長岡市医師会たより No.248 2000.11

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もくじ
 表紙絵 「晩秋 山本山」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「脇屋誠悦先生を偲んで」    田中 健一(小児科田中医院)
 「脇屋誠悦先生を偲んで」    高木昇三郎(高木医院)
 「一隅を照らす人々」      板倉 亨通(北長岡診療所)
 「脇屋誠悦先生のこと」     鳥羽 嘉雄(内科小児科鳥羽医院)
 「同期の櫻」          吉田 鉄郎(吉田医院)
 「脳ドックの功罪」       渡辺 正雄(渡辺医院)
 「喫煙の勧め」         太田  裕(太田こどもクリニック)
 「越後長岡菓子散策抄」     福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「長岡市医師会の会員旅行」   児玉 伸子(こしじ医院)
 「曲がれば則ち全し」      郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

晩秋(山本山)  丸岡  稔(丸岡医院)
脇屋誠悦先生を偲んで  田中 健一(小児科田中医院)

 脇屋先生はこの度突然おなくなりになりました。心から御悔み申上げます。享年86歳でした。私は先生より8歳年下ですが、度々お会いしたことを思い出します。昭和30年代、大積村が長岡市と合併となり、その頃私も長岡市で開業しましたが、当時は医師会の会合は毎月のように開かれ、よくお会いしました。しかしその頃からの会員の先生方が次々とおなくなりになる中、脇屋先生はお元気と聞いていたのですが。

 脇屋先生とは第四高等学校同窓会でもお会いしました。長岡中学校から四高に進んだのは、医師では、先生(新大)、小川満次(東大)、諸橋敏夫(金大)、市川豊樹(名大)、私(金大)でした。諸先生には一種の風格がありました。

 先生のお父棟、誠義先生は長中から、金沢医専に進み、卒業は大正2年11月。因みに新潟医専第1回卒業は大正3年11月でした。金沢医専(明治3年第1回卒業生)も四高も古くから新潟県から入学する人が多く、長岡にとって金沢は進学のコースでした。

 脇屋家の先祖は南北朝時代に遡るとのことです。南朝の忠臣、新田義貞の弟に脇屋義助があり、その次子義忠の家系とされます。誠義先生は脇屋家本家第26代とか。現在大積には脇屋家の本、分、支族20軒程あります。南朝側敗戦の後、脇屋家は河内の楠氏の家臣となり、後信州の横尾村に移り、慶長9年の後、大積村に住し、里長となり、河内姓を称え、十代の後明治4年義勝氏が旧姓の脇屋に復したとのことです。

 誠義、誠悦両先生とも古い家柄に生まれ、医師として地域のために役立つ一生を送られました。これは医師として一つの理想の姿でしょう。望んでも誰にも得られないものです。

 本宅は建築後、140年もの古い木造で、鬱蒼とした松や杉に囲まれています。庭にこれだけの大木がある家は何軒もないでしょう。

 中に入ると「医仁述也」 の大額が欄間に掲げてあり、感動を受けます。

 親友雲洞庵の新井石禅師の書であり、誠悦先生はこの横額の下で生まれ育ったのであるから、医家初代の私とは違ったものをお持ちだったと考えさせられます。

 今回初めて知りましたが、誠義先生は自宅の裏に避病院を建てられたそうです。

 高野栄典氏の話として

「避病院 長岡市大積町一丁目大字畑ケ田甲五八〇番地

 表記が当時の地番で(今の脇屋医院の裏山)、木造平屋建て二棟の病棟があった。病院の周囲に付随する小さな建物が八、九棟点在してあり、当時法定伝染病患者は強制隔離された。収容された者は人に嫌われる恐れがあって、地元民は伝染病ほど恐ろしいものはないと、当時の思い出話を話してくれる。

 その後日赤病院が増築し、合併収容され閉鎖となつた。」……渡辺芳春著「大積の昔をたずねて」記載。

 その場所は脇屋家の所有地であって、誠義先生が管理されたとのこと。

 私は避病院の跡に立って往昔恐怖の的となつた伝染病患者の境遇を思って見たいと思いましたが、義彦先生に開くと、そこは家の裏山だが、1km以上、2kmも先の山であって、畑になつていたが、今は長岡市のニュータウンになっているとか。国道8号線から見上げると、人里から離れた遥か彼方の裏山であって、高さは150m以上、200mもあるかと思う位で、目を凝らせば凝らす程、驚く程の遠さで、驚く程の高さである。そこには建物があった。私は想像している中に、これは脇屋家の山城である。否、山城予定地であったと思い至りました。又医学史のためにも私は有志の人と山道を撃じ登って「避病院跡」と看板を建てたく思いました。

