長岡市医師会たより No.267 2002.6
このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。
表紙絵 「梅雨の晴れ間」 丸岡 稔(丸岡医院) 「立川晴一先生を偲ぶ」 板倉 亨通(北長岡診療所) 「立川晴一先生を偲んで」 春谷 重孝(立川綜合病院) 「屋上に造った庭」 吉田 鐵郎(吉田病院) 「「江部」考」 江部 克也(長岡赤十字病院) 「山と温泉48〜その33」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所) 「蛇に咬まれる」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
立川晴一先生を偲ぶ 板倉 亨通(北長岡診療所)
立川先生の訃報を知り寂しさと空しさの感に打たれると共に初めてお目にかかって以来の記憶が昨日のように蘇って来ました。私が立川病院という名前を知ったのは悠久荘の内科医長に就任中の頃の事でした。進歩的な設計である円形病院は長岡雀の話題になったものでした。そのうち拠点闘争という労働争議が起った事を知り、その時代を象徴する歴史的事実となった事を後で知りました。この社会的難問題を見事に乗り切られ今日の巨大な立川綜合病院とその関連施設を築かれました。私は昭和40年に縁あって先生のもとに約1年、御世話になりました。この間、世間知らずの私にとっては驚くばかりのお話や体験談を事ある毎にお話になり、その後の私の考え方や視点に強い影響を受けた事を記憶しています。殆んどの時は酒席でしたが豪快な中に繊細な心使いをされ病院について夢と理想をお話になり我々を楽しませて頂きました。保険診療の厳しい時代に将来は診療と研究が出来る病院像を考えておられました。その後小生が開業させて頂いてからは先生が志しておられた理想の病院の実現の様子を遠くから拝見しながら学ばせて頂きました。立川病院の発展の経過を見るとそれは立川晴一先生個人の努力と自己変革の歴史であり、視点の高さと角度により病院や組織というものが、かくも違って来るものか感嘆しております。特に母校東京医大の新築時代を含めた理事のお仕事を手がけられてからは、今後の医学の趨勢を完全に視野にいれられて御自身の理想の大半を形作られました。先生は手始めに、当時、中越を含めた長岡地区で最も潜在需要のあった心臓手術を中心とした循環器センターを内科、外科ともに診療内容の充実を図られ、その方面の業績集の発表も高度のものと拝察しております。また新潟県では大学に先んじてPETの導入を実施に移され近々中に診療が開始されると聞いております。PETについて私が経験した症例は当診療所から中央病院に紹介し、手術して頂いた肺癌患者が肺癌の摘出に成功し、翌年第一回の肝転移の手術をクリアーし翌々年の第二回目の肝転移は某所のPETが爪の先程の小さな肝転移を発見し、同じく中央病院で摘出され救命が完成し、患者は今、元気で活躍しているとのことです。PETで指摘されて初めて超音波やCTやMRIで漸く其の存在に確信が持てる威力は期して待つべきものがあります。また寝たきり患者と一纏めに纏められている患者の中にも少なくとも在宅自立出来る人は50%はいると思っていますが、脳血流の復活が可能か否か等予測出来るようになれば極めて診療範囲は大きくなり大きなお仕事になるでしょう。PETの潜在需要は循環器科の設立需要より遥かに大きく、県民は待ち望んでいます。今、先生は亡くなられましたが、その志と成果は衰えること無く生き続け、生まれ続けていく事でしょう。先生の御冥福を祈りつつ摘筆させて頂きます。
合掌
後記
時移り世変わって一寸、言葉の解説が必要な向きもおられる気がしてきましたので蛇足を付けました。
