長岡市医師会たより No.256 2001.7

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もくじ
 表紙絵 「夏の朝(文化公園にて)」丸岡  稔(丸岡医院)
 「自己紹介」           伊藤  洸(田宮病院)
 「在宅診療の体験報告〜其の三」  板倉 亨通(北長岡診療所)
 「山と温泉48〜その32」      古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「高級昆布の行方」        郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

夏の朝
(文化公園)  丸岡 稔(丸岡医院)
自己紹介  伊藤 洸(田宮病院)  

 長岡市医師会のみなさん、こんにちは。

 伊藤洸と申します。平成13年4月16日より田宮病院院長として働いていますが、今3ケ月たってようやく慣れたところです。「ぼん・じゆ〜る」に自己紹介の機会を与えていただきまして、ありがとうございます。

 以前の職場の川崎市とは対照的に、田宮病院は自然に恵まれたところにありまして、医局の窓からウツギの花が見えたり、鷺の鳴き声が聞こえたりして、私はそれがとても気に入っています。

 33年間も精神科医として仕事をしていますが、昨今、従来の教科書では理解しがたい精神病理が目立つようになり、われわれにも新しい学問のフレームが必要とされています。病診連携というのは単に治療の面だけではなく、患者さんの理解のための学際的な連携も含まれているような気がします。よろしくお願いします。

 趣味はいろいろとありますが、あえて挙げれば酒と俳句をこよなく愛する人間です。こちらの越後はまさに日本酒のメッカ。おいしい酒がありすぎて、私の家内は、心配の種がまたひとつ増えた、とぼやいています。どちらかというと、高級料亭は苦手であり、うすぐらい大衆食堂で八海山を飲むのが好きだし、その方がおいしいようです。

 俳句は十年ぐらい前からやっており、名前だけは俳人協会会員をいただいておりますが、なかなか奥が深くて、いい加減なところで低迷しています。今度出雲崎に行って良寛さまからパワーをもらってきたいと思っています。

  じゃがいもの花もやさしき新任地

                洗

 田宮病院も新しい時代に対応するために変革の時期をむかえています。長岡市医師会の諸先生方と力を合わせて地域医療に頁献していきたいと思いますので、よろしくご指導ください。

 

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在宅診療の体験報告〜其の三  板倉 亨通(北長岡診療所)

 其の一、其の二、其の三と切れ切れになりましたが筆者がさぼったせいではありません。編集者の御都合により延期となりました。其の間に、いろいろな御意見がありました。

(1)このような現象を起す仕組みが知りたい。

(2)ビデオで見せてくれなければ信用できない。

(3)神経系の事例かと思ったが筋肉系の話のようだ。それだったらこの現象は理解できる。

等のさまざまなご意見を頂きました。

 この様なご意見の底流には、50年前から信じられている

I「神経細胞に再生は無い」

II「老人性痴呆が治癒する事は無い」

III「寝たきり老人になる患者は脳内に何らかの責任病巣が有るに違いない」

等の定説や陥りやすい思い込みによると推定されます。

 (1)、(2)の会員の御意見の場合、今までは回復が考えられなかった症例が回復する事への驚きが素直に表現されて、恐縮していますが、錐体路の侵され方が広範囲な症例と小範囲な症例とで治療に反応する程度の差が極めて大きく此の点について今後検討させて頂きます。また(3)の会員の御意見は誠に正鵠を得ており尊敬の念を抱かざるをえません。これらの説明は別の事例を挙げながらご報告するのが適当かと思いますので、其の四で老人等に起こる筋肉障害を別の症例で例証しながら報告したいと思っています。

 ところで我々は脳血管障害により不幸にして寝たきり患者になった人について、今まで幾日間の連続した診療が許されて来たでしょうか?

