長岡市医師会たより No.273 2002.12
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表紙絵 「大雪の朝〜飯山の近く」 丸岡 稔(丸岡医院) 「果たせなかった夢、鉄腕アトムを永遠に!」 福本一朗(長岡技術科学大学) 「善人猶以て往生を遂ぐ」 福田 光典(悠遊健康村病院) 「西部班近況報告」 杉本 邦雄(杉本医院) 「病後児保育室のご紹介」 藤島 暢(ながおか生協診療所) 「おろし蕎麦の辛さ」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
果たせなかった夢、鉄腕アトムよ永遠に! 福本 一朗(長岡技術科学大学)
1.鉄腕アトムの誕生
手塚治虫博士著「鉄腕アトム」講談社全集版で「アトム誕生の日」とされている2003年4月7日はまさに目前に迫っている。しかし現在の人類の科学技術では、二足歩行ロボットASIMOやペットロボットAIBOの成功はあるものの、手塚博士の夢見たような喜怒哀楽の感情をもつロボットと人類の共存社会まではほど遠い有り様である。孤独な少年の日にアトムと出会い、「一人ぼっちの人間の友達となることのできるロボットを創る!!」と果たせぬ夢を見て歩んできた一学生の半世紀を、ここに御披露申し上げさせていただき、お笑い草としていただければ幸いです。
手塚治虫博士、本名手塚治先生は1928年11月3日大阪府豊中市に父ゆたか、母文子の長男として誕生された。あの痛ましい児童虐殺事件で有名な大阪教育大附属池田小学校(当時は大阪府立池田師範附属小学校)に1935年入学され、少年時代は昆虫採集に夢中になり、将来のペンネームの「治虫」も平山修次郎著「原色千種昆虫図譜」の中の「オサムシ」という昆虫の名前から採られたという。旧制大阪府立北野中学(現北野高校)を卒業後、1945年に大阪大学附属医学専門部に入学され医師の道を歩まれる。学生時代の趣味は、当時「児戯」として軽んぜられていた漫画を描くことであったが、終戦直後に見たディズニーの総天然色アニメのレベルの高さに驚惜し、漫画に生涯を捧げる決心をされる。既に1946年にはデビュー作の4コマ漫画「マアちゃんの日記帳」を「少国民新聞(後の毎日小学生新聞)関西版」 に連載される。その後、「新宝島(1947)」「ロストワールド(1948)」「ジャングル大帝(1950)」など次々と傑作を世に問い、医学部卒業の1951年には遂に、雑誌「少年」に「アトム大帝」を連載され、翌年からは「鉄腕アトム」として不朽の名作を長期連載された。筆者は1950年兵庫県姫路市の生まれであるので、同じ風土の関西の同じ時期に手塚先生がアトムのアイデアを生み出されたということは偶然ではない運命的なものを感じた。手塚先生は1952年(お茶の水博士の生誕年)に東京に引っ越された後も、「リボンの騎士(1953少女クラブ)「ぴいこちゃん(1958)」「漫画生物学(1958第3回小学館漫画賞受賞)」などの名作を発表されながら、1959年には結婚、1961年には精子の研究で医学博士の学位を取得された。そして1963年には国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」をフジテレビで放送開始して高視聴率を記録し、1965年には厚生大臣より表彰を受けられた。物語の中でアトムの生みの親である天馬博士は1966年の丙午の生まれだとされているが、まさに1960年代が手塚先生の医師・漫画家としての才能の最も美しく花開いた時期であるといえよう。筆者がロボットを作るという無謀な夢を抱いて東京大学に入学し上京した1968年に、手塚先生はその後20年間日本アニメ漫画制作の中心となった株式会社「手塚プロダクション」を設立されている。
それ以降40年以上にわたりひたすら漫画とアニメ制作に全精力を傾け尽くし、国内外の賞を数多く受賞され、なかでも東京都民栄誉賞(1985)・朝日賞(1988)を受賞されたことは、漫画を芸術の一分野にまで高められた手塚先生の功績を全国民が認めた証しと言えよう。先生が還暦直前胃ガンで天に召されたのは1989年2月9日のことであったが、その日は奇しくも筆者が留学中のスウェーデン王国ゴツセンプルグ大学医学部医師課程を卒業し、手塚先生と同じく医師となったその日であった。