 誠悦先生は昭和16年新大卒、翌年陸軍軍医学校卒、樺太の陸軍病院に勤務して終戦を迎え、昭和21年12月復員の時に、軍刀として持っていた先祖伝来の日本刀を捨ててしまったとのこと。留守宅でも戦時中の供出、敗戦後の没収、それを嫌っての廃棄で、日本刀は残っていないとのことです。誠悦先生は帰国後、新大内科、栃尾郷病院勤務の後、昭和30年まではお父様と一緒の医院の経営でした。

 さて日本刀と山城、今は平和憲法や敗戦によるアレルギーで、この二つながら正当に考えられなくなっているが、昔は豪族の生活必需品であって、脇屋家の先祖を証明するものである。

 長岡には高町住宅街に城跡があり、小千谷の高梨城址、片貝城址等々、何れも台地の一角である。脇屋家の山城もニュータウン台地の一角であるが、難攻不落なことは比較にならない。脇屋家の住宅は交通の要衝に当り、大積の中心地であり、黒川を壕として利用等、何れも激動の慶長年間の反映である。

 先祖が辛苦に耐えて堅忍不抜、優秀であるように、現在の脇屋家も優秀であり、又医家が多い。長男の義彦先生は内科医、弟の礼慈氏は歯科医、妹さんは柏崎の医家に嫁がれ、誠悦先生の弟の正一先生は新大工学部教授、工学部長。誠義先生の姉の方は医家二代目諸橋林太郎先生に嫁がれ、長男敏夫先生は県医師会、次男芳夫先生は千葉県旭市の病院長で日本病院会会長で大活躍された。敏夫先生の長男正昭先生は富山医科薬科大の皮膚科教授で、敏夫先生の妹の方は近藤歯科医院に嫁がれ、代々歯科医である。尚正一氏夫人は代々医家草間昭夫先生の伯母さんである。

 現在ニュータウンは立派な都市になっているが、避病院のあたりを含めて、広い範囲でまだ宅地造成中で、道路も交通止めである。数年後には快適なドライブ・コースになるであろうが、麓の脇屋先生が、毎日往診のため2m、3mの豪雪を踏んで、終日苦闘された詰は夢のようになるであろうか。

 謹んで先生の御冥福をお祈り申上げます。

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脇屋誠悦先生を偲んで  高木昇三郎(高木医院)  

 脇屋誠悦先生の、御霊前に謹んでお悔やみ申し上げます。

 平成12年10月22日、医師会よりファックスを受取り脇屋先生がご他界されたことを知り驚きました。

 先生は、昭和16年12月26日新潟大学医学部卒業、昭和17年11月陸軍軍医学校卒業、昭和21年12月復員され、厚生連栃尾郷病院勤務、昭和30年9月脇屋医院を継承開業され、お父上のあとをつがれ、山の中に点在する患家を往診され (現在過疎地で住宅は全くありません)冬は大雪の中をそれは大変な苦労で往診されたことを知っております。現在のような除雪は全くなくせまい雪道を転びながら歩くのがやっとの昭和30年頃でした。地域の人々からの人望を一身に受けた先生ですが、酒は全く飲めずほつりほつりと笑わせるような話をされますが、元気な先生で休まずに診療を続けておられました。また平成10年1月24日、日本医師会館で文部大臣表彰を受けられて大変名誉のことでございました。

 先生の御子息の義彦先生も関原町で開業され御盛況でございます。お喜び申し上げます。

 先生は晩年腰を痛め変形されましたが、若々しいスポーツカーの自動車を乗廻しておられる姿が目に写ります。

 先生のご逝去を知り、まもなく我が身に来ることを思いつつ、先生のご遺志を継いでより良い医師になることを誓って先生のご冥福をお祈り申し上げます。

 脇屋先生、死の静謐にみちびかれ、おすこやかに私達を見守り下さい。 合掌

 

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一隅を照らす人々  板倉 亨通(北長岡診療所)

 田辺先生から脇屋先生が御亡くなりになり、御追悼文を捧げる様、御誘いがありました。各種の会合で、お会いする機会がありましたが、言葉少ない先生で、お顔に刻まれた年輪から奥深いお人柄とお見受けして居りましたが、ぼん・じゆ〜るに寄せられたお話の数々を今になって改めて拝読し直してみると、読むにつれて表題の言葉が頭を掠めました。医師会には、この様な素晴らしい一族の人々もおられたのだと言う感慨に暫くの間、浸らせて頂きました。

 昭和57年10月のぼん・じゆ〜るに誠悦先生が父上誠義先生の思い出として、大積小学校、長岡中学、金沢医専を卒業後、竹山病院で研修され、あの有名な荻野先生と共に診療なさった事や、脇屋医院開業は誠悦先生が生まれた年で、無医村だった大積村民は開業に歓喜した状態が述べられ、往診は馬でされ、35年間、一隅を照らし続けた有様が淡々と描かれて居りました。今は、国道8号線に沿っていられますが当時は大変な診療区域であった事が窺われました。そして誠悦先生が昭和24年バトンタッチされた事に大変安心された事、誠悦先生が開業されて解った事は、冬は陸の孤島になり、往診で1日20粁は歩く事、それは少しも苦痛に感じなかった事等、村や村人を愛し、今は殆ど失われかけている日本の優れている生き様が生き生きと述べられており、83歳の年男のアンケートには子供達は親勝りに成長し、後顧の憂いの無い安心感に満ち溢れた御心境が窺われ、又42年間校医として努められた事により文部大臣表彰を受けられ村人から敬愛されておられました。

