長岡市医師会たより No.271 2002.10
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表紙絵 「霧の晴れ間」 丸岡 稔(丸岡医院) 「スイスへの旅」 吉田 鐵郎(吉田病院) 「私の履歴」 羽生 忠正(長岡赤十字病院) 「自己紹介」 内山 徹(立川綜合病院) 「心に残るゴルフ〜其の三」 太田 裕(太田こどもクリニック) 「そして誰もいなくなった」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
スイスへの旅 吉田 鐵郎(吉田病院) 〜アルプスの山々とYvonneさんに会いに〜
私の机の上に3個の石が輝いており、庭には小石の集団の中に一際風格のある小石5個が他の石を圧して鎮座している。どれもこれも今、JungfrauかEigerの岸壁から欠け落ちてきたばかりの人相で、その1つは1/3が無数の水晶の小突起に掩われ、1つは暗黒色の透明な結晶体で、石英らしい白い部分と細かい水晶が点在している。もう1つは黄鉄鉱らしく金色に輝いた多面体の結晶で、処々に石英をちりばめている。
スイスの高い山の道を歩いている時に、見遥かす山の美しさもさる事ながら、路傍に小さな花々、赤、紫、黄、自、エーデルワイスは灰色、などが美しく咲き誇っているのが、いかにも可憐で愛らしくカメラを接写にして振りまくっていた。
とある路傍に全体がエメラルドブルーでごくこまかい金粉をちりばめたような岩片がある。角ばって手が触れると切れそうである。私はそれを大切にポケットに入れた。あちらこちらの道で拾った石が20個あって家内に叱られて、こんなの持っていれば飛行機には乗れませんよと全部捨てられたが、あとで調べてみたら小さいのが5個、蜜柑の1/3位のが3個ひそかに残っていた。これは何としても持って帰ろうと苦心して隠して来たのだ。
阿蘇、浅間、焼、妙高山などの頂上か、それに近い処にある石はそれぞれ全く表情が違う。
浅間は真黒、阿蘇は海老茶色である。我が庭のそれぞれ風格ある石達に世界的なものが加わり、私は極めて満足している。私の病院では医師に纏まった休日はない。そこで昨年4月から1年に1回はまとめて7日間休みを取れることにした。私がまず一番先に11日間の休暇をとり、家内と二人で世界で一番美しい国と言われているスイスに出掛ける事にした。
目的は2つ。1つは勿論スイスの山々の観光、もう1つは昭和43年から2年間、私の病院の手術室に勤務したYvonneイボンヌさんに会うためである。
7月17日 午後2時成田を発ったルフトハンザ機は一路北上し、新潟上空を通過。日本海に出てなおまっしぐらに北へ、樺太の間宮海峡の辺りで左折した後は自凱々たる大雪原が延々と続く。高度5100m、時速500〜600kmで飛行してバルト海を廻ってドイツに入り、12時間かかって漸くミュンヘンに着陸し、すぐ乗り換えて1時間半ほどで、やっとスイスのチューリッヒ空港へ。私の時計の針は1回転して午前4時を指しておるのだが、太陽は燦々と輝いて新緑が眼にまぶしい。(スイスとの時差は約7時間で日本の午前4時はスイスでは午前11時で真昼である。)
又休まずにチューリッヒからバスに乗り、1時間程で漸く第1日目の宿泊地である古都ルツエルンへ着いた。
翌18日、屋根のついた古い橋や、中世の面影を残した市街を見て廻る。昔スイスが貧乏で困っていた頃、外国の戦争に傭兵を出して外貨を稼いだ時期があったそうで、その時の戦死者を記念して巨大なライオンの像が崖壁に彫られていた。
ルツエルンよりユリヤ峠2284mを越えてサンモリッツヘバスの旅、運転手が愉快な人でヨーデルを歌ったり、湖畔での休憩時間にはアルプスホルンを吹き、スイス国旗を振りまわして陽気に踊ってくれた。相当な距離(200km以上?)だが疲れた様子を全く見せない。マーモットの家族に見送られて黄昏のサンモリッツ着。
スイスの食事はみな5つ星ホテルだったがパン以外は特にうまいとは思わなかった。
