長岡市医師会たより No.249 2000.12

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「初冬 左近にて」   丸岡  稔(丸岡医院)
 「野本安行先生を悼む」     渡辺 修作(渡辺医院)
 「野本先生の想い出」      亀山 宏平(長岡西病院)
 「オーストラリア旅行記」    田村 隆美(田村クリニック)
 「要注意:インフルエンザ罹患の
  妊婦に対してシンメトレル投与」幡谷  功(長岡中央綜合病院)
 「過ぎし日のヨーロッパの旅」  吉田 鉄郎(吉田医院)
 「在宅診療の体験報告〜1」   板倉 亨通(北長岡診療所)
 「最初の来日スウェーデン人
      ベルゲンシャーナ提督」福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「画像診断等の病診連携」    石川紀一郎(石川内科医院)
 「塩引きの鮭は涙味」      郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

初冬(左近にて)  丸岡  稔(丸岡医院)
野本安行先生を悼む  渡辺 修作(渡辺医院)

 12月2日、亀山宏平先生よりの電話で野本先生の御逝去を知った。永別の悲しみが胸を浸すと共に、野本先生は病苦の桎梏から解き放たれて、愛する方々が待っていらっしゃる浄土に旅立たれたと云う想いを禁じ得なかった。先生の謦咳に接してから茫々五十年余年。昨日のように思い出すことも忘れ去ったことも。

 昭和20年の暮れに国立二の丸病院(現県立新発田病院)に着任した。内科医長が野本先生で、二内切っての秀才の誉れ高く、下越一円から患者が集まってきた。住宅は先生のお宅と背中合わせの市営住宅が割り当てられた。先生はご母堂と雅子夫人の三人暮らしだった。私共は初めての勤務医生活だったので、野本家に色々とお世話に相成り、ご迷惑を御掛けした。先生は夕食後は毎夜、目と鼻の先の距離の病院へ行かれ、勉強したり診療したりして居られた。

 野本先生は、頭の良い勉強家の人に時に見られる冷たさとは無縁の、心が広く温かい御人柄だった。先生の一番弟子の鈴木宗先生の野本先生への傾倒振りからも、先生の人となりが窺われる。内科の飲み会にも、時々お招きいただいた。先生の酒量と、酒を楽しんでしかも泰然として乱れぬマナーの見事さに感服した。

 先生は一見ひ弱そうな細身の御身体に似ず、卓抜な運動神経の持ち主だった。大学に居られた時、医局対抗卓球大会で皮膚科の浅島君と対戦された。その見事なラリーの応酬は取り巻いたギャラリーを沸かせた。

 新発田に在職中、一番楽しい思い出は大峯山の花見だった。満開の山桜の大木の下で、大鍋を囲んで宴は始まった。先生は切れ長のよく光る眸を半眼にして、花びらの舞う中空を陶然として眺めて居られた。その仏像を思わせる御姿が忘れられない。

 在職2年で私は新潟に戻った。3年後、野本先生、鈴木先生と長岡の同じ病院で働くようになろうとは夢にも思わなかった。

 長岡中央病院で再び3人で働くようになつたのは、昭和28年夏頃だったと思う。中央病院では立派な先輩、親しい友、気の合うスタッフに恵まれ、楽しく働かせていただいた。ベッド数5、60床規模の病院が次第に大きな病院に発展して行く経過を目の当たりに出来た。

 野本先生は入貞弥院長を援けて、メディカルリーダーとして多忙な日々を送って居られた。入院長が野本先生の診療や研究を評価して「野本君はアカデミックだからなあ」と漏らされた。誠実で真撃な野本先生は、仕事の上で手を抜いて楽をするなどできない方であった。全力投球で終始された。親分肌の先生は面倒見の良い方だった。部下や後輩達をねぎらう時は気前良く身銭を切られた。公私混合を厳しく嫌われた。同級の婦人科医長中原義夫君と、その潔癖振りに敬意と茶目気から「ジバラのアンコウ」と云うあだ名を奉った。先生のお耳に届いていたかどうか。

 野本先生は昭和40年本町で開業された。医院は順調に繁昌し、先生の健康も快復した模様だった。野本雅子夫人は、畏友・布施栄信君(元新潟がんセンター病院々長)の御令妹だった。時々拙宅に遊びに見えて家内や老母と愉しそうに刻を過ごされ、我が家の人気を独占して居られた。昭和42年初冬、母が亡くなつた。主治医として、野本先生には肉親も及ばぬ面倒を見ていただいた。

 昭和45年雅子夫人が亡くなられた。明朗なスポーツウーマンで飾り気がなく、童女のように天真で明るかった婦人は野本家の太陽であり月だった。先生の晩酌の量が次第に増えていったことを誰が答められよう。鈴木先生が忠告申し上げたようだったが、流れを押し止めは出来なかった。平成7年6月、鈴木先生が公務出張先で急逝された。夫人に去られ、杖とも柱とも頼む鈴木先生を失って先生の寂蓼は如何ばかりであったろうか。天涯の孤客となったの思いが日夜野本先生の脳裏を去来したことであろう。

 平成9年、先生は廃業され、中央病院に入院された。最後は亀山宏平先生がおられる西病院に移られた。

 平成12年12月2日、亀山先生の手厚い治療を受けて、その生涯を終えられた。亀山先生の看取りを受けて旅立たれたことは、野本先生最後の幸せであったと思う。

 野本先生、願わくば、遅れ馳せながら、私があの世とやらに参りましたら、大峯山を凌ぐ浄土の花見の末席にお加え下さらんことを。

 合掌。

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野本先生の想い出  亀山 宏平(長岡西病院)  

 野本安行先生は平成12年12月2日長岡西病院にて逝去されました。享年87歳、偉大な先輩を失い哀悼の念に耐えません。

 先生は柏崎市で生れられました。先生の書かれた「私の祖先」なる小文によれば、野本家の先祖は伊予の国の河野水軍の出でおられるとの事です。

 秀吉の時代に河野水軍は敗れましたが、その末裔は八代将軍吉宗の時に伊予の国樽味村の大庄屋を勤め、野本姓を名のられた名家とのことです。

 祖父が警察官となられ、新潟県に転勤、柏崎署長で辞され、父上は医師となられ、荒浜村で開業され、その後長岡市に住まわれました。大酒豪でおられたそうです。

 先生は昭和15年新潟医大を卒業され、第二内科(柴田内科)に入局されました。当時は戦局急をつげ、入局した医師の多くが軍医として出征された後を、柴田教授、木村元助教授を扶け、よく診療研究に献身されました。敗戦後多くの医師が復員入局されました。戦地、又は軍務の余韻未だおさまらず、気性の激しく荒れた人も少なくなかった中で、先生は医局長としてよく医師皆さん方をまとめられ、兄と慕われたと荻間先生(元新潟市民病院院長)が語っておられます。特に忘れられない想い出は「勉強は十時迄、以後は自由時間」と申された野本先生を囲んで焼酎、合成酒を痛飲したと語られました。

