長岡市医師会たより No.268 2002.7

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もくじ
 表紙絵 「渓流(八海山)」     丸岡  稔(丸岡医院)
 「片桐一郎先生追悼文」       鈴木俊太郎(片桐医院)
 「片桐一郎君の死を悼む」      神谷岳太郎(神谷医院)
 「片桐一郎先生を偲んで」      明石 明夫(明石医院)
 「私の開業事情」          阿部 良興(あべ内科クリニック)
 「初めての往診」          吉田 鐵郎(吉田病院)
 「自己紹介」            新国 恵也(長岡中央綜合病院)
 「はじめまして」          目黒  昌(長岡中央綜合病院)
 「肺癌外科と長岡での自分について一考」 古屋敷 剛(長岡中央綜合病院)
 
ジャガイモの実」         郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

渓流(八海山)  丸岡 稔(丸岡医院)

片桐一郎先生追悼文  鈴木俊太郎(片桐医院)  

 義兄片桐一郎は平成14年7月5日午前6時45分に永眠いたしました。享年56歳でした。一郎先生は、父幹夫先生の急逝の後、昭和59年4月に、勤務していた東京医科大学外科学教室を辞して長岡にもどりました。その後、父上が長年に渡って診られていた患者さんへの診療を継続し、昭和59年暮れには医院を新築いたしました。暫くは順調に経過しておりましたが、昭和62年7月の暑い日、往診先で突如右側脳内出血を発症し、倒れました。

 立川綜合病院脳外科入院後、懸命のリハビリを行った結果、身体の麻痺をまったく残すことなく、7カ月後の昭和63年2月末日に同病院を退院いたしました。一郎先生も家族皆も、診療の再開と一家団欒の日々の始まりを喜びました。しかし、自宅にもどった次の日、3月1日の夜に、反対側の左脳内出血を起こし、再入院することになってしまいました。

 2回目の退院は昭和63年11月でした。治療、リハビリの効なく寝たきりの状態での退院でした。それからは自宅で、妻紗妃子(私の姉)による1年365日1日24時間変わることのない看護のもと、療養、リハビリにつとめてまいりました。

 一郎先生は手足や言葉は不自由でしたが、意思の疎通は可能でした。いつも皆が集まるリビングルームの中央のベッドに居て、日常の些細なことでも家族から報告を受け、その度に様々な表情をみせてくれましたので、介護する家族に暗さはありませんでした。とりわけ片桐家の子供たちの成長をみて、喜び、涙しました。最初に倒れた時、小学4年生だった長女の東京女子医大入学のときも、小学3年生だった次女の大学院入学のときも、幼稚園に通っていた三女の大学入学のときも、当時まだ2歳だった長男の高校入学のときも、家族と共に喜び、笑い、涙しました。毎朝、一郎先生とお母さまのお二人だけの時間もありました。また平成元年に片桐家に来た愛犬、黒ラブの片桐烈(つよし)君の成長も毎日目の当りにして楽しんでおりました(時折、鼻息を吹きかけられては苦笑していましたが)。平成元年4月に私が片桐医院の診療を手伝い始めたことも喜んでくれました。また、昭和59年に、急遽長岡に戻った際には殆ど完成していた学位論文を、外科学教室と病理学教室の同僚の先生方が自発的に、整理し提出してくださり、平成3年に学位を授与された時にも、望外のことと喜んでおりました。

 このようにして、14年の間、一郎先生は家族と共に頑張ってきましたが、平成13年5月4日、3度目となる重篤な脳内出血を起こしてからは、体力が次第に低下してまいりました。そして主治医の先生方や家族の努力の甲斐なく、発病してから15年目の7月5日午前6時45分、ついに力尽きました。

 医師会の皆様とは15年間のブランクがあったことから、葬儀は近親者、ご近所の皆様で、との遺族の考えでした。それでも学生時代の級友、先輩、山岳部の仲間が多く弔問し、涙してくださいました。そして皆さま一様に、飾ることなく、偉ぶるところが一つもなく、誠実で心根が優しかった一郎先生の思いでを語られました。

 長い間、病気と闘ってきた一郎先生、ご苦労さまでした。ゆっくりお休みください。今頃、父幹夫先生と、父上亡き後、公私にわたり親身に面倒をみてくださった立川晴一先生に迎えられ、あのとびっきりの笑顔をみせている姿が目にうかびます。

