長岡市医師会たより No.221 98.8

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もくじ 
 表紙絵「夏の終り(柏崎)」     丸岡  稔(丸岡医院)
 「TUR-P貴重な体験(2)」       内田 俊夫(内田医院)
 「阿修羅像雑感(1)」        福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「将棋名人 佐藤モテミツ君」    郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

夏の終り(柏崎)   丸岡 稔
TUR-P貴重な体験(2) 内田俊夫(内田医院)

※表示上の都合により、一部正確な表現ができておりません。ご了承ください。

入院から手術前日まで

 10月6日悲壮な気持ちで午前9時45分に家内とお手伝いさんと三人で我が家を出た。

 いまだ手元に残してある日赤病院から貰った入院のお知らせによると、午前10:00〜10:30に検査があるからそれまでに3番の入退院受付で手続をするように書いてあり、入院先はlOB(1054)(個室、toilet&shower付)でした。清潔な病室に着いて入院服に着替え、早速外来待合室で待っていた。入院のお知らせと一緒に渡された放射線室への連絡票には尿道造影とDIP(Drip Infusion Pyelography:点滴静注尿路造影)が書かれてありましたから、wein lieblicher Penis に造影剤を注入されると思うと身が縮む思いでした。看護婦さんから尿流量測定器で小便をして、放射線室へこの連絡票を持って行くように指示され、泌尿器専用のレントゲン室で自分のトランクスを脱いで病院専用の緑色の下着に着替えベットに「頭をぶつけない様に」云われながら横になった。レントゲン技師は私の体位を右側を下にして、もうwein lieblicher Penis を下着から引っ張り出した。

 ややあって若くて背が高くむっつりと恐い顔をしたように見えたDoctorが入ってきて技師に私の体位をもっと右に向ける様に指示し、wein Penis をつかみ強い力で造影剤を注入した。「あーっ!痛いぃー!」とは口には出さなかったけれども「うーん」と捻り物凄い形相になったと思う。そのままで一枚写真を、そしてもっと奥まで差し込んで造影剤を注入した。この二度目にも凄い痛さだったので捻った。

 技師の人が「痛いですか?」と聞いてくれた。痛さのあまり声が出ず、頭でだけうなずいた。Doctorはその位置で器具(陰茎保持器と云う ?)を固定する為に輪ゴムみたいなものでwein Penis を縛り、技師に私を正面に向かせる様に指示してもう一枚写真を撮らせてからなぜか私には全く無言のまま出ていった。技師からトイレで排尿するように云われたので、かまえてみたけれども多少凝固しかけた血液がぽたぽたと落ち鮮血がタラタラと垂れて便器を汚すだけで、尿は尿道がしみてとても出来なかった。「出ないのであればそれで良いです。下着を換えて」と技師の人は云った。DIPの為に再びペットに横になり今度は看護婦さんの説明付きで造影剤を約10分間で急速点滴し、開始後5分、10分、20分で撮影する由、これはされるに任せていた。その間看護婦さんは色々話をしてくれた時は嬉しかった。

 日本医師会雑誌3月1日号の特集「前立腺の臨床」にあるように、比較的侵襲の大きい検査法は、現在、欧米ではあまり実施されない傾向にあるし、“我が国でもroutine検査としては実施されなくなると思われ、特に逆行性尿道膀胱造影が本ガイドラインの診断法のなかから全く除外されたことは特筆すべきことと思われる”と書かれた程、尿道造影の不快感、疼痛は強烈なものだから、これから私と同じ痛みを味わう患者さん方の為に、森下先生の書かれた文献にあるごとく検査前にその方法を説明して、レントゲンテレビを患者にもみせて説明しながら行って欲しいと思っている。

 10階の病室に戻り、早速トイレに入ったが、尿道が爛れていてしみるし、血液が便器にたれて暫くじっと構えているうちに、少しずつ尿が垂れるように出てきた。色々部屋の中を整理していてくれた家内に今まであった出来事を話して、これからどうなるのか先が思いやられると話した所、家内は素直に理解してくれた。