 先生は昭和23年国立新発田病院に赴任されました。新発田在勤中の先生の御活躍について喜多野先生(昭和二十四年専門部卒) は次の様に申されています。

一、当時はまだ陸軍病院の匂いの強い病院に新機軸を生むべく非常な勉強努力をされた。

二、診療に献身され、名医として多くの患者さん方の信頼を得られ、外来診療は午後遅くまで続けられた。

三、スポーツ、遊戯がお好きで余暇をみては、バドミントン、卓球に興じられ、又パチンコ、玉突きなどに職員をよく誘われたとのこと。

四、親分肌で、よく部下の面倒を見られ、時々大盤振舞で飲まれたとのことです。

 先生が昭和27年に長岡中央病院に転勤された折は、病院の午前の診療は中止となり、多くの職員患者が、見送りに駅まで押しかけ、あまりの多数で駅員も無礼での入場を認めた程であったそうです。

 長岡中央病院に転勤されてからは、診療に研究に新発田時代同様努力される毎日であり、内科では鈴木(宗)、窪田、鳥羽、佐藤の諸先生、亀山も先生から御懇篤なる御指導をいただき、皆で一致団結、カを合わせ、その努力が中央病院の今日の基礎となりました。

 30年代後半には健康を害されることが多かったのですが、療養に努められ、好転、昭和40年に本町に開業され、以来30年余地域医療に専念せられ、長岡に野本ありとの名声を博しておられました。

 お子様に恵まれず、最愛の奥様を開業間もない46年に亡くされ、その後は独身を守られました。先生の淋しさとお疲れを癒すのは酒であったのか、健康を害され、平成9年6月中央病院に入院されました。入院3か月病状が好転されサンプラザ長岡に入所されました。入所後時に脳梗塞小発作があったものの比較的平穏に過ごされていましたが、本年10月頃から症状悪化し、臙下性肺炎を併発、亡くなられました。

 先生の御最期迄、姪御さん(弟さんのお嬢さん)御二人がよく面倒を見ておられたこと、終の住居となつたサンプラザが気に入られ、姪御さんに「あのマンションを買ってくれ」と申されたことなど、晩年の先生を偲ぶ時、慰められる想い出であります。

 以上先生の想い出を述べましたが、最後に先生の御冥福を心からお祈りして筆を措きます。

 

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オーストラリア旅行記  田村 隆美(田村クリニック)

〜飛行機の中でも医者をやっていた〜

 「機内で急病人が発生しました。お医者様か看護婦さんはいらっしやいませんか?」シドニー発11772便の機内放送と客室乗務員の声が聞こえた。何回かの放送後、「パパ呼んでるよ」子供達3人が私を起こす。寝た振りをしていたが、ここは医師としての父親像を見せようと「はい、私は医師ですが」と答えると、乗務員が患者の所へ丁重に案内してくれた。患者は100kgは優に超えるオーストラリア人の中年女性。運悪く医師は私1人。他に看護婦さんが1人応援に駆けつけてくれて、かなり頼りになった。患者の症状は、嘔気が強く、呼吸困難で酸素吸入を受けながらもパニック状態となつていた。当然会話は英語。ややアルコールが入っているらしいが、患者は「このような症状になつたことは初めて」と訴える。拙い英語で問診、触診、聴診を続けていると、客室乗務員の責任者が、私に「患者のために、緊急着陸の必要性があるか?」と訪ねてきた。もしもの事があった場合を考え、航空会社は患者の訴えを放置するわけにはいかないらしい。血圧計、聴診器しかないところで、いきなり緊急着陸の有無について訪ねられてやや困惑したが、パイタルサインには異常なく、死にそうにはないので「過換気症候群」と診断し経過をみることとした。結果的には、運良く無事定刻通り日本に帰ってきた。もし「緊急着陸して、適切な処置をすれば助かる」と私が判断した場合、どうコメントし、どの様な指示を出せば良いのか、後から考えると恐ろしい話である。

 と、前置きが長くなつたが、以後、日記風にオーストラリア旅行記を書いてみたいと思う。

 開業6年目を迎えた今年2月、ゴールデンウイークは家族で海外旅行!と思いたった。ところが、私は飛行機でパニックになりやすく、途中から少し躊躇し始める。しかし、私以外の4人(妻、長男高1、次男中2、長女小4)が4人とも心はすでに海外へ。私だけ留守番といわれても……。というわけで行き先の検討に入る。オリンピックイヤーの今年、マラソンを見ながら、「あの坂は確かにきつかった」なんぞと言うのもかっこいいな、と言うことでシドニーと決定。4月29日から5月5日までのゴールドコースト、シドニーのコースに決めた (もちろん5月1日、2日、6日は休診)。オーストラリアの季節は夏の終わりでまだ充分泳げるという話。4月上旬から水着を探すが、サーフパンツタイブのものはなかなか見つからない(競泳用はあったが)。現地で買うこととした。

 4月29日(土)成田空港はゴールデンウイークの初日だが、最終便前の出発のせいかほとんど混雑は無かった。午後9時40分定刻通りJL761便は、ブリスベーンに向けて出発。搭乗時間約8時間40分。

 翌日現地時間の午前7時20分ブリスベーン到着。バス乗車約40分でゴールドコーストヘ。到着1日日は「ドリームワールド」でコアラ砲っこ、カンガルー見学後、午後は市内観光。夕食はステーキ。夜は9時前より、旅の疲れのせいか全員熟睡。

 第2日日は「カランビン野鳥園」で野鳥の餌付け、「シーワールド」でイルカショー、ジェットコースター(日本のディズニーランドの待ち時間の長さに比べ、ほとんど待つことなく乗り放題)、お化け屋敷などで1日を過ごす。夕方から雨が降り、夕食はホテル内で寿司。

 第3日日は、連日の早朝起床で疲れたため、昼近くまでホテルでリラックス。本来なら、約42kmあるゴールドコースト特有の海岸で海水浴のつもりが、異常気象のため海は大荒れで海岸散歩も中止。昼より市街観光。子供達には遊びに行く場所が無くて不評の時間となり、ここで初めて家族喧嘩。子供達に10ドル紙幣(日本円で約650円)を持たせて、ある場所で集ることとし自由行動とした。しかし繁華街が狭いため、女同士、男同士のショッピングとなり、たびたび出会う羽目となった。夜は中華料理。3連日、夕食は豪華版である。

 第4日日はアンセット航空の国内便でシドニーヘ。観光バスでハーバーブリッジ、オペラハウス、ロックスを含めた市内見学。夜は、今までの豪華版の夕食から一転してマクドナルドで食事後、夜景観賞。

