長岡市医師会たより No.232 99.7

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「東山でラガー・ビールを」  高野 吉行(かわさき内科クリニック)
 「片岡先生を悼んで」         多田 利光(田宮病院)
 「片岡先生の思い出」         江部 直子(長岡中央綜合病院)
 「鮎釣り師の独り言」         太田  裕(太田こどもクリニック)
 特集「夏の思い出」
 「八月六日」             茨木 政毅(茨木医院)
 「夏に関わる思い出」         大関 正知(大関医院)
 「夏に思う」             鈴木 丈吉(鈴木内科医院)
 「夏だ!ビールだ!されど下戸」     山井 健介(山井医院)
 「夏に関わる思い出'99展」       高野 吉行(かわさき内科クリニック)
 「プロが使うスシノコ」        郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

東山でラガー・ビールを  高野 吉行(かわさき内科クリニック)
片岡先生を悼んで  多田 利光(田宮病院)

 先生が梅雨の中亡くなられて、数日経ちました。ご家族を始めご親族の方々の胸中をお察し申し上げます。まだ、40歳を過ぎたばかりでこれからという時だっただけに残念でなりません。

 先生は東京のご出身で、昭和62年に新潟大学医学部を卒業されました。同年、新潟大学精神医学教室に人局され研鐙を積まれた後、平成8年に田宮病院に赴任されました。名医局長として患者さん、ご家族、職員の方々および医局員にも信頼が厚く、診療面、雑事、対外交渉などにも抜群の腕を発揮しておられました。難しい患者さんを積極的に引き受け治療し、社会復帰の手伝いをされていました。また、いろんな方面との対応も一手に引き受け、粘り強く交渉しておられました。また、法律にも詳しく、"歩く六法全書"とも呼ばれ、医局員の法律相談にも乗っていました。

 先生とは新大精神科に人局以来、12年間の付き合いでした。色々なことを話し、色々なことを教えて頂きました。世の中のこと、社会のこと、政治のこと、診療のこと、対処の方法、人間のこと、文学のこと、歴史のこと、表のこと、裏のこと……車のことも。先生はかの広末涼子で有名な早稲田大学で、中国文学を学んだだけあって博学でいらっしゃいました。先生とは5才違いということもあり、兄のように慕っていました。物の考え方が大人で、洗練されていました。今でも、「多田君……した方がいいよ」と、何回も言われたのが思い出されます。

 光陰矢の如しで、"あっ"という間に12年が過ぎました。入局以来の様々なことが走馬燈のように浮かび上がります。今から12年前、フレッシュマンの時のことです。ある用事で、県立"悠久荘"に行くつもりだったそうです。ところが、"悠久山"の周辺をうろうろと車で走り回ったそうです。地元の人間ならば笑ってすむ話ですが、当の本人にしてみれば真剣だったようです。車が大好きな先生でした。東京にも、京都にも車で行きました。そんな先生でしたが、最後まで長岡の地理には不案内でした。新潟に関しては何でも知っていましたが……。大学の医局でも、高田西城病院の医局でも、最後に田宮病院の医局でもにこやかに談笑していました。決して声を荒げることなく最後まで紳士でいらっしゃいました。研究室に入りますと、先生の机はそっくりそのままになっていて、大好きなタバコ、灰皿、カップ麺やカー雑誌などが置いてあります。今でも、先生がフラリとあらわれてソファに座っている幻を見ます。最後になりましたが、"先生、12年間ありがとうございました。とくに最後の1年は楽しかったです。でも、天国ではくれぐれもスピードオーバーだけはしないで下さい。"心より先生のご冥福をお祈り申し上げ、お別れの言葉といたします。

 平成11年6月28日

 

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片岡先生の思い出  江部 直子(長岡中央綜合病院)

 6月28日にぼん・じゅ〜る編集の先生からの御葉書で片岡さんの計報を知りました。驚いて精神科の友人に電話したところ、あまりに突然であり、同級生全体には知らせずにごく親しい者達で見送ったとのこと。お会いしたのは2年前の同窓会が最後になってしまいました。

 私達昭和62年卒はこの10年間に2人の仲間を失いました。再び同級生の計報に接し、その若さ故にやりきれなさが募ります。ましてや御家族の方の悲しみを思うと心が痛みます。

