長岡市医師会たより No.253 2001.4

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もくじ
 表紙絵 「小雨の朝」      丸岡  稔(丸岡医院)
 「開業一年を振り返って」    木村 清治(いまい皮膚科医院)
 「開業一年の感想」       長谷川俊哉(メッツ整形外科クリニック)
 「日本のリンネ」        福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「山と温泉48〜その30」     古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「屋根より低い鯉のぼり」    郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

小雨の朝  丸岡 稔(丸岡医院)
開業一年を振り返って  木村 清治(いまい皮膚科医院)

 時の経つのは早いもので開業して1年が経とうとしています。ここで開業のいきさつと1年間に感じたことを記してみたいと思います。開業することを決めたのは平成11年の夏で家内の母の介護に今まで以上に多くの時間と労力が費やされるようになったことと家内から木村医院の患者のうち皮膚科の患者だけでも診てほしいという要望があったことが主な理由です。それと、もし開業するなら今でないと病院を定年退職後(5年後)ではやる気がなくなる可能性がありました。又、私自身医師になったからには一度は開業を経験してみたかったことも事実です。しかし、こんなに急に実現するとは思いもよりませんでした。開業を決断してからはまず医院の建築が大事業でした。地元の業者に依頼したのですが、専ら住宅建築だけを手掛けていて医院建築に関しては素人だったので設計の段階から難航しました。そして誰もが経験するであろうスタッフの人選、諸々の業者との折衝なども初体験でしたので、それなりに大変でした。スタッフは看護婦2名(常勤とパート各1名)、事務員2名(常勤とパート各1名)が開業前の予定で、前者のうち常勤は以前勤務していた病院の人、パートは知人の紹介、事務員はいずれも職安を通して採用しました。しかし開業してみてこの人事がいかに難しいかを思い知らされました。最初に採用した事務員はすべてトラブルを起して1〜2カ月で辞めました。中途採用した人も受付業務に不適格ということで3カ月で辞職。常勤の看護婦は病院勤務が長かったせいもあり個人医院向きではなかったのです。再三のトラブルの末、結局辞めました。木村医院の皮膚科の患者を円滑に当院で受け入れられなかったことが大きな理由の一つでした。現在はパートの看護婦が2名で受付業務も兼任していますが、私がコンピューターを操作する始末で、お陰でレセプト業務を含め医療事務は殆どマスターしました。良い社会勉強になりました。これも開業前に予想していた患者数よりもはるかに少ない患者数だからこそ可能なことだと思います。建物も全体に広すぎた感があります。ここで「いまい皮膚科医院」 の特徴を挙げると、(1)家内のやっている木村医院のすぐ前で別名で開院したこと、(2)建物の構造をバリアフリーにしたこと、(3)往診にも応じること、(4)小手術もやることなどとなります。(1)は木村医院と区別するためでもあり、新鮮さも考慮したもの、(2)と(3)は時代の要請に応じようとしたもの、(4)は大学在簿当時の教室の教育の影響があります。次に開業して1年の間に最も印象に残った出来事といえば5月のハープコンサートです。東京にいる妹夫妻が開業祝としてプレゼントしてくれたもので、東京から奏者を招いての出前コンサートでした。出席者は50名位でしたが、直接聴く機会の少ない楽器のせいもあり大変好評でした。待合室で行われたのですが、窓外の緑もコンサートを盛り立てていました。院内の人事が混乱を来たしていた時期にもかかわらず、これは大成功だったと思っています。

 開業医の仕事は病院の勤務医の場合と異なり患者の診療だけでなく、というよりはむしろマネージメント(経営と管理)の占める部分がいかに大きいかを実感しました。幸い私の場合は開業の先輩格の家内や木村医院のスタッフからの数々の助言や支援をもらっているので助かっています。これから先何年続けられるかは分りませんが、背伸びせずマイペースでやっていこうと思っています。大学卒業後、大学に約12年、病院勤務が約23年、一般のサラリーマンなら定年退職の年令での開業です。この仕事に期待するのが無理でしょう。私自身は今までの長い病院勤務時代に充分やりたいこと(論文執筆や学会発表などの学究的なこと)はやり遂げたと思っているので悔いはありません。開業すると学問から遠ざかるという一抹の淋しさがありますが、努めて学会には出席して外の空気を吸おうと思っています。昨年1年間は地方会にも一度も出られませんでした。最後に月並みな言葉ですが、少しでも専門領域で地域医療に貢献できればと考えています。今後、医師会の諸先生方には何かとお世話になることと思いますが、開業の若輩者としてよろしく御指導の程お願い申し上げます。

 

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開業一年目の感想  長谷川 俊哉(メッツ整形外科クリニック)  

 平成12年4月、川崎に整形外科診療所を開業いたしました。早いもので1年を迎えようとしています。メッツ整形外科の由来は何かという問いかけがありますのでそこから始めます。開業した場所は、メッツ川崎メディカルタウンとされており、内科、歯科、調剤薬局があります。今回、その一角に仲間入りさせていただき、メッツ整形外科クリニックとしました。メッツそのものの由来は、ニューヨークメッツとは関係なく、皆に親しみをもって呼びやすい名称ということでつけられたそうです。

