長岡市医師会たより No.263 2002.2

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もくじ
 表紙絵 「春を待つ(安曇野)」   丸岡  稔(丸岡医院)
 「谷口昇先生を偲んで」       荒井 奥弘(社会保険長岡健康管理センター)
 「谷口昇先生を偲んで」       関根 光雄(関根整形外科医院)
 「北海道で迎えた新年」       吉田 鐵郎(吉田病院)
 「ボウリング漬けの一年」      窪田  久(窪田医院)
 「新年ボウリング大会優勝記」    高木 正人(高木内科クリニック)
 「囲碁準優勝でした」        斎藤 古志(さいとう医院)
 「新年麻雀大会優勝記」       児玉 伸子(こしじ医院)※三島郡医師会
 「春の雪の消え方」         郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

春を待つ(安曇野)  丸岡 稔(丸岡医院)
谷口 昇先生を偲んで  荒井 奥弘(社会保険長岡健康管理センター)  

 1月13日日曜日の夕方、日赤の職員と知人のタクシー運転手から谷口先生が亡くなられたとの連絡が相次いで入りました。病気で休まれたことは殆どなく、元気なお姿を拝見していたのでびっくりしました。

 谷口先生とのお付き合いは、昭和33年1月、私が日赤病院へ赴任して以来44年問になります。私の義兄は小児科医で日赤へ出張したことがありますが、谷口先生の印象を「英国型の紳士」と評しておりました。私も永いお付き合いですが何時もそのように思っておりました。

 日赤同窓の会会長として、毎回議長の役を務め会をまとめてこられました。先生はお酒を好まれビールは殆ど召し上がりません。90歳過ぎても酒量は衰えずおつぎすると必ず受けて下さいました。しかし先生が酔った様子を見たことはなく、やはり酒席でも紳士だったのです。

 先生は麻布中学・第一高校・東京帝大という名門のご卒業で呉内科から昭和15年2月、2〜3年の予定で長岡日赤へ派遣されたとのことです。しかし翌年11月軍医に召集され(ご出身が小倉のため久留米陸軍病院)18年6月にはパラオからニューギニアへ転戦、終戦まで飢餓と過酷な環境の中で苦闘され、九死に一生を得て21年2月帰国されました。このニューギニアでのご経験がその後の人生の支柱になつていたのではないかと推測いたします。

 東大の呉教授が既に亡くなられたこともあり、大学へ復帰することを諦め長岡で活動なさることになり、日赤関原診療所で21年6月から23年10月まで分院の形で診療されました。先生は自転車に乗れないので雲出、鳥越、大横まで歩いて往診されたとの事で、これもニューギニアで鍛えたのが役立ったのでしょうか。

 昭和26年5月多々見院長の後任として二代目の日赤院長に就任し戦災で荒廃した病院の復興に尽力されました。私が赴任した33年の6月に本館屋上に3階部分を増築し、154床が増えスタッフも増加し充実してきました。谷口先生が最も張切って居られた頃で、病院の経営に診療に活躍されました。しかしこの頃から労働運動が激しくなり、先生は日頃から一にも二にも職員の和を説いてこられましたが、団体交渉に外部から入って来て、無理難題を云って掻き回す輩に嫌気が差し36年12月に院長を辞められました。私は先生の意気盛んな時に4年間ご一緒し、診療だけでなく人生観についてもいろいろご薫陶を受け感謝しております。

 先生の趣味は戦前から麻雀連盟の有段者との事で、長岡の名士の問では有名でした。お手合わせをしたことがないので詳しいことは分かりませんが、相手をした人の話では、マナー重視でお殿様麻雀だとのことであります。

 先生が最も熱心だったのはゴルフで、坂井藤吉・林啓介・星野孝男の三先生に誘われてお仲間入りされ、この四人の医師グループは長岡カントリークラブの名物でありました。昭和57年10月星野先生が急逝されてからは、四天王から御三家となりましたが、平成2年4月林先生を失いその楽しみもなくなり、代りに毎日6〜8キロ歩いておられました。恐らくニューギニアでの苦労と関原診療所時代の往診を思い起しながら歩いて居られたのでしょう。

 先生は「ぽん・じゆ〜る」の140号(平3・11)から195号(平8・6)まで「思い出に残る外国の旅」を寄稿され、欧州の大部分の各国とトルコでしたが、鮮明な写真とともに簡明な解説で、一度は行って見たいという気持を起させて下さいました。