2.生体工学から医用工学へ
筆者は孤独な幼稚園の頃から手塚先生の鉄腕アトムに憧れて、人間の友達となってくれるロボットを自らの手で作ることを夢見た。しかし当時はロボット工学など存在もせず、わずかに早稲田大学理工学部で二足歩行ロボットや電子義手が開発され、東京大学工学部で人工知能が研究されているだけであった。このうち前者の機械的部分については当時のものはまだ玩具の段階で、人間の滑らかで柔軟性に富む動きにはほど遠く、「堅い金属で本当に人間の友となるロボットが作れるのか」と疑問に思えた。そのため人工知能研究のメッカであった東大工学部に進学することに決めたが、当時東大工学部では計数工学科の南雲仁一教授と電気電子工学科の斎藤正男助教授の2研究グループが成果を競っておられた。両方の研究室を見学してみて、南雲研での研究はソフトウエアが中心で数理工学的であるのに対して、斎藤研は動物実験や人体計測もあって、より具体的なハードウエアに近い生体工学的であると感じた。運良く進学できた電気電子工学科の中で、激しい研究室入室競争になんとか生き残って斎藤研究室の一員となったのは1968年4月の事であった。そして人工知能の一種である「学習機械」を卒業論文の課題に選び、人間の神経回路を模擬した「拡散結合型パーセプトロン」を提案して1969年4月卒業した。卒業が3月ではなく4月だったのは、激しかった東大紛争中のストライキのせいであった。卒業後、当時生体工学研究企業のトップであった日本電気に就職したが、石油ショック直前の経済状況で、中央研究所に勤務しておられた同じ斎藤研出身の古川隆先輩(後の取締役)も学習機械研究は中止となり、生体工学部門は入社時には三栄測器という子会社に移されてしまっていた。結局、永井社長始め首脳陣直々の面接で採用を決定していただいたのにも関わらず、日本電気に就職した同期の4名のうち筆者を含めて3名が早々に退社することになった。選んだ道は公務員や企業経営など様々であったが、筆者は斎藤先生のお誘いもあって、わずか3ケ月のサラリーマン生活に別れを告げて大学の研究室にもどった。日本電気では磁気記憶事業部に配属されていたが、そこで痛感したことは「人間は自分自身の脳のこともほとんど知っていない。人工知能研究のためにはもっと人間の脳のことを知らねばならない。」ということだった。
1973年4月に斎藤先生が工学部から医学部の医用電子研究施設基礎工学部門の教授に栄転されたのに伴い、一人だけ医学部に御供して移籍することになつた。当時の医用電子研究施設の施設長は我が国の人間工学の創設者である大島正光教授が基礎医学部門を主催されていた他に、人工心臓で名高い渥見和彦教授と桜井靖久助教授(後の東京女子医大教授)が臨床医学部門におられた。毎週土曜日の午前中は三部門共同の医用電子コロキウムが開催され、人工心臓・人工血管・レーザーメス・疲労計測・振戦計測・睡眠解析・痛覚計測・体表心電図マッピング・CT装置などが我が国で最初に紹介されたのもこのコロキウムであることからわかるように、極めて広範囲かつ最新の話題を勉強することができた。同時に斎藤先生の御世話で東京女子医科大学医用工学研究所主催の「医用技術者養成カリキュラム」の第4期生として入学させていただき、シネアンギオ装置の発明者である三浦茂教授と慶応出身の生理学者であられる伊藤寛志助教授(後の杏林大学生理学教授)から、工学者として身に付けておくべき基礎医学・臨床医学・薬学の手ほどきを受けたことは、その後の研究に大変役立った。女子医大のカリキュラムでは、緒方洪庵の御孫さんといわれる御老人から医史学の講義を受けたことと、人体解剖の時に生まれて初めて人の脳を手にささげ持ったときの感激は生涯忘れられないものであった。
