長岡市医師会たより No.243 2000.6
このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。
表紙絵 「入広瀬にて」 丸岡 稔(丸岡医院) 「長岡と立川綜合病院と私」 上原 徹(立川綜合病院) 「開業一年目を終えて」 高木 正人(高木内科クリニック) 「南部班近況」 佐藤 充(幸町耳鼻咽喉科) 「山と温泉47〜その26」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所) 「メジロ御用達のガマズミの木」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
入広瀬にて 丸岡 稔(丸岡医院)
長岡と立川綜合病院と私 上原 徹(立川綜合病院)
このたび5月1日付で、立川メディカルセンター立川綜合病院病院長の職を拝命いたしました。若輩者であり、その重責を思う時、胸が締め付けられる思いがいたしますが、地域医療と病院の発展のため、微力ながら尽力いたしたいと思いますので、長岡市医師会の諸先生方には御指導御鞭捷をよろしくお願い申し上げます。
せっかく"ぼん・じゅ〜る"誌に、紙面を頂戴いたしましたので、私の自己紹介をさせていただき、病院長就任の御挨拶に代えさせていただきたいと思います。
私は、昭和23年5月北海道札幌市で生まれました。当時の札幌は、現在の大都会とは違い、少し郊外に出ると地平線が見える、広大な大地の中にあったことを覚えております。その小児期の環境による影響のためでしょうか、性格的に大変のんびりしたところがあり、良く言えばあまり物事に動じず、細かい事にこだわらないということですが、実際は、大雑把で、ルーズで、細かい事は全く苦手で、気が回らない鈍感なところがあり、その上小心者ときています。高校1年の時、父親の仕事の都合で、東京に引っ越しました。我々の世代は、戦後のベビーブームの盛りで、周りにはいつも同じ年代の人間があふれておりました。都立高校の編入試験は、募集人数が各校2〜3名のところに、全国から転勤族の子供たちが200名近く受験する状態でしたので、とっても合格する気がしませんでした。何回かの不合格後に、何とか都立練馬高校という新設校に編入学できました。
高校卒業後、2年間の浪人生活を経験し、昭和44年新潟大学に入学させていただきました。当時は学園紛争の最盛期で、医進課程の授業などほとんどありませんでした。ノンポリの私は、東京と新潟の往復で見た上越線沿いの山の美しさのとりこになり、山登りばかりやっておりました。ひどい時は、年間80日くらい山の中におりました。したがって、医学部の授業はろくに出ておりません。この間、北海道の日高山脈で、ヒグマの声におびえながら一睡もできずにテントの中で震えていたり、吹雪の中でテントが飛ばされそうになったりなど、いろいろ怖い経験もしました。でもまだ生きているところをみると、悪運は強そうです。
医学部を卒業する頃、進路を決めなければなりません。基礎学者になる能力は全く無く、臨床の道を選んだわけですが、内科医の緻密な頭脳は持ち合わせておらず、体力勝負の外科系を、ということになりました。脳外科、耳鼻科、眼科などの細かそうな科は、はじめから不向きで、考慮外でした。整形外科は、解剖学で骨の話を閉くたびに虫酸が走り、手が震えたため断念しました。残るは外科か、産婦人科か、泌尿器科かということになりましたが、入局の多かった外科、産婦人科はあきらめました。泌尿滞科は、「なんとなくきたなそうで、素人受けしないし」、という事で、二の足を踏まなかったといえば嘘になりますが、「尿路から全身を見ることができる。最初の診断付けから、治療まで一貫してあたれる。」という当時の新潟大学泌尿器科学教室医局長 外川八州雄先生の力強いお勧めもあり、佐藤昭太郎教授の教室に入局しました。そこでの最初のオーベンが外川先生で、また外川先生は私の前任の立川綜合病院泌尿器科初代医長でありました。そのため外川先生には、一生頭が上がらない状態です。
