長岡市医師会たより No.234 99.9

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もくじ
 表紙絵 「山古志にて」        丸岡  稔(丸岡医院)
 「在宅寝たきり者訪問歯科診療の現状」 小林 茂広(長岡歯科医師会理事)
 「アイスランド紀行〜その2」     佐々木英夫(長岡赤十字病院)
 「救護訓練に参加して」        渡辺 正雄(渡辺医院)
 「長谷川泰先生略伝 後編その35」  田中 健一(小児科田中医院)
 「次の一手クイズ」          郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

山古志にて  丸岡 稔(丸岡医院)
在宅寝たきり者訪問歯科診療の現状〜具体的内容とその問題点
  小林 茂広(長岡歯科医師会理事)

1.はじめに

 新潟県歯科医師会が平成10年度の広報活動で最も力を注いだ一つに在宅訪問歯科診療がある。これは勿論来年4月1日実施予定の介護保険を睨んでの事もあるが、超高齢化社会に突入しつつある現在、歯科診療所における総患者数の老人割合が平成9年9月の健保改正後急増し、老人を診療する際の特殊性、困難性を歯科医師が強く自覚すると同時に将来的に在宅訪問診療は避けて通れないという強い思いがあるからである。特に「かかりつけ歯科医」機能を働かせて、介護の理念である「QOLを重視した尊厳生 living will」を実現させる上で、自分の口で食べるということが如何に重要かを、根拠に基づいた歯科医学 evidence based dentistry を実践、証明していく事が歯科医の大きな目標の一つである。

 以下、筆者が実際在宅歯科診療を行った際の一例を挙げながら、手順と問題点を考えてみたい。

2.具体的手順

a.初診時:大切な事は的確に主訴を捕えることである。患者は脳血管障害による麻痺 paralysis,paresis も多く、訴えが不明確の事も多い。例えば上下顎の錯誤痛、可撤性義歯(入れ歯)が歯肉にあたって痛いと言う訴えが実は、う蝕歯や歯周病が原因の痛みである事はよく見受けられる。主訴の把握についても患家の、特に普段から付き添っている家人からの情報提供は重要である。次に診察に移るがこの時には出来るだけ座位姿勢をとってもらい、顔貌全体を観察する。外形の歪み等が噛み癖の有無や咀嚼筋の発達具合を示す。この際、顔色や皮膚のつや等も治療に耐えられるかの指標として大きい。所謂ヒポクラテス顔貌では歯科治療以前の問題であろう。患者には血圧脈 SpO2 監視モニターを付けてもらい、座位になっただけで tachycardia を呈したり体調不良をみとめる場合も治療は行わない。ある程度の座位がとれる事が歯科治療の必須条件と考える。これは診療時の誤飲、誤嚥事故を防止すると共に患者の意識レベルも上がり、リハビリにも効果が期待できる。

b.診断・治療計画:主訴、anamnesis 聴取、診察により診断を行う。義歯不適合による咬合不全、褥瘡性潰瘍や初期う蝕歯、初期歯周疾患など、原則として非観血的処置での治癒が可能である物が治療対象となろう。必要があり、主治医への照会の結果も併せて観血処置に耐え得ると判断できる場合は積極的な治療計画が立案できよう。

C.患者、患家へ Informed Consent 並びに主治医への照会:患者、介護者等に病状、治療方針、治療の限界、口腔領域の介護法などを説明し、同意を得る。主治医には次の事を伝える。歯科診療を実施する旨、治療内容の概略と使用薬剤、その際の留意事項があれば通知して貰いたい旨、患者の診断名、現在の症状、最近の検査データ、投薬内容、口腔額域の写っているレントゲン写真が在れば借用したい旨等。特に歯科治療では出血を伴う事が多く、抗凝血剤(ワーフアリン、パナルジン等)使用の有無は特に知りたい情報である。また鎮痛剤として NSAID の使用が多く、アスピリン喘息(AIA)既往についても同様に情報が必要となろう。

