長岡市医師会たより No.223 98.10

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 たまに、誤読み込みの見落としがあることと思いますが、おゆるしください。  
もくじ 
 表紙絵「秋日和」          丸岡  稔(丸岡医院)
 「松本先生を悼む」         小熊 文昭(立川綜合病院)
 「松本欣久先生を偲ぶ」       村花 準一(立川綜合病院)
 「長岡市医薬分業推進支援センターについて」
                   近藤 泰彦(長岡市薬剤師会会長)
 「山本五十六のことども〜思いつくままに」
                   江部 恒夫(江部医院)
 「町内の子供会、青年会について」  横山 博之(横山皮膚科)
 「TUR-P貴重な体験(4)」       内田 俊夫(内田医院)
 「心に残るゴルフ」         太田  裕(太田こどもクリニック)
 「山と温泉47〜その20」       古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「昔懐かしき甘柿の味」       郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

秋日和   丸岡 稔
 松本先生を悼む  小熊 文昭(立川綜合病院)

 麻酔科の松本欣久先生が亡くなられた。平成9年2月に胃の不調を訴え手術を受けたときから予測された結果であったが、私の半生でこんなに辛く悲しい報せはなかった。

 人並み勝れた技量を持ったまともな人、これが良い医者の条件である。松本先生は、この優れた医者の条件を有していた数少ない医師であった。私達は、手術と麻酔で繰り返し対話し、互いの技術の確かさを確信することができた。先生がまだ病気になる前に、自分がこの病院にいるのは、心臓外科がしっかりとしているからだと話しておられたと人伝に開いて、私は居住まいを正した。どんなに重傷な患者でも深夜の手術でも、嫌な顔一つ見せずに快く麻酔を引き受けて下さった。

 今年の1月に小康状態を得て、病院に一時復帰された。体の不調はだれの目にも明らかであり、あまりの痛々しさに声を掛けることも憚られた。先生も全てを承知で、仕事の整理に最後の時間を割かれたのだろう。2月のある日、たまたま手術場のラウンジで二人きりになったとき、いまこの人と話しておかないと二度と話す機会がないだろうと言う思いに駆られて、一言お礼を言いたくて私の方から声を掛けた。病気のことをお尋ねすると、手術をしてからの体は健康なときと全く異質のものであり、手術をしたことが良かったかどうかわからないと淡々と語っておられた。全てを覚悟している姿は神々しくさえあり、いい加減な慰めのことばを差し挟む余地もなかった。私は無言で傍らに座っていたが、私の感謝と敬愛の情はいくらか伝わったのではないかと思っている。それから数日して先生は、医師としての尊厳を保ったまま最後の入院に去って行かれた。

 私は、自分の仕事を一番たくさん見て高く評価してくれた人を失ってしまった。苦しんでいる先生に何もしてやれなかったけれど、先生の麻酔に対して何時も自分の技術のベストで答えていたことと時々ちょっと気の利いた話をして先生の気分を紛らわせていたことで、先生は私を許してくれるような気がしている。

目次に戻る


松本欣久先生を偲ぶ  村花 準一(立川綜合病院)

 去る8月乳日、立川綜合病院麻酔科医長松本欣久先生が胃癌のため逝去されました。43歳というあまりにも短い生涯でした。2度の手術を含む2年の闘病生活中、一時は回復し職場にも復帰されましたが病魔には勝てずついに臨終の日を迎えました。大変残念でなりません。

 松本先生は、立川綜合病院赴任当初より麻酔科医長として勤務されてきました。日常の麻酔業務に加えペインクリニック領域にも尽力され、神経ブロックを中心とした外来診療を推進されました。また教育にも熱心であり、数多くの医師に麻酔を指導されてきました。他科の医師達との疎通も良好であり常に頼られる存在でした。

 部下の私から見た松本先生は優しく、上品で雅量がありとても尊敬していた上司でした。私生活においてはワインをこよなく愛し、またスポーツ万能でスキーの腕前は一級という多才な人でした。今回の計報を耳にし、私自身も悲しみとともに、あれほどの才能を持つ人がいなくなったという喪失感でいっぱいです。

 あらためて故人のご冥福をお祈りいたします。



 目次に戻る


長岡市医薬分業推進支援センターについて 長岡市薬剤師会 会長 近藤泰彦

 日頃、医師会の先生方には長岡市薬剤師会の事業運営にご理解をいただき本当にありがとうございます。

 またこの度は長岡市医薬分業推進支援センター(以下支援センター)の紹介の機会をいただいて当会執行部一同大変感謝申し上げる次第です。

 この支援センターは平成9年3月に適正な医薬分業を長岡地区に定着させ効率的な地域医療に貢献することを目的として新潟県で最初に建設いたしました。

 建設に当たりましては国・新潟県・長岡市をはじめとする行政関係機関、長岡市医師会・長岡市歯科医師会・新潟県薬剤師会など多くの関係機関の方々のご指導をいただきなんとか開局にこぎつけました。