 まさに最澄の 『一隅を照らす者は国の宝である』 を身を以って実践され、親勝りのお子さんにバトンを渡した事を確認されて神去られました。深い尊敬の念を感じます。

 御冥福をお祈り申しあげます。 合掌

 

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脇屋誠悦先生のこと  鳥羽 嘉雄(内科小児科鳥羽医院)

 10月23日の朝、脇屋誠悦先生の訃報を開き我が耳を疑った。以前体調を崩されたことは知っておりましたが最近は小康を得られてお元気になられたと聞いておったのに……。

 昭和32年12月に私は新大第一内科より長岡中央病院に赴任いたしました。その際医局長より長岡には一内出身者が殆どおられないからとの話を聞き、赴任後調べたところ清水常司先生、櫛谷敏夫先生、脇屋誠悦先生のお三方が開業しておられるだけでした。三先生とも私より十数年も先輩の方々であり、その頃も勤務医は殆ど医師会の例会には出席しておりませんでしたので三先生には面識もないままに過ぎ、開業して始めて三人の大先輩にお会い致しました。

 当時はまだ医師会館はなく、イチムラの2階の一室を借りて毎月の例会が開かれており、例会での脇屋先生は温和な物静かな先生でしたが、時々はっきりと的を射た発言をなさる先生というのが私の印象でありました。その後昭和41年に医師会館が完成して、例会も医師会館で開く様になつてからは場所が少し不便になった為か出席する先生も次第に限られた方々になり、脇屋先生とお会いする機会も少なくなりました。

 私は昭和51年に市医師会の理事になり、昭和61年に医師会長に就任いたしました。その頃既に十数名に増えておった一内出身の先生方から第一内科出身の市医師会長は初めてとの事で会を開いて頂き、先輩の三人の先生も出席されてお言葉を頂いたことを覚えております。特に脇屋先生はお酒が駄目にもかかわらず御出席下さいまして、ご苦労様ですと声をかけて頂き感激をいたしました。

 医師会長在任中は長岡市表彰選考委員も兼ねておりました。或る日大積地区の方が2人で私宅に訊ねて来られました。お話を聞くと〃脇屋先生は永年に亙って地区住民のために昼夜を厭わず、また雪の激しい時にも気持ち良く往診に応じ、診察をして頂いて地区住民は非常に助かり、心強く、ありがたく思っている。この様な立派な先生ですので地区から長岡市の表彰を申請したいが如何でしょうか〃との話でした。

 私は医師として夜間やその他の診療や往診は当然ですが、地区の人達からこれ程までに信頼されて推薦をうけられることは先生の素晴らしいお人柄とご努力、加えて先生と地区の人達との深い繋がりによるものに外ならないと大きな感銘をうけました。そこで即座に″どうぞ推薦を申請して下さい。私達医師会から推薦をするよりも遥かに意味があります。なかなか地区の人達より推薦をうけられる医師はそうそうおられません。私も必ず口添えを致します〃と申し上げました。そして脇屋先生は昭和63年に長岡市表彰をうけられました。

 近年医師と患者との信頼の問題や診療録の開示など色々と言われる時にこんなにも地区の住民に慕われておられた脇屋先生のお人柄は何時までも医師の手本として私の心のなかに残っております。

 清水・櫛谷・脇屋の三先生とも学枚保健に関する功績により文部大臣表彰をうけられたことは私共第一内科の後輩の誇りであります。三人の先生とも既に亡くなられた今、私共は心を新たにして地域医療に又学校保健などに精進して参りたいと思っております。

 脇屋先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 合掌

 

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同期の櫻  吉田 鉄郎(吉田病院)

 昔、日本に陸軍予科士官学枚という若い陸軍将校を養成する施設があった。埼玉県北足立郡朝霞町にあって全校生徒2千人、2学年あって私は1年生、年齢は18〜17才、幼い軍人の卵達だった。でも厭々乍ら入校して来たのは一人もおらず、皆純情で国の為なら何でもやるの決意に溢れていた。自分達の後には、両親や弟や妹がいる。何としても米軍をくい止めるんだと本気で思っていた。

 処が陸士も爆撃を受け11名の教官と生徒が犠牲になったので、急遽昭和20年8月10日夜、学校を出て群馬県中之条町(小渕さんの郷里)の小学枚へ移動した。当時の小学校日誌には8月11日陸士来たるとだけ記されている。