d.治療:毎回、診療に入る前に患者に座位になつて貰い、血庄脈拍 SpO2 監視モニターを取付ける。口腔内清掃も兼ねて咳をさせ、その動作全体からとモニター値から治療が可能か判断する。頻脈や激しい動悸、息切れが在る時はその日の治療は中止する事もある。虚血性心疾患の既往があり、ニトロ舌下錠を保持している場合は予め目前に出して置いて貰い治療を行う。歯牙や義歯の切削は切削器具の回転方向を逆にして切削片が咽頭方向に行かない様に注意する。喉頭、咽頭に paralysis がある時にはむせたりして誤嚥性肺炎を惹起する恐れも在るので注意する。切削器具は注水されるタービンではなく、エアーのみのエンジンバーを使用する。これも誤嚥防止のため。抜歯については前述した様に原則として行わないが、痺痛等が抜歯無くしては消失しない場合は高次医療機関に送る。

3.まとめ

 在宅訪問歯科診療は現在の所、広範囲な治療は行えていない。しかし口から食べる楽しみはQOLには不

可欠との認識で医歯連携を緊密にして行く事により目的は達成できよう。

 

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アイスランド紀行〜その2  佐々木英夫(長岡赤十字病院)

3.ゲイシヤー間歇泉

 収材の中休みにそれぞれ国内最大のグルホスの滝とゲイシヤー間歇泉を見に行くことになった。両者とも島の南半のほぼ中央部にある。車は山岳地帯を登り、中央高原に出ると、緩やかな起伏を持つ山々が一面の緑に覆われている。一見のんびりとした丘陵風景であるが、緑は草でなく苔であり、その下は荒々しい溶岩の堆積であり、一歩道を外れれば大小の裂け目に足をとられて歩けたものでなく、下手をすれば大怪我をする。これも不毛の大地の一つかと思い、砂漠と異なる風物を知った。約3時間のドライブでゲイシヤーに着いた。地獄谷の様な荒涼たる場所の至る所

に噴気孔があり、その幾つかは間歇泉である。ゲイシヤーはその中の最大のものであり、30メートル以上も噴き上がり、それは見事なものだと言う。30分に1回の噴気で、丁度噴出が終わったところに着いた。待つのも辛いなと言っていたら、方イドが石鹸を投げ込めば直ぐに噴き上がると言う。試しに旅行用の小型石鹸を1ケ投げ入れ、暫く待ったが、反応は全くない。その周辺で背を向けながら「石鹸が小さすぎたのだろうか、ガイドの言うことも当てにならないな」などと雑談をしていたら、後ろの方で地鳴りのような異様な音がする。誰かの「逃げろ」の叫び声に、振り向くと、噴出が始まりかけていた。夢中で逃げた。熱湯だからまともにかぶったら命はない。飛沫を洛びても火傷をしかねない。50メートル位逃げた所で噴出は頂点に達し、その飛沫をかなり浴びたが、冷たい外気で冷やされた故か、一寸熱い程度であった。そして目前でも別の噴気孔から噴出が始まつており、逃げ惑いながら間歓泉の凄さを身を持って味わった。お陰で写真を撮る余裕もなく、日程に追われて、満ち足りぬ気分のまま、次の予定地グルホスの滝に向かった。

4.クルホスの滝

 滝の近くになると切れ込んだ絶壁の渓谷となり、崖の上は氷河である。断崖に沿った道は凍った雪に覆われ、滑りやすく、恐る恐る行き着いた場所の対岸に滝があった。滝の上面は約90度の広がりを持つ弧をなし、狭い渓谷に向かって100メートル位の落差で落ち込んでいる。氷河からの水で水量は多く、すさまじい迫力である。霧雨状の飛沫が絶え間なく降りかかり、風がくると全く見えなくなる。帰りは日が翳ったせいか、道の雪がバリバリに凍っており、狭い道で滑りやすく、命の危機を感ずる思いであった。また、この渓谷もクラックの一つだと聞かされ、今更の様にこの国の風土の荒々しさを実感した。帰途立ち寄ったアルシングは島の南から中央部に入り込んだ約10キロ平方米の盆地の中にある丘であり、移住者が最初に議会を開いた場所として知られている。高台から眺めると平地を横切る土手のようなものが何本も見える。これが全てクラックであり、ある所では渓谷となり、そこに落ち込む滝が何本も見えた。この落差を利用して水力発電が行われており、アイスランドでは電力供給過剰であり、夜昼なく街灯やイルミネーションが煌々とつけられていた。泥棒避けかと開いたら、「泥棒などはいないし、いても島だから逃げようがない」と笑っていた。