 所在地は長岡市千歳2-9-29、長岡駅から徒歩10分、南長岡駅前敷地面積191坪、建坪30坪、総2階、駐車台数20台以上、日当たり良好、なんだか不動産屋の広告みたいですね。

 一階には謝剤薬局の機能があって待合室、受付、事務室、調剤室、試験室、休憩室、入り口は車いすの方でもご利用いただけるようスロープをつけました。一階の洗面所も車いすのままでご利用いただけるようにしてあります。

 また調剤室には通常の調剤機器のほかにオートクレープ・クリーンベンチなども用意してあり町の保険薬局が器具などを高圧蒸気滅菌する場合や無菌製剤などを調剤する際に利用できるようになってます。

 2階には60人以上が入れる研修室があり会議や各種研修会などに利用することができます。

 それではハードの部分はこれくらいにして大切なソフト面について書いていくことにします。

 現在、日本薬剤師会では「かかりつけ薬局」事業をすすめています。

 この事業は地域医療のなかで保険薬局の果たす役割を明確にして服薬による疾病治療の効率化と安全性の確保に薬剤師職能をより活用していただこうという意図で行われています。

 各保険薬局では患者さん一人一人の薬歴をつけています。その薬歴にその薬局でいままでその患者さんのために調剤した薬の情報はもちろんのこと服薬状態、既往歴、アレルギーの有無(薬剤アレルギーも含めて)、家庭環境、疾病についての理解度、服薬についての認識度(薬識度)、相談事項などが記載され、それらの情報にもとづいて服薬指導が行われます。

 一人の患者さんに複数の医療機関から発行された処方せんも「かかりつけ薬局」を決めることによって一元的に管理し検索されますので重複投与を未然に防いだり、相互作用による副作用を軽減する事ができます。

 また発行医にそれらの情報をフィードバックすることによって発行医は患者さんにより親密な医療を施すことができると考えています。

 このような医薬分業を文字通り支援するのが医薬分業推進支援センターの役割なのです。

 具体的には保険薬局は全国どこの医療機関が発行した処方せんでも受け付けなければいけませんので、本当ならすべての医薬品を在庫しておかなければなりませんが、とてもそのようにはいきません。そこで必要な医薬品を必要な量だけ小分けしてくれる備蓄センター的機能がこの支援センターの大切な機能となるわけです。

 と申しましてもご存じのように医薬品の数たるや満天の星程もありますのでここでもすべてをそろえるわけにはいきません。そこで支援センターでは各保険薬局の備蓄状況をコンピューターに入力して、相互に在庫している薬剤を効率よく使用する作業を行っています。

 このことは発行医の先生方がお使いになりたい薬剤の幅を広げることができるという効果もあると思います。

 またできるだけ保険薬局のレベルを均一にし、しかも高いレベルまで引き上げるために研修・講習会などを定期的に開くのもこの支援センターの大きな役割です。今後はもう一歩進めて、薬剤師がお互いに切瑳琢磨して研鍵を重ねる研究会や勉強会的なものが数多く行われるようにしたいと考えています。

 そして地域住民にたいするPRや講習会の開催、休日・急患・夜間の処方せん応需の支援、保険薬局の在宅医療への積極的参加の支援、緊急災害時の医薬品の供給など、この支援センターが求められる機能を一つ一つきちんと形にして医師会の先生方にも存在意義を認めていただけるよう長岡市薬剤師会会員一同がんばりたいと思います。

 どうぞ、応援してください。


山本五十六のことども〜思いつくままに 江部 恒夫(江部医院) 

 ほん・じゅ〜る 毎号諸先生、殊に郡司先生の啓発的でさえあるエッセイに鷲き以上、羨ましくさえ感じながら拝読しています。医師会からの原稿用紙を机上に重苦しい責任を感じながら毎日眺めています。

 1953年以前の医者、更に呆け始めた骨董品が、生きている証拠に嫌な筆をとります。お許し下さい。文芸春秋8月号阿川弘之さんの「名をこそ惜しめ」を読み感動、山本五十六は今でも私の心の中には生きています。物資、科学とも桁違いのことは誰よりもよく知り、真剣に対米戦争には反対で「負けると決まった戦争をする馬鹿があるもんか」と日ごろ口にしていた提督が、信念と全く反対に、対英米戦の先頭に立たざるを得なくなり、短期決戦の意見、目論み悉く理解されず、早期に幕を引く機会も逸せられ、泥沼の状態の中で、最高責任者としての悩みは深かったと思います。開戦に際して秘にしたためた「述志」と題する遺書がある由、「この戦争は未曽有の大戦にしているいる曲折あるべく名を惜しみ己を潔くせむの私心ありてはとてもこの大任は、なしとげ得まじとよくよく覚悟せり」(阿川)こうして壮大な悲劇となります。

 12月8日早朝のラジオで開戦とハワイでの戦果を知りました。私は「しまった」と思わず口にしました。諸戦の勝利で日本中、殊に長岡では湧きかえり、大提灯行列が行われました。

