長岡市医師会たより No.254 2001.5

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もくじ
 表紙絵 「くだもの」      内田 俊夫(内田医院)
 「准看護学校の閉校によせて」  編集部
 「准看護学校の廃止を惜しむ」  田中 健一(小児科田中医院)
 「准看護学校の思い出」     重本ゆう子(准看護学校教務主任)
 「懐かしの母校へ感謝を込めて」 青柳寿美子(第一回卒業生)
 「日本人に英語は無用論」    渡辺 正雄(渡辺医院)
 「ところ変われば竹粽」     郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

くだもの  内田俊夫(内田医院)
長岡市医師会准看護学校の閉校によせて

 長岡市医師会准看護学校が41年にわたる長い歴史の幕を閉じ、平成13年3月3日に最後の卒業式と閉校式がグランドホテルで行われました。閉校式には卒業生、歴代の教師・講師、医師会貝など130名余りが集い本校との別れを惜しみました。卒業式での斎藤会長の式辞、鈴木担当理事の送る言葉、閉校式での最後の卒業生一同による「生き物地球紀行」のエンディングテーマ「ビリーブ」の合唱等々、心に残るすばらしい会となりました。このたび本校の第一回卒業生の青柳寿美子様と最後の教務主任の重本ゆう子さんから本校にまつわる思い出を綴った原稿をいただきました。昭和40年代に担当理事を経験された田中健一先生の文章とともにお読みいただければ幸いです。(編集部)

 長岡市医師会准看護学校のあゆみ

昭和28年4月 「長岡市医師会看護婦補助貝養成所」を神谷病院内に開設。以後、昭和35年までに114名の卒業生を送り出す。

昭和35年4月 「長岡市医師会准看護婦養成所」を開設。教室は引き続き神谷病院内に設けられた。

昭和37年 定員を20名から40名に増員。

昭和41年8月 長岡市医師会館竣工に伴い医師会館内に移転。

昭和59年 医師会館増築により新しい教室と図書室(教務室)が整備される。

平成8年4月 「長岡市医師会准看護学校」と名称を改め昼間の養成所となる。定員は40名から25名に減少。

平成13年3月 最後の卒業生18名が卒業。開設以来1288名の卒業生を送り出し、その歴史の幕を閉じる。

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医師会准看護学校の廃止を惜しむ  田中 健一(小児科田中医院)  

 残念ながら学校はこの3月の卒業生で最後となつてしまった。その存在は本当は必要なのに、長岡市医師会としては刀折れ矢尽きる思いであろう。

 前身は「長岡市医師会看護婦補助員養成所」であって、昭和28年神谷病院内に開設されて、昭和35年に「長岡市医師会准看護婦養成所」に発展した。当時の生徒は昼間は病院、医院に勤め、講義は夜間であったので、生徒としては大変であったが、充実もしていた。

 毎年卒業と同時に県で資格試験を受けたが、長岡の合格率はいつもトップを行ったのも、懐かしい思い出である。卒業生は1288名、何れも現在まで看護の分野で活躍していることと思われる。

 昭和40年代に私が医師会で理事として養成所担当となった時、前任者と云うべき市川豊樹先生から注意を受けた。教務担当の関川ミイ、石塚淑子、大島きよの諸氏の給料が低すぎて、医師会の恥だ。医師会の名誉のために給料を上げるのが、お前の任務だと諭された。後に役員会でそれを主張する羽目となったが、上の空で聞いたことをシドロモドロに喋ったので、なみいる役員は呆れたようだった。

 神谷病院は院長の退蔵、弟の復、お姉さんが退蔵氏夫人の市川の各先生で、事務長は市川先生と同郷小国町出身の小川貞雄氏(後の医師会初代事務長)であった。神谷病院の建物は昭和20年の空襲で丸焼けとなった長岡市内で、殆ど唯一の堂々とした鉄筋コンクリートの建物であったが、病院の名声も古くから高かったのである。

 養成所が軌道に乗ったのも、初期から中期に掛けて長い間、生徒の指導に宜しきを得た関川先生と、財務に腐心した小川事務長の努力によるものと思われる。

 勿論講師の諸先生も熱心だったが、その講師の謝礼も安かった。内科講師の清水常司先生が料理の方の学校で、医学の講師をされたが、給料が大変安い。そちらの学校の方は養成所の給料を見習ったようだったが、外部で適用する額ではなかった。