 ここで私達は対戦車爆破訓練に熱中したが僅か4日で戦争は終わった。

 中之条町は後に草津、四万温泉を背負い山又山である。このような対戦車訓練をどうして長野県に近い山中でやるのだろうか?不思議な作戦だなあ、戦車はこんな道の悪い山間には来ない、戦いにいくからだ。戦後戦争の被害が大分うすれ、人々の暮しにゆとりが出て来た頃、私達は陸士の同期生会を毎年どこかの県で開くことにした。

 今年は長野県である。10月19日私達は家内(副官助手の士官の意)をつれて長野へ行った。

 長野県民文化会館で長野自衛隊の軍楽隊で冬期オリンピックの際のトレーニングのせいか実に軽快な演奏ですばらしかった。いきなり起床ラッパから始まったのには驚いたが、その後校歌をふくめて1番から2番の飛び飛び演奏、思わず歌いだすと皆よく憶えている。50年も前の歌詞を。

 その後は勇壮美麗な真田太鼓、これに対抗出来るのは鼓童ぐらいしかないなあと思ったりした。

 その日は上山田温泉に一泊、翌日は真田宝物館、真田邸の見学である。六文銭の旗印の他色々と古い物が陳列されており、戦災を受けなかった豊かさをしみじみ感じた。

 でも家と血筋を残すため関ケ原の戦いに親子二組に別れて戦い、その後又、徳川が突然参勤交代を止めた時、人質に取られていた妻子が大勢帰国して来たので、奥方は広い自分の屋敷を小さく区切って人々を住ませた。その建物が残っていて、真田も生残るために苦労したんだなあと思った。

 次は上杉武田の川中島の古戦場で、40才位のガイドさんが謙信の戦いぶりを極めて公平に説明してくれ、この戦が12年間続いて結局勝負がつかなかったとの話には驚いた。

 その後松代町の大本営を見に行った。これは大変な広さである。コンクリートの地下壕6千平方米と1万平方米とかでみんな見せてくれない(迷子になる)ので実際の大きさはわからない。ベンチレーション迄ついており、天皇の御座所があったが全部は見せては貰えなかった。これを9ケ月でほぼ完成したのだそうで丹那トンネルの16年と比べるとすごいスピードである。このすごい地下壕を見て天皇はじめ皇族・侍従・女官等をここに収容する計画でどうもこの大本営を守る守備隊が私達陸士の兵達だったのではないか?と気がついた。来年の同期生会は新潟でやることに決ったと云う。幹事はどうしようかと頭を抱えていることだろう。今年は668人名集まったとのことである。副官200名。

 

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脳ドックの功罪  渡辺 正雄(渡辺医院)

 はじめに

 CT・MRIなどを利用した脳ドックがスタートして10年以上が経つ。統計によると、その有所見率は40%あるという。しかしこれが直ちに脳疾患(特に脳卒中)の予防効果につながっているという結論は問題視されている。危険性の高い手術を勧められ、その結果も執刀医の技量次第というのも大きな問題である。

 ドックで有所見率の高い二、三の疾患について検討してみたい。

 異常所見の多い疾患

 1.無症候性脳梗塞

 有所見としてはこれが最も多く40%近いという。問題はこの所見を患者にどう説明し、今後どういう処置をとるかである。50才を過ぎれば、ごく小さな梗塞巣の存在はむしろ当然であり、これを患者に誇大に説明し、以後長期間の抗凝固剤などの服薬を命ずる医療機関が事実存在する。長岡市内ではないが某病院で、今までピンピンして働いていた人が小さい陳旧性の梗塞巣を発見され、直ちに入院。2〜3週間の抗凝固剤の点滴を受け、山程の薬をもらって長期間療養しているという例が枚挙にいとまない。この例は極端としても、必要以上に不安をかきたてられ、うつ状態になってしまった例が数多い。高額の金を使わせた上、その人の後半生を暗いものにしてしまう罪は大きい。経営のためとはいえ、患者不在の考え方は許されてはならない。

 2.未破裂脳動脈癌

 発見率3%といわれる。しかし動脈痛があるからといって、それが必ず破裂するわけではない。最近の米・加・欧の共同研究によると、10mm未満の破裂率は年間0.05%、10mm以上で1%という。逆に手術による危険率はどうなのか。これは確率の問題ではなく、執刀医の技量の高さによる。一般的には予防的手術の合併率は、麻酔による危険度を含めて13.1%〜15.7%といわれる。(日経メディカル) 未破裂動脈癌の手術に失敗は許されない。100%成功しなければならない手術なのである。もともと症状のない元気な人達なのだから。脳ドック学会で手術を勧めるのは5mm以上で70才以下の人であると云っている。患者にとってみれば爆弾を抱えているようなものだから、日常生活で常に不安がつきまとい、びくびくした人生を送らねばならないわけでお気の毒ではある。破裂率や合併症率を熟考の上、自分で決めなければならない。腕の良い執刀医に恵まれることを祈りながら。