 この新聞電報を片手に山本五十六が傍らの参謀に「フン、その連中がな今に俺の家に石投げつけにくるよ」と云ったと、阿川さんはその参謀(故人)から直接耳にした由。私は長官の心の奥をのぞいた感で憤然としました。五十年余の歳月を経た今も、今長岡市民は山本五十六を決して忘却しないと信じ、昨年柴田教授が本紙にお書きになった事が嬉しく思い出されます。

 米本土と豪州の中間にある重要なガダルカナルを昭和18年2月に2万4千余の戦没者を出し、傷病兵を抱えた1万6百余はラバウルとブーゲンビル島へ撤退。このブ島とて、救援隊をうけ入れ、制海権なく食糧難に陥入っています。ジャングルを切り開き道路を作る兵隊の主食はイモでした。ブ島は四国の半分位縦2百キロ、標高2740米のバルピ山を中心に2千米級の山脈が中央を走り周辺は空も見えぬ大木の密林、しかも雨も降らぬのに露がおちる程の高温多湿で、落葉の積もった平地に足をふみいれれば腰迄沈む湿地帯といった島でした。

 私は3年程前に目を通したのみの新潮鳩、大野芳氏の「自決」をこの度は熟読、その詳細を極めた記録から抜粋させていただきます。当時暗号電文を徹底的に米軍は解読していました。昭和18年4月18日、長官は陸軍慰問と今後の作戦計画の為、ラバウルを午前6時頃中攻機2台に反対をしりぞけ僅か6機の戦闘機を護衛に、既に準備完成ともいうべき敵機の網の中に入って行きます。ブ島のある監視所で南方海上での空中戦、エンジンが火を吹き黒煙を吐きながらジャングルに吸いこまれ黒煙をまき上げるのが見られ、2番機は海上に墜落(塔乗の宇垣参謀は救助)。当時ブ島の極く上層部のみに長官来島が知らされていたのでした。直ちに陸ち軍の捜索隊出発、翌日は海岸から海軍の舟艇隊も加わり捜索に当る。不思議にこの地帯では磁石が全く機能せず、同じ地区を廻ったり前記のジャングルにはばまれて徒に空腹疲労困臆するのみ。救護用具をのせた舟艇も権木の繁みと、狸猛の鰐を恐れて引き返します。20日、海軍偵察機に誘導されて午後1時頃漸く現場発見、衝突の激しさを示し両翼はもぎとられ、焼けこげたエンジン、機の天井にぽっかりあいた孔2個、周辺30米附近内に散乱した死体。機体から10米程の大木の根本に椅子に腰かけ、両手に純白の手袋を着け、車刀を両膝にはさみ、がっくりと軍刀の柄に下顎がつく程うなだれた無帽の死体があり、路川陸軍々医は襟章から直ちに長官と判断。丁重に清拭を行いながら徹底的に検死、部下に記録させる。蟻川軍医は長官の胸のポケットから手帖を取り出すと、最初の頁には明治天皇の御製が、次には「けふよりは かへりみなくて」と万葉集からの歌が記されていた。其後到着した海軍捜索隊に引き渡され、舟で基地に運ばれます。21日午前8時、海軍による形式的とも云える検死の後、蝉川、田劇(海軍々医)等の検案書に対して「致命傷は額からこめかみに抜けた貫通銃創にせよ」との参謀の一言で総て落着(両軍医とも後に戦死)。9時頃遺骸は奈毘にふされ、当分秘匿されます。長官の遺骨は23日トラック島で旗艦武藤におさまり、5月21日、日本に帰り同日午後3時大本営発表、22日の朝刊で「最前線で指導中、山本提督は車刀を両手に握り機上で壮烈な戦死をとげられた。」と知りました。6月6日盛大な国葬、分骨は長岡へも、そして市民哀悼の中で菩提所長輿寺におさまりました。山本神社建設、記念碑等の運動も「元帥が最も嫌なこと」と云う米内大将等の意向で中止。

 所で私は以前から考えていた機の炎上爆破はなく、しかも元帥は堂々として、墜落後機外で、自決せられたと確信、これでよかったと更に敬愛の念が高まり、何にもまきる悲劇の主であったと感銘を深くしています。

 それにしても今の日本はどうでしょうか。司馬遼太郎は敗戦直後最初に「馬鹿な国に生まれたもんだ」と思った由。昔から日本は「も」はあるが「が」がはない国だ(週刊朝日7-27)。憲法も政府も大学も美術館もありますが、美術館一つとってもお判りでしょう。又日本人は実におとなしい。政府の意のまま。その政府は諸外国の鼻息ばかり窺っています。犬猫豚羊家畜の大脳は野生のそれと較べて30%前後重量が少なく特に前頭葉が著明に減少の由。日本人での研究をしてみたいもの。

(誤記、意の通らぬ所は多発性脳動脈硬化の為と御許し下さい。)

 目次に戻る


町内の子供会、青年会について 横山 博之(横山皮膚科)