修行時代に出張病院として、長岡赤十字病院、長岡中央綜合病院に勤務しました。日赤には、現医師会長の斎藤良司先生が、中央には武田正雄先生がいらっしゃいました。両先生から、泌尿器科の基礎、手術を教わりました。また特に武田先生からは、酒の飲み方、夜の道のあれこれを教わりました。若気の至りで酔っ払った勢いで、看護婦寮にストームをかけた事もありました。さの当時の、長岡は冬にはかなりの積雪があり、普段は雪山の上を歩き、道路を横切る時は雪の無い道路まで降り、更にまた雪山を登り直すという状態でした。雪が降るとタクシーがすぐになくなりましたが、飲み屋から歩いて帰ることのできる距離に住まいがあり、その意味で新潟市より住みやすい町だと思っておりました。
昭和62年9月、外川先生が柏崎市で開業されることになり、立川綜合病院泌尿器科医長を命じられました。その後今日に至るまで、尿路結石症に対する体外衝撃波破砕療法の新潟県での最初の導入、前立腺肥大症に対する経直腸的温熱療法、高エネルギー焦点式超音波前立腺治療の導入など、立川晴一理事長の御理解により、好きな事をさせて頂いております。平成11年4月、立川厚太郎前院長の下で副院長に命じられました。さらに本年5月、立川厚太郎先生が副理事長専任になった事から、病院長職を頂きました。
この数年立川綜合病院は、柴田昭元病院長、立川厚太郎前病院長の指導のもとに、臨床研修病院指定、日本医療機能評価機構認定など公的にも認められるようになってきました。さらに立川前病院長は、医療ソフト研究会を初めとする、病診連携・病病連携の体制の強化、診療録などの医療情報開示のシステム化、院内オーダリングシステムの立ち上げ、医療事故等に対するリスクマネージメント委員会の発足など、立川綜合病院が20世紀から21世紀に向けてさらに発展するために必要な事柄の基礎作りをしてきました。私の第一の仕事は、立川前病院長のこれらの業績を継承し、さらに発展させるために鋭意努力する事だと考えます。
私どもの立川綜合病院は、公的な援助を期待できない自主独立の病院です。また長岡赤十字病院、長岡中央綜合病院などに比べ伝統のある病院ではありません。現在全職員が一丸となって歴史を作るよう努力をしている、いわば発展途上国であります。常にチャレンジ精神を持って、地域の住民の方々、診療所の先生方、先輩格の病院の先生方から、さらに信頼していただける病院作りを心がけております。そのためには、私どもの医療に関するあらゆる情報の開示を積極的に行う、開かれた病院を目指しております。医師会の先生方におかれましては、お気軽に病院をお尋ねいただき、職員に対して叱叱激励していただければ、大変ありがたく思います。より信頼される病院になるための、ひとつの礎になる事が出来ますれば、私にとって望外の喜びです。よろしくお願い申し上げます。
目次に戻る
開業一年を終えて 高木 正人(高木内科クリニック)
いつか来る、そろそろ来るかと思っていました「開業一年目の感想」の依頼がついにやってまいりました。幼少のころより作文と国語が苦手だった私にとっては、ストレスの時を迎えました。
長岡赤十字病院に2〜3勤務した後に開業しようと漠然と思っていたところ、同病院が性に合ったためと、理想的な開業用地がなかなか見つからなかったので、同病院に満6年間もお世話になってしまいました。今までにない貴重な経験を多くさせて頂きまして、この紙面をお借りして改めて御礼申し上げます。
ところで、理想的な開業用地は、直ぐには見つからないと聞いてはいましたが、これほど大変だとは知りませんでした。契約の印鑑を押す直前に破談になった土地が三か所もあり、精も根も尽きてしまい、こうなったら関原町で開業している父が元気な間は、10年でも20年でも病院に勤務しようと心に決めて、現在自宅を購入してしまいました。ところが、その1か月後に緑町の土地(現在の開業地)の話が持ち上がり、なんと半年後には開業してくださいとのことでした。普通は設計に半年はかけると聞いていましたが、この度は1か月で仕上げなくてはならず、また当院に勤務していただけると予定していた看護婦さんが取りやめとなり、心労のため5kgもやせてしまいました。さらに、通勤途中の長岡赤十字病院の駐車場内でタイヤ上めにつまづいて転倒し、右顔面に打撲、挫創を受傷してしまい、初めて労災保険の適用をうけてしまいました。前途多難な出発で、時間の余裕がなく、睡眠不足の毎日でしたが、たまたま、同じ敷地内で一緒に開業される玉木先生とは同年齢であり、このメディカルタウンの大家さんも同年齢である事を知り、運命の歯車が良い方に回り出すような気が致しました。そして、やっと、平成11年6月4日に開業いたしました。
