長岡市医師会たより No.260 2001.11

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もくじ
 表紙絵 「晩秋の道光高原」     丸岡  稔(丸岡医院)
 「鈴木正武先生の死を悼む」     大貫 啓三(大貫内科医院)
 「はじめまして」          和知  学(県立療養所悠久荘)
 「ビハーラの二人目」        板野 武司(長岡西病院)
 「自己紹介」            小池  正(長岡赤十字病院)
 「自己紹介」            井村 健二(長岡赤十字病院)
 「自己紹介」            遠藤 禎郎(長岡赤十字病院)
 「会員旅行に参加して」       木村 清治(いまい皮膚科医院)
 「新会館建設事業の動向〜その3」  会館建設委員会
 「雪を待つ頃」           郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

晩秋の道光高原  丸岡 稔(丸岡医院)
鈴木正武先生の死を悼む  大貫 啓三(大貫内科医院)  

 同級生の鈴木正武先生が、10月29日の早朝お亡くなりになられました。

 鈴木君は、昭和20年のお生まれで、昭和39年福島県立白川高等学校を卒業後、同年4月新潟大学医学部に入学された秀才です。

 学生時代私とは、合唱部というサークル活動を通じてお付き合いがありました。特に最終学年時は、鈴木君がマネージャー私がコンダクターとして、少ない部員をどうやってまとめるか、部員を増強するにはどうしたらよいかなどを夜遅くまで語ったものでした。非常におとなしい人で、すべてのことに真面目に取り組む人であり、マネージャーとしては最適の人でありました。

 しかし私は、サークル活動以外の鈴木君についてはあまり多くを知りません。私の在籍番号のすぐ前に小野田毅一郎君という学年一のギャンブラーがおりましたが、その男とすごく親しくしておりいつも彼のことを「キー妨、キー坊」と呼んで楽しげに付き合っておりましたから、おとなしい性格の中にギャンブル好きの一面もあったのかも知れません。

 サークル活動以外での彼との思い出のひとつに、夏のお天気の良い日に医学部あたりから歩き始め交差点毎にじゃんけんを繰り返し、私が勝ったら右に曲がり鈴木君が勝ったら左に曲がりあいこであれば直進すると決めて目的もなくもくもくと歩いたことがありました。その結果いつの間にか昔の競馬町あたりまで行っておりました。今になって思えば何とも暇なことをしたものだと思います。

 彼は卒業後すぐ県立がんセンターの角田先生のもとで病理医として2年間研修を積まれ、昭和47年に正式に病理医として県立がんセンターに勤務し、昭和51年には病理研究検査科医長、昭和61年には病理研究検査科部長、昭和62年には研究部病理部長として、臨床医学の最終診断医としての地位を築かれていきました。その後、平成4年に県立小出病院の検査科病理部長に転任され、平成6年4月からは田宮病院に内科医長として赴任されて当地長岡に来られました。彼がなぜ病理医から内科医に転向されたのか詳しいことは知りませんが、彼の穏やかな性格から推測するに、最終診断医である病理医として生涯を送るのが辛くなったのも一因ではないでしょうか。これは私の勝手な想像に過ぎませんが…。

 田宮病院に来られてからは内科の外来や入院を受け持たれ、また産業医として職員の健診にも当たっておられたとのことです。平成8年からは、越路クリニックにも週2回出向かれ、地域の診療に携わっておられました。

 ここから書きますことは長岡西病院の放射線科の西村義孝先生と外科の佐々木公一先生からお聞きしたものをまとめたものです。

 鈴木君は、平成12年7月頃より固形物を食べるとつかえ感を自覚されていたようです。この頃より体重減少も見られるようになり、8月14日に西村先生から上部消化管X線造影をして戴いたとのことです。その結果、胸部食道上部から中部にかけて約7センチ程の全周性の狭窄が見られ、CT所見と併せると右気管支への浸潤が強く疑われ切除不能と判断されたとのことです。鈴木君にはこの段階では癌の告知は行われなかったとのことですが、御本人はこの時既に悪性のものであることを感じておられたようです。