 開業の話は2年前から始まり、川崎地区は新興住宅地でこれからも発展する地区であることや、地主さんを中心とした老人会の方々からの歓迎を受けまして開業を決めました。実家は長岡ですが出身校、研修、勤務した病院は東京とその周辺だった為、新規開業には不安がありましたが、可能であれば早いに越したことはないと決めました。

 開設に際し膨大な事務手続きがありましたが、医師会事務局の方々に助けていただき期限内に完了できました。医師会事務局を初めて訪ねて、入会と開業の話をしたときも快く対応していただき感謝しております。

 閉院初日は、外壁の看板が隠れる程たくさんのお祝いの花に包まれるなかで始まり、多数の方々に来院していただきました。すべてが初めて、患者さんはすべて初診、検査や治療を受けるのもすべて初めてでしたから、今振返ると単純計算ですべて2回ずつの診察が必要だったわけで、とても大変でした。レントゲン写真の出来上がりは自分のイメージとはまったく違うものが連発して本当に困りました。仕方なく、以前勤務した病院の技師さんに何回か来て頂き教えてもらったりもしました。今では、なんとか紹介状に添付し持参させても良いようにはなりました。

 その後、初日のようなどたばた騒ぎはなくゆっくりとした診察になりました。話を良く聞いて、その人が何に困っていて、何を望んでいるのかを見極める診療を心がけました。待合室も工夫して、単なる診察待ちの空間でなく地域の方にとって憩いの場所か待ち合わせ場所になるよう努力しました。

 月日は流れ、とうとう雪が降り、毎日、これ以上降らぬ様祈りましたが、今年は10年振りの大雪となりました。患者さんの数は減るのに仕事量は増え、朝と夜の除雪作業は日課となり良い汗をかきました。大雪に伴い往診の依頼もありました。往診は菅平の診療所に3、4日出張した時に経験しましたが、ホテルやペンションの宿泊客を診療するものでしたから、連れていってもらい楽なものでした。しかし今回は地図で場所を調べて自分でいくわけですから、最初は道順や駐車場所に戸惑いました。

 整形外科を標傍してどれだけ外科的治療をしたかと思うことがあります。大半は外科的といっても保存療法にならざるを得ません。数少ない症例を大切にして、末永くフォローするのが勤めだと感じました。

 整形外科の中にスポーツ医学の分野があります。川崎周辺には小、中、高校が集まっており熱心な選手が多いです。予想以上にスポーツ外傷、障害の方が来られ驚きました。選手たちと治療をしながら試合の成績を開いたりしていると、また違った喜びを感じました。

 開業医1年生は、試練の年でした。診療のみならず、事務、会計、人事、渉外とあらゆる分野の責任者を兼ねていた訳で、いろいろ問題点もありましたが一つ一つを解決し勉強させていただきました。開業して良かった点は、生活が規則正しくなり食事も3度ずつ食べれるようになったことでしょうか。夜中に手術で呼ばれる事もないし、X線被爆もゼロに近いでしょう。イメージ下の手術の後は妙に体がだるかったことを覚えています。あれはただ単にプロテクターの重さだけではないように思われます。おかげで、体重が5キロ増えました。もともと細身なのでちょうど良くなったのかもしれません。

 まもなく2年生になろうとしておりますが、皆様のご協力で開業し診療できた事を深く感謝いたします。なにぶん未熟な点が多々あるかと思いますが、精一杯努力する所存でございますので、今後とも皆様の御指導、ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

 

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日本のリンネ〜最初の来日スウェーデン医師トゥンベリ抄

福本 一朗(長岡技術科学大学)

1.シーボルトより半世紀早く出島へ

 日本が西洋医学を本格的に受容し始めてからまだ二世紀にも満たない。オランダあるいはドイツ医学と日本の近代医療との関係史は、内外の医史学者によって比較的よく解明されているが、ノーベル医学生理学賞を決めるスウェーデン医学界とのつながりは意外と知られていない。1987年利根川進博士が日本人として初めてノーベル医学生理学賞をストックホルムで受賞されたのを機会に、スウェーデン医学の我が国での足跡を振り返ってみることは、日本の医療の未来を考える上で意義あることと思う。

 江戸時代、日本の医師たちに西洋医学を初めて講義し、「フロラ・ジャポニカ」(日本植物誌)という著書で、千数百種の日本の植物を西洋に初めて紹介した、出島のオランダ商館付き医師はというと、鳴滝塾をつくったオランダ東印度会社のドイツ人医師フリップ・フランツ・フォン・シーボルトを思い浮かべられる方が多いかもしれない。

 シーボルトが長崎に上陸したのは1823年、「フロラ・ジヤポニカ」を出版し始めたのが帰国後の1834年。しかし彼よりほぼ半世紀前に来日し、最初の「フロラ・ジヤポニカ」を1784年に出版したスウェーデン人がいるのである。