内科医院を開業するにあたり、いくつかの目標を掲げました。今日はその到達度と反省をしてみたいと思います。
1.糖尿病・肥満を専門とするクリニックにしたい
長岡赤十字病院で糖尿病外来と肥満外来をしていたお蔭で、来院患者さんの約50%がその疾患の患者さんです。大きな栄養指導室を用意して、そこで糖尿病教室と講演会を行なうのが理想だったのですが、現実は厳しく、小さな栄養相談室で毎週火曜日と第2、第4土曜日に管理栄養士による栄養指導を行ない、予約があれば毎日午後3時から4時まで糖尿病教室(個人指導)を私と看護婦とで行なっています。糖尿病教育指導をまかせられる看護婦さんが来てくれたことは、大変助かりました。しかし、消化器科、呼吸器科、循環器科の先生とは違い、自分の得意分野を公に標傍することができず、NTTの職業別タウンページには糖尿病・肥満相談室という言葉を却下されてしまいました。早く広告規制が緩和され、内科・糖尿病科と掲げることが可能になることを切望しています。
2.年に一回くらいは発表をする
この1年間は、健康保険や介護保険、在宅総合診療の請求の仕方などを勉強することで余裕がありませんでしたが、今準備中で今年の秋ころにはなんとか発表できれば良いと思っています。開業医になると発表がしにくくなるのが良くわかりました。
3.患者さんが仕事を休まなくても受診できるようにする
早朝7時くらいから採血だけをして出勤してもらい、また、夜8時くらいまで診察をする。すでに歯科医院や都会では良く見られることのようですが、自分の体力を考えたり、職員の問題、医師会やその主催する講演会に出席して学習もしようとすると、残念ながら時間的に無理なことがわかり、今のところ実行していません。
話は変わりますが、開業して1年の間に救急車騒動が2回もありました。1回目は元気で受診された方で、診療を終わり尿管結石の診断にて紹介状を受付でもらい、帰ろうとしたところ待合室で崩れるように倒れてしまい、そのまま意識混濁、血圧触知不能となった症例でした。その時はこちらの心臓がどきどきしてしまい、開業後、初めての院内死亡が出るかと思いました。無箏病院に入院、しばらくして下血し、十二指腸潰瘍からの出血性ショックだったと診断がつきました。
2回目の方も元気で来院されたのですが、待合室で待っているうちに症候性てんかんの大発作が発症した方でした。病院の救急外来では、しばしば経験するような症例でも、設備のないところで自分独りで診療することは大変心細いことだと知りました。
さらに、看護婦は3人勤務しているのですが、この1年間に2人が妊娠し、そのうち1人が出産しました。雇う時の面接で2〜3年間は妊娠しませんとしっかり約束をしたのに、裏切られてしまいました。平成11年4月1日から改正男女雇用機会均等法が施行されていますが、看護婦さんよりも看護士さんのほうが、安定した雇用がえられるかもしれないと思うようになりました。
最後になりましたが、開業に際しいろいろとご助言を頂いた長岡市医師会の諦先輩方ならびに医師会事務局の方々には大変お世話になりました。今後とも宜しくお願い致します。
目次に戻る
新規開業した際最初に南部班という言葉を耳にしたとき、愚かな私は"南部牛追い歌"をイメージしてしまいました。医師会が班分けされているとはつゆほども思っていなかったからです。しかし、この班分けはたしかに合理的で、スムーズな活動を行うには程よい大きさだと実感するようになりました。