 鈴木君自身が以前お勤めの県立がんセンターでの治療を希望され、8月中旬から12月上旬まで県立がんセンターで入院加療をなさいました。この間、照射療法と化学療法や食道のステント挿入の治療がなされ、退院時には狭窄症状も軽減し、平成13年春から田宮病院に復帰され再び診療に従事されたとのことです。

 しかし7月頃より再び狭窄症状が増強し体重は更に減少し、この頃より咳吸がさらに強くなりほとんど経口抜取が出来なくなられ、9月22日に長岡西病院に再入院されたとのことですが、それでも週1〜2回は越路クリニックに通勤されていたとのことです。なんとも壮絶なことであります。

 10月上旬には吐血も出現し、10月27日に吐血を契機に意識状態が低下し、10月29日午前6時37分御逝去なさいました。

 私も鈴木君のお通夜に出席させて戴きましたが、導師の方が、鈴木君がお父様の法要の時に自分の病状のことを淡々と話されたとおっしゃっておられたのをお聞きし、鈴木君の人間的な強さを感じました。また、ご遺族を代表されてご挨拶された奥様の「残念です。」の一言は、志半ばにして旅立たれた夫君への思いが感じられ胸が締め付けられました。

 最後に鈴木君を看取られた佐々木先生の話された言葉を記します。

「医師として自己の癌を見つめ静かに闘病生活を送られ、職場に迷惑をかけることを強く気にされておられたことが強く印象に残っています。」

 ご冥福をお祈り申し上げます。 合掌

 

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はじめまして  和知  学(県立療養所悠久荘)

 はじめまして。今年4月に長岡市医師会に入会いたしました和知と申します。今後色々お世話になることと思いますのでよろしくお願いいたします。簡単に経歴を述べますと、私は東京都文京区で生まれまして、茨城県の水戸第一高校を卒業後、新潟大学医学部に入学し昭和50年に卒業、精神医学教室に入局しました。新潟大学では精神医学教室で臨床を研鋳する一方で、脳研究所の神経化学部門 (佐武明教授) にて研究をさせていただきました。神経化学教室はアカデミックでありながら、佐武教授のお人柄を反映した和気あいあいとした雰囲気の教室で、あまりに居心地が良いため昭和52年から都合13年にわたり出入りをいたしておりました(ただ出入りをしていただけであまり論文も書かない不肖の弟子?の私を13年もおいてくれた佐武教授には本当に感謝しております)。平成元年〜平成3年まで精神医学教室で医局長を勤めた後、国立療養所寺泊病院、その後統合した国立療養所西新潟中央病院にて主に臨床てんかん学に携わってまいりました。今年4月より、縁あって悠久荘にお世話になることになりました。長岡市には50年卒の同級生では日赤病院内科の小池正先生、立川綜合病院泌尿器科の上原徹先生、産婦人科の星野明先生(本年11月に開業)、また喜多町診療所に勤務している鈴木健介先生などがおり心強く思います。特に上原先生とは学生時代からの付き合いも深く、命の恩人でもあります(学生時代に一緒に巻機山に登ったとき苔に足を引っかけ谷底にすべり落ちていく私に、上原君が身を挺して飛びついて九死に一生を得たというエピソードがあります)。趣味は上に書きましたように登山を少々…これも最近は米山登山の後1週間も筋肉痛がとれないというていたらくで足が遠のいていますが…、テニスをちょっぴり、それと趣味と言えるかどうかわかりませんがパチンコを月に1〜2回やっております。現在新潟市の自宅から車で通勤しているため、悠久荘と自宅の間を往復するだけで長岡市内の飲み屋さんはあまり存じません。この辺りのご指導も医師会の先生方によろしくお願いいたします。なお悠久荘は満床のことが多く、先生方にもたびたびご迷惑をおかけし申し訳なく思っております。平成14年4月からは新潟県立精神医療センターと改称され、8月にはすべての工事が完了し、新たなスタートを切ることになります。今後、悠久荘に対する御提言などありましたら遠慮なくおっしゃっていただきたいと思います。終わりに、会員の先生方のますますのご健康とご活躍を祈念いたします。