 先生は94年の生涯のうち、62年(5年間は応召)を長岡で過されたわけですが、昭和15年雪の長岡に着いた時は穏に乗せられて驚かれたらしいのに、何時もプラス思考で乗り切られ、雪にも馴れ長岡にとけ込み長岡を愛して過されたのには感心させられます。その蔭には奥様のご助力が大きかったとは思いますが、先生のニューギニアでの苦労が精神的支えとなり、今日まで大勢の人たちと交友関係を保ってこられたものと思います。長い間先生のご教示を受けて参りました。本当に有難うございました。安らかにお休み下さい。

   合掌

 

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谷口 昇先生を偲んで  関根 光雄(関根整形外科医院)

 1月13日の夕方、休日で自宅でゴロゴロしていたら急に娘から「いま谷口先生のところに救急車が来て先生の救急マッサージをやっている。」と連絡あり、先生が発作を起されたのかな、もし入院されるようであれば明日でもお見舞に上るかなくらいに考えていたら、それから30分ほど経って日赤の金子院長が見え、「ただ今お隣の谷口先生が亡くなられましたのでお報せいたします。」とのこと。愕然とした。それこそ昨日までお姿が見えなくても患者の車がよく谷口医院の前に止まっており、結構働いていなさるんだなと漠然とお元気の御様子と拝察していた。

 翌日お宅へ伺い、御子息様達と御挨拶したあとお亡骸にお参りさせて頂いた。眠るが如くという表現があるが、将にそのお顔であった。

 御長男の克先生のお話では便秘症で数日ぶりの大量排便後のショックであろうとのことであった。

 数年前に心疾患で日赤に入院されたあと、数回軽いエピソードを起された。最初は床屋で、たまたま杉本先生が居られて迅速に処理。あとの2回はいずれもロータリーの席上で、この時は何人かドクターが居り、私が付添って救急車で日赤までお届けしたがいずれもすぐお元気になられ、以後は寒い時期には外出は控えておられたようである。

 先生の有名な御趣味は散歩で、若い頃は毎日悠久山まで歩かれたそうであるが、十数年前よりは長岡大橋まで、ここ数年は夕方お仕事のあと附近をまわっておられた。

 歩く姿勢も立派なもので背筋をシャンと伸ばし、比較的早足で理想的な歩行スタイルであった。最近は多少猫背になられたがそれでも日課にして歩いていられたのにはただただ感服するのみである。

 ゴルフもお好きであったがコンビの林、坂井両先生が亡くなられて自然と止められたようである。

 またひと頃は毎夏二週間ほど奥様とパリに出かけられた。「なんでそんなにパリばかりですか。」とお訊きしたことがある。「あのなキミ、一回くらい行ってその町が分る筈がないよ。表通りでなく次々と裏通りとか小路小路を入っていかなくては本当にその町を理解したことにならないよ。」なるほどと思わされた。5〜6回は行かれたと思うが、最後に留守中泥棒に入られて中止された。

 宴会やロータリーの会の帰りに御一緒することが多く、いろいろ御高説を拝聴したが、特に印象に残ったのは「自分は非常に幸運に恵まれている。酒も旨いし強いし、余り病気もしないし、健康で働いていられるのは運が強い証拠だ。まあ次に行くのはアッチさ。」と指を天に向けられた。

 その強いお酒も昨年頃よりメッキリ弱くなられた。西部班の忘年会でも、1月8日のロータリーの新年会でも、もともとお好きなだけにお酌はしっかりと受け、顔色も変らずお話もまっとうであったが、帰途は歩行不能となり傍らから支えられて漸く自宅に戻られた。

 この度改めて平成8年発刊の先生の著書「サゴ椰子」を読み返し、その凄絶な生きざまとよく生き残れたものと深い感銘を覚えた。

 それにしても先生の温厚なお人柄と、決して大声は出さないが、よくとおる博識あるお話ぶりは私ばかりでなく多くの人達が尊敬の念をもっていたものと思われる。私はよそでは自分のことのように自慢のタネにしていた。