 恐らく神経内科、脳外科専門医でも数ケ月程度、開業医では更に短期間で、しかも間歇的にしか診療の機会が与えられませんでした。在宅診療が可能になって初めて老人を全経過に亘って継続して診ることが出来る様になりました。在宅診療を始めてみて、如何に老人病について無知であったかを思い知らされました。この事を察したのか、日本医師会は老人の診療についての特集号を矢継ぎ早に発行してくれました。これらの世の流れについて少し考えて見たいと思います。

 現在の在宅診療や介護保険を計画出来るようになったのは、過去の高度成長による我が国の豊かさと国民性に拠るものと思います。米国や北欧では寝たきり老人が少ないと言われていますが、昭和30〜40年代までは我が国も同じでした。例えば老人が家族の名前が判らなくなったり、或いは脱水状態になれば、家族は入院させる事をためらい、寿命ですからこのまま往生させてください!と言うことになり、後、何日ですか、と問われて、亡くなる日が当れば医者の信頼度が増す時代もありました。欧州では、老齢になつて食事を摂らなくなると、天命として医療よりも神の救いや恵みを与える方に重点が移る国もあると言われていますが、我が国だって、つい先頃まではご同様だったのです。つまりは寝たきり老人の発生し難い環境でした。それが寝たきり老人の生きて行けない環境から、医学の進歩と世界第二の豊かさによって本当の老人の在るべき姿を見せてくれる時代を迎えようとしていると言えそうです。

 筆者は其の二に述べた症例1を偶然往診する機会を得て、失書、失語、右半身麻痺が退院後5ケ月も経過して加療を始めたのにも拘らず、著明な改善をする事に驚きました。この頃在宅医療制度がある事を知り、患者の負担の減少を図る事が出来る事を知りました。患者の経済的負担の減少も治療継続には欠かすことが出来ない要素です。これらの社会的条件が整ったので、筆者は診療システムとしての良導絡低周波治療の可能性を検討しながら実施して、其の一、其の二の結果を得ました。実施方法はベストの選択とは思っていませんが、取り敢えず作業仮説的なものを想定し、途中で基準を変えない様に気をつけながら、誰が実施しても大差の無い結果が得られるように計画してみました。この結果は日本良導絡自律神経学会雑誌(平成13年3月号)に発表してあります。別刷ご希望の向きはお知らせください。お送りします。本症例検討実施後の感想は、要約すれば良導絡治療はリハビリテーションの一手段と言えますが、寝たきりで体が動かせなくても実施できるので寝たきり患者に生じている廃用症候群を防止、加療できる事が確かめられましたので、寝たきり患者と見られている中に家庭内自立が可能な患者が半数以上含まれているという集計結果は誤りではなさそうです。今回の症例検討は、偶々診療中の寝たきり患者に途中からこの療法を実施した集計であり、以後4年間、同様の治療を続けた集計の結末も報告したいと思っています。長々と述べさせて頂いているのは一緒に症例を増やして検討しあえる勉強会でも出来たらという儚い夢も少しあるからです。少なくとも追試可能な対象となることを願っております。(以下次号)

 

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山と温泉48〜その32  古田島 昭五(こたじま皮膚科診療所)

苗場山周辺の温泉

 温泉の定義は、地下から地上に吹き出る水分が温度100度以上ならば水蒸気として噴出、100度以下ならば湯としての状態で流れ出、これを温泉とする。通常、温泉の温度の低い湯を、旧来から冷泉と呼ぶ。では、其の温度は、と言うと、人それぞれにさまざまであるが、一応、摂氏25度が温泉と冷泉の境界温度としてある。湧出した地域の平均気温より高い泉水を温泉、低い泉水を冷泉とする説もあったが、例えば平均気温零度の地域の泉水はどうなるか、どうも温泉と言うわけにはゆかない。ドイツでは、摂氏20度としている(かがくのじてん・岩波書店刊)。自然に湧出する、または人工的に掘削されて流出する地下水、地下のマグマの熱により熱せられた地下水、マグマの中の水蒸気が冷えて出来たマグマ水と、普通の地下水が混じり合ったものを温泉水と言っている人が多い。この温泉水に含まれる元素の塩素・弗素・硫黄・硼素・砒素は、マグマの中に含まれている事が解っている。又、温泉水に比較的多く含まれる物質によって、硫黄泉・食塩泉・炭酸泉・酸性泉・単純泉と解りやすくされている。但し、単純泉は、含まれる物質の少ない温泉の事を意味している (かがくのじてん・岩波書店刊)。越後の温泉について珍奇な古文書がある。「後越薬泉」。著者は旧長岡町蘭医で町医の「小村英庵 文政13年(天保元年)寅冬霜月九日(1830年)に書かれたもの。この書の凡例に次のような文章がみられる。