南部班は西を信濃川、東をJR線、南は宮内地区以南、北は旧市街地で囲まれた地域です。(北の境界線は新参者の筆者にはよくわかりません)。最近の会員増加は顕著で、筆者の開業した7年前には会員数28名だったのが現在では39名と著しく増えています。医療機関数も19機関から26機関と増加しましたが、そのうちわけは新規開業8、廃業1となっています。それにともない各診療科が満遍無く配置するようになりました。また若い先生方が増えて来たため平均年齢もちょっぴり下がって来ている様です。先日、筆者の診療科の大先輩でもある込田先生が亡くなられました。御高齢にもかかわらず頑張っておられるお姿に尊敬の念を禁じ得ませんでしたが、これも時代の流れかもしれません。
現在、南部班で行っている活動で特に目立ったものはありませんが、各診療科がそれぞれ充実してきたため診診連携は円滑に行われています。今後患者さんのニーズに答えたよりきめ細かい連携の模索が必要になるかもしれません。
また他の班と同様忘年会を行い、会員の親睦を図っています。なかなかの酒豪も多く、毎年盛り上がりを見せています。種苧原診療所の佐藤良司先生も毎年出席され、お得意の錦鯉の話題などで座を盛り上げてくださいます。もう少しこういう会を増やし会員相互の更なる親睦を図れれば、いろいろな意味でプラスになると考えますが……。今後の課題と思います。
ヘ:見倉風穴・金城山・小松原道
車の場合は、東秋山林道見倉トンネル前、風穴入口駐車場が登山口になります。
バスの場合は清水川原バス停の次「結東」バス停下車、中津川を渡り、見倉の集落迄登り、風穴登山口から小松原道に入ります。下山の場合は、林道から見倉の集落の路に入り、中津川の河原まで下ります。対岸が結東バス停です。1時間かかります。
「風穴」の下を過ぎると見事な樵林に入る。木々は丈高く、雑木が少ないので、陽射しを遮り風通しが良い。金城山(1354米)への急登が始まる。「越後の山旅」に「風穴登山道は、風穴の標高750米から金城山へ比高約600米、2時間で登り切れば健脚の方だ…」とありますが、私は2時間半もかかってしまった。見倉トンネル上部の広い尾根から、次第に雑木の混じった狭い尾根となり、直登が続く。樹間から、中津川渓谷の集落、遠くに丸い烏帽子岳が見えると、登路は平坦となり稜線に出る。北に向かった急登路は木の根、崩壊地などあり歩き難いが、雑木が陽射しを遮り、夏期の登高には有り難い。登路が南に向かって緩い登りにかかると間もなく金城山頂上分岐、肩になる。路は小突起の登り下りを繰り返し外村沢で水を十分補給し、緩やかに登る。大白桧曽、岳樺の路は、展望が何もない。路は歩きやすく、緩やかな登り余り苦にならない。喬木が消えると湿原の田代に出る。ここが中ノ代。時計を見ると金城山から2時間であった。この登路は、大場林道からの登路と合流し、上ノ代を経て、苗場山頂に向かう。昨夏の山行は、湿原までの目的であったので、朝5時に登り始め、午前10時中ノ代着、午後2時半には風穴に下り着いた、水場は、見倉の林道脇の沢と外村沢しかない。私は、金城山下で水が尽き、死ぬ思いであった。水は十分用意して戴きたい。中ノ代からの下山は、外村沢から金城山へ緩登、そして金城山より見倉風穴迄急下降、膝を痛め易いので、ゆっくり下りてください。
付記:見玉の不動尊
眼病に霊験あり、として全国的に有名、殊の他参詣人が多い、と門前店の人達は言う。この寺は正式には、天台宗・見玉山正宝院 地籍・津南町見玉 檀家十戸 信徒数百名 本寺 京都・園戒寺(京都・比叡山延暦寺未寺)住職・33世池田乗順(現在は三十四世のようです)と、津南町誌、寺院名鑑に記載されています。昨秋に見かけた住職は若い人でした。門前店の人は「としよりは亡くなったからね」と。この寺に、農業の神として大黒天が併祀りされているが、この縁起は良く解らないと言う。また、大正年間に、西宮から戎神を迎えている。農事に限らず、すべての生産とそれに依る繁栄を願ったものでしょう。(平家の谷・市川健夫著)寺の縁起は、市川健夫氏の「平家の谷」にかなり詳細に記述されています。この正法院(現在は正宝院)の発端は、鎌倉時代文治2年(1186年)平家の残党中沢氏がこの地に居を構えたのがその始まりである、としている。この中沢氏は、宮本清左衛門と称し、やがて中沢と改めたようだ。宮本清左衛門は、ここに落ち延びる際、守り本尊として不動明王の木像を奉持して来た。木像は行基の作で、長さ一尺余りの黒尊仏であったと言う。