 精神科と内科では出張先の病院ですれ違うこともなく、医師としての片岡さんを私はよく知りません。私の記憶の中の彼は、講義室の定位置で熱心にノートをとっている姿や、穏やかに友人たちと語らう姿です。医学生とはいえ血気盛んで騒々しい男子学生の中で、礼儀正しく落ち着いた佇まいの彼を私達は尊敬をこめて"片岡さん"と呼んでいました。臨床講義で教授から意地悪な質問をされた時はとりあえず彼にマイクを渡せば大丈夫、そんな信頼を周囲から得ていた様に思います。精神科医としてもきっと丁寧に診療にあたられていたのだろうと想像いたします。その一方で、スピード狂で自動車のタイムを友人と競ったり、大恋愛の未に奥様と結婚されたりと、激しい一面もおありだったと後で知りました。生真面目そうな外見にもかかわらず、会話の端々に冗談を散りばめるのも得意でした。

 医進二年の時に学年で文集を作りました。東京出身の片岡さんのページには、生まれて初めての霰に外出できず家の中でじっとしていたこと、住宅街の直ぐ傍にカエルの鳴く田園が在ることが不思議であったこと等が綴られていました。天気の良い日には五十嵐の田園地帯を散歩したり、バイクでのんびりと走ったりするのが好きだった様です。今読み返し、いかにも片岡さんらしい気がします。

"5月6月頃はよく海を見に行きました。夕方遊びに行き、辺りが群青色になるまで佐渡を眺めていました。"

片岡さん、先生の愛された新潟の地でゆっくりとお休み下さい。

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鮎釣り師の独り言 太田 裕(太田こどもクリニック)

 最近中高年を中心に山登りがブームとなってきている。深田久弥の百名山がそれに火をつけているようでもある。私もその年齢にさしかかっているが自分の意思で山に登ろうと思ったことはまだない。しかし月に一度名水を求めて車で山越えをする。こんなところに滝があったのか、こんな身近にブナ林があるのか、新緑のころに見る青葉の美しさはたとえようもないものである。年をとるにつれて自然の中に身を置く機会が増え、また自然を素直に感じ取ることができるようになった。現代社会は、人と自然の間に次々と垣根を作ってきているが、それに反発するかのように自然を求め、自然に回帰しているように思える。

 小さい時よりテニス、卓球、ゴルフなどボールを追いかけるスポーツが好きだったので、自然に親しんだり自然を相手に何かするということがなかった。そんな私に転機が訪れたのは15年ほど前、ガンセンターにいた頃のことで、それは鮎釣りへの誘いでした。釣りといえば、小学校のころ竹ざおで30cmの鮒を釣った事を覚えていますが、それ以外印象に残ることはなかったようです。同室の胸部外科医と塩野義の某氏に攻め立てられついに陥落。5万円ですべての道具を揃え、鮎の入門書を1冊読んで、これで本当に大丈夫なのか不安であったが、そんなことはお構いなしに、まず始めることが大事といざ出陣。自分の趣味に引き込むときの常道は、相手に考えさせる余裕を与えず、まず行動させることなのかもしれない。

 その日はうす曇で、こんなに早くからと思う時間に集合。胸部外科医2人、大学の技師、塩野義の某氏そして私の5人。皆が集まると一言二言言葉を交し、それぞれ車に乗って走り出す。何処へ行くとも言わず、ただついてこいという事らしい。目指すは阿賀野川の上流か。国道からそれ、民家の脇の細い道を通り、地図には載っていないような道を抜け、いつのまにか河原へ出ていた。この道は今でもよくわからない。河原に着くと皆の動きが急に早くなり、まず誰かが運んできたおとり鮎をそれぞれのおとり缶に移し、それを川に活け、竿の準備をし糸をはり、そしてそれぞれおとり缶を持ってパッと散っていった。残ったのは私と塩野義の某氏だけ。川の見方、危ない場所、ハミ痕、初心者の釣りやすい場所をレクチャーして、おとり鮎に鼻管を通して「それじゃ先生がんばって」と某氏もいなくなってしまった。阿賀野川は、太く短い大河なので流量が多く変化に富み、大鮎が棲む荒瀬も多い上級者向きの河川である。いまでも怖くて一人では行かないようにしている。鮎はいっぱいいたようだが、その日は坊主(一匹も釣れないこと)。

