長岡市医師会たより No.228 99.3

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もくじ ※校正版掲載の一部は次号掲載となりました。
 表紙絵 「早春〜川口あたり」     丸岡  稔(丸岡医院)
 「開業2年目を迎えて」        加納 昭彦(加納耳鼻咽喉科医院)
 「第一期介護支援専門員となって」   福本 一朗(長岡科学技術大学)
 「太陽がいっぱい」          明石冨士子(明石医院)
 「アルコール依存症を説得する方法」  中垣内正和(県立療養所悠久荘)
 「パパイヤの木を育てる」       郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

早春〜川口辺り  丸岡 稔(丸岡医院)
開業2年目を迎えて  加納 昭彦(加納耳鼻咽喉科医院)

1.初めに

 早いもので父が他界し、医院を継承して1年半になろうとしています。父の葬儀の際は、皆様に御会葬いただき誠に有り縫うございました。私も開業2年目を無事に迎えられホッとしております。

 開業以前は東京の大学病院で勤務医をしており、開業については漠然と考えてはいたものの、具体的な開業プランなどは全く持っていませんでした。父が亡くなる1ヵ月前に末期の膵臓癌と知り、それから開業医となる事を考え始め、とは言っても先輩などから開業についての知識を集める事などほとんどできず、準備といえば医局をスムースにやめて、なるべく早期に医院を再開する事ぐらいしかできませんでした。恥ずかしい話ですが、当初医院内に大学では見たことのない医療器械が置いてあり、看護婦さんから使用状況を聞いたり、メーカーから文献を取り寄せたり、非常にあわてた事などがありました。

2.プロフィール

 長岡市医師会の皆様は、私が新大出身ではないこともあり、あまり御存じないと思いますので、紙面を借りて自己紹介をさせていただきます。

 私は、昭和40年に直江津で生まれ、3歳で長岡に引っ趣し、以後高校卒業まで長岡で生活していました。小、中学時代はクラブ活動で野球部に所属していたため、今でもプレー、観戦ともに大好きで機会があれば楽しんでいます。長岡高校では、応援団、演劇部に所属していました。また、ドラムを少々やっておりバンドを組んで、同級生で内科の市川健太郎先生と文化祭のステージに立ったこともありました。高校卒業後は、東京の両国予備校で苦しい1年間の浪人生活を終え、昭和60年に順天堂大学医学部へ入学しました。大学では、スキー部に所属しており、スキーは今でも趣味としてやっています。大学卒業後は、そのまま順天堂大学耳算咽喉科学教室に入局し、お茶の水の病院の他に、浦安病院、伊豆長岡病院、趣谷市立病院などの勤務を経験しました。大学では、めまいの研究班にいましたが、十分な研究もできないまま開業となりました。

3.開業医生活

 開業当初、午前中順天堂大学で外来をやり、新幹線で帰宅後、医院で午後の外来をする生活が2週間程ありました。しかし、平成9年11月からはフルタイムで医院での診療を行うことができました。現在は、順天堂からは足が遠のき、医局行事に時々顔を出す程度です。かえって新大耳鼻咽喉科の会などに参加する機会が多く、新大の先生方からは、学術面から医院運営の相談まで色々と面倒を見ていただいて、大変感激しています。私が開業2年目を無事に迎えられたのも、こうした皆様のご助力があったためと思います。父が新大出身のためかも知れませんが、新大の気風は他の大学の者も快く受け入れる、良い気風である様に感じました。開業当初は、ただがむしゃらに仕事をしていれば良かったのですが、1年以上経過してみると仕事に対するやり甲斐や、仕事を続ける意欲を維持することが予想外に難しいことと感じました。まだ1年半ほどの開業でそんな事を言ってと怒られそうですが、自ら新しい知識を取り込んだり、積極的に新たな試みをしないと、毎日の単調さに気分が落ち込みそうになることがあります。ただ、これから何十年もこの地で医療を行い、同じ患者さんをずっと診察し、さらにその家族まで含めて診療する状況は、ある意味デ大学での診療とは違い、患者さんから信頼を得られれば非常にやり甲斐のある仕事であると、徐々にですが感じるようになりました。

 仕事以外は、趣味としてはアベレージ110前後のゴルフがあります。あまり熱心に練習しないためか、ここ5、6年同じようなスコアです。普段の診療後は、今はもっぱらトレーニングジムに通って、開業後増えた4キロの体重を落とそうと懸命にトレーニングをしています。1年前に入った英会話学校は、今はほとんどさぼっている状態です。

