長岡市医師会たより No.231 99.6

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もくじ
 表紙絵 「陸上競技場にて」      丸岡  稔(丸岡医院)
 「タカ狂の記」            上村  桂(長岡保健所長)
 「しへき治療棟をつくる法(1)」     中垣内正和(県立療養所悠久荘)
 「会員旅行行状記」          一橋 一郎(一橋整形外科医院)
 「春の舞姫を見に行く」        郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

陸上競技場にて  丸岡  稔(丸岡医院)
タカ狂の記  上村 桂(長岡保健所長)

 プロ野球との出会いは今から50年前まで遡る。終戦後遊び事がなく、三角ベースの野球に興じていた頃の事である。ご晶屑の球団は、山本一人(後鶴岡)率いるスマートさが売りものの南海ホークスと、川上哲治・青田昇の、豪打が看板の三原脩率いる巨人ジャイアンツであった。

 昭和23年のペナント・レースはこの2球団の争いで、僅差で南海が優勝した。余談であるが私の生まれた北魚・小出町はベースボール・マガジン社の池田恒雄さんの出身地であり、そのご縁と思うが、オフに川上の講演会があった。話の内容は記憶にないが、吉田鉄郎先生(現、吉田病院)の「カーブはどうやって打つか」との質問に、川上が「落ち切ったところを打つ」と答えたのを覚えている。父が川上のサイン入りのブロマイドを貰ってきてくれ、随分後まで宝物にしていた。

 ところが有名な別所事件を契機に一遍に巨人が嫌いになつた。優勝チームの超エースの別所昭(後毅彦)を2位の巨人が引抜いたのである。野球協約などなかった時代で南海球団のケチさ加減も手伝い、それなりの論理はあったのだろうが、野球少年の心情には極めてキタナイやり方に映り義憤を覚えたものである。

 それ以来、2リーグ分裂を挟みホークスファン、アンチ・ジャイアンツを通している。残念な事にホークスは、リーグ優勝しても日本シリーズでは別所のいる巨人に歯がたたない。別所事件の後でも殆どホークスに入団の決っていた岩本尭や長

嶋茂雄が最後の最後に攫われ、巨人には随分くやしい思いをした。そんな訳で昭和34年の日本シリーズは、杉捕忠の4連投で宿敵巨人に4たてをくわせ、大いに溜飲がさがったものである。

 旧い南海ホークスの象徴はまさに鶴岡親分であり、鶴岡個人の魅力に負うところが大であった。選手の操縦術や勝負勘、とくに弱体の投手陣を早目早目のリレーで乗り切るなど非凡な手腕を示したものである。

 鶴岡の引退後、蔭山の急死、鶴岡復活をはさみ、野村がプレーイングマネージャーとなり、鶴岡野球とは全く逆の新しいチームづくりをし、それなりの成績を残した。日本一にこそなれなかったがリーグ優勝も果たしAクラスの常連であった。後のヤクルト、とくに今シーズンの阪神での名手綱さばきの萌しは当時からあったのである。しかし残念な事に昭和52年のオフ、ホークスのお家騒動があり野村が解任され、野村党の主力投手の江夏と中心打者の柏原も放出された。野村と鶴岡の確執(真相はもとより知る由もないが、どうも野村の一方的な思い込みのように思えてならない)は昔からのファンにとって、何とも心残りである。当時、作家の藤沢恒夫が「野村よ、忘恩の徒となるなかれ」と書いていた事を思い出す。今年の文芸春秋の4月号がかなり詳しく取上げている。

 ともあれ野村解任以来20年余、ホークスは万年Bクラスが定着し、時にはテール・エンドの悲哀も味わった。親会社は南海からダイエーに、本拠地も難波から博多に移ったが、勝負事は勝たない事には意味がない。これはどの球団のファンにとっても共通する事と思う。贔屓の球団の負けた翌日は、皆さん一様にご機嫌が悪いのである。

 王貞治が監督になった時のやや複雑な気持ちは、すぐ切替える事ができた。王はアンチ・ジャイアンツ党にとって象徴的存在でないからである。統計によれば熱狂的巨人ファンは殆どが長嶋党であり、王党は極めて少数派である。かつてアンチ・ジャイアンツ党にとって最も痛快な事は「江川が投げ王がホームランを打ち巨人が負ける」事といわれたものである。

 王の監督としての手腕は必ずしも誉められたものでないかもしれないが、昨年は監督4年目にして21年振りのAクラス入りを果たした。今年はこの原稿を書いている5月24日現在、何とかトップを保っている。願わくは念願の26年振りの優勝に、何とか繋げて欲しいものである。