 

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片桐一郎君の死を悼む  神谷岳太郎(神谷医院)

 片桐一郎君が亡くなったという知らせを、複雑な思いで聞きました。同じ年齢であり、同じ高校に通い、開業医の息子として同じ外科の道を選び、実家に戻り開業し、酒や山が好きでと、私との共通点がたくさんあったのに、これまで彼との交流がほとんど無かったのです。いや、その交流が始まろうとした時に、彼は病に倒れてしまったのです。若くして発病し、長い療養生活の後に逝ってしまいました。心を合わせて看病された御家族のこと、奥様がその中心になって頑張ってこられたことを聞いておりました。私もそろそろ自分の健康状態に不安を感ずる年でもあり、人生のこれから先のことを考えたり、家族のことを考える年齢になったことから、彼の死が特に強く感じられるのかも知れません。

 片桐君とは長岡高校の同期でありました。長岡東中学から入学されたとのことですが、同じクラスになったことはありませんでしたが、卒業記念アルバムの中で、たくさんの同期生の中から名前と顔がはっきりと一致したのは、彼の存在が何か私の記憶に残るものであったからだと思います。山岳部で活動していたことを覚えています。大学に入ってもワンダーフォーゲル部に入っていたとのことです。いつもニコニコと、穏やかな感じの人でした。

 私は昭和60年の春から長岡赤十字病院外科勤務となり、長岡に戻ってきましたが、彼はこの時すでに、亡くなられたお父様の跡を継いで、上除の片桐医院で仕事をしていました。昭和62年の5月の長岡高校同窓会総会の幹事を私達の学年でやりましたが、この時に、高校卒業後初めて彼に会いました。それから暫くして、日赤病院で消化器病の勉強会があり、会終了後に医局で納涼会となりました。彼も参加していて、この席でおたがいに自分の状況を話しました。彼は昭和49年東京医科大学を卒業し、同大学の外科に入局、国立宇都宮療養所外科、大船中央綜合病院外科を経て、母校に戻り病理の勉強をやったとのことでした。この夜はこんな話をしながら、その後の交流を約して別れましたが、この翌日に最初の脳出血が発症し、立川綜合病院に入院したとの知らせに驚いておりました。御家族の熱心な看病と、リハビリを必死にやって、診療が出来る状態まで回復したとのことです。鏡やビデオを見ながら歩行の練習を行ない、注射も出来ると喜び勇んで退院した次の日、何という運命の悪戯か、二回目の脳出血が起きて、ベットに寝たきりの生活になってしまい、長い闘病の生活が続きました。更に昨年5月には致命的とも言える三回日の出血が起こりました。急速に体力が衰えたそれからの一年、御家族の必死の看病で、何度か危機を乗り越えながらも、とうとう彼は黄泉の国へ旅立ってしまいました。瞬きと笑みと涙だけで、御家族とコミニュケーションを続けながらの、15年に亘る長い闘病生活の話を聞いて、岩山に縛りつけられたプロメテウスの姿をダブらせてしまいます。残念なことに彼には、とうとうヘラクレスは現われませんでした。しかし片桐医院での鈴木俊太郎先生の御活躍と、しっかりした奥様のもとに、心を一つにして病気の彼を守りながら、立派に成長されたお子様方を見届けられたことを喜んでいたのではないでしょうか。彼の果せなかった夢は、必ず若い方々が引き継いでくれるものと思います。

 今は長い束縛から離れて、天上で心行くまでお酒を楽しんでいるのでしょうか。又は雲の峰のハイキングに出かけているのでしょうか。心から御冥福を祈ります。

合掌  

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片桐一郎先生を偲んで  明石 明夫(明石医院)