 翌日も同じメンバーで同じ場所で鮎釣り。同じ手順で始まり、違ったことは、私をいっぱしの鮎釣り師と見なしてくれたことである。昼食時に、女性2人を伴ったM氏一その当時胸部外科医一が現れ「おまえは誰だ」「小児科の太田と申します。宜しくお願いいたします」河原では新参者は仁義を切らねば受け人れてもらえないことがわかった。この日もまったく釣れない状態が続いた。鮎釣り名人と云われる大学技師曰く「先生よくやるね、最初はみんなそうさ」とお褒めの言葉をいただく。かといってああしろこうしろとは全く言ってくれない。これが職人の世界、うまくなりたいなら俺の技を盗めといっているようであった。鮎釣りは石についている居付き鮎の縄張りの中へおとり鮎を近づけ、それを排除しようとする鮎との絡み合いを利用した釣りです。つまり川底から30cm以内におどり鮎を誘導してやらなければならないのです。今思えば私のおとり鮎は川の中層から上層を吹流しのごとく泳いていただけに過ぎません、これでは何時まで経っても釣れるわけがありません。しかし私にも幸運がめぐって来ました。おやっと思った次の瞬間、竿が下流へあっという間にのされ、支えきれず竿と一緒に川を下ることとなった。どうやって鮎を取り込んだかは定かではないが、2匹の鮎が入ったたもを抱いて河原に座り込んでいた。頭の中は真っ白、膝はガクガク、心臓はバクバク、腰が抜けた状態になっていた。生まれてはじめてこんな興奮を覚えた。そんな顛末で最初の鮎釣りが終わった。そしてまた一人鮎に魅せられた人が誕生した。毎年、解禁日が近づくにつれ胸が高鳴り、解禁前夜は興奮して眠れず、夏の間だけ漁師になりたいと夢想する有様です。

 最後に私の釣りの師である開高健氏の著書「オーパ!」に乗っていた中国の古い諺を紹介します。

  一時間、幸せになりたかったら 酒を飲みなさい。

  三日間、幸せになりたかったら 結婚しなさい。

  八日間、幸せになりたかったら 豚を殺して食べなさい。

  永遠に、幸せになりたかったら 釣りを覚えなさい。

 

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特集「夏の思い出」

八月六日 茨木 政毅(茨木医院)

 昭和20年8月6日は広島に原爆が投下された日で、以後毎年平和祈念式典が広島で開催されており、NHKテレビで生中継されています。毎年テレビをみてわかるように、夏のじりじりとした暑い太陽が、朝にもかかわらず照りつけて、今日もまた暑いなあと思う日です。

 私にとっては別の意味で忘れられない日となっています。昭和47年8月6日は父が心筋梗塞で倒れた日でした。その日は長岡カントリーでメジカルゴルフの例会が行なわれていて、盆地であるこのゴルフ場はことのほか暑かったようです。当時私は沼津の病院に勤務しておりました。日曜日でしたので家族と親類のものと沼津の海岸で海水浴をしており、暑くてまた、かなり焼けていました。夕方電話で知り、急いで長岡に帰ってまいりました。

 幸い参加者は皆医師会の先生方でしたので救急車で病院に入院し、重症ではありましたが一命をとりとめることができ、ありがとうございました。私も50歳よりゴルフを始めましたが、真夏の長岡カントリーは暑く、8月のゴルフは予定しないようにしております。八月六日の原爆の日がくるたびに、父の倒れた暑い夏の日が思い出されます。

夏に関わる思い出 大関 正知(大関医院)

 大嫌いな夏が来る。苦手な夏、パニックに陥りそうになる夏。

 今頃から長期の夏の予報が気になりだし、冷夏だと聞けばホッとし、並だという事なら、又かと身構える心の準備をしだす。

 30度以上の外に出ればフラフラと目が同り、屋内に入れば、クーラーの冷えにてシンシンと骨の髄迄痛みに近くなる様な冷えに襲われる。夜は寝苦しく、睡眠不足の状態となり、頭は朦朧、体はだるく、本当に苦しく、一年中で一番嫌いな季節である。

 早く社会全体が豊かになり、長期の夏休み体制が始まらないかと心待ちにしているこの頃である。

夏に思う 鈴木 丈吉(鈴木内科医院)