7月19日 フリー
7月20日 サンモリッツを出発、氷河特急で急坂を登って峨々たるアルプスの山々を眺め、美しい風景を満喫し乍らツェルマットヘ。まだ明るい白夜のホテルから、残照に映えたマッターホルンの雄姿がよく見え、盛んに写真を撮った。この山の山頂がちょっと首をかしげているのが面白いが、すごい岩壁で常人が登れる山ではない。
翌7月21日、張り切って登山電車でマッターホルンヘ、あいにくの雨と霧であの勇壮な山容は中途迄しか見えず、天候悪化のためむなしく下山す。
午後、Yvonneさん夫妻がホテルに訪ねて来て、夕食を共にし乍ら時の移るのを忘れて長岡時代の話をする。「あの頃が私達の一番positiveな時期でした」と彼女が言ってくれたのは嬉しかった。彼女が私の処にいたのは23才〜24才の頃で、私も中央病院をやめたばかりでお互いに若かった。34年も前の楽しかった事ばかり憶えている。もう50才はとうに過ぎているのに彼女はまだ現役で救急病院に勤めているとの事だった。長岡時代も張り切り屋で、夕方5時近くになって、イレウスや胃穿孔などが来ると面白い手術を体験出来るといって一人で喜んでいた。胃癌などの大手術の器械番をするのが好きだった。
翌7月22日、テーシュ経由、ゴツペンシュタインでバスまるごと列車に乗りインターラーケンヘ、CO2対策で列車にバス400〜600台載せられるとのこと。ここ迄にユングフラウ、アイガー北壁などを見て感慨無量、壮大な自然の産物氷河を見物してグリンデルワルドヘ。
7月23日 現地ガイド北川さんとユングフラウヘ登る。クライネシャイデックから登山、電車でユングフラウヨッホヘ登る。標高3600m位なので走るなと注意を受けたが、走っても別になんて事はなかった。ここから氷のトンネルにもぐり込んで更に登る。真上の岩穴から氷河の氷が滝となって落下して来る。写真をとったが、氷のトンネルの内部は1枚も写らなかった。
氷河の周辺に沢山のクレバスあり。落ちたら絶対に助からない。
クライネシャイデック迄下りると、目の前にアイガー北壁がある。殆ど垂直にそそり立つ絶壁の凄さとそれを垂直に登ったという日本人女医今井通子先生の話を聞き、驚嘆する。また一方、久留米大学外科の脇坂順一名誉教授は70才の時この恐ろしい山の10回目登頂に成功したと聞き、あの温和な方のどこに強固な意思と体力があったのであろうかと不思議だったが、先生御自身から普段の鍛錬と摂生ですよ、腕立て伏せ170回出来ると聞かされて納得し、敬服しているが、私はあんな恐ろしい山には絶対登りたいとは思わない。
クライネシャイデックから山の道を歩いて下る。山は花で美しく、石も光っていて拾って帰りたいが皆に遅れるし、起伏があって結構疲れる。グリンデルワルドへは夕方4時半到着。これでアルプスはモンブランを残したのは残念だったが充分堪能した。このように美しく壮厳な自然が残されていることに感謝したい。
7月24日 グリンデルワルド終日フリー。家内と街を散策したがこの街の又美しいこと。清掃も行届いているが煙草のポイ捨てもなく、家という家の窓は、赤、黄、紫の花で溢れており、店先のプランターの中にも花が植えられて咲き誇っている。この花に水は1日に何回やるんですか?と訪ねると3日に1回で充分という答がかえって来た。
7月25日 グリンデルワルドを離れてモントルー経由。
7月26日 ローザンヌからジュネーブヘ、午後2時離陸、一路帰国。
帰宅してから夜と昼が逆転してどうも調子が悪い。家内は時差ボケだと言うが、娘は爺さボケだと言う。両方正しいのであろう。
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〜関節リウマチのチーム医療をめざして〜