 片桐先生が55歳という若さでお亡くなりになられたと聞き、人生の切なさ、はかなさを感じずにはいられませんでした。先生は長岡高校の三年先輩でしたので高校で御一緒した事もなく、また先生は東京医科大学、私は岩手医科大学と出身大学も異なっていたので、先生が昭和59年6月片桐医院を継承されるまでお会いする機会はありませんでした。私自身も父が病で倒れたため同じ昭和59年4月から明石医院に勤務し長岡市医師会に入会していましたし、同じ開業医の息子同志ということもあり、以後親しくさせていただけるようになりました。また子供も三女一男と全く同じで、附属小学校で一緒でしたのでPTAの関係でいろいろ御世話になっておりました。医師会旅行も何回か御一緒したり、メジカルポウリングでも一緒に幹事をやったりといろいろ楽しい時間を過ごす事ができ、先生の後を追っていけばまちがいないと思っていた矢先、昭和62年7月脳出血で倒られてしまいどうしていいのかわからなくなってしまいました。先生はアルコールには日がなく、私も決して嫌いな方ではなかったのでよく一緒に飲みにでかけました。先生はつい度を超されたことが何度かあり、それが脳出血の原因になったのかなと思っておりました。

 立川病院退院後自宅で療養され、ずいぶん回復されたとお聞きして安心しておりましたが、ついに復帰かなわずこの度の訃報を知り残念でしかたありません。

 先生御自身こそ御無念なのでしょうが、残された奥様や御子達を暖かく見守ってあげて下さい。

 安らかにお休み下さい。合掌

 

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私の開業事情  阿部 良興(あべ内科クリニック)

 平成7年8月小千谷市に家を建てたとき、開業は完全に諦めたはずであった。医学部に入学した時、誰もが一度は考えたと思う開業は、実際には非常に困難な事業と思われたし、家を建てるとなれば、ローンで開業資金どころでは無い。またその頃は尊敬する上司や信頼する同僚にも恵まれており、仕事は大変だが皆も頑張っているという充実感もあったから、このまま勤務医を定年まで勤めあげようと思っていた。しかし何が起こるか分からないのが人生で、平成9年に上司の先生が急に辞めて開業され、引き続き自分と同じ年頃の同僚も開業に向けて準備を始めた。内科医の不足は明らかなのに、元々新大とは関係の薄い病院に補充する能力は無く、病院全体の診療レベルの低下も明らかで、患者さんの期待に答えられない状態であった。過労と不眠でとても定年まで勤め上げられる病院ではないと悟った。平成11年2月に病院を辞める決心をしたが、今後の身の振り方も、受け持ち患者さん達の事も気がかりであった。辞める事も大学医局に報告しなければならないが、患者さん達の病状も軽くは無いので後任の呼吸器科医の依頼も必要だった。半年間迷って教授に「いきさつと後任医師派遣のお願い」の手紙を出した。前教授時代から辞めるときには、「1年半以上前に言わないと後任が出せない」と言われていたので、とにかく後任の確保が先決。11月に教授に面会をお願いした。教授は快く会って下さり「丁度、新発田病院の嶋津芳典先生が開業退職するから後任に行かないか」と言ってくれた。新発田は私の出身地で、老父母も居るので心が動いた。早速、新発田病院の嶋津先生に電話してみると、先生の開業理由が「毎日が肺癌患者さんの診療で疲れた」との事であった。当時の私の状況と少し違うが、肺癌患者さんでは共通している所もあった。1、2年前の私だったら、喜んで新発田に赴任したと思うが、その頃の私は疲れ果てていて新発田に行く気が全く無くなった。ならば、後は開業するしかないと思ったが、資金は無いし、恥ずかしい話、どうしたら良いのか、誰に相談すれば良いのか全く分からない。平成12年3月病院に来るMRの方に相談しまくったら、調剤薬局の社長さんや卸会社の支店長さん、さらに新発田の嶋津先生から紹介されて先生の開業をコンサルトしている医療器械関係の方も来られた。嶋津先生は7月7日に開業が決まった由。私としては小千谷に開業したかったが、三者共、小千谷は既に内科開業医が飽和状態にあるからと、他地区を勧められた。三股をかけるのも嫌なので、早々に1つに絞ったが、その話が進むにつれて、当初メディカルタウンと言っていたのが実現しそうにないとんでもない話である事が分かり、平成12年8月の長岡祭りの頃には苦悩の末やっと断った。1つに絞った話を断ったので全く白紙の状態となり、本当に開業できるのか不安なのに、病院では8月にいつもの倍の5名も患者さんが亡くなった。決して手を抜いたわけではない。この頃は守門村診療所の医師が定年となるので、行って話を聞いたり厚生省の医院承継事業にも登録した。そうこうしているうちに、先に断った、嶋津先生のコンサルタントの方からまた話があり、出ては消える話も幾つかあったが、少しずつ話が進み現在の鉄工町の話も出てきて平成13年7月26日に開業できた。6月に小千谷出身の呼吸器科医が赴任してくれたし、資金は銀行から借り、担保には自宅では足りず実家の土地も入れた。この年齢になり実家の親に負担をかけるのも情けなかったが、親は快く承知してくれた。私の開業前に嶋津先生の発病が知らされた。先生が開業してまだ1年にもならない時期であった。見舞いに行くと退院したばかりなのに医院で仕事をされていた。先生はいつもの穏やかな表情で淡々と「本当に驚きましたよ」と言って対坐し、開業について話してくれた。私とは1歳しか違わないので、なんと言ってよいか分からなかった。但し、二人とも数多くの死を診てきており、「自分も含めて人は皆死ぬし、中には道悪く早く死ぬ者も居る」という一種の諦めがあったと思う。嶋津先生は良く頑張られたが平成14年4月22日に永眠された。私も開業して1年になろうとしていますが、経営的には落下傘開業なので毎月が大変です。従業員も医師・看護婦・事務員各1名で誰一人欠けても仕事にならない状況です。しかし精神的にはずーと平安です。こんな事でへこたれてはいられません。開業までの事柄を振り返ってみれば、これから先だって頑張れると思っています。少し暗い話になったかもしれませんが、長岡市医師会の先生方には御世話になりますので宜しくお願いいたします。