4、おわりに

 思いつくままに、自己紹介と最近の状況を書かせていただきましたが、乱文申し訳ありません。まだまだ研鑽をつまねぱならない若輩でありますので、今後ともご指導よろしくお願い致します。

 

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第一期介護支援専門員となって 福本 一朗(長岡科学技術大学)

 紀元2000年4月1日から施行される介護保険法の担い手を養成するために昨年198年9月20日に行われた介護支援専門員実務研修受講試験には全国で22万人の受験者があったという。これだけの数の一般人が新しい法律を学び受験したというのはおそらく人類史上始まって以来といえるであろう。受験資格は介護福祉士・社会福祉士・看護婦・保健婦・薬剤師・理学療法士・作業療法士・生活指導員その他介護に携わってきた職種の人々が主であるが、医師も付け足しのようにその中に含まれている。筆者もその一人として受験させていただいたが、本格的に勉強したのはわずかに2週間だけで、その間厚生省から指定されたテキスト2巻計700ページと市販の参考書2冊を読み、長岡西病院のワーカーさんからいただいた予想問題と市販の問題集2冊合わせて1000題を解いただけの全くの付け焼き刃であった。幸い筆者がスウェーデンで受けた医学教育には介護知識と技術が豊富に含まれていたために、受験勉強で新しく勉強しなければならなかった知識は「介護保険法と介護保険システム」に関することだけであった。試験当日は9時に試験会場の厚生会館に到着。試験会場の厚生会館2階大ホールは大入満員で、医師46名は会場後部に押し込められて受験した。9時半からガイダンス、10時試験開始。回答方法は4者択一のマークシートであり、問題はその殆どが予想問題類似の問題で一読して答えがわかるものばかりであった。そのため試験時間80分のうち退出可能時間の60分経過の時点で退出第一号となって会場を出た。11月20日に介護支援専門員試験合格証が送られてきた。驚いたことに志願者が多すぎて筆者のような医師は後回しだと言われていた実務研修にも参加許可がおりていて、前期研修は12月9日水曜日から11日金曜日までの3日間、高齢者センターけさじろに行くことになった。前期研修の参加者は99名でそのうち医師は3名だけ。他は看護婦・保健婦・介護福祉士・社会福祉士・生活指導員・薬剤師・理学療法士・ホームヘルパーそれに無資格のおばさん達も多かった。今回の第1回試験には新潟県で約3800名が受験したうち半数の約1900名が合格して、今年度研修を受講できるのは1100名だけという。53%という合格率は広島・京都・福井に次ぐ全国第4位であったそうだ。ちなみに医師だけの合格率は約70%とのこと。三日間缶詰で9時半から午後4時半過ぎまで終日講義と実技練習が続いた。正月休み中の宿題として介譲支援計画作成が課されたが、患者さんにとって何の利益にもならずただ負担となるだけであるため実際の患者さんをモデルとすることは忍びず、結局郷里で独り暮らしをしている母を要支援独居老人のモデルとして介護支援計画を作成し郵送で県福祉課に提出した。後期研修は1999年1月20日から3日間、やはり高齢者センターけさじろで行われた。前期と同じく9時半から16時半まで講義とグループ演習。筆者達のグループの指導者である糸魚川保健所西脇所長の指導の下、ケアブラン作成演習等を行い、模擬認定審査委員会もグループに分かれて実施して結構面白かった。最終日には県の御役人が来て受講者一人一人に修了証明書を手渡した。筆者のいただいた修了証には次の様に記載されていた。「修了証明書第00185号 上記の者は、介護支援専門員に関する省令(平成10年4月10日厚生省令第53号)附則第2項に該当する介護支援専門員実務研修を修了したことを証します。平成11年1月22日 新潟県知事平山征夫」

 最後に提出したアンケートに実務研修を妥議した感想を次のように記載しておいた。

(1)介護保険法の本質は福祉医療費の削減であることは否めない。介護支援専門員の課題は、「同法を人間的に運用することにより本当に我が国の高齢者の幸せのために尽くすことである」と考える。実際、アセスメントの段階から介護支援専門員の考え方次第で入力データが異なり要介護度が大きく左右される。介該保険システムではコンピュータの判定自体が総体的に辛めに判定されるようになっている上、一旦認められた要介護度以下のケアに設定することは可能であるが、許可された以上に設定することは非常に困難であることを考えると介護支援専門員は常に「疑わしきは患者の利益に」と考える習慣を身に付けることが適切なのではないか。