「拠点闘争」とは労働組合の威力を示す事を目的に立川病院のように開業早々の事業や弱小の経営者を狙って集中的にゼネストを長期無期限に行い、応援は地域労組全部がカンパ等で応援し労働組合に有利な条件を引き出すか、会社を倒産させてしまった例もあり、労使協調路線とは程遠い戦略で一時流行した時代がありました。この戦術は当事者の場合は労使双方とも得ることは何も無く失うものは極めて甚大であり今は全く顧られなくなった戦術のようですが、その当時は数箇所で実行されたようです。闘争理論の当否は別にして犠牲となった立川病院の損害は計り知れない程大きく、現在の立川病院の発展は客観的に見れば奇跡的とも言える成功かと思います。その当時は医師不足のほかX線技師、衛生検査技師、看護師も全国的に不足し「最早戦後ではない」という名文旬も今から考えれば感慨深い気がする時代でした。この様な社会的矛盾や、医療体制の内部矛盾を抱えた世相を克服しながら初志を貫かれたことは、尊敬の念を禁じえません。
目次に戻る
5月4日午後ゴールデンウィークの最中、盛岡へ向う東北自動車道で携帯電話に立川先生がお亡くなりになられたとの連絡がありました。仲間と東北旅行中で、すぐに帰りたいと思いましたが、御家族だけの密葬とお聞きしていましたので、旅行を続けることにしました。その夜は盛岡の居酒屋で夜遅くまでどぶろくを飲みながら一緒に御冥福をお祈りいたしました。翌朝どうしても旅行を続ける気にはならなくて、一人で帰って来ました。
私は昭和56年長岡市神田町に新設された立川綜合病院に赴任して来ました。開院前日先生が病院を案内して下さいました。手術室をまわっていた時に「いいか春谷君、病院は患者さんのためにあるんだぞ。このことを忘れるな。」と、この単純なあたりまえの言葉がいまでも耳にやきついております。
私は幸いにも2回先生と海外旅行にお伴させていただきました。私の初めての海外旅行であるイタリアでは、病院での仕事に厳しい、恐い先生とは違って、誠に人情味のあふれた、優しい先生で、私を我が子のように接して下さいました。本当にありがとうございました。2回目のトルコ旅行では、イスタンブルーのボスボラス海峡やアヤソフィア等モスクを熱心にキャンバスに描いておられました。トルコ人のギャラリーも多く、画家としてのお姿が今でも目に浮んできます。毎晩スネークダンスを見ながらのトルコ料理は最高で良い思い出となっています。
病に倒れられる前までは、月一回私達と夕食を共にして下さいました。
その際は政治、経済、哲学の話をはじめ歴史、文学など極めて広い分野にわたりお話をして下さり大変勉強になりました。二次会でのカラオケでは堀内孝雄の歌がお好きで、今でも歌声が聞えて来そうです。
今日立川メディカルセンターとして開院以来躍進を続け、地域医療の大切な病院として認められるようになりました。これはひとえに先生の優れた先見性や指導力と人を引きつけずにはおられないお人柄によるものであります。病院創立の理念に従い、先生の理想の病院を目指して、職員一同ますます努力することをお誓いいたします。長い間本当にありがとうございました。安らかにお休み下さい。
合掌
私は中央綜合病院を退職して小さい外科の有床診療所を造ってから、4回建築を繰返し、その都度地上に庭のある家に住むことが出来なかった。私が開業した昭和40年頃の長岡のDoctorは皆立派な庭園を持っておられた。H先生、S先生、皆広大で本格的庭園である。
特に小児科のN先生は長町の角に診療所を構え、裏には蔵があり、診療所の右隣に広壮な邸宅があった。冠木門を入ると右へゆるく曲った砂利道があり、玄関の上り框を入って行くと座敷の北側は幅1間(2m)もある廊下がずーっと東西に走っており、床は木の厚さ10cm、面積2m×2m位の大きい板で、歩いてもギシとも云わない。その外には面積100坪以上はゆうにある庭園である。大きな池があり小川のせせらぎと石燈籠がある。
こんな庭でなくてもいい。小さな庭のある家に住みたいなあといつも考えていた。私は今迄、病院の5階を自宅にしたり、開業の時は古い家を買って、前半分を壊して後ろの部分を住宅にし、常に独立した家には住まなかった。
昭和62年に病棟を増築してからは、病院の裏手に自宅を造った。自宅の裏の駐車場へ行く2階建のコンクリートの床の上に、屋上の庭を造ろうと考え、庭師さんに頼んだところ一番下に水排けのよい材料を敷きこみ、その上に土を盛って一応庭らしくなって来た。