 四郎丸四丁目はドーナツ化現象のため、他の市中心部の町内と同様に、居住人口の減少(特に子供たち)、高齢化が著明です。長男が小学校に上がる際、お隣のSさんに勧誘され、町内の子供会に入りました。主な活動内容は、春秋二回のレクリエーション、廃品回収、夏のラジオ体操、お祭り、秋の校区民運動会、年末の餅搗き大会等です。直ぐに皆と馴染んで、諸行事に親子共々楽しく参加しています。そうこうするうちに、私が青年会に勧誘されました。奥様連中に言わせると、飲み会ばかりということらしいのですが、ちゃんとやるべきことはやっていて、6月、9月の二回、噴霧器を担いで、町内のアメシロ駆除(朝5時から)、8月の校区民ソフトボールに向けて6月から毎週日曜の早朝練習、子供会行事のサポートです。

 子供会、青年会の行事の中でもメインイヴェントは、8月第4土、日曜の諏訪神社大祭です。夏休みが始まると準備にかかり、千歳会(老人会)の方も含め、町内あげて盛り上がります。子供会も青年会も行事に参加の上、各々が出店しますので、両方に関係していると準備もお祭り中も大変です。今年の我が家の割り当ては玉コンニャク40袋(蜜柑箱2個分)、茹で卵30個をおでんにする事でした。お祭りの前日、深夜までかかって女房と二人で何とか下捲えをやり終えました。初日は朝6時から舞台、提灯、幟、出店の設営を手伝って、午前中診療し、午後から子供会の出店でフランクフルトを焼いたり、金魚すくいの店番、夜は青年会のピアガーデンのウェイターと大忙しでした。

 2日目は朝から四郎丸校区民ソフトボール大会に出場、初戦勝利、2回戦敗退という結果でした。一休みし、すぐに町内を回る神輿行列です。子供が少なくなったため、子供神輿は今年は出来ませんでした。大人の神輿も担ぎ手が少ないため、最初から最後まで担ぎっぱなしです。関係者の家の前やご祝儀が出される度に御神輿を操むため、町内を回る間に30回位は繰り返しました。普段の運動不足がたたって筋肉痛が残り、その後3日はゼンマイロボットのような動作が続きました。御神輿の後は、直会、ビンゴゲーム、カラオケ、盆踊りと続きました。店番がとても忙しくあっというまに9時半となり、お祭りが終了。10時すぎまで提灯や幟、出店の後片付け、舞台は翌朝6時から片付け、無事すべて終了しました。終わってすぐはもうしなくてもいいやと思いますが、しばらくすると皆が盛り上がって楽しんだことを思い出し、来年もやるぞという気になります。それに今時、世代を超えて協力して何かをやり遂げる機会は余りありませんし、並日段と違う子供の一面を見る事が出来ます。本当に疲れますが、これからも続けて参加したいと思っています。

 残る行事は四郎丸校区民運動会(町内対抗)です。今年も2種目は出場したいと思っています。頑張るぞ。

目次に戻る

TUR-P貴重な体験(4) 内田俊夫(内田医院) ※表示上の都合により、一部正確な表現ができておりません。ご了承ください。

手術の翌日から退院まで

# 朝の回診の頃までうとうとしていた。メガネを掛けていなかったので良く分らなかったが、バタバタと大きなスリッパの音をさせながら元気そうなDoctorが入って来た。「どうかね?」と云う問いに私はちょっと驚いた。色々な過程を経て昨日手術をして頂き、眠ったと云っても痛みで時々目を覚ましていた患者への朝の挨拶が大きなスリッパの音と共に聞いた「どうかね?」である。普通であれば「どうですか」とか「まだ痛みますか」あたりが普通なのだろうが・・・。Doctorは膀胱洗浄と血液で汚れたwein Penis を綺麗にして出ていった。股の間で山火事の様に燃え盛っていた痛みは、この日の夕方までに少しずつ取れて行き夕食の頃には大分楽になった。しかしあまり食欲は無くお粥を作って貰って食べたと家内は云う。

# 9日午前の回診に森下先生が来て下さった。先生は膀胱洗浄と血液で汚れたwein Penis を綺麗にする場合、決して患者の私に顔を向けるような事はなさらず、背中を患者に向けてなさる。ついでに「24mmの内視鏡が良く入りましたね」と伺うと「あれはフランスの規格で24Fの事ですが、3で割って8mmのことです。でも先生のはまだ余裕がありましたよ」と云われたので私は笑ってしまった。

 この日位になると少し腹も空く様になって病院食を食べると中々美味しかった。部屋の様子を見るだけの余裕が出てきて、例えばライトは患者の足下の上に明るいのがありこの明るさだけで患者の全身を見るだけの光量があるから、もし患者の容態に急変が起きたとすると医師及び看護婦が客易く部屋に入り処置をすることが出来ると思われた。左には夕焼けが美しい川西の景色が見える窓がある。私の目の真ん前の壁に絵が掛けてある。恐らくセザンヌの絵を印刷したものであろうが、一つの慰めになっており入院時に自宅から持ってきた本がたまたま吉田秀和の「セザンヌは何を描いたか」であったから楽しみになった。じっとこの絵を見ていると大変不思議な絵に思われたから。