(2)患者の心身の状態を最も適切に把握している医師の役割は、認定・介護計画作成・ケアカンファレンスなど介護保険システムにとって第1義的に重要である。それにもかかわらず介護保険法における医師の関与は付加的なものに過ぎないのは非常に残念であり危惧に耐えない。ちなみにスウェーデンでは介護・福祉に関するあらゆる会議には必ず医師が出席しあるいは委員長として患者の最終責任を負っている。

(3)計6日間の実務研修は、駐車場・昼食も用意されておらず携帯電話も使用禁止であった。患者さんの命を預かっている医師を6日間缶詰にすることは、非常時には人命に係わることもあるかもしれない。医師には特別の配慮があってしかるべきと愚考する。

(4)介護保険法の最大の功積は、介護を国民全体で考える切っ掛けを作ってくれたことであり、最大の汚点は人間の介護度をコンピュー夕で数値化し物として取り扱うことを許した点である。筆者の私見では、介護度は患者個人の人生観・状況・個人史などに依存するものであり、介護にかかる時間と費用から逆に算定されるべき性質のものでない、厚生省は今回用いた要介護度の分類を「科学的」というが、科学scienceとは「仮説とその実証」によって物事を合理的に理解しようとするものなので、実証のない現時点では決して「科学的」とはいえない。

(5)大多数の受講者が選んだアセスメント方式であるMDS-H Cも、医師でない介護支援専門員が患者の状況を一応漏れなくアセスするのには有効であるかも知れないが、医師は常に「その患者にとってもっとも緊急で重要なことはなにか」と考えるよう訓練されており、医師にとっては効率的とはいえない。それに最も大事な評価基準である「患者の満足度」が評価項目に含まれていない。一度、介護保険システム自体を、厚生省が推し進めているEBM(Evidence Based Medicine)の手法で評価してみることが必要なのではないか。

 今年の10月から全国一斉に要介護度の認定が開始される。昨年のモデル事業では、隣のおじいさんより低い介護度に認定された老人が、保健婦さんに石を投げ付けたということも何例かあったという。便失禁患者や徘徊性痴呆老人の世話を手を汚して自分自身で行ったことのない御役人達が作った介護保険法が、日本の国を支えてきて下さった高齢者達に安心できる老後を本当に与えることができるのだろうか?会湯を去っていくときに受講者の多くが胸に抱いたこの心配は杞憂にすぎないのだろうか?老後は人事ではない、遅かれ早かれ自分自身あるいは自分の愛する人達の切実な問題となることは確実である。研修グループでの話し合いで、手のかかる痴呆老人に「食事に薬剤を混ぜて与えている」という複数の保健婦はそれが「誤嚥を少なくする良い方法だ」と心から信じていた。ニュースには聞いていたがこの「薬入り御飯」は例外的に悪質な施設の話のことだけだと思っていた筆者にはショックであった。「貴方自身はその状態でいることに耐えられるか?貴方自身がその介護を受けたいか?」他のメンバー達に医師として何度も問いかけたことである。「己の欲せざるところ、人に為すなかれ」それは我々医師が業としている西洋医学の父ヒポクラテスの定め上た古き碇でもある。介諺保険法を良法とするのも悪法とするのも、認定委員・医師・介護支援専門員・介護者の考え方次第である。紀元2000年が祖国日本の老人達にとって本当の意味での「福祉元年」となってくれるよう祈らざるにはいられない。

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太陽がいっぱい  明石冨士子(明石医院)