このような医学的環境の中で、いつしか「生体工学」を究めてロボットを作ろうという夢は、工学技術で患者を救おうという「医用工学」へと移っていった。東大医学部医用電子研究施設の自由な雰囲気の中で、たった一人複雑な生体を前にして無節操に研究を創めた。「リズム記憶の計算機シミュレーション」「深部反射定量計測装置の開発研究」「熱痛計の開発研究」「生物発生現象のシミュレーション」「医療情報データベースの研究」「抗体応答の数理的モデル」などなど。特に最後のものは免疫現象を定量的な細胞増殖現象として世界ではじめて数式に定式化し計算機シミュレーションを行ったもので、1982年に東大医学部から医学博士を授与された。その時の学位審査委貞は渥美和彦先生・多田富男先生・小川鼎三先生・渡邊瞭先生というそうそうたるメンバーであった。余談であるが斎藤研で始めて購入された当時のパソコンPC6000は最新鋭であったが、現在とは比較にならないほど計算速度も遅いうえ、記憶容量も256Kバイト程度しかなかったためいろいろとプログラムを工夫せねばならず、一つのグラフを描かせるのに1週間もかかり、関西出張の前にパラメータを与えてパソコンとプリンタを動かし出張から戻ると微分方程式の計算結果としてグラフが一つ出力されていたという有り様であった。
3.医用工学から医学へ
学位はいただいたものの職はなく、斎藤教授の御世話で幸いにしてスウェーデン労働科学研究所から客員研究員のポストを与えられ、1982年4月に渡瑞した。スウェーデンでは首都ストックホルムに次ぐ第二の都市であるイエテポリ市(英語名ゴッセンブルグ)にあるシャルマース工科大学医用電子研究所の客員研究員として、マグヌッソン教授の御指導の元、ゴッセンブルグ大学医学部神経内科教室と共同でパーキンソン振戦の計測と解析の研究に打ち込んだ。同時にゴッセンブルク大学予科SVISSに在席して毎日午前中は難民や亡命者達に混じってスウェーデン語を学んだが、このコースでは1年で20回もある試験のどの段階でも3回連続で不合格をとると国外追放という大変厳しいものだった。このようにスウェーデンではやる気があれば同時に何足のわらじでも履くことができたので、客員研究員をしながら翌年には博士課程院生にも在籍させていただいたのみならず、1983年に無事予科を卒業した後に、幸いゴッセンブルグ大学医学部医師課程にも入学することができた。また心理学科の夜間コースにも在籍し、当時はまだ珍しかった性心理医学Sexologyの課程を修めsexologという称号までいただいた。最初は2カ年の予定の留学であったので、医学部では北欧の医学教育を垣間見るだけと考えていたが、2年経っても日本で職はない反面、異国の患者さん達を診療させて貰えることが面白く、遂には5年半の全課程を終了してしまった。この時点でスウェーデンに永住するのもいいなと考え、2カ年の予定でインターン生活を始めた。卒業の翌日から当直勤務があり、内科半年、外科半年、精神科3ケ月、総合診療科半年をローテーションする北欧のインターン制度は、合計5000人の患者さん達を診療することでも解るように、General practitioner(総合診療医)となるための実際的な指導と訓練が行われて非常に有益であった。1日当直すると1日の休みが貰えるのでそれを溜めて1990年の冬には卒後教育課程としての国際医学を履修し、その総仕上げとしてケニアに1ケ月間医療奉仕に赴いた。その間、研究の方も英文誌に投稿した「パーキンソン振戟の数理的モデル」が採択され一応の任務を果たすことができた。しかし医師となって様々な人間像を見ていると、これまで漠然と考えていたロボット設計上の問題点がつぎつぎとクローズアップされてくるのを感じるようになった。そしてそれは大学に戻ってきた時に感じたように「人間は自分自身の脳のこともほとんど知っていない。人工知能研究のためにはもっと人間の脳のことを知らねばならない。」という考えに舞い戻ってくることになった。
4・医学から再び工学へ