はじめまして、長岡赤十字病院リウマチ科(整形外科)の羽生忠正(はにゅうただまさ)と申します。新潟大学大学院医歯学総合研究科・機能再建医学講座・整形外科学分野の助教授を辞して当地に参りました。本籍は東京都ですが、西蒲原の吉田町にあるお袋の実家で生まれ、夏休みにはよく実家に来ておりました。縁あって新潟大学医学部に入り、卒業後は手の外科で日本をリードしていた田島達也教授の整形外科教室に入局しました。3年間外傷を中心とした研修を受け、整形外科に生化学的アプローチを導入するようにいわれ大学院に進み、「ヒト関節液中コラーゲンに関する研究−Hydroxylysineとその糖化合物分析」で学位をいただきました。
直ちに新潟県立瀬波病院へ赴任しました。この病院は結核病院だったのですが、結核患者の減少により廃院の危機に直面していました。田島教授はフィンランドのヘイノラにあるリウマソリウムを作るべきと力説され、新病院が建設され、教室から私を含め一度に3人(リハビリの山岸豪、リウマチ外科の村澤章と私)を赴任させるという異例の人事が行われました。オープンから3カ月でセンターは満床になりましたが、寝たきりに近いリウマチ患者との格闘が始まりました。積極的手術で起きれるようになっても首が悪くなったり、背骨が折れたり、寝たきりのままの方がよかったのでは、という苦しい経験もしました。薬の副作用や合併症の発症、炎症の再燃など初めて経験することも多く、リウマチの研究会に通って必死に勉強しました。3年後に第2内科からもリウマチ・膠原病に取り組む内科医が派遣され、整形外科、リハビリ、内科によるチーム医療が可能となり、またリウマチ診療の経験を積むことで、徐々に重症患者の症状もコントロールすることができるようになりました。その結果、オープンから5年後、リウマチの寝たきり患者は皆無となり、名実ともにリウマチセンターの地位を得ました。
その後、東條猛先生が県立中央病院に赴任され、私が大学病院のリウマチ外来とリウマチ研究班を引き継ぎ、新潟県内にリウマチのチーム医療が出来る施設が3カ所となりました。ところで、リウマチ研究班で行った多くの仕事のうちの1つに人工肘関節の開発があります。雌牛にアルミナセラミック人工肘関節(新潟・瀬波・京セラ:NSK型)を世に出し、1998年開発当初の到達点であった関節面がファインセラミックスでステムが金属のチタン製、これらを手術中に組み立てるモジュラー型とすることが出来ました。骨移植を併用した再置換まで幅広い適応を持った人工肘関節として認知されるに至っております。すなわち、私の専門は関節外科です。股関節から手指・足趾の関節まで手術適応ありと思われる変形性関節症を含むリウマチ性疾患の患者さん、ご紹介いただければ幸いです。
現在、私に課せられた仕事は、赤十字病院内に中越地区のリウマチセンターを立ち上げることです。リウマチは関節の痛みと機能障害を伴い、しかも経過中に多くの臓器に合併症を来す可能性のある慢性疾患です。患者にとってアクセスのよい施設で、継続的・総合的な医療がうけられるのが理想でしょう。厚生省から平成10年に提出されたリウマチ医療提供体制の改革案の中にあるように、かかりつけ医と地域医療支援病院との連携をとるためには2次医療圏リウマチセンターが必要です。その内容は、リウマチ医療に豊かな経験を積んだ内科医、整形外科医およびリハビリ医が連携して医療に当たる体制と整備が整った医療機関、すなわちリウマチ専門外来、リウマチ科などが標示され患者の医療機関受診の流れが適切に構築できている施設です。また、日常の医療内容に関する研究に加えて、地域での疫学や臨床治験などのリウマチに関する臨床研究を行う基幹施設としての機能も必要です。(1)内科領域ではリウマチ類似疾患との鑑別や重症リウマチの炎症持続や合併症併発に関して入院も含めての医療が求められますので、リウマチ性疾患を専門分野とする内科医が2名以上常勤、(2)整形外科領域では、関節、脊椎および手などの機能再建医療に熟知した整形外科専門医4名以上の常勤と十分な設備、(3)リハビリ領域では、施設基準2を満たし、(4)在宅医療領域ではMSWを常設させ、関連各科専門医と地域医療関係者との密接な連携のもとに適切な対応ができる拠点です。その第1歩として9月3日の日本リウマチ学会の理事会で教育研修病院の指定を受けました。