 

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ビハーラの二人目  板野 武司(長岡西病院)

 はじめまして。8月から長岡西病院ビハーラ病棟でお世話になっています。

 富山医科薬科大学麻酔科、富山市民病院、富山赤十字病院、新潟労災病院を経て、今日に至っています。

 麻酔を主体に行なって来ました。

 一日のほとんどを手術室の中に居ましたので、病棟での仕事にとまどうばかりです。

 ビハーラでは、朝8時30分からの勤行で、一日が始まります。この10年程、お経を上げたこともなかったので、間違えずに称えるのに精一杯です。看護婦の申し送りをいっしょに聞いて、患者・家族の様子を聞き、その後、病棟回診を行います。

 午前中は、基本的に入院患者全員の顔を見、処置、指示の変更を行い、午後は、じっくり話をする必要があると思われる患者・家族と渡したり、入院相談を受けたりしていると「あっという間に」一日が終わります。もう少し病棟勤務は暇かと思っていたのですが不心得でした。

 水曜日は全症例の検討会。医師、看護婦、ビハーラ僧がそれぞれの立場で、患者・家族について対等に意見を出し合い、最も望ましいと考えられるケアを検討します。上下関係なしに意見が言えるので私はこの検討会が好きです。

 金曜日には、昭和大学緩和医療チームリーダーの高宮有介先生が来られるので、色々な助言を頂いたり、色々質問したりと新鮮な刺激を受けることができます。

 ビハーラでの一日、一週間は思った以上にはやく過ぎます。

 休日には、家族で信濃川の堤防をサイクリングしたり、長岡市の地図を片手に、トイザラス、ダイエー、ジャスコ、丘陵公園などに遊びに行っています。新潟市にも2度行きました。麻酔科の時は一日中ポケットベル対応でしたので、労災に居た約4年間はほとんど市外に出た事がなかったので家族は逆にピックリしています。これから、仕事と家庭サービスをうまく切り換えしながら、ビハーラで働いて行こうと考えています。

 みなさまにはお世話になる機会が多くなると思いますが、ご指導をよろしくお願い致します。

 ビハーラで働く機会を与えてくださいました、富山医薬大前教授伊藤祐輔先生、田宮崇院長、ビハーラ医長平野博先生、渡辺雪子ビハーラ婦長にこの場をお借りして深謝致します。ありがとうございました。

(注、写真について…掲載省略)

 ビハーラ=仏教=僧ということで髪を短くしているのではなく、ハゲなので、髪を短くすればハゲが目立たないということで短くしています。念のため。

 

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自己紹介  小池  正(長岡赤十字病院)

 昨年の9月から長岡赤十字病院内科に勤務しています。昭和50年卒業ですからかれこれ四半世紀医者をやっていることになりますが、まだまだ未熟者です。大学病院では血液内科を専門とし、骨髄移植などにたずさわってきましたが、これからはターミナルケアにも取り組み、血液疾患患者のトータルケアができる医師を目指したいと思っています。また人生は51才からとも申しますので、医師として自分の幅を広げていくとともに、無趣味人間からの脱却をはかりたいと思います。今後ともよろしくお願い致します。

 

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自己紹介  井村 健二(長岡赤十字病院)

 平成13年4月より、長岡赤十字病院整形外科に勤務している井村と申します。よろしくお願いします。昭和63年新潟大学卒で、学生時代は硬式テニス部に所属していました。現在38歳で、見附出身の妻と小学1年の長女と3歳の長男と来年2月に誕生予定のれと、4人十αの家族構成で長岡ニュータウンに住んでいます。前任地が六日町であったため、ここ数年我が家にとって長岡市は、ショッピングと食事を楽しめる暇さえあれば訪れたい大都会でした。この春、長女の小学校入学を機に定住地を定めようと、単身赴任を覚悟で新居を構えましたが、家族全員で移動でき喜んでいます。

