長岡市医師会たより No.222 98.9

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もくじ 
 表紙絵「焼いも」           高野 吉行(かわさき内科クリニック)
 「医師会新入生の時代」        立川 晴一(立川綜合病院)
 「臨死体験」             堀  祐久(長岡保養園)
 「秋きゅうり」            高野 吉行(かわさき内科クリニック)
 「TUR-P貴重な体験(3)」        内田 俊夫(内田医院)
 「阿修羅像雑感(2)」         福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「長谷川泰先生略伝 後編33」     田中 健一(小児科田中医院)・故 長尾景二
 「ご無沙汰をしております。私は今…」 荒井 奥弘(社会保険長岡健康管理センター)
                    伊藤 本男(伊藤皮膚泌尿器科医院)
                    竹山 文雄(竹山整形外科)
 「金魚鉢では金魚は飼えない?」    郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

焼いも   高野吉行
 医師会新入生の時代  立川 晴一(立川綜合病院)

 私は1919年、長岡市の現在表町3丁目、表町診療所の丸い病院の所で生れました。以来、東京の12年間を差し引くと、67年間長岡で暮らした事になり、文字通り生粋の越後長岡人というわけです。23才の時、医師免許を取り、約半世紀、52年医師生活を続けた事になります。

 長岡中学時代、私の知っていたその当時開業されていた医師は約40名位でした。その中の約10名の方々の御令息やお孫さんが跡を継いで、今現在活躍をきれています。私は長岡の医師会の半世紀の歴史を見守ってきた一人とも言えましょう。

 昭和24年、長町1丁目の中山内科の先生や見附の寺師先生・金井先生、三条の日戸先生等、めっぽう政治の好きな先生が居られ、医師会より衆議院議員を出そうと丸山直友先生がかつぎ出されたわけです。私も医師会の運動員として駆り出され、正月元旦大雪の日、魚沼・広神村地方の開業医の所に選挙運動に出かけたわけですが、雪をかきわけ徒歩でした。雪が降れば交通機関が一斉に止まる豪雪地方でしたので大変でした。村のドクターはその地方の有力者でありましたから、投票日にはその入口に立っているだけで票が入るのではないかといった話で、全面的に協力をするという約束をとって帰ってきた覚えがあります。

 その後警察から呼び出しがあり、選挙違反しただろう、君達は金を貰って動いたのではないか、としつこく聞かれましたが、手弁当でやった事を強調して家に帰された覚えがあります。豪雪にもかかわらず、中山又吉氏を中心とした運動が実って、5位に当選し、医師の団結の強さを示しました。

 昭和24年、あまり多忙の為、自転車では間に合わず、何か適当なものはないかと思っていた所、ラビットスクーターという乗り物が戦後初めて製造されたので、早速買い求め、往診に使いました。迅速機動性で、患者から感謝されましたが、それも一年間で乗り潰す結果となりました。ところが翌25年に、新潟県に初めて国産車ダットサンが入って来て第一番に私の所へ持ってきて使ってくれというわけです。

 時に新円切替えで、旧円は封鎖の時でした。百円紙幣しかなかった時代でしたから、たしか自動車会社に座った膝の高さの百円札を積み上げて出した覚えがあります。新潟県自家用車第一号でした。医師会の人々は、立川は車を買ったそうだが、車の代金で立川はつぶれるのではないかと評判でした。それほど当時としては珍しい高価な品物であったわけです。今日、車社会になって、国民一人二台位を持つというようになるなんて、夢にも思いませんでした。

 昭和22年6月10日に、新生長岡市医師会、計68名で発足し、当時開業医が中心で、初代医師会長は丸山直友氏が選ばれ(現会員丸山正三氏の義父にあたる)、合計19名(勤務医を除く)でした。事務所は会長宅であり、医師会の例会は駅前の「木村屋」料理屋で、お膳を並べて酒が出て和やかなものでした。当時、医師の税金は医師会にいくらと金額がきて、医師会が一人一人に税金を割り当てたものでした。医師会の終わった後、若手医師連中は、二次会に小料理屋に芸者を上げて、大いに酒を酌み交わし、談論風発気勢を上げたものでした。その連中で野球部をつくり、『ながおかホルモンズ』と命名し、又ゴルフ部をつくり、ゴルフ部は現在も続いています。夜になると必ず飲みに出かけ毎日が面白く、今思い返してみると医師として天国のような思いがありました。