 午後2時頃だったか、看護婦さんが来てカテーテルで残尿がどの位あるか調べると云う。私は今さらなんで残尿を取るのか看護婦きんに聞いたけれども分からないらしくDoctorからの指示と云う。入院着は大変便利に出来ておりズボンは無いが上着の長さが膝の所まであり、右にある紐を解けばすぐふんどし姿のからだになり、あとはふんどしをちょっとめくればwein lieblicher Penis がすぐ出る様になっている。

 (これからは看護婦さんのさんはとります)看護婦は私の大切なものをつかんで外尿道口からカテーテルを入れた。さあそれからが又大変だった。カテーテルが早いスピードで欄れている尿道の中に入って行くと、私はもう我慢の限界を超した物凄い痛さで「痛ぁいー!」と股ぐらを押さえて悲鳴を上げた。看護婦は残尿が出ないとか云って頭を振りながら「聞いて来ます」と詰所へ飛んで行った。

 ああ一!なんでこんな痛い目に会わなければならないのか!本当に嘆いた。尿道造影をやった患者の全員にこうやってカテーテルを入れるのだろうか? 戻ってきた看護婦は残尿は取らなくて良いそうですと云った。どうもこの辺りの事が分からない。

 もう日暮れに近い頃、別の看護婦が「刺毛します」と入って来た。私はてっきり剃刀で剃るのかと思って見ていると、さっさっと丁字帯をはずしwein lieblicher Penis を出しへヤーリムーバーと云うクリーム状の化粧品みたいなものをSchamhaareと右大腿に塗った。どうして右大腿に迄塗るのか尋ねてみると明日の手術後から明後日の朝迄絶対右下肢を動かしてはいけない。それは尿道に入れたカテ−テルをPenis ごとこの大腿に固定し止血の目的で前立腺にいれたバルーンが動かない様にする為と云った。後で又来ますと云って出ていった。じっと見ているとちりちりの恥毛が益々ちりちりになり、丁度黒人のhairの様に素晴らしい縮れ毛になった。やって来た看護婦がガーゼで擦るとさらっと縮れ毛は取れてしまった。陰嚢の所の白髪や黒毛の長く伸びた恥毛を剃らなくても良いと看護婦は云ったが、内視鏡が入る時一緒に尿道に入る可能性があるからこの長い恥毛は鉄で切って下さい、そうでないと感染症の元になるかも知れないと云って私が1本1本引っ張って切って貰った。

 もう暗くなった頃私の所の患者さんの男子高校生が、母親と一緒に花束と花瓶を持って現れた。なんと嬉しかった事でしょうか、「先生頑張って下さい」と言葉少なく云って帰って行った。その後土田桂蔵先生が私の内科的な面での病歴を書いた手紙を持ってきてくださった。丁度その時入ってこられたのが森下先生で、このお二人の先生がバレーボールでの友達であることを知り、この偶然が不思議に思われた。

 土田先生は手術をされる患者の気持ちが良くお分かりになるとみえて、親指をその石の凹んだ所に入れると心が落ち着くと云う土田先生の大切にしておられる瑪瑙で出来たものまで貸して下さって、なにかの時に親指を入れて下さいと私を励まして帰って行かれた。

 消灯前に詰所の近くの部屋で森下先生のお話があると云う看護婦から連絡があって家内と一緒に伺った。私のX線写真を蛍光燈の光で良く見ながら先生の説明を聞くと、私には前立腺肥大症の他に尿道狭窄があると云ってその部分を指差された。

 外傷から狭窄が起こり易いと云われたが何年前かに若者のスキーが私の股の間を抜けて私は倒れた事があったが、この為かもしれない。「カテーテルが入らず痛い思いをされたのはこの為だったのでしょう。明日は内尿道切開術と経尿道的前立腺切除術の二つの手術を同時にやります」と云われた。先に書いたようにもしこの尿道造影のような比較的侵襲の大きい検査法が実施されない事になると私のように2つの疾患を知るにはどうするのでしょう。手術承諾書に家内が署名した後、私は一番気になっていた大きな切除内視鏡が小さな私の外尿道口に入れる事が出来るでしょうか?と率直にお聞きした。