 私にとって長岡は、今回で3回目の勤務地になります。最初は、平成元年12月より半年間、厚生連中央綜合病院に麻酔科研修として勤務させて頂きました。2回目は、平成7年4月より3年半、立川綜合病院で主として脊椎脊髄外科を学ばせてもらえたので、現在この分野を専攻としています。そして今回と、長岡の3つの救急指定病院勤務を経験できて、病診連携の整った当地の充実した医療体系を実感しております。紹介状の返事など、忙しさにかまけて、乱筆乱文の書類や配慮に欠けた事があればお叱りください。微力ながら地域医療に貢献できるよう頑張りたいと思っておりますのでよろしくご指導をお願い申し上げます。

 以上、公式の文章は終了して、せっかくですので以下勝手気ままに書かせていただきます。私は、大のビール党です。仕事の後は、真っ先に冷蔵庫に向かい瓶ビールの栓をあけきゆっと一杯、至福の時です。若い頃は、医局のビールを私物のように扱っていたときもありました。このご時世となってからは (車で通っていることもあって)、病院では飲みません。当直は嫌ですが、良い休肝日です。もっぱら、家でナイターを観ながらキリンの一番搾りを妻があきれるほど飲みます。パパにビールを運んでくるのが、3歳の長男の大好きなお仕事です。しかし、観たいテレビをすぐに野球に変えるので、子供たちは野球が嫌いになりそうです。息子とキャッチボールができなくなると困るので、仕方なしに深夜の大リーグ中継で我慢します。今年のイチローには、大変癒されました。でも、やっぱり野球は巨人です。巨人が勝つとスポーツニュースをはしごして、翌日は気分がいい。長嶋さんが辞めて、自分と同世代の槙原が村田が斎藤が引退して、とても寂しいけれど、原新監督頑張れ、工藤も頼むぞといった具合に、もうおやじの領域です。アルビレックス新潟も応援に行きたいなと思ってます。

 趣味は、多趣味の無趣味といった具合で、独身時代は、麻雀、競馬、パチンコetc.とギャンブル系に偏っていましたが、子供が物心ついてからは、たまのゴルフ(100を切ればいい程度)と、G1の競馬くらいで、もっぱら庭いじりと街の散策を暇つぶしにするおやじとかしています。こんな私ですが、よろしくお願いします。

 最後に、よく、大島の井村整形外科医院さんと親戚なのかと開かれますが、そうではありません。比較的稀な姓のため、患者さんのなかには何度説明しても、息子であると思い込んでいる人がいます。私にとっては、親しみを持ってもらえるので光栄ですが、幸い井村先生は笑って許して下されているようです。

 

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自己紹介  遠藤 禎郎(長岡赤十字病院)

 平成13年7月より長岡赤十字病院に勤務しています。

 新潟大学医学部を卒業(平成3年)し、同附属病院第二内科に入局しました。大学院を経た後に出張した病院としては、長岡中央綜合病院(9年7月から11年6月まで)、済生会三条病院(11年7月から13年6月まで)があります。病院を移動することはもうないだろうと考えていましたが、第二内科医局長からの電話を外来が忙しくて対応に出られなかったところ数週間後に移動という連絡を受けました。

 専門は呼吸器内科です。肺結核症を発症初期から治療したことがほとんどなかったためそういった治療の出来る病院で働いてみたいと考えていましたので、長岡赤十字病院で勤務できることは絶好の機会でした。一例一例を大切にし、しつかり勉強していきたいと思っています。

 呼吸器疾患の中では間質性肺炎、好酸球性肺炎、過敏性肺臓炎、サルコイドーシスなどといった、びまん性肺疾患に興味を持っています (大学ではびまん性肺疾患グループに属しています)。抗好中球細胞質抗体などの血管炎に関連した疾患が特に好きです。卒後3年目前半に新潟市民病院で抗好中球細胞質抗体陽性のグッドパスチェア症候群を経験してからです。原因不明の、びまん性に肺に異常影を伴う患者がおりましたらどうぞ紹介して下さい。