 

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初めての往診  吉田 鐵郎(吉田病院)

 私は昭和28年3月新潟医科大学を卒業した後、O綜合病院でインターン生活を過ごした。インターンは卒後1年間、内科、外科などの各科を廻り、常に病院の中にいて急患、入院患者の病状の急変などあれば直ちに馳せ参じ、その科の医師の診察を手伝い、診察の手順、ポイントを見習い、時には処置の手助けをするのが日課であった。

 4月は婦人科、5〜6月は整形外科、7、8、9月は外科と廻って来た。

 外科医長、H先生は0地方では神様扱のように尊敬されているDoctorで、副院長(東大卒)であった。7月のある日、胃癌の手術中に婦長がOpe室に入って来て、「H先生、往診依頼です。大量に吐血し、血圧も下って危険な状態のようです。どうしますか?」H先生「何とかしてつれて来れないのかね?」「無理です。K村は陸の孤島で信濃川を渡し舟で渡って行くような処ですから、往診しかありません。」と婦長。当時どこの市町村も救急車など無かった。「吉田君、今この手術で手をおろせるのは君しかいない。君、ナースを1人つれて行って、輸血して何とかしてやってくれ給え」とH先生。今なら内視鏡を使って内科の医師が簡単に止血し、ガスターなどを使って潰瘍は簡単に治せるが、当時はそんな技術はなかったから、内科医は大量吐血の患者を敬遠し、ひどい胃潰瘍はみな外科へ廻して来た。

 0運転手がW看護婦と私を乗せて一路信濃川左岸を北上、M部落で土堤の上から対岸に向かって 「オーイ、オーイ」と呼ぶと一般の小舟がギッチラ、ギッチラ漕ぎ出して来た。見ると船頭は70才をゆうに超えた老人である。

 折から梅雨の大雨が上流で降ったとみえて川は大増水、濁流が渦を巻いている。中流迄漕ぎ出したら揺れてこわい。「Wさん、ここでこの舟が転覆すると、明日の新聞には若い美人のナースと前途有望な外科医が殉職したと出るよ」と冗談を言うとWさんは本当に恐がって「縁起でもない事を言わないで下さい。」と半ペソをかいている。でも何とか無事に対岸に到着し、それから2人で輸血に使うガートル、大きな注射器を何本も、血液型判定セット等を持って2〜3km歩いて部落に入った。患者さんは村会議長さんで、大きな家だが病室は見舞いの人で溢れている。

 病人の母親らしい年とった女の人が「父ちゃん、しつかりしなせい。もう大丈夫だいの。0病院から偉い先生がきてくんなさったすけえ。」小生はまだ先生ではない。インターンで国試の前だから医師ではなく、俺は初めての往診で重症患者を助ける自信なんか毛頭ない。(俺のおでこの髪が薄いのが患者の家人を少し安心させたらしい。)完全に医師法違反の緊急避難的往診なのだ。

