長岡市医師会たより No.255 2001.6

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もくじ
 表紙絵 「梅雨の晴れ間(越路町)」丸岡  稔(丸岡医院)
 「趣味への徘徊」         坂下  勲(悠遊健康村病院)
 「アジア舞踏交流史考」      福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「山と温泉48〜その31」      古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「お弁当狂奏曲」         郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

梅雨の晴れ間
(越路町)  丸岡 稔(丸岡医院)
趣味への徘徊  坂下 勲(悠遊健康村病院)  

 5年3か月の時を経て再び長岡市医師会に所属することになった。組織内にある施設間での移動の結果である。

 編集委員長田辺一雄先生からのご依頼は病院長の職責にかかわる内容と受け取ったが、あえて表題を取り上げた心境をご理解戴きたいと願っております。

 さて、すでに古希を迎える年令となっており、介護老健施設に勤めていた時、入所者を通じて知り得た切実な事実として年令に相当した自分なりの趣味を持つことの大切さがある。

 これまで所謂仕事人間として日々を送ってきたことを認めざるを得ないが、そのなかで趣味となり得る微かな手がかりを見つけ出す努力も必要のように思ってきた。

 以前から長い文章を書くことに憧れがあって、昨今簡明な学術論文が多くなっているが、専門領域に関連した臨床成績を80余ページの論文に纏め一人悦に入ったことを覚えている。

 これは学術論文であったから、資料さえ整っていれば記述する内容の順序や方法論はほぼ定められた規則に従えばよいとの気安さがあった。ただ、入手できた資料や記述の内容が充分学術的評価に耐え得るかなどの検討では、幾つかの統計処理に関して反省すべき基本的な問題のあることを改めて思い知らされた。

 この程度の学術論文作成能力であったが、自分の感じた事柄を体系立てて文章としたい願望は何時も頭の片隅にあったことは確かで、60才を過ぎた頃、たまたま日本国際協力事業団へ出向し、スリランカ国で2年間余国際医療協力に従事する機会を得、その体験を200ページ程の本に纏めることが出来た。この作業によって、自分ならどのような種類の文章が書けるかもしれないとの微かな手がかりを掴んだように思われた。しかし、それは学術論文の延長上にあるような理屈っぼい文章であったことは確かで、本を贈呈した人たちの評価は、難しくて理解するのに苦労したというさんざんな結果であった。ただ、一部の人は十分内容を咀嚼してくれて本を書いた意図を鋭く指摘してくれた。学術論文を書く手法を活用して社会現象を表現することの難しさと己の能力の限界を知らされたが、それでも自分の感じたことを一冊の本として纏めることの出来た満足感は何かを体得したという感動と共にこれからの生活に弾みを与えてくれたように思われた。

 前任地で所属した柏崎市刈羽郡医師会の会報に拙著「JICA(日本国際協力事業団)医療専門家の憂鬱

−外部条件という難題」はもう一冊の本を書きたいための試作であると述べた。その書きたいと思い続けていることは、キューバ危機(1962年10〜11月)の年、遥か大西洋を望むニューヨーク州ブルックリン地区の一病院で外科研修を受けたとき体験した米国医学部卒後教育からの衝撃であった。

 ところで、衝撃の内容を分析する課題を纏めるために必要な参考資料の収集に迷った。まず、インターネットで医学部卒後教育をキイワードとして検索しようと試みたが満足出来る資料は殆ど得られなかった。次いで、1971年、心臓外科臨床研究員として過した時の責任者でロスアンゼルス市在住の80才のケイ先生に手紙を送り協力を依頼した。しかし、日本の医学部卒後教育の実態をご存じない当人には私の真意を理解出来なかったようで、希望する適切な資料は何か判断しかねるとの返事を戴いた。これらの期間、「平静の心−オスラー博士講演集」日野原重明・仁木久恵訳などを読み、文章の中から当時の米国医学の実情を少しでも探り出そうと努めた。しかし、いずれも課題の核心から外れた内容であり、思いは満たされなかった。ふと考えついてNew England J.Medicineの著書紹介欄にヒントが得られるかもしれないと見当をつけ、そこに幾冊かの参考となる著書を見出し入手出来た。それらから米国医学の今日に至る多くの興味深い事実を知ることは出来るが、依然行間から卒後教育に関連した部分を見つけ出す作業を必要としている。ただ、時折興味に引き摺られて自分が何をしているのか見失い、苦笑することがある。