かかりつけ医を中心とするリウマチ診療の医療提供体制が整備されれば、患者さんが通院という負担も軽減され、2次医療圏リウマチセンターの専門性も高まる。リウマチセンターの機能が充実すれば、かかりつけ医の教育や実地研修といったシステムも運用できるようになり、さらに地域医療のレベルが向上すると考えます。
なお、体力の衰えはよく理解した上で、好きなテニスとスキーを続けたいので、ときどき声をかけて下さい。長岡市医師会の皆様、よろしくお願い申し上げます。
5月より立川綜合病院整形外科に勤務しております。私は91年新潟大学卒で、当地区では初期の研修で94年頃長岡中央綜合病院にお世話になりました。95年に大学院に入学。骨租しょう症の基礎研究を工学部と共同研究しながら99年に修了し、その後一年半ボストンヘ研究留学しました。大学院と留学で臨床が大きく遅れてしまいましたが、帰国後は県立六日町病院でふた冬勤務し、特にスキー場からの多くの外傷患者を相手にリハビリにつとめました。六日町では一般病院では経験できないような外傷を多く経験することができました。その後に当院ヘやって参りました。当院では整形外科の専門分野の一つである脊椎外科を主に研修中です。
立川病院整形外科は代々トップが脊椎外科専門で、当地区のいわゆる神経痛の加療を行っています。現医長の河路洋一先生は腰椎椎間板ヘルニア手術から脊髄髄内腫瘍まで積極的に手術や脊椎外科の専門を志す医師の指導、および関節外科をはじめ一般整形外科も広く行っています。高齢化社会に伴い、脊椎の変性疾患を患う症例が増えてきていますが、その一つの腰部脊柱管狭窄症では、「100メートルくらい歩くと腰下肢痛のため歩けなくなるが、しやがんで休むとまた歩けるようになる」といういわゆる間欠性披行という症状を訴えます。手術により格段に生活の質(QOL)を向上させられる場合がありますので、是非当院へご紹介いただきたく存じます。よろしくお願い申し上げます。
さて私事ですが、趣味はと聞かれると返答に詰まってしまう私ですが、唯一細々と続けていることはインターネットの利用です。pcは10年来Macintoshを使用しています。「たいていのことは手間暇を惜しまなければわかる」と村上春樹は著作のなかで述べていますが、その手間をインターネットが格段に楽にしたと私は思います。googleをはじめとする検索サイトで、あるkeywordで検索すると様々な情報が得られるようになりました。無論情報の質は玉石淆合なので自分で裏をとらなくてはなりませんが、外来でも疾患についてインターネットでこうでていたが手術は必要なのかと先日聞かれました。さまざまな情報が乱れ飛んでいる現状では、首を傾けざるをえないような医療情報も得られてしまうので、医療の側からも正確な医療情報の発信が迫られていると思います。
インターネットでよく利用しているのが通販です。いままで本、ドイツワイン、コーヒー、雑貨、デジカメなどを購入しました。先日は自宅のある家電製品の調子が悪くなったので、そのインターネットでの検索を駆使して購入しました。家電商品は多くのメーカーから多種類発売されているので、どれがいいのか選択が大変です。通常なら家電店に出向いて、店員の勧めるものを購入するのが今までの方法ですが、私はまず大手家電店のサイトの売れ筋リストで今よく売れているものをピックアップし、それらを批評しているサイトの評価をみて絞り込み、価格を比較しているサイトで、一番安い通販サイトをみつけて、そこでオンラインで注文。支払いは銀行振り込みでこれもインターネットで指示。通販サイトによっては、宅配便の問い合わせナンバーを知らせてくれるので荷物のtrackingが可能で、今回もその番号によって荷物が今どこにあるか把握できました。便利な世の中になったものです。いまのところその家電製品ははずれではなかったようです。
それではまだまだいたらないところも多く、なにかとご迷惑をおかけすることがあろうかと存じますが、今後ともご指導のほど宜しくお願い申し上げます。