# 10日は祭日。原昇先生が3人の看護婦と朝の回診に来て下さった。原先生は尿をみるなり「総麗だから抜きましょう」と云われカテーテルを抜かれた。その時膀胱に或量の生食?を入れられたらしく、私にペットの脇に立って尿をする様に透明な計量コップを手渡された。「尿の出具合が見たいから」と付け加えられた。私の正面には原先生、左脇には3人の看護婦が見ている。私は左手でwein Penisを掴み右手でコップを持ってかまえてみたけれども全然その気にならない。私は女性が3人もいるので出ないと云ったら、それなら出ていましょうと廊下に出てくれた。暫くするとシャァーと尿が勢い良く出て来たので嬉しくなって、原先生に見せたくてドアの方へ歩みかけたが尿は終わってしまった。先生は入って来て計量コップを見るなり「素晴らしい!」と云われた。尿がこんなに気持ち良く出たのは何年振りだろうか?その後やたらにトイレに行くのはきっと刺激症状だろうと思ったが、排尿の快感を思い出したので尿をする喜びの方が大きくてトイレに行くのが楽しかった。

 午後見舞客と話ししている時トイレに行きたくなったが尿が出ない。(凝血塊による尿閉?)少し気張ってみたところが下腹部から尿道にかけての猛烈な痛みでトイレから倒れるような具合にペットに横たわった。見舞客はぶったまげて跳んで帰っていった。看護婦が急いでカテーテルを持ってきて排尿させてくれたけれども、次回のトイレ行きでもまたまた同じ事が起きて走って来てくれたF看護婦から止血用バルーンカテーテル(Foley three way?)を入れて貰い助かったが、このF看護婦が子供の時私の診療所に通院していたそうで、これもまた不思議な因縁だなあと思った。

 3日間病院で心配しながら泊まってくれて疲れたであろう家内は、私が落ち着くと安心して夕方自宅に帰って行った。

 その日の夜何時になっても眼れず持って来たCDの中から Olaf Barが歌ったSchubertの歌曲Die schone MuIIerinを聴いていた。若くて優しそうなT看護婦が入ってきて血圧、脈拍など測ってくれ体温をみると38.7℃あり、後で氷枕を持って来ますと云って「先の方は汚れれていませんか?」と聞いてくれたが、自分では見ていないから分らないと云うと見ましようと云って見てくれた。glassに凝固した血液の固まりが沢山くっ付いているのを拭き綿を湿らせてゆっくりと優しく撫でながら拭き取ってくれるのだが、あまり優しくやられるとこちらは男性ですから感じて来る事になる。

 丁度さっきまで聴いていたSchubertの曲にある修行に出た若者が、水車小屋の美しい娘に恋をした様な具合になってしまって。早く終わる事をじっと我慢して待った。

 終わって出ていって暫くすると氷を砕く音が聞こえた。この音は私が子供の頃よく熱を出した時、昔の冷蔵庫の上の段から大きい固まりの氷を出して、台所でその氷を砕き、ゴム枕に入れて持ってきては私の頭の下に入れてくれたエプロン姿の母の情景を思い出させる。T看護婦が母と同じ様な事をしてくれたその氷枕の感じはまさに母の時と同じで、冷たい水のピシャピシヤした音や氷の固まりの硬い感じから母の事を思い出し、深夜の病院の静かな一室で私は泣いてしまった。

# 毎食後貰っている内服に抗生剤やOdemを取る薬の他に緩下剤も入っているようで、10日頃から午前に便通もあるようになった。でも左腕には膀胱権流液の点滴スタンドがあるし、尿道カテーテルに繋がった導尿バックをぶら下げるスタンドもあるので、二つのスタンドを引きずってトイレに行くことになるから、トイレは狭くなるが便器にはwashletも付いていて中々気持ちが良かった。昼から夕方位にはよく見舞客が来て下さって私の顔色が凄く良くなったと云って美しい花を沢山貰い、まるで花に囲まれて休んでいる様で嬉しかった。家内が夕飯を一緒に食べて帰ると独りになってしまい、夜は専らCDを聴いたり頂いた本を見たり、ぼけーと自分の皿尿が導尿バックに垂れるのを眺めながら、72年を経た自分の人生の事を思った。楽しかった事も悲しかった事も。

# Harnは大変綺麗になったので14日森下先生がカテーテルを抜いて下さった。この時先生から「組織検査の結果malignacyなものはなかった」と云われ凄く嬉しく手術をして調べて貰って本当に良かったと思いました。

 ついでに胃と大腸の検査もお願いしておいたので、scheduleに入れて下さって16日は胃カメラ、17日は大腸内視鏡検査と決まった。それぞれの日に検査がありMagenに異常は無く、大腸に内痔核(内痔核出血の為に田島健三先生のお世話になったことがあります)があるが他はOB、手術の時謝べたHerzとLungeもOBだったから伊藤本男先生が云われた様に「内田先生は酒も飲まずタバコも吸わないで一体何の病気で死ぬのかなあー」と云う事になった。