 第5日日は午前中オリンピックスタジアム見学。開会中はサマランチ会長クラスしか絶対に入れない」IPルームの席に座ったり、グランドに降りることも出来た。午後は、シドニー湾でのランチクルーズ。夜は、ロブスターの活きづくりという豪華夕食後、連日の夜景を見ながら、「明日は日本へ帰国か」と皆で残念そうにつぶやいた。日本で起こったバスジャック事件もテレビで放映されていた。

 嫌々ながら5月5日(金)午前9時35分発JL772便に搭乗、帰国の途へ。この際、機内で前述のエピソードがあった。日本時間午後6時10分無事成田着。この日は成田全日空ホテル泊。5月6日(土)ゆっくり朝食後、「4年後はアテネに行こうか」と皆で話しながら長岡に。5月7日(日)現実に戻り、レセプトチェック。

 最後に、「高橋尚子ちゃん、金メダルおめでとう。確かに、アンザックブリッジに登るあの坂はきつかったですネ」 (当然の事ながら、私は走っていませんが…)

 

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要注意:インフルエンザ罹患の妊婦に対して

シンメトレル投与  幡谷  功(長岡中央綜合病院)

 最近はめっきり冷え込むようになつて来ました。朝晩の冷え込みに体調を崩すことなく過ごしたいものです。この時期体調を崩すと言えばインフルエンザです。今年も流行の兆しが見えはじめたようです。この時期には、妊婦さんもインフルエンザに催思し、薬を使用することになります。一般に妊婦さんは薬に対して敏感です。マスクをしたうえに咳き込み、日を充血させている妊婦さんを妊婦健診で診察したとします。我々から薬でも飲んで少しでも楽になったらと薬の使用を勧めますと、赤ちゃんへの影響が心配ですと断られることも多々あります。胎内にいるときより育児が始まっていると考えていることの一つの現れでありこの傾向自体は好ましいことと私は思っています。しかし、妊娠への薬の影響を過度に心配するあまり、せっかく妊娠したのに薬を使ったがために妊娠中絶も考慮し、我々の所に相談にくる患者さんもいます。このような場合、使用薬剤の内容、量、使用時期などを総合的に検討し、胎児に対する催奇形性の危険率を判定することになります。しかし、日常使用される薬物の中には妊娠中絶を考慮しなくてはならないほど問題のある薬物はほとんどありません。当院では産婦人科の特殊外来として遺伝相談外来を開設しているために、他院からも妊娠と薬剤に関する相談の紹介を受け付けています。平成11年度は29件の妊娠と薬物に関する相談がありました。ほとんどの患者さんは胎児への影響に関する不安を解決し、妊娠を継続してゆきました。しかし、そのうち2件が妊娠継続を断念しました。この2件はどちらもインフルエンザでシンメトレルを使用した患者さんでした。

 シンメトレル(塩酸アマンダジン)は、本来抗ウイルス剤として開発されました。しかし、バーキンソン病への薬効が認められ、抗バーキンソン病薬として広く使用されてきた薬剤です。しかし、昨今のインフルエンザの流行により抗ウイルス剤としての薬効が見直され、日本において平成10年11月A型インフルエンザウイルス感染症の効能効果が追加承認されました。遺伝相談外来では平成12年の2月にこの薬物の相談を初めて経験し、しかも1か月あまりの間に3件続けて相談を受けました。本剤は警告として、催奇形性が疑われる症例報告があり、また、動物実験による催奇形性の報告があるので、妊婦又は妊娠している可能性のある婦人には投与しないこととし、妊婦には禁忌となつています。しかし、Drugs in Pregnancy and Lactation では Risk Factor C程度、すなわち、人における催奇形性は症例報告程度であり疫学的には催奇形性を有すると証明はされておらず、妊娠初期に本剤を内服したことを理由に一般的には妊娠中絶を勧めなければいけないほどリスクの高い薬物ではないとされています。先の3件の相談事例の結果を以下に述べます。

 1件目の妊婦さんは、内服時期が催奇形性に影響のない時期であったことより、妊娠継続されました。2件日の妊婦さんは、ただ2日分の内服にも関わらず、妊婦に禁忌である薬であることより妊娠中絶を選択しました。遺伝相談外来で十分な時間をとり、妊娠中絶を選択しなければいけないほど危険率は高くないことを説明したのですが妊婦さんの気持ちは変わりませんでした。今回の妊娠が初めての妊娠であり、薬を使用しなければ妊娠を継続していたことを考えると、非常に残念な結果でした。3件日の妊婦さんは挙児希望が強く、妊娠継続を決定しました。しかし、17週に超音波検査で無脳児が診断され、人工妊娠中絶を施行しました。本剤と無脳児を関連つける症例報告は無いので、因果関係は不明です。インフルエンザに対するシンメトレル使用の必要性としては、症状も重く死亡率が高いと考えられる者に投与を考慮すると記載されています。妊娠可能な女性にはこのような必要性も認められず、禁忌でもあり本剤を投与する場合に特に注意が必要と考えられます。

 今年もインフルエンザの季節がやってきます。本年度の遺伝相談外来では、シンメトレルの相談が無いことを祈ってこの小論を終わりにいたします。

−追記−

 なお、遺伝相談外来では、妊娠と薬の相談や、高齢妊娠により染色体異常児出生が心配、前児・親族に異常児・遺伝性疾患の存在など、妊娠に関する様々な問題につき相談を受けています。産婦人科外来まで紹介いただければ対応いたします。

 

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過ぎし日のヨーロッパの旅  吉田 鉄郎(吉田病院)

〜懐かしい英国 ST.Marks病院と3回の迷子〜

 新潟大学外科武藤輝一教授が私の病院に胃癌の手術でおいでになるときまって、先生St.Marksへ行きたいでしょうとおっしゃる。勿論行きたいですよ、あそこは大腸肛門病のメッカですからね。とても行きたい。と申上げると先生は国際学会へ演題を出しなさい。それが合格して発表出来る事になれば、若い医師達は喜んで先生の病院の留守番をするでしょう。

 時は1977年の春のことで、私は51才であった。そして翌年5月末約2週間の旅行になるのである。

 処が国際学会へ出せるような研究などしていない。よ−く考えてみたら一つだけあった。それが今の私をとりこにしている完全直腸脱の経肛門的手術である。(現在でもヨーロッパは侵襲の大きい開腹手術を全部の老人にやっている)

 昭和48年頃はじめた症例が昭和50年頃迄に34例、再発1例だったので、それを曽我惇教授にお願いしてSummaryを送った。間もなく8分間の演説を許可すると云う連絡あり、ヨーロッパに行けることになつた。1978年6月1〜3日迄のSpainのMadrid で 1st World congress of Coloproctologyである。丁度この時学会にかこつけて欧州の著明な大腸肛門病施設を訪問し乍ら、最後にマドリッドヘ行こうじやないか、希望者は集まれとのこと。当方は団体旅行が出来てその挙句、英国のセントマークス病院へ行き世界の名手の手術をみれることも嬉しいが、手術中何か質疑応答があった時には英会話のうまいDoctorがいてくれたら成果は百倍する。その上団体旅行は何彼と心丈夫である。