秋晴れの天候と優しくおかしなパートナーに恵まれ長岡市医師会ゴルフコンペに優勝することができました。出場の皆様ありがとうございました。今回は3回目で書くねたが少なくなりましたので私事について書いてみました。
「ホールインワン」
ゴルフを愛好する人はシングルになりたい、エージシューターの栄誉を受けたい、アルバトロスを出してみたい、県アマで優勝したい、その他様々な無いものねだりの夢を持っているものです。しかしこの中で初心者からベテラン、老若男女全てのゴルファーに叶う夢があります。それがホールインワンです。ホールインワンは心の準備のないまま突然やって来ます。本人はただただ呆然、周りはお祭りもしくは一種のしらけムード。望むものと望まないもの、偶然のアクシデントによるもの、実力で勝ち取ったものなど実に様々な状況とリアクションがあります。
実は私もホールインワンをやってしまったことがあります。誠に悲劇的なことであり、また良い思い出でもありました。今から約3年前、所は苫小牧ゴルフクラブ南コース七番ホール。札幌で開催された小児保健学会の合間を縫って?秋晴れの中、北海道の自然を満喫しておりました。池越えのショートホールにやってきてオーナーの私は120ヤードの距離と木の葉を巻き上げる風を読み一度持った9番アイアンを捨て、8番アイアンでショット。打球は池を越えやや大き目のグリーンにオン、そして旗に向かって10ヤードほど転がり視界から消えた。同伴の若ちゃんが「入ったんじゃない」と大喜び。みんなしてお祭り騒ぎでグリーンヘ。カップを覗き込むと奥にボールがあった。ボールが覗き込む僕たちを不思議そうに見ているように思えた。
帰宅後、妻に事の顛末を伝えると「よかったわね。ゴルフ続けてきた甲斐があったわね」「んーんこれはすごい事をしたのか」と一人納得していると「ホールインワン保険、北越の大川さんがいなくなつてもうやめたと思うよ」まあしょうがないかと言いつつやっぱり後悔。相談の結果、厄落としと我が家の愛犬をデビューさせることを兼ね「甚兵衛」と「あき」の仲良く写った写真をラベルにした特注のワインを作り、ゴルフを通じて知り合った方々へお送りした。翌年の正月には小児科恒例の「満月の会」 でみんなから記念の金貨を贈られ、お祝いをしていただいた。実に幸せでした。その乗りで翌年の秋に同ゴルフ場で記念コンペをすることとなつた。
札幌へ出発する前日、妻がNHKで放映している「とあるビデオ」を見ながらストレッチをしていた。私もついそのストレッチに嵌ってしまい初めてでありながら第一体操から第四体操まで全てを試みてしまった。第四体操は「大腿の前の筋肉を柔らかくし、ひざ、足首の関節のゆがみを矯正する」体操で正座したまま体を後ろに倒すストレッチでした。私のように骨太で筋肉質の者にとっては非常にきついストレッチでしたが痛みがある訳でなく何回かチャレンジして俺にもできると気をよくして就眠。真夜中右膝の痛みで目が覚める。初めての経験であった。すぐにストレッチによる靭帯の損傷?と悟ったがすでに手遅れ。痛み止めの湿布とボルタレンを飲んでようやく痛みが和らぐ。急に膝が痛くなり行けなくなったとは言い出せず、足を引き摺りながら札幌へ出発。痛みのため膝が上がらず摺り足で歩くとほんの少しの段差でもつま先がぶつかり、その度に激痛が走った。年を取るとバリアフリーが如何に大切かを身をもって体験した。この状態でゴルフができるのかと危ぶまれたが、膝のテーピング、痛み止めの湿布とボルタレンそしてカートを駆使して前半50台、後半、例のショートホールまで1オーバーできて、ここでトリプルを打ち無事終了。翌日は無理やり取っていただいて文句も言えないが、北海道にあるまじきひどいひどいひどいコース。朝の第一組のスタート。左ドッグレッグの狭いミドル。バッフィーでナイスショットし、ショートアイアンでパーオン。落差20ヤードもありそうな二段グリーン。ファイブパット。少し切れ掛かっているところへ突然雷が鳴り出し、雨が降ってきた。「危ないからやめよう」キャディは知らん顔。茨城ならすぐに避難所へ行く状況。その後もショットもパットもめちゃくちゃ。そしてワンオンできるミドル。三人に一人がツーオンするロング。コースもめちゃくちゃ。バブルの落とし子でクラブハウスだけはご立派。極めつけは、クラブを送るため宅急便の手続きをしている間に、傍に置いておいた手荷物のバッグが行方不明に。正に踏んだり蹴ったりであった。悪いことはその後も続いたが、ある事を境にぴたっと止まり好転した。