 3.脳腫瘍

 有所見率0.1%。髄膜腫を主体とする良性腫瘍が大部分であろう。これも発見即手術は早計である。年令・体力などを考え、他の補助検査を行い、症状の推移を注意深く観察し、腫瘍の成長速度を見定めてからでも遅くはない。

 4.慢性硬膜下血腫

 これも現在無症状なのであるから、発見即手術は考えものである。脳室の偏位や変形があったり、血腫量が多かったりする場合は手術適応があるが、そうでないものは軽微な症状(頭重、頭痛、ごく軽い麻痺、精神変調など)を、見落さないように注意しつつ経時的に検査を行い、悪化傾向を確認してからでもよいと思う。脳萎縮に伴う硬膜下水腫との鑑別も大事である。

 終りに

 私は決して脳ドックを否定するものではない。有用性は充分あると考えている。要は、有所見の場合のフォローアップなのである。精神的にも経済的にも大きな負担を強いられる脳ドックである。使い方によっては諸刃の剣となることをよく考えねばなるまい。被検者に要らぬ不安感を与えることのない倫理的な医療を推進して頂くことを祈ってやまない。

 

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喫煙の勧め  太田  裕(太田こどもクリニック)

 世の中「健康のため」を合言葉に、考えられる全ての機会を利用して禁煙運動が進められている。飛行機内の全面禁煙、身近なところでは、私の通っている碁会場がこの夏より禁煙に。大きな換気扇の下をカーテンで仕切った半畳ほどの空間、別名監獄が喫煙所。さすがにその場所で煙草を吸おうという人はいないとの事。アメリカでは煙草メーカーを相手取って健康被害の訴訟を起こせば十何兆円もの慰謝料がもらえるらしい。煙草は発ガンの原因のトップに挙げられ、更に心臓病…なんだか全ての病気の原因であるかのような錯覚に陥る。最近、病気のほとんどを例えば肥満さえもウイルスのせいにするらしい。タバコを吸い過ぎると免疫が落ち色々のウイルスに感染しやすくなり、その結果病気を惹起するとの仮説を立てるとタバコとウイルスがうまく結びつく。ふ−むと独りで納得している。煙草はこの10年悪役の役回りしかこないようであるが、以前は違ったような気がする。その昔、インデアンが客人をもてなす時、長いパイプで煙草を回し飲みする情景が映画に出てきたと記憶しているが、喫煙が神聖なすばらしいものという印象を受けた。ニコチンの作用がどうかとか難しい話は別としても何らかの煙効が有るに違いなく、少なくとも精神安定剤の一つである事に疑いはない。

 かく言う私も14年前ある理由で突然禁煙状態に突入した。完全禁煙が約3年続いたとある日。医師会の「アレルギー性鼻炎」 についての講演会より帰った夜。講演の内容をかいつまんで妻に「煙草を吸っていると鼻粘膜が老化して鼻のアレルギーがなくなるんだそうだ。」妻曰く「ヘーそうなの。」翌朝唐突に「今日から煙草吸ったら。」???「アレルギーなくなるのでしょう。世の中の平和の為吸いなさいよ。」他人がこの会話を聞いたらなんと思う事か。私には元来、ミルクアレルギーがあり冷たい牛乳を飲むとトイレに直行する事になるが、幸いにも花粉症も喘息もなく、乳製品にさえ注意を払えばよかったのである。しかし、タバコを止めてから、しばらくすると色々の匂いに対し敏感となり、次第にある特定の匂い達に遭遇すると鼻水が出たり、目が痒くなったりするいわゆる鼻アレルギーの症状が出たのである。アレルギーが高じるとこのような生易しい症状だけではなく、唇がむくんだり、急に咳きこみゼイゼイしたり、胸が苦しくなつたりなどアナフィラキシー様の症状までも出現し、なかなか大変なものである。この症状を引き起こす匂い達とは、香水、化粧品、シャンプーなどであった。つまり化粧品アレルギー、広い意味での化学物質アレルギーになってしまったのである。私の仕事は、毎日毎日数十名のうら若き女性と会話をすることで成り立っているため、たとえ私の苦手な匂いをぷんぷんさせている女性であっても拒むことはできないのである。毎日、女性の顔色ではなく匂いを嗅いで戦々恐々としているのである。こんな状況であるため、当然ではあるが従業員すべて無香料の化粧品をつけている。賢妻日く「女性の楽しみの一つはお化粧することなの。多少の匂いは我慢したら。煙草吸ってさ。」アレルギーのなんたるかをまったく理解していない発言にむっとするが、煙草を吸いたい欲求にも押され「わかったよ、吸えばいいんだろう。」妻公認、ご推奨の喫煙である。やっぱり煙草はうまい。その後4年間喫煙を続け、私のアレルギーも寛解に向かい、家庭も職場も平穏となったのである。しかし、今度は健康の理由からふたたび禁煙となった。再禁煙後7年近く時が経ち、アレルギーは前にも増して強烈となり、真冬でも窓を開け、雪の降りかかる中、若いご婦人と対面している。