 この時の団長は現弘前大学長吉田豊教授で副団長は現癌研腫瘍部教授武藤徹一郎先生であった。

 ところがである、出発の10日程前になつてお前の発表は相談の結果Symposiumに入ったから、演説は11分、ロンドン大学のTodd教授が司会する。勿論討論があるからそのつもりで、という話である。又もや曽我教授だ、9分位で了るように伸して下さいとお願いして論文はまにあった。

 前もって角原昭文先生の奥様の紹介で、ホプキンスさんという宣教師(当時長岡でただ1人の米人) に学会の会話を習っていたが、出発の前日のレッスンで私のspeechは通ずるでしょうか?と訊ねると彼はPerhapsとだけ答えた。

 飛行機は無事太平洋を越えてバンクーバーに着き、すぐに又、陽光さんさん燦々たる北極を越えてまだ3時か4時のコペンハーゲンに着いた。午睡の命令が出たが暑くて眠れるものではなかった。夜10時、北欧の夜はまだ明るい中をガイドに連れられて出かけた。チポリ公園と云って当時としては日本にない大規模なものであった。王子、王女のパレードがあるというので見に行ったが、こんなに夜遅く迄働いて明日の学校、あの子供達はどうするんだろうなあと余計な心配をしてしまった。

 明けて翌日は英国のSt.Marks病院である。この病院は50床位のものを2つくつつけたような小さな病院だが、やっている内容は世界に冠たるもので、世界中から難病が集る下部消化管専門の病院である。

 かつてここに留学していた東大の武藤が仲間を20人つれてやって来たというので、St.Marksはかなり貧乏な病院なのだが昼食に御馳走を出して下さり、その後スタッフ5人が30分ずつ講演をしてくれた。目を見張るようなスライドが次々と出て来た。最後の講演はCrohn病であった。演説が終わると演者のMr.Hawleyは云った。Have you any question? 私は一番前列に座って後方を振り返って

いるが誰も質問しようとしない。単純な私はこれでは演者に失礼だ、何か質問しなければとすぐ挙手した。主語、述語などパッパッと頭の中でくっつけて疑問文になおしてやった質問だったが、通じない。武藤さんがDr.Yoshidaは英会話が下手だから、自分が代って訊ねると云って私の質問をしてくれた。Mr.Hawleyはその質問の答えを終えてから、しよげている私に、Dr.Yoshidaの英語は決して悪くはない。少なくとも私自身の日本語よりはるかにましだ。これで一斉に笑いがおこり、このjokeで質問も次々と出た。

 翌日5月27日St.Marksの病理標本室を訪れて又驚いた。あらゆる種類の切除標本があまり変色しないで大量に保存してあり、訊ねるとその標本の病歴から経過から予後に至る迄、60才位のDoctorではない標本作製士が全部記憶していて説明してくれるのである。

 翌日又コペンハーゲンへそして文字通り一衣帯水の海を渡って約1時間でスウェーデンのマルモ大学へ、構内のマロニエがとても美しかった。ライラックも咲いて北欧の春はすばらしい。

 ここでは放射線装置を見学したが患者が用意されていないので、あまり面白くなかった。ひょいと見ると全身の骨格標本(本物) がおいてある。これは素晴しい。簡単に買えるかと訊ねると of courseという答えなので、1体買って帰った。皆がこわがるといけないのでプラスチックだという事になつているが実は本物である。今我が病院の整形外来においてある。

 翌日ドイツのミュンヘンに飛んだ。ミュンヘン大学ではオッテンヤンと云う体の小さい教授がいて、昔日本人が大腸内視鏡検査を教えに来たが今は俺達の方が上だ。日本では毎日25人〜30人もやっていないだろうと胸を張っていた。

 そしてテーブルの上に壜をどんとおいて、さあ飲んでみてくれという。味がまずい。こんなまずいのは日本人は飲めないと云うと、独逸(ドイツ)人が飲むものを日本人が飲めない筈はないと云う。

 ドイツ人の中には11本飲んだのがいるとも云ったが、その2立壜の横にGesundheits Wsser(健康の水)と張紙がはってあり、患者にはのめばのむ程体によいと説明しているそうだ。

 恐らくニフレックの出来始めだったのだろう。

 Munchenを訪れては何はともあれ、ビアホールへ行かなくてはと、まだカンカン照りの中を出掛けた。日本人が21人入って来たものだから、早速桜々やよいの空を…から菜の花畑に入日うすれ…日本民謡の大合奏である。そのうちに今度はスウェーデン人40人が男女混って入って来た。今度はスウェーデンの歌と日本の歌の交替の合唱である。

 あまり素晴しいので私は当時発売されたばかりのソニーのテープレコーダをホテル迄とりに帰ろうとした。歩いて7〜8分だし、昼間曲角をよく確認し乍ら来たから大丈夫で

す。と云って飛び出してみると暗い、相当暗い、これは昼間とまるで違う。道路の曲り角を1つ間違ったとみえ、だんだん淋しくなり、人通りもない。

 これはホテルヘ帰るのは無理だと判断した時、自分の今迄いたビアホールの名前も記憶しないでコースターも持たずに出て来てしまった事に愕然としてしまった。ミュンヘンのその辺りはビアホールばかり50軒も60軒もならんでいるからとても1つ1つ探せる数ではない。アベックなんかに訊ねても殆ど答えてくれない。交番も警察もない。

 そこで見るからに風采のよい紳士にCan you speak English ? と訊ねたら Yes , a littleとの答えで嬉しくなって、自分が迷子で友人達のいるビアホールヘも帰れないんだと訴えた。彼はbabarian music(パパリヤ地方の音楽)をやっていたか?と聞いて来たが私は no modern musicなどと答えてしまった。

 彼は更に How many musician in your hall ? と訊いてくれた。eleven.それでわかったbiggest hall だ。ついて来なさい。という事で私は辛うじてビアホールにもホテルにも帰れない絶体絶命のピンチから逃れることが出来た。兎に角夜の街へ一人で出るのは危険だ、私のそのドイツの恩人は僕も東京で夜困った時、日本人に助けられた事があるんだと云ってさっさと行ってしまった。

 合唱はなお続いていて軍艦マーチも終わり、日本側は唱うものがなくなって慶応大学のDoctorがテーブルの上へ飛び上り、KO応援歌と高らかにどなつたのはいいが、一番は何だっけ等云い出し、都の西北だろうなんてからかわれていたが兎に角楽しい夜であった。

 翌日朝の便でいよいよマドリッドへ出発、ジャンボの中で武藤先生が一生懸命アクセントをなおしてくれるのは良かったが、11分のところを8分で喋れとの事で文章をcutされたり表現を変更されたのは迷惑であった。