 4月から長岡市医師会のお仲間に加えて頂いている。長岡は高校3年、インターン1年を過ごした地であり40年前には亡父伯太郎が保健所長を8年間勤めさせて頂いた。小生をかわいがって下さつた先生方も数多くおられ、心強い限りである。何とか最後のご奉公を全うしたいと思っている。よろしくご鞭撻下さるようお願いしたい。

 

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「しへき治療棟」をつくる法(1)  中垣内 正和(県立療養所悠久荘)

1.ゼロからのスタート

 悠久荘の「しへき治療棟」は、この3月1日に正式に発足しました。今回は、専門棟発足にいたるまでの経過や逸話、取り組みの内容や治療成績、悠久荘の変貌ぶりなどについて述べてみたいと思います。

 「しへき」とは英語で addiction、ドイツ語で Suchtといい、物質などを貪欲に消費してしまう病気として知られていますが、モノ豊かな社会になるにつれて、その一般化・多様化がすすみ、今では誰にでも発病しうる病気となりました。代表的なしへきの病であるアルコール依存症の他にも、摂食障害、買い物依存症、パチンコ依存症、カード依存症、薬物依存症などがマスコミを賑わしています。揺れ続ける今日の家族問題の原因として、共依存やAC(アダルト・チルドレンの略)といった人間関係のしへきが指摘され、「家族依存症」という言葉まであります。しへき治療棟というからには、これらすべてを治療の対象にしようという訳なのです。

 昭和63年、悠久荘において本格的なアルコール医療を開始してから11年を経過していますが、この間、特に問題もなく順風満帆だったのでは決してありません。広域県である新潟県に「アルコール治療プログラム」(ARP)による治療がもっと必要だと提言し、着手したのはもちろん私たちですが、当時はベテランのアルコール医者は日宝町の難波先生ただ一人であり、専門病棟をもつ河渡病院ですら新体制が発足して数年の時期でした。10年前の新潟県のアルコール医療は手薄だったのです。したがって、私たちが久里浜研修で受けた「問題意識」だけを手掛かりにアルコール医療を開始した後に、上越から県北までアルコール医療に名乗りを上げることが流行ったとしても不思議ではありません。起意と挫折が繰り返されました。なかでも著作もあるM先生は有力と思われましたが、理想主義が災いして新潟を去られました。またK病院は学会発表だけに終わり、プログラムを持つにいたりませんでした。地域性のあるプログラムをつくった魚沼の県立病院では医師の交代などがありました。今年度もアルコール外来を新たに標梼した病院があります。

 この様な状況下で、悠久荘が本格的な専門棟をもつのに成功した理由に、チーム医療の観点から「アルコール委員会」を結成して取り組んだことが上げられます。アルコール医療は外来だけで行うには重すぎ、それこそ「つまみ食い」になってしまいます。アルコール委員会には、県立の単科精神病院の利点を生かして、医師、看護者、PSW、心理士、作業療法士、栄養士、薬剤師などが参加し、常に創意ある企画が歓迎される募囲気のなかで、お役所のイメージとは程遠い、創造的な議論が繰り広げられてきました。1名の増員要求もせず内部改革の努力のみでやってきたという点でも、「お役所の仕事」として画期的であり、評価されてしかるべきと思われます。

 このなかで、全国的にも初めてという「しへき」と名打った専門棟がスタートしたのです。悠久荘のARPには、現在週5本のミーティング、家族教室、回復ウォーク、調理実習、栄養指導、服薬指導、参禅、芸術療法、自助グループへの参加訓練などが整備されています。私個人は、月に医学講義1本、医師ミーティング3本、個人精神療法などを担当しており、かなり多忙です。摂食障害の集団療法は準備段階にありますが、藤田、小柳両心理士による「摂食障害の家族教室」は軌道に乗ってきました。

2.悠久荘が街へ出た日

 しかしこの間、私たちは患者さんがくるのをデンと待ち構えていただけではありません。久里浜方式というワンパターンですと、ARPを終了しても節酒でやろうとするにすぎないと分かりましたので、スタッフは身銭を切って、断酒会の大会やAA(アルコホリクス・アノニマス、匿名アルコール中毒者の会)のセミナーに参加するなど、フットワークを用いた取り組みをするようになりました。