 やはり亡くなられたが、東大解剖の養老名誉教授の御母堂が96、7才頃まで現役で診療されていた記事を何かでみた記憶があるが、それに次ぐくらいでなかろうか。

 先生に劣らずしっかりした奥様が今後とも気落ちすることなくお元気でおられることを祈るとともに御子息の千葉大教授の克先生の「医者は自分の専門とする疾患で死ぬといわれるが、父は将にそのとおりの死に方でした。」と述べておられたことを御紹介して、ありし日の先生を侭びつつ追悼文とする。

   合掌

 

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北海道で迎えた新年  吉田 鐵郎(吉田病院)

 今年はお正月北海道へ行かない? 昨年12月初旬突然家内が提案した。さては沢山のおせち料理を一人で造るのに飽きて、逃げ出す気だなと推察したが、何で厳冬の北海道なんだ? 沖縄の方がいいよと私は主張したのだが結局家内に押し切られ、重装備の防寒外套、絶対スリップしないと言う毛革の靴、ソ満国境警備隊がかぶっていた耳から頬迄掩う毛皮の帽子に身を固め、平成13年12月30日夜7時上野発の寝台急行カシオペアに乗り込んだ。同行12組いずれも60歳以上の御夫妻で添乗員を入れて25名。列車は東北本線を一路北上する。音に聞こえた青函トンネルも体験したいと、やや狭い個室で家内と頑張っていたが、夕食が届いてその後外はまっ暗闇、テレビもよく映らない。仙台、一ノ関、そこ迄で私は意識を失った。翌朝目醒めると白凱々たる大雪原である。

 室蘭だ。昭和30年中田脳外科の2年生(勿論ネーベン)だった私の患者、室蘭から14〜15才の少年が脳腫瘍で入院し、幸い治って帰り、4〜5年は手紙を貰った。あの子は生きているだろうか? お母さんが必死になって看病してたなあ等と昔の感慨にふけっているうちに、はや札幌、札幌終点でーす。

 下車すると大型バスとガイドさんが待っていた。林檎のように赤い頬っぺの可愛子ちゃんでとても素敵である。運転手さんは老練、慎重な運転でアイスバーンのカーブをフィギアスケートの選手のように運転してくれる。

 車は南へ向い支笏湖、ここからの恵庭岳の山頂が神々しく美しい。それから白老を通ったが既にアイヌ部落は消滅して無く、記念館だけが淋しく立っていた。

 黄昏せまる頃日指すは定山渓温泉、この温泉は硫黄泉で、壮大な広さで湯量豊富で素晴らしいが、小生には一寸熱すぎた。露天風呂も広々としていて、赤みを帯びた満月が皓々と照らしており実に爽快である。「この調子だと明日の元日は初日の出がおがめるから希望者は6時迄に起きて下さい。」と云われたが小生は間にあわなかった。矢張り北海道の冬はしばれる、厳しい寒さだ。戸外では口がこわばって開きにくくなり、イとエの区別がつけにくい。

 真冬の北海道ならホテルはすいていると言う愚妻の予想はまんまとはずれ、ホテルは超大入り満員だった。

 1月1日は朝10時出発、更に南へ下って洞爺湖、羊蹄山、登別温泉、ホテルは洞爺湖の全景を見はるかす大食堂あり、おせち料理ではなくカニばかり矢鱈と出て来たが、北海道は何でも皆どはずれて大きくうまい。

 湖畔で鴎と烏の大群が大空中戦を演じており鴎群が勝って烏は皆鴎の入れない薮の中へ逃げこんでしまった。これは長岡で数千羽の烏の糞害に悩まされている私には痛快であった。

 登別で湖畔めぐりをやり有珠山(昭和新山)の偉容に接した時は思わず息をのんだ。

 すさまじいすごい景観である。もうもうと巨大な白煙を八合目位から吹き出し、更にその上に100米位の大岩壁、ユングフラウの頂上を見ているようなせり出して今にも私達の頭上へのしかかって落ちて来るような絶壁である。高さ約900米。

 この山は昭和19年に平地が突然大爆発して熔岩を吹き出し、忽ちのうちに400米の山が出来たのが始まりで、年々生長したのだと云う。

 ここには私共家族は昭和46年長男小学5年、次男3年生の時、夏休みに来たことがある。その頃は500米位の丘で子供と私はかなり上迄登った。

 それがどうだ今は堂々たる大活火山である。とても登るどころか近づくのも恐しい。

 下から写真をワイドで何枚も撮ったが、全容が入り切れない。

 この峨々たる山頂、裾を長く引いて拡がる山容を見て、30年の問にこいつもここ迄成長したなあ、自然の力の偉大さに深い感動を覚えた。これを見ただけで寒い北海道へ来た甲斐があったと思った。