 小児科の講義は立川病院の高橋善彦先生と私が交替しながらやって来たが、高橋先生が大島町から医師会館までタクシーで往復されたので、給料の大半が消えたことと思われる。高橋先生に講師を御願いしたのも、立川病院が毎年複数の生徒を送って来た事情によったと思う。

 当時そうした病院は立川病院、田宮病院、宮内病院、吉田病院等の外、一時的だったかも知れないが、悠久荘、中央病院、長岡赤十字病院もあった。個人の医院でも継続的に生徒を送って来た所もあったが、望んでもなかなかそうも出来ない所も多かった。

 現在間にあっていれば養成しないため、後で困ることとなった医院もあったし、養成しても資格を取ると止めて行く生徒もあった。

 そう云う年月、養成所としては努力して来た訳だったが、最近は狭い長岡で高等看護学校が4校、日赤、中央、立川、田宮の各病院に開設されている事情もあり、現場の医師会の意向を無視して、デスク・プランの厚生省(現厚生労働省)が准看廃止の方向にあるのが、長岡の廃校に影響することとなったのは、実に遺憾の事である。

 かつて医院には見習看護婦と云った若い住込みがいた。掃除、受付、事務と凡てをやった。この住込みが准看の資格を取ると、良い意味で患者のためになる本当の看護婦になった。

 大病院の看護婦には帯に短し襷に長しの面もある。准看が適している場所もあるのである。働きながら資格を取るのも、日本文化の良風である。准看学校がなくなれば、こんな事を考えることすら出来なくなる。

 働きながら資格を取ることは大変良いことなのだ。保険事務に精通しているものでも、准看の資格を取って欲しいと思っていたのに。准看学校の廃止が長岡だけで終りますように祈ります。

 

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准看護学校の思い出〜9年間を振り返って 重本ゆうこ(准看護学校教務主任)

 平成13年3月31日をもって長岡市医師会准看護学校は、永い歴史に幕を降ろしました。約半世紀に渡り、地域医療に貢献してきた学校です。しかし、時代の流れに逆らうことはできなかったということでしょうか。残念なことです。このように歴史の永い学校なので、携わった多くの方々の胸に、たくさんの思い出があることと思います。私は、平成4年から緑あってお世話になりました。その9年間を振り返ってみたいと思います。

 恐怖の電話

 平成4年の3月頃だったでしょうか、母校の看護学校の教務主任から、「家にいるなら、准看養成所を手伝ってくれない?」と電話が入りました。教務主任からの電話に逆らうことなんて私たちの年代では考えられない事です。直立不動で 「私に務まるでしょうか。」と恐る恐る伺うと、「大丈夫。先輩の先生方がいらっしやるから。詳しい事は杉本先生からお話していただくからね。」とおっしゃられて電話は終わりました。電話が終わった後も心臓がドキドキしていたのを今でも覚えています。

 そして、その時思ったことは、Tまた厄介なことにならなければいいがUということでした。というのも、以前にも教務主任からの電話で引き受けた仕事があったのですが、とても問題が多くて2年間で常勤を辞めさせていただいた経緯があったからです。

 その後、杉本先生からお電話をいただき、「臨床実習の巡回と夜2回くらい手伝ってくれない?とりあえず、一回来て見てね。」ということになり、養成所にお邪魔してみることとなりました。

 当時の私は、長岡に准看養成所があるということは知っていました。しかし、その場所がどこにあるのか、准看教育がどういうものなのか全くわかりませんでした。知らないということは、怖いことだと思います。T夜の学校ってどんなところだろうかUという興味半分でお邪魔してしまったのですから。

 先生方との出会い

 幾日か経った夜、医師会の教務室(昼は事務室)で、高野先生・郷先生・杉本先生に面接をしていただきました。

 高野先生は、伝説(?)の先生でお名前だけは以前にも伺ったことがありました。初対面の印象は、「年齢の割に(失礼)迫力のある方だなあ」という感じでした。

 郷先生は、全くの初対面でした。確かこの時だったと思います。郷先生に、「重本さんは、何年生まれ。」と質問され30年です。」と答えると「まあ!私が看護学校を卒業した年だわ。」と非常にピックリなさいました。でも、その驚き方がとても優雅だったので、「なんて品のあるお方なのだろう」と感心しました。