 パリのオルリー空港乗り換え、3時間程でモロッコの空の玄関口、カサブランカに到着します。スペインの南端とはジブラルタル海峡を挟んで、わずか14kmしか離れていません。モロッコといえば、熱砂広がるラクダの国を想像し、「カサブランカ」のイングリッド・バーグマンに思いを馳せたりしますが、さまざまの自然と景観に、ベルベル、イスラム、ヨーロッパの文化と歴史が入り乱れ、幻想的なエキゾチズムの美しさをかもし出しています。1968年に独立し、ハッサン二世国王のもと、目覚ましい経済発展の途上にあり、国民の半数が20才以下という若いエネルギーと、活気に漲っていました。贅をつくしたハッサン二世の大モスクは、5年前に完成したばかりで、あまりの広さ、美しさ、偉大な立体芸術作品には驚きました。歴代王朝が築いた美しい庭園や壮麗な王宮がありますが、城砦の中の旧市街の巨大な市場が、この街を躍動させています。陽が傾く頃、メディアの迷路からさまざまの人種が広場に集り、無数のモスクのコーランの祈り、カラフルな女性の衣ずれの音、元気にはしやぐ子供達など、夜毎喧騒広場と化し、近代的なフランス風の新市街とは動と静です。街の方々にみられるオーブンカフェには、髭面の男達がテーブルを囲み、ミントティを飲みながら(禁酒国)一日中道行く人を眺めています。女性の姿は全く見られません。不思議な国です。二泊してマラケシュに移りました。

 マラケシュは万年雪を頂くアトラス山脈の麓に位置し、シュロの森林で囲まれた静かな古都です。城壁内のホテル「マムーニァ」は、昔英国のチャーチル首相も宿泊され、イギリス様式の「チャーチル・ストリート」があります。ディートリッヒの「モロッコ」、ヒチコックの「知りすぎた男」など、数々の映画に登場したホテルです。美しいモザイク模様の柱やアーチ、彩色された木製のドア等、伝統的なモロッコ様式をとり入れて、ホテル自身が世界的な社交場としての歴史を持っています。ホテルをとり巻く庭園は、18世紀にスルタン王子のために作られ、レモンやオレンジ、薔薇やミモザ、うす紫のジャンガラダ、バナナやユッカなどが異国情緒を盛り上げています。すべての部屋が王宮風で、朝食は広大な庭園で、小鳥たちの歌声をききながら、目の前でコックが調理してくれました。王侯貴族の気分に浸った3日間でした。市内観光では「コウノトリ」がピルの屋上に営巣し、頭上を悠々と飛び交っているのも大陸的でした。モロッコには医大が2校あり、マラケシュには公立病院が2か所、私立病院が13あります。3年前から出産は病院での法律が出来ましたが、未だ自宅分娩が半数近く、砂漠に住んでいる人達はどこでお産しているのか分からないそうです。お産入院は1日か2日、帝切でも4日で退院です。費用は1日入院2万円位とか、ちなみに医師の月給は7万円、学校の先生は3万円位だそうです。分娩室には吸引器、無影燈はありましたが、分娩監視装置はみあたりませんでした。夜は旧市街の死者の広場(昔処刑された所)を見物しました。夜の冷気と月あかりに人波が渦巻き、あちこちの羊の焼肉屋台からは、煙がもうもうと天を焦し、蛇使い、アクロバット、火吹き男、派手な衣裳の水売り男に、ドラムやアルブの旋律が喧噪に拍車をかけ、モロッコ人のパワーに圧倒されました。夜道をバスでテント村に移動し、クスクス料理を食べたり、舞姫達のショーやダンスを楽しみ、白馬の騎兵隊の勇壮な実演も見ました。最後に空飛ぶ絨毯が、名残り惜しげに暗闘の中に消えてゆきました。幻想的な一こまです。

 国際線でバリに戻り、南仏ニースから愈々コートダジュールです。天才画家達を魅了し、4人の巨匠がこの地で生涯を終えただけあって、コバルトブルーの空、エメラルドグリーンの海の色、正に紺碧海岸です。南国の潮の香り満ちた中心都市ニースは、華やかな中にも、心安らぐ感じがありました。ニースからバスで、絶景を賞でながら、モナコに着きました。海と山に囲まれたモナコ公国は、カジノの公認国としても有名ですが、落ち着いた風景そのものが芸術です。全室モナコ湾に面している、ホテル「モンテカルロ」で一夜を遇し、さあ観光です。アンティソーブの海に臨む小高い古城がピカソ美術館です。愛人と共にここをアトリエとして生活し、芸術に生きぬき、人生の喜びを象徴する静物画も描いていました。丘を下って海辺に出ると、ここは有数のヨットハーバーです。燦々とふり注ぐ太陽の下に居並ぶ白いヨットこ、若き日のアラン・ドロンが思い浮かんできました。シャガールはサンボールに住み、その一角に墓地があります。シャガールの絵は、理解に苦しみましたが、美術館にきてみて、旧約聖書のメッセージであることを知りました。青の時代、赤の時代があり、その色彩の鮮烈さが印象的でした。以前から好きだったルノワールは、美術館はなく、住宅兼アトリエが開放されています。晩年リューマチに苦しみ、動かぬ手指を包帯で絵筆にしはりつけている姿が痛々しく、だからこそ人間味送れる、暖かい作風が生れたのでしよつ。可愛いい少女の絵は、三男がモデルだったとか、女の子がほしかったそうです。昼食は片田舎のレストランで、ムール貝のワイン蒸しと、フルーティなワインで乾いた喉を潤しました。香りの都グラースで、名香シャネルをつくった香水工場を見学したり、村の中は歩いて観光でした。村といってもさすがフランス、路地の両側には、しゃれた画廊や、ブティックが並んでいました。見て食べて歩いて、南仏の田舎を満喫することが出来ました。ルノワールは、「窓辺から隈光を浴びると総ての不幸を忘れる」と言っていたそうですが、素晴らしい風景と気候のの南フランスが羨ましく思いました。