 昭和11年に上京しましたその日が、2.26事件の陸軍クーデター失敗の日でした。昭和16年12月8日日米開戦、昭和20年8月6日広島原爆、同年8月15日敗戦、そして昭和22年開業等、昭和10年より約60年間、政治経済等、世界的にはソビエトの崩壊などで、文明の変化・激動する世界に生きてきた幸せをしみじみと思い返す年、光陰矢の如く、いつのまにか満79才7ヵ月となってしまいました。

 

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臨死体験  堀  祐久(長岡保養園)

 臨死体験については作家、立花隆が文芸春秋に連載、その後単行本になったが、私も50年余の臨床経験で、それと思われる一例を経験しました。

 年令は50才前後の男性で、気管支端息の持病があり、ときどき外来通院したり、入院をしていた患者さんです。

 或る日のこと、家に居るとT病院から電話があり「患者さんの容態が悪く外来に来ている。」とのこと。「又、例の発作がでたか。ステロイドとネオフィリンの点滴をすれば良い」と思いながら病院に急ぎました。病院に着いてみると、外来急患室で当直のK先生が患者さんの上に馬乗りになり救命活動をしているではありませんか、点滴の針は外れています。慌てて点滴をし血管確保、急いで病室に収容しました。漸く自発呼吸も見られるようになり小康を得ましたが、尚呼吸状態が悪く、呼吸管理が必要と考え、麻酔科の医師を呼び出しましたが、連絡がとれず、時々病院に麻酔科の医師を派遣してもらっている新大麻酔科に連絡したところ益子先生(現在長岡中央綜合病院麻酔科医長)がお出でになり挿管呼吸管理をして下さいました。(益子先生には2〜3日往診していただき抜管までお世話になりました。厚く御礼申し上げます。)

 以上の経過で漸く一命を取り止め、会話も可能になった後日、患者さんに「あなたは死にそうになったけど、その時どんなでした。」とお聞きしたら、患者さんは「私が道を歩いていたところ途中で道が二股に分かれていました。一方の道は平らで向うの方には亡くなった両親や兄弟、その他多くの人が楽しそうにしていました。もう一方の道は石ころ道で歩き難そうだったが、私は何故か石ころ道を歩いていました。そうしたら意識が戻り助かりました。もし平らな道を選んだら今頃は死んでいたかも知れません。」との話を聞くことが出来ました。

 当時は臨死体験という言葉があったかどうか分かりません。外科系の医師は患者を救命したという感じを抱くことがあると思いますが、内科系では治ったという感じで救命したと感ずるのは少ないと思います。この患者さんもその少ない症例の一つで、私の臨床経験肌年余の中で出会った忘れられない症例でした。

 

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秋きゅうり  高野 吉行(かわさき内科クリニック)

 胡瓜の奴は、以外としたたかだ。

 暑い日差しの中で、人知れず地中の少ない水気を独り占め。外観はザラザラで、内に秘めた瑞々しさをつゆとも感じさせない。

 夏の定番「冷やし中華」などの名脇役として活躍。自らは味噌だけを羽織っての「もろきゅう」、堂々の主役である。主義主張があるようで、実は密かに貯めた水以外の何もない。

 そして今、奴は哀しいに違いない。夏が終わり、肌寒い秋口に収穫された胡瓜ほど間の悪いものはないから。巷には新米が出廻り、今更「冷やし中華」でもない。

 どっこい、胡瓜は食卓の片隅にあがっていた。自慢の水気を抜かれ漬け物に身を変えて。

 そんな胡瓜のようなしぶとい医者に、私はなりたい。

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TUR-P貴重な体験(3) 内田俊夫(内田医院)