 なかでも独創的なプロジェクトに「地域アルコール講座」があります。これは、津南町の保健婦さんや係長さんが「遠い津南」から患者さんを運んでくることに感激して、「それではこちらから出向きましょう」と服部PSWらがネットワークを作ったことに始まります。現在は、年に6回、津南町の保健センターに出向いて講演会や相談会を行っていますが、この会につながって2年後に夫を入院させ、断酒させることに成功した奥さんもいます。出向いてみると津南は決して「遠い地」ではありませんでした。「飲酒運転の名産地」と揶揄された地は、今や断酒会の例会ができ、断酒活動の先駆的地域となっています。今年からは十日町市も講座の対象となりました。

 また昨年は、家族の経験交流を目的に「家族教室ワークショップ」を長岡で開催しましたが、初回から100人近い参加者があり、これには主催者側がたまげました。「アルコール依存症の家族は悲しい」と述べたKさんの体験発表は会場の涙を誘いました。成果あって、ご主人は完全断酒して別人の様になりましたが、お酒を飲まない夫に初めて出会ったKさんは、どう会話をもったらよいか困ったそうです。なお、この会は今年は11月に開催予定です。

 さらに、長岡駅東口にある長岡市けさじろ荘では、毎週火曜夜になると、摂食障害の自助グループ「NABAにいがた」と、「しへき問題を考える会(AKK)」の例会が開催されております。これらは、女性が自己回復をはかる自助グループであり、今のところ当院有志のサポートを受けて活動していますが、新潟県では、AAと同様に、長岡市が発祥の地となりました。お分かりになる方もあると思いますが、悠久荘のしへき治療のスタイルは、斉藤学先生の家族機能研究所や、竹村博先生の赤城高原ホスピタルの治療方式と同系列にあり、アルコール医療のスタートにあたってモデルとした久里浜方式とはすでに離れているのです。(つづく)

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平成11年度会員旅行「金太郎温泉」行状記 一橋 一郎(一橋整形外科医院)

 5月29日(土)午後1時半、最後に来られた勝見先生が乗り込まれた処で今回の医師会旅行の一行を乗せた観光マイクロバスは医師会館前を出発した。ここ数年旅行参加者は減る一方で世話役として加わった事務局の星さんを入れて総勢8名という小人数だが、むしろ気の合った処でせいぜい盛上げれば返って面白かろうというもので、ちなみに参加会員を紹介しておく。まず、高橋剛一会長を筆頭に高木昇三郎・田辺一雄・石川紀一郎・勝見喜也・大貫啓三の各先生と予期せずにリポーターを仰せつかった一橋一郎の面々である。

 薄い刷毛雲を散らした青空が広がり、明日は更に晴れ上るとの予報で絶好の旅行日和だし、バスガイドさんの挨拶を皮切りに早速星さん用意の和洋取揃えられたビールの車内販売?が始められた。リポーターも無論勧められたが空腹の方が優勢のため、ここで飲酒したら悪酔いは必至なので愚妻の持たせてくれた握り飯を頬張るを選んだ。

 今日の御宿は魚津市の金太郎温泉。高速道を走ればまだ陽の高い内に着いてしまうだろうから、上越インターで一旦一般国道に下りて、海の見える景色を堪能しながら行き、途中親知らず子知らずの天険に立ち寄ってみたらと出発時にリポーターが進言したのだが、予定通りの運行となつた。街並みを抜けて間も無く高速道に入ったバスは順調に速度を上げ、並居る乗用車を結構追越してルンルンと走った。途中米山パーキングエリアで小休止後は魚津インターまでノンストップで走り、やがて路線右手の彼方に金太郎温泉の塔屋看板が見えて来た。インターを下りて右折し一般道に出たバスは更に右に迂回すると程無く田畑に囲まれた金太郎温泉の玄関前広場に予定より可成り早いお着きとなつた。

 それにしてもバス下車早々、玄関傍に仕つらえられた写真撮影席に導かれ有無を言わせず記念写真を撮られたのには唖然とした。

 女性フロント係の案内で4階の宿泊室に案内されたが、部屋の東面に広がる眺望はまだ広大な白雪を頂く北アルプスの山並を遥かに見渡せて暫くは感慨に耽ってしまつた。

 晩餐の開宴は午後6時ということで早速湯洛みに向かう。浴場は1階にあり、名代の壁画大浴場は24時間入浴可だが岩風呂群は午前6時から午後10時までの時間制限がある由なのでまずは岩風呂を訪れてみた。