 何故ならば曽我先生の英文を暗記するくらい練習したのがバーになってしまうからである。

 マドリッドについて翌日午前9時から階段講堂へ行き下見をした上でスライドの提出をすませる。

 外国での発表は旅の恥はかき捨てと割切り大きな声で喋って、2〜3質問が来たが武藤先生が通訳してくれて事なきを得た。

 私はマドリッドを目的として来たのではない。翌朝イベリヤ空港で英国へ、今度は一人旅だ。武藤さんが心配して、迷子札(名刺)をくれた。

 この男に何かトラブルが発生したら、マドリッドのホテル○○へ電話してくれと書いてある。

 ロンドンヘ無事ついて、st.Marksで見学したあとフランスのドゴール空港からパリへ来れるのだろうか?20人皆が心配してくれたらしい。

 英国のSt.Marks病院のすぐ近くの安ホテルに部屋をとり、朝8時に出勤するが病院には誰も来ておらず、掃除人を節約しているのか、玄関は紙屑とごみだらけ、暇だからそれを拾って捨てていたら、手術室の婦長が通りがかった。何をしているのか?と訊ねるので、病院の玄関が汚れているから掃除をしていると答えた。

 手術は午前9時に始まり夜の9時か10時に終わる。私は二度とSt.Marks病院に来れないかも知れないという気持があるから、勿体なくて手術の途中で帰るなんてとても出来ない。

 同じ時期に見学者が7人いた。私を除いては皆3か月の予定で来ている。10日なんてのは私だけだ。

 その中に30才代の若いイタリア人が4人いた。この連中は弱くて手術が3〜4時間続くと4人ともしやがんでしまう。50才〜60才の術者が休みもせず大手術に挑んでいる最中にである。

 そして午後3時になると全員手術室から消える。ドイツとペルシャ人が午後5時すぎると消えて、夜の8時〜9時になると私が残るだけである。

 夜の10時に手術が終った時、婦長が私の肩を抱いて(彼女の方がやや背が高い)Oh,nice boy なんて云ってくれたりし、婦長の Private Room に招かれて朝のTeaなど頂戴した。

 いよいよ英国を離れる日が来た。ヒースロー空港ではアナウンスは1回しかないから余程注意しないと聞き落とすよ、と友人の西村先生が心配してくれたが、そんな事はなかった。

 ところが外国で日本人を見付けると懐かしがって高知大学の内科の先生が近づいて来てしきりに話しかける。英彿海峡は狭い。あっと云う間にドゴール空港に着陸してしまった。処が私は入国手続表を書いていない。それを書いているうちに乗客は皆降りてしまった。

 ところがこのドゴール空港が通路が太いパイプ状の廊下でつながっていて、どつちへ行けばいいのかさっぱりわからない。2度目の迷子である。人が居ないから訊ねようもない。

 うろうろビニールの大廊下を歩いていたら、若いフランス人らしい女性に会って出口を教えて貰った。漸く空港の外へ出れたのである。

 空港からアンバサダーホテル迄タクシーでまっしぐら、私が一番に到着したのであった。

 昼間だから皆でルーブル美術館に行った。素晴しい美術館でモナリザはたいした事はなかったが他の絵画や彫刻は心を動かされるのが沢山あって、思わず見とれているうちに皆帰ってしまって私一人になつた。いやいや大丈夫、ルーブルを出て凱旋門をくぐり左へ曲がれば約1kmで左側にアンバサダーホテルがある筈だ。と思って凱旋門を出たら十字路ではなく、放射状に6本通りがある。これだろうと選んだ道が違っているとみえて、目ざすホテルが見つからない。警察官がいたのでホテルのマークを見せて位置をたずねるが2人とも首をかしげるだけである。フランスの警官は頼りにならない。

 でも昼間だし道路一本違っているだけで、もう近くに来ている筈だと一人でうろうろ歩きまわったら忽ち見つかった。3回日の迷子。

 ヨーロッパ最後の晩に凱旋門の下で食事をした。帰途いくら手を挙げてもタクシーは停車しない。決った乗車場があってそこで待たないと車に乗せて貰えないのだそうだ。(少なくとも昭和53年はそうだった)そこで私がホテル迄俺について来い!と云った。皆心配そうだったが、俺はひるまもこの辺りで迷子になつているんだ。心配するなこっちだ、こっちだと自信満々ホテルへ帰った。

 

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在宅診療の体験報告〜其の1  板倉 亨通(北長岡診療所)

キーワード

 寝たきり老人のリサイクル?

 良導絡低周波治療の試用

 血小板凝集能測定器の再現性

まえがき

 田辺先生から在宅診療について寄稿する様に促されて、4〜5年が経ち、2〜3年前にも再度、お勧めを頂き、今年こそと、無題で御下命を頂き、恐縮して、取り敢えず報告させて頂きます。

 先ず、在宅患者の治療結果の第一次総括を表に纏めてみました。

表1

 この表の各項目毎に表2・ABCDEとして纏めてみました。此の表の内容について自分の経験した事を差し挟んで行きたいと思います。

 表1の平均年齢は83歳で高齢に偏って居ます。理由は良くわかりませんが40歳から70歳迄の寝たきり患者は持って居ません。

表2・A

 私が診ていた寝たきりの患者がどんな脳内変化を持って居るかが知りたくて纏めてみました。

 責任病変の無い患者は62.5%

 責任病変のある患者は31.2%

 でした。CT、MRI上、小病巣は、いろいろ見られますが、現在は一括して多発性脳梗塞とする便利な用語が有りますが、敢えてこの様に分類しました。従って責任病巣が無いという事は無所見を意味するものではありません。ある先生は責任病巣が無ければ患者が自立出来るのは当り前だと言われましたが、では無症候性脳梗塞はどうなるの?とか今流行りのEBMの御意見も在りますが、私の知りたかったのは、もっと素朴な 「寝たきり患者」と一纏めに言われる患者の脳の病変の傾向でした。

表2・B

 患者が寝たきりになる糸口は、精神症状の悪化を伴なう事が多く87.5%に見られました。其の精神状態の悪化は、原因不明の事も多いのですが、感冒による発熱、気遣感染、誤膝による肺炎等の合併等に気が付かないで居る時もありました。其の精神症状は多彩で、大変勉強になりました。表記の患者は、全例が一応、低周波治療により、病的精神状態を脱し、正常な精神反応に戻りましたが、考える対象が大きすぎて、未だ考えが纏まって居りません。

 ゆっくり考えてみたいと思って居ます。

表2・C 老人の筋肉痛

 此の項目に、老人に見られる特有の筋肉の痛みや痺れ、筋肉の強張り(こわばり)を含めました。此れ等の症状を上手く表現する学術用語が少ない様です。痛みについては、視床痛と言われる種類のものも入るようです。一例を挙げれば、80歳に近い老婆でしたが、頚背部に起こる激痛で、しかも、いつも深夜に往診を請われるのです。家人が余り関わらないので不審に思って居たら、看護婦に、いつも深夜に起こる激痛で近くの先生には、此の痛みは精神から来ているから、薬も効かないので、もう電話を掛けない様に言われているので、「おはち」が小生に回って来たとの事でした。それを聞いてから良導絡治療をして見ましたが効果は確認出来ませんでした。其の頃は在宅診療の制度も無く、結果を確認出来ませんでした。此の塙で(その2)に後述する患者も此の痛みを持っていました。此の種の痛みは麻薬も無効との事で(神経内科の処方設計、医歯薬出版、158〜160頁)特に興味を泡き良導絡の治療効果を検討しましたが全く無効の例は無く、殆ど、有効、乃至、著効でした。

