長岡市医師会たより No.237 99.12

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もくじ
 表紙絵 「新雪(石彫の道)」      丸岡  稔(丸岡医院)
 「インフルエンザワクチンの40年」   石川  忍(石川内科クリニック)
 「コレステロールは本当に悪者か?」  渡辺 正雄(渡辺医院)
 「野鯉の餌付け物語」         一橋 一郎(一橋整形外科医院)
 「山と温泉47〜その24」        古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「おでん酒」             郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

新雪(石彫の道)  丸岡 稔(丸岡医院)
インフルエンザワクチンの40年  石川 忍(石川内科クリニック)

 今年はインフルエンザワクチンが発売早々に品切れとなり、当院でも毎年接種している患者さんまで断らざるをえなかった。どういうわけでこういうことになったのか、その背景を知りたいと思った。手元にある雑誌の中でインフルエンザワクチンに関係のある部分だけざっと目を通しただけだが少しは理由が分った気がした。

 日本でインフルエンザワクチンが導入されたのは1957年。その後「インフルエンザはまず学校で広まり、子供たちを介して社会へ広がっていく」という仮説が採用され、学校での集団接種が始まった。以後30年間多いときには年間1700万人もの子供たちが接種を受け続けた。1979年前橋市ではインフルエンザワクチン接種後に痙撃を起こした人が出たのをきっかけに集団接種をひとまず中止し、以後6年間にわたって前橋市医師会が中心となって疫学調査を続けた。方法は単純なもので集団接種を中止した前橋・安中市と、続行した高崎・桐生・伊勢崎市との間で欠席率を指標として比較したもので、集団接種に関する唯一の大規模な対照試験となった。結果は両者の欠席率に差はなくワクチンの効果は証明されないとした。さらにインフルエンザワクチン接種後の脳症により死亡あるいは重度後遺症を残した例が続いたため(1993年までの認定患者は121名で他に認定をもれたり裁判中の患者がかなりいる)、1986年より実質的に任意接種となり、1994年には正式に予防接種法の対象からはずされた。ワクチンの生産量も最大時の年間1700万人分から1994年にはわずか30万人分まで落ち込んだ。このインフルエンザワクチン集団接種中止に至る議論の中で、接種を続けようと主張する医師たちと、中止を主張する医師たちの対立はかなり激しいものだったと思われ、それが今だに感情的なしこりとして残っているらしいことは今回読んだこれらの医師たちの文章の端々にうかがわれた。

 インフルエンザワクチンの有効性についての議論は現在も続いている。私は全くのしろうとでこの問題についてうんぬんできる立場ではないが、いくつか気になったことがある。一つは日本からのデータがほとんど例外なくワクチンを有効としていることで、一方、欧米の文献の半数程は統計学的には有意差がないとしている。日本のワクチンが優秀で良く効くのか、あるいは昔から日本ではネガティブデータは論文になりにくいと言われているように結果的に有効性が証明できなかったデータは発表されなかったのか。もう一つは欧米のデータではRCT(無作為対照化試験)がかなりあるのに日本のデータにはそれが一つもないこと。今や医薬品の効果をみるときにはRCTは常識だと思うのだが。

 反対している人たちにもいろいろあり、ワクチン接種はすべて反対という極論から有効性と副作用についてのデータがはっきりするまでは反対という人もいる。一方インフルエンザワクチンを勧めている人の中にも温度差はあり、アメリカの勧告にならって高齢者やハイリスク患者などインフルエンザにかかったら死ぬかもしれない人たちだけに勧めようという意見から、乳幼児・高齢者はもとよりすべての年齢層に勧めるべきだという人まである。常識的にはアメリカの勧告案が妥当なところかなという気はする。

 いずれにせよここ数年の乳幼児インフルエンザ脳症の発症報告、昨年の施設でのインフルエンザによる高齢者の死亡の報道はインフルエンザワクチンを推進しようと考えている人々に絶好の"復権"の機会を与えたようで、今年後半は医学難読のインフルエンザ特集がことのほか多く、インフルエンザワクチンを推進しようとする人々の声であふれていた。さらに厚生省、ワクチンメーカー、マスコミが一体となってワクチン接種を勧めたためワクチンは昨年の150万人分から一挙に350万人分にまで増産されたにもかかわらず、あっという間に品切れとなったのである。