その後ホールインワン保険に入り、ショートコースを前にすると間違っても人らないようにと念じっつ、かといってグリーンをはずしたくない複雑な気持ちでショットを楽しんでいる。この次のホールインワンではもっと面白いこと、楽しいことがあるのではと夢想しながら。
〜消えた蜂の謎・編〜
「今日配達で来た若い女の子なんだけど、玄関で奥で鳴く虫の音を聞いてすぐわかったのよ。ワー、奥さんとこ鈴虫飼ってるんですね、って。ただものでないわ。」と家人は感心しております。帰宅直後のわたしは飼育中の鈴虫の餌の取換えや霧吹きをしていました。片方の耳で聞き流しながら、笑って申します。
「蜂も飼っているんですよ、外でなんですけど、と言えばいいのに。
「鈴虫は風流そうでいいんですけど蜂を飼うなんて変人だと思われちゃうだけだわ。」
そうかもしれませんね。でもほら牛飼、羊飼と並んで蜂飼なる言葉はあるんですよね。すなわち養蜂家とも呼び、ご存知とは思いますが、これはミツバチを飼い、蜂蜜を採取して生計を立てる人を呼びます。
我が家では、玄関先の鉢植えに出来た蜂の巣がゆっくりと大きくなるのを、この半年間ずっと観察していたのです。もちろん蜂に餌こそ与えていませんが、気分は「うちの蜂」という感じ。
春先のある日のことでした。もとは可愛いクリスマスツリーがいまは成長して大きな鉢植えです。たった一匹の蜂がこの木の枝に巣作りをし始めたのを偶然見かけたのでした。後でわかったのは、家人もこの小さな発見をしていて、見守っていたのでした。小さな柄が付いてぶら下がった円錐形の蜂の巣が、毎日少しずつ作られてゆきました。夏には働く蜂の数が増えていて、数十匹になっていました。昆虫図鑑によれば、おそらくフタモンアシナガバチという人家の周囲にもよくいる、きわめてありふれた種類なんであります。
この蜂の一家のあまりの繁栄ぶりに、一度は家人から「蜂に刺されそうだから巣を撤去しましょうよ。」との提案もありました。これももっともで、彼女の駐車した車の右ドアのすぐ脇にこの蜂の巣が位置していたからです。毎日ブーンと数十匹の蜂に飛び回られては、さすがに心配なんでしょうね。かのスズメパチじゃないんだから、こちらが攻撃しない限り刺さないから、すぐそばに近寄ることだけは避けなさいよとわたしは妙に自信を持って説得していたのでありました。
九月の終りのある日のことです。「今日、とっても不思議なことがあったのよ。」と夕食を食べながら家人が言います。
「あんなに朝まで百匹もいた蜂が突然夕方までに一匹もいなくなつたの。」
翌朝見ると、昨日まではにぎやかに餌をとりに行っては、夜は帰って来て、昼でも相当の居残り組のいた蜂の巣がほんとうに空っぽではありませんか。
蜂がいないので安心して房室を数えるとおよそ百ありました。二居室に一匹の幼虫が育児され、半年で一匹から約百匹が育ったわけです。
この連中がなぜある秋の晴れた日に、忽然と巣から姿を消したのでしょう?
大いなる謎であります。
病院で「昆虫少年」の経歴の後輩医師のMさんにこの疑問をぶつけました。答は明快でした。群で新女王蜂は十数匹に一匹の割りで誕生しその複数の女王蜂を追って、雄の蜂もいっせいに巣を飛び立つそうです。条件は満月の頃で気温二十度前後の秋のある日に。…まさにそうです
ちなみに巣立ち彼の雄はすべて死に、交尾した女王蜂が単独で木の穴にもぐり込み越冬するとか。そして翌春にまた一匹から一家の構築をスタートするんだそうです。