 杉本先生は、私の看護学校時代の教務の先生で、逆らうことなんてできない存在でした。

 3人の先生方は、私のことをどう思われたのでしょうか。結局それを伺うことなく終わってしまいました。

 高野先生が、杉本先生の担任だったことをこの時知り、「皆さんご立派な方だから、私は、後のほうでご指導いただきながら、くっ付いて行けばいいのだ」と、とても気楽に考えて、引き受けてしまいました。この時、私が准看護学校の最後を受けもたせていただくなんて、全く考えてもみませんでした。

 初仕事

 私の初仕事は、1年生が2年生に進級する為の実技テストの試験監督だったと記憶しています。担当は、浴衣の交換でした。土曜日の午後1時半から始まって、40数名をチェックして、終わったのは、午後7時を過ぎていたような気がします。緊張のためかとても疲れ、学生の顔とチェック表とが一致しませんでした。何を話したかも記憶にありません。

 でも、今でも、はっきりと覚えている事が一つあります。それは、仕事が終わってから高野先生がお鮨をご馳走してくれたことです。疲れていて食欲はあまりありませんでしたが、とても美味しく、疲れが吹っ飛んだ気分でした。あの味は、今でも覚えています。

 高野先生ご馳走様でした。

 学生と露天風呂

 2年生の秋に課外学習として修学旅行がありました。各学年希望する場所にバス旅行です。教務が2人随行していくので、9年間に4回付き添ったことになりました。その中で印象深かったのは、37回生と行った金沢方面の旅行です。

 夜中に、学生はもう寝静まったと思って、一人ゆったりと露天風呂に入っていたときでした。学生が3人入ってきて、「先生、一緒に入ろう! こういうときでないとゆっくり話せないから。」とかわいいことを言って来てくれました。学生と先生というより、女同士として、恋愛のことから始まり、ダイエットのこと、仕事場のことなど一時間位取り留めのない話をしてゆったりと過ごしました。

 楽しかった思い出の一つです。

 夜の学校の怖さ

 2年生の秋になると看護婦の資格を取るために、更に上の学校に進む学生が出てきます。その学校の相談にのったり、願書を書いたりする仕事が12月に集中します。授業が終わって、先生方や学生が帰ってからの仕事です。毎日出勤していれば、少しずつ終わらせていくことができますが、週2回の出勤では、そうはいきません。出勤してきた日、その日の内に終わらせておかないと間に合わなくなってしまいます。そのために、10時、11時になることが多く、気がつくと回りは真っ暗。この建物の中には、私一人。誰か入ってきたらどうしよう!と怖い思いで仕事をしていました。か弱い女性がこんなに夜遅く、独りで仕事をするなんて、なんか間違っていない!と独りつぶやいていました。そんな中での救いは、消防署の明かりでした。消防署だけは、明かりがつき、「あそこは、人がいる」と安心することができました。

 消防署に感謝あるのみです。

 養成所から学校へ

 平成8年から昼の学校として、名称も内容も変わり新たなスタートを切りました。昼の学校となり、大きく変わった点は、学生が施設に就職していなくとも入学できるようになったことです。就職先があったことで学生は医療の現場を肌で感じ、婦長さんをはじめとする諸先輩の行動を見て学んでもいました。また、学生の日常生活は、主として施設が担当してくださり、学枚では、学業に絞って指導するという暗黙の了解ができていたように思います。そのバックアップがなくなって、学生すべてのこととは言いませんが、学業以外のことで時間が割かれることが多くなったように思いました。私たち教務の責任がずっと重くなり、少ししんどかったです。でも、太陽の下で行動するのは、安心感があります。行動力・理解カが思う存分発揮(?)できたのではないでしょうか。そんな気がします。

 昼になっての利点のもう一つは、医師会の人たちと交流がもてたことです。夜間のときは、顔はわかっていても挨拶くらいで、どういう人かなど皆目わかりませんでした。もともと話し好きの私です。お手洗いの帰りに、事務室によったり、検査センターに声をかけたり、楽しく仕事をさせていただきました。私のストレス発散方法でもありました。

