長岡市医師会たより No.229 99.4

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「雪国植物園にて」      丸岡  稔(丸岡医院)
 「開業医一年生を終えて」       江部 達夫(江部医院)
 「男の脳・女の脳」          渡辺 正雄(渡辺医院)
 「山と温泉 47 その21」       古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「人も歩けば棒に当たる」       郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

雪国植物園にて  丸岡 稔(丸岡医院)
開業医一年生を終えて  江部 達夫(江部医院)

 平成9年7月1日、90歳になった父の小さな診療所の跡を継ぎ開業した。待合室は狭く、事務室もコンピューターを入れるには小さかった。1か月前から改築工事にかかり、6月末には出来上がった。

 大学、日赤時代、一貫して電子額機鏡的研究がテーマであったので、まだまだ続けて行きたかったが、父に「90過ぎても働かせる気か」と度々言われると、そろそろ跡を継がねばという気になって来た。また、9年9月には日赤は新病院に移転となり、コンピューターを駆使しての診療にはついて行けないと思われ、そろそろ身を引く潮時と思った。

 借金のない開業、それも60歳を過ぎてからの開業。1億円も借金したら、夜遅くまで日曜日も休むことなく働いて、早く借金を返そうという気になるのだろうが、もうこの年になってあくせく働かなくともよいと、月に2回土曜日を休みにして連休を作った。相続税が来たら夜逃げでもしないといけないが。

 月に2回も連休があると、休日を結構楽しく過せる。私の趣味はアウトドアーのものばかり。春は山菜採りに野山を歩き、夏はヤマメを求めて渓流に入っている。秋はキノコを探しに山奥まで入っている。その間に長岡カントリーにも顔を出している。家に落着いているのは冬場だけ。

 開業医としての職務を全うし、その余暇に道楽をするのが本筋というもの。しかし家庭医としての開業医、現在診ている患家の人達に全責任を持とうなど殊勝な気を持ったら、1年365日拘束されねばならない。それこそ息がつまり、早死にしかねない。

 60歳を過ぎた私は、遊びの傍ら医者をやれたら最高だと思っている。こんな医者に命を預けない方が良いだろう。私みたいな責任な医者がいるものだから、近頃の患者さんには病院志向型が増して来ているのかもしれない。だが日常の診療が忙しいので、休みともなればさっさと逃げ出したくなる。ゴルフ場で多くの先輩の先生方にお会いする。何となくほっーとする。私だけではないと思うが。

 勤務医の頃は入院患者の病状を全て把握しており、外来の患者が悪化して救外に来られても当直医、拘束医が診てくれる。安心して遊びに出かけられた。もっとも26年間の勤務医時代、朝ゴルフに出かけようと仕度をしていると病院から電話があり、入院患者の急変でゴルフをキャンセルした事も何回かあったが、開業してからの一年間は幸いなことに一度もなかった。ウィークデーの早朝、深夜の往診は何回かあったが。

 休日は割り切って、出かけた者の勝ち。逃げ出した穴埋めは、休日診療所か病院の救急センターがやってくれている。感謝している。何しろ医者の寿命は平均的に5年短いといわれている。身も心も鍛えておかねばならない。それにはスポーツが良い。ゴルフはスポーツにならない、ストレスになるだけだと、外野からうるさい声も聞えるが。

 さて本業の方ですが、開業当月から永年病院で診ていた方が来られ、のんびりやろうと思っていたのが出来なくなった。その上9月に日赤の移転があり、通院困難になったから診て欲しいと、旧日赤病院の近くに住んでいる方達も来られ、忙しくなりました。それでも病院時代のような1時間に20人以上は診る3分診療はなくなり、患者さんと話をする時間を持てるようになりました。

 勤務医の頃は患者さんの方から遠慮されてか、あまり話をしないようでしたが、開業してからは「やっとゆっくりと話ができるようになった」と喜ばれている。病院時代の診療はなんであったのかと反省している。