 血圧測定85〜50、puls微弱120位か、Epigastriumに圧痛がある。胃潰瘍穿孔の徴侯はなく、吐血は赤黒かったと言う。輸血だ。患者の血液型はA型、見舞いの方々の中にもA型は大勢いた。まず輸血針を肘静脈に刺す。40個以上の眼がジーツと見つめているその中でである。幸運なことに一発で静脈確保、100mlの生食の入っているガートルを立てて、今度はspenderの採血である。交叉試験は省略して、輸血。3人の方から合計600ml貰った血液が入ったら、頬に少し赤みがさし、どこも苦しくないと言う。まずは異型輸血ではなかった。血圧120〜70、puls zahl 90、この儘おちついてくれればと枕頭に坐って様子を見る。午後6時、輸血が終わってから約2時間、嘔気なく上腹部痛もない。

 どうやら、うまくいったようですから、私はこれで失礼します。と言うと家族は「それは困ります。先生が病院の方に仕事が残っていて帰らなければならないなら、せめて看護婦さんだけでも残って頂きたい。」と言う。

 仕方なく「Wさんあなた今晩泊まってあげて下さい。明日入院させる事を何とか考えるから、それ迄。」と頼んで私は病院へ帰った。

 実はこの夜はN神社の宵宮で私は別のナースとdateする約束になつていた。

 病院について、一応H先生に報告し、さて神社の方へ出掛けようとしていると、ジャーンと電話が鳴った。受話器を取るとW看護婦さんの緊張した声が「大変です。又ひどい吐血です。血圧も70を割りそうです。脈も時々触れなくなります。早く、早く来て下さい。」私はH先生宅へ電話しなおして病状の急変を報告したが先生は祭の祝酒をしたたか飲んで往診どころではなく、No.2のW先生は外出して行方不明。(今のように携帯電話などない。)結局私が又行く事になつたが、流石に心配してくれて外科の外来主任看護婦Sさんがついて来てくれると言う。

 再び濁流の大河を渡ってK村へ、確かに全身状態は昼間診た時よりずっと悪い。血圧はMax70を割っており、脈も触れにくい。緊急輸血だそれしかない。処が肘静脈が全く見えなくなっており、針が入らない。11回刺して漸く入った。(途中で君の方がうまいんだから、やってみてくれよと小声でサインを送るが彼女は承知しない。これはDoctorの仕事です。)

 この後A型血液を約1リットル入れて、漸く血圧125〜70、puls zahl 90位に恢復し、ほっとした。

 これで死なない。再出血を防ぐためブスコパン系1A、止血剤などを管注した。(ガスター等はなかった。)

 今なら内視鏡を挿入して胃潰瘍からの止血位簡単にやってのけられるのだが、当時はそんなものはないし、あってもインターンでは無理だ。

 さあ今度は家族は私の帰るのを承知しない。看護婦さんともども泊まって下さいと言ってきかない。止むなく泊まる事にした。もう大分夜も更けて私も疲れたので、家人は別室でお寝み下さいと言う。案内されたのは四畳半の小部屋で蚊帳が吊ってあり、枕が2つ布団が2枚接触して敷いてある。「これは困ります。S看護婦さんも私も独身なので、この部屋で一夜を一緒に過ごすのは問題です。別々の部屋に替えて下さい。」家人は困った顔をして「親戚が山を越えて大勢集まって来ているので、この他に部屋はありません。ここで我慢して下さい。」と言う。

 仕方なく2人で寝た。Sさんは此の線からこちら側へ転がって来てはいけませんと言う。

 私は寝相が悪い方だから眠れば転がってゆく可能性が高い。その上若い女の臭いがムンムンとしてとても眠れるものでない。Sさんも同じだったとみえて翌朝はれぼつたい瞼をして起きて来た。

 この患者さんはその後筏を組んで信濃川を下り、0病院に入院し外科で巨大な胃潰瘍を手術した。

 医師法違反(緊急避難)でも私が行くしかなかった。私の初往診。今思い出しても冷や汗三斗である。

 

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自己紹介  新国 恵也(長岡中央綜合病院)