※表示上の都合により、一部正確な表現ができておりません。ご了承ください。

手術当日

 午前3〜4時には目を覚まし、もうこの頃から身体は緊張していた。午前7時にK看護婦が浣腸にきた。このK看護婦が今日一日手術も含めて私の係だから宜しくと云われた。このK看護婦の顔を見るとatopicdermatitisであるのでその由告げると“先生の所にもかかったし、森下皮膚科にもかかったけれども治らないので諦めた”と云う話、これも不思議な因縁の様に思われた。腸の中を空にして今日一日絶食である。小便は昨日程の血尿は無くなったけれども痛みは残っている。午前8時頃家内が来てくれた。

 午前9時回診の時、膀胱潅流液の点滴と聞いた様に思うが、森下先生が左手首に点滴の注射をして下さった。それから手術室に呼ばれるまでの長かったこと、Pulsが早くなってゆくのが分かる。正午近くになると見舞客が来て下さるのは有り難いけれども、笑いながら話をする様な気持も話題もなくむっつりしているので、申し訳なかったがお帰り頂いた。午後1時頃子供の手術が始まってその後になりますと、係のK看護婦が教えてくれた。

 午後2時15分頃K看護婦が走って入ってきて、手術室から呼ばれましたよと伝えてくれた。その時の血圧は上が160あると云われ、下やPulsは覚えていないが、大分緊張とか興奮とかが高まっていると自分で思った。

 「全部脱いで下さい」「褌も?」「勿論です」で全裸になったところで臀に痛み止めを注射され、入れ歯(自分の歯は残り2本)も時計も取ってstretcherに移され、布団を掛けられ家内と共にそのまま手術室へ。途中エレべーターに患者や見舞客やら一杯になる程人が乗ったのを覚えている。緑色の帽子を被せられ布団の下は真っ裸の私は次々と入ってくる人達が、非常に不安な精神状態でいる私の顔をじろじろ見ているのが良く分かったから、我が儘な事でしょうがこれから手術されにゆく人間にとっては、出来ればK看護婦と家内と3人だけでいたかった。

 3階で降りて暫く行った手術室前で、家内とは何分の一かの確率で永久の別れになることもあり得ると思いながら別れた。付き添いの看護婦が「少し寒くありませんか?」と云ったのでうなずくと「内視鏡の場合手術室を暖めると曇って見えなくなるので暫く我慢して下さい」とのこと、右側に手術の終わった子供の車が出て来たように思われると、今度は私の番になった。

 stretcherが動き手術室に入ると表現はまことに悪いけれども、蜜に集まるハチの様に5〜6人の全員女性と思われる麻酔科の医師か看護婦かが寄って来て「この注射は痛み止めの注射をする前の痛み止めです」式のことを何回か云いながら、真直ぐ上を向いて寝ている私の左腕の静脈や皮下に何本かの注射を打った。ついで身体を左向きにして背中を右に背骨を丸めていると硬膜外麻酔をする前の痛み止め?の注射をしてから、硬膜外麻酔の注射をされた。それほど痛くはなかった。

 上を向く様に云われ右腕も真直ぐ伸ばされて動脈を確保する為なのか分からないが、注射された様に思った。共に点滴がしてあるので十字架の磔の様な具合に身体を上に向けると殆ど同時に足元の方の右にいた看護婦は右大腿を、左にいた看護婦は左大腿を持って股を拡げにかかった。まだ麻酔は効いておらず特に左足などは全く正常の感覚だったし、私がこの様な体位を取る事になるなど考えてもいなかったので、心のなかで「ぁぁあぁ!」とただ驚くばかりだった。

 何人かのdoctorや看護婦が注目している私の股の間にはPenis.Skrotum u.Anusが出ていただけであり、その姿を思うと恥ずかしさと不安と恐怖とでwein Penis も縮み上がり、埋没してしまって見えないのではないかと悲しくなった。

 粘膜のAnusとGlansの外尿道ロに冷たい風があたっている様な感じがするのは、きっとその部分の消毒した後に天井からの風があたった為であろうとか、今の感じは下腹部を消毒されているんだなと思ったり、私の神経は下腹部から股にかけて集中していた様だった。でももう諦める以外に方法はないと観念するうちに麻酔が効いて来て下半身のことは全く分からなくなった。

 すると森下先生の声がして「これから切除を始めます」と云われ(この時にはすでに内尿道切開は終っていた由)モニターを見て下さいと云われたのでメガネをかけさせて貰い、モニターの中に私の前立腺が見えた。