中央にごく小さい白い石をしきつめて乾いた池のようなものを造り、その東側に「五葉の松」と「リラ」と「白雲木」「もみじ」などを植え、松の下に1m×80cm×80cm位の青い石(上に水溜りのくぼみの出来た)を置き、竹で水をひいて常時ごく僅かな水を流した。その他、「藤」「つつじ」「さつき」「あじさい」「ぼたん」「みずなづき」「はなみづき」「金木犀」「萩」「山茶花」「まゆみ」等を次々と植え、東側と南側は手摺にそって「薔薇」と「つるばら」を植えたら一応庭らしくなった。
流れる水溜りを求めて小鳥(むくどり、雀、しじゆうから、きじ鳩)もやって来るようになった。
造園して2回土を追加して、ふくらみを持たせ、かちかちに踏みかためられるのを防いだ。私達夫婦が大切に植えた石楠花が1本は枯れ、残りの1本も小さくしぼんでしまった。
原因は不明だが鳥の翼に混ってやって来た椋梠、南天などの種が発芽してどんどん生長し、これらの生命力の強い外来種におされたためらしい。
春5〜6月の初めにかけて、我が屋上の庭は最も美しい時を迎える。蜂や蝶がやって来て、夏は雨蛙がどこから登って来るのかケロケロとないている。勿論、夏は蝉がかまびすしく泣き、ワンザがいたる処の木にくっついている。蟻も行列を作って何かを盛んに運んで働いている。夏から秋にかけてどこから来るのか色々の種類のトンボが姿を見せる。
造って15年目に入ると小さな庭は満員となり、わびもさびもないごった煮となってしまった。
これでは面白くないので、直径1m位のかめを2つ買って来て水を入れ、水蓮などの水草を入れてメダカを飼った。病院の待合室の水槽の魚達は朝8時30分になると、皆餌場へ集って来ているし、鯉を飼っている人のお話では、ボン、ボン、ボンと手を打ってから餌を与えるようにしたら、手を打っただけで集まって来ると云う。
我が家のメダカ共はそういう手には乗らない。私が餌係りでカメをコンコンコンとペルクッションしてから餌を与えているのだが、じーつと隠れていて餌がパーツと撒かれると1匹ずつどこからともなく忍者のように現われて、食べ乍らも決して油断していない。可愛げのない奴等である。1つのかめには3年飼った7匹がいて体長3.5cmもあって、腹ふくらんで妊娠9ケ月かと思う程だが、いつ迄たっても産卵しない。もう1つのかめのメダカは体長2.5cm位で10匹。どちらも私が少年時代に小川で追い廻したメダカとは全くイメージが違う。昔のはもっと小さくて細く、目を2つ光らせて敏捷であった。
昨年私と妻は瓢箪を植えて施肥に失敗したのか、小さいのしかとれなかったので、今年は胡瓜を3株植えた。これは目下上に向ってどんどん成長中で、既に4本収穫した。まだまだ沢山採れそうで今年は大成功で、採れたての胡瓜はうまい。来年は何を植えようか楽しみである。
新潟県人に「えべです」と名乗ると、「いべさんですね」と問い返されたり、東京の学会では「こうべ」先生と紹介されたりと、「江部」はあまり多くない苗字です。日本人の姓についての某統計では、その数は第4571位になるそうです。インターネットを用いて「江部」を検索しますと、全国で「江部」先生は15人ほどいます。
もちろん、長岡市医師会では「江部」と言えば、江部恒夫・江部達夫先生(最近は江部佑輔先生もですね)が有名です。私が長岡赤十字病院に来た当時は、江部達夫先生が呼吸器科におられ、区別するために、私は「えべかつ先生」とか「えべかっちゃん」と呼ばれていました。それでも、患者さんの診察予約や郵便物などでよく混同され閉口しました。
いまだに患者さんなどから、「昔から大先生にお世話になっています」とか、(スリムな体型からか?)「だんだんおじいちゃんに似てきましたね」とまで言われることがあります。御一族の長年の功労から、その血筋につながっていると思われるだけで、初対面から好印象を持っていただけることも多く、大変感謝しております。
ただ、地元長岡市医師会の先生の中にも、江部達夫先生の御子息であるとか、御親戚の一人であると誤解しておられる方が多いようですので、この場をお借りして、自己紹介させていただきます。