 丸岡稔先生なら沢山絵が出来るのになあと残念だった。

 帰りは又札幌へ、道路の両側の森林を注意して見ていると、鹿や狐がチラツと姿を見せてくれる。熊も必ずいるんだがとガイドさんは云うが、之は確認出来なかった。

 飛行機は、一万米上空マイナス41℃を飛んで無事羽田についた。三泊四日不思議に晴天。

 

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ボウリング漬けの一年  窪田 久(窪田医院)

 平成13年12月25日、メディカルボウリングクラブの納会で、各賞の発表がありました。年間獲得ポイント、ベストスコア回数、ハイゲーム回数でいずれも私が一位となることができました。この成績が運か素質か練習かと問われたら、迷わず練習と答えたいと思います。なぜなら私の昨年は本当にボウリング漬けの一年だったからです。

 ご存知の方も多いとは思いますが、メディカルボウリングクラブの月例会は毎月第二月曜日、柏町のアルピコボウルで7時から4ゲームのハンディキャップ戦で行われています。各月の優勝が6点、2位が5点、3位が4点、4位が3点、5位が2点、6位以下が1点で、年間の合計点数で優勝者が決まります。参加人数は平成13年には19名で、以前に比べて、若い先生方の参加が増えてきています。ハンディキャップは制限なしで、誰にでも優勝のチャンスがありますので少しでも興味のある方は医師会までお電話下さい。

 そもそも、私とボウリングとの出会いは小学校高学年から中学生時代で、父に連れられよくでかけました。テレビでは須田開代子、中山律子、並木恵美子らの女子プロポーラーが引っ張り凧で、ボウリングのレギュラー番組もかなりの数がありました。長岡でもボウリング場が乱立し、早朝ボウリング割引などもあり、ものすごいボウリングブームでした。父は丁度今の私と同じくらいの年齢で、開業医の仕事にもなれてきたころで、マイボール、マイシューズを持ち、ボウリングに夢中になっていました。メディカルボウリングの月例会以外にも三上先生、鳥羽先生、亡くなられた鈴木宗先生などの方々とのプラク会でボウリングの月例会を行っており、実家にはボウリングのトロフィーがたくさんならんでいます。中学高校時代には月に一回か二回は父にボウリングに連れて行ってもらったのですが、淡々と投げているだけで、あまり、投げ方を教わった記憶がありません。父の書斎の本棚にあるハリー木暮著のボウリング上達法という本を読み、フックボールの投げ方、スペアのとり方などを覚えました。おそらく当時のアベレージは150から160くらいだったのではないかと思います。大学にはいって以後は、年に1回か2回程度で、たまにしかやっていませんでした。

 メディカルボウリングには明石先生からのお誘いで、平成11年から参加させていただいておりますが、昨年1月まではほとんど月1回の月例会で投げるのみで、ほとんど練習をしていませんでした。練習をよくするようになったのは平成13年2月にマイボールを購入してからで、2月3月は約30ゲーム、4月から6月は約50ゲーム、7月8月は70ゲーム、9月からは100ゲーム以上とまさにエスカレートしていきました。こんなに多くなげていると右手の親指にはタコができ、太くなるため、紙やすりで削り、親指の太さを調節します。なぜなら、回転の強いボールほど、ストライクがでやすいのですが、親指がスッと抜けないとボールがうまく回転しないからです。これだけボウリング場に入りびたっていると常連の方々と顔なじみになり、大会にでたらどうかとしきりに誘われるようになり、8月からは月に4回以上、アルピコボウルの公式大会にでるようになりました。公式大会での私のアベレージは185前後ですが、まだまだ上にはたくさんの人が名を連ねており、アベ200以上の人も10人前後います。今年は月間アベ190を目標に頑張りたいと思います。また、機会があれば、メディカルの県大会や全国大会にも参加してみたいと思っています。

