暫くすると呼ばれて先生の説明をお聞きすると「直腸診でもエコーでもProstataが大きいし、尿流量検査もI-PSSも良くありませんし残尿が75mlありますので手術の適応です。手術はTURP(TransurethraI Resection of Prostata;経尿道的前立腺切除術)で、麻酔は硬膜外麻酔でやります。他の臓器にさしたる異常が無いとすれば今の内にされた方が良いと思います」と云われました。多少躊躇する様な気持ちはありましたが、宜しくお願い致しますと申し上げ、10月6日入院7日0pe.と決まりました。看護婦さんから“入院のご案内”というチラシと説明を受けて午後2時半頃家に帰り、家内に一応の報告をして新幹線で新潟に向かいましたが、随分疲れた一日でした。

手術決定後から入院まで

 それからの15日間は勿論診察はしましたがその他に論文をもっと手直しして外国に送る事、休診するためにお知らせの文を決めておくこと、薬局との事や従業員の事等しなければならない事が沢山ありました。でもなによりも気になっていた事は手術の事で、まず硬膜外麻酔と云うのはどうであったか忘れていたので調べてみました。私の教わった信州大学の星子直行教授&岩月賢一助教授の「新しい麻酔学入門」(昭和30年第2版)によると長所として薬液が延髄中枢にまで及ぶ危険はないし、知覚麻痺が主で運動麻痺は軽度であって脊椎麻酔に比し副作用が少なく、且つ作用時間も長い。けれども欠点として時に誤ってクモ膜下腔に注入する危険があることや比較的大量の薬液を使用するので中毒を来すおそれがあり麻酔発現までにやや時間がかかる(20〜30分)。それに交感神経線維も遮断される為に、血圧下降を来したりする。これを読んで麻酔の事は納得しましたが、肝心のTURPなる手術はどんな0pe.なのだろうか?

 どの泌尿器科学の本にも書いてある事ですし、御存知の方ばかりですから省略しますが、私には欠点の事が気になりました。肥大腺腫の完全摘出が難しいとか、切り残しによる再手術が多い事、深く切り過ぎると前立腺被膜内の静脈叢から潅流液が吸収されて低Na血症や溶血などTUR反応をきたす可能性があり、権流液が吸収されるので手術時間は2時間以内という制限があるうえ技術の習得が難しいなどと書かれてあったので些か憂鬱になりました。

 だんだん話はもっとuach unteu に向かいますからあまり丁寧な言葉は使わないことにします。悪しからず。

 私の若い頃に幾つかあったM検付身体検査は全て合格していたので、異常ではないにしても小作りだから外尿道口も小さいと思っていたし、過保護に育ったからか随分神経質で我が儘で臆病である。こんな事で手術に耐えられるのか? それだから手元にあった泌尿器科学の参考書に載っていた棒状で大きい金属製内視鏡の写真を見て驚き、この様なものがslimな weim lieblicher Penis の外尿道口から入る訳は無いと思ったし、切開されるかもしれないなどと余計な事まで考えた。

 本棚のあちこちを見ていると隅の処に京都大学泌尿器科教授吉田修編著「前立腺」があったのでこれも読んでみると稀ではあるがとあるものの膀胱内貯留ガスの引火があって膀胱が破裂するとか、切除が長時間に及んで、とくに切除鏡が尿道の口径に比べて大きすぎる場合や勃起の場合に(麻酔下でありながらErektionする事がある?)亀頭を中心とした遠位約1/3にわたって亀頭が糜爛し、これが渡痕化して陰茎の変形や外尿道口狭窄をきたすことがあるとか、膀胱頸部に近い10〜11時、1〜2時の切除に際して不意に患者の同側下肢の伸展反射をきたし、そのために膀胱や前立腺被膜の穿通など不慮の大きな事故を招くことがあるとか(私の下肢がもし不意に動くことがあればこのような事態にならないとも限らない)、bouncebleedingと云って湧出する出血がジェット状に対側の壁に当うて跳ね返り、恰もこの部分からの出血であるごとき感を呈することがあるとか、膀胱三角部、尿管口や尿管間隆起を損傷すると一過性の水腎症とか側腹部痛、背部痛をきたしたり、時に重篤な腎周囲膿傷および続発性の敗皿症のため死に至った症例も報告されているとか、術後膀胱頸部硬化症および尿道狭窄が起こりうる(手術時間は1時間が限度)とか、外括約筋を2ヵ所で誤って切除、損傷した場合は、まず尿失禁は避けられないなどと縷々書いてあったので、手術はどれも危ない一面を持っているとしても、これだけ色々書かれてあると、もしかして私は死ぬかも知れないと本当に思った。なにをオーバーな事を云ってと思わないで下さい。手術が嫌だ嫌だと家内と顔を付き合わせる度に云っていたと今でも家内は話します。