洋服商を営んでいた私の父は、5分も歩けば新津市という、新潟市で一番遅く電気が引かれたと新潟日報に紹介されたこともある、ちいさな集落で生まれております。ほとんどが小さな農家で、「江部」姓が10〜20軒集まっていますが、姻戚関係はなく、単に同じ姓が集中していたのだそうです。近くのお寺の住職さんもよく分からない、とのことですが、名古屋地方の足軽が逃げてきて住みついた……という言い伝えを子供の頃に聞いたことがあります。
一度往診先で江部恒夫先生とお会いする機会があり、この話をしたところ興味を示され、「新潟県には柏崎と六日町に「江部」姓が集まってみられる。自分たちは水原の方から長岡に出てきており、遠方から落ち延びてきた足軽が、集団で県内に定着していったと考えると、案外君の先祖と近いかもしれない。」とお話されていました。
つい最近、「江部」姓の若い医師(現第三内科・江部和人先生) が、大学病院から出張で当院に来ていました。サラリーマンをしているお父さんは、お互いに面識はなかったようですが、私の父と同じ集落出身であったそうです。
目頭に述べました、インターネットの検索では、山形・東京・大阪・山口などにも「江部」姓の先生がおられるようです。いずれお会いして、その出自を伺ってみたいものだと考えております。
最後に原稿本来の目的である、自己紹介を少々。
新潟大学を昭和58年に卒業し、同学第一内科に入局、循環器専門医として平成2年から長岡赤十字病院循環器科に勤務しております。循環器といえば、長岡地区には立川綜合病院がありますが、永井恒雄部長の指導のもとで、また違った切り口からの循環器疾患へのアプローチで、患者さんや医師会の諸先生方のお役に立てれば……と日々精進しております。御指導御鞭撻いただければ幸いです。
越後・信州秋山郷の温泉
越後秋山郷地籍・行政は、新潟県中魚沼郡津南町、信州秋山郷は、長野県下水内郡栄村。越後秋山郷は津南町中心部より、国道405号線に沿って、秋成・穴藤・結東・大赤沢(旧秋成村)迄が津南町の一部。大赤沢の南、中津川支流・硫黄川を境として長野県に入り栄村となり、小赤沢、屋敷、上ノ原、和山、切明迄。切明からの国道405号線は、山道・杣道となり、野反湖畔から再び国道405号の標識が現れる。
秋山郷を一つとして、温泉を紹介しましょう。
「新潟温泉風土記」に記載された此処秋山郷の温泉は次のようです。
穴藤・食塩泉 35度
逆巻・含芒硝重曹食塩泉 41度
結東・含芒硝石膏食塩泉 40度
以上、新潟県側
小赤沢・含鉄食塩泉 45度
屋敷・硫黄泉 54度
和山・含芒硝石膏食塩泉 59度
栃川高原・含芒硝石膏食塩泉 56度
切明・含芒硝石膏食塩泉 56度
以上、長野県側
この温泉群は、深い中津川渓谷を挟んで、急傾斜の山肌、狭い山裾の平坦地に、古い時代から湯を吹き上げているか、岩石の隙間から湧いていたか、ボーリングにより湯を得たものか。近年、ボーリングによるものが多い。温泉は(少なくとも25度以上で鉱泉ではない)地下の温度が高い事、水が在る事が必要条件(「新潟温泉風土記」)。従って解り易い話が、活火山の近くは、其の条件通りとなるわけです。苗場山も火山で条件を満たします。この地方の火山を挙げてみます。浅草岳−鬼ケ面、飯土山 (上田富士・南魚沼郡)、苗場山、鳥甲山、妙高山、焼山 (活火山)、白馬大池・風吹岳、毛無・焼額山、横手山、志賀山、高社山、斑尾山(「関東・甲信越の火山」)。三列の火山の帯に並んでいるのだそうです。これからみると、我々は燃えさかるストーブの上で暮らしているようなもので、「どんな所でも地下深く掘れば温度は上がる」(「新潟温泉風土記」)のだそうです。「百米深くなると何度上がるかを地下増温率(地温勾配)といい、東京では2.1度、新潟平野では3.0、中条では8.0。40度の温泉を出すには、東京では1900米、新潟では1300米、中条では500米掘ればよいことになる」と「温泉風土記」にあります。長岡周辺で掘削費用、一米壱万円で、一千万円、千米掘削、摂氏60度の温泉が出、現在も温泉旅館として営業している例がある。