長岡市医師会たより No.224 98.11

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 たまに、誤読み込みの見落としがあることと思いますが、おゆるしください。  
もくじ 
 表紙絵「中央図書館のポプラ」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「マレーシアの結婚式」       木村 嶺子(木村医院)
 「TUR-P貴重な体験(5)」       内田 俊夫(内田医院)
 「落ち葉焚きとお風呂」       郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

中央図書館のポプラ   丸岡 稔
マレーシアの結婚式 木村 嶺子(木村医院)

 昨年の晩秋のある日、とても良い香りのピンクの封筒が届いた。

 いったい誰から?

 中に、ピンクのカードが入っているが、私には読めない文字が並んでいる。便筆の隅っこに「結婚式の日に会いましょう。」という日本文字があるのに気付いた。

 マレーシアの留学生だったA君(長岡技科大卒)から私に届いた結婚式への招待状だった。留学生にたのんで解読してもらったら、結婚式は12月7日、首都のクアラルンプールから車で約2時間離れた田舎町であるという。前日の12月6日には花嫁さん宅で披露宴、そして当日は花婿宅での式というではないか。

 師走の忙しい時期に、行けるわけないと思ったけれど、いつもニコニコしていたA君の顔が目の前にチラつく。数日考えた末、思い切って行く事に決めた。

 初めてのマレーシア行きであり、添乗員なしの個人旅行である。心細かった。国際電話とFAXを使っての連絡で、昔の留学生だったB君が日本人の奥さんを伴って空港まで迎えに来てくれる事になり、ほっとした。

 自分の国にもどっている留学生たちの顔は、自信に満ちていて堂々としており、とても頼もしい。長岡に居た時は、色々と世話を焼いていたのに、立場が逆になってしまった。

 年とった親が息子達に案内されて旅行に連れて行ってもらう…… そんな錯覚に陥ってしまった。

 田舎の結婚式は、村中の人が集まってきて、まるでお祭の様な騒ぎであった。私のために近くのホテルが予約されていたが、花婿に送り迎えさせるのも気の毒なので、彼の家に日本のお母さんといった顔で泊まり込んでしまった。

 招待客の数は、200人〜200人いやもっと多いかもしれないが正確にはわからないのである。だから日本からの客が一人や二人増えたところで影響しない。日本の型にはまった結婚式と随分違うスケールの大きさである。

 式の前日、村の人たちがお手伝いに集まって来ていた。庭先の大きな鍋で何百個ものゆで卵が作られ、いため物に使う人参が山に積まれ、豆入りのカレーを煮ている人は、背丈ほどのシャモジで大鍋をかきまわしている。これらは、お祝いに来た村人たちにふるまうお料理の準備であり、客人のために牛一頭を使うのだという。引出物として手渡すための小さな紙袋に、お菓子を数ケづつ入れる作業は、私も手伝う事ができ嬉しかった。

 庭には大きなテントが2つ張られレンタルのテーブルと椅子が何十個も並べられている。

 披露宴の会場へは、手にプレゼントを携えた人が次から次へと訪れ、新婚カップルにお祝いを述べた後、テーブルに腰をおるして用意された料理を食べて帰るのだが、夕方まで続いていた。

 夜九時過ぎにやっと家族だけになった頃、プレゼントを一つ一つ開けてメッセージを読んで楽しんでいたがその数の多さにびっくりしてしまった。家族だけと言えば、ほんの一握りの人数と思われそうだが、兄弟姉妹が多いので、とり囲んだ人数も三十人以上といったところだろうか。

 A君の願いで、最後に花嫁さんに日本の着物を着せてやる事になった。彼女に着せたいと、以前日本から買って帰った品々ではあったが、帯あげ、帯じめなどの小物は見あたらない。何とか工夫して、日本娘?に仕立てあげ記念写真を撮るところまでこぎ着けたが、暑い国で冷汗をびっしょりかいてしまった。

 大がかりな結婚式の翌朝、花嫁きんが一人で、たらいの前にしゃがみこんで、山積の洗濯物を手で洗っていた。思わず「どうして洗濯機を使わないの?」と聞いてしまった。

 隣では、洗濯機も回っているのだがどうもそれでは間に合わない様で、女の仕事として当然といった顔で黙々とやっているのである。

 彼女は、大学卒でクアラルンプール市内で設計の仕事をしているという事であったが、田舎における女性の立場・嫁の地位を垣間見てしまったようで、胸にせまる物があった。

 この新婚の二人に、この秋赤ちゃんが誕生しているはずである。

 男の子だったろうか?それとも女の子だったのだろうか?

