長岡市医師会たより No.236 99.11

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「妙見辺り」         丸岡  稔(丸岡医院)
 「「ぼん・じゅ〜」を造った人々」   中山 康夫(塩沢町:中山医院)
 「糖尿病治療における病診連携」    鈴木 丈吉(鈴木内科医院)
 「私 はまっています」        窪田  久(窪田医院)
 「山と温泉47〜その23」        古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「飛行機はきらいだ」         郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

妙見辺り  丸岡 稔(丸岡医院)
「ぼん・じゅ〜る」を造った人々  中山 康夫(塩沢町:中山医院)

 「ぼん・じゅ〜る」は工藤辰夫先生が会長の時に計画されて編集委員が組織されました。鈴木宗、長尾景二、市川豊樹の御三方です。誠に残念なことに、三先生ともすでに故人になってしまわれています。

 第1号の発行は1980年(昭和55年)の5月で、この時の会長は田中健一先生に替わっています。「ぼん・じゅ〜る」の命名は工藤前会長です。そして題字は江部恒夫先生に書いていただきました。フランス語に造詣の深い工藤先生は会報の題名を依頼されると仏和辞典や和仏辞典をはじめ、いろんな本を積んで何日も考えあぐねたあげく最後に頭に浮かんだのが「ボンジュール」だったんだそうです。「そんなのは私にもできるわ」と奥様に笑われだそうですが、会報の趣旨がよく表されている上にスマートで親しみ易い題名だと思います。これを平仮名にしたのが柔らか味をただよわせてまたよかったです。そして江都先生の書はグラフィックデザインの専門家にも誉められたと編集長も鼻高々でした。工藤先生は「題名はフランス語にするように編集部に依頼されたので」と言っておられましたが、市川編集長は「そう言った覚えはないのですが」と医師会史に書いておられます。

 工藤先生は昭和60年1月22日に不帰の人になられてしまいました。葬儀は音楽葬と称し、ホテル・サンルート(今はグランドホテル)でお経ならぬストリングオーケストラの伴奏で行われました。ダンディというか文化的というか、最期まで並の人間には真似のできない生き方でした。「せんちめんたるじゃーにい」という本もいただきましたが、市川先生と一緒になって「工藤さんは気障だねえ。ひらがなで"じゃーにい"とはねえ。」と酒の肴にしたもんです。そうです。いやらしくないギザさをあちこちに振り撒きなさったですねえ。

 この年の4月から新会長としてつとめておられた田中健一先生が急病に倒れたため会長職を辞任され、7月から会長になられたのが編集部三羽烏の一人鈴木宗先生です。外部交渉と紙面構成の市川、レポーターの長尾に加えて、アイデアの鈴木と呼びたい方でした。「長岡の医家を語る」に次いで「医院界隈今昔」も鈴木先生の発案によるものです。会長になってからも次々と良い助言をしてくださいました。私事で恐縮ですが、鈴木先生が抜けられた後に私が編集部に加わったのです。

 さて長尾先生ですが、実にこまめにいろんな所へ足を運び、いろんな人に会い、丹念に文章を組み立てられました。初期の頃の「誰も知らない話」もそうですが、「医院界隈今昔」などは記事というより歴史の論文と言ってもよいほど多くの資料を集めて書かれたものです。ですからたまに私が「四郎丸方面は俺に書かせてくんなせえ。」なんていって書きますと「何々医院界隈に比べて俺んとこはページが少なかった」などとお小言をいただいたもんです。長尾先生は故人になられてからも「長谷川泰先生略伝」を書き続けてなさるんですからほんとに"ごうぎ"です。

 市川編集長も多才の方でした。野人の性格も感じられました。宮内方面の山のふもとにある防空壕跡の洞穴で茸を栽培したりもなさってました。酒も好きでしたねえ。医師会旅行で立山へ行った時のことです。翌朝早く荒井先生と私と三人で雄山へ登る約束をしたのですが、あいにく宵から雨になりました。「登山はあきらめて飲みましょうぜ。」と夜が更けるまで飲み続けたのですが、そのうちに「おめさん方。晴れたぜ。」という声が聞こえたのです。荒井先生と私はすぐ飲むのを止めて眠りについたのですが、市川先生はかまわず飲んでいたようです。それでも翌朝は酒臭い息を吐きながら山へ登ったのです。