「薬泉区別所在七郡ヲ分チ熱泉(極熱泉ヲ云ウ)・温泉(温泉中等)・微温泉(ヌルキ湯)・冷泉コレヲ汲ミテ焚テ山冷泉トナスヲ方俗ワカシユト呼ブソノ浴習ニ従テ仮ニ焚温泉トス」「習俗薬泉ノ鑒定温熱泉ハ固ヨリ論ナシ其他ハ硫黄臭及泉花アルヲ見テ薬泉トシ此物ナクシテ良薬泉アルヲ知ラズ故ニ従来焚温泉トスル者其効大率同ジ」「温泉冷泉共に疥癬小瘡類打撲揖傷金創椚挫轉筋中風偏枯麻痺不遂徴毒頑固沈滞痼疾疝気痛風脚気婦人腰痛白帯下無嗣蛇蟲咬傷等云々」この書を見てるかぎり、1800年代越後国の温泉は冷泉が多く、中には当時は温泉、現在は冷泉と言う温泉がかなりあるようです。1800年代の温泉は病気療養治療が出来た。しかし、現代の温泉は、泉水による疾患の治療は期待できず、環境を替え仕事を休み、所謂静養が温泉の効果と思われる。

 最近は、温泉掘削が盛んで結構です。穴掘り費用は、一米、2万円とか3万円の相場であると言う。この資金は、「一億創成金」と言う奇怪な金が消費れている。掘り当てた時は、熱湯が吹き上げる。しかし、暫くすると、熱湯が温泉、温泉が温湯と、更に、冷泉となりはてて、焚温泉(沸かし湯)。やたらに、この病気、あの病気に効果ありと言いたてる。静養が一番。

 苗場山周辺の温泉(冷泉を含めて)を紹介致しましょう。苗場山南面から、主として清津川上流辺りから入ってみましょう。既に紹介済みの、貝掛・赤湯・三股八木沢(鶺鴒の湯)・越後湯沢・丸山温泉。この他に、紹介していない、大沢山(塩沢町)・栃窪(塩沢町)・君帰(六日町)・河原沢(六日町)等の温泉(冷泉)は魚野川西方魚沼丘陵に点在します。比較的古い温泉から拾ってご紹介します。

上野鉱泉

 国道17号線を石打で国道353号線に入る。十二峠を経て田沢・松之山・野沢温泉方面の標識があり、西に向う。右打駅から歩いて約30分、約3粁。駅を出て右、湯沢方面、上越線を渡るか、くぐるかで駅の反対側、西側に出て、国道を緩やかに登る。新幹線(円蓋で覆われている)の下をくぐると間もなく国道沿いの宿が見える。曲がりくねった国道沿いに5、6軒の宿が点在する。バスは、越後湯沢駅から十二峠経由「森宮野原」行きが出ている。便数は一日4往復。この鉱泉の開湯は天保年間1800年代と推定される。宿「奥の湯」は4代目、明治の初年頃には既に鉱泉(冷泉)として在ったものでしょう。この鉱泉は近年、存続が怪しくなった時期があった。近くを通過するために掘られる上越新幹線のトンネルのため、源泉が枯渇するとの危惧であった。どのような結末であったかは知らないが、湯治客と地元の客だけであったのが、最近では、スキー客と、秘湯を求めて都会からの客が増えた。しかし、相変わらずこぢんまりとした鉱泉。単純泉。

清津峡小出温泉(旧鉱泉)