 夕方モナコに帰り、山の上のホテルで最後の夕食会でした。夕映えの地中海を眺め、メインの魚料理は美味最高でした。モナコ王宮と、バラの花で一杯のグレース王妃の墓所にお別れして、満ちたりた気分でフィニッシュです。

 旅は命の洗濯であり、出合いと思い出のアルバムです。

 

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アルコール依存症を説得する法  中垣内正和(県立療養所悠久荘)

 酒量が増加して危険な飲酒になる頃に、患者さんは内科を訪れるようになります。その段階で「5合以上、つぶれるまで飲む、連続飲酒、かくれ酒、迎え酒、酒乱、家族の疲労、データの悪さ」などがあれば「アルコール依存症」と診断できます。しかし、本人は「単なる酒好き」「酒豪」「趣味の酒」「潤滑油」「無二の親友」「疲労回復剤」「少し肝臓が悪い」程度の認識しか持たないようです。ましてアルコール依存症が心身の健康のみならず、家庭や社会的信用まで壊しながら進行して死に至る病であることには思いも寄りません。せっかく専門病棟を勧められても「飲み方に注意すればよい」程度に聞き流してしまい、中には「酒をやめるくらいなら死んだ方がよい」などとうそぶく人もいます。そこで、今回は専門病棟を受診しようとしない厄介なアルコール依存症を説得する法を考えてみたいと思います。

 飲酒が進行した人の予後は、どの時点で「アルコールに敗北したこと」を認めるかに左右されます。一般に、とことん堕ちて「酒をやめたい」と心底願うまで待つのがよいとされますが、救いを求める前に命を落とす人が圧倒的に多いようです。したがって内科医を受診する比較的軽症の時点での指導が一つのポイントとなります。アルコール依存症は、薬物依存症・薬物中毒の一種であり、神経系や内臓が多様に冒される致死性疾患なので、アルコール専門医は「二度と飲めない」事実を強く指摘し、完全断酒を指示します。完全断酒とは、文字どおり一滴も飲まないで生きることで、料理の隠し味に日本酒やミリンを使用することまで避けさせます。この指示を守れば普通の生活が可能、指示にそむけば早期死亡と結末は二分するのです。控えめな警告では効き目がなく、父性的権威(医師)が強力なブレーキを掛けることが必要となります。「ほどほどに」とか「つつしむように」とかの指導は「飲める」お墨付きと誤解されます。医療側に飲酒習慣がある場合には、自分も飲酒しているという罪悪感を生じて矛先が鈍ります。しかし、ここは正常飲酒者とアルコール依存症はまったく別物と割り切るべきです。

 この病気の真骨頂は、慣れ親しんできたアルコールと決別することの難しさにあります。妻から「やめないと離婚する」と言われても、会社で「クピにする」と言われても、医師から「死ぬぞ」と言われても飲酒は続きます。三度離婚され、10回クピになり、生活保護になっても飲酒をやめられず、布団の中で一升瓶と心中した人もいます。このようにアルコールから離れられなくなると、医師から強く警告されても詭弁を弄して自分の飲酒を正当化します。「飲酒上の問題はない」「飲酒から派生した問題はない」「少し飲み過ぎただけだ」「内科の病気にすぎない」「仕事も家も子供もいるので依存症ではない」「いつでもやめられる」「他人より軽症だ」などなど……この現状を認めたくない気持ちを「否認」といいます。いかにも自己中心的な性格のようにみえますが、実は「アルコール中心」の生活が言わせているにすぎません。飲酒のコントロールができなくなり、家族・友人からの奪告や注意に晒されるるうちに、飲酒を合理化する考えが進んでしまうのです。シラフになると意外に凡帳面・真面目・頑張りやの人が多い現実があります。生真面目な人は飲むことも生真面目に(強迫的に)やってしまうという訳です。