 再び長岡市医師会に仲間入りさせていただきました。

 私は、平成元年4月より平成11年9月まで長岡中央綜合病院外科に在職した後、2年半の間魚沼病院に勤務しておりました。中央病院では佐々木公一先生の御指導により貴重な症例を多数経験させて頂き、大変感謝しております。魚沼病院での診療は、内科・外科を看板に掲げた有床診療所といったようなもので、「かかりつけ医」として地域医療に貢献しているという実感が持てました。外科でありながら消化器疾患の内視鏡診断から内科的慢性疾患の治療まで行い、全般的に患者さんに係われるような気がして充実感がありました。一方で身体的にも精神的にも時間的にもゆとりがあり、平日の帰宅後も子供と一緒に時間が過ごせたり、週に1〜2回は体育館で運動をしたりと気ままに過ごしてまいりました。

 4月からのんびりとした生活が一転し、毎日毎日が手術で常に臨戦態勢でいなければいけない状況に変わっています。外科医としては喜ばしいことで、2年半前までずっと経験してきた生活ではありますが、環境の変化に少々とまどいもあります。とはいえすでに心身ともに本格稼動しております。外科は言うまでもなくチーム医療です。中央病院の外科全員の経験と知恵と技術を生かし、全体で大きな力が発揮できるように努めたいと思います。

 ところで、私は南会津只見町の出身ですが、大学人学以来30年間新潟県民であり、14年前からはずっと長岡市に住んでいます。記憶をたどると子供のころから長岡には親近感があったような気がします。そもそも只見町は県境にあり下田村と入広瀬村に接していて、長岡からは栃尾、守門を経由して、車で約1時間半の距離にあり案外近いのです。

 戊辰戦争で、長岡藩家老河井継之助が八十里越えを敗走し亡くなったのが只見町塩沢で、当地に河井記念館があります。昔から峠を介して越後との交易があったそうです。私の家で養蚕をしていた時代には栃尾や下田から働き手を頼んでいたという話やら、越後へ嫁にいった人の話なども聞きました。太平洋戦争の長岡空襲は只見町からも山際の空が真っ赤に染まって見えたそうです。福島県でありながら、映ったテレビは随分長い間、新潟の放送だけで「うまいお酒は吉乃川」や「元祖浪花屋の柿の種」等のCMを見て育ちました。中学生の時に長岡に遊びに来て初めてボーリングをしたことも思い出します。中学卒業後の進路として長岡高専を考えたり、大学は自宅から汽車通学ができるので長岡の工学部を候補に考えたりした時期もありました。実家では今も年老いた両親が家業を営んでいますが、見守っているのに長岡は都合のよい場所でもあります。

 さて、この4月から再び長岡中央綜合病院外科の一員として勤務しております。現在の外科は清水武昭副院長の下、私を含め河内保之、諸田哲也、宮原和弘、清水大喜の6名体制です。武昭先生は誰よりもアクティブですし、若い連中は驚くほどタフでバイタリティに満ち満ちております。若いことをうらやましく思いながらも必死についていっています。

 私たちは、院内の他科との協調の下、周術期の管理にも細心の注意を払いながら手術全般を丁寧に行っています。術後のQOLを十分考慮した上で積極的に切除することで手術成績の向上を目指しております。医師会の諸先生方の御指導御助言を賜りながら、良好な連携のなかで外科医としての職務を全うできれば幸いに存じます。何卒宜しくお願い申し上げます。

 

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はじめまして  目黒  昌(長岡中央綜合病院)

 はじめまして、長岡中央綜合病院血管外科の目黒 昌(めぐろあつし)と申します。

 えっ、これで「あつし」?と思われた方もおられることと思います。私の父が氏名の総画数を24画にこだわって、名前には八画の漢字しか考えなかったことと、私の生まれた日(昭和36年7月9日)がひどく暑かったことに起因しております。

 出身は山形県南陽市の赤湯という温泉町です。ブドウとサクランボが売りの田舎町です。米沢の興譲館という高校を出てから秋田大学にすすみました。テニスと酒に明け暮れた夢の様な6年間を過ごした後に昭和61年に卒業しました。卒後は9年間秋田大学の心臓血管外科に所属しましたが、平成7年に家族の都合により新潟大学第二外科に移籍し、以後同科の関連施設で心臓血管外科医として勤務してまいりました。

 「血管外科って何すんの?」としばしば聞かれます。当科は骨盤・四肢の動脈疾患および静脈疾患に対する外科治療とカテーテル治療を専門とする診療科です。対象疾患としては閉塞性動脈硬化症、動脈癌、下肢静脈癌、深部静脈血栓症などがあります。