 このような経過を辿りながら、まず、明治初期ドイツ医学が日本の医学教育の本流となり、第二次世界大戦後も医学、ことに卒後教育に影響を及ぼし続けること、つまり、自分が学んだ医学、そして、卒後教育の原点とその推移を明らかにし、次いで、第二次世界大戦後、日本が米国医学制度をどのように評価し、活用しようとしたのかの流れを知ることで、米国医学部卒後教育から受けた衝撃の解明ができはしまいかと課題の内容を整えようとしている。

 そして、外科領域を中心に二つの国の医学部卒後教育を比較検討することになるが、その背景には、事情は多少異なるにしても、両国はそれぞれ英国あるいはヨーロッパ医学を導入し参考として、医学および医療制度を確立してきた点に類似性を見出し得る。しかし、米国には当初から民間主導の風潮が強く感じられ、かつ、絶えずヨーロッパ医学の動向を意識し続けている一方、日本では明治新政府の西洋文化吸収の一環として大学東校(東京大学医学部前身)を通じてドイツ医学の充実が計られ、また、明治以来、医学知識の乏しい政治家や官僚によって医学界が操作されてきたように見受けられる。

一応ここで文章を中断するが、業務から離れ、熱中できる趣味もどきを見出し、それに係わる課題を解決するため一歩一歩考え進むことの楽しみは捨て難いものがある。

 

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アジア舞踏交流史考(ケチャック・京劇・沖縄舞踊・能)

〜各国舞踊から考察したアジア日本舞踊交流史〜

 福本 一朗(長岡技術科学大学)

1 舞踏の世界へ

 学生時代に招待券を下宿の伯母さんからもらって一度だけ歌舞伎を見たことがあった。その伝統と歴史にしっかりと裏付けられた華やかにして繊細な舞踏のテクニックに良くマッチした古典楽器・長唄・せりふは世界に誇る総合芸術の一つだと感心した。大学卒業後には水道橋能楽堂で能を観賞する機会があり、これこそが歌舞伎の源流であり、その高度な抽象性・象徴性と心の中に豊かに広がる幽玄の世界に魅せられた。人間として偶然この世に生を受けることを得たにもかかわらず、こんなにも素晴らしく一部の空きもないほどに完成された日本の伝統芸術と全く無縁なまま生涯を終えることは誠に残念に思い、忙しい研究生活の合間を見つけては宝生流の謡と仕舞を習いに通った。ただ残念なことにスウェーデンに留学が決まったため、憧れの水道橋能楽堂で「鶴亀」を舞ったのを最後に能とは縁が切れてしまった。ところが1991年4月に帰国して長岡に住み着き2か月も経たないうちに、市政便りで「金春流小謡」の会が参加者募集していることを見つけ、早速入門させていただいた。そして同僚の強い勧誘に負けて、小謡の会の指導者であられた鰐淵博師匠の主宰されておられる「長岡金春会」の一支部である 「乙羽会」 に入門させていただくことになり、大学に勤務しているだけでは決してお付き合いすることのできなかった、様々な職業の町衆の方々と御一緒させていただけるようになったことは感激でした。「謡い」を修業することの余禄の一つに「貴顕と交わる」というのがあるが、まさにそのとおりで乙羽会の皆さん方の職業は裁縫師・主婦・和服屋・銀行員・不動産屋・商店主・左官屋・溶接工・お寿司屋・市役所職員・お魚博士・バス会社役員・看護婦・理容師・職業訓練学校教師など様々であり、仕事の話・日常生活の話・年金の話・健康状態の話・医院の評判・地方選挙のうわさなど、「象牙の塔」 にこもっていては決して味わうことのない貴重な体験をさせていただくことができ、また同時に 「我々大学人は如何に常識外れの人種であるか」を実感できた。

 素人ではあるが、このように日本伝統の舞踏である能に触れる機会を得てからというもの、各国の舞踏に興味をもつようになった。幸にして昨年以来アジアの国々(韓国・インドネシア・中国)や沖縄を訪問する機会を得、念願の彼の地の舞踏を観賞することができたので報告したい。