 ループ状の電気メスが動く度に切除された前立腺の肥大部分が剥離され、水中で浮いているのが見える。それにしても昨日見せて頂いたVideoでは切除されたその瞬間から猛烈な出血を見たが、私の前立腺の切除ではそのような出血は無く血管がないのかと思われる程。

 森下先生が一生懸命手術されているのに、麻酔が効いてきたのか気持が楽になったのか、自然に眠ってしまったようだった。いい気なもんで股を拡げて人にChonboを持たせて眠ってしまうなんて!。

 ふっと気が付いてモニターを見るとまだ盛んに切除が行われていて、「右は終わりましたから、今度は左をやります」と云われて暫くすると切片を集める為でしょう、ガタガタと音がしたり振動が伝わって来た。この頃だと思うが時々電気メスが動く度に痛みを感ずるようになったが我慢する事にした。モニターの画面では外壁を丁寧に剥離されている様子がみえたし、まるで蔦が絡んだように前立腺の外壁に細い血管が這っている様子も見えた。看護婦が「左足が冷たくなったのでカバーを掛けます」と云って左足に大きい靴下の様なものを履かせてくれた。この頃から上半身が寒さの為かぶるぶる震え出し止めようにも止まらなくなったのは硬膜外麻酔の所で書いた“交感神経繊維も遮断される為に、血圧下降を来す”によるものだろうか?。

 森下先生が「終わりました」と云われた時には本当に嬉しく生きていた喜びを真っ先に感じました。「切除された内田先生の前立腺の組織は16gでこの全組織は病理で検査してもらいます。手術時間は30分でした」と告げて下さった。この時の声から先生が物凄く集中して真剣に手術して下さってお疲れになった事を知りました。患者にとって最も有り難く嬉しい事だったので、手術室におられる諸先生方や看護婦きん方に有難うと云いたかったのですが喋れないので頭だけちょっと上げて礼をする様にしたのですが分かって頂けたかどうか。係の看護婦さんがどうやって10階の部屋に連れて来てくれたのか全く分らなかった。家内によると午後4時半頃病室に帰ってきたそうだから、約2時間かかって部屋に戻ってきたことになる。術後大分縫ってから家内に俺の手術中心配だったか?と聞くと“全然”と云ったのでびっくりした。そんな家内だから私はもっているのかなー。その時の様子は家内と若いお客がいたのは覚えているがその他の事は殆ど記憶にない。

 夜に森下先生が来て下さって「今晩は痛み止めを飲んでぐっすり眠ると良いですよ」と云われたのは覚えている。いつの間にか眠ってしまったが真夜中に痛みの為に目が覚めてしまった。前にも書いたように“この夜一晩は絶対右下肢(砂嚢がしてある)を動かしてはいけない”と云われた事を思い出した。以前エルと名づけたマルチーズ犬が、いつも私の股ぐらに入って眠っていたものだから、一晩位天井を見たまま眠るのには慣れていたし、股ぐらに何時もエルがいて守っていてくれるように思っていたからこの時も不動でおられたと思う。

 導尿バックへの血尿の出方を見に来ていた看護婦が「痛くて目が覚めましたか?」と聞いてくれた。痛くて眠れない由告げるとデジタルの血圧計を持ってきて手首の所で測定してくれて血圧が110で低いから痛み止めは投薬出来ないと云った。私は「デジタルだからきちんと脈の所にセンサーが密着していないと正確な値がでないと思うからマニュアルで肘筒部で耳で聞いて測定して欲しい」と我が儘な患者振りを発揮してしまった。痛み止めが欲しい為に。

 それで看護婦は私の云う事を聞いてくれて測定し直し130あるから大丈夫と云って痛み止めを持って来てくれた。(つづく)

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阿修羅像雑感(2) 福本一朗(長岡技術科学大学) 

 しかしここで新たなる疑問が生じてきた。1264年前に阿修羅像造立を命ぜられた光明皇后は何故に一人の女性の像を仏像として残そうと思われたのだろうか?またその女性は一体誰なのだろうか?