 この温泉について、いろいろな古文書が残されているので面白い。「中里村村史」を参考に調べてみる。開湯は元禄年間(1688−1704年)、岩間から清津川に流れ落ちる泉源を見つけたが、これを利用できずにいた。泉源を開削するには険峻な岩間のため、当時の小出村小出集落だけでは不可能であった。寛政12年(1800年)、夏、小出新田の百姓一同から支配役所・脇野町代官所へ開発願いが差し出された。翌年代官所の認可を受けた。小出全村民は、工事費一切を負担し、困難な岩場の工事を農事の合間をみて行なった。湯小屋を建て、泉源の湯倉から400米の引湯に成功した。しかし、引湯のため湯小屋に溜まる湯はすっかり温度が下がり、盛夏の土用でもなければ入湯出来ない有様。そのため湯小屋開業取り下げも、再三代官所に差し出されたのではないかと思われる、と「中里村村史」にある。しかし、脇野町代官所の役人は、工事を成功するよう、現場視察までしていた、と言う。結局は文化12年(1813年)に差し出した「開湯ご免願い」は、文化14年(1815年)岩鼻代官所(群馬県高崎市)付けで取り下げが許された。文政3年(1820年)、この温泉の再開発を、十日町村の九左衛門が、小出新田から譲り受け、湯銭の半分を地元に差し出すとの条件付で行なった。しかし、湯小屋繁盛までにはいかなかった。文久2年(1862年)地元、小出新田の百姓三左衛門は、九左衛門から温泉権を譲り受け、単独で休止された温泉を再開した。小出新田集落からは、かなりの厳しい条件付であったらしい。しかし、それらの悪条件を克服し、労苦を重ね、今日の小出温泉の基礎を確立した、と言うのです。湯小屋を開業するについては、客からの湯銭で経営するわけで、善光寺街道(国道117)、十二峠(国道353)からの客を当てにしたわけでしたが、いずれも街道より遠く、道が険阻、小出新田からも1粁もあり、繁盛とは遠い話であったのでしょう。今では、それが却って秘湯として話題になった。昭和59年2月、豪雪の年、清津川右岸の山で発生した雪崩は清津川を埋め尽くし、右岸より川を飛び越えて左岸の温泉街をのみ込んだ。5軒の旅館が崩壊。中でも、雪崩の真正面にあった清津館は、家族7人の内、2人を残し敢無い犠牲となった。現在の清津館は、清津川河畔から少し山側に新館がある。ここは、湯沢町八木沢から清津川(清津峡)渓谷歩きが楽しめる起点でもあり、終点でもある。落石事故のため、旧渓谷路は、観光トンネル入口から300米急登、迂回して上流の河畔に下り立つように変更された。(詳細は現地でお聞きください。)

 前述の上野鉱泉から国道353を行き、十二峠を越え、下った処が清津峡・小出温泉入口。左折し、清津川に架かる狭い橋を渡り、集落の間の狭い道を抜け、トンネルをくぐると温泉街が見える。車道の尽きる処が温泉。広い駐車場がある。国道117からは、中里村田沢の中心部の大きい三叉路で左折、国道353に入る。そのまま直進、清津川右岸を行く。瀬戸口渓谷右岸の清津峡トンネルを抜け間もなく清津峡・小出温泉入口、右折する。トンネル手前の清津川左岸に、瀬戸口温泉の宿が見える。

 バスは中里村田沢から、飯山線田沢駅からはマイクロバスが運行していたが、今ははっきりしない。越後湯沢からは、前述の森宮野原行きで温泉入口下車になる。

 温泉は、宿6軒。温泉水は単純硫黄泉。以前はかなり温度が低く、鉱泉と呼ばれていたが、掘削ボーリング後、60度の清澄、硫黄臭の単純泉となった。

 清津峡渓谷トンネルは、渓谷路で落石事故があり、その後渓谷路は閉鎖、山を回る迂回路が出来たが、渓谷美の目玉、柱状節理の観賞のため作られた。トンネルは距離往復1500米、料金500円。チト高い。

 

:小村英庵 (コムラエイアン)