 コンピューター化された今日の診療は、医師は機械に顔を向け、患者さんと向い合っての話に時間を費やせないのが現実のようだ。これも新しい診察の一つの形態なのであろう。

 開業医1年生は無事に終り、2年目を迎えて3か月、マーゲンクレブスが見つかり、10月13日に手術を受けた。術後4日目、主治医田島健三先生(日赤病院外科部長)に、「早期癌で化学療法は必要なし」と言われた時にはまた次の人生が楽しめると感激しました。その人生には、道楽ばかりではなく、これからの診療の事、書きかけたままほうっておいた論文の事などが含まれていたと思います。

 くどくどと開業一年目からの遊びを正当化しようと、自己弁護のご託を並べて来たが、私はやはり開業医向きに出来ているようだ。締切日も過ぎた休日、この駄文を書いている時に患家から電話が来た。「女房が39度の発熱と左胸部痛あり、往診ねがいたい」と。

 では、これから出かけてきます。

  目次に戻る

男の脳・女の脳 渡辺 正雄(渡辺医院)

脳には男女差があった

 脳に男女の差があるなどということは、学生時代の解剖学でも、医局に入ってからも、教えてもらわなかったし、思ってもみなかった。しかし、考えてみれば、男と女は身体つきも考え方も行動も違うのだから、その指令塔である脳に違いがあるのは至極当然のことなのだろう。私は勉強不足なので、脳の性差に関する正式な学術論文はまだ読んではいないが、近年書店の店頭にも、この問題を論じた書籍が数点みられるようになった。男女の脳の比較とか、左脳、右脳の動きとかが云われるようになったのは昭和60年代に入ってからのことであり、最近の画像診断(MR1、PET等)の進歩によって急速に発展して来ている分野である。

失語症は男性が重い

 失語症は極めて憐れな状態だと思う。意識はあるのに思うことが云えず、書けず、内心悶々とし、いらいらが昂じて暴力もふるう。社会的地位や名声も一挙に崩れ去ってしまうのだから、心情を思いやるとやりきれない。この失語症を引き起すのは、左脳の言語中枢の障害なのであるが、ここに男女に著しい差があるのである。強い右片麻厚があり、CTでも当然失語症を来すべき所見があるのにバラベラと流暢に話す症例が何例かある。それがきまって女性である。なぜこんなことが起るのだろうか。

男の脳は一極集中型、女性の脳は分散型

 男性脳は機能が集中的である。言語中枢も左側頭葉部に集まっており、右脳は関与しない。つまりラテラリティ(側性化)が強い。ところが、女性脳は、MRIやPETなどの検査でわかったのだが、言語機能が左だけでなく右にも分散してみられる。更に、解剖学的にみても、脳梁と呼ばれる左右脳の連絡経路の膨大部の断面積が、圧倒的に男性より広い。つまり左右の連絡が密に行われているのだ。これらのことから、女性は左の言語中枢が破壊されても、他の部位を使って何とか立ち直る能力があるのである。男性は残念ながらこんな芸当はできない。

男脇はアナリシス(分析)、女脳はアナロジー(類比)が得意

 男の脳は、新皮質優位脳であり、論理的思考や分析力に優れ、自尊心、名誉欲を重んずる。数学者、科学者、音楽家、画家、囲碁、将棋など、新皮質を駆使する分野では、圧倒的に男性が多いゆえんである。これに対して、女性脳は大脳辺緑系優位脳で、情劾能といわれるように、より現実的、本能的、反射的で生命を維持し育くむのに大切な働きを有しているのである。云いかえれば、男脳は純情一途、かたくなで融通がきかず、何か事があると玉砕してしまう。女脳はしたたかでしなやかで、左右の連携もうまく、チャンネルの切り換えがよくきく脳なのである。

ぼけやうつ病も男に多い

 上に述べたように、男脳は一部分のみを酷使する傾向があり、使わない部分はスイッチオフのままなので、何か事があった時に、女脳の如く柔軟に対応できず大事に至る。企業戦士といわれるまじめで仕事一本槍の人達の中に、はけやうつ病が多発しているが、当然の如くほとんどが男性である。男性も女性に倣って、自由にチャンネルを切り換えて柔軟に対応したいものである。