5.鯨見物

 第二の遠出は鯨見物である。当時公式に捕鯨を続けているのは日本、ノルウェー、アイスランドの3ケ国である。レイキヤピックから北へ30キロの港に鯨が捕れたとの報告があり、取材を兼ねて急行した。海岸道路は直ぐに舗装が切れて砂利道となつた。これが大変な道である。尖った火山礫を敷き詰めた様な道で、跳ねた石がビシビシと車体を打つ。アイスランドでは砂利道が多く、パンクしたり、跳ね石でフロントガラスが割れることも多い。車のバンパーにはボンネットを越える高さまで大きな金網が取り付けられており、予備のタイヤも最低4本積むのが常識となっている。それでも島の一周をした時は予備タイヤを使い果たし、修理を待つため一泊余分にとられた、とガイドが言っていた。入り組んだ海岸線には無数の渓流が流れ込んでいる。氷河からの流れのため、水は冷たいが、水量はさほどでもなく、橋のない所も多い。途中、鮭川と呼ばれる、やや大きな流れがあった。小さな段差が何段も続く、急流である。鮭の遡上が多く、格好の釣り場となっている。入漁券が必要であり、100メートル単位で売られていた。2人の釣り人がおり、丁度一人が釣り上げた所であり、80センチ位あった。調子はどうか、と聞くと、「まだ時期が早く、さっぱりだ。昨日からでやっと1匹だ」とのことである。眺めていると遡上する鮭が時々見えるので、魚影は濃いと思われた。川岸には白い菊のような花や黄色の小さな花がひっそりと咲いており、革も少なく、茶褐色の岩だらけの暗い河原の風景に和らぎを与えていた。こんな川でも一旦雨が降ったり、数日天気が続くと、氷河が溶け出し、忽ち増水して激流に変貌する。橋もないような所では立ち往生となる。約1ケ月前、日本人の一行がジープでこんな流れを渡ろうと強行し、流されて行方不明となっている。こんな事故に遭うのは外国人だけで、救援に駆り出される我々には迷惑だと言っていた。

 入り江を何回か廻り、漸くブライダ・フィヨルドのオラフスピック港に着いた。長須鯨が上がっていた。捕鯨船のロープで引かれて来た鯨は20メートル以上もあり、そのロープが解体場のウインチに繋がれた。解体場は30メートル位の斜面とそれに続く30メートル位の平地からなつている。きれいに洗われた斜面を鯨は徐々に引き上げられてくる。待ちかまえた解体人が薙刀の様な包丁を突き刺し、ウインチで引かれるカを利用して徐々に切り裂いて行く。次の人はその裂け目に刃を入れ、皮と肉の間を切離して行く。頭は切り離され、内臓も手際よく除かれて行く。残った肉は、肉の見立て人の指揮により、次々と区分けされてゆく。ウインチで運ばれる約60メートルの間にこれらの作業の大半は終わり、1時間余りしか掛からなかった。驚いたことには解体の指揮をしていたのは日本人だった。岩手県と青森県の出身の二人で、「日本の捕鯨が駄目になつたので、世界各地を廻っている。ここのシーズンが終われば南米のチリーに行く。日本にいるのは1年に3ケ月位である。鯨肉は大半、日本へ輸出される故もあるが、肉の見立ては日本人でなければ出来ない。だから我々の働き場所がある。」と言っていた。鯨見物も大勢居たが、殆どヨーロッパからの観光客であり、ドイツやイギリスの人が多かった。中にはキャンピングカーで1ケ月以上夏休みを楽しむと言う人もいた。(つづく)