 長岡赤十字病院に来て、3ケ月が経ち、ようやく環境にも慣れ始めてきました。それでもまだ要領よくテキパキと仕事をこなせてはいません。まだ一つの用件を済ますのに通常の1.2〜1.3倍の時間を費やしているような感じです。もう少し効率よく物事を進めていきたいと気ばかりが焦っています。

 アルコールは日本酒が好きです。卒後3年目後半に県立津川病院に出張に行き、院長先生と飲んでからです。それからは飲む機会がありますとかなりの日本酒が体の中に入ってきました。でも家では全くといっていいほど飲みません。外に出たら飲む方です。ただここ数年は記憶が無くなるほどには飲まないようにしています。

 最後に今回の出張期間は2、3年と言われています。この間、中越地区の医療のために頑張っていく所存であります。宜しくお願い申し上げます。

 

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会員旅行に参加して  木村 清治(いまい皮膚科医院)

 私は元来出不精の方で今回の旅行も家内に勧められて参加することになったようなもので、従ってこの旅行もあまり期待はしていませんでした。まさに牛に引かれて善光寺参りといった感じでしたが、枯木も山の賑わいと思い参加申込みをしました。以下スケジュールに沿って印象を述 べたいと思いす。

 期日は11月10・11日、行先は氷見阿尾の浦(ヒミアオノウラ)温泉、宿泊は永芳閣、参加者は、斉藤会長以下、石川(紀一郎)、石川(忍)、一橋、大貫、児玉、小林(真紀子)、杉本(邦雄)、鈴木(しのぶ)、の諸先生と現地で特別参加された原敬治先生と私、そして事務局の星さんの計12名。行先が氷見阿尾の浦温泉といわれても聞いたことがないし、ましてや富山県のどの辺か地図で確かめる始末でした。左手の平の親指を能登半島とするとその付け根がその場所になるそうです。

 10日午後2時、ガイド付きマイクロバスで医師会館を出発。このバスは後部座席がサロン様式になっていましたが、私は途中乗車したので前の方に座りました。車中は終始和やかな雰囲気に包まれ、笑い声が絶えませんでした。笑う門には福来たるということでしょうか。お天気も出発したころから次第に晴れてきて、特に翌11日は全目すばらしい晴天に恵まれました。参加者の日頃の行ないの良さが報われたのでしょう。宿に着くと既に原先生が来ておられました。原先生は元長岡中央綜合病院の副院長で平成8年3月に病院を退職されて富山県の八尾(ヤツオ)で開業されています。従って現地の事情には詳しく願ってもないガイドの役を果たされました。旅館は部屋、浴場、料理いずれも及第点だったと思います。ただ、私にとって残念だったのは寝過ごしたため早朝の日の出を見損ねたことです。宴会は途中からカラオケに入って大いに盛り上がりました。料理ではカジキマグロの燻製が珍しくて美味しかったです。二次会はカラオケバーへ行きました。皆さん、カラオケもかなり歌い込んでおられるようでとてもお上手でした。この間に二つエピソードがありました。一つは女性陣がアロマテラピーを体験したこと、他は著名な料理人道場六三郎が当旅館に泊まっていて一橋先生がお誘いしたが断られ、握手だけしてきたことです。11日にキトキト魚まつり(キトキトは活きのよい、新鮮なという意味)が催され、その際に全国包丁人大会があって道場氏はその審査員として招かれたとのことでした。二次会が終わって部屋に戻り原先生の話を聞きました。富山は新潟以上に医者が多く、故に競争も激しく開業医でもCTを有している所が多いということでした。現実の厳しい医療事情を知らされた思いでした。