 そうだBachを聴こうと思ったのは入院の日が迫った頃でした。Johann Sebas0an Bachのマタイ受難曲ですが、私の好きなNr.72Choral「いつの日かわれ去り逝くとき、われをば離れ去りたもうな。われ死に面するとき、汝立ち出でて、わが盾となりたまえ !・・・」の前後の所は涙無くしては聴くことが出来ませんでした。

 外来では待合室のお知らせを見た患者さん達から慰めの言葉を頂きました。高校生の若者までがなんでそんなに優しくして呉れるのか、お爺さんは老人らしくおどおどして「先生なんとか早く戻ってきて・・・」と照れ臭い様な事を云って・・・。

 ですからもし私が無事に戻って来る事が出来たら、このような患者さんの為に一生懸命働こうと心に決めました。(つづく)

 

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長谷川泰先生略伝 後編 その32

その師、その友、その後輩と医学校の発展

田中健一(小児科田中医院) 故長尾景二

越後から順天堂へ

 天保13年(1842)長谷川泰が粟生津村(吉木文台の長善館に入塾したのは安政3年(1856)で、数え15歳から3年間漢学を修業している。父の長谷川宗済は福井村(長岡市)の漢方医であったので、漢方医学の見聞は元より、勉学もしていたと思われる。文台の鈴木家は代々医師の家柄である。文台の兄の桐軒も医師であり、その長男の順亭は若くして死んでいるが、医学を学びつつあった秀才であり、長善館に於いては鈴門の神童前に鈴木順亭あり、後に長谷川泰ありと云われたのであった。泰は漢方医学の中から生まれ育ったようなものである。

 長岡藩9代藩主牧野忠精は宝暦10年(1760)に生まれ、42歳で老中となり16年間勤めた。老中在磯中文化5年(1808)長岡藩校崇徳館が開校した。老中忠精は外交を担当していたことから、海外の学問・文化に藩士たちは関心を持った。10代忠雅も老中となり、嘉永6年ペリー来航でゆれる外交問題に対処した。

 長岡藩ではこの嘉永6年(1853)には殿町の藩校崇徳館の近くに済生館を設立し、医学を志すものを教育した。長岡藩は医学頭取、田中修道(通称春東、名を恕、字を仁卿)の建白で、済生館を建て、士民の子弟で医術を志すもののために開講した。長岡で初めての藩立医学校であり、地方にまれにみる医育機関であった。

 田中修道は漢方医学を柴田芸庵に学び、経学にも精しく、また詩文に通じ、書をも良くしたとされる。

 また同館の助教授、川上寿碩(徳順ともいい、二十五石)は嘉永元年3月、医術修業のため江戸に出発し、幕府医官桂川甫周の門下となっている。

 その他済生館には、外科て医の華岡青洲の流れをくむ佐藤敬斉、賀川玄悦流産科門下の三門元宅がいた。

 修道の師、芸庵は藩医のなかでひときわ傑出していた。当時長岡に過ぎたるものの例に上げられる位であった。寛政の前後江戸に出て幕府の御側衆と接触をもった。寛政4年11代将軍家斉の子を治療し、寛政10年将軍お目見えを許された。「糸脈をおとりだった」と伝えられている。天保14年(1843)三十人扶持を賜わって奥詰医師を命じられた。また経史に通じ、詩をも善くせりとある。