 彼の名をカール・ペーテル・トゥンベリ(Carl Peter Thunberg)という。トゥンベリは1743年、スウェーデン最大の湖であるベッテルン湖畔の町イエンチェピンで計量士の父ヨハンと母マルガレータとの間に生まれた。貧しい家庭に育ったが勉学成績優秀であった彼は、同郷のウプサラ大学教授カール・フォン・リンネの資金的援助を得て、1761年ウプサラ大学の学生となることができた。その後も恩師の期待を裏切ることなく研鑽を続けて、1769年医学士・1770年医学修士そして1772年には坐骨神経痛の研究で医学停士の称号を得た。在学中から植物学者・医学者リンネの最も忠実な弟子となり、恩師の推薦で異例の海外留学生となつてパリに学び、そこでリンネの親友プルマン教授父子の勧めもあってオランダ東印度会社の補助外科医となり、リンネの命令で日本の植物をオランダ政府のため収集する仕事を得る。1772年4月、蘭領ケープ植民地に上陸したトゥンベリはそこに3年留まり、植物採集旅行に努めた。このときの成果の一つとして、東アフリカ産の葉アザミの一種にトゥンベリギアという名が付けられている。彼はその時に、当時鎖国中でオランダ人にしか入国が許されなかった日本に行くため、オランダ語をケープ植民地でマスターしている。1775年3月、1級船医となったトゥンベリは、ケープ植民地を三層甲板艦スタペニス号で出帆し、途中、バタビアをへて1775年8月13日夜に長崎の出島に到着している。この時31歳、まだ独身であった彼は記録に残る限り最初の来日スウェーデン人医師となった(注1)。

2.米飯やみそ汁に親しみ日本を理解

 当時の日本は青木昆陽が蘭学を講じ始めて31年、1年前の1774年には杉田玄白の「解体新書」が出版されたばかりで、オランダを通じて西洋医学を吸収しようとする磯は熟していたといえる。しかし大槻玄沢の「蘭学階梯」まで8年、稲村三白の蘭和辞典「ハルマ和解」の完成まで21年を待たねばならなかったので、蘭学を学ぶことは「蘭学事始」に見るように困難を極めていた。出島のオランダ商館が雇った公式通辞の中に知識欲に燃えた日本人医師が多数いたことは、決して偶然ではないように思える。行動の自由を厳しく制限され、出島からほとんど外に出られなかったトゥンベリを助けて、日本の自然と人々に関する知識をもたらしたのは、長崎はじめ全国の日本人医師たちであった。彼らの献身は、トゥンベリを「日本の植物相を最初に研究した欧州人」たらしめ、それゆえに後に欧州の人々は彼を「日本のリンネ」と呼ぶようになった。アフリカにおける研究と合わせて、トゥンベリは70以上の新属、1900以上の新種を発見している。またトひンベリは、日本人の若い医師たちに水銀駆梅法を始めとした西洋医学と医療技術を教えたのみならず、日本に自生する薬用植物の利用法も教授した。私の知る限り、これがわが国最初のスウェーデン人医師による西洋臨床医学の講義である(注2)。

 1776年春、彼はA・W・フエイト商館長付きの医師として、オランダ外交使節と共に大阪・江戸を訪れた。江戸に三週間滞在する間に、幕府御典医であり「解体新書」の訳者でもあった桂川甫周(1751〜1809、当時25歳)や中川淳庵(1739〜1786、当時37歳)に物理学・内科学・外科学を講じた。この2人は後に日本の植物学にリンネの生殖法を取り入れた。

 トゥンベリが長崎と江戸で行った講義は、後に弟子たちによって出版され我が国で最初のスウェーデン人による臨床医学講義録となった。日本を理解するために米飯やみそ汁に親しみ、片言の日本語まで操ったという彼も、出島での厳しい禁足生活に疲れ果てた末1776年12月、採集した多くの標本とともに日本を去った。在日1年4カ月であった。途中バタビア、セイロン、ケープ植民地などに立ち寄った後、1778年10月にはアムステルダムに到着した。ここでライデン大学の教授職やペテルスブルグの植物園支配人職の誘いを断ってから、ロンドンの大英博物館に寄って、1779年3月、8年半ぶりに帰瑞した彼は、母校ウプサラ大学付属植物園の講師となる。恩師リンネは1778年既に亡くなり、その息子が跡を継いでいたが、トゥンベリはこのリンネ二世と折りが合わず、ついには植物園への立ち入りを禁止されてしまう。

 このリンネ二世は、「才能がなかったというわけではないのだろうが、一編も論文を書かなかったので、なんとも判断のしようがない」、「父親の七光で、学位もとらずに教授になった男だ」と後の歴史家に酷評されている。

 1781年、リンネ二世が父親の弟子たちを訪ねての2年間の海外旅行にでかけた後、トゥンベリは非常勤教授に任命される。1783年、リンネ二世はこの海外旅行中に得た病がもとで42歳の若さで病死する。そのため翌年の1784年にようやくトゥンベリは恩師リンネ教授の椅子を継ぐことができ、ウプサラ大学医学部の「医学及び植物学」の教授となることができた。トゥンベリ41歳のこの年、ウプサラに近いバクサラ教会にて32歳の見目麗しいブリタ・シヤルロッテ・ルダ嬢と結婚する。双方とも初婚であった