 それにしてもインフルエンザワクチンが世に出てから40年以上が経過し、延べ一億人が接種を受けているのにこのワクチンは今だ論争の渦中にある。

 

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コレステロールは本当に悪者か?  渡辺 正雄(渡辺医院)

◎このところ高脂血症関連の薬剤が相次いで発売され、名前を覚えるだけでも大変である。確かに効果はあり、きれがいいなと感心する薬が多い。コレステロール値や中性脂肪値はやみくもに下げればいいのだろうか。血清脂質の効用はないのだろうか。薬の宣伝に振り回されていないだろうか。反省の意味をこめて脂質の功罪について検証してみたい。

◎最近血中脂質をやたらに下げることに反発する文献が驚く程多く出て来ていることを御存知だろうか。動物実験では、コレステロールと飽和脂肪酸を制限した猿が、通常の餌の猿よりも、非常に攻撃的になったと報告された。人間でもいじめ、窃盗、器物損壊、暴行などの攻撃的性格の少年は、非攻撃な少年よりも明らかにコレステロール値が低下していた0という(-20%)。(Biol. psychiat. 19.)コレステロールの高い人は責任感があり自制心を持ち、社会との適応性がよいのだという。

◎ではなぜコレステロール値と、反社会的行為が関係するのだろうか。これは、コレステロールと脳内セロトニン受容体とが関係している。神経伝達物質であるセロトニンが減ると精神不安を来たし、反抗的になり、いらいらし、暴言、暴力など攻撃的な態度をとるようになる。血中コレステロールの量が増すと脳内へのセロトニンの取り込みが多くなり、精神不安状態を抑制するのだという。最近発売された抗うつ剤SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)は、シナプス間隙に放出されたセロトニンの、シナプス前膜への再取り込みを阻害し、シナプス間隙のセロトニン濃度を増加させ、神経伝達を促進して心を安らげようとする薬なのである。なお、中性脂肪と精神状態の変化に関しては、まだ充分に解明されてはいない。

◎抗高脂血症剤を用いると、心筋梗塞や脳梗塞など、血管障害による死亡は減少する(-15%)ことは明らかな事実である。しかし Brit. Med. J. によれば、血管系起因の死亡は減少したものの、総死亡数は不変又は微増(+7%)、癌(+43%)、事故、自殺に至っては(+76%)と激増したという。いささか眉唾もので、にわかに信じ難い数字であるが、れっきとした医学雑誌に発表されたものである。血管死を免れた人達が別の死因の方にまわったこともあろうが、それを差し引いてもあまりにも事故・自殺の数が多く、驚きを通り越して恐ろしささえ感ずる。

◎チャーチル、吉田茂、田中角栄などの例をひき出すまでもなく、リーダー格となって人を鼓舞し結束させて、事をうまく運ぶ人達は、きまって肥っている人が多く、鶴のようにやせた人はまず見たことがない。前述の如く、コレステロールの高い人は社交性があり責任感が強く、自制ができてくよくよしない。美食による満足感から精神的に安定するのであろうか。しかし、まず間違いなく血管病変は起きるであろう。

◎要するに、きつい食事の制限をしてうまいものも食わずいらいらしながら細く長く生きるか、美食をしてゆったりとした気持で少し短命に終るかのどちらかなのである。いずれをとるかはその人の生き方、考え方なのだ。この点からみると煙草もよく似ている。私は煙草は吸わないが、愛煙家がゆったりと気持よさそうに一服吸っているのをみると、いかにも気持が安らいで幸せそうだなと思う。禁煙していらいらしながら日々を過すか、多少短命でものんびりした気分で毎日を暮すか、その人の選択である。

◎低コレステロールが精神不安や自殺をひき起すという説に私は全面的に賛成しているわけではないのだが、クランケの治療にあたっては少しは考えなければと思っている。少なくとも血液検査をあまり行わずに、年余にわたって漫然と投薬し続けることは避けたいと思う。

◎さて皆さん、美食短命と、いらいら長命のどちらをえらびますか。中間がよい?そうはうまくいかないのが人生です。

 

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野鯉の餌付け物語  一橋 一郎(一橋整形外科医院)