 皆さん、私の愚痴を開いてくださり、ありがとうございました。

 学校が終わって1カ月半。家庭に入って気ままに過ごしている私です。頭を使っていない生活を送っているので、思いつくまま、取りとめもない事を綿々と書いたような気がします。読みにくくてどうもすみません。

 学校にいる間、講師においでくださった先生方、実習場でご指導くださった皆様、枚長先生、担当理事の先生方、医師会の職員の皆様、教務の人々と多くの人々に支えられて務めてこられたと思っています。ご迷惑をかけたことも多々ありました。この場を借りてお詫びしたいと思います。

 皆様の寛大な心で支えられていたことに感謝します。ありがとうございました。

 

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懐かしの母校へ感謝を込めて  青柳寿美子(第一回卒業生)

 長岡市医師会准看護学校が閉校になるとの報に万感溢れる胸を押え難く思わずペンを執りました。

 想い起こせば開校前のあの頃、私たちは神谷病院に併設されていた補助看護婦養成所の生徒でした。

 希望と誇りで胸をふくらませて看護の道に進んだ私たちでしたから、昼間の疲れも忘れて学べる悦びで一杯でした。しかし、2年間の修学後に取得できる資格はT補助看Uと呼ばれる他には通用しないものでしたから、学びながらも一抹の淋しさに悩むこともしばしばでした。何とか国が認める准看護婦の資格が取れないものかと話し合う日々になっていきましたが、それは厚生省の肝入りで既に昭和29年に県立病院をはじめ厚生連、逓信病院等に准看護学校が設立されていたことに加えて、昭和34年には新潟市医師会でも准看護学校を開校したことが私たちの想いに油を注ぐことになつたかと思います。

 T何とかして欲しいUTいや何とか動いてみようUという気運になり、ある暑い夏の日曜日に数人の仲間が神田診療所2階の一室に寄り合いました。

 T医師会へお願いに行こうUT嘆願の署名を集めようU等と話が盛り上がり、早速署名用紙作りをはじめました。でも、それからが大変でした。毎夜々々、市内の医院を訪ねて歩くのは車社会の現在とは比較にならない日々でした。目標の署名が集約できた時は既に11月でした。

 早速纏めて医師会長先生をお訪ねする相談をしていた時のことでした。私たちの行動を温かく見守ってくれていた先輩が「請願書も書いて行きなさい。」と助言してくれて、その作製に協力してくれました。忘れもいたしません、その時は霙混じりの冷たい雨が降る日でした。私たちは医師会長神谷退蔵先生をお訪ねしたのでした。先生は「気持ちはわかった。そうしてあげたい。しかし、医師会がその意見を聞いてくれないと。」と仰言いました。そのお言葉に希望と不安を持って帰宅したものでした。

 翌35年1月のことでした。

 T准看護学校開設Uの医師会通達があった旨を知りました。諸手を挙げて叫びたいような悦びが込み上げてきました。

 入学試験は、南中学枚体育館でした。約百人が受験し25人が入学を許可されました。学校は同じく神谷病院内でしたが、改造して教務室、教室、実習室を確保して頂き、授業は午後6時から午後9時まででした。

 先生方は専任教務の関川、渋谷両先生、事務長は小川氏、外科・神谷退蔵先生、内科と細菌学・市川先生、解剖と耳鼻科・神谷復先生、婦人科・杉本先生、小児科・川瀬先生、眼科・茨木先生、皮膚・泌尿器科・神谷復先生、薬理・上村先生、栄養・高橋先生でした。どの先生も懇切に教えて下さいましたが、既に故人となられた先生方もおられ、今は唯感謝の気持ちでご冥福をお祈りいたしております。

 みんなで載帽式も迎え、施設見学旅行もして、楽しく励まし合いながら、卒業の目を迎えることができたのでした。その後、医師会館の新築にともなつて、昭和41年8月同会館内に移転となり現在に至っているかと記憶いたしております。