黒尊仏は霊験あらたかであったため、同居するは恐れ多いとして不動堂を建立する。以来現在まで続く。永禄年間(1558年〜1570年)には、七堂伽藍四十八塚の規模で、現在の集落敷地の大部分が境内となる程に隆盛を極めた。しかし永い間に数度にわたる火災で宝物、重要書類等すべて烏有に帰したと「平家の谷」にある。寺院名鑑、津南町町誌には、文治元年(1185年)壇ノ浦平家滅亡後、翌2年(1186年)平清盛家臣宮本清左衛門がお告げにより平家の守護神不動明王を奉持し見玉村に辿り着き安置し、自ら住職となってこの寺を誕生させた、とある。又、本尊、不動明王の裏に「清盛内知見」と印されてあったと言うのですが、見えないそうです。いずれにしても、可成旧い名刹です。杉の大木の間から滝となって流れ落ちる深い山からの水と乾いて木目の浮いた山門の柱と扉、深山の籠堂などが、下界の地獄を消して呉れます。見えない眼が見えるようになる説話が山の木々のように沢山あるのです。(つづく)
梅雨前の好天のころの話である。家人と庭木の勢定の真似ごとをしていた。ハサミで物を切るのはカタルシスの快感なのか、夫婦そろって好む園芸作業のひとつである。
さてふたりでガマズミ「らしい」庭木の伸び過ぎと思える枝を切り落としていた。この「らしい」と言う曖昧さには理由がある。いまや3メートル以上に大きく育った落葉広葉樹なのだが、数年前に数十センチの丈で我が家に登場した。わたしの父が庭に植えるようにとくれたのだ。樹木の種類は庭に出た実生の苗木なため判らないらしかった。
3年前、よく育ったその木を見て父いわく「おお、オオカメノキが植えてあるんだなあ。」
そこでわたしたちはオオカメノキなる樹木なんだと納得した。
ところが今春、さらに育った同じ木を見て、また父いわく「おお、ガマズミの木だなあ。」
ちなみにわたしの父はいまだ呆けているわけではない、もと生物教師で、最近も新潟県自然観察会の現役幹部を務めるという経歴の持ち主である。ことその自然観察に関する言動は、実の子ならずとも尊重せざるをえないのはあるが…。
正しい名称はさておき、その木は我が家の家風にあったのか、水はけ不良な粘土質の土や照リつける、西日にもめげず、すくすくと成長した。ついに先日は、額アジサイ風の多房の白い花を咲かせたくらいである。そこでこの秋に真っ赤な実をつけたところでガマズミと最終認定する予定となった。
「あっ、こんな所に小鳥の巣があるぞ。驚いたなあ。」
「えっ、ほんとう?」
「ほらここだよ。見てごらん。」
「わあ可愛い巣だねえ。」
地上2メートルの見えにくい奥枝に、十センチ直径ほどの小鳥の巣が作られてあった。まだ青さの残る小枝や藁や羽などがうまくきれいに組み合わされてできている。踏み台に乗って上から覗くと、数個の真白い小さな卵があった。
図書館で鳥類図鑑など探したが、野鳥の卵はごく限られた種類のものしか検索できなかった。卵に斑模様がないから雀でないことはわかった。
数日後好奇心から覗き込んだら、なんと親鳥が巣にいて、瞬間に目と目が合った。バタバタと慌てて巣から飛び出していった。一瞬でも目の周りが白い特徴は歴然だった。
久しく野鳥観察会に出ていないがわたしもじつは「日本野鳥の会」会員なんである。雀の大きさのこの野鳥の判別は容易だ。この巣の主はメジロである。
観察を続けるうちに、つがいのメジロが仲良く交代しながら、巣で抱卵したり、餌を取りに行ったりする行動が判明した。近くの庭木でちるちると美しくさえずる。わたしが好奇心いっぱいで巣に近寄ると、心配した親鳥が警戒の鳴き声で大騒ぎ。家人は親鳥が恐怖で巣と雛を見捨てはしまいかと心配して「せっかくうちに来てくれたんだから、そっとしておいてあげなよ。あまり巣に近寄っちゃだめだよ。」とわたしを諌めた。でも、言うことを聞かぬこどものように、親鳥と家人の目を盗み、こっそりと黄色の雛が巣内に折り重なった様子も覗いたわたしであった。
そして3週間ほどが経過し、家人がいつもより賑やかな早朝から聞こえていたと気づいた日が、雛の単立ちだった。
後日そっと覗くと、きれいにからっぽとなった巣が枝に残っていた。
蜘蛛糸で巣を作るてふ目白かな 蒼穹