 翌11日は朝食後、バスで出発する前に魚まつりの会場に行きました。屋台が所狭しと立ち並んで賑わっていました。魚市場も大勢の客で活気に満ち、この雰囲気に慣れない者にとっては圧倒されるようでした。それにしても巨大なイカを宵只われた某先生に食後の感想を聞きたいものです。この日の旅行の目的地は四カ所です。最初に訪れたのは井波にある瑞泉寺で、寺の壮大さ、風格もさることながらそこへ通じる石畳の道と木彫の町といわれるだけあっていたる所に木彫が見られたのが印象的でした。更に井波彫刻総合会館を見学。展示してある作品は数万円から一千万円まで少なくとも私には手の出る代物ではありませんでしたが、日の保養にはなりました。次いで訪ねたのが、城端(ジョウハナ)にある善徳寺(蓮如上人が530年前道場を開いた所)で、寺の規模は瑞泉寺より小さいが、寺の辺りの風景は前者と異なり、あかぬけした感じの菓子店や呉服店がありました。寺の近くの料亭での昼食は格別に美味しかったとは参加者全員の感想でした。ここで原先生と別れて我々一行は岐阜県境に近い相倉(アイノクラ)合掌集落へ向かいました。ここは世界遺産に指定されており、特徴的な茅葺き屋根の家が20軒近く点在していました。紅葉した背後の山とこれらの建物がよくマッチしてまさに絵の世界にまぎれこんだ感がありました。これらの家の多くは民宿を営んでおり、さぞ冬期は雪に埋もれ、その管理が大変だろうなと余計な心配をしたりしました。ここを見終わって一行は一路長岡へ向かいました。車窓からは遠くに見える新雪を頂いた立山連峰や一軒一軒の家が、ある距離を置いて点在する富山の田園風景が印象的でした。

 以上私にとっては予想に反して楽しい想い出に残る有意義な旅行でした。事情が許せば次回も参加したいと思っています。ただ残念なのは参加者が少なく、会員の一割にも満たないことです。特に若い先生方がいないのが淋しい。殆んど役員だけの旅行みたいになつているのは決して好ましい姿ではありません。

 会員の皆さん、こんなに楽しい旅行に是非一度参加してみませんか。

 出掛けてみたらなじらね。

 

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新会館建設事業の動向〜その3 会館建設委員会委員長 大貫啓三

 11月1日、新会館設計コンペの選考委員会を開催いたしました。

 会館建設委員会・建築設計小委員会・資金運営小委員会委員、理事及び長岡造形大学の先生の方々に選考委員をお願いいたしました。そのうち6名の先生が都合により欠席されましたが、斎藤会長が議長となり、市内6社から提出されたA案〜F実について白熱した議論が交わされました。

 その後、当日欠席された選考委員の事前投票分5票を加えて初回の投票が行われましたが、過半数の得票を得たものはなく、上位2案のB案(8票)とD案(12票)及び会員投票第1位のA案の計3案で再投票を行いました。

 この再投票でも過半故の得票を得たものはなく、再投票同数1位(各10票)のB案とD案で最終投票を行うこととなりました。改めてB案とD案を前にして充分に議論を交わした後、投票を行った結果、B案14票、D案6票で、B案を採用することに決定いたしました。

 採用となつたB案はもちろんのこと、ほかも皆すばらしい案でありました。不利と思える三角形の地形をうまく利用した斬新な提案ばかりであり、それぞれが特色のある設計案で、各選考委員も選ぶのに非常に苦労しておりました。

 ご承知のように新会館の敷地は、東から国道8号線を進んで行きますと、長岡大橋を渡って右に長岡造形大学、左に県立近代美術館、リリックホール、ハイブ長岡と長岡を代表する建築物があり、国道から逸れ左にカーブするとすぐ目の前に新会館が現れてくるといった場所です。