# 大腸内視鏡検査の翌朝のHarnがまた血尿で回診の時森下先生にその皿尿を見て貰った。あまり心配いらないでしょうと云うことだったが、その後の排尿で前の様に凝血塊尿閉になりいくら気張っても尿が出ないし尿道の奥の痛みが強烈で辛かった。

 原先生がとんで来て下さってまたカテーテルで尿を取ったが、次のトイレで又詰ってしまった。今度もまたFoleyを入れて貰う羽目になって、状態は振り出しに戻った。

 あとで来て下さった森下先生は「今度の尿閉や血尿の原因は昨日の大腸内視鏡検査のようです。前立腺と虹門は近い所にあるからまだ手術して日の浅い時に虹門をいじられると充血して血尿の原因になります。反省しています」とまでおっしやったけれども、私が欲張って検査をお願いしたからこのような事になったわけで、森下先生には責任は無い。

# この血尿は21日の回診の時までには治まって綺麗になりFoleyを抜いて貰うことが出来た。22日には益々縦麗になり愈々退院の話が出るようになった。看護婦の話では退院するにはテストがあり、お茶を300ml飲んで尿流量検査をしてその後カテーテルで残尿を調べる事と尿道造影があると云う。これを聞いて私は又痛い思いをするのかとがっくりした。

 ところがこれが森下先生の計らいで尿道造影はやらなくても良いし、尿流量検査後の残尿はエコーでやると決められた。ほっと胸をなでおるしたのは勿論です。23日尿流量検査の為に300mlのお茶を飲みfull tankになった所で10階から1階までエレベーター(なかなか来ないのですよねー)で降り泌尿器科外来にある尿流量計でHarnをするまでは良かったのだが、残尿をみて貰う事を外来の看護婦に云ってもDoctorが今いないからから駄目ですと云う。恐らく連絡が来ていない為だろうがいくら云っても駄目だからそのまま病室に帰った。大病院だからかこれもまたどうなっているのかなあー。

 この様に1階と10階の間を行ったり来りすると私の所の患者さんに出会う。「先生どこが悪いのですか?」「それは内緒」「何時から仕事を始めるのですか?」「うんー?」と云う会話になるので、あまり病院内を出歩かなかったから屋上のレストランも大浴場の事も知らない。

 様子を見に来られた森下先生から尿流量検査を明日もやる様な事を云われたので今日外来に行ったけれどもDoctorがいないからと云って断わられた話をすると、「ああそれで分かった。それでは明日病室で午前8:30に今日と同じだけ水を飲んで病室のトイレで尿をしてから、外来に来てもらって残尿をエコーでみましょう」と決まった。24日外来で残尿をエコーで見て貰い9mlで問題無いですと云われ、25日の退院も決まって本当に嬉しかった。退院の印ま小池宏先生の回診の後、お許しが出た。

 終ってみれば短くて、あの悲しんだ事が全く渡の様で、無事に家に帰ることが出来てこれ程嬉しいことはありませんでした。日赤病院泌尿器科の森下先生をはじめとする諸先生方や看護婦さん達、事務の方から掃除のおばさんに至る迄生涯忘れられない程のお世話をして頂き有難うございました。(つづく)

 目次に戻る


心に残るゴルフ 太田 裕(太田こどもクリニック) 

 今回、パートナーとダブルベリアという幸運に恵まれ、平成10年度医師会会員ゴルフ大会で優勝することができました。パートナーの皆さんありがとうございました。優勝の弁ということですが、ゴルフの思い出でこれに替えたいと思います。

「フォレストを避ける小児科」

 約20年前、小児科医局始まって以来の最初のコンペ。各自、真新しいクラブを引っさげ、付け焼き刃の練習を重ね、自信満々で望む。結果は、プレー時間がハーフ4時間を越え、ゴルフ場より次回はちょっと・・・と云われ、その約束を今でも律儀に守っている。

「真空切り」

 その数年後の話。紫雲ゴルフ場にて朝一番のスタート。堺杯(小児科医局コンペ)の第一組のオーナーのティーショット。第一打空振り、一同大爆笑。第二打空振り、続く第三打、真空切り、そしてボールが転げ落ちる、みんな真剣な顔。第四打、ボールが前へ飛ぶ、どっと歓声が沸く。このコンペのその後を予感させる出来事でしたが、キャディさんの教育よろしく無事進行。

「池ポチャ」

 歴史ある県の小児科コンペでの一幕。紫雲ゴルフ場の池越えショートホール。0氏のティーショットが池の手前へ。池を越えるとすぐグリーン。第二打ポチャ、四打目ボチャ、六打目ボチャ、「すいません、池の向こう側にドロップして打ってもらえますか」キャディきんの言葉にだれの反対もなし。コンペでルールが変更になったのはこの時が最初で最後。