「おーい。いちかわさーん。だいじょうぶかーあ。」

 荒井先生と私は時々振り向いて声を掛けました。返事は聞こえませんが上へはたしかに向って来ていて、やがて無事に雄山の山頂に立つことができたのでした。

 医師会旅行といえば故片桐幹夫先生が忘れられません。豪快に飲み、語り、そのうちに足元も怪しくなって来ます。それでも立ち上がるもんですから、私と市川先生が片足ずつ支え持ち、「はい右足。」「そうでない。こっちの足だこてね。」などとどなりながら順序よく前へ出してあげるのです。まるで文楽でした。

 酔ふほどに天網恢々秋の風

 ご自分の俳句そのままです。さあ、その俳句ですが、帰りの車内では連歌を作らされました。

 旅立の酒酌み交はす鰯雲 片桐

 はんばきぬぎは秋の村雨 中山

 街中に月は満ちても心は闇 笛田

 川の流れに頭冷やさん 荒井

 一人来てせうことなしや山の宿 中山

 から松林深く分け入る 江部

 といった具合です。ところが、これがいやで医師会旅行に参加したくないという人もいるとかいないとかいう噂もたちました。でも旅行はほんとに楽しいものでした。酒の席では「さん。君」で呼びあう無礼譲でしたし。

 片桐先生のエピソーも連歌も、そして本業(?)の格調高い俳句もほん・じゅ〜るの記事になりましたので、先生もやはり「ぼん・じゅ〜るを造った人々」の一人であることには違いありません。

 一面の絵を続けられた江部恒夫先生をはじめ、たのまれた通りの行数できっちり納めた庶務日記の鳥羽先生など、初期のぼん・じゅ〜るを造られた方々はまだまだ他に大勢おられますが、今日は特に忘れられない4人の方を書かせていただきました。

 

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糖尿病治療における病診連携〜平成11年度病診協議会より
  鈴木 丈吉(鈴木内科医院)

 平成11年度病診協議会が、10月21日、会館「青善」にて行われた。

 約50名が出席して、糖尿病という一つの疾患を中心に討論を行った。

 我が国の糖尿病患者は著しく増加しており、厚生省は平成9年11月の調査から、糖尿病が強く疑われる人(ヘモグロビンA1c値が6.1%以上)が690万人、糖尿病の可能性が否定できない人(ヘモグロビンAlc値が5.8〜6.1%)が680万人、合計1370万人が糖尿病と関わりがある、と発表した。このうち、実際に医療機関の管理下にある人は200万人強に過ぎないといわれている。

 糖尿病による中途失明者は年間約3,000人、人工透析の新規導入者は年間約10,000万人にのぼり、いずれも原疾患として第1位を占めるようになった。さらに心筋梗塞、脳梗塞など、動脈硬化性疾患の大きな危険因子にもなっている。

 糖尿病は、日常生活習慣に深く根ざした疾患であること、長期間疾患とつきあう必要があること、あらゆる診療科に関わる全身疾患であることなどのため、医療機関の枠を超えた連携が特に必要とされる疾患である。

 まず八幡利明先生(長岡中央綜合病院)から話題提供をしていただき、それを軸にして追加発言、フロアからの質問と活発な討論が行われた。

1.八幡先生からの話題提供

 平成10年4月から平成11年2月までの間に、他医療機関から紹介を受けて受診した糖尿病患者は63例。うち血糖コントロール目的が半数を占めており、初期教育もあるが、コントロール悪化例も多かった。37例に入院治療を行い、入院日数は3週間以上の症例が多かった。全63例中、紹介元医療機関に逆紹介したのは14例、22%であった。36例、57%は同病院にて通院治療を受けており、大半は、本人の希望により病院での治療継続をしていた。