 奇岩巨石を配した主浴場をはじめ趣好を凝らした幾つかの浴場に分かれ、注湯口から溢れる湯水は可成り熱いが口に含むと塩辛く硫黄の匂いが鼻孔をくすぐった。勿論露天風呂もあり、残照もまだ強い中、肩まで湯に浸りながら大貫先生は「温泉に入っていて陽焼けしそうだ。」などと笑っておられた。まずは一級と言える温泉を堪能して帰室するに、これはまた体の芯まで温まる効能があったらしく、ジツトリと汗ばむ程でほてりを冷ますのに苦労した。

 やがて晩餐の時間となり、3階に用意された宴会場に向かったが何事も小人数のため時間通り全員集合した。大貫先生が進行役で、高橋会長の開宴の辞を皮切りに高木先生の乾杯の音頭で初杯のビールを乾し、賑やかに始まつた。ベテランとやや若手の2人の仲居さんが酌をしてくれる内、程無く3人のコンパニオン嬢が加わって、いよいよ宴ならぬ艶会へと発展したのは言わずもがなのなりゆきであったろう。

 待ち兼ねた大貫先生のカラオケ登場をイントロに、アルコールに発揚した一同が次々に得意のノドを披露するに至ったが、コンパニオン嬢も仲々の上手で特に彼女らとのデュエットが大流行りとなった。仲でも他の二人と衣装の違う「しおり」という名のコンパニオンは玄人はだしの唄い振りでひときわ目立ったが、この人の正体は後に判明することになる。又、ベテランの仲居さんは、'八寿子'と名のり、道産子で若い頃遥々魚津に渡り芸妓をしていたが、仲々の売れっ子であったとか。3年余で好い人と結ばれ、今は小遣い稼ぎの退屈しのぎに当館で仲居をしているのだそうでキップもよく、最後まで宴席を盛り立ててくれたが殊に高木先生とウマが合ったように思う。

 泡沫の時は過ぎゆき、まだ会はたけなわであったが名残り惜しくも閉会の刻限とは成って田辺先生の指揮下に部屋をゆるがす万歳三唱で幕は下りた。

 心地良く酔った時の常でリポーターはかねて下見をしておいた1階のラーメン店(何しろ田畑地のど真中に孤立した当館ゆえクラブもラーメン店もカラオケ店も全て館内に仕つらえてあるのであるが)に単身出向いた。実を言えば世話係の星さんに慰労の意味もあっての事だが、店の電話で呼出すと高木先生も同行された。3人でありふれた味のラーメンを吸った。又、仕事下がりになったと思われる仲居の八寿子さんに高木先生との再会を取持とうとフロントに伝言してみたが残念ながら連絡がつかず了いだった。

 そろそろ寝所に引上げの潮時かと戻りかけた廊下の右側のクラブの扉口に1枚のポスターが目に止まり女性歌手の写真入りで'山路しおり'ショウとあった。小生、「はてこの女性、どこかで見たような?」と思った矢先、星さんが「あ、この人あの別衣装だったコンパニオンですよ。名前も'しおり'でしたし!」と言ったので更にマジマジとポスターを見入るに何と日本キャニオン専属と肩書きがあり本物の歌手だった。

 第1部のショウはすでに終り第2部は午後10時45分からで可成り待たねばならなかったが、どうせ旅の夜長の徒然だし物珍しさも手伝って店内に入ると他の泊り客がすでに十数人たむろしており、舞台で本格的にカラオケをするのもOKらしくすでに自慢のノドを披露中の客の姿があった。

 ここでどうして一緒になったか思い出せぬがとにかく高橋会長、大貫先生も同席となり、改めてビールの栓を抜いた。処へ、舞台衣装を客の接待スタイルに着換えた彼女が目敏く我々を見付け、店長も同行して来て折角なので合間に1曲だけ客席でサービスに唄わせましょうと言い、唄わせた。しからば我等もと、まず大貫先生がオンステージで得意のノドを響かせたが、酔い痴れていたせいかどちらの曲名も想い出せない。

 リポーターもついおだてにのって'新潟ブルース'を随分の想入れで唄ってしまつたのは覚えている。

 そうこうしている内に第2部のショウが開幕の時間となり、店長の口上で舞台上にシースルーホワイトの舞台衣装に身を包んで今はすっかり歌手に変貌した彼女が颯爽ととスポットライトを浴びて登場した。彼女自身の挨拶に続いて天童よしみの'珍島物語'、中村美津子の'河内音頭'の他2曲ばかりを熱唱したが最後にはステージを降りて客席を巡り握手をして回りながら唄った。しがない地万巡業の1人に過ぎないのだろうが、流石に飯を喰うために唄う職業歌手の唄い振りを垣間見る思いで一寸おセンチな気持ちになつたリポーターであった。