 アルコールが言わせるこれらの詭弁を打ち砕くのにさまざまな工夫があります。近年精神医学の世界では「質問紙法」がブームになっています。質問紙法とは10項目程度の質問に自分で記入して回答させ、その得点によって病気の有無や程度を判定する方法です。1月号で紹介しましたCAGEの他に、CAT、KAST、MASTなどがあり、いずれも信頼性と妥当性が高いとの統計的検証を得ています。質問紙法を用いて問題飲酒やアルコール依存症の存在を指摘することは、口頭で説明や説教をするよりはるかに有効であることが分かってきました。患者さんは家族から散々に説教されて「説教ズレ」していますので、口頭での対応には反射的に拒否的になります。しかし自ら記入して「客観的に」得点で示されたテスト結果には抗しようがありません。たった4個の質問によるCAGEは極めて使いやすいのですが、少なすぎてどうも眉唾だと思われる場合は、WHOの討議を経ましたCATがお勧めです。これはわずか10項目の質問から成り立つ簡便な質問紙法であり、問題の所在をみごとに浮かび上がらせます。集団療法の中で施行すると長も効果的であり、一次医療の現場ででも手ごたえ十分と思われますが、駄目な場合に総合病院や専門病院をご紹介されたら如何でしょうか。私はそれに加えて、「アルコール中心の考え方」を自覚させる質問紙法と「二次的に生じた関連問題」を自覚させる質問紙法を創案して実施しています。(CATをご希望の場合はご一報下さい)

 総合病院で「悠久荘を受診する」ように指導していただくことは効果があります。したがって総合病院経由でご紹介いただくことも一法といえます。ある私立の総合病院では精密検査や専門治療を行う前に、まず悠久荘で三ヶ月の断酒教育を受けるように指導されます。先投も、心筋梗塞の既往を持ちながら1升酒となり、10年間に5回も救急車で鮫送された患者さんが当院へ入院しました。正月の大酒の後に出現したけいれん発作は「アルコールてんかん」でしたが、その病院では心臓カテーテルによる精密検査は断酒してからと指導されたのです。肝硬変の方も断酒教育によって予後が改善します。慢性硬膜下血腫による痴呆症状は、手術と完全断酒によって劇的に改善します。アルコール性痴呆には、完全節酒、脳機能改善剤、ビタミン大量投与が有効です。

 アルコール依存症による被害は家族全員に及びます。妻は病気がちとなり、子どもは成長に悪影響を受け、親の寿命は縮んでしまいます。それでも何とか内輪で処理しようとする家族が多いのですが、これは誤りです。本人がどうしても受診しない場合には、まず家族が専門病院へ出向いて医師やケースワーカーに相談する必要があります。病院には経験の蓄積がありますので、必ず有効な示唆が得られます。そして、(本人抜きでも)家族が、病院の家族教室や地域の断酒会に参加することが効果的です。それによって孤立感や悲壮感から解放され、アルコール依存症を扱う知恵や知識を得ることができ、何よりも傷つき疲れた家族自身の回復をはかることができます。群馬県の赤城高原ホスピタルではまず妻を入院させる方法を採っていますが、やがて本人が出向いてくるそうです。悠久荘でもこの方法を検討中です。「本人にやめる気が必要」という原則によって専門病院から入院を断られ、悲観した老親が50才の息子を殺したなどという惨劇が生じることがあります。本人の意思で入院する「任意入院」が理想的ですが、専門病院が「本人の意思」に固執しますと家族はたいへん困ります。酒乱は無自覚な場合が多いので、まず入院するとは言ってくれません。40代で酒乱になったある患者さんは、家族が病院へ連れて行っても入院を拒否し、病院側も入院させませんでした。その結果酒乱は延々続いて、日本刀を振り回して悠久荘に入院させられたときには80才を過ぎていました。その間に長女は婿を置いて逃げ出し、次女も離婚、孫娘も離婚の危機という深刻な家庭の崩壊(一族の崩壊!)が進行したのです。危機介入という観点から、家族の意思による「保護入院」とすべきであった実例です。