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救護訓練に参加して  渡辺 正雄(渡辺医院)

 9月5日(日)、長岡市地震防災訓練が、約4000名の市民参加のもとに実施された。健康センターに置かれた本部の他、市内3箇所の訓練場所で、救護、応急手当、重症者搬送、倒壊家屋からの救出、消火、給水などの訓練が行われた。私は中央図書館会場に出動、石川忍、斎藤聡郎、土田桂蔵の三先生方と四班に分かれて、想定された約40名の患者さんを重症度別に分類し、応急処置、今後の症状准移の注意、担当病院への搬送訓練などを行い、一応無事に終了した。本日は訓練であり、予定されたスケジュールがあるので、比較的短時間に順調に終わったのであるが、実際にこのような大災害が起こつた時には果たしてどうなのだろうか。まず精神状態が違うだろうし、看護、処置面で予期せぬ出来事が次々に起こるのではないかと思われる。待機している病人の中にも時々刻々と病状の悪化する人も出るであろう。倒壊家屋の下敷きになつて動けなくなつている人達はどうなるのだろうかなど、問題は山積している。

 もう一 つ気になることがあった。訓練会場で「トリアージ・タツグ」なる異様な名称の名札を、患者さんの胸につけるのである。要するに「重症度分類札」であって、その色分けに応じて、搬送、待機、観察などを決めようというのである。「トリアージ」とは、フランス語(Triage)で、本来炭坑などで石炭を選別する、仕分けする、分類するという意味であり、タツグは英語(Tag)で、荷札、付箋の意味である。この珍妙な仏英混合語がなぜ使われるのかはわからないが、耳慣れないし、発音もしにくいし、多くの人達は何の事かさつぱりわからない。緊急、混乱の場で、この難しい言葉の説明までしている時間があるのだろうかと心配になった。もつと、誰にでもわかる日本語の名を考えたらと思った。

 とにかく、30度を越す炎天下にもかかわらず、訓練は無事目的を達して終了したことは何よりであった。

 

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長谷川泰先生略伝 田中健一(小児科田中医院)・長尾景二

〜その師、その友、その後輩と医学校の発展〜後編その35

35.越後人の限界

 後に陸軍軍医総監となり、日本医学会の名誉会長となった石黒忠悳の少年時代のこと、父は幕府代官役所に勤める小役人であった。その頃父は何とかして身を起したいと思い、幕府の大官、勘定奉行で盛名のあった川路聖謨(かわじとしあきら)に手蔓を求め、毎朝彼の邸の廊下に並んで登城を待って平伏していた。川路の知を得るためである。忠悳はある日父の供として行った時に川路に声をかけられた。「倖は何歳か。」と問われ、父が「11歳になります。」と答えると、「勉強して良い士になれ。」と云われた。

 川路聖謨は身分の低い家から、たたきあげて、異例と云うべき昇進をして勘定奉行となった。

 これより先、天保11年(1840)6月8日に川路は佐渡奉行に任ぜられた。二年前の天保九年、佐渡一国を巻き込む大規模な百姓一揆が勃発していた。川路の赴任は奉行所の建て直しのためである。7月9日、江戸を出発、三国峠を越えて、21日、寺泊に着き、一日風待ちし、23日、寺泊港を出帆、24日、相川に到着した。これが佐渡奉行の正式の赴任ルートである。

 志士本間精一郎が寺泊の大庄屋の家に生まれたのは天保5年である。川路が、6歳の精一郎の頭を撫でて、「しっかり勉強しろよ」と教えたとか。川路が自分の生まれた家の家訓「わが子をばうてよたたけよ 粗金のつるぎとなるを見るにつけても」を引用して諭すことが当時ありえたかどうか。

 嘉永6年(1853)米艦浦賀に入るや、本間は志を立てて、寺泊を脱して江戸に入り、川路聖謨の中小姓となっている。本間は寺泊を出る時、我此行必ず自ら欺かざるなりとし、是より不自欺斎と号し、和歌一首を残した。