男性の対応策はあるか

 どうも神様は男性に辛くあたるようである。寿命はもとより、癌、脳卒中、心疾患等、いろいろな病気でも男性の罹患率が高い。これは性染色体のためだという説がある。女性は強力なX染色体を2本持っていてお互いに補いあえるが、男性はXが1本しかなく、もう1本は極めて貧弱なY染色体であるからだといわれる。

 男女脳の差異にしても、胎児の頃からもう設計図通りに決められたことであり、どうしようもないことかもしれない。しかし、何とか男性は対応できないものだろうか。新皮質のみの酷使を避け、大脳辺緑系を活躍させることである。まずは活発丁に身体を動かし、反射神経を鍛え、左脳への一極集中化を避け、仕事以外のいろんな事に興味を持って行けばよい。近年の研究によると、連続的な音、例えば洋楽などが、非優位脳(右脳)を刺激するのだという。男性諸兄、将来失語症に見舞われないために、はかない努力かもしれないがモーツァルトでも聴きますか。


 目次に戻る

山と温泉47〜その21 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 和田小屋からは、山毛欅の林をジグザグ登る。登路は細くなり、樋状に深くなる。権木帯を抜ける迄が悪路、雨が降れば沢になるため泥まみれを覚悟してください。6合目・標高1540米付近から板曲り竹が登路を隠します。権木は山毛欅に混じって岳樺、大白桧曽となり、視界のきかない林間の悪路を只管緩登する。和田小屋から約1時間で下ノ芝です。更に綾登、湿原の木道をゆくと、潅木の間から、夏なら緑の山芝の草原が見え隠れします。標高1740米辺りから、林を出たり、入ったりしながら、露岩の点在する山腹を行く。登路は悪路緩登約1時間で権木帯を抜けると視界が拡がり草原状の中の芝、そして上ノ芝、八合目・1886米。2000米の頂上稜線には三角岩、それに続く緑の草原、緑の絨毯の表現が当てはまる素晴らしい景観、リフトの鉄塔がなければ、仙人の休息処に相応しい。浅草岳の草原と違い見渡すかぎり(少し法螺になるか)長い岳芝の斜面が続く。ノビノビ休みたい処。スキーリフトは中ノ芝上限迄延びています。数年前、赤湯から昌次新道の登高時、山頂取付点付近から、務の晴れ間に黒い鉄塔が見え、ハテ?・ドコノヤマ?高圧線の?と、地図を見ました。山が変わりました。

 途中の左側林の中に、苗場神登拝の修験者が繰り返し植えた杉の木がある、と「越後の山旅」に記載されているのですが、不信心者には見えないと言う伝承があるそうで、私などは何回登っても、見えた例しがない。矢張り不信心者なんでしょう。上ノ芝・8合目からは間もなく右に三角岩の立つ稜線に出る。北西側の展望遮るものなし。ここで、津南町・秋山郷からの小松原道を右に分け、左に向う。緩やかな稜線歩き20分、石上に神楽ヶ峰2029米三角点、狭い見晴らし処。ここから競る苗場山はどっしりと円く大きい。見応えがします。神楽ヶ峰からの、頂上稜線は痩せて狭い。登路は、北西側が切れ落ちているので東側寄りに捲きながら雷清水、神楽ヶ峰鞍部、捧沢源頭、と進む。鞍部は、神楽ヶ峰より150米下り、標高1880米で、風が強いので要注意、殊に積雪期は可成の経験が必要。この鞍部は狭く、この処に多くの高山植物が見られる。「北越雪譜」にも記載のある処。田中澄江氏は「花の百名山」の文中「…苗場山本峰の真下の崖に見出して、ようやく満ち足りた思いになっていた…中略… と知っている限りの花の名を数えてうれしかった…」と書いている。鞍部のお花畑は、苗場山頂の高山植物と共に、種類が多い事で知られています。私なぞは、ウスユキソウ、チングルマなどは知っていても、沢山あるなーと思うだけで、なかなか憶えられません。このお花畑も、最近は踏み荒され、少なくなったと言います。花期は、6月末は少し早い。矢張り、7月中旬が良いようです。此処からの登路は苗場本峰への最後の急登になります。通称、馬の背、胸突き八丁と言われる雲尾坂ジグザグ電光形の急坂は、細く崩れ落ち抉れている。坂は広く、階段状に整備しても、2000米の高山の過酷な自然条件は為す術もなく崩壊に導く。鞍部が1880米とすると、平らな苗場山頂は2145米、この登路の山頂取り付点で2120米、標高差240米でしかないのですが、バテ坂です。1時間30分はかかります。しかし、この急登を一挙に登り詰めると、突然広大な苗田の点在する草原が広がる。北西側は、低い潅木が壁を作り、南側は見渡すかぎりの草原の彼方に霧が流れています。私にとっては、この扉を開いて現れたような務の平頂は神秘な世界の入口に思えます。一度、積雪期3月の登頂時は、余り感興を憶えず、下山時の雪壁雪崩ばかり怖がっていました。