 どうやって病院まで連れて行くかという問題については、基本的に家族の努力が求められます。連続飲酒が進んで心身が衰弱しますと説得によって堕ちやすくなり、「日赤か中央病院かと思ったが、着いたらあの悠久荘だった」ということも可能です。わざと酒を飲ませて寝込ませて連れて来たり、まれにはグルグル巻きの場合もあります。刃物沙汰になると警察に要請できます。一過性の精神病であるせん妾や極度の酒乱にはこれらの対応も止むを得ないことがありますが、その際には事故の可能性を最小限にするための指導を受けておくことが必要です。

 説得する法の話のはずが最後にはグルグル巻きの話になってしまいました。いずれにせよ、アルコール医療は、

創意工夫や英知が、本人はもちろん医療側や家族にも求められるたいへん刺激的で興味深い領域といえそうです。

(了)

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パパイヤの木を育てる  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「よかったわ。立派に葉が茂って。」

「できれば、どんな花が咲くものか見たいものだね。」

 家人とふたりで窓際の大きな鉢植えを見ていた。日脚が伸び、窓越しの暖かな日光の中、パパイヤの明るい緑の葉がヤツデ状にくびれて、いかにも南洋の植物らしく幹のてっペんだけ茂っている。

 パパイヤの木?−そう、食べたパパイヤの種を蒔き、自分で育てたものなのである。「果樹を観葉植物として育てる」という手引き書がわたしの参考書だ。家人が種から育てたアボガドが第一号。数年間観葉植物の立場に甘んじていたが、昨年ついに花が咲いた。他に種から育てたのは、レモン、オレンジ、ビワそしてパパイヤである。

 さて食いしんぼの園芸家の精神構造たるや単純きわまりなく、幼児なみである。パパイヤを食べた。おいしかった。家で穫れないか?−おお、その本にも観葉植物としておもしろいし、数年で果実がならぬでもないと記載があるではないか!

 パパイヤに関しては、他にもいくつかの専門的記載もあった。可食部を取り除くと種子の周囲は粘液で包まれている。この粘液が発芽阻害物質を含むので、よく洗浄除去すべしとあった。またパパイヤは雌雄異株であるとか。

 さっそく、種を処理し蒔いた。なんと数週間で発芽し、順調に数本の苗木が育った。南洋風の葉が珍しい

観葉樹だから、一部は希望の知人に貰われて行った。

 我が家の狭い居間で、雌雄異株を期待された3本のパパイヤの樹が、二メートル余りに育ちつつあった。昨年の暮れ、ついに不都合が生じた。

「あなた、パパイヤの木、どうします?もう天井につかえそうよ。」

「まつすぐ伸びた木の先端が、不思議と最近横に曲がって伸びているよね。まるでもうちょいで天井だと察知したみたいだなあ?。」

「そんなことってあるかしら。」

「植物は人間の言葉がわかるとか、よい音楽を流すとおいしい野菜ができるとか、植物の感応説がブームじやない。」

「それはそれとして、ほんとうにどうします?わたしは、葉の茂った木の先端部をばっさり切って見ようかと思うの。きっと脇芽が出て、また葉が茂るわ。」

「良寛さまだったかしらん。昔話で床下からタケノコが伸びてつかえたら、切るのはかわいそうだと家の天井を壊した人がいたよね。」

「まさか、本気じゃないですよね?」と突然真顔で聞き返す家人である。ほんの軽口のつもりだったのに。

「もちろん、木を切るのに賛成。まず一本試そうよ。」

 わたしより勇気のある家人がパパイヤの木の上部を大胆に切り落とした。その結果、鉢の中にはただ太い棒杭が立つ状態となつた。

 ときどき水をやりながら、変化のない数週間が経った。いささか不安な気持が高じたある日、小さな萌黄色の脇芽が切り口のそばにいくつか出た。それを見つけて、ふたりとも急に発言が強気に変化する。

「植物の生命力から考えると、きつと大丈夫だと思っていたんだ。」

「挿し木でも根が出るのに二ヶ月くらい必要なんですもの。同じくらい発芽にかかっても当然よね。」

 いったん芽吹けばもう安心。その後はすくすくと枝葉が茂りつつある。

 はたして我が家の居間でパパイヤの花を鑑賞でき、あわよくばパパイヤが実る日が訪れるものやら??