 森下先生は24フレンチですから大丈夫ですよと笑われた。Uroの事を全く忘れていた私は24mmと思い違いをして全然大丈夫ではないなあーと、またまた悩みの種が増えてしまった。明日から3日間泊まりにくるわと言い残して家内は緑町の自宅に帰って行った。

 病室に置かれた「前立腺肥大症の手術を受けられる方へ」のなかに「暫くは入浴出来ませんから手術前日に入浴して身体を洗っておいて下さい」と云うのがあった事を思い出しシャワーのある浴室で特に頭部、陰部及び肛門部を清潔に洗っておいた。消灯といっても眠れたものではない私の所に森下先生が来られ、先生が書かれた論文「経尿道的前立腺切除術(TUR‐P)を中心とした前立腺疾患に対する検討」を下さって「もしまだ眠れないならば私がTURでやった0peのVideoをお見せしますからお出で下さい」と云われたので伺った。

 内視鏡の先に取り付けた半円状の電気メス(ループ電極)が組織に触れて切除されると、相当な出血と共に組織が剥離される様子がよくわかった。先生に「私の手術の時も0peの様子をモニターで見せて頂けませんでしょうか?」とお願いした所「構いませんよ」と云われ見せて頂ける事になった。けれどもやっぱり明日のことは気になって中々寝付かれず詰所にお願いして眠剤を貰い2〜3時間眠ったようだった。(つづく)

 

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阿修羅像雑感(1) 福本一朗(長岡技術科学大学) 

 1998年6月5日・6日に第26回バイオフィードバック学会総会が奈良女子大学で開催された。奈良は筆者の青春時代の思い出がたくさん詰まった貴重な宝石箱である。出身高校の大先輩の一人に文化勲章受賞者の和辻哲郎(1889-1960)東大名誉教授がおられ、その著書「古寺巡礼」は姫路西高生の必読書であった。飛鳥奈良時代の日本人の魂を呼び覚ますような古寺巡礼の美しい文章に魅せられ、筆者にとって奈良は高校時代からの憧れの古都であった。そのうえ同い年の幼友達にしてペンフレンドであった乙女が奈良女子大に入学したこともあって、大学時代を通じ東京から帰省するときにはいつも京都から奈良に寄り道していた。当時奈良で必ず訪れた所が2個所あった。それは忙しい試験勉強の合間の幼友達と逢うために訪れた奈良女子大寮の玄関と、もう一個所は阿修羅像の御座します興福寺国宝館であった。ご存じのとおり阿修羅像は三面六腎の異様な姿であられるが、モナリザの微笑にも似た不思議な笑みを浮かべておられる。はじめて訪れたとき、薄暗い国宝館に御座します、貴いお顔の仏像達の中で阿修羅は唯一生身の人間の表情で静かにたたずんでおられた。解説書などには阿修羅は「少年」とされているが、私にとっては心の恋人であった。そして18歳の歳に始めて出会ったその日から阿修羅像は生涯忘れられない人となった。

 734年(天平6年)正月11日、聖武天皇の妃である光明皇后がその母橘三千代夫人のために建立した興福寺西金堂に、釈迦十大弟子の像とともに安置された天竜八部衆像の一人として阿修羅像は歴史にはじめて出現する。その時以来千二百余年に渡って、一体何人の青年達の心をとらえつづけてきたのだろう。その正面像はあどけなさの残る可愛い顔にわずかに眉をしかめ、口元をきっと結んで真っ直ぐ前を見つめている。私は疾風怒涛の青春時代にありがちな「甘酸っぱい女性への想い」を胸に、その前に立つと時の流れを忘れ何時間でも見入ることがしばしばであった。それはまさしく恋に属する感情であった。しかしこの阿修羅像については当時からいくつもの謎が投げ掛けられていた。

1.阿修羅(asura)は古代インドの神の一族で、帝釈天など天上の神々に戦いを挑んだ邪悪な戦闘神であった。しかし善神の代表である帝釈天さえも袈裟の下に鎧をまとっているというのに対して、天竜八部衆の中で阿修羅像だけが唯一非武装であるのはなぜか?