表2・DE 家庭内自立

 上記の諸症状に対して良導絡低周波治療を行ってみた結果、家庭内自立が可能になった患者は68.7%で、介助すれば外出可能になつた患者は62.5%でした。なかには孫の結婚式に新幹線で、遠方に行く事が出来た人も居りました。

 上記が此の4年間在宅診療してみた結果の大略です。此の症例検討をした事により、良導絡低周波治療による寝たきり患者の治療、予防や、血小板凝集能測定結果を基にした脳梗塞再発予防が可能になるのでは無いかと予想しました。

 (其の一)のまとめ

 此の結果を、グループの医師に、ご意見を聞くと、ビデオにして見せて呉れなければ信じられない、とか、興味を持つが、追試迄する気にはなれない、と言う反応に出会います。私、自身も、始めは、こんな事が在って良いのかしら、とビクビクしながら治療して居りましたが特徴的現象は、今迄に経験した事の無い治り方を患者が示す事です。此の理由を4年間、考え続けて、次ぎの想定に至りました。其の例を(其の2)以下に述べさせて頂きます。

 我々、保険医は今迄、寝たきり脳血管障害患者について、入院で数ケ月、往診で数週間しか一人の患者について、診療する事を社会的、経済的に許されて来ませんでした。従がって何万人の患者について、診療経験を所有しても、この数ケ月の期間の知識、常識、経験しか持ち合わせて居なかったのではないかと言う気がします。しかし、幸いにも我が国では、医療法を改正して、在宅診療制度が実施可能になって来ました。そして、将来は、病診連携、診診連携、電子機器のネットワークの成立でCT、MRI画像や診療情報がフロッピーディスク一枚で診療情報の提供が出来る時代に入りました。将来、電子カルテが普及すれば、病院と診療所は、其の患者については、従来の病院の分院以上に密凄になり、計画的に長期に患者の経過を共有出来ます。在宅医療では今年から注射は請求出来なくなったので、良く起こる脱水症状には、入院を頻繁にお願い出来る対策も必要になりました。又、半年に一回ぐらいの健康状態の点検も出来るのが望ましいと思います。そうなつて、初めて老年病の実態が明らかになると期待して居ります。

 今後の御報告の予定

 老人には責任病巣が無くても、寝たきりになつたり、疎み足(すくみあし)で、立たせると足をぶるぶる震わせて、やがて音を立てて倒れたり、寝返りをする様に指示すると、敷布団を震える手で掴み、起きようとするが起きられない状態がしばしば見られますが、此れ等の脱力を脳の微小梗塞等による麻痺や障害と考えると、その後の症状と合わなくなります。此れ等の症状は、良導絡低周波治療で立たせ、歩かせ、家庭内自立させる事が比較的短時日で可能であり、自宅周囲の畑の手入れぐらいは出来るように回復する患者も希ならず居ます。但し、寝たきりにさせると、簡単に廃用性症候群が成立し、寝たきりになる事は当然と考えられます。暫定的には此れ等の症状を脳(底)動脈循環不全と呼ばれる先生も居られる様です。又、脳梗塞があって、著明な症状が有っても、障害部位に依っては、家庭内自立ぐらいは可能になります。良導絡低周波治療は、簡単で、手軽であり、比較的廉価です。副作用も著明なものを認めて居ません。此の治療法の長所、欠点、適応、実施法等は、後で述べさせて頂きます。此れ等の症例について、改善の経過を (其の2)以降に述べさせて頂きます。此の症例検討については、病診連携、診診連携の時代とは申せ、中央、日赤、立川の諸先生の他、多数の先生に、大変お世話になりました。厚く御礼申しあげます。今後共、宜しくお願い申し上げます。(つづく)

 

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最初の来日スウェーデン人 ベルゲンシャーナ提督  福本 一朗(長岡技術科学大学)

 カール・ペーテル・トゥンベリ(Carl Peter Thunberg 1743〜1828)が田沼時代の1775年に来日したスウェーデン人科学者・医師であることは一般に認められている。またそれ以前にもスウェーデン軍人、オロフ・エリクソン・ヴィルマン(Olof Eriksson Willman 1620?〜1673)が、トゥンベリに先だつ1世紀以上前、1651年に来日し1年滞在、帰国後2冊の日本紀行を出版したことも、ヘラルド・ヤーネ(Heraldo Hjarne)の著者「スウェーデン人日本渡航者(Tvasvenska japanfa-raer,1923)」を通じて日本にはよく知られている。しかし、このヴィルマンの来日よりさらに4年前、スウェーデン人として初めて日本の土を踏んだ人物がいることはあまり知られていない。ヨハン・オロフスソン・ベルゲンシヤーナ海軍提督(Johan Olofsson Bergenstjarna 1618)がその人である。

 ベルゲンシヤーナは、授爵前の姓をべリィ(Berg)といい、ストックホルムの東北約100kmのノルテリエにすむ市民オロフ・アンダション・べリィを父にカーリン・アンダシユドッデルを母として、1618年6月23日に生まれた。8年間の学校教育を故郷で終えた後、ストックホルムとオーボー市に住む兄達の下で1年間帳面付けと勘定方を修業する。親元にいつまでも置いておきたいという両親の期待に反して、船乗りになりたいと子供の頃から願っていた彼は、1640年に海軍本部付き狙撃兵となり、1643〜1645年の対デンマーク戦争に参加する。海の生活が性に合ったのか、1644年のフエメルン沖海戦や、1645年のボルンホルム島征服作戦に参加して海軍での下士官階級を着実に昇っていった。1645年のプレムセフローの和議でスウェーデンがデンマークを屈服させた後もべリィは洋上勤務を続けた。1646年、交戦国の仏海軍少将ド・ラ・ガルディ大使一行をフランスに送り届ける遠征船隊に参加し、途上オランダのブリシンゲンにて2人の東印度航海者と会い冒険心をかきたてられる。上司の提督に頼み込んだ彼は、生きて帰国した暁には再びスウェーデン王国軍に復職するという条件のもと、休職してオランダ船の水夫となる許可を得る。1646年9月18日晴れて蘭船ユング・プリンツ号の船員として雇われた彼は、5年におよぶ大遠征を開始する。残念ながら彼の航海日誌は既に失われてしまったが、いくつか残された手紙などから航海の大略を知ることが出来る。