 比叡山の僧侶皇円が残した平安仏教史書である扶桑略記にはその疑問を解く鍵が示されている。そこには「天平6年正月11日光明皇后、亡き母橋三千代のため興福寺西金堂を建て、釈迦丈六像・釈迦十大弟子像・天竜八部衆像を安置する。」と記されている。また古今目録抄によれば、その丁度一年前の天平5年正月11日に橘三千代夫人が亡くなり、法隆寺に夫人の念持仏であった阿弥陀三尊および厨子が安置されている。これらの事実から、仏像史上特異な阿修羅像の誕生はこの二人の母娘(橋三千代夫人・光明皇后)に深いかかわりがあると推定できる。

 姓氏録尊卑分脈によれば橘夫人(懸犬養宿袮三千代)は「東人の娘」で、はじめ美努王に嫁し葛城王・佐為王・牟漏女王を生んだ後、藤原不比等の「継室」となって光明子を産んだ。「東人(あづまびと)」とはどの地方の出身か、興味があるが今となっては想像するしかない。阿修羅像の顔つきは当時の絵画に描かれている引目釣鼻の畿内の女性とは全く異なっている。はっきりした眉、大きく魅力的な目、厚い唇、全て越後はじめ東国の美人の典型と言える。藤原家の荘園が多かった新潟県出身の女性である可能性もないとはいえない。最初皇室に嫁ぎ、皇太子まで設けたのに臣下の藤原氏の後妻に入った理由も推定の城を出ないが、後の世の藤原家全盛時代の基を築いた藤原不比等は当時男も惚れる好男子であったとのことなので、愛を貫き積極的に自らの人生を開いていった夫人の性格が為さしめた「王冠を賭けた恋」の結果と考えることはできないだろうか。

 後に聖武天皇皇后となる娘、光明子(701-760)は藤原不比等(ふひと)と橘三千代夫人との間に生まれた三女で、少女時代には藤原安宿嬢(あすかべひめ)と呼ばれ、自らは藤三娘と称した。幼少より聡明で早く声誉を博し、父不比等とともに市に赴き諸商人に唐の秤尺を用いることを教えたと伝えられる。16歳で後の聖武天皇の皇太子夫人となり18歳で後の称徳天皇を産んだ。聖武天皇が即位した年、光明子雄歳の時に皇子を得たが4年後には病でその子を失っている。長屋王事件の後の729年(天平元年)、29歳の時に臣下から最初の皇后となった。30歳の時に悲田院・施薬院を設けて窮民を救った。自ら癩病人の手当をし孤児に乳をふくませたという伝承もあるほど慈愛に満ちた皇后は千年以上前に看護婦精神を実践したナイチンゲールであり、マザーテレサのような存在であったと思える。貧窮者・病者・孤児などを救うための「悲田院」は、貧者を治療しつつ孤児・孤老を収容した「施薬院」とともに723年(養老7年)に興福寺に、また730年(天平2年)には平城京に官職として光明皇后によって創設された日本初の病院・老健施設・孤児院であると言えよう。光明皇后自らも貧窮と病を経験したことのある人のように思える。また仏教を篤信し父母の菩提を弔うために一切経律論五千余巻を筆写させ自身でも楽毅論を書写した。その他聖武天皇に勧めて諸国に国分尼寺を創建し中央に塵遮郡仏(奈良の大仏)を造立した。聖武帝の崩御後、東大寺の造営を引き継ぐとともに新薬師寺の建立を行った。粕歳の時に母を弔うため前述の興福寺西金堂を建立し阿修羅像を安置した。39歳の時に法隆寺夢殿に救世観音を安置する。聖武天皇譲位の年、40歳の時に天皇とともに行基により受戒を受ける。56歳の時に聖武天皇崩御、その翌年八皇后官職を改めて紫微中台を設置し政権を掌握した。760年4月6日、人々に慕われ惜しまれながら華麗な肌年の生涯を閉じた。