「イップスにならない方法」

「このバットが外れても死にやしない」と自分に言い聞かせて力ップめがけて強めにヒット。プレッシャーがかかるどんな場面にもこの殺し文句が大いに役立つ。

「走馬燈の・場面

 0氏との厳烈な戦い。一打リードで迎えた最終18番。ティーショットは私がフェアウェイ真ん中、0氏は左のラフ。私の第二打は砲台グリーンを捉え、急いでグリーン上へ。カップまで5m、勝利を確信して相手の二打を待つ。100ヤード先のラフより放たれた打球は、期待に反し、グリーンヘオン、そしてカップへ向かって転がり、旗竿にガシャ、旗竿とカップに挟まりカップインしないままご主人様を待つ、実によくできたボールである。最後の土壇場で絵に描いたような逆転劇、開いた口が塞がらないとはまさにこの場面でしょう。0氏日く「死の間際に、この場面が走馬燈のごとく出てくるんだろうな」

 目次に戻る

山と温泉47〜その20 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 苗場山塊への入山起点は、信濃川に沿って走る国道118号線、魚野川に沿って走る国道17号線になります。地図を見るとお分かりになりますが、苗場山を挟んで西に信濃川(長野県内:千曲川)、東に魚野川が北流しています。更に、この二つの川の内側に、西に中津川、東に清津川が北流、下流で信濃川に合流します。苗場山登山は、中津川、清律川を渉り、支流の沢から尾根、そして山頂に達する事になります。苗場山への登山道(登略)は旧くから苗場信仰登拝路として踏まれ、足跡として残っています。其の一つは、現在の南魚沼郡湯沢町三俣、国道17号線東側に社殿のある伊米神社手前より、清津川を渉り、大島集落を経て南行し入山する登路。これは、大島集落のはずれで、現在の車道を右折する標高627米付近から右の山腹を約200米真っすぐに登る、鉢巻峠の登りから始まる。現在は余り利用されていませんが、旧くから「鉢巻峠の胸突八丁」と言われ、私も、戦後初めての入山の時は、同行者と「こんな山は来るもんじゃない」と言い合いました程の急登。鉢巻峠からは、外ノ川に沿って登りト祓川で身を清め、現在の登路とほぼ同じ路を、下ノ芝、上ノ芝から神楽ガ峰、そして山頂の奥社と信仰登拝路は残っています。もう一つの登拝路は、藤島玄氏の「越後の山旅」に次のような記載がある。『出日の苗場信仰登拝路を辿ってみよう。旅日記は、十日町を出て、清津川の倉俣村から釜川に沿い、田代村より七つ釜探勝に往復して釜川を渡り、大場より津南高原の谷上(664米)へ出る。中津川の秋成へ下り、身玉不動を参詣して戻り、南へ笹葉峰の東肩から緩登を続け、小松原の下ノ代へ出る。上ノ代から日蔭山を経て三俣登拝路に接続し神楽ガ峰より苗場山頂に出た。』これを現在の路に見ると次のようになります。十日町市から国道117号線で中里村田沢の先、清津橋を渡り左折、南行、田代村から左下に釜川を見ながら小松原林道を進むと大場集落に出ます。又、津南町からグリーンピア津南を経て、さらに奥へ、南に向うと、グリーンピア津南スキー場に達し、この下が大場集落になります。スキー場の西側に笹葉蜂964米があります。ここから東南に広がる台地は津南高原で、北端を谷上と呼んでいたようです。(現在のグリーンピア津南の処)笹葉峰を西側に越えると、身玉不動尊の身玉に出ます。身玉不動尊は、旧くから眼病の不動様と呼ばれ、寺山内に「眼ぐすりの木」等が売られています。参詣者が多いので有名です。この旅日記は、笹葉峰を越えて身玉不動尊を参詣しています。現在その道はみられない。しかし、「笹葉峰の東肩から緩登を続け」とあるのは現在も残って居る筈ですが、開発により、寸断されてしまっています。昭和十年刊行された中村謙著「上越の山と渓」に、『大場への岐路から一時間ほどで再び右に小径が岐れている。これも大場に通ずる径で、所平から田代方面へ出るにはこの径を通った方がよいと言う』と、記載されているのをみると、敗戦前迄は残っていたものだろうと考え、近々現地調査に入ってみます。下ノ田代(下ノ屋敷)からは、日蔭山(三ノ山1860米)・釜ガ峰・霧ノ塔稿ノ塔1994米)・雁ガ峰(2010米?・神楽ガ蜂(2029米)に達するのはほぼ同じですが、日蔭山から雁ガ蜂迄の旧登路は、現在の山頂稜線の登路ではなく、稜線の西側を捲いてあったと言います。雁ガ蜂はピークが二つあって、国土地理院の地図には名称が無いのですが、郡界尾根上の突起がそうであると思われます。「越後の山旅」に『地図の雁ガ蜂は下の雁ガ峰が至当である』と記載されているので、これに従いたい。もう一つのピークは、三角点のある1921米の突起ではないか?。余談です。