 一回生として卒業させて頂いた誇りを大切に、私たちは各々の場で研鋳を積みながら、今尚看護の道を歩んでおります。

 若さ故の向こう見ずだった私たちを温かく育てて下さった先生方と開校にご尽力下さった長岡市医師会に感謝しながら、懐かしの母校、長岡市医師会准看護学校の閉校に一言述べさせていただきました。ありがとうございました。(平成13年2月吉日記)

 

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「日本人に英語は無用」論  渡辺 正雄(渡辺医院)

−ピーター・フランクル氏の著書−

 知日家の数学者で、12ケ国語を操る語学の天才ピーター・フランクル氏の論である。氏の著書何冊かを読んでみていささか賛同するところがあるので、小生の意見を交えながら御紹介してみたい。もとより大きな非難を浴びることを覚悟の上で。はじめにお断りしておくが、仕事や日常生活上で英語が絶対に必要な人にはあてはまらないので、誤解なきようにお願いしたい。

 さて、海外へ行く日本人の数は年間1500万人という。8人にl人である。そして1回の平均外国滞在日数は7日、生涯に10回旅に出るのだという。つまり日本人は一生涯のうちに平均約70日間海外旅行していることになる。生存日数の約450分の1である。ただし、飛行機の中で過す日数や、英語圏以外への旅も含めての数字であるから、実際に英語圏の地に滞在する人はその半数にも満たないかも知れない。生涯のうちの数十日のために、何で必死になつて金と時間を使ってまでも英語が話せるようになりたいのか。しかも今や世界中どこへ行っても日本人が居るし、優秀な翻訳機もある現在においてである。

−∃−ロッパ旅行での体験−

 日本人には根強い外国人コンプレックスがある。欧米を偉大な国と思い、外人の身体の大きさに圧倒されてしまう。日本人の誇り、自尊心が失われている。外国人の前に立つだけで怖気付いてしまう。

 病院勤務時代、2週間程ヨーロッパへ研修旅行に行った。団長は小柄でずんぐり、眼鏡をかけ、首にカメラをぶらさげてという典型的な日本人スタイル。この外科医長先生、何ら憶する所なく、地図一枚持ってプラリと外出される。道行く外人に手当り次第道を訊ねられる。勿論日本語である。身振り手振りで話をし、それがちゃんと通じるのである。その先生いわく「真心があれば通じるもんだよ。」見上げたこの精神である。人間みな対等、通じないのはお前の方が悪いんだという考え方である。

一新庄を見習え−

 これと相通ずるのが新庄選手である。日本での通算打率が2割5分にも満たない選手が大リーグを目指したのだから。野村監督をして「あいつは宇宙人だ」と云わしめた。よほど理解に苦しんだのであろう。物怖じするなどとは無縁なこういう若者達がこれから増えて行くことだろう。彼等にとっては、文法を重視した従来の古めかしい日本の英語教育などは全く不要で、何の抵抗もなく体で生きた英語を覚えて行くのだろう。羨ましい限りである。

−ある宰相の思い過し−

 何年か前、日本の某宰相が「英語を第二公用語にする。各学枚に外国人教師を配属する」などとぶち上げたことがある。英語を強制するバカな話であり全く不要のことだ。人間は自らの弱点に対しては必要以上に恐れを抱くものであるから、この宰相は恐らく英語に弱かったのであろう。

 このことは私連日常診療について考えてみるとよくわかる。自分の得意の分野の疾患に対しては、検査も治療も的を射た重要ポイントのみで済ませられるが、専門外の疾病となると、変にカが入って不要な検査や投薬までやりがちになってしまうものである。

 この宰相もカが足りないと思ったら自分が勉強すればよい。何も子供まで含めた国民全体に強制することはなかったのである。日本の国では、日本語がちゃんと通じるのだから、第二公用語など全く必要はない。そんなことに貴重な税金を使われることは御免蒙りたい。

−将来の学校教育への憂い−

 来年から学校が毎週土曜休みとなる。授業日数が減り、国語は週5時間から3時間に減らされるという。円周率が3で教育される。子供達は、円周が直径の丁度3倍だと覚えてしまう。円周率が3.14・・・と無限に続く神秘的な数だという自然に対する根本的な尊厳さが又失われてしまう。日本の子供の学力がだんだん落ちて来ているのは事実なのである。日本の教育者達よ、国語や数学などの基本学習にもっと身を入れて欲しい。英語教育よりも先に、人間形成上もっと大事なものがあるのではないか。