 このように光明皇后の人生を振り返ってみると、阿修羅像の右面は聖武天皇に嫁ぐ前の10代の藤原安宿嬢の顔、正面は皇子を失い人生の悲哀を味わった狐代の光明子皇太子夫人の顔、面は母を失った後、子供達を育てながら悲田院・施薬院で弱者・病者の苦しみを救おうとしている光明皇后の顔、と見ることはできないだろうか?乾漆造である阿修羅像を作った仏師は恐らく貧しく苦しい人生をおくっていた人で、当時の民衆と同じく光明皇后を女神様のようにあがめいていたに違いない。筆者は彼の理想の女性像が阿修羅像の三面の顔に込められていたのに違いないと確信する。

 しかし阿修羅像のお顔を眺めていると、底流している「悲しみ」があることに気づく。これは一体なんなのだろう?それは今また新しい謎として私の心を占めている。彼女からその答えを得るため、またいつの日にか奈良を訪れよう。

 

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長谷川泰先生略伝 後編その33

その師、その友、その後輩と医学校の発展

田中 健一(小児科田中医院) 故長尾景二

33 佐倉順天堂

 長谷川泰は文久2年(1862)下総国佐倉にある順天堂に入塾し、第2代塾長佐藤尚中に師事して、4年間にわたる洋方医の学習を開始した。順天堂には多くの秀才が全国から集っていた。ここで泰が他の秀才とともに最高峰の学問を学んだことが、後の活躍の根源になったと考えられる。

 順天堂初代は佐藤泰然である。時の佐倉藩主堀田正睦は老中を勤めた後であったが、もっとも力を入れたのは医学の奨励であった。しかも蘭方医学であった。泰然は長崎で医学を学んだ後、天保9年(1839)江戸の両国橋の袂に当たる薬研堀で医学塾を開いた後に、堀田正睦に招かれて日本初の私立病院と医学塾順天堂を始めたのは天保14年(1843)である。明治に至る20年余の間に佐渡、越後から佐倉順天堂に入門した医師18人の氏名が蒲原宏氏により記されている。

 近藤 玄洋  佐渡川原田町     堀  文哉  三島郡日越村
 長谷川 泰  古志郡福井村     佐藤 玄信  岩船郡下関村
 金子 良意  越後高田町      木村 東眠  北魚沼郡小千谷町
 大久保修平  北蒲原郡中島村    嶋津 復三  同郡 五十公野村
 嶋津 達三  同郡 五十公野村   若槻 雪江  中蒲原郡大江山村
 乾  玄治  新発田町       石坂 玄基  北魚沼郡小千谷町
 金子 大円  西蒲原郡和納村原   今井 玄秀  新津町
 時岡 春台  佐渡相川       内田  正  新潟町
 榎並 泰輔  亀田町袋津      篠田 真安  長岡町

 長谷川泰は続いて慶応二年西洋医学所に入ったが、戊辰戦争中幕府による医学所は解散となり、学生たちは身の振り方を各自考えることとなった。医学校は新政府側により「軍陣病院」となり、戦傷者の手当をし、7月「大病院」と称し明治2年には「医学校兼病院」となった。この年10月、泰は新政府に登用され、大学校少助教に任ぜられ、やがて中助教、大助教、大学東校学事監督、文部省少教授、明治5年9月には医学校長となった。

 これより先、新政府による医学所に於て、医道改正御用掛として任ぜられたのが、相良知安と岩佐純である。相良を推薦したのは肥前藩主鋼島閑叟で、岩佐を推薦したのは越前藩主松平春嶽であった。この相良も岩佐も長崎で松本良順の門下に入り、ボンベにも学び、佐倉の順天堂でも学んだ人物である。この相良、岩佐の下に働くべく長谷川泰を推薦したのが順天堂同門で、塾頭をも勤めた相良も元貞(知安の弟)であった。

 かく新体制として整えられた大学東校に明治2年12月佐藤尚中が大学大博士として迎えられて最高の教授職についた。この時大学東校教授27名中、少なくとも20名が順天堂関係者であったと云う。

 幕末医学所第3代頭取松本良順は順天堂初代佐藤泰然の第二子であり、勿論順天堂で学んでいる。

 これから見ると順天堂が東大を作ったと云っても過言ではないようである。もし順天堂がそのまま医学校としての道を歩むことが出来たら、東大ワンポイントの医学界と違った展開になったと思われる。尚中が大学東校に招かれた時、佐倉の順天堂は病院として残ったが、医学塾たることを止め、又大学を辞した後、尚中は東京で病院を開いたが、当面医学校たることは止めたのである。尚中は大学東校に行くことには中々気が進まなかったのである。