 高齢化に伴い閉塞性動脈硬化症の患者が増加しております。数年前まで積極的治療はバイパス手術しかありませんでしたが、現在はカテーテル治療あるいはカテーテル治療とバイパス手術の併用により、より低侵襲に質の高い血行再建術を高齢者にも提供できるようになってまいりました。

 下肢静脈瘤の外科治療は従来であれば入院して広範囲に表在静脈を抜去する方法しかありませんでしたが、現在は外来通院で局所麻酔下に行う手術も導入されており、長く仕事を休めない世代の方々にも治療が可能になっています。

 整形外科あるいは婦人科領域などの手術後に下肢が腫れる深部静脈血栓症は、従来は安静と抗凝固療法で様子を見られることが多かったため、その後長く鬱血症状などの後遺症が残存し、QOLの低下を来しておりました。しかし最近は急性期にカテーテルによる線溶療法や血栓除去手術を行うことで鬱血症状などの後遺症を大幅に軽減できることが証明されており、初期治療の重要性が叫ばれております。

 また、県内には「血管内科医」がほとんど存在しないこともあり、検査と診断も当科の大切な仕事と考えています。以前は血管造影など侵襲を伴う検査が主流でしたが、今は血管エコーなどの無侵襲検査を積極的に取り入れて、患者さんの負担軽減に努めております。「これってひょつとして血管の病気かな?」と迷うことがありましたら気軽に御相談をいただきたく存じます。よろしくお願い申し上げます。

 堅い話はこれくらいにして…、先にも触れましたが学生時代は硬式テニスに熱中しておりました。脚力の低下を自覚しつつも細々と続けております。テニス好きな方がおられましたら是非お誘いください。ドロドロのシングルスからミーハーなミックスダブルスまで、幅広く対応したいと存じます。

 その他に最近は家庭菜園にも手を出しており、試行錯誤を繰り返しながら子供達と楽しんでおります。

 中越地区で長く、そして楽しく勤務できることを願っております。御指導・御鞭撞の程よろしくお願い申し上げます。

 

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肺癌外科と長岡での自分について一考  古屋敷 剛(長岡中央綜合病院)

 私は平成12年4月に東京の杏林大学病院からこの長岡中央綜合病院胸部外科に赴任しました。大学病院にいると何年かごとに出張となり、様々な病院を渡り歩くことになるのですが、急に上司から“旨い米を食いたくないか?”と肩をたたかれ、新潟の地に参ることになったのです。もっとも私の実家は米屋だったのですが。

 果たして、この病院の環境は、この呼吸器関連に関しては満足すべきものでした。当科の主たる対象疾患は肺癌です。肺癌の治療は一つの科で出来るものではなく、呼吸器内科、放射線科、病理学科など他科と協力し合わないと成り立たないのです。この病院での各科の医師は間違いなく優秀で、腫瘍学という観念がしっかりしています。

 肺癌は、最初は症状が無く、検診や、他疾患の検査などでひっかかり、開業医の先生方などより紹介されてきます。当院に紹介された肺癌症例は検査、診断され、呼吸器関連グループ全員で会議し、方針を決めます。そして、手術方針になった症例が当科にて手術を受けるのです。

 肺癌の手術治療のポイントはなんでしょうか? 一番大事なのは確実に病巣を取り除くことです。しかし、患者さんにとって、直面するのは痛みです。「なんで、手術前はなんでもなかったのに治療を受けて痛い目にあわなければならないんだ。」と皆さんが感じます。そこで当科では従来の開胸法より術創を小さくし、肋骨を切断せず、筋肉も温存することで疼痛を軽減させるように工夫しています。開胸創が小さくなる分は胸腔鏡を併用することで従来の開胸法と同じクオリティーの手術が可能です。また、手術の侵襲を抑えることは、年齢や基礎疾患などで手術適応が厳しい症例にも手術が可能となり、また、合併症の軽減ももたらします。また、術前の説明では、なるべくわかりやすく、イラストなども交えて、肺癌外科治療の説明をしています。

 肺癌は歩いて当科にやってくるわけではなく、周辺の紹介をしてくださる先生方によって成り立っています。先生方は、紹介されるにあたり何をポイントにされるでしょうか?我々は、紹介される病院、科に何かはっきりしたポリシーが大事だと考えます。この場をもってアピールさせていただきました。