 このような場所に相応しい医師会館としてB案が選ばれたわけです。これからB案をベースに、来年4月の定時総会に提案すべく基本設計を作成することになりますが、設計上の細かい部分や設計管理費用などの細かい詰めも含め、まだまだ検討の余地があります。各案は、もうしばらく医師会館2階に展示いたしますので、まだご覧になってない方はもちろんのこと、一度ご覧になった方も改めてじっくりと見ていただき、ご意見等をお寄せいただきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

(※設計事務所名については、まだ設計監理業務の契約が済んでいないため、後日公表することにいたします。ご了承下さい。)

▼会員投票の結果

 (10月27日〜11月1日)

 投票総数 32票

 第1位 A案 13票

 第2位 F案 7票  以下略

 

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雪を待つ頃  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 軒の吊るし柿や干し大根の向こうに遠く見える守門岳の山領に、白く雪が下り始めました。あちこちのお庭では、木々が雪囲いにおとなしくお縄なぞ頂戴しております。

 いましがた里の母と電話していた家人の会話に驚きました。

「あら、この冬の雪はすごく多いかもしれないのよ。だってカマキリの卵が庭木のたかーいところにあったから。しやくだから切って、風除室に卵のついた枝をわざとひくーいところに挿して置いたの。」

 そうかあ。あれは冬の雪が少なくてすみますようにって、おまじないだったのかあ、うん合点です。

 近頃、風除室の変なところにカマキリの卵の付いた小枝があるなあ、とわたしもいささか疑問に思っていたのです。

 この前の日曜日でした。雪に備え、すぐ伸び放題になる主によく似た性格のビラカンサスの枝を、家人といっしょに剪定しました。切り落とした高いところの杖にカマキリの卵がありまして、たしかそんな話題にはなりました。

「おやおやずいぶん高い位置にあったねえ。かまきりの降雪予報は外れるとよいけれどね。」

「ほんとね。そういえばよくお天気ニュースに取り上げられていた、そのカマキリの卵の位置で毎年の降雪予想をする、何とかサンね、もう高齢で引退なさるんですって。このあいだのテレビのローカル・ニュースで話題に出ていたわ。」

「高齢引退宣言ってのもおもしろいね。もう野外に出歩き、植物を見て歩くのもおっくうになったお年ってことなんだろうかな?」

「そうなんでしょうね。さすがにその道の後継者もいないらしいし。うふふ。」

 こどものころも雪の記憶は楽しいのは少ないです。よく考えてみれば雪そのものより、クリスマスとか年取の晩とかお年玉とかどんど焼きとか冬の行事が、わたしには楽しかったんですな。もちろん横遊びとか、かまくらつくりとか、こどもらしく遊びはしましたけどねえ。

 高橋留美子の漫画の某登場人物ふうの「暗いよ、狭いよ、怖いよ。」にならえば(すみません、ごく一部の方しか理解不能な比喩ですが)

「寒いよ、濡れるよ、冷たいよ」は嫌いなんです。

 雪下ろしとか雪掘りとか雪踏み…これは「道つけ」と呼び習わしていましたが…とか、現在にいたるまで綿綿と雪国の幸い冬の体験が続いております。

「今年の冬はこの苦労は少ないとよいなあ。」と初冬になると毎年思います。

「スキーが楽しい? 雪が少ないとスキーができない? そんなに好きなら、毎日この灰色の空のしたで暮らしてみれば。」

 先日わたしが行って展示に感心した県立歴史博物館はその雪国長岡の郊外にあります。「サンバチ豪雪」と呼ばれ、大雪で交通が途絶え、新潟県は陸の孤島化、自衛隊の緊急物資輸送を受けた昭和38年。その頃の豪雪の雪下ろしシーンが大パノラマに再現されております。これはよくできていて、感動ものです。足元の電柱の電線を踏まぬように二階から家に出入りしたものでした。

 また雪国の雁木の下の雑貨屋や下駄屋に「いちもんみせ」(駄菓子・おもちゃ屋)も展示してあります。その店の畳の暗がりに寝転んで、目を閉じ、しばし子ども時代に戻っておりました。

 大雪のかの日のことの埋もれずに

 

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