2.インドネシアの舞踏

 この夏、国際協力事業団JICAの仕事でインドネシア・ジャワ島にある第二の都市スラバヤに行った機会に、飛行機で30分のバリ島を訪問した。インドネシアの宗教は90%以上がイスラム教であることは良く知られているが、唯一バリ島だけはより古い宗教のヒンズー教が支配的である。そのためバリ島は独自の文化・言語を維持しており、丁度一年に一回のヒンズー教寺院のお祭りということで、村々には民族服に八頭身を包んだスマートな美人たちが頭に捧げ物を載せて歩いていた。バリ島の舞踏といえば、有名なケチャック・ダンス、仮面劇、ファイヤーダンスなどがあるが、その殆どはインド伝来の叙事詩「ラーマーヤーナ」と「マハーバラータ」が主題となっている。ケチャックは田舎の露天の劇場で松明の明かりの下、腰巻だけの半裸の男達が大勢輪になって、猿の鳴声を模倣したと言われる 「ケチャ・ケチャ」という一種のラップ音だけを唱える。その輪の中心でラーマ皇子に扮した男装の麗人が、弟や猿の王ハヌマンに助けられながら魔王サンデと戦って美しいシーク姫を助け出す。ケチャでは一切の楽器は用いられることなく、ただ拍子の異なる男達の口から出る3種類のケチャ音だけで壮大な叙事詩を演出している。劇の進行と共に観客は古代インドの大地にいざなわれて夢幻郷に遊ぶ。それは能の幽玄に通じる不思議な体験であった。ケチャックの踊り手の足の運びを見ていると重心の高さを一定に保ちながら足裏を地面から浮かせて歩んでいることに気付く。また手と指はインド舞踊と同じく手話を物語り、喜怒哀楽の表情を指の動きだけでも表現している。その習得には子供の噴からの厳しい特訓が必要で、舞踏としての完成度は高いと思われた。これに比べると男が一人松明を振り回して火の上を歩くファイヤーダンスや、素朴な田舎芝居である仮面劇は伴奏のガムラン音楽は素晴らしく、派手で観光客受けはするものの、舞踏自体の動きは洗練されておらず粗野で、ストーリーも単純のため芸術性に乏しいと言わざるを得なかった。

 

3.中国の京劇

 筆者の教室には4名の中国人女性留学生がいて、そのうち2名は女医、1名は看護大学教官である。彼女達の案内でこの9月、杭州で開催された国際医用工学会に参加する途上、北京に立ち寄り国立劇場で憧れの京劇を見ることができた。京劇には、情緒豊かな所作で観客を魅了する「所作物」、筋と語りを聴かせる「語り物」、激しい剣劇を見せる「武闘物」の三種類があると言われている。そして京劇の役者は唱(チャン:歌)・念 (ニェン:せりふ)・倣(ズォ:しぐさ)・打(ダー:立ち回り)の4条件の総てを満たさねばならないとされている。その日の出し物もしきたり通り、所作物の「秋江」・語り物の「赤鍬鎮」・武闘物の「八仙過海」の三本であった。最初の「秋江」は恋人に逢いたいがため寺を逃げ出す美しい尼が老船頭を説き伏せて秋江を渡るというものであるが、出演者は尼と老船頭の二人だけ、小道具も櫓一本だけであるのに、水量の豊かな川に浮かぶ舟にゆられる様子が情緒豊かに表現されていた。二人の謡も素晴らしい声量で、あたかも日本の狂言を見ている様であった。二番日の「赤鍬鎮」は汚職をした実の息子を県知事となった義理の息子に処刑された老母の物語で、最初は怨みと老後の不安を訴えていた老母が、法を守った義理の息子の条理を尽くした弁明に納得し、最後には義理の息子が実の息子同様に老母の老後の世話をすることを約束するというものであった。語りだけの舞台というので最初は心配していたが、幸い舞台の両袖に中国語と英語のト書きがパソコンで表示されたので、俳優の素晴らしい声量の歌声とせりふを結構愉しむことができた。