 ショウがはねて寝所にたどり着いたが後は正体も無く寝入ったらしい。

 5月30日(日)、曙の色が東面の障子に忍び寄って来て、初老のリポーターは平素の如く目覚めてしまつたが同室の田辺、大貫両先生と星さんも朝湯に出掛けたようで不在であった。

 目覚めたもののリポーターは昨夜の宴やら何やらの余韻を体内に重々しく残していて朦朧としており朝湯にも行けぬ体たらくであった。

 今日のスケジュールも出発からして午前10時という拍子抜けする程超のんびりした時間であったが何しろリポーターが昨夜でスッカリ精力を使い果たしたので、以後の報告は粗略にさせて貰わざるを得ぬ。

 午前10時、一行の他に何がしかの土産の重量を加えたバスは金太郎温泉を後にした。第一の訪観予定地、魚津埋没林博物館に向う前に大貫先生が土産にお奨めとの魚津の隠れた名物「志村の寿司」なるものを求めるべく、その店にバスを寄り道させて貰った。田圃に囲まれた街道の傍にそれとは目立たない店舗があった。

 皆の註文が多くていささか待たせられたが、代りに10個人り一包みをおまけして呉れたと大貫先生に我々の他運転手さんとガイドさんにも1個ずつ試食させて貰ったが、一種の圧し寿司の類で一片が5×8cm程の長方形で表面に海苔が敷かれ、飯層の中央に鯖を加工したという薄いほぐし身肉がはさめられていた。

 一とくち頬張ると程良い酢甘の味が口中に広がって仲々の美味であった。真空パックで3日程の日持ちとのこと。

 さて、更に重い寿司パックを積み込んで、バスは再び今日の行程を進めるべく走り出した。

 魚津埋没林博物館には港の増設工事中に発見されたという千五百年余り前に海中に没して化石化した杉などの大樹林群に関する展示の他、魚津海岸の不思議「蜃気楼」に関する展示や映写などが催されていた。今日は実は周期的に50%の確率で蜃気楼が出現するとの予報が出ており、海を望む道傍のガードレールに沿うておびただしい三脚付カメラの砲列がシャッターチャンスを今を遅しと待ち構えていたが残念ながら我々の滞在中に蜃気楼は現われなかった。

 日曜なのに魚津市街は自動車の影がマバラであった。

 殆ど雲一つ無い晴天下をバスは次なる目的の魚津水族館へ向かった。

 そこは北陸随一の規模を誇る由で、到着してまず混雑を避けて早々に附属のレストハウスで昼食を持った後ゆっくりと館内巡りをすることになつた。展示魚種は確かに豊富で生きたホタルイカのコーナーもあったが発光実験のため水槽前に大きな遮蔽幕が下りていて気付く人は少ないようであった。又、今流行のルアー・コーナーが特設され、3組程の親子連れが短い竿に糸で結ばれたルアーを水槽に浮き沈みさせてはしゃいでいた。

 観覧を了えた一行は再びバスの人となり、最後の訪観地、糸魚川フォッサマグナ・ミュージアムに向った。

 ここからは一度北陸自動車道に上り一と走りして糸魚川インターで下りて姫川沿いの国道148号に入って糸魚川市郊外の美山公園に新設された同館に到着。大方の予想を裏切って少なくともリポーターには大いに興味をそそる鉱物標本がしかも顆しい数で陳列されており、説明も科学的好奇心を満足させるものだった。高橋会長のお言葉を借りれば「これぼっちの入館者数では勿体ない。もっと当館のPRをすべきでしょう。」と。

 一巡した最後に映写室があり、当地の翡翠に纏わる奴奈川姫と出雲国の大國主命との恋物語の上映を始めると開いて高橋会長、大貫先生、それにリポーターの3名で入室した。

 横3連の映写幕に自動プロジェクターの連動による投映方法での映写のためスライド板の出し入れのカチャカチャ音が耳障りだったが、古誌に残る記述に基く遠い古代の、当時としては広遠な隔たりのあった2人のラヴロマンスには妙に感激する気分であった。このためバスヘの集合の刻限に少々遅れてしまい、本日ちょつぴり体調を損ねられていた高木先生にお叱りを受けてしまったが、この館での見学には満足であった。