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TUR-P貴重な体験(5) 内田俊夫(内田医院) ※表示上の都合により、一部正確な表現ができておりません。ご了承ください。

退院後の事

 退院当初、家にいるとあれこれしたい事がありましたが、Dammgegendを圧迫していると痛くなるし、椅子に座っていて立ち上がる時、椅子の縁でこの部分を圧迫するから嫌な痛みが加わるし、長い距離を歩いたりすると股間が熱くなったり痛くなったりして血尿がでたので結局横になっていることが多かった。排尿の具合は尿線が太くなり頼もしくなったけれども、瀕尿で遷延性排尿があり、排尿痛が加わり、夜間も2回はトイレに行くし手術前とあまり変化が無い様な排尿刺激症状が相当長い期間続きました。

 尿道内部がどうなっているのかなあと大分悩んで森下先生にお願いして11月末内視鏡で診て頂きました。この内視鏡の検査を受ける時もあらかじめ痛み止めの坐薬を使用して下さって、モニターを見ながら色々説明して下さった。

 切り取られた前立腺の所を内視鏡の光線が照らすと非常に滑らかで、浮腫も無く充血も見られず大変綺麗で私は安心しました。確かに前立腺と共に尿道粘膜も切り取って縫合した訳では無いのだから自然に粘膜が出来る迄40日位は掛ると伊藤本男先生も云われるし、

[TURP後の70%の思考で6ケ月以内に頻尿、尿意切迫感、夜間頻尿などの排尿刺激症状は消失する]と「レジデントのための泌尿器科学」に出ていたから、前立腺切除術後の排尿刺激症状は治癒の過程では避けて通れないものだし、自覚症状が正常になるには随分時間が必要である事が次第に分かって来ました。

 私の場合6ケ月経った今は遷延性排尿はまだあり、スタート時の排尿痛やPenis根部のDruckschmerzやDammgegendの圧迫感もまだ多少残っていますが、尿線が太くなりそれ程の頻尿ではなくなり(入院時のように正確に調べれば頻尿ではないかも)夜間頻尿はゼロに近くなってきましたから凄く良くなって来ました。

 もっと時間が経てば全て解消するでしょうが、「レジデントのための泌尿器科学」に[いかなる前立腺手術でも術後外科的被膜中に固有前立腺を残し、患者が癌になる可能性があることを銘記すべきである]とありましたから、私は生涯にわたり時々日赤病院に伺って森下先生から血液と尿の検査など診察して頂く積りでいます。

 2〜3カ月前にE‐mailで友人から「その0pe.をすると女性になるって本当?」と云ってきたので、さてそれではと実行してみたところ本当に ‘retrograde ejaculation’であって“Tissue paper was unnecesaary”だったと知らせたら「良かったですね。万歳」なるmailを送ってきました。それでも私はまだ心を開いて万歳を叫ぶ気持にはなりません。尿線は逞しくなり、夜間頻尿が無くなっても「歓喜によせる」を歌う気持にはならないのです。それは前に書いた様な排尿刺激症状が続いている為ばかりではなくて、TUR‐Pと云う0pe.につきまとう哀愁や寂しさから離れられない為のように思います。人生の終蔦に近くなって受ける0pe.のためかも知れませんし、wein liebliches Kindとも永遠に別れた様な気持のためかも知れません。今の心にふさわしい音楽と云えば明るく賑やかで楽しい曲ではなくて、まだ30歳で青春の残照のうちにあったSchubertが死の年に作曲した毅りのきわだつPiano Snataの旋律美だけのように思われます。

 それだから前立腺肥大症は病気ではないとか、手術はAppe.と同じだから心配ないとか、術後翌日には食事も歩行もOKとか巷のTUR‐Pに対する評価が‘簡単’の一語であるのはあまりにも雑で悲しく思うのです。先日もあるDoctorからの電話で私がTUR‐Pをした話をするとげらげら笑ってまあ年ですなとか、大した事ないですなあはは!で終った。Doctorでさえこんな状態で、エッチな話の一つとして話題を提供するだけで患者の気持など全く考えて頂けないのは大変残念な事です。

あとがき

 今年の3月気温が大変低く晴れたある朝、緑町から診療所のある渡里町まで歩きましたが、その時は一面霧に包まれて水道タンクも長生橋も全く見えない程でした。

 なかなか美しいこの風景の左側に、霧が立ちこめる中から頭だけだして費えている日赤病院がありました。凄く懐かしく思い、いまし件んで眺めました。私がいた10・B階の1054室にはどんな病気の人が入院しているのかなあと思いながら。

 あの建物で手術を受けた私は日赤病院全体が毎日躍動しているような印象を持ちました。諸先生方や看護婦さん達が昼夜を厭わず真剣に働いておられる様子を目の当たりにして本当に頭が下がり心うたれる思いでした。

 3週間近く患者になった私は、有名な神学者兼哲学者兼オルガン奏者兼医師であるシュヴァイツァーが「我が生活と思想より」の中で「奉仕の路が結局いずれに達するにせよ愛の宗教の意図を最もよく全面的に可能ならしむるものは、ただ医学の知識を以てしてであった」(訳者:竹山道雄)と云うのは真実であったと思いました。