2.阿修羅は後にブッダに帰依し天竜八部衆(天・竜・夜叉・乾闥婆(けんだっぱ)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩喉羅迦(まごらが))の一人として仏法の守護神となった。しかし絶えず抗争を好むため、その位は天・人と地獄・餓鬼・畜生道との間に位置し、海底や地下に存在すると言われる 「阿修羅道」に住む六道の一人として人間以下の存在とされているにもかかわらず、興福寺の阿修羅像だけはただ一人生身の人間の顔をしているのはなぜか?

3.豊満で筋肉隆々たるお体をお持ちの天平仏の中で、阿修羅だけはまるでなよ竹のようにか細い腕と体であるのはなぜか?また衣装をみてみると、袈裟でも鎧でもなく極めて異例なパンツと肩衣姿に美しい意匠のネックレスと腕輪を纏っているだけなのはなぜか?

4.例えば十一面観音像や千手観音像・釈迦三尊像などを見てもわかるように一体の仏像の中の天平仏のお顔は皆同じお顔であられるのに、阿修羅像の面だけは3つとも全て異なったお顔であられるのはなぜか?

 千年の時を経ても昔ながらの静寂の中にある奈良の都を離れてしまうと、若き日の感動と好奇心も俗世の営みに紛れてしまう。長岡の寓居に掲げている阿修羅像の全身写真をたまに眺める時、遠い日の大事なことをなにか忘れているような心の痛みを覚える。それがなにか思い出せないまま、大部分の人は年老いてゆきそしてこの世から去ってゆくのかも知れない。それとも全てをみそなわす神は、人生で生じた疑問に対する答えを最後の瞬間に全てお与えになってからその人をみもとに呼びもどされるのだろうか?ともかく若き日の疑問が解けることは「馬齢の重ね甲斐がある」と言えるのかも知れない。

 このたび学会の空き時間に興福寺国宝館を何十度目かに尋ね、30年目にしてはじめて、「阿修羅像の謎」が解けたような気がした。

 阿修羅像に限らず全ての仏像の展示方法は、その像の正面に光線を当て、原則として前方からだけ拝観するようになっている。ところが今回は修学旅行の女学生さん達が阿修羅像の前で、熱心にメモをとっていたため最初左側で次に右側で阿修羅像を眺めていた。その時、突然3つの顔が女性の世代の違いを表していることに気がついた。右面は恋を知らない少女の顔、正面は変に悩む乙女の顔、主面は子育てを済ませて悟りを開いた熱女の顔だと考えると納得がいった。阿修羅は女性だったのだ!!

 八部衆の中で唯一非武装の御姿であられることも、きゃしゃな体つきで華麗な装身具を纏われていることも、男性中心の仏像群(もっとも菩薩は性を超越した存在とされているが…)の中で唯一表情豊かな人間の顔であることも、阿修羅が女性であると考えると理解できた。阿修羅は本来麓語で二通りの解釈がなされてる。一つはa(非)- sura(天)であり「天に対する存在H非天」を表すという説であり、もう一つの asu(生命)- ra(生産者)は「生命を産みだすもの」の意であるという説である。天神の代表である帝釈天はもちろん男性であり、それに対する女性は「非夫=大地」とされる。また縄文土偶や天照大神を例に出すまでもなく女性は「生命を産みだすもの」そのものである。また阿修羅は本来の西域では「慈愛の太陽神」であったのに、インドでは「全てを焼き尽くす灼熱の神」となったことも、女性の「優しい愛」と「激しい嫉妬」の両面を表していると考えられよう。筆者があんなにも阿修羅に心引かれたのは、それが年齢の異なる3人の女性を一体に具現していることを、若い男の一人として本能的に感じていたためかも知れない。もともと阿修羅像を含む八部衆は本来女性である光明皇后の命によって作られたのだ。こう考えると阿修羅像が女性であっても全く不思議はないといえよう。(つづく)