 済生館は実は済世舘であった。殆どの歴史書に於いて、誤って済生館と記載してある。済生学舎舎長の長谷川泰も済生館と思っていたであろう。済世舘の看板は田中家現当主の貞雄氏(長岡大手高校、長岡高校、長岡工業高等専門学校教授)によって、戦後長岡市に寄贈されて、悠久山の郷土史料館に展示せられてある。

 長岡市医師会史には文久2年の「御家中総名順」から長岡藩医が列挙してある。蒲原宏氏はその2年前の安政6年(1859)の分限帳から医師と考えられるものの氏名を次の如く記されてある。

 四袷五人扶持    小山良岱
 百三十石      小山良運
 百三十石      武 回庵
 百石        三間道宅
 九拾石       原田杏庵
 弐拾人扶持     中村桃庵
 四拾二石      中川静庵
 拾三人扶持     島峯伝庵
 三拾三石      篠原賢斎
 三捨石       赤柴戴庵
 七人扶持      田中春東
 七人扶持      梛野恕秀
 七人扶持      鶴田思迪
 七人扶持      佐藤寛斎
 二十八石      勝野秀碩
 九人扶持      小林道立
 二袷五石      川上旨碩
 二拾五石      太田喜斎
 二拾石       阿部宗達
 二拾四石      小山仙斎
 五人扶持 一代限  神保昌庵
 五人扶持      増井春庵
 三人扶持 一代限  飯島文常
 二人扶持 一代限  丹路方斎
 壱人扶持 一代限  竹村鈴詮
 三人扶持 一代限  大橋寿伯

 両者の記録の間には多少の相違がある。

 梛野直(なぎのただし)は明治6年長岡病院の初代院長となり、長岡地区で非常に活躍した医師である。出生は天保13年(1843)で死亡は大正元年(1912)で長谷川泰と同じである。生れた土地も古志郡富曽亀村大字堀金(旧堀金村、現在長岡市)で旧長岡城に対する位置も福井村に似たようなものであるが、堀金の方がより近い。そのせいか若くして即ち11才で藩学崇徳館に学び、山田到処の門に入り、更に藩立済世館で武任庵から医学を学んだのは12、3歳頃と思われる。19歳で江戸に出て呉服橋外町医、渡辺吉郎の塾に入り、21歳で大阪に赴いて緒方洪庵が創立した通塾に入ること3ヵ月、次いで洪庵の門下生の石井謙道に学んだ。更に慶応元年(1865)24歳で長崎に行き、精得館に入学し、マンスヒルトから蘭学を、バラトマンに理化学と数学、そして内科学の講義を受けた。戊辰戦争では泰と同じく藩医として長岡付近の各地で戦傷者の手当に奔走している。

 泰は長善館より帰郷してから漢方を学びながら、中央に出る機会を暫く待っていたようである。文久2年(1862)21歳で下総国佐倉の順天堂に入塾して、佐藤尚中に師事して洋方医の学習を始めること5年間、続いて慶応2年には、薩摩藩が江戸に英学塾を開設したので、その直後に泰は入塾した。

 更にその前後、坪井芳洲の門下生となったとの石黒思悳の指摘がある。坪井芳洲は文久2年に西洋医学所教授になっているので、芳洲の自宅の塾に入ったものかと想像される。

 又泰は西洋医学所に入所したのは慶応2年5月とも云われる。間もなく教官となっている。慶応3年(1867)1月の医学所の記録に於て、旬読師並として、4名の教師の名前が記されてある。即ち渡辺静寿(洪基)、石黒恒太郎(忠憲)、長谷川泰一郎(泰)、横井信歳(信之)がこれである。泰は引続いて医学所で活躍を始めるのである。医学所は現在の東大医学部である。