 苗場信仰がある秋山郷で、長野県側での、旧くからの登拝路は、小赤沢、和山、上ノ原集落、飢鐘により廃壇となった集落等からあったものと思われます。「北越雪譜・秋山紀行」にもみられます。現在の上ノ原・和山コースか小赤沢コースのいずれではなかったかと思います。木暮理太郎氏の著書『山の憶ひで』上巻(昭和13年刊行)のなかの「三国山と苗場山」の項に、次のような一文がある。

 「岸田場登山の希望を話して相談すると、二、三年前に林道が造られたので、湯治に来た女衆でも下駄履きで厩幅傘をさして、此処から日帰りに参詣して来ると聞いて、少し張合ひも抜けたが安心もした。云々」。この文章は氏が昭和6年、雑誌「婦人の友」に、書かれたものです。氏の苗場山登行は、大正末期(大正13年か?)上越南線、現上越線が、沼田迄開通後の6月初旬のようです。沼田より、法師温泉に到り、三園山に登り、赤湯温泉に入っています。赤湯温泉で、前記の話しを宿人に聞き、翌日、清津川徒渉、赤倉山を経て苗場山頂を往復しているようで、赤倉山迄は2時間半で登ったとあります。当時は、赤湯から苗場山頂への登路は、赤倉山1938米経由で、現在の昌次新道は昭和15年伐開ですので、時間のかかる廻り道であったのです。それにしても、ゲタバキ、日帰りする女衆とは、どうでしょうか。苗場信仰は、人々に多くの幸をもたらしたものでしょうか。



 目次に戻る

   
昔懐かしき甘柿の味 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「きょうは絶好の柿もぎ日和ね。」

「おう、そうだね。昨夜の雨降りが嘘のような秋晴れだね。」

 二週間ほど前に家人が耳寄りな話を聞いてきた。家人が通う書道塾のN先生が、庭の柿の木が高過ぎて実が取れぬとこぼした。高枝切りばさみを使えば良いと家人が言うと、自分は持っていないし、借りても使えないから、いっそ柿の実をもいで行って欲しいと言う。ちなみにN先生はご近所の未亡人なのであるが、犬好きと園芸が共通の趣味で、お付き合いいただいている。

「好きなだけ取って行ってとおっしゃっていたのよ。あなたが食べたがっている甘柿ですって。」

「こどもの頃よく食べたからね。二年前植えた我が家の「次郎柿」の木も「柿八年」と言うから、もう数年待たないとだめだしね。」

 さっそく翌朝、N家の庭をのぞくと、大きな柿の木にたくさんの美がなっていた。まだ熱していず、収穫は待ったほうがいいと思った。その後は散歩途中に、N家の柿を持ち主以上の熱心さで、チェックしていたわれわれ夫婦であった。そして一昨日、朝の散歩途中で、わたしたちは驚きの声を上げた。

「まあ熟した柿があちこちカラスにつつかれちゃっているわ!」

「もはや待てないね。明後日に柿もぎを決行しよう。」

「了解。」

 というようなわけで、柿もぎの当日である。まずは日課の犬たちとのお散歩でN先生宅に立ち寄り、飼い犬のトムくんと遊んでもらう。窓からN先生が顔を出され朝のご挨拶。

「先生、後で柿取りに参ります。」

「はい、どうぞ、どうぞ。」

 家に戻ったわたしは収穫した柿を入れる大きなかごを持ち、家人に「さあ行こうぜ。」と声をかけた。

「えっ、そんな大きなかごを持って行くの?小さい方のでいいわよ。」

 通販で買った高枝切りはさみを伝家の宝刀の如く持ち、出発した。

「おじゃましまーす。」小さな声で「出張柿取り職人で1す。」

 届かぬ柿の実は小枝ごと切りおよそ半分ほど収穫した。

「まだ青っぽいのはどうする?」とわたしは迷って相談した。家人日く「取って置いておくと熟すわよ。他の果実もそうですもの。でも柿の木自身のため一個だけ残せって、言い伝えがあるそうよ。」

「オーケー。」

 もぎ終えた十数個の柿を家人が分け、われわれは小さなかご、N先生には大きなかごの分を残した。

 そこへN先生が顔を出された。「ごくろうさまでした。もっとたくさんお持ちくださいませ。」

「N先生、熟していないものも置いておくと甘くなりますよね?」と今更のようだが、家人が質問した。

「ええ、甘くなります。でも水っぽい感じになるのね。わたしは硬めでシャキっとした柿が好きですよ。」

 あれ…わたしは知らなかったが、先生は柿が好きなのである。

 ふたりでポケットまで柿であふれさせて歩いた帰り道。

「N先生は柿がお好きだから、あまり貰っちゃ悪いときみは遠慮したんだね?」と尋ねるわたし。

「あれ、言わなかったっけ?N先生は柿が大好きなんですって。」

「てっきり柿に全然興味がなくて、ほんとにみんな貰っていいのかと勘違いしていたよ。」

 家に戻り食卓にのった柿はけっこうゴマが入った色合いであった。日頃買って食べる甘い渋抜きした柿とは違った風味で、硬くほんのり甘く懐かしい味がした。

 目次に戻る