 また暑くなってきました。じりじり、むしむしと致します。

 だけどこんな中でも、寒いところがあります。最近特に目立つのが、学術講演会、研究会などの会場です。外ではじっとしていても汗がにじんでくるような中、会場にはいるとひんやりと致します。しばらくの間はいい気分ですが、だんだんと寒くなってきます。次第に骨までしみるようになってきます。ふるえながら、スライドも目に入らず、講師の声もおぼろげになってきます。ふと見ると、講師の先生はきっちりとネクタイ、スーツないしはブレザー、座長の先生も同じスタイルです。あっ、同じ格好をしてくればいいんだ、と気づきます。でも、考えてみれば、この暑い季節に、外ではとても着ていられないような上着を抱えて動き、一方では多くのエネルギーを消費し、大気を汚染していく、というのはばからしいことではないでしょうか。地球の温暖化、ダイオキシン類、内分泌撹乱物質など環境汚染が強くなり、それに対して全世界的な対策の必要性が叫ばれています。また、日本は世界に名だたるエネルギー資源の輸入国です。こんな状態を考えれば、少しでも無駄な資源消費をしないようにして行くべきではないでしょうか。昔、「省エネルック」なるブレザーを着て動いていた総理大臣がおられました。そこまでしなくても、過度な冷房をしないですむ方法を考えて行くべきだと思います。まずできることとしては、一番の中心になる方々に上着を脱いでいただくようにお願いする、というのはいかがでしょうか。そうすれば、空調もその方々に合わせるようになります。暑い夏には、それにふさわしい姿をし、無駄なエネルギーを使ったり、よけいな排出物を出さないようにする、これも社会人としての務めと考えます。暑苦しくないスタイルが、一般社会のコンセンサスとして認められるようになるとよいと思います。暑い夏を、少しでもクリーンに、快適に過せる方法を医師会から始めていくことを願っております。

夏だ! ビールだ! されど下戸 山井 健介(山井医院)

 暑くなり、普通の人(?)にとってはビールの美味しい季節となりました。ほとんどの人たちは、この時期冷たいビールをうまいと思って飲んでいることでしょう。下戸の私としては、羨ましい限りです。私はといえば、ジョッキでなどとはもってのほか、それはそれは小さなコップで半分ほども飲めば、顔面紅潮、心悸亢進、胃部不快感等の諸症状が出現し、それ以上に飲用すれば、よほど体調が良くない限り、全身紅潮、頭痛、嘔吐、さらに意識障害を合併し症状が悪化するのです。ビールが美味しいと思ったことはほとんどと言っていいほどなく、よほど喉が渇いていて、飲むものが他にない時の一口目くらいでしょうか。既に学生時代にアルコールは弱いことは承知していましたが、少しでも飲めるようになりたいと、訓練した時期もありました。よく「飲んで吐いて」を繰り返すと強くなり、美味しいと思うようになって、吐かなくなると言われていますが、いつまで経っても「飲んでは吐き」の繰り返しでした。外科医になりたての数年は、酒の席がそれはそれは苦痛でした。先輩方がお酌してくれた酒を断るなどということは到底叶わぬことで、会半ばでトイレで意識不明に陥っていることがしばしばでした。年を経るにつれ、私が飲めないことが少しずつわかっていただけるようになり、最近はアルコールで悩むことは滅多になくなってきました。

 さてここで当医師会の先生方で、下戸の方は何人くらいおられるのでしょうか? 以前は飲んだが、何か理由があって止められた方は何人かおられると思いますが、生まれつき体がアルコールを受け付けないという人はほんの一握りかと思います。私が当医師会にお世話になってから5年半が経ちますが、先生方で私より飲めない方は私の知る限り、立川綜合病院内科医長の七條先生ただ一人です。医師会も毎年ビールパーティーなるものを開催されていますが、ビールの飲めない者が出席してもただのパーティーとなり、皆さんに気を遣わせることになりますので、欠席させていただいております。また、酒の席の話になりますが、普通にお酒が飲める人が幹事をやると、下戸のことなど気にしないでしょうが、下戸が幹事をやると飲める人たちのことは勿論、飲めない人のことも思慮して会を進めるものです。20〜30人くらい集まれば1人くらいは下戸がいるということを頭の片隅にでも留めておいていただければ幸いです。

 ビール、ビアガーデン、ビールパーティー…夏は嫌いだ。日本酒、熱燗…冬も嫌いだ。ワイン、ウィスキー…いつでも嫌いだ。

 下戸の先生方、アルコール抜きの会を開いてみませんか? 下戸医師の会(仮称)として。酒なしでは盛り上がらないでしょうか?