 漸くにして全ての訪観を了えた一行を乗せたバスは再び高速道にとって返し、一路長岡への帰途に着いた。

 ハイウェイをひた走るバスのテレビでは「釣ばか日誌9」がビデオ放映されていたが、うたたねをしつつの観映でスジも覚えていない。

 やがて長岡インターに着き市街路に下りると大島本町通りは相変らずの慢性渋滞で、我々のバスも否応無くその流れに捲き込まれた。某先生がしきりに我がバスもバス路線を利用して渋滞を抜けるよう運転手さんに執拗に進言するが、バス路線は在来運行バスのもので観光バスは適用されぬとの一点張りで到頭長生橋も渡り切ってそれでも午後4時過ぎに予定より早く無事医師会館前に到着したのであった。

 末筆ながら、今回の医師会会員旅行の全行程を安全且つ快適に運行案内して下さつた南越後観光のバス運転手さんとバスガイドさん、それに終始世話係に徹して呉れた事務局の星さんに改めて心から感謝致します。

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ミーハーな囲碁ファン  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 月に1回勤務先の「C病院囲碁クラブ」の活動として囲碁を打っている。ベテランの先生方が相次ぎ関連病院の院長に栄転されてしまった。やむなく現役で最年長のわたしが、部長ということになった。実力はどん底の部長である。

 そうだ、もう少し勉強しないと。殊勝に反省して、囲碁雑誌を眺めていた。まじめな記事はすぐに飽き、囲み記事が目に付いた。ある早碁棋戦の大盤解説会があるという。心が動いたのは日本棋院での解説会が日曜日である点と、解説に梅沢由香里の名前があった点である。(−おいおい勉強はどうなったんだ?)

 梅沢由香里二段は慶応大卒の才媛で、現在25歳。平成8年にプロ棋士となり、昨年の勝率は女性で2位とか。天が二物を与えたとも言える美しい女流棋士で、今や囲碁の世界のみでなく、司会やレポーターなどマスコミやCMに登場している。

 夫婦の付き合いで、テレビ囲碁にも興味を見せている家人も誘おう。

「今月末の日曜日、囲碁の解説会が東京の日本棋院であるんだ。例のNHKに出ていた梅沢由香里ちゃんが解説に出るから、いっしょに東京に見に行かないかな、どうです?」

 家人は鏑木清方の展覧会が開催中だから、朝早く出かけ、それを見てから囲碁大会に行こうと言う。田舎で園芸農家のように毎日暮らす我が家としては、珍しく文化的な一日を過ごす予定となった。

 朝早い新幹線で上京し、開館早々に日本画展を見た。昼食を取ったあと、日本橋のM書店に立ち寄った。「時間はいいの?」と家人は心配する。「早碁でも3時間くらいはかかるから、すこし遅刻でちょうどいいかも。」

 市ヶ谷の日本棋院に着くと、観衆がいず、会場はがらりとしている。受付嬢は「大盤解説会は10分前に終了しました。」と言う。

「えっ、もう終わった!?」「はい、記録的な短い手数で投了されて、他の棋士の方も驚いておられました。」

 驚いたのはこちらの方である。

 通路で会話を交わしていると、梅沢がある部屋から出て、こちらへ歩いてきた。水色のスーツ姿がテレビ映り以上にすらりと美しい。

「あっ、梅沢由香里ちゃんだ。よかったね、実物が見られたから。」と家人。

 梅沢は我々2人の脇の自販機で缶ジュースを1個買い、別の自販機に行き、また戻ってきた。謎の行動?

「どうなさつたんですか?」と思い切って声をかけたわたし。

「あ、はい。わたし、冷たい紅茶が飲みたかったんですけれど、ないかなと思ってさがしたんです。」と答え、につこり微笑んだ。

 家人がささやく。「ファンだと言って、握手してもらえば−?」その軽さがついに出ない中年男のわたしでありました。

 大盤解説こそ見そびれたが、日本棋院で、敬愛する呉清源の揮毫扇子を買い求めて帰路についた。

「きょうはいい日だったわねえ。」と帰りの新幹線で家人。

「うん、梅沢由香里と口をきいたことがあるのは、長岡広しといえどもぼくだけでしょう、ふっふっふ。」

「ベンチに座って待っていたとき、大竹英雄九段が通って行ったの。わたしなんだか顔見知りな気がして思わずあいさつしちゃつたの。大竹先生もあいまいな表情で、ていねいにお辞儀して出て行かれたのよ。」

「あるある。アレ誰か、思いだせんが、ひとまず挨拶しておこう。今夜あたり誰だったか悩んでいるかもよ。」

 

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