最後の出し物の「八仙過海」は竜宮城の乙姫が住む海を七福神ならぬ「八福人」が舟で渡ろうとするが、乙姫に「なぜ結婚しないの?」「我々の仲間なんかどう?」などとセクハラをしかけたため、海中での戦いになるという筋書き。ここでの見どころは竜宮城の美女達の踊りと、美しい乙姫の刀と布を用いたテンポの速いカンフー活劇。最後は龍神の仲裁で皆仲良くなってめでたしめでたし。本当は武聞物の最高峰と言われる「三岔口(サンチャコウ)」を是非とも観劇したかったが、生憎上演しておらず、ビデオCDを買って帰った。「三岔口」は二人の拳士が一寸先も見えない暗闇の中という想定の下で無言で激しく剣を交えるというものであるが、肌に触れる寸前で刃先を止める攻撃とテンポの速い守りの動作は武術として見ても賛嘆に値するものであった。その上、演者の巧みな演技力の御陰で、観客はそれがあたかも暗闇の中で行なわれているパントマイムのように感じさせられてしまう。それはまさに中国雑伎団の人間離れした技と全く同じ系列のものであり、幼児の頃からの血を吐くような修練のたまものと思えた。なお中国には首都北京の京劇以外にも、四川省の川劇(仮面早変わり・火焔放射等)など各地方にそれぞれ特色ある中国劇が300以上も伝えられている。18世紀にそれらの地方芸術が統合されたものが現在の京劇であると言われている。

 

4.韓国の民族舞踊と沖縄の舞踏

 日本語と韓国語はその文法を同じくしているため、両国人がお互いの言葉を学ぶときには文法書は必要なく、辞書があれば十分であると言われている。またその言葉自体も、例えば「奈良(なら)」(=国)、「わっしょい」(=来ましたよ)など恐らくは韓国語から日本語に輸入されたと考えられるものも多い。過去に不幸な植民地時代をもつため、現在の韓国人の対日感情がよくないことは残念であるが、言葉だけでなく舞踏においても両国民の文化は共通点が多い点に気付く。例えばお盆の時の踊りに少年が頭に長い飾りを付け太鼓を腰の前にくくり付けて叩きながら足を高く上げつつ踊る「サムルノリ」はまさに沖縄の「エイサー」や「越後獅子」の踊りを連想させるものである。「女踊り」についても韓国の宮廷舞踊はあでやかなチマ・チョゴリを纏った女性がすり足で滑るように回転しながら舞い踊るものが多いが、それは流球の「四竹(よつたけ)」と呼ばれる宮廷舞踊と一脈通じるものがある。それのみならず日本の舞妓に当たる技姓(キーセン)の歌である「パンソリ」のコブシの効いた発声方法は日本各地の民謡のそれに良く似ているように思われる。両国の舞踏に違いがあるとすれば、それは日本の舞踏では手と指の動きが演者の感情表現に重要であるのに対して、韓国のそれは体全体と目線の動きがより重要であるように見受けられる点である。

 

5.アジアの舞踏の系譜

 東洋の舞踏が欧米のそれと大きく異なる点の一つに、原則として 「大地から浮き上がらずに舞う」 ことと「手先と眼の動きに感情を込める」という2点があげられるように思われる。勿論「例外のない規則はない」ので、例えば琉球の「四竹」と呼ばれる宮廷舞踊は華やかな紅型(びんがた)衣装をまとい両手に持った4つの竹片で拍子を取りながらお能の足捌き同様決して足の裏が床を離れずに舞うのに、同じ沖絶舞踊のエイサーは空手の動作を取り入れているといわれる様に両手で太鼓を叩きながら高く腿を蹴り上げて舞う。しかし歴史的に見ても、踊りの種類数から見てもアジアの舞踏の主流は「母なる大地」にしっかりと両足を付け、慈しむように摺り足で大地をなでるものが多い。手先による感情表現はインド舞踊の手の動きが一種の手話となつていて、踊りの筋書きを聾唖の人にも伝えられることや、インドネシア舞踊や京劇では眼球の動きの訓練が非常に重要視されていることに象徴されるように、アジアの舞踏における手先の動きの繊細さは欧米のフォークダンスなどと比較して見ると、あきらかに起源の異なるものであることがわかる。このように特に足先と手先とに神経を集中させながら舞うという動作は、体の移動を単なる物理的な現象としてとらえるだけでなく、心を体の動きで表すという思想の現れであると言えよう。あるいは欧州の社交ダンスと日本の盆踊りを見てもわかるように、アジアの舞踏の所作には単なる男女の交歓に留まらずその動き自体に何らかの意味を表現しているともいえよう。そしてその最も進化し極限まで象徴性が追求された舞踏が我が国の能であるといえよう。能においては動きも背景も小道具も極端なまでに簡素化され、それゆえにこそ観客の心の中に豊かな想像の世界が広がる、そのクライマックスでは演者と観客の魂は共に、この世のものとは思えぬ幽玄の世界に遊び、感動を共にすることができる。それはある意味でコンピュータ技術を駆使した現在の仮想現実感 (Virtual Reality)の一つの到達点を、400年前の世阿弥は既にこの世に実現していたとも言えるであろう。