3.「日本紀行」など三百篇を超す著作

 この1784年という年はトゥンベリにとって非常に重要な6つの事件があった年であった。それらを既に述べた2件も含めて列挙してみると次のようになる。(1)リンネの跡を継いで医学部教授となった。(2)ブリタ・シヤルロッテ嬢と結婚した(4月8日)。(3)スウェーデン国王グスタフ三世が自分のお城に付属する庭園を植物園としてウプサラ大学医学部に贈り、トウンベリがその管理責任者となった。(4)トゥンベリの代表作「日本植物史(Flora Japonica)が刊行された。(5)娘ブリタ・ユリサベト・トゥンベリが生まれた(6月5日)。(6)息子ベール・トゥンベリが誕生した(10月26日)。ここで結婚日と娘と息子の誕生日の日付に注意されたい。結婚生活の間には実子がいなかったことが住民台帳はじめ多くの資料で確認されているトゥンベリ夫妻に、結婚の翌月に娘が、半年後に息子が生まれているのである。もちろん2人の子供たちは夫妻の実子であるはずはなく、この間の事情を知ることは、今までよく知られていなかったトゥンベリの人間性を知る上でひとつの手掛かりとなると考え、教授の家族生活を国立公文書館の戸籍簿と塵の中に尋ねての二世紀を遡る旅は始まった。新婦ブリタ・シヤルロッテは1752月7月31日、公証人・ウプサラ大学事務総長ガブリエル・ルダ氏を父としブリタ・ステイナ・セーデルベリを母としてウプサラ市で誕生した。トゥンベリと結婚した当時、実家の家族は同じバクサラ教区内でウプサラ市北東2kmのグレンビイ郷に移っていた。ウプサラ市の北2kmにあるトウナベリ郷に新居を構えたトゥンベリ教授はウプサラ大学まで毎日、学生から「ガラガラ蛇」と悪口をいわれた古馬車で通勤したという。

 トウナベリ郷は地図で見るとウプサラ市の中心からも、バイキング時代の政治の中心地であり古い歴史を有するガムラ・ウプサラ村からも、また新婦の実家のあったグレンビイ郷からもぽぼ2kmの等距離にあり、この地に居を定めたトゥンベリの合理的精神と思いやりの探さには驚かされる。田園に囲まれた静かなトウナベリ郷で精力のほとんどを三百篇を超える著作に注ぎ込み、その中には当時のヨーロッパ人にはほとんど未知であった日本に関する興味深い著作も多く含まれている。特に「日本紀行」は当時の日本の様子をヨーロッパ人達に詳しく紹介する非常に良い資料となつた。

 トウンベリは帰国の翌年、バクサラ教区にあるロービイ郷の家屋敷を司教夫人ベロニアより1405クローネで購入している。ただこの屋敷は1824年まで改築が終わらず、トゥンベリの息子のベールが主に住んでいたようだ。しかし彼の収集品の一部である16箱の植物標本と二千冊を超える蔵書の一部はここに移されていたという。1790年にはトゥンベリ夫妻はバクサラ教区に登録されており、1793年には既に2人の子供たちも住民台帳に登録されている。夫妻が彼らを養子として迎えたのはこの間である可能性が強い。とすれば、当時2人の子供たちはたかだか9歳であり、トウンベリ夫妻の間には約9年間子供が生まれておらず、夫妻は自分たちの子供が産まれることを既に諦めていたと考えられる。1798年9月16日のバタサラ教会正餐式にトゥンベリは、妻と養子ベールおよび養女ブリタ・ユリサベト・リィドベリ(後にトゥンベリ姓に改称)と共に陪餐している。1802年には一家はガムラ・ウプサラ教区に移籍されている。このガムラ・ウプサラ教区時代のトゥンベリ教授の家族構成であるが、1805年から1811年の間のガムラ・ウプサラ教区住民台帳によると、トゥンベリ一家の家族構成は次のようになっている。

 戸主貴族トゥンベリ教授=1743年11月11日イエンチェピン生まれ、妻主婦ブリタ・シヤルロッテ・ルダ=1752年7月31日ウプサラ生まれ、息子学生ベール・トゥンベリ=1784年10月26日ガムラ・ウプサラ生まれ、娘ブリタ・ユリサベト・トゥンベリ=1784年5月5日生まれ、義母ルダ夫人=1738年生まれ1810年死亡、妻の兄弟の娘ステイナ・ロック・ルダ=1794年5月14日デンマークで誕生、妹の息子C・P・フオシユベリ=1793年2月3日イエンチエビンで誕生。

 このうち、妻の姪ステイナとフオシユベリの2人は1809年から一緒に住みはじめている。自分たちには子供を授かることができなかったが、その生涯を通じて常に複数の男女の子供たちが住んでいたトゥンベリ家の居間を考えるとき、子供好きだったトゥンベリ夫妻の様子がしのばれる。