 西洋医学所第2代頭取、緒方洪庵の場合も同じことが云える。洪庵の大阪通塾からは福沢諭吉その他、近代日本の建設に各方面から寄与した多くの人材が輩出した。洪庵は文久2年病弱の身であったため、幕府奥医師、医学所頭取に招かれた時、余り乗り気でなかった。翌年54才で喀血により急死した。もしそのままその塾を存続出来れば、東京大学と並ぶ大阪の大学して成長出来たであろう。

 長崎医学校についても同様である。西洋医学所初代頭取大槻俊斎以下、2代緒方洪庵、3代松本良順始め、東京医学校長長与専斎、東京大学医学部初代綜理池田謙斎(越後南蒲原郡中之島村出身)も皆長崎で学んでいる。長崎が東大医学部を作ったのだ。

 長谷川泰は東京医学校長の後、明治7年長崎医学校長に任ぜられたことは大変名誉のことでもあったであろう。併し甚だ奇怪なことに赴任してまもなく長崎医学校は廃止になってしまった。

 国貧し大学貧し卒業す  素十

 高野素十は東大医学部を大正7年に卒業した。明治元年から丁度50年である。50年の表現としてこれ以上のものはあるまい。

 素十は茨城県山王村に生まれ、叔父の高野毅を頼って長岡に来往、長岡中学明治43年卒、一高を経て東大に進んだ。新大、奈良医大法医学教授を勤めた。俳句は虚子の唱える客観写生を守ったと云う。

 大正7年世界大戦はドイツの敗北により終了、日本は英米沸伊と並んで五大国と称せられた筈だったが。

 50年の中、初めの30年間は、東大は我が国唯一の大学であった。(つづく)

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「ご無沙汰をしております。私は今…」(その3)

荒井 奥弘 (社会保険長岡健康管理センター)

 残暑お見舞い申しあげます。

 千秋が原の一隅で、四季の動きを感じながら、毎日健診業務を行っております。近くへお越しの折には、是非お立寄り下さい。私の部屋から信濃川の土手、長岡市街、東山連峰と雄大な眺望が拡がって見えます。

 約2年前より、三島億二郎像建立について、運動をすすめております。医師会の先生方からもご寄附を頂きまことにありがとうございました。まだ目標額に達しておりませんので何卒ご支援の程よろしくお願い致します。今秋10月中に赤十字病院裏の堤に建立される予定です。誌面を借りてご案内申しあげます。

 

伊藤 本男(伊藤皮膚泌尿器科医院)

 まさにタイトル通り、ご無沙汰をしてすみません。

 昭和、昭和、昭和のこどもの僕たちはぁ〜と、ついこのあいだまで歌っていたような気がしますが、もう古稀だというのです。(何だ、そんな歌しらないなあとおっしゃる方は、お若いのです)文字通り、光陰矢の如しです。このスピードですと、残りは一瞬かもしれません。

 相変わらず痩せぎすで貧弱な身体をしていますが、お蔭様で今のところ大病もしないで、零細医院での仕事を続けておりますし、月2回程のゴルフと冬のスキーを楽しんでおります。

 スキーは私にとって相性がよく、一シーズン20日位は滑っております。うれしいことに、長岡は、スキーをやるにはとても便利なところです。最近のゲレンデは、斜度が急になると無数のコブが出来て手強くなります。そこをなんとか上手く滑りたいと夢みて頑張っているのです。私のスキーの師である元浦佐スキー学校長の平沢文雄氏が去年「先生は80まで大丈夫ですよ」と言ってくれたのを真にうけて、本当かどうか試してみるつもりです。「なんとかの冷水」になるかも知れませんが。

 

 竹山 文雄(竹山整形外科)