 

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山と温泉48〜その31  古田島 昭五(こたじま皮膚科診療所)

付記=「苗場の鐘」物語

 この鐘は、苗場山登山(三俣道)の基地として多くの登山者に利用された旧い和田小屋にあったもの。小屋の入り口に吊された少し大きめのバケツ位の大きさで、独特な音色は、やや甲高く、長く尾を引き、春の緑に、夏の陽射しに、秋の紅葉に、冬の雪に、山毛樺の森に静かに流れていた。

 鐘は、小屋を囲む山毛樺の森で、木々の一本一本に静かに染み入るような音色を流し、木と鐘とが睦み合う情景をつくる。まさしく自然の妙味。旧和田小屋(現在の鉄筋二階建になった和田小屋は、昭和53年に、経営者が変わり、新しく建替えられたもの。)が無くなり、昭和37年和田一家が山を下りると一緒に、鐘も無くなってしまった。渡辺修作先生、伊藤本男先生と山の話の時、たまたま「苗場の鐘」が話題になった。和田小屋も無くなり、鐘も無くなった。鐘はどうしたろう?と言う話になった。私の悪い癖で、すぐ鐘探しを始めた。無駄な事を、と笑った奴がいました。もう一人の私です。和田一家の住居は、簡単にわかりました。旧和田小屋は、「和田ロッジ」と名を変え湯沢町三保、国道17号線の三国峠に向かい道路の左側にありました。早速尋ねてみました。和田小屋の美少女、和田千代女は、80才を越え、なお健在でした。千代さんから、昔話の色々を話して戴きました。お陰で鐘の行方が判り、その上、鐘は二つある事もわかりました。又、和田小屋の建設者で、千代さんの父親喜太郎氏の生家は、小千谷市三仏生にあることもわかり、生家の現当主で甥に当たる和田正三氏にもお会いし、小屋にまつわる話を聞き、鐘を観る事になりました。和田家は小千谷市三仏生、屋号・喜左衛門、代々大工職、現在は和田正三氏が継いでおられる。鐘は、大小二つ在って、高さ約一米余の大きい鐘は、集落の西、歩いて20分の栗田集落で和田家の菩提寺でもある「潮音寺」本堂にあり、高さ約40糎余の小さい鐘は、三仏生集落中央付近道路沿い、和田家と道路を隔てた向かい側の観音堂拝殿に吊り下げられてありました。私は、大きい鐘(釣鐘)の記憶は無いのですが、小さい鐘は鮮明な記憶として残っています。長く余韻を引く鐘の立日色は忘れる事はありません。