 次に、この期間の紹介元の医療機関40施設(病院4、診療所28)に対してアンケート調査を行った。回収率は87.5%であった。

 病院へ紹介する理由は、コントロール不良、インスリン治療の導入目的、初期教育、合併症の検査・治療の順であった。病院からの治療経過報告に対しては、殆とが満足していた。病院に対する要望事項としては、教育スケジュールや、治療方針のガイドラインを教えて欲しい、というものが大半であった。病院に紹介する際、患者が入院を嫌がるということに困っている施設が多かった。紹介患者のケースカンファランスの参加には、前向きに考えていく施設が多かった。病院からの患者受け入れに対しては、一部インスリン治療を避ける意見もあったが、積極的に受け入れていこうとする施設が多かった。

2.次いで追加発言が行われた。

金子兼三先生(長岡赤十字病院)

 病院の仕事としては進行した合併症の治療、初期教育があるが、特に後者を重視したい。発見後1年未満にしっかり教育した人は、教育効果が上がりやすい故、糖尿病発見後できるだけ早い時期に、それも入院の必要性も理解してもらった上で病院に紹介して欲しい。

中島 滋先生(中島内科医院)

 現時点では、病院に患者さんが集中する傾向があり、これからの患者増加を考えると、開業医もレベルアップをはかりながら積極的に治療を分担していく必要がある。そのためにはケースカンファランスやオープンシステムに積極的に参加していきたいし、病院側にもそのような方向で考えていただきたい。また病院から紹介していただいたあとも、スムーズに定期的な(3〜6か月位)病院受診ができるような道を考えていただけるとありがたい。

高木正人先生(高木内科クリニック)

 初期教育後逆紹介を受けた人も、コントロール悪化時などに備えて、病院との連携が大切である。合併症が進めば、病院での治療が必要になる。病院勤務時代は、どの開業医で、どの程度の人まで診てもらえるかの情報が不足していて困った。

3.質疑応答に移り、フロアからも活発な発言が出た。

 診療所へ紹介された患者さんがまた病院へ戻る原因については、薬剤や検査スケジュールの違いが大きいとのことであった。

 糖尿病患者さんの心因的な問題に関するアプローチには、診療所や小病院が身近な情報を持ってアプローチできる面が多いのではないかという意見があった。それに対しては、入院の際に得られる情報も含めて、お互いに良く情報伝達をしながら連携を進めていったらよいだろう、ということになった。

 初期教育の際、入院することの意義としては、医療側と患者側の人間関係が良くなる、治療中断率の低下に役立つ、ということがあげられた。外国では、血糖コントロールのための入院は殆どない、とのことであった。

 以上、会の進行に沿って筆を進めたが、これからの連携を考えるに有用な会であった。患者さんに長い間、良い状態を保ってもらうため、病院は門戸を広くし、開業医はレベルアップにつとめながら、更によりよい連携を模索していかなければ、と考えさせられた。

 

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私 はまっています  窪田  久(窪田医院)

 私は自分でいうのもなんですが、下手な横好きで、趣味が多い方です。将棋、カラオケ、野球、ゴルフ、スキー、ボーリング、コンピューターなどですが、最近はイラストロジックというパズルにはまっています。

 碁盤の目の様に、四角いマスに区切られたパネルがあり、パネルの上段と左側に並んでいる数字をもとに、一つ一つのマスを塗りつぶしていき、イラストを完成させるというパズルです。最近本屋でも4種類ほどの月刊誌が並んでおり、かなり全国的にも人気があるパズルのようです。10×10マスの簡単なものから、170×65マスもある超難解問題まで様々です。超難問は一万個以上のマスを推理しながら、正確に塗りつぶしていかなくてはいけませんので、なかなか根気がいるのですが、見事なイラストが完成したときの満足感は格別のものがあります。但し、大物はとても一晩では終わりません。徹夜をして翌日の外来であくびをしないように、適当なところで切り上げた方がよいと思います。しかし、完成間近になるとなかなか途中でやめられず、私も最近少々寝不足です。秋の夜長にイラストロジックはいかがですか。

 

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山と温泉 47 〜その23  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