 50歳で開業してお蔭様で漸く15年、無事にすごすことが出来、有難く思っておるこの頃です。

 日頃の運動不足と間食のせいで、次第に体重増加や荷重関節の運動痛の出現、てっぺんの方も薄くゴマ塩となり、毎日メガネ、メガネと探し廻っておる昨今です。

 7月下旬、開業以来初めて夏休みを取らせて貰い、家内と二人で、東北六県をドライブして来ました。

 象潟の夕食がカキのオンバレードで辟易したり、青森のねぶたの絢爛豪華さに、びっくりしたりと、諸々の風物・歴史に感動しながら、全行程千数百キロ米、幸い事故もなく帰還しました。久しぶりの良き旧婚旅行となりました。以上

 

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金魚鉢では金魚は飼えない? 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「あなた、外のメダカと金魚さんにも餌をあげてくれましたか?」と家人が念を押すようにたずねた。リィーンと虫の声が聞こえ始めた秋の夕暮れ時である。

「あっ、忘れるところだったよ。いま、やるよ。」とわたし。

 水やりに使用していたホースを片づけて、庭の片隅に置いてある水鉢へ向かった。これは酒落でなく「もとは火鉢だった」水鉢である。しばらく使用されずに物置に放置されていたのを、父から数年前に貰ってきた。残っていた何十年分の灰を掻き出し洗うと、内面はきれいだった。お金のかからぬ骨董品を水鉢としたわけである。

 水鉢にフレーク状のエサを撒く。たくさんのメダカに混じり、底の方では数匹の金魚が悠然としたふうに泳いでいる。メダカは近所のTさん親子が先月、小川で補ったのを持って来てくれた。川と違い水の流れがないから、すぐに死ぬかと心配したが、丈夫なもので元気にしている。

 小さな赤い金魚もいる。これは睡蓮の鉢を沈めた水鉢に、ボウフラが湧かないよう実用的理由で放り込んであった「なみの金魚」である。

 大きめで優雅なヒレを持った2匹の金魚は「丹頂」と「オランダ獅子がしら」と言う種類で、つい最近買ったばかりである。白い体にヒレで、名前通り頭のみ赤いのが丹頂の「丸子」オレンジがかった赤い色で頭に小さな冠のついたようなのは、オランダ「さんちやん」と家人が勝手に命名した。

 さてさて桁違いに値段も高いこの2匹(比較された金魚がまた安過ぎる。何と一匹20円。)のいわば上流階級の金魚が、なぜこのような雑居房暮らしをしているかと申しますと、わけありなんですな。

 実は当初は、水槽売場で一緒に買い求めたクラシック型金魚鉢で飼い始めたのである。ガラスの昔スタイルの金魚鉢でかなり大型である。まず底砂を入れ、ついで水草を入れ、なみなみと水を入れ、そこへ小さな金魚2匹を入れたんですな。

 伝統的なガラスの金魚鉢で金魚を鑑賞する、うーん渋くて好いなあと思いましたな。

 例の曲面ガラスであるから、角度によっては大きく拡大された金魚の顔はとてもユーモラスであった。

「きんちゃんはおちょぼ口でほっべが大きくて可愛いね。」などと家人と二人で、飽きもせずにながめておったのである。

 ところがその日外出して帰ると、家人が大変だったと言う。

「しばらくして、2匹とも水面に近寄ってアップアップしだしたのよ。酸素欠乏症状だから、

あわてて水換えしちゃいました。」

 翌日も頻回に酸素不足となり、やむなく水鉢に移し替えたと言う。

「一時は腹を浮かせてひっくり返ったので、だめかなと思ったけれど、立ち直ったみたい。わたし、今日図書館で調べたら、飼育の目安はアエレーションした上で(例の空気ブクブクのことです。)40センチ水槽で2匹と書いてあったわ。」

「べらぼうだな。こんなでけえ鉢でも、ろくに金魚が飼えねえ?お江戸の音からビイドロの金魚鉢にポンプで空気泡立てたはずねえよ。」と贔屓の先代金馬(−最近またCD全集を買った)の口調で愚痴を言った。

 つい先日用足しにペット店に行くと、同じガラスの金魚鉢が並んでいた。よく見ると値段の脇に「小赤なら5、6匹、体長5センチの琉金なら2匹が目安。」と追加表示があった。なるほどね!−やはり買った客から苦情が出たんでしょうな。

 

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