 まず大西洋を渡りカナリア諸島からブラジルの海岸に至り、そこから引き返して希望峰を回り1647年には赤道の南6750kmのところにいた。その後ジャワ島のバタヴィアに至り異郷の礼拝儀式に注目する。ここでユング・プリンツ号を下船した彼は、あらたにバルゴウト号に雇われ、シャムに行く。当時の首部アユタヤで5つの黄金のパゴダに驚く。当時のアユタヤには日本人町が栄えており恐らく彼はそこで日本人に会って渡日の情熱をかき立てたのに違いない。もしかしたら現在のスウェーデン人が世界最高の女性と讃える日本人女性と恋に陥ったとしても決して不思議ではない。そして彼は1647年8月ついに憧れの日本に到着することができた。まだ独身のべリィが歴史上最初の来日スウェーデン人となったのは、弱冠29才の夏であった。当時の日本は1639年にポルトガル人を国外追放して鎖国が完成され、1641年にオランダ商館が出島に移されてやっと6年目だった。べリィの日本滞在がどのようなものであったかは、彼自身の著作がなにも残っていないのでいくつかの二次資料から類推するしかない。ただ、新井白石がイタリアの宣教師シドッチを喚問して西洋紀聞を著わしたのが62年後の1709年、日本の蘭学の祖と言われる青木昆陽が将軍吉宗の命でオランダ語を学び始めたのがこの83年後の740年のことであるので、その時にはオランダ語を通じて海外の知織を取り入れようという気風はまだ醸成されておらず、出島のべリィがほとんど日本人との文化的交渉を持たなかったことは想像に難くない。べリィ来日の4年後に来日したヴイルマンはスウェーデン軍人であることが発覚して、西洋の地理学と兵学を講義させられたことがわかっているが、べリィの場合はその様な形跡さえない。何事でも「本当の世界初」ということは往々にしてそうであるように、本人自身も自覚せず、ただ彗星のように現われ何の後も残さず、ただ黙って去って行ったのかも知れない。その後ベリイは1651年8月にオランダに戻るまでの5年間、政情不安な東支那海と東印度洋を何隻もの船で航海して巡り、時には建国間もない清国国内の河川でジャンクの旅も経験している。1651年11月スウェーデンに帰国後すぐさま、彼は5年前の誓約に従ってスウェーデン海軍本部に申告し、軍籍に復帰している。

 べリィが帰国した頃のスウェーデンはウエストファリア条約により、西ポメラニア、ブレーメン教会領を獲得し、かつ神聖ローマ帝国に参与する権利を待て、永年の宿願であるバルト帝国を完成し欧州の一大強国となつていた。啓蒙君主クリスチーナ女王に招碑された哲学者デカルトがストックホルムで没したのは、べリイ帰国の前年である。彼の復職後の戦功はめざましく1651年海軍中尉、1653年海軍大尉1655年海軍大佐、1656年オーランド中隊隊長をへて、1657年から1660年の対デンマーク・ブランデンブルグ戦争(後にオランダも参戦)に参加する。この戦争中、べリィは負傷したにもかかわらず数々の武勲に輝いた。戦後1665年秋、ランズクローナからイエテポリに向かう商船隊護衛任務につく。同年11月23日海軍少将に昇進。1666年の5月から9月、英国のフレミング大使とコヨーテ大使を軍艦でイエテポリからロンドンに送る。1671年6月3日海軍中将に昇進。1675年10月、ステンポツク海軍大将の副官として旗艦クローナン号に乗船し勤務する。1676年4月17日海軍提督を拝命、授爵姓ベルゲンシヤーナを名乗り、第4艦隊長官として、旗艦ビクトリア号に乗船する。乗船中突然の悪寒に襲われ、わずか16時間後に旗艦上にて死亡する。この時1676年5月20日、享年57才、ストックホルム南方ランズオート沖のことであった。この年にはブランデンブルグ軍がスウェーデン領ポメラニアに侵入しており、デンマークと交戦状態に入っていたので、ベルゲンシヤーナ提督は作戦行動中だったと思われる。彼の死後、第4艦隊は分割され、旗艦ビクトリアの指揮はベルゲンシヤーナ提督の甥のオロフ・アンダション・べリィ少将がとった。遺体は1678年5月12日ストックホルムの聖ヤコプ教会に納められ、更に彼の領地があったオーランドのレムランド教会に彼の妻クリスチーナ・ベールスドッテルと共に埋葬された。彼の妻は1632年6月24日生まれで、1652年に20才でベルゲンシヤーナに稼ぎ、夫の死後8年目の1684年52才の時にヨハネス・ゲゼリウス司教を養子にし、1703年5月8日に永眠している。領地でのベルゲンシヤーナ夫妻の生活は貧しいものであったらしく、戦傷と貧困のために税の一部を1673年6月11日に免除されているほどである。ベルゲンシヤーナ提督は、ストックホルムのリッダルフユーセット(騎士会館)での叙任式の前に急死したため、その子孫に貴族としての名前を残すことが出来なかった。その手紙類の一部は、彼の妻の義理の息子のヨハネス・ゲゼリウス司教によって1708年に国立資料館に寄贈され、そのために現在の我々は彼の渡日について知ることかできたのである。

 

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画像診断等の病診連携〜平成12年度病診協議会 石川紀一郎(石川内科医院)

 病診連携の大きな柱として病院のオープン化を考えた場合、「画像診断等の病診連携」もこの範囲に入るものと考えられる。

 事実、最近オープン化に踏み切った済生会新潟第二病院でもオープン化の大きな柱の一つとして開放型病床と共に、高度医療器械を使った外来検査を挙げている。

 今回の病診協議会は平成12年10月7日、会館青善で開催された。

 先ず長岡赤十字病院、立川綜合病院、長岡中央綜合病院など長岡市内の病院での外来画像診断の利用状況や将来展望等について説明があり、更に診療所側から利用者の立場でお話いただいた後、参加者全員での討議が行われた。

 長岡赤十字病院では院外の医療機関よりCT、MRI、RIの依頼が有った場合、病診連携室で一括して電話、FAXで受け付け、病診連携室から放射線科に予約する。まず緊急性の有無を確認する。緊急性のあるものは救急外来を受診して頂く。緊急性の無い場合は、検査内容を確認して予約日を電話ないしFAXで医療機関に連絡する。その際は、患者用の予約日のお知らせ、注意、計画、問診票なども一緒にFAXで送る。

 検査当日は放射線科を受診してもらい検査を行う。

 フィルムは2部作り、1部を患者に渡す。放射線科医師が返事、報告書を作成し医療機関にFAXまたは

郵送する。重篤な所見があれば直ちに連賂する。

 画像診断の取り扱い件数は1999年2月〜2000年9月で21件。検査内容はRI13件、MRI5件、CT3件であった。検査のみの依頼は少なく、治療を要する症例が救急外来もしくは各科外来に紹介され画像診断に廻ってくることが多い。このような緊急性のある症例の検査に追われているのが現状である。