 

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越後長岡菓子散策抄  福本 一朗(長岡技術科学大学)

 生まれて初めて新潟県の地を踏んだのは、9年住み慣れたスウェーデンから長岡技大に着任した1991年4月1日のことだった。それからはや10年、まさに「光陰矢の如し」そして「少年老いやすく学成り難し」の感誠に探しである。長岡駅前は4月というのに30cmの雪。駅から乗ったタクシーの運転手の言葉が最初はさっぱり理解できず「ここは本当に日本?」と不安になった。大学までの30分の間になんとか聴き取れるようになるや、「長岡は雪深いと開いていますが、大変でしょうね?」 「いんや、この頃は全く降らんで、たかだか2mですよ。」 「……」。まさにその冬は豪雪で深沢の宿舎は雪で埋まり、除雪車が来るまで終日宿舎に閉じこめられた時に、その時の運転手の言葉通りだったと実感した。

 トキなどの鳥類やパンダなどの哺乳動物は見知らぬ場所に置かれると、あちこちを嗅ぎ回る 「オリエンテーション」という探索行動を済ますまでは立身安住しないと言われる。小生も長岡に到着して毎週末市内探索にでかけた。学生時代は東京で14年間暮したが、貧乏学生のこととて楽しみといえば 「安くてうまくて量がある」ものの食べ歩きだけだった。有名な花園饅頭の滞れ甘納豆、本郷藤村の羊羹、雷門のカステラ焼き、天政の天丼などなど、人がおいしいといえばすぐに出かけていって試してみた。

 特にお菓子はある批評家の言葉によれば「菓子はその民族の歴史と感性によって磨かれ、菓子職人の技術と熱意によって作られた芸術作品である。」といわれるように、「おいしい菓子のあるところ、必ず高い文化あり」である。例えば和菓子では江戸・京都・金沢・仙台・姫路など公家や武士の集まっていた古都に、現在まで続いている老舗が多い。姫路城藩主であった堀直寄(1577〜1639)が長岡に転封されて築いたといわれる蔵王堂城から発展した牧野家17万石の城下町である長岡も、その例に漏れず紅屋重正(大手饅頭)・丸屋(紅白饅頭)・大和屋(水饅頭)・樋口屋(和菓子)・千橋庵(あんみつ)・江口屋(豆大福)・川西屋(醤油パン・酒饅頭) など人口19万人の小都市としては異例なほど美味しい和菓子屋さんが古い歴史を誇っている。これも人生を愉しむ長岡の人々が伝統文化と趣味の生活を大切に守ってきたからであり、宗偏流・石舟流など全国的に見て珍しい茶道の流派がこの長岡に地に残っていることもその証左の一つであると考えられる。

 筆者は生まれ故郷の姫路を18の歳に旅立ち、東京・北欧で学生生活を送った後に、ここ越後長岡の地に流れ着いたという訳であるが、「美味しいケーキのない町には住めない」とばかり新しい町に住着くとすぐに、洋菓子屋を探すことに熱中した。長岡においても着任以来、妻と3人の息子達を動員し半年を掛けて町中の洋菓子屋さんを探検した。

 その結果、わが家で人気の高かったケーキを一店一品ずつ独断と偏見で選ばせてもらうと次のようなお店の名前が挙げられた。レガール(モンブラン)・シェルドール(ショートケーキ)・ブルグ(バウムクーヘン)・カワサキ(レア・チーズケーキ)・ガトー専科(どら焼き)・美松(値段が素敵なシュークリーム)・大阪屋(明けの穂)・西盛屋(生チョコ)・ローランロゼ(ブランデーケーキ)・アララ(ミルフィーユ)・ラピアディーナ(ピアディーナ)・ボントン(食パン)・リスボン(マンゴープリン)・シャトレーゼ(ロールシユーケーキ)・いちご工房(X'masケーキ)

 この他洋菓子ではないが、ロイヤルコペンハーゲンやマイセンなど世界名品陶器のカップで香り高く濃くのまろやかなブレンド伽排を入れて下さる小熊コーヒー店も忘れてはならない。少し足を伸ばせば紫雲寺にある乙宝寺の甲子饅頭や会津の柳津温泉の粟餅も蒸かしたてのとろける舌触りは忘れがたいものである。