(2)北側、西側登路の概略を説明します。

 この地域(十日町市・中魚沼郡中里村・津南町・長野県下水内郡栄村)は、日本列島内の他に類を見ない壮大な河岸段丘で、底に信濃川が流れ、段丘は、信濃川右岸、清津川と中津川の問に最も良く発達し、中津川と志久見川の間がこれに次いでいる(津前町町誌)。中魚沼地方は、海底から隆起が始まり、信濃川が姿を現わしたのは、地質年代で洪積世・200万年前頃と言われる。隆起で出来上がった広大な平野に信濃川が縦横に蛇行していたものと思われる。その後、日本列島に激しい地殻変動が続き、褶曲運動がそれぞれに激しく起こり、平野に続く段丘形成の始まりとなった。これと苗場火山群の4回にわたり繰り返された火山活動により地形・段丘・ローム層の形成となったと言う。例えば、津南高原のような北に向った台地は、火山活動による噴出物が流れ堆積した結果出来上がったもの。地殻の褶曲運動は、信濃川左岸の台地を作り、火山活動は同時に河岸段丘を造った。台地には、保水力に富むローム層が高層湿原を育て、溶岩の堆積は隙間が穴となり、風穴を作った。峰から流れ落ちる水は、時として300米以上の断崖をもつ深い沢となり谷となった。信濃川・清津川・釜川・中津川・志久見川と、これらの川の支流沿岸の狭い平地、傾斜地に人間が水を得て住み暮らし、集落を造った。この集落への路が古くからの登路となっている。この地方の歴史は古く、未発掘の遺跡を含めれば、かなりの数があると言う。教育委員会職員の話では、火焔土器などは、手つかずのまま、傷一つ無いものがいくらでも出土すると言う。私が長岡の住人である事を意識しての少し大袈裟な言い方かもしれないが、話半分としても面白い。石器時代遺跡もあり、古くからかなりの数の人々の住み暮らしていた事は確かなようです。(津南町町誌・中里村誌)

 北・西側の登山口への交通を略述します。

 苗場山の北側は、起点を中魚沼郡・中里村田沢・津南町として、国道117号線より、津南高原に入る。又、国道117号線より国道405号線に入り、通称・秋山郷から津南高原に入る。これらの登路はすべて小松原湿原を縦断し、神楽ケ峰より山頂に向う事になります。

イ:大場・小松原道

ロ:谷上(グリーンピア津前)・小松原道(イに同じ)

ハ:太田新田(見玉)・小松原道

ニ:逆巻温泉(清水川原)・結束・見倉・小松原道

 西側は、越後・信州秋山郷より苗場山山頂への登路で小松原湿原は経由しない。

ホ:大赤沢新道・横山・猿面峰道・硫黄川・高岩沢・霧ノ塔・神楽ケ峰の旧道は廃道になり昭和63年(1988年)新道伐開された。

ヘ:小赤沢・楓沢・坪堤道

ト:上之原・平太郎尾根道

 国道117号線は、十日町市、津南町の市街、土市・田沢間一部を除いて道路・橋梁は整備された。又、国道17号線石打駅前(上越線)から国道353号線に入り、十二峠トンネルを抜け、清津川右岸を西に向かい中里村田沢で国道117号線に接続する。国道117号線は田沢集落の中心部を抜け、新しい清津大橋で清津川を渡る。清津川はこの橋の300米下流で信濃川に流れ込む。橋を渡った清津川左岸から中深見-越後田沢線に入り、上流に向かい、更に支流釜川を遡行する。秋山郷への津南町入口は、国道117号線からの入口は、津南町中心街にあって左折、国道405号線に入る。国道を直進、越後秋山郷、信州秋山郷に向う。

 列車・JR線の場合は、越後川口・十日町から飯山線で、越後田沢・津南下車、いずれも駅から離れた、国道117号線沿いの越後交通バスセンターまで徒歩、バスで登山口に入る。又、長岡市、十日町市、湯沢町からそれぞれバスが運行されています。しかし登山口迄の直行バスはなく、マイクロバスに乗り換える場合が多く事前に調査・確認が必要です。但し、谷上(グリーンピア津前)へは直行バスがあります。上越新幹線・在来線湯沢駅前から、石打駅・十二峠・清津峡入口・中里村田沢・津南町経由信州野沢温泉・森宮野原行バス(越後交通)があります。但し、四便。秋山郷内へのバスは、津前町から和山温泉迄運行しています。(南越後観光バス)。最奥の切明温泉迄廻ってくれるかどうか、利用する場合は確認してください。