4.日本の蘭医達と終生文通を絶やさず

 当時の複雑な戸簿簿を調べていくと、トゥンベリの息子・娘たちについて意外な事実が分かってきた。トウゥンベリの息子ベールの実母は1784年ガムラ・ウプサラに生まれた女中グレタ・ヤンスドツテルであることは分かっているが、実父はトゥンベリの妻ブリタ・シヤルロッテの兄弟の一人といわれている。グレタは35歳の時にベールを婚外子としてもうけて前述のようにべり家に養子に出した後、近隣の下男ユリク・ウルソンと結嬉し、1810年に62歳で死亡している。死亡時には夫以外の遺産相続人 (子供)は一人もいなかった。トウンベリ夫妻に実子同様に育まれたベールは成人して技師となったが生涯結楯せず、1835年4月22日、ロービイ郷にて「炎症(肺炎?)」のために51歳で死亡した。トゥンベリの娘ブリタ・ユリサベトの両親は、戸簿簿に一切記載がないため全く不明である。彼女もベールとほとんど同時にトゥンベリ家に養女に来ており、1821年にガムラ・ウプサラ柑でリッデルビョルケ技師と結婚し、少なくとも男の子を一人産んでいる。このトゥンベリの孫は後に祖父と同じウプサラ大学の医学生となり、伯父ベールらと共にトゥンベリの最後を見取った一人となっている。誰にも優しく好かれていたトゥンベリ夫人ブリタ・シヤルロッテは、母ルダ夫人の死後3年を経た1813年に夫、息子ベールと娘ブリタ・ユリサベト、それに甥と姪に囲まれて皆に惜しまれながら世を去る。トゥンベリは妻との29年の思い出が染み込んでいるトウナベリ郷に住むのがつらくなったためか、妻の他界直後にウプサラ市の中心スロッテツト区オランイユリエット街に移住している。息子ベール、娘ブリタそれにこのときには既に医師となつていた甥のC・P・フオシユベリも共に移っている。(現在でもフオシユベリ姓を有する著名な医師は多く、貴族制度の消え去ったスウェーデンでも医師の名門とみなされている)トウンベリは1824年には前述のロービイ郷に一時移っているが、2年を経ずして妻との思い出深いトウナベリ郷に再び舞い戻っている。トゥンベリはこのトウナベリ郷をこよなく愛し、ウプサラの植物博物館の一部を移し、その晩年には病気の友人や同郷人を見舞う以外は、ほとんどその地から出ようとしなかったという。しかし彼を訪れる若い人々はいつも大歓迎を受け、特に医学を志望する学生には自分の豊富な経験を惜しみ無く分け与えたという。1828年8月8日、トウナベリ郷にて息子ベール、娘の息子それに甥のフォシユベリ医師に囲まれつつ、トゥンベリは安らぎのうちに84歳の生涯を閉じる。彼が終生、研究を続けてきた植物達の祖国、そして終生文通を絶やさなかった蘭医たちの住む日本では、くしくもこの年シーボルトの帰国荷物中に国禁の地図があったことが発覚し、彼は罪に問われる (シーボルト事件)。

 トゥンベリが日本を離れてから52年後のことであった。

 

〔参考文献〕※欧文のため、一部正確な標記ができておりません。ご了承下さい。

1.Carl Peter Thuunberg:: Resa tiloch uti Kejsaredomet; Japan-aren1775 och 1776,Bokforlaget REDIVIVA,Stockholm 1980

2.TOrsten Schmidts: Carl Peter Thunberg och Raby,Uppland 1983,p29-31

3.S.A.Hag: Beskrivning ofver Upsala Kyrkogard,Upsala,1886

(注1) スウェーデン人としてはベルゲンシヤーナがクリスチーナ女王時代の1648年8月に来日したのが史上最初であり、また4年後にも軍人ヴィルマンが来日し1年滞在して帰国後2冊の日本紀行を発行している。後者についてはヘラルド・ヤーネの「2人のスウェーデン人日本渡航者」に良く記載されているが、前者については今までほとんど知られていなかった。詳細は筆者の駄文「瑞星波涛を越ゆ」(スウェーデン社会研究1988年4月)を参照されたい。

(注2) オランダ人以外の医師としてはドイツ人ケンベルが元禄三年(1700年)に来日し2年間、出島に滞在して、後に「日本誌」「江戸参府紀行」を著している。出島を訪れたケンベル、トゥンベリ、シーボルトの3人をあわせて「出島三学者」と称されている。

 

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山と温泉48〜その30  古田島 昭五(こたじま皮膚科診療所)