 去年6月の或る朝、自宅裏の堀割に泳ぎのぼって来ていた数匹の鯉達に、形が不揃いなだけで本当は立派に煮つけにできるのに売物にならなくなったくず麩を知人がくれたのを折り割って、試しに2、3日続けて投げ与えたことがあった。すると味を占めたものか朝方のその時刻になると、きまって姿を見せるようになり、麩片が水面に落ちると見るや浮き上って来て吸い込むように食べる様子が面白くて、到頭貰った一袋のくず麩をすっかり鯉達に提供してしまった。

 末は姉川に連なるというコンクリート壁に囲まれた中二間程のこの堀割のかみ手はこの辺の市街地にまだ残っている田圃の灌概用水で、刈り倒された畦草やら風に吹き落とされたり不埒な輩が投げ捨てたごみ屑やらが流れ下って来るのだが、水底を透かして見ると結構沢山の小魚達が群がっており、それを狙って時々、五位鷺や小鷺が浅瀬に佇んでいたり、又、何と、宝石と見まがう緑碧の羽をきらめかせたかわせみまでが訪れる。其処に一際大きな鯉達もやって来るので否が応でも注目の的となったのである。

 雑魚はともかく、鯉達の由来を知りたかったが、どうやら川下の町内の子供会などの魚獲りイベントで放流されたり、個人が飼鯉を何かの理由で川に解き放ったものらしいことが判った。そうなればもう野鯉となった訳で誰憚らず餌を与えてよかろうとばかり麩を投げ与えている内に到頭ストックが底を尽き、盛夏の猛暑も手伝って浅くなった堀割の水温も上昇する日が続いて、鯉達は元より雑魚達もいつの間にか姿を消し、私もいつしか忘れていた。

 今年の6月初旬、何気なく裏の刷子戸を開けて堀割の水面を覗き込んだところ、何と三十糎程の紅白の錦鯉を交えて大は四十糎余り、小は二十糎程の黒鯉が4、5匹泳ぎのぼって来ているのが目に入った。残念ながら今年はまだくず麩を貰えず、家にあったセンベイや食パンのヘリやらを急拠調達して、訪れた鯉達に投げ与えてみた。初めは投げる動作に怯えるようにサッと四散したが、食物が撒かれたと知るや、我先にと争って寄って来た。

 ボコッ、ガボッ、クポッ、さまざまな音を立てて浮遊する食物片を、文字通り鯉口を開けて吸い込むように食べるさまは本当に見飽きぬ面白さで、ついつい家の朝仕事をほっぽらかしそうな体たらくであった。

 それからは堀割が雨で増水して急流化し、大濁りして魚達も安全な処に逃れているような日以外は、毎日のように鯉達の朝食係となったのである。ところで鯉達に混じって、これも三十糎近い似鯉のスマートな魚影が3匹、仲間入りして来たが、彼等は決して浮遊している撒餌にはとび付かず、鯉達の喧騒を他所に水底に粛然としているのが興味深かった。

 一度、離れて静止している似鯉の鼻先の水面に餌を放げてみたが、全く興味を示さなかった。その内にくず麩が届けられ、早速大盤振舞を始めたら、何と鯉達は次々に仲間を連れて来て20匹は下らぬ大世帯に膨れ上がった。刷子戸をカラカラと開ける音や外壁をトントンと叩く音にも反応して次々に下流から泳ぎのぼって来るばかりか、常連数匹は何時も家の裏手の渕の処に屯して待っているようになった。ところで野生動物の餌付けには色々と不都合な事件が起きて問題化することが多いが、少なくとも裏の堀割の鯉達は人様に迷惑を掛けておらず、むしろ殺伐とした街中のこんな堀割にも大きな鯉達が悠々と泳ぎ廻っているのは心楽しい情景と言うべきであろう。

 ともかく鯉達があまりに大勢さんになってしまったので、くず麩は見る間に底を尽き、はては私以上に鯉ファンになってしまった家内から撒餌購入の提案が出され、遂に5キログラム袋の成鯉用浮上性撒餌を買い込んでしまった。これが又鯉達には大人気で、餌を撒くや我勝ちにと餌に泳ぎ寄り押し合いへし合いしての大朝食宴となった。それにしても、幾日も鯉達を観察している内に、20数匹も居る中で特に目に付く数匹は性別はともかくも大分個体識別が可能になって来た。少数派の錦鯉は夫々の体の色模様で直ぐ判別できるが、数の多い黒鯉は体長や肉付きで上位4匹は何とか識別し、その印象で勝手に命名したあげく、その日の食べっぷりなどを家内と共通の話題にして楽しんだ。