 病苦を背負った患者さん達が望んでいるのは慰めや優しさに流れた医学でありつまりは滋愛に満ちた心である様に私にも思われました。

御礼:この文を作成するにあたって日赤泌尿器科部長森下英夫先生のお世話になりました。先生のコメントを共に掲載させて頂く方が私の不明な部分が明快になって読者にはよりはっきりと分かって頂けると思っていましたが、先生は何度も遠慮したいと申されるので、残念ながらこの文章には加えない事に致しました。心からお礼申し上げます。有難うございました。

追記:この文章を作成中にお隣の元日赤病院院長和田寛治先生の訃報に接しました。私の術後何日か後に、私を見舞って下さった和田先生は点滴のスタンドを手に持って、にっこり笑ってべロを出され、あどけない子供の様な顔をして入ってこられました。退院の前日8階の廊下でお会いして、別れ際に「先生に尿失禁あるの?」と聞かれ、ありませんと答えるとそれは良かったと云って、内科医のお嬢さんと一緒にスタンドを引っ張りながら廊下を歩いて行かれました。その後姿は今でも忘れられません。どうか快方に向かって欲しいと願っておりましただけに誠に残念です。

 日赤病院で大変お世話になった御礼を申し上げると共に先生の御冥福を心よりお祈り申し上げる次第です。

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落ち葉焚きとお風呂 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 庭の木々も葉が紅や黄色に色替わりしたと思ったら、風で次々と舞い散るようになった。周囲は住宅地であるから、落ち葉を掃除しなくてはならない。近所の道路にあるのは百%我が家の欅などの落葉広葉樹の落ち葉なのである。毎朝家人がその落ち葉を竹箒で掃き寄せては庭の片隅に置いたのが、「塵も積もれば山になる」のことわざどおり、いつの間にかうずたかく積まれている。

 ある日曜日の朝、それを見たわたしは家人に提案した。

「今日はお天気がよいから、夕方に焚き火をして、焼き芋をこしらえようよ。」

「いいわね。じやわたしはサツマイモを買って置くわね。」

 ところで仲間とキャンプに行っていた頃から、家人もわたし同様に焚き火が好きなことがわかった。わたしがいつも火付け係りを担当していると、他の炊事番が担当であっても、隣にやってきては焚き火の手伝いをしていた。最初はただの「夫婦仲良きかな」と思っていたが、そのうち家人ひとりでも焚き火をするので、たんに「火遊び」が好きな女性なのだと悟った。

 わたし自身も、たとえば夕暮れどきに木が燃える匂いがただようと、もとが田舎育ちであるから、幼い日の夕鋼の支度やお風呂の焚き付けの遠い記憶がよみがえり、郷愁とでも呼ぶべき感情がやるせなく沸いてくる気がする。

「よーし、暗くなってきたし、そろそろ焚き火しようか。」

「落ち葉の乾き具合はまずまずよ。わたしが剪定して落とした小枝も相当乾燥しているからいっしょに燃やしちゃいましょうよ。」

「じゃ、まずは火付け好きの"八百屋お七さん"からどうぞ。」

「いやね、何言ってんの。段ボールから火を付けていきましょ。」

「T町広しといえども庭で焚き火している人は見かけないなあ。昔はさあ、ダイオキシンなんてうるさい事も言わなかったし、よくゴミなんかも燃やしたけどね。」

「わたしたちだけが田舎育ちってことかしら。」

 てなわけで焚き火好きな似たもの夫婦のふたりは、盛大に煙を立ち昇らせながら庭の一角で落ち葉焚きをした。途中でよい爛火になった火加減を見て、アルミホイルでくるんだお芋を二個放り込んでおいた。この後はじっくりと蒸し焼きになっていくであろう。夕食を食べ終わりテレビでも見て、夜のおやつが欲しくなった頃に、燃え切った焚き火の灰の中からまだ暖かい焼き芋を取り出してという計画なのだ。

 すっかり衣類や頭が漁されて煙り臭くなった。そそくさとお風呂に入った。着替えながら家人に教える。

「この前買っておいてくれた新しい入浴剤、使ってみたんだけどなかなか好い香りだった。」

「どれどれ、ああこのT社の日本の名湯シリーズね、へえー、"三朝"と書いて"みさき"と読むのね。わたしはいつもの乳白色の"蝦夷の湯"が好きだけど、これは緑白色ね。」

 しばらくしてお湯から上がってきた家人はなぜか笑いながら言った。

「あなた、まさかあのお湯を飲まなかったでしょうね?」

「もちろん飲まないけど、どうしてさ?」

「あなたがあの入浴剤が気に入ったわけが、よーくわかったからよ。」

「どういう意味?」

「だってあなたの好きなインチキメロンソーダそっくりの色と香りのお風呂なんですもの。」

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