草津道・秋山道

 通称「秋山郷」には、元亀・天正年間(1570年〜1591年)、上州からの落武者が住み着いた、と市川健夫氏「平家の谷」の秋山の歴史年表にある。では、草津道は何時の頃、どのようにして道が作られ人々が通行したものか。古文書等の資料からは、越後から関東への交通路として、妻有庄から秋山越えが考えられる、としている。村誌に、永正六年(1509)長尾為景(上杉謙信の父)に妻有庄(現在の南魚沼郡、中魚沼郡)から追われた前関東管領上杉憲房は、「秋山越え」を辿り上野(群馬県)に遁れているのではないか?と言う。又、この道は、一名「草津越え」と呼ばれる。当時越後から関東に抜ける最短距離の安全な道であり、途中の草津温泉は、温泉と物資の中継基地として、往時既に人々で賑わっていた町であったので草津越えとしたのでしょう。新田一族の赤沢移住もこの道を利用したのではなかろうか(津南町誌)と思われている。越後・信州秋山郷に流れる中津川は、現津南町で信濃川と分れ、切明で魚野川と雑魚川に分れ、越後・信州・上州の国境の高山の奥深くに上行し、沢となり、頂上稜線で消える。秋山郷の地勢は、中心の中津川が北に向い口を開けているが、東、西、南は、苗場山を始めとして、鳥甲山、岩菅山、赤石山、大高山、佐武流山、白砂山等と、いずれも二千米を越える高山帯が屏風となつている。此処に住む人々の集落外地との往来は、中津川を下る、西側の中津川左岸台地より山越えで善光寺街道、切明から雑魚川を遡行、信州中野へ、そして、魚野川を遡行、屏風を越えて上州等への道を利用し行なわれたものと推測されている。秋山郷に就いて詳細な記録を残した鈴木牧之は、北越雪譜の文中に、秋山記行としてこの秋山・草津道を記述している。この秋山記行にある三人の秋田狩人(マタギ)に開いた「草津往来」の夜話は、秋山・草津道の最も旧い古文書記録とされている。文政11年(1828)の記録である。この時の切明から草津への道は、これ以前の記録が残っていないので何とも言えないが、記録の残っている以後の草津越えの道とはかなり違っている。「秋山記行」から草津往来の道を辿ってみる。「草津まで十三里。中津川を和山から川岸を遡行、二タ沢 渋沢ダム上流)で川は分岐、右魚野川、左は野尻川(千沢・セン沢)、右の魚野川本流を遡行する。沢を渡り、滝を越え、黒沢の先、左の小ゼン沢に入り、沢が浅瀬になるまで撃じ登る。頂稜を越え一里半入山村に入る。」この頂稜越えは、現在の野反湖の西、大高山(柳峰:2079m)とダン沢ノ頭(2040m)の中間鞍部と推定される。この鞍部を越え、現在の群馬県吾妻郡六合村入山に出、更に南に下り、草津町に達する。この道について、秋田マタギは「我々猟師仲間のみの通行で尋常の人々の往来は思いも寄らず云々」(鈴木牧之全集上巻現代語訳)と言ったと言う。猟師達は、三人一組で川を遡行しながら狩猟を行い、魚は主に岩魚を釣り、塩漬けにし、獣は熊、羚羊をそれぞれ肉は塩漬、皮は鞣し皮として草津で売り拗いた。熊の胆、薬草等は殊の外良く売れたと伝えられている。この猟師達の草津道はこの時代以前も、以後も、猟師以外の人々には利用されてはいなかったと考えられている。では人々は、どの道を往来していたのか。現在の所謂「草津道」に近い処を通る 旧草津道」が近年まで多く利用されたものとされている。旧草津道は、起点は旧秋成村、現津南町反里口、此処から中津川の右岸の断崖を刻みながら和山・切明に到り(川東線)、ここから苗場山に連なる佐武流山の中腹に登り、檜俣川、佐武流川を渡り渋沢で魚野川河畔にでる。現在の渋沢ダム付近。この辺りの平らを「奥州平」と呼んでいる。此処が道筋の休息場であったのでしょう。此処から更に、魚野川を遡行、千沢出合いから千沢沿いを登り、大倉坂上部にでる。イタドリ沢、左京沢、荒砥沢と、へつりながら沢を越えてゆき、広い北沢を越えて、登り切ると地蔵峠(大慈峠)。ここから、ハンノ木沢上流の平地(ニンパ平)に下り、野反池 (現野反湖・東京電力中津川水系発電所のための人造湖・昭和31年完成)を周り、南端の峠から、和光原、入山から草津町に出る。昭和10年(1935)刊行のガイドブック「上越の山と渓」 に「善次郎横手をヘツリながら登りつめると径は再び降りにかかる。越後の秋山から切明に出て大倉坂を登り、地蔵峠を経て和光原に到るこの道は牛道として昔越後から入山へ米を運搬するに用いた要路で、道幅も可成り広く出来ているが、確々手入れもしないため熊笹の跳梁する所となり辛うじて通過出来る程度である。」と記載されている。つい最近まで、5万分の1の地図にはこの旧草津道が廃道として記されていたのをみると可成良い道であったのでしょう。「にいがた歴史散歩」(新潟日報事業社)の秋山草津街道の項に次のような記載があります。「窮乏の村々ではたとえ一握りの収入でもほしいと、秋成村反里口(現・津南町)の根津仁右衛門が請願して、反里口から草津まで72キロの改修に着手した。1年に4キロ平均の工事量で18年間を費やし、安政4年(1857)に完工している。……牛を曳いて行ける道が得られた」。これからみると江戸時代は人々の往来が可成あったと思われる。事実、松代藩士・佐久間象山は嘉永元年(1848)鉱山資源調査のため草津からこの道を辿り秋山に入り、切明から信州に帰った記録がある。又、慶応4年(明治元年:1868)斬首された幕臣小栗上野介の家族がこの道から秋山に逃れたと言う。又、明治時代に入って、文人墨客の紀行記録が残されている。記録の多くは、「旧草津道」を草津から秋山に入っている。しかし、往来が途絶えてしまったのは、おなじ明治時代であったようです。鈴木牧之の時代は間道として存在はしても、この道について、他国者、旅行者には話せない事情であったのではないか、の准測は間違ってはいないと思います。