 日本では珍しい楯状火山の平らな頂上は、東より南に向って傾斜し、中に無数の湿原と田圃を思わせる小池、周囲凡そ14粁の卓状形湿原を成しています。加えて高山植物の種類、数の多さは他に比類を見ないのです。標高にして2000米以上の山で、卓状山体をなし、卓の脚は、東面は清津川、西面は中津川の侵蝕による断崖として見る事が出来ます。ゴルフ場に例えれば、花道の無い巨大な砲台グリーンを考えれば良いようです。どの登路からも、突然、頂上の平らに出ます。だから、頂上直下の急登を忘れて仕舞います。

 頂上の登路は木道でしっかり出来ています。木道から右湿原の端の草原を行くと、途中に岩窟(龍岩窟・胎内窟)がある。更に木道を行くと間もなく右の少し高い草原に頂上小屋「遊仙閣」があります。「遊仙閣」の前に長野県・新潟県の県境線がある筈だが?。又、裏手に苗場山一等三角占仙補占仙・点石:2145.3米:がある筈。近くに、伊米神社奥院・倉保神の神祇、鈴木牧之碑、大平晟氏鋳像、道祖神の石塔などあり、苗場山の信仰だけではない一面を窺わせます。遊仙閣から小赤沢道の登路を西200〜300米に、長野県栄村経営の「苗場山頂ヒュッテ」があります。いずれも冬期間は開いていない。

 木道は西に「小赤沢道」の登路、更に南に下り「赤倉山−赤湯道」東南「昌次新道」と、断崖の取り付点に向かいます。

 付記・苗場山小屋物語

 赤湯・昌次新道

 登路:元橋又は、浅貝・苗場スキー場・赤湯林道・赤湯温泉・昌次新道。

 湯沢町より国道17号線、群馬県側からは、上趣新幹線上毛高原駅、在来線で、後閑・沼田駅より国道17号線。但し、バスは湯沢駅より浅貝、上毛高原駅・後閑・沼田駅よりは、猿ガ京温泉・乗り換えて法師温泉迄。現在は、県境の三国峠、三国トンネルを越える直通便はない。