 ボウリングは一気に10本のピンがはじけ飛ぶストライクの瞬間がなんと言っても快感で、ストレス発散にもってこいのスポーツだと思います。また、初心者でもストライクがだせ、子供や女性や老人でも練習さえすればよいスコアがだせるようになる、とっつきやすいスポーツです。しかし、アベ180あたりに大きな壁があります。それはストライクを続けないとそれ以上スコアが伸びないからです。ストライクを続けるためにはコントロールだけでなく、回転の強い破壊力のあるボールが必要となります。そこで、今まで投げてきた投げ方を変えるとまた、ボールのコントロールが悪くなったりすることもあります。また、ボウリングのレーンにはオイルが塗ってあるのですが、オイルの状態によってボールの曲がり方が大きく変化するため、レーンコンディションの読みも大切な要素となつてきます。初心者でも楽しい、また、なかなか奥の深いボウリングというスポーツに皆さんもどっぶりつかってみませんか。

 

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新年ボウリング大会優勝記  高木 正人(高木内科クリニック)

 2年前の1月、ボウリング代無料にひかれて、ボウリングが得意でもなく、好きでもないのに運動不足の解消にと思い、「医師会新年ボウリング大会」に参加してしまいました。それまでは、ボウリングは年に1回するかどうかで、ましてや「メディカルボウリングクラブ」が存在することすら知りませんでした。

 当然、平成12年1月のデビュウ戦の成績は惨憤たるもので、4ゲーム投げてアベレージが101ピンしかなく、自分のあまりの下手さに愕然となるとともに、医師会員のレベルの高さには驚かされました。また、アメリカン方式という1フレームごとにレーンを変える試合方式を初めて知りました。おかげでハンディは368という天文学的な数を頂きました。私は今でもハンディの計算はできませんが、ちなみに一番上手な医師会員の今年のハンディはなんと78でした。ゴルフのハンディとは、その数の大きさが比較になりません。ただ、ゴルフと違い、どんなに下手でも1フレームにボウルを2回投げていれば、点数は少ないけれど誰にも迷惑をかけずにプレーが終わってしまうことは気が楽です。

 そこで、その後は月に1回くらい5歳の長男を連れて、当然ガータを埋めてもらって練習を行ない、上手になったつもりでいました。幸い自己流の投げ方でも、徐々にスコアは良くなつてきましたので。

 ところが、ある日、NHKの「ためしてガッテン」でボウリングの投げ方の特集をしていたため、それを真似て投げたところ、全く不調になり、スコアは悪化の一途をたどってしまいました。なんとかしなくてはと考えていたところ、「マイボウルを作るとスコアが良くなる」と以前より先生方に勧められていたため、思いきって作ることにしました。

 さらに、知人に勧められて、どうせ作るなら長岡ではなく、有名な品川ボウリングセンターまで行き、長岡では手に入らないような立派なマイボウルを作りましょうということになりました。あれは忘れもしない平成13年6月9日、研究会で上京した折りに会場を抜け出して、品川ボウリングセンターで最高級の3点セット(ボウル、シュウズ、バック)を購入しました。さすがに本場だけあり、わずか20分間でマイボウルができてしまいました。それもフックボウルが投げやすいように、難しいフィンガーグリップにしてしまいました。その足ですぐに2ゲームを投げたところ、知人にはフォームも良くなったとおだてられ、うきうき状態で帰ってきました。

 しかし、2日後のメディカルボウリングの6月例会ではどん底の成績でした。さらに追い討ちをかけるように、最近マイボウルを長岡で作られた先生のボウルと、わざわざ品川まで行って作ってきた自信作の私のマイボウルとが、全く同じ種類と色でした。バッグも長岡に同じ物が沢山売っていました。

 そんな絶望の中でも、諸先生方から励ましとアドバイスを頂き、とても助かりました。平成13年10月までは投げるとボウルはストレートか、フックするどころかスライスボウルになってしまい、悶々とした日々を送っていました。しかし11月例会の前日に「ためしてガッテン」の投げ方をもう一度試してみようとふと思いつき、本番で行なったところ、なんとボウルが初めてフックしたのでした。これで私も中級者と思いきや、ボウリングはあまくはありませんでした。ボウルがフックしたらしたで、曲がったように狙わなければならなくなったのでした。ボウリングは奥が深い。

 平成14年新年ボウリング大会は柏町のアルピコボウルで1月15日開催されました。第1ゲームからストライク、スペア、ストライク、スペアと好調な出だしで、私にとっては夢のようで、途中で崩れるのが怖いくらいでした。さらに一緒にプレーをした先生方に誉められ、その気になり、最後まで好調でした。4ゲーム投げてアベレージが151ピンは、私にとってはでき過ぎでした。これにメディカルボウリング最高ハンディの265(これでも2年前より120減少) が加わり優勝できました。