 「秋山草津道」「秋山越え」「草津越え」は、この項の冒頭に記述したように16世紀頃から既に存在していたとしてよいように思うのです。

 現在の草津道を辿ってみます。

 起点は旧道と同じ津南町反里口。国道405号線から始まる。津南町で国道117号線から分れた105号線は、此処反里口で、右の台地の畑中に残る「道供養塔」 (写真2)・旧道の起点を示す唯一の石塔をみながら、越後秋山を抜け、信州秋山、和山と国道を行き切明に達する。バス等の車は此処まで。面白い事に、国道405号線は、野反湖湖畔で又姿を顕わし、群馬県六合村で草津町からの国道292号線に接続する。切明から野反湖まで、歩行7〜8時間渋沢ダム(堰堤)から西大倉山までの標高差(比高)約700米あり、此処の、登高、下降で歩行時間が変わってきます。入山計画の際の経路について、川から沢、稜線を登り、そして湖、又反対に、湖から稜線を下降、川に達する路を採るか、十分検討してください。

 

 切明温泉から国道を少し戻り、東京電力の車両進入禁止鉄柵脇(写真3)から林道に入る。林道は潅木の林の中の舗装されていない幅の広い車道。平坦な林道を約30分、道は広場で行き止まりとなる。駐車場らしく電力会社の車がある。広場の手前5、60米の右に魚野川右岸に降りる路が分れる。細い路なので注意。この路を降りると頑丈な吊橋(高橋吊橋)(写真4)になり、これを左岸に渡る。渡ると、広場跡にでる。此処は、切明発電所、魚野川上流ダム、堰堤水路工事の際の資材運澱ケーブルの基地跡だと言う。路は、壁を登るような急吸をジグザグに、比高約200米を一挙に登る。吊橋(標高約900米)を渡り、急坂を登って通称東電歩道、水平道路標高約1110米になる。渋沢ダム(堰堤)迄2時間、山腹の断崖に作られた水平の古いトロッコ路を行く。電力会社社員のダム、水路の保守点検のため、この路が確保されている。よく整備されている。危険な路ではない。唯、急傾斜の山腹のため随所に大小の沢を捗る。そのためもあって古いトロッコトンネルを利用した人道トンネルが4ケ所ある。少し長い約60米位のトンネルが2ケ所、短いのが2ケ所。一応、懐中電灯は必要。この水平歩道からの眺めは、この草津道の薇心部で、深い魚野川(中津川)渓谷は、春の緑、秋の紅葉に映えてその美しさはしばしば歩みを止めて仕舞う。小黒部渓谷と言われている。黒部川渓谷の旧日電歩道と比べての話である。この水平歩道(東電工事用道路-トロッコ道)からの細かい木洩れ陽の景観は絶妙。黒部渓谷では観られない。渋沢ダムは、ダムと言うより堰堤があると言った方が良い。この堰堤を左岸から右岸に渡り返し、魚野川河畔に下る。この一帯は平坦で広い。渋沢を吊橋で渡り、撫林に入るとまもなく大倉坂・百八十曲がり(実際には百九十三曲がり)の急坂にかかる。西大倉山まで比高700米、ジグザグに登る。この登りは3時間をみたい。西大倉山大倉峠(1790m)から山腹をへつりながらイタドリ沢(1660m)まで下る。沢を捗り、展望が開けると、再び大倉山の肩(1808m)に向かい山腹を絡みながら登る。大倉山の肩からは、下りながら左京沢、左京横手、荒砥沢と下り、広く水量の多い北沢(1560m)に着く。北沢を捗り、最後の地蔵峠(1660m)迄凄く登る。間もなく時の三叉路に出る。これまで約5〜6時間。路は刈り払いが行われず、良いとは言えない。しかし一本道なので迷う事はない。南の日の沢の渡渉は、水量が増えるので注意。地蔵峠は、峠とは思えない山腹の雑木林に延びる登路の三叉路。雑木林の山腹斜面に、地蔵峠を示す小さい屋根付きの南がある。地蔵らしき石がある。この峠の地蔵の由来が「上越の山と渓」に書かれている。「地蔵時には小さい地蔵さまが安置されている。これは以前長野原の人が岩菅山にあげる為、ここまで背負ひ上げたのであるが、不思議なことにこの峠から先に進むと足が痛み出し、退くと即座に直るので、その儘ここに勸請することにした。そうして其台石はニンパ平と和光原口の門松とに各一個宛残されている(立大山岳部部報第二号参照)」。日本国内の峠に「地蔵峠」と言う名の峠を多くみる。其の由来話の殆どは、こんな話。峠から右に山腹を巻きながら尾根を越えハンノキ沢に下る。左折する平坦な路は、旧草津道で廃道です。入り込まないよう注意。同じようにやや左に、尾根筋に向かう登路がある。この登路は、堂岩山(2051m)を経て白砂山(2139m)、佐武流山(2191m)、更に赤倉山、苗場山と続く三国国境頂上稜線 (新潟・長野・群馬三県県境頂上稜線)を行く登山口。ここから、白砂山へは5、6時間で往復できる。最近、秋山郷、上ノ原、切明から佐武流山への登路が伐開されたので三国国境稜線を廻り、秋山郷に帰着が可能になった。山中二泊が必要でしょうか。嬉しい事です。ハンノキ沢からは、沢水で潤した喉の乾かない間に、野反湖湖畔の広く舗装された国道405号線に出る。野反湖湖畔から、花敷、尻焼温泉を通りJR長野原駅までJRバスがあります。