 立川綜合病院でもCT、MRIの検査依頼が有った場合、立川綜合病院(代表TEL又は連携室)にて受け付け、放射線科にて検査予約に対応する。この際患者名、撮影部位、造影剤の有無などを確認する。

 受け付けは放射線科で直接行う事も可能で、現時点ではこちらのルートの方が多い。

 検査当日は放射線科新患受け付けでカルテを作成し、紹介状を受け取り、検査、読影、診断、紹介状の返事作成を行う。

 患者は紹介状の返事とフィルムを受け取り、紹介医のもとへ帰る。

 フィルムの作成は1部のみである。

 取り扱い件数は999年4月からの1年間でMRI、CT220件である。

 長岡中央綜合病院では胃部レントゲン、注腸、CT、MRI、シンチその他の画像診断の依頼は全て放射線科の窓口で受け付ける。ここに予定表が有って日時を決める。

 検査後は直ちに専門医が診断し、診断用紙と現物(フィルム類)をその日の内に患者に持ち帰らせる。件数は月40〜50件である。

 連携室でも受け付け可能との事なので、3病院とも基本的にほぼ同じ態勢と考えられるが、立川、中央の両病院では放射線科での直接受け付けが主体のようである。

 次ぎに、利用者側の立場として石川内科クリニックより発言があった。

 胸部CT、腹部CT、骨盤内pneumoMRIなどを放射線科に直接依頼している。

 患者の目の前で病院に電話して、日時を決め、当日は紹介状と単純レントゲンフィルムを病院へ持参してもらう。病院からのCTフィルムなどはしばらく預かり、不要になったら返却する。

 時には診断無しで、画像だけの依頼をすることもある。この場合は放射線科に直接電話して技師に撮影方法を指示して、患者に放射線科に行ってもらいフィルムを貰って帰って来てもらう。

 検査料金はクリニックから保険請求して、撮影料とフィルム代を病院側に支払う。この方法では造影剤の使用や撮影方法の変更は出来ないが、時間の無い患者には好評である。

 以上の発言を踏まえて、このあと活発な討議が行われた。

 利用状況については胸部CT、腹部CT、各種シンチ、胃部レントゲン、注腸、胃カメラ、大腸ファイバー等多岐にわたって利用されている現状が明らかになったが、頭部のCTに関しては脳外科、神経内科などを経由しての利用が主のようである。

 受け付け窓口としては病診連携室と放射線科との両者が挙げられたが、前者については将来利用する施設が増えてゆく事を考えると、その機能の整備、拡充が求められた。一方後者については手軽で、利用しやすいなどの利点が強調された。

 また「検査依頼の際のマニュアルを作って貰いたい」、「シンチの際、核種の選定は病院の専門医にお願いしたい」等の要望も述べられた。

 一方で、検査依頼の増加に伴い病院側に過度の負担を強いる事になりはしないかとの危惧も述べられたが、これに対しては病院側から出来るだけ前向きに対応して行きたい旨の回答がなされた。

 将来的には病診連携室の充実、強化に伴い、ここを通しての検査が益々増加していくものと考えられるが、一方で、現在検討されている長岡市における光ファイバー綱の整備計画による、病病間、病診間、診診間における画像診断の連携、共有化などの近未来像の詰も出されて有意義な会を終わる事が出来た。

 

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塩引きの鮭は涙味  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「きょう村上のY先生から塩引き鮭が届きましたよ。」と家人が教えてくれました。

「お礼状をちゃんと書いといてくださいね。」

 このYくんは以前わたしが指導医だった関係ですが、村上市に転勤してから名物の三面川の塩引き鮭をお歳暮に送ってくれるのです。

 この塩引き鮭は格別の風味で懐かしい味の好物のひとつです。現代医学の立場では、この食品流通のよい時代、何を好んで胃がんや高血圧になりやすい塩蔵品を食するのか?ということになりましょうが。

 しかし「ひとはパンのみにて生くるにあらず」…おかずもいるのだ…あはは。健康と栄養のみにて食うにあらず。食の嗜好(流行の嗜癖ではないですよ)は生活本能の満足であり、文化でもあると思うのです。などと、食いしん坊の言い訳をしておきましょう。

 家人にも聞いてみましょう。

「こどもの頃、暮れ正月のご馳走でしょっぱい塩引きを食べたよね?」

「いいえ、食べません。」

「ええっ、ほんと?」

「その時期にはぶりを食べたわ。お刺身や焼き物で。」

 そうでした、そうでした。家人は海の向うから渡来の、京の文化圏に育った異邦人なのでありました。

 とんと昔あったてんがな…と昔話になりますが、代々の越後田舎ものの家系です。(変った苗字は事情があって他国のもらいものらしい) こども時代は、裕福とは程遠い「清貧教師の子沢山」でありました。

 当時大晦日は「年取りの晩」と称しました。のっべ、昆布巻き、出し巻き卵、色寒天などのご馳走に混じり、一等のメインディシユが塩引き鮭でした。日頃は子豚のようにきょうだい五人で、同じ皿のおかずを突付き合うのです。この年夜の晩の塩引き鮭だけは、必ず銘々に一皿ずつでした。塩辛いもので、ごはんの「おかずになる」味付けです。幼いこどもでは一切れなどとうてい食べ切れません。

 慎ましく暮らしていても、季節の節目にはせめてきちんとしようというのでしょう。他にも節句などの母の手作りの赤飯、色団子、笹粽、笹団子、いなり寿司、おはぎ、筍ご飯など懐かしいご馳走です。おそらく豊かでない暮らしだからこそ、精神伝統を大切にする、いわば庶民なりの給持があったものでしょう。

 年夜の晩は煤払いを終え「早や夕飯」でした。家族がそろいにぎやかで、父は珍しくお酒を飲みました。そしてこどもが新年を迎える眠りにつく前に、お年玉をひとりずつに手渡してくれたものでした。

 ところで塩引きはあまり最近見かけず、よく目にするのは新巻鮭。新巻鮭とは塩を浅く付けた物、これに対して塩引き鮭はしっかりと濃い塩に漬け込んだものという区別だそうです。

 栞によれば、三面川の塩引き鮭は味の良い雄鮭を一週間塩に漬け込んだものを荒く磨き、寒風に晒して風味を増したものだそうです。

「塩引きはどうした、それで?」

「もう三枚に下ろして、冷凍しました。お母さんが昆布巻きの芯になさる塩引きのアラを欲しがってらしたから、半身といっしょに夕方お届けしました。」

 そのうち実家からじっくり煮込んだ大ぶりの昆布巻きも届くことでしょう。ただし中に巻かれたご用済みの鮭アラは好きでないのです。こちらは食卓の脇にはお相伴を待つ犬たちもおるのであります。

「煮込んだ鮭の骨のカルシウムは体にいいんだぞ。」…なんて。

 

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