 和田小屋は、慈恵医科大学山岳部スキーヒユッテとして、昭和6年(1931)、上越線全線開通の年に、苗場山登山道、標高1340米、稲荷清水近くに建設された。建設は、小千谷市三仏生(当時小千谷町)の大工職・和田喜太郎氏があたった。当時山小屋とは思えないような設備、高価な調度品があった。東京の「三越デパート」から送られた注文品であったと、娘の千代さんの話。小屋の建設を和田喜太郎氏に依頼した経緯は次のような事であったらしい。和田喜太郎氏は移動式製材機を持っていて、山に建築資材の木を見に入り、其の場で製材し材木にして建築をする方法を採っていたそうです。そうする事に依って、資材輸送の手間と手間倍只の節約、資材加工場が不要である事で、費用の低減、仕事の迅速化を目指したものだったのでしょう。当時としては画期的な事であったようです。仕事場は、湯沢町(当時村)の周辺が多く、神立小学校も彼の手で建てられたのだと言う。千代さんの話に因ると、湯沢町での仕事が多い関係で、湯沢町三保の山持ちで資産家「関」家から、しばしば仕事を頼まれたらしい。その緑で、関家所有の苗場山麓の山に入る事が出来、資材の調達が巧く行ったようでした。はっきりしないのですが、関家から後に開業医となられたのが、関正弘先生。和田小屋建設の経緯に、この関家、関先生が関わっていました。「東京の慈恵医大の方が、わざわざ三仏生の和田家迄頼みにきた。」の話は、昭和の初期、交通不便、通信連絡不便の当時としては余り無かったのではないか。そんな時代に、慈恵医大山岳部の人が、わざわざ、小千谷市三仏生の和田家まで、スキーヒユッテ建設を頼みにきたのは、関先生と何等かの関係があっての事。慈恵医大山岳部と大工和田喜太郎氏の接点は、湯沢の開業医関先生だと、千代さんは言うのです。その関先生が慈恵医大の卒業生なら話が解ると考え、青柳徹先生にお願いし調べて戴きました。関先生の大学卒業は昭和8年、又、関先生は数年前迄湯沢町で生存されておられた事が分かりました。和田小屋の完成が昭和6年ですので、当時学生であった筈の関先生が直接関わっていたのではなく、山林地主で資産家の関家へ、関先生の父君を通しての依頼であったと思われます。

 建設は決まりましたが、建設場所を何処にするか、依頼側の山岳部では要望はなかったようで、建設施工者に任せたようです。和田喜太郎氏は最初から、「稲荷清水」を考えていたのでしょう、直ぐに決まったと言います。これには、「稲荷清水」の由来があったからだろう、と娘の千代さんは言います。「昔、山の神参り(伊米神社奥院・十二山神参り・苗場山講?)の老夫婦が清水の畔に堀っ立て小屋を建て、夏の間暮らしていた。その間、里から杉の苗を持ち上げ、杉の植林をやりながら生活していたそうです。」杉の育たない標高の高い処に杉があるのは老夫婦のお陰。清水が、とても美味しいので此処にしたのかな。千代さんの詰。

 昭和6年、スキーヒユッテ完成後和田夫婦が管理人となつた。このヒユッテは、慈恵医大山岳部の運営で主にスキー山岳部の保養施設とし、山スキーの基地として使用されていたのでしょう。私がOBとして所属する大学の山岳部の山小屋も、同じような目的で建設され、ほそぼそながら現在も尚クラブヒユッテとして運営しています。その当時は山小屋が少ないので、登山、山スキーの訓練、学生、山岳部OBのレクリエーション基地であったのでしょう。運営主体が山岳部ですので、関係者?以外は入れなかったと思います。しかし昭和10年頃のガイドブックには、「夏でも親切な老夫婦がいて、頼めば泊めて呉れる。中々感じの良い小屋だ。」と書いている。「泊り賃」は書いてない。夏は、和田夫婦が登山者を泊めたのでしょう。昭和13年には、スキーヒユッテの上の平らに、廊下続きに山小屋を建設、小屋主として一般の登山客を泊めるようになった。この時から和田夫婦は、スキーヒユッテの管理と和田小屋の経営を同時に行うようになった。山小屋開設の祝いでもあったのか、東京の「駒草山岳会」が小さい方の鐘を寄付、長谷川さんと言う人が持って来てくれたのだと言う。これを和田小屋の入口の軒下に吊り下げた。登山者の迎え、送りに打ち鳴らした。「良い音色だった。」と千代さんは回想する。昭和16年には、経営が立ち行かなくなったスキーヒユッテを山岳部から借金を含めて買取り、名実共に和田小屋となつた。戦後、昭和26年、喜太郎氏は、遭難防止のためと考えたのでしょうか、大きい釣鐘の鋳造を依頼、これを、大勢の人達で小屋迄担ぎ上げた。小屋の屋根に櫓を組み、釣鐘を吊り下げ、打ち鳴らしたそうです。千代さんは 「こんな大きい鐘……」と、びっくりしたそうです。甥の和田正三氏は「鉢巻峠」を担ぎ上げるのは大変だった、と言います。私はこの鐘は知らなかった。昭和30年、入山の時も見た記憶はない。この30年の年、小屋は増改築され和田小屋を一新、名物の「苗場の鐘」となつた。昭和34年、国道17号線改良舗装工事完了と共に、苗場山麓一帯は、大手資本国土計画株式会社に依るスキー場を中心とするリゾート開発計画が進められ、現在のような山麓と変貌した。同時に和田小屋は、頂上の遊仙閣と共に国土計画株式会社に買収され、昭和37年和田一家は下山、一時中里スキー場に移り、その後塩沢町石打に民宿を経営。二つの鐘は小千谷市三仏生の和田家に戻り、家の前で櫓を組み鐘を吊り下げ打ち鳴らした、と和田正三夫人は言います。その後、和田家菩提寺潮音寺と観音堂に現在の姿で残されています。和田喜太郎氏は昭和45年3月、三条市一ノ木戸出身の妻女は、昭和58年12月、それぞれ亡くなられています。