夏に関わる思い出 '99展  高野 吉行(かわさき内科クリニック)

 開業後3年目の夏が来ようとしています。勤務医時代と違い、日銭商売、まとまった夏休みはなく、かつ患者の少ない3・4・5月分を取り戻そうと貴重なお盆休みも少数の急患のためにスタンバイして並々休みがないこの頃です。だから夏休みはキャンプに海水浴に日帰りレジャーです。しかも最近は子供も相手にしてくれず、海も山もお供はビールです。

 長期休暇の夢を見つつ、厳しい夏(小生7月生ですが)を迎えます。

(鯨波でCoors!)

 

 

 

 

 

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プロが使うスシノコ  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「ついに今日、スーパーH店でスシノコを見つけたわ。ふっとお寿司の酢に関係があるかもと思いついて調味料売場を探したら、ピンポーン。ほら、これよ。」と得意そうに黄色の小袋を差し出す家人である。

「ごはんに混ぜると酢飯が簡単、酢の物もお手軽に…。なるほどスシノコは、粉末の酢なのかあ。お寿司のもとみたいなんだね。」

 黄色の袋に赤字で「すしのこ」と印刷され、大阪のT社が製造販売。開けてみると、粉末の甘酸っぱい香りが強烈だ。

「わたくし苦節一週間、ようやく発見いたしました。」

「えらかったね。パチパチ。よし、さっそく試しに使ってみるよ。」

 さっそくコップにスシノコとビールを入れ、近所の野原で数カ所にトラップをしかけた。ところでオサムシって昆虫はご存じです? オサムシは体長数センチの甲虫で、和名は「歩行虫」と記し、飛べずに歩くのみの昆虫である。美しい色合いから「歩く宝石」と呼ばれる種類もある。漫画家の手塚治虫はこのオサムシが大好きで、ペンネームもそこからつけたという。

 科学映像優秀賞の特集がテレビ放映されたのをたまたま見ていた。その中にオサムシのDNA解析から生物進化を考察するテーマの番組があった。最新の生物学の分野では遺伝子の進化論の新たな展開が注目らしい。一定年代地層に多様な古生物化石が同時に存在する事実が最近発見された。従来の自然淘汰理論ではとても説明できない。多様な種の変異がある時点では爆発的に起きていたわけだ。やはりオサムシもDNAの分子系統樹解析からは、4千万年前に亜種が多様に生じた「一斉放散」があったという。

 また飛べずに移動が少ない昆虫オサムシゆえに、現在のDNA解析による亜種の地理分布と、古代アジア大陸から分離し形成された今の日本列島の古地質学的な区分が完全に一致するのだそうだ。

 実用的ではないが、科学的な好奇心を満たす楽しい番組であった。

 おもしろかったのはオサムシ研究家の採集方法だ。トラップ法で地面にエサ入りコップを埋める。匂いに誘われ中へ入るが、壁面は昇れず捕まる簡単な原理。コツは生息場所への設置と嗜好品の選択。

「スシノコ! これがオサムシにはいちばん。研究者はみんなこれを使ってますね。これにビールを少したらすと、匂いに寄って来ますよ。」

えっ、スシノコってなんだ?

「オサムシ採集の必須アイテムだって、研究者が言うのさ。ちょっとビデオ見てくれる?」とわたし。

「なにかしら? 黄色の袋から白い粉をコップに入れでる。だれもが知っているみたいな口ぶりね。よし、わたしが探しといてあげるよ。」と家人。そして、その後ついに謎のスシノコ発見とあいなりました。

 スシノコの効果は?と言うと、捕れるんですな、これが見事に。新潟県の亜種分布はアオオサムシで、背中が緑金色に輝く美しい黒い立派なやつが次々と採集される。雄雌は前足の特徴で区別し、ペアで飼育中。産卵と幼虫を観察したいのだが…。

 さて酢飯とビールの匂いに誘われご用となったグルメな方々は、飼育箱で何を召し上がっているのか?

 自然界ではミミズや小昆虫らしいが、我が家では犬のおこぼれのドッグフード缶詰(牛肉、魚、パスタ入り)やリンゴなど差し上げて、おそらくご満足いただいております。

 

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