 さて、堅い話が続いてしまいましたが、病院以外の話をさせてもらいます。長岡に来て丸2年になりますが、ここは清々しいところです。四季がはっきりしており、情緒に富んでいます。また、酒と食べ物が非常に旨いですね。

 私は音楽が好きで、学生のころはジャズサークルにどっぷりつかっていました。しかし、医者になってみると、演奏の機会や場所は無く、数年間何も出来ませんでした。しかし、長岡に来て駅前にアマチュアが演奏のできるスポットを偶然見つけ、メンバーにも恵まれました。これは奇跡的なことなのです。新潟には、隠れジャズファンがいっぱいいて、各地方からやって来てくれます。最近は色々な店で演奏の機会を設け、チャレンジしています。とても刺激的な事です。

 同僚の大塚弘毅先生は同期なのでお互い刺激しあい、もっと患者さんにとっていい方法は無いだろうか、と毎日相談しあっています。これからもこの調子でやって行きたいと思います。

 

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ジャガイモの実  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「生きているうちにジャガイモの実を見ようとは思わなかったあて。」

 ご近所のYさんが犬と散歩のたびに道路脇の我が家の菜園のミニ畝を眺めては、ひとこと言って行かれます。

「こんなに花や実を付けといて、ほんとうにジャガイモはできてるんだろうかね?」

 イモを掘り上げるときはぜひ呼んで見せてもらいたいものだなどと心配してくださっております。

 わたくしの家庭園芸歴も素人ながら十年以上となり、ある種の悟りのようなものが。それは自然が相手では自分の思うようにはゆかぬということ。気候のみでなく雑草だのカラスだの青虫なども相手です。とくに家庭での農薬を使用しない作物作りは、なるべく作業量は少なく、そこそこの収穫で満足が基本でしょう。

 そんなことで植えっぱなしで手入不要と定評のあるジャガイモを今年はメインに作ることにしました。裏庭にハーブなどのキッチン・ガーデンがあり、分画していくつかのミニ畝があります。春先にその三分の一の面積にジャガイモを植えました。ちなみに他の作物はサヤエンドウ、ミニトマト、ピーマン、シシトウ、ニガウリ、ユウガオなどなど。いずれも丈夫で収穫確実が選択基準。

 一つの畑に同じ野菜や同じ科に属する植物を毎年続けると、うまく育たぬ「連作障害」が起きます。たとえば最多のナス科ではナス、ピーマン、トマト、シシトウ、そしてジャガイモもそうなんです。

 春の植付けシーズンには、我が家のような狭い面積の作付けにはこの「順列組合せ」のような問題が頭を悩ませます。文科系のアバウト主義のあたまのわたしですから、ある野菜の苗は少なくとも昨年とは違う場所に植えるという程度にしております。

 ジャガイモの銘柄は有名な男爵やメイクイーンでなく、北海道の新品種らしい「北あかり」の種イモを園芸店で見つけ、即これに決定。いつか北海道の知人が送ってくれた「北あかり」は甘くほくほくした食感がおいしかったんです。

 種イモは大きいのは半分に切り、その切り口に灰をつけて植え付けました。なつかしくないですか?小学校でジャガイモを育てませんでしたか?

 下肥えに化学肥料と骨粉入り油粕に腐葉土をたっぷりと入れました。植え終わればあとは自然に任せておくだけです。

 5月には緑の芽が出てぐんぐん育ちました。6月には茄子の花に似た可憐な紫の花が咲きました。この花は摘んだほうが、よいイモがとれるとされます。もちろん今年度の畑作ポリシーは「自然に手抜き」ですから放置いたしました。

 7月になるとこの花がなんと実になったのです。青いミニトマトに似た房状のジャガイモの実です。まあ植物なんですから花が咲けば実になるのも当然ではありましょうが。

 ある朝、梅雨の晴れ間を見計らって、ジャガイモをそっくり掘り上げました。大小不揃いですが、大型の段ボール箱一杯の収穫です。一個50グラムから大きいのは300グラムまで、合計で約12キロでした。3カ月でのほとんど自然任せの楽勝コースだったと申せましょう。

 さっそくに茹でて塩とバターでおいしくいただきました。

 かのジャガイモの実は食べられるかという点にも周辺の関心は寄せられましたが、試しませんでした。

 

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