 その代表的な鯉達のプロフィールを述べてみよう。錦鯉では一番人きく矢鱈と他魚を押し退けて餌を一人?占めにする黒地に緋色を散らした"緋威し太郎"、尾鰭の上半が欠けている"尾切れ三色"、性別不明だがおっとりと可愛い"紅白娘"などで、ここの黒煙では最大の四十糎は下らない"大将"、胴太な"ごんぶと"、やや肥満体の"ごろ太"、薄ぼやけた体色の"白べえ"などである。残念ながらこちらで勝手の命名だから名を呼ばれた鯉が嬉しげに泳ぎ寄って来てはくれないのは当然だが、とにかく楽しくなる。

 こうして十月初句までは鯉達との心楽しい朝の付合いが続いていたが、堀割の流水量が減って来た10月も末頃には次第に待っている鯉達が少なくなり、やがて「おや、今朝は来ていないなあ」という寂しい日も続くようになった。それでもお馴染みの2、3匹は刷子戸を開けて外壁をトントンと叩くと問も無く姿は見せてくれるのだが、餌を撒いても2、3粒粒食べると後は一寸つついた程度でソッポを向いてしまったり、はてはソソクサと泳ぎ去って行くのであった。秋も深まり、水温も低下して全ての魚達が下流の柿川の深みへと越冬に行くのだろう。手許には買い込んだ二袋目の鯉の餌がまだ半分余り残っているが、私達も長い冬籠りに耐えて再び廻り来る陽春の日に鯉達に相見えるのを心持ちにしつつ大切に仕舞って置こう。

 

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山と温泉 47 〜その24  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

小松原湿原・神楽ヶ峰・苗場山頂

イ:大場・小松原道

ロ:谷上(グリーンピア津南)・小松原道

ハ:太田新田(見玉)・小松原道

ニ:逆巻温泉(清水川原)・結東・見倉・小松原道

 イ:中里村田沢から国道117号線清津大橋を渡り右回りで大橋下に入り、清津川左岸道路に出る。これは県道中深見・越後田沢線で、中里村所平、津南町大場まで延びている。橋下から間もなく中里村倉俣、ここで国道353号線から倉俣大橋をわたる農免道路が入る。倉俣からは未だ整備が出来ていないため、工事中の舗装道路が集落を縫いながら続く。清津川支流釜川を釜川橋で渡り、約15分で「中里村田代」に入る。「田代」は、釜川右岸の西面、急傾斜地に張りつくように軒先を寄せ合った35戸の集落。集落の殆んどが、瀧澤、桑原の姓、それに山田が少し。「田代」は旧い集落で、隣の秋山郷とは往来があったと言う。中里村役場でお会いした桑原氏によれば、集落内の桑原家に「黒駒太子」像の画幅があると言う。黒馬(黒駒)に騎った聖徳太子(厩戸皇子587〜622年)を「黒駒太子」と言い、太子像を中心に太子信仰(王子信仰・童形神信仰)が平安朝期以前よりあり、これが秋山郷を経由し、この集落に入ったものと推定される。この黒駒太子画像は、信州秋山郷・長野県下水内郡栄村堺字小赤沢の阿部家所蔵の画幅が有名。阿部家の太子像は七幅あったと言い、「太子黒駒天駆ける図」であるが、田代・桑原家の太子像は「太子登岳図」であると「秋山郷の民俗」にある。太子像は、阿弥陀如来として葬儀の祭壇に掲げられるものだそうです。