 こんなにど下手な私でも、暖かく迎えてくださるメディカルボウリングクラブは心のオアシスです。毎月第2月曜日は朝からうきうきしています。雨やムロ風、そして吹雪でもできるメディカルボウリングに、みなさんも是非参加してみませんか。

 

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囲碁準優勝でした  斎藤 古志(さいとう医院)

 この度、準優勝者が投稿するという珍しい事態になりました。ある先生から「悪口だけは書くなよ」 と釘を刺され、ビクっとしました。

 十数年前、本誌に仲間を愉快に紹介したのがどうも不評だったらしく深く反省しています。とすると話題のネタの求めように困ります。

 あの頃盛況だった中越囲碁会は、会員諸氏の高齢化のためか、幹事陣の力量不足のためか、残念にも無期休会(おしまいということ)になってしまいました。

 その後は有志だけで毎月1回集まってプロ棋士の指導を受けています。自分の息子よりずっと若い棋士から教わっていますが、終ったあとの飲み会の方がずい分盛り上がります。指導を受けるとプロの頭の中は一体どうなっているのかと感心することがよくありますが、プロから見れば何と頭の悪い人だろうと不思議なのでしょうね。

 数日前の読売新聞囲碁欄に、NHK大河ドラマ「利家とまつ」の囲碁対局シーン収録のために碁石の打ち方を特訓した話が紹介してありました。囲碁を知らない俳優さんたちがパチリと音を出して形良く打つ練習を繰り返したにもかかわらず本番ではついに音が出ずじまいだったそうです。

 ふだん何げなく石を持っているのですが案外難しい技術だったのですね。そう言えばプロ棋士たちの対局姿は実に堂に入ってピッタリ決まっています。手つきは言うまでもなく全体に醸し出す何かが私たち素人とはまるでちがうのです。一般に石は人差指の爪と中指で挟んで持ち、盤に接する寸前に人差指をはなして中指だけで打ちます。音の強弱はあまり関係ありませんが、高段になる程その手つきが自然で流れるような動作になる傾向があるようです。ということは、初対面の人と打つ時はその手つきから、その実力がある程度予測できるかもしれないことになります。ところが例外がありました。故太田茂先生は人差指と親指で石をつまみ、人差指の先でペチャリと打たれましたが、当医師会ではNo.1の実力者でした。

 あるプロ棋士の話では、盤を間に対座しただけで私たち素人の実力がわかってしまうとか。いやですね。

 上達の見込みがなくなった身としては、せめて石の持ち方を練習して相手を少しでも威嚇することを研究してみようかな。

 冗談はともかく、毎月仲間と顔をあわせて楽しい夜を過す会がいつまでも続くよう大切にしたいと思います。欲を言えばあと何人か仲間が増えると良いのですが。

 

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新年麻雀大会優勝記  児玉 伸子(こしじ医院)※三島郡医師会

 2月2日の土曜日午後2時より、雀荘「しらかば」にて、医師会恒例の新春麻雀大会が開かれました。いつもの常連の先生方に、新たに参加された先生方を加え、今回は4卓に分かれることができました。医師会恒例のローカルルールは、「やきとり」はもちろん「トップ賞」もなしと、健全麻雀です。それぞれ相手(面子)を替えて1時間づつの2ゲームにて、合計点を競いました。役満常連の高橋先生を含めてどなたの役満もなく、比較的和やかな会でした。

 かつて麻雀は、学生さんの屋内娯楽の中心でしたが、近頃ではテレビゲームにすっかり押されているようです。ゲームのプレイステーションでは知っているけれど、本物は知らない人も増えているそうです。子供のころから家庭麻雀をたのしんでいる私にとっては残念なことです。

 4人でワイワイガヤガヤ行うことが、麻雀の最高の面白味ではないでしょうか。ですから私の実家では、今でも麻雀のおかげで何とか家族間の会話が成り立っています。ゲームのなかでは、自分の手に夢中になったり、形勢に応じて途中でおりたりと、様々な状況をたのしめます。相手と向き合う対局と異なり、4人で行うゲームゆえのたのしみではないでしょうか。