 湯沢からのバスの場合は、三俣、二居の集落を過ぎ、二居大橋を渡り三車線の国道直線登坂車線を火打峠に向い、バス停「元橋」で下車、しかし、バス停がはっきりしない。道路左側に「自然歩道」と書いた小さな看板があり、道路右側に「赤湯・苗場山登山道入口」の大きな看板二つと登路がみえる。ここから先へ300米程行くと、左側に「平標山登山駐車場」標示のかなり広いスペースがある。隣接して休憩所と思われる建物があり、その脇から広い車道が東側の山に向かっている。この登路は、平標山1984米松手山道。しかし、車道は「一般車進入禁止」。平標山登山は、ここから歩くことになります。赤湯道へは、「赤湯・苗場山登山道入口」から入り、間もなく浅貝川に下降する。浅貝川の橋を渡り、登り返して浅貝・苗場スキー場からの赤湯林道に出る。これは旧道で、道完成以前には赤湯道は捧沢入口まで歩行三時間を要した。現在は、浅貝の広い苗場スキー場北端で浅貝川を渡り、北に向う仮舗装のあれた車道が赤湯林道で、終点の捧沢まで一本道。車の場合は、所要時間約30分。清津川左岸の林道は捧沢手前、センノ沢の高処に駐車可能な広場があります。この辺りの清津川は水一滴も無い石の広川原になっています。上流に清津川発電所の取水口があるためです。捧沢出会が登山口。沢の橋を渡り、喬木の根の露出する登路を急登する。山毛欅・楢・大白桧曽が天空を遮り、灌木は、石南花・裏白七竈・楓が混じり、まさに深山。登山口より標高差200米、間もなく明るくなり、登路が細い頂稜線伝いと判るころ、標高1184米の鷹ノ巣峠に着く。峠から左折すると平坦な路となり、南西に向かい緩降する。この辺りの植生は低山の山麓で見られるものと同じ、と「越後の山旅」に記載されている通り、峠迄の頂稜線に見られた植生とは異質。別世界に入った様子。猿の集団に出会うのもこの辺り。最後の急な下降でサゴイ沢、橋を渡り清津川本流の左岸に出る。更に清津川本流を橋(簡易橋?)で右岸に渡る。雑木混じりの川原の端の平坦路を上流に向う。清津川は本流だけあって水量も多く、轟々たる音を響かせ、狭い渓谷の巨大な岩を噛み、泡となって飛散する激流です。間もなく川原の露天風呂(内風呂はないのですが)を見ながら、川原より一段高処の赤湯温泉・山口館の玄関に立ちます。赤湯温泉までの路に幾つかの橋を渡ります。皆鉄橋なのですが、歩行部分は板敷なので、積雪期は降雪前に板敷を撤去、鉄骨だけにします。11月頃からの入山にはご注意願います。高所恐怖症でない人は大丈夫です。

 赤湯温泉の詳細は後述します。

 赤湯からは、二つの登路に分れます。旧登路は赤倉山経由山頂に到る、赤倉山・赤湯道(赤倉山巡視林道)。新登路は、昭和15年伐開された昌次新道。この新道は、山口館二代目館主山口昌次氏が独力で開いた登路。赤倉山回りの登路に比較し、距離は3分の1、赤倉山の急登、頂上湿原、草原の縦断がなくなり、楽になった。しかし、新道も、只管(ひたすら)登るだけですが、時間の節約になります。旧道・8時間、新道・5時間を見ればよいでしょう。山口館は、渓谷が開けた右岸の高処にあり、清津川本流は、ここで屈曲し、川幅広く、浅瀬で流れは緩やか。登路は、右岸の川原を川の上流に向う。前方に清津川本流に架かる橋がある筈。流失している事があるので、宿で確かめる事。先ず橋を渡り、少し登ると喬木の林に入る。間もなく登路は、二分し、左に赤倉山林道(赤倉林道)との分岐点。直進し尾根筋の峠と思われる高処を越えると路は緩降し、サゴイ沢に出る。沢には通常は橋は無い。丸太の仮橋は沢の急な増水でたびたび流失する。沢は水量が少ないので徒渉可能。沢を渉り左岸に上がる。ここから山頂まで約5時間、登路は他に無く、只管(ひたすら)綾登、急登を繰り返し、何時の間にか平頂に立つ登路は、しっかり出来ている上に、道標などの手入れが良いので歩きやすく、獣道が無く、稜線を伝うので脇道、回り道も無いので、積雪期でもない限り、踏み迷うことはない。喬木・潅木の森は展望はない。山毛欅林が続き、桂・栃ノ木・沢胡桃が繁り、陽射しがないが、風がないと蒸し暑く、水不足になりやすい。水場は6合目から7合目の間。7合目はふくべ平、標高1530米、平らではなく緩やかな斜面で、水場がありそうなのだが、水の音はしない。旧くは、猟師達の休息場であったと言う。ここから上部には水場はないので注意。登るに従い、尾根の稜線にいる事が判る頃、大白桧曽・岳樺が多くなり、視界が広がる。標高1740米が見晴尾根。次いで深穴の大岩、ただ大きい岩があるだけ。ここが、1830米。稜線は次第に細くなり、露岩が混じり大白桧曽が並木のように並び、木々の間からは、神楽ケ峰が見えてくる。間もなく川の堤防のような急斜面をジグザグと4、5回曲がり返すと、突然、草原と湿原の広大な平らに出る。出た処が2063米、取り付け点。ここから山頂三角点補点迄北へ800米、木道が延びている。