 

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将棋名人 佐藤モテミツ君 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「ただいま。」

「おかえりなさい。なにかおもしろい事あった?」と家人が迎える。

「将棋の駒、買った。これ、立派でしょ。佐藤康光さんの署名した箱入りなんだ。」

「いくらだったの?えっ、そんなにするの。」とさすがに主婦感覚で驚く家人である。

 八月初旬に日本橋のTデパートで「将棋祭り」の催しがあった。全日程五日間のうちの二日間を見物してきた。それが今年のわたしのささやかな夏休みであった。

 この将棋祭りも将棋雑誌の記事を見つけて、今年初めて行ってみたのだ。なぜかというと、それは佐藤康光新名人の対局企画があったからである。

 ところで佐藤康光とは誰か?ご存知ない方が多いでしょうな。

 佐藤康光、若い女性にもてもてで棋士仲間でのあだ名はモテミツくんと呼ばれるらしい。羽生を破り永世名人の資格を得た谷川浩司をつい先頃倒して、新名人になった棋士である。年齢的には羽生と同期である。

 この佐藤が三年前にNHKの将棋講座の講師に出演していたのだが、まじめで明断な解説ぶりであった。わたしはそれ以来ファンを自認し、ひそかに応援していたところ、今期あっさりと名人になんかなってしまい、驚くやら嬉しいやらであった。

 この人は将棋棋士にしては、趣味にバイオリンを弾くという珍しい人なんである。棋士の音楽会「駒音コンサート」での演奏を聞く限りでは、技術は下手なのだが、一生懸命でシャイな感じがまた好感が持てるんですな。

 さて将棋祭りの会場は熱心な将棋ファンが多勢詰めかけていた。大盤解説を聞きながら対局者を眺められる早指し戦で見応えがあった。佐藤名人対これまた人気の郷田棋聖戦である。解説の聞き手が清水市代女流名人という豪華さで、勝負は佐藤名人が勝利した。会場では対局後に佐藤名人のサイン会があり、目の前で丁寧に一枚一枚揮毫していく。わたしもサイン色紙を書いて貰った。いくつかの見本から文字は選べる。わたしは彼のモットーだと以前読んだ著書に書いてあった「研鑽」の書を希望した。いかにも学究肌の佐藤康光らしい気がするのだ。

 また今回名人になり、勉強する初心を忘れぬようにという心構えで「蛍雪」と書いた、佐藤名人署名の箱入り将棋駒も購入した。

 我が家には以前新築祝いにと父がくれた三寸将棋盤と駒のセットがあるのだが、その駒は数枚を犬にかじられしばらく使用不可能になっていたので、ちょうど良い機会であった。

 わたしの将棋の棋力そのものは五級くらいで、囲碁と同じく、とても下手なんである。これは三十年前からまったく進歩がない。

 将棋の想い出では、高校時代には課外活動の時間に、仲間と将棋をやっていた。リベラルな校風であったが、将棋では許可されない恐れもあり、表向きは数学を勉強する「トポロジー(位相幾何学)研究会」なる届け出にしていたらしい。週一回午後、高校の近くの席亭で将棋対局をしていたのであった。世をあげての受験勉強競争時代に、仲間で心を遊ばせた懐かしい想い出である。

 最近はまた将棋を指すようになった。もっとも必ず相手が必要なゲームだから、気楽にいつでもやれるパソコンソフトの「AI将棋」(四級格)をもっぱら好敵手に勝ったり負けたりをしている。

 

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