*越後交通津南町大割野出張所 TEL 0257-65-3157

*越後交通六日町営業所 TEL 0257-72-3155

*南越後観光バス(津南町) TEL 0257-65-3647

(つづく)

 

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飛行機はきらいだ  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「あのゴルファーのペイン・スチュアートが飛行機の墜落事故で死んだんですって。」と家人が言う。

「えっ、ほんと?」と驚くわたし。

「来週研究会で福岡へ飛行機で行く予定なんだよ。心配になったな。」

 もともとわたしは飛行機はきらいだ。高度差で耳は痛くなる体質だし、万が一の事故では確実に死亡するわけだし。今回の研究会は土日とんぼ返りの日程で、飛行機を利用するしかなかった。自分より若い有名ゴルファーの事故直後、心配に不安が上乗せ状態になる。打ち合わせに某社担当者が来た際、浮かない生返事をしたらしい。

「先生、どうされたんです? 体調がお悪いんでしょうか?」

「いや、もともと飛行機が苦手なんだよね。墜落しそうで不安。先日ペイン・スチュアートも自家用機で死んだばかりでしょ。」

「あれは小型機でしたし、大きい飛行機はだいじょうぶですよ。わたくしも同じ便で参ります。」と慰める二十代のNさん。

「知り合いが一緒に同乗していると思うと安心なのも不思議だよね。一緒に死ぬわけなんだけど。」

 さて土曜日に外来診療を終えて午後新幹線で上京、羽田空港経由で福岡へ向かう。その朝「万が一のときは、君は好きな生活を送ればよいが、犬の面倒を最後までみてやってくれよな。」とわたしが半ば冗談半ば本気で家人に言った。その結果、急に真顔になった家人に「飛行機が到着したら、その都度すぐに電話をくれるように。」と申し渡された。

 さてさて問題の飛行機だが、驚きました。離着陸の際、乗客席のテレビ両面にコックピットの視線で、滑走路のカメラ画像がリアルタイムに映写されるのである。ちょっとパイロット気分を味わえた。飛行中もナビゲーションで刻々と位置を示す地図が表示され、高度一万メートル、時速六百キロなどの高度、速度も示される。

 気分を紛らわすため、国際線なら無料なのにと思いつつ、ボルドーワインを飲んで読書。さいわい福岡までのフライト1時間半は短く感じられた。例によって下降時の気圧差による内耳痛に悩まされた。飛行機が無事に着地したときには、心の中で「ブラボー!」。約束なので空港から携帯電話で家人に連絡した。「無事でよかったわね。ではお土産ですが、テレビで見た博多出身タレント推奨のチカエという店の明太子とカルカンをお願いしまーす。」

 心配したふうでも、即座に名品の明太子と好物のカルカン饅頭をお土産に指定する家人も、しっかりしたお方でしょう?。

 翌日は日曜日ながらの研究会。ただ昼休みに抜け出て、福岡市美術館で開催中のラファエル・コラン展の美しい絵を鑑賞し、地元の普通の店で博多ラーメンをおいしく食した。タクシーの運転手に「有名な明太子の店、なんて言ったかな?遠いとか近いとか…?」「ああ、そりゃチカエだね。」買い物に寄ると、稚加栄と書く立派な店なのであった。

 夕方研究会終了後、ただちに福岡空港に。空港でカルカンと頼まれてもいない自分の好物のカラスミまで買う。新潟空港への帰路は一同り小さな機体で再び不安になったが、ビールで喉を潤しながら無事に到着したのであった。

 まだ耳に違和感があり、電話の声もくぐもって聞こえる。以前も数日間なおらないことがあった。

 飛行機はやっぱりきらいだ。

 

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