 越後の文人会津八一は早稲田学寮の学規第1条に「深くこの生を愛すべし」と記した。仏教の教えでは色欲・財欲と並んで食欲は罪深い五欲の一つとされており、生活習慣病予防マニュアルの中でも「甘いもの」は「アルコール」と並んで悪の象徴であるが、診察室で出会う老人達にとってお菓子を食べることは生きる楽しみそのものであることが多い。聖人君子ならいざ知らず我々凡夫にとっては、節度あるティーパーティー位は人に迷惑をかけないささやかな愉しみであるとお許しいただきたいと思う。人間老境に入ると若い頃のように油濃いものは食べられなくなり、酒にも弱くなる。親しい人達と歓談しながらお茶を飲みケーキを味わうことはまさに「この生を愛する」 ことになるのではないだろうか?ただその時に大事なのは「食ベる量を過ごさないこと=食事処方」と「食べた分だけ運動する=運動処方」であることは論を待たない。文明とは「人間の欲望と理性の微妙なバランス」の上に成り立つものであり、単に食欲を満たす技術以上の芸術にまで高められた美しい菓子の存在は、その民族の「開化度の高さ」を示すものであると考えたい。

Vivat Patisserie!!(お菓子屋さん、万歳!!)

 

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長岡市医師会の会員旅行  児玉 伸子(こしじ医院)

 長岡市医師会の会員旅行へ行ってきました。

 群馬県の四万温泉へ総勢16名の、10月21日出から一泊二日のバス旅行でした。紅葉と温泉、宴会とカラオケ、そして上州味覚のお土産、そんな旅行を紹介します。

 土曜日午前中の診療終了後午後2時半、長岡市医師会館前を、ミニサロンバスにて出発しました。まず事務局で準備していただいたビールで乾杯、ガイドさんの外反母址手術経験談に盛り上がり、鈴木先生特製のウイスキー梅酒にも助けられ、おしゃべりとカラオケに花が咲きました。なごやかな雰囲気のうちに、上信越の山並みを抜け、6時には夕闇の四万温泉に到着しました。

 四万温泉は、四万種類の病も癒すといわれ、古くからの湯治場として、今も四万川沿いに十数件の温泉旅館が点在するそうです。ホテルの本館新館に数箇所あるお風呂のお湯は、一見ただの透明なお湯でしたが、湯船をでてからジーンと効いてくる上薬でした。一風呂を楽しんだ後は、恒例の宴会です。これも、おしゃべりとカラオケに花が咲き、二次会全員参加という大盛況のうちに幕をとじました。

 朝風呂から始まった2日目、ホテル玄関先での出発前の集合写真です。まず和洋中華の薬草を集めた薬草園を訪れ、次にNHK大河ドラマ″葵徳川三代″のタイトルバックにも使われている吹割の滝を見学しました。昼食後は、谷川岳中腹の標高1300mの天袖平までロープウェイで登りました。天神平はあいにくの霧模様でしたが、紅葉はちょうど見頃で、高山の鮮やかな錦織が霧のかいまに姿をみせていました。そして薬草囲みやげのハーブの苗、亭主の口上付きの栗羊稟、上州名物の太助饅頭にコンニャクや漬物と、カバンいっぱいのお土産とともに長岡に戻ってきました。

 今回会員の出席者15名中8名は初参加、そのうち6名が女性、さらに参加者の平均年齢も昨年度

の64.3歳に比べて55.8歳と10歳近くも若いという今までにないメンバー構成でした。ここで、旅行中に見うけた参加者の横顔を紹介します。

 最初は大貫啓三先生、″桃色吐息″でカラオケの皮切りをされ、デュエット曲も次々とリクエストされる等、カラオケ大好き人間とみうけました。宴会には欠かせない方です。

 明石明夫先生には、70年代なつかしいビートルズのイマジンを英語で披露していただきました。その外見と雰囲気にぴつたりです。

 〃青葉城恋歌〃と〃昂〃は森下美知子先生、いつでもどこでもいつまでも、そのこころは女学生です。

 昨年度会長の高橋剛一先生、今年はやっと楽々できると大御所気分、長々ご苦労様でした。

 新婚の杉本邦雄先生、趣味はクラシックとのことですが、カラオケも含め音楽を全身でたのしむことをご存知です。

 ″趣味は宴会〃とは、さすが小林真紀子先生、その明るい笑い声だけで宴会が盛り上がります。大好きなキャラクターです。

 その小林先生と同級生は立川厚太郎先生、以前からの若さに近頃ちょっと貫禄がついて、″新潟ブルース〃を歌われました。

 一席一郎先生の選曲は″長崎の夜はむらさき〃〃そんなヒロシにだまされて〃、この歌がわかる人はカラオケの玄人です。おなかのすいたコンパニオン嬢にラーメンをご馳走するやさしい先生です。(キスの返礼もありましたが……)。