 「秋山草津道」は、ハイキングコースとしてお薦めコースです。それは高所の湖、深い渓、喬木、潅木、低い雑木が入り混じる森林、殊に春の緑、秋の紅葉、加えて、夏の暑さを感じさせない山歩きは無上の楽しみです。

 前述の、切明から渋沢、地蔵峠、野反湖は、大倉坂700米の登りがキツイ。野反湖から入ると北沢かち250米の登り、こちらの登路が楽。大倉坂の下りは、距離が短いので差程苦にならない。北沢付近で出会う登山者は、「渋沢からの登りは嫌だ。下った方が良い」と言う。野反湖湖畔ロッジ (六合村経営)又は、キャンプ場に一泊、翌朝ゆっくり出発すれば良い。野反潮には少し遠いが、花敷、尻焼温泉の一泊がある。下山口の切明温泉は旅館3軒、少し脚を延ばせば和山温泉がある。切明では、川原の温泉浴はどうだろう。

 脚が弱い、自信の無い人は、切明から水平歩道を渋沢ダム迄の往復はどうだろう。魚野川渓谷を充分堪能できる。雨降りは注意、入らないほうが無難。水が走る。 (つづく)

 

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屋根より低い鯉のぼり  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 春爛漫です。4月に入っての大雪には驚きましたが、その名残雪も数日で消えて、一気に花々が咲きました。あちこちの庭先に梅、桃、桜、雪柳、辛夷、連翹、山吹、花蘇芳などが妍を競っております。雪国ならではの春の景とも申せましょう。雪に押さえ込まれていた自然が、カレンダーの「春の季節」に息せきって追いついて帳尻を合わせようとしているかのようです。

 越後長岡の山の手(「ざいご」とも云う)にある我が家です。長岡市街地に比較して残雪の雪解けが1ケ月以上は遅いので、庭では4月中旬でまだ地植えの福寿草、クリスマスローズが盛りと咲いております。もちろん紅吉野桜も花盛りです。

 晴れた休日の午後、近所の庭など眺めそぞろ歩きをしておりました。

 おやおや、町内のあちこちでもう鯉のぼりがはためいています。今日はとりわけ風が強いから空に泳ぐ勢いがすごいです。

 飛花と言うんでしたかしら、散った桜の花びら。これが無数に風に舞って、鯉のぼりに降りかかっています。まるで鯉のぼりが桜花の流れを泳いでいるようです。

 ところで唱歌には「屋根より高い鯉のぼり」などと言います。しかしこの地では雪が深いために、実際は3階建てに近い高床式の2階立て住宅が多いです。そのためその大屋根を越える高さの鯉のぼりを立てる竿を見ることはまずありません。

 そこで「屋根より低い鯉のぼり」ばかりなんですね。

 鯉のぼりは歳時記などを見ますと昔は紙製で、男子出生の祝いに鯉の滝登りになぞらえて出世を願い、のぼりを立てるという武家の家のみに許された風習だったそうです。

 今は鯉幟は社会階層によらず、どなたでも立ててかまいません。ただし片手で振れるようなミニチュア鯉のぼりを除けば、必要条件としては庭付きの一軒家住まいでないと無理でしょうか。

 わたしの住むこの新興住宅地の町は、この鯉職を張り切って立てるかたがとても多いようです。自分の家で子育てをして「よ−し」と始めることは、わたしの独断かもしれませんがたぶん3つあります。

 それは庭いじり、犬・猫を飼うこと、そしてこの鯉幟をたてること。なにかと実利・実用という行動原理に走りがちな若い世代に、こういう伝統行事が行われるのはよいことかと思います。まず「形から」始めてももいいんじゃないでしょうか。

 ちなみに似て非なる日の丸の旗を祝日に掲揚する家は皆無です。わたしの子どもの頃は、祝日に父が律儀に日の丸を玄関脇の旗竿に飾っていたものです。

「桜餅を買ってきましたから、お茶にしましょうか。」と家人。

 おやおや、お皿に盛られた桜餅に白色、ピンク色の二種類があるのです。

「着色料を使用しないのが売りらしいわ。もちろんどちらもつぶ餡。」

 これはあんこ物ではこし餡よりつぶ餡をわたしが好むからです。

「桜餅はこの桜色をしていないと、なんか気分が出ないよなあ。この場合はたとえ人工着色料使用とか云っても許せる気がする。」

「そうよね。桜餅らしさは葉っぱだけじゃありませんもの。」

 それぞれ一個ずつ食べて見るとたしかに同じ味のようなのですが。目でも食べるって言いますしね。

 

 花色をやはり選べり桜餅

 

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