 写真のように、「苗場の鐘」と刻印され、まだまだ、懐かしい音色を奏でます。しかし、この音色は、もう無くなってしまった苗場山麓山毛樽の森の精であったのです。

 千代さん、和田一家の皆さんに感謝します。

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お弁当狂奏曲  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「明日は出張だからお弁当はいらないのね?よかったわ。」 と家人。

「どうしてさ?」と怪訝なわたし。

「だって朝もう1時間はゆっくり眠れるんですもの。」

 おう、そうでありましたか。家人はお弁当作りに、そんなに早起き努力をしていたんだとはね。

 そういえば、おム升当と言えばつい先頃も、家人がわたしに訊いたのでした。

「ねえ、あなた、他のみなさんはどんなお弁当食べてるのかしら?」

「そんなの知らないなあ。」

「えっどうして、食べるとき誰か一緒じゃないの?」

「だってみんな別々にお昼ごはんは食べているからわかんないよ。ぼくの外来診察は混むから、医局ではもっとも遅いランチタイムでしょ。午後二時過ぎにやっと食べるから、ほとんどひとりのことが多いさ。」

「えっ、なんだ、そうなのかあ。」

 これまでずっと、あたかも小中学校の生徒のように医局に並んで、いっせいにお弁当の中身を見せ合いながらでも食べているのだと、家人は勘違いしていたようなのです。

 どおりで以前から「色合いでミニトマトを入れる」とか「卵焼きは必須アイテムである」とか、わけのわからんことを云うわけですな。わたしが食事は外見も美しいにこしたことはないが、最も重要なことはおいしさ、第二は栄養バランスと常に唱道しておりますのに。

 ところで家人は佐渡という「海外」の「帰国子女」なのです。そこで中学までは給食で、高校は片田舎ですのになんとカフェテリア方式の昼食だっそうです。つまり自分は母親からお弁当を作ってもらった経験がまったくなかったのです。そこでお弁当のいろはをわたしがお教え申しあげました。冷めておいしいおかず、味は濃い目、夏場はいたみにくいものなどとですな。

 そうそう、日替わりで必ず一品は新奇なものを入れる努力なんてことを言ったら、日を白黒しました。つまりお弁当箱を開けた際に 「おう、今日はこんな斬新なおかずを工夫したのか。」と思う一品ですな。

 ところがこの話は家人の女友達には「亭主の暴言」として顰蹙をかったとのことでありました。

「そんなことできるわけないじゃない。」

「お弁当を毎日作ってもらえるだけでもすごいことなのに。」

「見かけによらず我が儀なのね。」

 ブーイングの嵐だとか。もっともこれは家人が勝手に謡を作っていなければのことですが。

 そこで科学者の端くれであるわたしは 「租食のすすめ・お弁当レシピ篇」とか数冊の文献を参考にと家人に最近差し上げたことでした。お、おかみさん、どうかこんなものでも参考になさってくだせえませと。

 あまり大きな声では申せないのですが、まったくこうした参考書が開かれた形跡はなく、その後の新展開はございません。

 といったわけで、わたしの愛妻お弁当といえば、自家製の大きな梅干をごはんにのせて、脇に「慣れ親しんだ」季節のおかずを彩りよく詰めた曲げわっぱ弁当です。言うなれば「有季定型的」お弁当とでも申しましょうか。もちろん毎日おいしくいただいております。いえいえ滅相もない、不満なんかちっともございませんとも。わたしは俳句でも「有季定型」の完全遵守派でございますから。

  緑陰にひとり弁当広げたる

 

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