 明和3年(1766年)生、天保8年(1837年)没。旧長岡町町年寄を勤めた小村家本家直系。幼名松太郎、成人し泰輔、字を馨(ケイ)、英庵と号した。没後は、本町3丁目・善行寺内・小村家墓所に葬られている。長崎に遊学、蘭医から医学、化学を学び、帰郷後町医として診療の傍ら、越後国内の温泉、石油なビ化学的調査、分析を行い、これを文書にして書き残した。この文書「後越薬泉」 は、同時代に化学分析の第一人者であった、字多川榕庵に朱筆を依頼されたものらしく、昭和4年字多川家古文書の中からみつかったもので、恐らく貴重な一冊であるらしい。詳細は、「越佐叢書・第五巻」をご覧ください。

 

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高級昆布の行方  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 庭先の畑から二尺ほどの夕顔の実を2本収穫して戻りました。その蔓は畝のそばの梨の木に誘導して高く這わせてあります。夕顔は大きいがはかなげな白花が咲く瓜科の植物です。この界隈ではこの実を 「ゆうごう」と呼びます。全国的には薄く剥いて干し上げ、かんぴょうを作ります。越後ではこれを切って煮炊きして食します。和食では冬瓜(とうがん)がよく似た食感をしています。とくに越後の夏の伝統的スタミナ補給源である鯨汁にはかかせぬ食材です。

「わあ、今年のゆうがおは出来がよいわねえ。一本はお母さんのところに届けて来ようかしらね。」

「そうしてくれるかい。親父さんも大好物だしね。あれば冷凍の塩鯨もいっしょに付けてあげてね。」

「あら、塩鯨の切り身は今日はストック品切れ中です。その代わり、高級昆布持っていこうっと。」

「なんだい、その高級昆布って?」

「N先生からお中元にいただいた利尻の囲い込み昆布よ。」

「ああ、あれ。別にあげなくても、うちで食べればいいじゃない。」

 家人の意見はこうでありました。昆布巻作りはわたしの実家の母が上手である。そこでまずよい昆布はあげておく。そして冬の時期になって美味しい昆布巻ができあがったら、それを我が家で頂戴する。なんとも見事な三段論法?であります。

「どれどれ、なるほど、これがその昆布かあ。」

「すごいでしょ?桐箱入りの昆布なんて、生まれて初めて見たもの。」

 そこで昆布の箱に添付されている栞を読んで見ると、この2年間じっくり寝かせて旨味を出した蔵囲いの利尻昆布は「だし用に最適」とあるのでした。

 ちなみに日高昆布、羅臼昆布が繊維質が多く柔らかいので昆布巻、煮昆布には適するとのこと。

「えっ、そうだったのかあ。しまったなあ。実は昨日、お母さんにもう電話で頼んでおいたのよ。立派な高級昆布をいただきものしたので、昆布巻にお願いしますって。お母さんも、昆布巻はじっくり煮込むから年寄り向きの料理法だって。それに桐箱入りの昆布なんて由緒正しいものにぜひお目にかかりたいって、おっしゃっていたわ。」

「半分ずつにして、おだし用でしたって分けてあげればいいじゃん。それとこの箱の裏に、桐箱でなくて本品はファルカタという豆科の早生樹製と書いてあるぞ。」

 なお電話の向うのわたしの母もこんなことを言っておったそうであります。

「あの子はぼんやりで(…わたしのことですな)、どうせ昆布のことなんかすぐ忘れるから、ほとぼりが冷めた頃に、こっそりうちへ持ってくればいいわよ。」

 かくていただきもののりっぱな日比布の行方をめぐる陰謀術数は渦巻いて、そして潰えたのでありました。

 家人は高級昆布を我が家に置いておくと、苦手な昆布巻を作ることをわたしに強要されるのではないか、と心配したのであります。もちろんたぶんそうなったことでしょうね。

「でもこれはだし取りにふつうに使えばいいんですものね。よかった。よかった。」

 …なんだ、昆布巻は作らなくてもいいのね、よかった、よかった…。

 我が家でとれた「ゆうごう」とおすそ分けの、その立派な箱に半分だけ入れた利尻昆布を抱えて家人は車に乗り込みました。

 

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