 

  目次に戻る

 


人も歩けば棒に当たる  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 ゴルフのコンペの案内が届いた。6月か6月に例年催される、同じ医局出身の先輩後輩入り混じつた仲間10名ほどが構成メンバーだ。今年はひさしぶりに長野カントリークラブで開催される。

 幹事は自分の当番なのだったが、さいわい長野の地元に開業した後輩Tくんがいる。彼はゴルフの腕前はさておき、医院の経営は順調のようで、名門長野CCの会員になった。先週、今度のコンペの日時の設定を知らせてくれる電話があった。

「G先生、みんなへの連絡も僕の方でしてはまずいですか?」とT先生。

 一緒に働いた経験から、わたしの連絡事務能力の欠如を鋭く見抜いているのである。ストレートにそう言わないところが、また人間ができていて紳士ですなあ。実に、いい後輩にめぐまれました。

「えつ、Tくんが幹事代理でみんなに連絡してくれたら、ありがたいばっかし。悪いけど、その件も頼んじやっていいでしょうか?」

「わかりました。」

 さてさて、来月にゴルフかあ。昨年秋以来、一回もクラブに触っていない。だいじょうぶかなあ?

 昨年の最後のラウンドの反省会、もとい−いつも反省ばかりなんでつい−表彰式では、珠勝な決意表明をしたものの、実行できなかったのもこれまた例年通りであった。

「またふがいないスコアでした。この冬こそは、徹底して練習に励み、来春は飛躍のゴルフシーズンとするつもりです。」

パチ、パチ、パチ。(まばらな拍手)

 ところで仲間でいちばん遅く始めたが、それでもすでにゴルフ歴十年余り。才能もなく、努力もなく、したがって進歩もない。

 素人ゴルファーでは、いちおうスコアで100を切れば、中級者の仲間入り。ところが「100の壁」などと言う専門用語(?)もあるくらいで、なかなかなんである。110前後のレベルを称して「百獣の王」。わたしは

「ベテランの初心者」と自称。

 昨年暮れに、プロゴルファー塩谷育代らの指導に当たった田中某という体育学の教授の本を買った。「一日40分歩けばゴルフはうまくなる」という題名の本である。有酸素運動をウォーキングで一定時間続けて、健康的に下半身を強化すればきつとゴルフは上達するとのご託宣。そこでこの冬は「雨ニモ負ケズ、雪ニモ負ケズ」毎日せっせと歩いた。

 この3か月間、ほとんど毎日朝晩2回1時間ずつ、合計2時間はウォーキングをしていた。

 ところで適度な運動は酒も食事もうまくする。食事制限どころかよけいに飲みかつ食べた。

「これだけ運動しているんだから、少しダイエットもすればすごく痩せれるのに。」と家人はため息をつく。

「バカだなあ。運動だけすれば好きなように食べても太らないとわかったからこそ、続いているんだぜ。つまりダイエットしないためのウォーキングじやないか。」

 結局もっかのところ体重は2キロだけ、体脂肪率のみ5%減少して、中等度肥満から軽度肥満グループになり、階段昇降で動悸がしなくなつただけ成果はあったかも。

 でもほんとにゴルフの練習をしなくて、よいスコアがだせるんだろうか?これでいいんだろうか?

 ウォーキングに忙しくて、棒振り練習のためゴルフ練習場へ出かける時間などなかったのだ。

 不安だなあ! 歩いただけで、ゴルフ場で振り回した棒が球に上手に当たるのか??

 成果のほどは、後日また。

 

  目次に戻る