  雲なき真澄の月のこころもて

  あはれ雲井に名を照さばや

 川路はこの年露使応接樹に任ぜられ、中山道を経て長崎に赴き、露使プチャーチンと堂々の応待をして高く評価されている。川路一行の総勢は300人以上である。

 かって佐渡奉行の時は役高千石、ほかに職禄千五百俵百人扶持。旅中の行列は「たて道具・二本槍にて長刀、鉄砲をも持たせ、諸侯にもかわらざる供立」であった。

 佐渡の金銀は船で出雲崎に運ばれ、陸路高田、関山と北国街道を通り、小諸から追分で中山道に出た。

 先に記したが、本間精一郎は尊皇の大義を説き、東奔西走、討幕を画策し、国防を論じ、縦横無尽の活躍をしたのである。しかしこれが同志の恨みを買う結果となつて、暗殺されてしまうのである。29歳の若さで非業の死を遂げた故に、彼は生来の雄弁と卓越した才気を十分発揮したとは云えない。彼は持っていた能力を二分の一か、三分の一以下しか、示すことが出来なかった。事実後世の寺泊人や越後人の誰でさえも殆ど彼の詳細な考え方や意図を知らない。彼は撲夷の志士として、横浜あたりでイギリス人を襲撃して自らも死ぬつもりであったかも知れない。そうとすれば同じような人生と云えるかも知れないが、そうかそうでないか、それすら分らないのである。彼の一生は嫌われて暗殺され、兵首された傍の立札から想像する他、資料が少ないとは悲しいことである。

 これを今から考えれば、彼は他国人とつきあう術を知らなかったと云える。ごまかし、知らぬ顔とまでは云わなくても、交際方法を身につけていたとは云えない。まだしも寺泊や出雲崎は佐渡奉行や金銀を運ぶ行列を見ることが出来る。だからこそ本間や良寛を生んだのだろう。前に述べた山古志村や、渋海川の上流、鯖石川や鵜川の上流、黒姫山のまわりや米山の裏山の村々は他国人を見ることも殆どなく、参勤交代を見ることもなかった。半年は雪の中である。することは雪掘りである。おしゃべりは厳禁である。手を休めてはいけないのである。会話や意見や知識が育つ筈がない。此処から出て他国で暮して働いて、彼等が自分の能力を発揮出来たとは到底思えない。信濃の人々は越後人を肋骨が一本足りないと云った。越後人は彼等を理屈っぼいと云った。何を云っても打ち負かされるのである。

 平成の今日、子供を連れた御母さんが、転勤の夫と共に他県から長岡へやって来る。御母さんは長岡弁の汚さに閉口する。長岡の人々と話をすることに堪えられなくて、子供とともに終日家にいる人もある。長岡の人々は長岡弁がそれ程汚いとは気が付かない。昔はもっともっと汚かった。福井村出身の長谷川泰の汚い言葉には定評があった。寺泊の本間とともに喋れば喋る程誤解を与えたこともあったろう。

「木曽路はすべて山の中である。」島崎藤村の「夜明け前」の主人公青山半蔵は、馬籠の本陣庄屋問屋三役を兼ねる旧家の17代として、本間精一郎より4年程前に生まれている。

 中山道から、見れば、越後の山村も寺泊も福井村も、その百分の一にも及ばないようなものである。江戸と京都を結んで東海道の裏術道的役割をはたした。主な通行には大名30家余、日光例幣使、茶壷道中、和宮などの姫君の東下などがあった。民衆も団体をつくって旅人として通った。伊勢参り、金毘羅、善光寺、御嶽神社、諏訪大社、熱田神宮の参詣など。

 繭買いの商人が通る。馬市が立つ。雨乞いのため伊勢神宮へ神木を出す。ペリーの黒船を知らせる早飛脚が彦根藩主の下へ急ぐ。尾張薄から江戸へ目方115、6貰の大筒の鉄砲を都合6挺運ぶ。この他、この何十倍の交通が行われた中山道は不正と不義を代表する街道となった。脅迫と強請と賄賂が武家側にても公卿側にても公然と行なわれた。