掘った大将は、もっと深く掘れば良かった、とホクホク顔で「いい湯ですぜ、浸りに来ませんか」と。田圃なかの温泉で、薄濁りの湯でした。苗場山山麓は当然ながら何処を掘っても温泉は出るのではないかと、山行の度にそう思っていたのです。湯の沢、硫黄川など地名、川名があり、岩魚の棲まない谷筋があるというのは、谷や沢に湯の漏出があるのではないか。以前、赤湯温泉から清津川本流の源流遡行の目的で本谷に入った事がある。渓流釣りが目的でないので見過ごしたかもしれないが、魚影は全く眼にしなかった。キャンプの魚料理夕食は出来なかった。帰ってから、山行報告を読み直すと、魚は影すら見当らない、とあった。矢張り、火山によるものだろう。とすれば、赤湯のように、川原を掘れば湯浴みが出来る筈、これも山行の楽しみの一つ。
(つづく)
註:穴藤温泉は、集落内で各家に入浴用として配湯、残りは融雪用で、一般にはおめにかかれない。
帰宅して車を降り、玄関の灯りに向かい歩き始めると、手前の暗がりに家人が立っておりました。
「おかえりなさい。たいへんなの。たった今、散歩中にグーちゃんがマムシに岐まれたの。腰が抜けたみたいになって、やっとここまで戻って来たんですって。」
暗くて遠目にはわかりませんでしたが、足元に大きな犬が座りこんで家人に寄りかかっています。
おやおや、町内随一の「愛想よし犬」Hさんちのゴールデン・レトリーバーの、グーではないですか。
「おお、グーちゃん、こんなとこにいたの? だいじょうぶでしゅか? と訊いてもさすがにグーの音も出ないか。」と声をかけて、頭を撫でてあげます。
「冗談言ってないでよ、こんな場合に。」と家人にたしなめられます。
近くの町田城跡公園で、紐を放して遊ばせていて草むらで暖まれたようです。ここまでなんとか歩かせて来て、我が家の呼び鈴を鳴らし、家人に「車を取りに行く問、犬を見ててくれ。」と言い置き、Hさんは家へ走ったのだそうです。H家は我が家から百メートルほどの距離で、こんな会話の間に早くも、Hさんの愛車ワゴンが我家の前に横づけになりました。Hさんと助手席から奥さんも降りたちます。
「奥さん、お世話さまでした。ああ先生もお帰りでしたかね。電話したら診てくれるそうだから、これから急いで獣医さんに行って来ます。」
「ちょつと待ってください。グーちゃんにお水持ってきてあげるわ。」
大きな大の体をHさんご夫妻が単に乗せるのを、わたしも手助けしました。水が届くと犬はピチャピチャと音を立てて飲みました。
「ああだいじょうぶそうですね。」
「グーちゃん、おだいじに。」
車に手を振り、ふたりで見送りました。
家人が「マムシの咬傷の対処はどんな処置?」とわたしに訊ねます
人間ならまずは点滴と薬剤ではセファランチンの注射ですか。もし入手可能ならマムシ特異抗血清の注射ですね。あとは念のための破傷風予防の抗体注射と抗生剤の投与くらいでしょう。局所の疼痛、組織壊死、重症では全身出血、腎不全がマムシ毒の代表症状です。獣医学ではきっとステロイドの投与が主でしょう。
4時間ほどして夜も更けかけて、Hさんから電話が来ました。獣医さんでは注射を受け、暖まれた右の前足をやや引きずるけれど自分で歩けようになったそうです。帰宅して薬も飲んで、いま眠ったそうでした。
よかった、よかった。
翌朝会った犬の散歩仲間に「グーちゃん蛇に暖まる」の話をすると、驚いたことに、昨日の午後に現場と数十メートル離れた道路を横切るマムシを目撃していたんだそうです。山村出身の中年女性のYさんです。
「車で通り過ぎて、見たらマムシじゃない。バックして轢き殺そうと思ったがあて。ちょうど対向車が来たもんで、残念だったんだわ。」
もちろん同一個体かどうかはわかりません。こうした野生の生息動物は一匹目撃されれば、近くに十倍以上の数が繁殖と推定されましょう。
わたしの住む長岡の「山の手」と勝手に名づけた新興住宅地は里山の自然に恵まれております。マムシまで公園付近の草むらに出没するとなると、ちょっと「自然に恵まれ過ぎて」いるかもしれませんね。
その事件のあった城跡公園にはさっそく「マムシ・毒蛇に注意」なる立て札が立っております。