 田代集落を抜けると、明るく広い釜川の川原となり、道路より右上方向、釜川左岸上流標高560米の斜面に「津南町所平」の集落が見えてくる。ここまでが定期バスで約40〜50分です。歩くとかなりあります。路は直進すれば、間もなく「田代の七ツ釜」。「田代の七ツ釜」から先は林道になります。この林道は、通行可能な場合には、この先の「大場」集落南で大場林道と合流、小松原湿原「下ノ代」700米下の入口を右に分け苗場山の北裾谷を廻り、祓川に達し三俣・苗場山登路に出ます。しかしこの林道は、林野庁国有林専用林道ですので人・車の通行には許可が必要になります。「田代の七ツ釜」は水害により崩壊、復旧工事終了しましたが、渓谷はすっかり明るくなり「神秘の釜」と言うわけにはゆかなくなりました。田代集落を過ぎ、直進せず右折、釜川を「田代橋」で渡り、釜川左岸から、大型車の通れない狭い路を高さ約300米、「所平」集落に向ってジグザグに登ります。「所平」は、地籍が「津南町・中深見丙」、集落名「所平」で41戸。集落の頭の上は、標高660米にグリーンピア津南、大谷内ダムがあり、更に、標高900米から400米高地には、広大な津南高原台地が拡がっている。車の場合、前記のように釜川河岸の登路より所平集落の軒先をかすめながら登り、平坦路になると間もなく「大場」集落に入ります。地籍は、「津南町・中深見壬」、集落名「大場」。戸数16戸。釜川渓谷は狭まり、標高700米となり東向きの急斜面に16戸が寄り集まっています。集落内の広くない路を右に左に回りながら集落の鎮守、諏訪神社下に出る。ここから更に登り、距離にして500米で灌木帯に入ります。路は右にグリーンピア津南、左に大場林道入口と二分する。左の大場林道を進み、間もなく灌木帯を抜けると営林署大場林道ゲート(一般車両通行止)に着く。車はここまで。田沢よりゲートまで車で70〜80分。ゲートより小松原湿原入口(下の代・下の田代・下ノ芝)まで8粁、標高差約700米、路は半壊のコンクリート仮舗装、固い路の歩行約2時間は覚悟してください。大場林道からの登路は右側の山道に入ります。入口が、ガイドブックにより2か所の記載がありますがいずれも標示板があり、同じ路になります。「越後の山旅」には、「林道の標高2240米で下車。西上へ緩登すれば約700米で、小松原下ノ芝となる」とあり、車でここまで入れればかなり楽です。林道より湿原への登路は、林道右側。千島笹の藪路、雨天は悪路となるのでゴム長靴のほうが良い事もあります。笹藪から灌木・喬木帯の路を緩登、太田新田からの登路を右に岐ける両登路の合流地点となり、下ノ代(下の田代・下ノ芝)1339米に入る。(但し、太田新田からの登路は国有林巡視林道を通りますので、営林署の許可が無いと通行出来ません。)ここまで、大場林道ゲートより2時間、展望の全く無い緩登路。下の代より1時間、標高差150米の緩登で中ノ代(中の田代・中屋敷)1512路は灌木・喬木帯を抜けて行くのですが、湿原内だけでなく、木道になっていますので、ビブラム底の靴は滑り易いので注意。ここで「見倉-東秋山林道-風穴-金城山」の登路と合流する。更に、上ノ代(上の田代・上屋敷)1565米まで、40分間じような路。登路が東に向いた頃からぬかるみが多くなる。しかし、好天ならば問題ない。展望の無い路がいきなり抜けると、天空が開け、木道の湿原が眼前に広がる。この湿原が他の湿原と少しでも違うとすれば、こんなような現れ方をするためではないでしょうか。避難小屋の小松原小屋(無人・1570米)は、苗場山山頂への登路の左にあります。水場があるので苗場山山頂登行はここで充分の水の補給をする事。山頂直下「雷清水」迄は水場は無いので注意。ここまでがこのコースの苗場山登高の場合の半行程。これからが本格的な登山となります。距離8粁・時間にして4〜5時間・標高差575米(1570米-2030米-2145米)を要します。ガイドブックに6粁・3時間とあるのがありますが、下りでしょうか?。小屋で充分な休息を摂り、水を補給して出発します。ここからは日陰山まで急登になります。日陰山1860米で大休止。日陰山は地図上では(三の山)と記載されている。「越後の山旅」には「三ノ山は、三つの大突起の連聳を南望して指称したものだ。西から東へ黒倉山、小松山、日陰山と認証されている」の記載があるので山名が残っているのでしょう。アルペンガイド「上信越の山」には「灌木の尾根をひと登りすると三ツ山の最初のピーク釜ケ峰に着く」とあるので三つのピークを言うのである事のようです。次第に展望が開けます。この辺りからは、登り下りを繰り返しながら、釜川の源頭・釜ケ峰1850米に出る。展望良好。この先少し下ったところで大赤沢からの硫黄川・柳平登路が合流する。この登路は現在廃道でほとんど使われていないので注意。大赤沢からの登路は、大赤沢・硫黄川・横山・猿西峰1832米・山頂と新しく伐開されています。釜ガ峰から少し下り、鞍部から急登すると霧ノ塔(桐ノ塔)1993.6米に着く。ここからも苗場山の火口の縁を歩く事になるので、高低差の少ない登路なのですが、灌木帯で路は根曲竹に岩塊となり、歩きづらい。神楽ノ庭1984米付近は池塘のある草原、千島笹の原となり、間もなく周りが開け頭上に草の稜線が見えて来る。この頂上稜線で「三保・祓川道」が合流する。残るは、神楽ケ峰から雷清水、雲尾坂の急登で、苗場山頂になる。この登路は、下山路にしたい。(つづく)