 もう一つの面白みは、「その時の運」が、けっこう大切なことです。実力で勝負する囲碁や将棋と違って、運任せの意外性が適当に混在しています。おかげさまで、三島郡から娯楽部門専門に参加させていただいている私(児玉伸子)が優勝させていただきました。初出場の2年前は限りなくビりに近い成績でがっかりしていた私ですが、新春早々の幸運に恵まれました。

 携帯電話をかけながらも「リーチ」ができる富所先生、今回の幹事役ありがとうございました。昨年優勝し、めでたく幹事を解放されたはずの鈴木先生、ルールの説明やメンバー配分への気配りと相変わらずご苦労様でした。

 優勝の賞品に付いてきた原稿用紙の重さに、今ごろになってため息をついています。対戟中は自分のことで精一杯でしたので、報告記がとっても簡単なものになってしまいましたこと、お許し下さい。そして、昔々麻雀を楽しまれていた会員の方々も、来年はメンバーとして参加し、是非原稿用紙をお持ち帰り下さい。

 

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春の雪の消え方  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 2月の連休前の前夜のことです。夜8時過ぎに帰宅すると、暗い中をご近所をライトを待った人々があちこちに出ています。

「ただいま。外でぞろぞろとなんかしてるけど、どうしたの?」

「この前の消雪井戸の掘削工事がやっと終って、さっきから消雪パイプの水が試運転で出始めたの。水の出の悪い場所の砂出しをしたり調整中なのよ。」とうれしそうな家人。

「村に初めて電気がついた日みたいな騒ぎだと思った。そうか、寒明けになつてやっと完成しましたか。」

「でも天気予報では、明日から一週間は強い冬型気候に戻り、日本海側は大雪が続くそうよ。」

 翌朝から寒が戻り、連日の雪となりました。犬の散歩に出ても、御近所の朝の挨拶は消雪の水のことばかりです。

「よかったスね。」「こうでなきやね。」「しかし今度こそ水は枯れないんでしょうな。」

「今度の会社は175メートルも掘削してくれて、水量の計算のデータもちゃんと渡したそうです。」

 「安心ですな。」

 じつは数年前に、町の住民が話し合い消雪道路工事のための会を結成しました。「五九雪会」なる名称です。これは町内会の五班と九班にあたる地域の活動なのと「克雪会」との酒落で、いつもユーモアとボランティア精神溢れる会長Iさんの発案なのでした。

 工事完成の試験運転では道路に水が一斉に出たが、冬本番では水の出なくなった地域が約半分でした。原因は井戸の水量不足、砂が配管に詰まるとか。翌年に追加の井戸を同じ業者が掘り、水が出ぬまま惨敗。業者は「水の出る出ないの結果は運次第で責任は終えた。」との主張。そんな理屈がまだ通用する業界らしいですな。ほう、うらやましい。(…いや、なにひとりごとです。)

 3年目の昨年、ついに水が出ない区域の住民を中心に堪忍袋の緒を切る決起集会。分担金を払いながら水が出ぬ区域の、わたくしども夫婦も出席し、苦言を呈しました。

「太り気味のわたしは運動だと思いまして、毎朝一時間、雪掻きをしております。ただ人間いつまでも雪掻きはできませんし、すでにご高齢の家族もあります。ぜひとも当初の設置工事の趣意に沿って、追加の再工事をお願いしたいものです。」

 他の地区のかたも、心根のよい発言ばかりで、実に感動しました。

「自分がいいから終りと言うわけにはいかない。」

「不公平を見過ごすわけにはいかん。」

「みんなで追加負担するのもやむをえぬ。」

 そんないきさつの消雪用の井戸掘削の追加工事でした。業者も別でお願いしました。年末に工事開始、途中に岩盤があり、やり直し。ついに完成は2月にもつれ込みました。当然1月には積雪があり、除雪車が自宅前に積みあげてゆく圧雪を片付ける雪掻き作業の毎朝でした。

 家人といくども窓辺に立ち、消雪パイプからの水の出のよさと雪の消え具合を確かめて見ます。

「どう?水は止ってない?」

「うん。雪はどんどん消えてる。」

「ありがたいわね。」

 歳時記には「春の雪」は軽くてすぐに消え積もらぬなどとあるが、むろん雪国では違います。越後では2月の立春のあとでも、雪がどさどさ降れば、消えずにさらに根雪の仲間入りをするのであります。

 今年の我家の春の雪はすぐに消えましょう。道路限定ですが。

 思ひ遣る心に溶けて春の雪

 

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