−結びに−

 以上、英語のヒアリングやスピーチが苦手な私のたわ言なので、どうかお許し頂きたい。ここで云いたかったことをまとめてみる。

 外国語は、それを職業とするとか学会で発表するとか国際会議でしゃべるとか、強い動機や必要のある時に学べばよい。若い人達には入学試験があるから、嫌でも英語は勉強しなければならない悲しい現実があるが、ふだん英語にあまり縁のない一般の人達が、たまに行く海外への物見遊山の旅のために貴重な時間と金をかける必要はない。中途半端に英単語を丸暗記しても何の役にも立たない。それよりはもっと日本語のカを磨いて欲しいと思う。

 

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ところ変われば竹粽  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 ピンポーン。

 「おや、まゆちゃん。こんにちは。どうしたの?」と家人の声が玄関に聞こえました。なにか小さな声で答えているのは、小学1年生のまゆちゃんのようです。まもなく家人が手に何か持って現れました。

「これはおばあちゃんのお土産ですので、おひとつ食べてください、だって。口上を教わった通りに言えた後で、差し出しながら、あれえ、2個でもいいのかなあ?と悩んでいたわ。こどものお使いはかわいいわねえ。」

 たしかに縛られた竹皮で包まれた長い円錐形のものが2個あります。

「おひとつ」と言うのに、2個とはこれ如何に、というわけですな。当方が夫婦2人暮しとわかっておりますから、ひとつずつであります。

 お向かいのKさんのおばあちゃんは九州の出身なんです。ときどき実家に里帰りされると、好物のかるかんと言うお菓子や明太子もいただくことがあります。

 今回は5月の端午の節句の時期でしたから、むこうふうの竹皮でできたいわば竹粽を頂戴しました。中華粽のようですが、中身は蒸されたもち米だけで越後の笹粽と同様です。ところで昔の我が家では、5月の子どもの日には、朝早くから母が笹団子と笹粽を作りました

 笹団子はもち米、うるち米の粉を捏ねて練り上げ、ヨモギの葉を入れて風味と色をつけます。小豆餡を中に入れた団子を笹にくるみ、紐で結びます。簡単なのは粽のほうで、もち米を円錐状に組んだ笹にくるみ込み、紐で丹念に縛りあげ結びます。この結ぶ技術は伝承のものですが、すごいですね。そこで「粽結う」なんて言い方があるようですね。いずれもできあがりを蒸篭で蒸すわけです。

 甘いものを食べる機会の少なかった昔ですから、こんな季節のおやつがとても楽しみでした。外でちゃんばらごつこなど腕白の遊びをして、腹をすかして出来上がりの頃に家へ戻ったものです。

 この蒸かし上がりのアツアツを待ちかねて食べるのですが、じつは笹から中身が剥がれにくいのです。笹団子などはよく破けて中身の餡子がはみ出てしまったりしました。冷めたものが笹もむきやすいですし、本来の風味も味わえたものでしょう。ただし2日もたつともう再度蒸かしなおしてもらわないとだめなくらい硬くなってしまうのでした。

 最近は技術の進歩というべきなのか、市販品の中にはちょっと不自然過ぎて、気味の悪いものが増えていませんか? 某Yパン社の一週間以上もカビの生えてこないパンとか、全然固くならない餅菓子とか。

 ところで九州の粽は、越後のものが正三角に近いのに比較して、細長い円筒形です。その最大の違いは作り方なんだそうです。なんでもこの蒸したもち米を竹皮に包んだ粽を、燃やした炉の灰に放り込んで再度蒸し焼きにするんだそうです。ですからときには中身に灰が紛れ込むこともあるらしいです。この九州の竹粽は焦がされますので、竹皮を剥きますと表面がかなり黒ずんだ色合いの出来上がりです。燻されたぶん、それなりの風味が出ているのであります。甘い黄粉で食べる点はいっしょとか。

 Kさんのおばあちゃんのふるさとの手作りの粽の味を、わたし自身の笹粽の思い出と重ね合わせて、おいしく頂戴したのでありました。

 

 笹粽結ふ母の手の緩びなき

 

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