 〃旅行は私のショートステイ〃これは、先日イスラエルから帰国されたばかりの木村嶺子先生の弁です。国際派の先生にはいつも驚かされます。

 タバコを吸いながらずっとニコニコされていた勝見喜也先生、奥さんのカラオケはテレビで拝聴しましたが、先生は次回でしょうか。

 せっかくリクエストされたのに次回になってしまったのは大関忍先生。出発から到着までステキな奥様先生でした。

 朝から9kmのジョギングをこなし、近々フルマラソン参加予定の中村敬彦先生、社交ダンスの経験者は、カラオケのダンスでもスタイルが一味違います。

 鈴木しのぶ先生には、写真を提供していただきました。みんなを酔っ払いにした特製梅酒同様、先生らしいほんわかとした写真ばかりです(アルバムにして医師会に寄贈されましたので、ぜひご覧下さい)。

 真打は会長の斎藤良司先生、二次会で率先してマイクを握られる姿は、こんな表現が一番びつたりでした。″かっわい−″(失礼)

 事務局の星さんには大変お世話になりました。出発の5日前に第一子の〃美紀〃ちゃんが誰生したばかりの新米パパです(おめでとうございます)。パパにとって〃こんにちわ赤ちゃん〃は、すでにナツメロだったようで一同ちょっとショックでした。

 帰りのバスの中で患者さんの急変の報を受け取られた先生、就眠後も夢の中で診療されていた先生等、100%仕事を離れてというわけにはいきませんが、それでも皆さん充分リフレッシュされた一日半でした。

 以上拙い文章は、長岡のお隣の越路町に昨秋開業しました児玉伸子が記しました。今までのご縁で今回参加させていだだき、ありがとうございました。

 来年はさらに新しいメンバーが参加され、みんなで楽しめるといいなと思います(次回はおいしい海の幸がいいですね)。

 

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曲がれば則ち全し  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 最近家人がまた腰を痛めて難渋した。「専門医に一度見てもらいなさいよ。」とすすめるが、家人は大の注射、薬、医者嫌い。しかたなく湿布薬だの痛み止めだのを見繕って処方してもらい持ち帰る。二週間でようやく軽快傾向となつて安堵したばかり、いまだそろりそろりと万事に腰を庇った動作である。

 おりからの小春日和。冬支度でもぼちぼちせねばという時節である。きょうは家人は庭に出て、例年のごとく女手ひとつで、庭木の囲いをぼちぼちし始めた。

「まだあんまり無理すんなよ。」

「はあい。でも他に誰もしてくれないんですもの、ちょつとずつわたしがやるしかないものね。」

 かたやわたしはといえば、落葉焚に放り込んで出来上がった焼き藷を先ほど家人に貰った。半分に割って

「おう黄色が濃くて、うまそう。」などとのんびりと藷を食っている。もっとも馬鹿力または手が三本以上不可欠などという単純な大作業でどうしてもと云うときに限り、わたしにも手伝うようにお声掛かりがある。

 幸か不幸か、わたしは生来、不器用な男なのである。家人は「うちは他所の家と仕事分担がどうも反対だよね。」とよく愚痴をこぼしながらも、半ば諦められている。

 たとえば家人が踏み台に載り、天井の照明の蛍光灯の電球を取り替え作業をするとしよう。わたしはその交換する電球を脇で受け渡しをするなどという極めて重要な任務を担うわけである。家人は踏み台に載る方が亭主の役目だと主張するのだが、はたしていかがなものでありましょうや?

 うろ覚えだが、昔読んだ「老子」かなんかの漢籍だと思うが、「曲れば木は全し」というこんな話があったのではないか。

 木はまっすぐでなく曲がって育つと、材木としては役に立たないと判断されて、伐採されずに天寿を全うできる。簡単に云ってしまえば、まあ「出る杭は打たれる」の逆の消極的目立たぬ老荘的人生の勧めなんでありましょうか。

 そこで誰しも苦手とか不得手があるのもそのまま受容する。けっして無理な矯正、向上、努力をしない生き方もまた良いのではないか、という処に落ち着きましょうかね。

 ええと、つまり我が家の家庭内作業分担の逆転現象はこのまま維持されるであろうということ。なんとなく、おわかりでしょうかしらん?

 さてさて冬隣の貴重な日ざしに、少しは自分も申し訳程度にはちょつと働こうかと裏庭の畝に行く。数本しかないのだが、見事に茂った緑の葉っぱを掴んでえいと大根を引き抜く。…いや抜こうとした。なかなか抵抗がある。土の中に誰かが潜んでいて、負けじと綱引きならぬ大根引きをしているごとくである。苦手科目だった物理の力学の「作用・反作用の法則」なぞ思わず連想される。しまいに大根は勢いよく抜けてきたが、いくらか下部が折れ残ってしまった。きっと固い土の塊かなんかに遭い、育つ過程で先が大きく曲ってしまっていたのであろう。

 う−ん、この大根は曲ってはおりましたが、はたして 「全き・大根人生」だったんでありましょうや?

 いやいや、こういうことをそんなに悩まないこともまた悠々とした人生志向では、たいせつな点なんでしょうな。

 この大根は夕餉に「風呂吹き」にしていただきましょう。鉢から柚子ももいで柚子味噌も拵えて。

 

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