 

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おでん酒  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 めっきり寒くなりました。みなさまは晩酌されますか? ビールよりお燗をした日本酒がおいしい季節ですよね。いや、わしはビールしか飲まんのじゃ−もちろんけっこうです。赤ワインはポリフェノールが豊富で体によいから、これだけですって−けっこう、けっこう。自分の好きなものをほどほどにお召し上がりください。つい最近も米国の大規模な健康調査で、一杯じゃ不足だが二杯の飲酒は確実に脳血管障害の発症頻度を減少させるなんて、左党には喜ばしい医学記事を見かけました。「酒は百薬の長」とはうまいことを言ったものであります。

 ところでお酒類は絶対におつまみに相性がありますよね。みなさまもご自分のお好きな「おつまみとアルコール飲料」の組み合わせなど選んでみて、ゆったり心を遊ばせてみてくださいね。わたし自身は、冬が旬の生牡蠣ならクレージソルトなんてハーブ塩をかけてレモンをたっぷりしぼって、赤ワインといただく。ついでにブールーチーズをのせたクラッカーを合間につまむ。きわめて手軽なささやかなしあわせを味わっております。

 だが燗酒はこの場合まったく合いません。わたしは基本的には日本酒は冷酒を好みます。でも冬はなんと言っても、おでんをつまみながら、お燗したお銚子から一杯やるのは最高でげすな。いや、幇間じゃないんですから、変な言葉使いは慎みましょう。原稿書いて想像しただけで酔ってしまってはいけませんです。

 さてある日、夕食で家人の用意したおでんを食べながら、お酒をちびりと嗜んでおりました。もっともわたしは食べるほうがもっぱらですので、ほんとうに一合未満です。

「どう? そのおでんのこんにゃく、いつもよりおいしいかしら?」と家人が問います。

「どうしてさ? なにか由緒正しきいわれのあるこんにゃくなの?」

「まあ、そこまではいかないんだけど。長岡市内の地元でこんにゃくいもを栽培しているお家で自家製造したものなんですって。」

 家人によれば、老夫婦が軽トラックで町内を回っているらしく、わが家を訪れた。すべて手作りだからおいしいはずだ、買ってくれと言う。数個入りの袋で、まあ普通の値段だという。

「まあ味もふつうなんじゃない。むしろそう聞くと、手作りこんにゃくの黒くてぷりぷりのイメージとは逆に、柔らかで個性なしだよね。」

「やっぱり、そうよね。わたしも料理しながら、そう思ったのよ。」

 ところでこんにゃくはとても見かけの変わった葉を広げる植物で、名前に地下の芋を掘上げ、春に植えなおし数年かけて大きくする。このこんにゃく芋をすり下ろして水であく抜きをし、凝固剤を入れて固めるとこんにゃくができるそうです。

「でも地域のお年寄りが自分たちで作ったものを行商するのは、なるべく買ってあげなよ。それが生きがいにもなるわけだしさ。よっぽどまずくなければね。」

 うなずいた家人は思い出し笑いをした。

「でも変わったおじいちゃんだったわ。先月もこの近所にこんにゃくを売りにきたんですって。その時うちは留守だったらしいの。−いやあ、残念だったろう。せっかくわしのうまいこんにゃくが食べられるとこだったのに。留守していて損したなあですって。」

 

 蒟蒻の一つが残りおでん酒(清田喜代子)

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