 水戸藩の武田耕雲斎が戦いながら、中山道を通り、敦賀で斬刑に処せられる。相楽総三が赤報隊を結成し、中山道を進むが、東山道総督府に偽官軍として捕えられて斬首せられた。相楽総三も本間精一郎も純粋な尊皇の志士であった。彼等が正当な裁判を受けることもなく、闇から闇へ消された明治維新こそ一歩方向を誤ったものではなかったか。(つづく)

 

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次の一手クイズ  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 「うわ−、もう多勢並んでいるわ。」

「ほんとだね。新潟でもこんなにたくさんの将棋ファンがいたんだね。」

「あなた、やっぱりわたしが言うように、早目の時間に来て良かったじやない?」

 行列の最後尾に家人と二人で並んだ。今日は敬老の日の祝日である。ここは新潟市内にある県民会館のホール前である。折悪しく関東地方に上陸した台風の影響で激しい風雨の悪天候にもかかわらず、続々と人が集まつてきている。「JT杯将棋トーナメント」の催しである。

 人気急上昇中の若手丸山忠久八段対佐藤康光名人という好カードのせいもあり、新潟県の将棋ファンがたくさん観戦にきている。

 わたしは将棋観戦が趣味である。−これは野球が好きというのに2通りあり、大半のかたは見るだけで実際にプレイが好きな方は少数なはずなのと同じである。

 わたしの影響で、家人も衛星放送で名人戦や竜王戦などをよく見ている。家人は席について配布されたパンフレットに載っている中原永世十段のにこやかな笑顔の写真を見てむかっとしたらしかった。

「よくこんななにくわぬ顔で棋士を続けているわよね。まつたく。」

 事情を知らない方は、家人が個人的に中原に何か恨みでも持っていると思うやも知らない。先頃将棋ファンのみならずマスコミを賑わせた中原誠と林葉直子の醜聞事件があったではないか。それ以前は人格者、紳士然とした二上達也将棋連盟会長と同様に、中原誠元名人にすごく好感を持っていただけに、家人は裏切られたと感じて怒っているんである。ひょつとしたら浮気をされた当事者の中原夫人以上に、他人であるわたしの妻の方が憤っているやもしれぬとわたしは思っている。

 ところで自分は佐藤康光名人のファンなのだが、家人も佐藤、丸山の両方ともひいきらしく、きょうはどちらを応援しょうか迷うと言っていた。事前にどちらが勝つか予想する葉書による投書があった。わたしは自分の名前で佐藤に投じ、家人の名前で丸山に投じておいた。これは当日会場の抽選で正解者一名にサイン入り将棋駒があたる。

 さて本番の対局の途中で「次の一手」クイズがあった。これは対局途中で場面を止め、次に指された一手を会場の観衆に当てさせるのだ。公開対局恒例のお楽しみである。

 初めての家人は答えに悩みながらも、うれしそうにしていた。

「わたし、全然わかんないわ。」

「これから参考に大盤解説の井上八段からヒントが出るから。いつも第一に解説した手が本命で、それを書けば当たる可能性が高いよ。」

 家人は素直にうなずき、解説が始まり「七4歩」と聞いたとたん、応募用紙に書き込んだ。当のわたしは第三番目の手を書き応募した。いわゆる「穴馬ねらい」である

 しかし休憩再開後、指された手はやはり本命であった。

「当たったわ、七4歩よ」と家人はワクワク顛になった。だが次の瞬間、参加約1400名の90%以上が正解と聞いて少しがっかり。

 20名の抽選に外れ、サイン入り扇子は貰えなかったのだが、愉快に楽しめたアトラクションであった。

 なお勝負は丸山八段の勝利に終わり、わたしはいかさか残念であった。その勝利者クイズの葉書抽選も、「わたしの名前がひょつとして呼ばれるかも−。」という家人の淡い期待もむなしく、もちろん外れであった。

 

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