 佐藤泰然が佐倉に順天堂と称し、病院と医学塾を開いたのは天保14年(1843)で、泰が入塾したのは第2代佐藤尚中の頃である。全国から、そして越後から、優秀な医学生が集まっていた。現在の順天堂大学の前身である。

 一犬虚に吠ゆれば、万犬実を伝う。梛野直が済生館ならぬ医学校、済世舘で、12、3歳頃既に医学の勉強を始めたのに、泰が漸く15歳で入塾した長善館は漢学塾である。これは学費が乏しかったのを意味するのか。それとも医学部教養課程が長かったことを意味するのか。少なくも泰にとって良寛の影響を全身に受けたことを意味するようである。(つづく)

 

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紅茶は好きなんですが 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「今日Kのおじさん夫婦と純子姉ちゃんが遊びに来てくれたでしょ。」と帰宅して着替えているわたしに家人が話しかける。

「すごく久しぶりだよな。みなさん、お変わりなかった?」

「おじさんは去年胃の手術したでしょ。痩せたけど元気で、一緒にK屋のへぎそばを食べました。−−それより純子姉ちゃんがね、紅茶にすごく凝っていて、紅茶スクールにも通ったんですって。」

「そんな学校あるのかい?」

「たぶん今流行のカルチャー教室だと思うわ。」

 話題の中心人物、純子姉ちやんは家人の父の姉の娘で、すなわち従姉妹である。子供時分からの呼び方がお互いに中年女性になった今も続いているようだ。

「わたしも、よーし、それならって、久しぶりに家宝の(?)ウエジウッドのティーセットを出して、アフタヌーンテイーをしたのよ。お庭もバラがきれいな季節だし、誉めてもらえてうれしかったわ。テレビ局が来ただけのことはあるって。」

 それは数週間前になるが、学会出張先から家へ電話したら、家人がいくらか興奮した声で、地元の某テレビ局がガーデニング特集の取材出演の依頼に訪れて来たと言う。

「主人が留守なので戻ったら相談して見ますが、たぶんだめだと思います。−−とお答えしといたけど。」

「OK。きみが出たければ出てもいいけど、まあ止めといたら?ところでなんでうちを選んできたの?」

「車であちこちと見て回って、うちの庭がきれいだったんですって。手作りの花壇やハーブやキッチンガーデンに野菜畑の畝とか、実生活に密着している点がうけたみたいよ。」

 家人の話を要約すると、系列全国放送の番組のカーデニング特集で新潟からも地元でハーブガーデンや園芸をやっている一般家庭を中継するんだそうである。二日がかりでロケに来て、我が家のガーデニング作業やハーブ料理を録画したいと言うらしい。この一件は、そう評価していただいたことは良い思い出にして、テレビ取材は遠慮させていただいたのであった。

「純子姉ちやんは昔から凝り性だから、すごいらしいわ。だって紅茶をあんまり飲み過ぎて歯が茶色くなったっていうんだから。」

「そんな話、聞いたことないな。確かにティーカップやポットに茶渋はつくけれど。」

「それが、ほんとに歯に色がついてんの。そんなに好きならって、美味しくて格安だとあなたが横浜中華街から送ってくれた中国産のキーマン紅茶、二缶あげたんだけど。」

「うん、いいよ、もちろん。」

「そしたら例の放り出してあった不味い紅茶の缶を見て、こんな高級物があるなんて貰っていいかしらって言うのよ。信じられる?捨てないで置いといて良かったわ。」

「えっ、あのラプサン・スーチョン茶を、まさか……。」

「ほんとなのよ。もちろん飲んだことがあって、美味しいじゃないのって言うのよね。」

 その紅茶は、英国では上流階級が好む高級な中国産半発酵茶だと家人が本で読んだ知識から、しばらく前に、専門店から買い求めたものであった。

 さっそくに紅茶を煎れ、期待して飲んだわたしと家人の二人。

「げっ、まずい。この香り、すごく薬臭いじゃん。何かによく似ていないか?」

数秒おいて異口同音に出た言葉は、

「正露丸(せいろがん)だ!」

 

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