1991年の春、長岡技術科学大学工学部生物系医用生体工学教室に助教授として着任するため、9カ年に及んだスウェーデン留学を切りあげ帰国することになった。帰国後はまた工学部に在籍することになったため、各種医用機器の開発研究など、もの作りを主体としたプロジェクト研究を開始したが、その中でも人間の神経系に関する研究が中心となった。スウェーデン留学時代の研究の発展としての「パーキンソン振戦の研究」は振戦計測器の開発を通じて人間の錐体外路系と意志との相関を探ることになり、「アルツハイマー型痴呆診断装置の研究」は、人の高次神経系の構築と機能への興味をかき立ててくれた。同時にここでも幸い歴代の学長のご好意で、医師としての兼業許可を文部大臣からいただき、長岡市休日急患診療所外科当直と市内協力病院で週2回内科のクリニックを持たせていただき、臨床医としての活動のまね事も続けることができた。現在はロボットの研究は中断しているとはいえ、毎年技大も参加するロボコンはかかさずテレビ観戦し、若い学生さん達のアイデア溢れる技術力に感心しながら、心の中に少年の頃の夢が消えずに残っていることに気づく。
5.ロボットと人間
2000年にホンダ技研が発表した人間型ロボットASIM02000は、人間と同じように階段を2本の足で歩いて上下し、人と握手した。その様子は全世界に報道され「科学技術立国日本において遂に人間型ロボット誕生!!」との衝撃を与えた。ホンダの技術者達は「社会と共存・協調しながら、人間社会に新たな価値をもたらすモビリティとして創造したい。」と願い、最先端の2足歩行技術をもつ人間型ロボットを作り上げようと10年以上の努力を続けてきた。ASIM02000は近い将来、実際に人間の生活空間で活動することを想定しており、自由自在な移動や作業を行うのに適切なサイズや重量・操作性を実現したため、今までのロボットより身近に感じられるデザインとなつている。ASIMOの特徴としてはこの人間並みの小型・軽量化サイズと親しみやすいデザイン以外にも、より進化した歩行技術・動作範囲を広げた腕・簡単な操作性を得ていることなどが挙げられる。
〔ロボット工学三原則について〕
1992年ニューヨーク市内の病院で72歳の天寿を全うしたSF文学の巨匠・科学解説者のアイザック・アシモフ氏は、1920年旧ソ連に生まれ3歳の時に両親とともに米国に移住帰化し、コロンビア大学で化学・生化学を専攻して博士号を取得。12歳から書き始めたサイエンスフィクション(SF)の世界では草分け的存在で、有名な「ロボット工学三原則」を打ち出した「われはロボット」(1950年)や「鋼鉄都市」(1954年)、「永遠の終り」(1955年)などのSF小説をはじめ、科学啓蒙書を含めると著書は500冊を超え、手塚治虫、筒井康隆さん達、日本のSF界にも影響を与えた。アイザック・アシモフは、彼の短編集「われはロボット」(1950年)のなかで、ロボットの思考原理として「ロボット工学三原則」を提案した。
「ロボット工学三原則」
第1条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第2条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。
第3条 ロボットは、前掲第1条および第2条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない。
このロボット工学三原則はロボットが社会に受け入れられるための、憲法とも言うべきもので、ロボットを作る工学者が常に座右の銘としておかねばならない。ただ現在では「これだけでは、単に社会に存在する機械としての条件を規定しているだけで、ロボットが人間の心の友となるためには不十分である」という反省が生まれてきた。例えばソニーが開発した犬型ペットロボットAIBOは爆発的な人気を博し、ペットを飼うことの困難な都会に住む孤独な若者達の友となっているが、このAIBOの製作者達はアシモフの「ロボット工学三原則」をさらに発展させた「AIBO ロボット三原則」を提唱している。
「AIBOロボット三原則」
第1条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。自分に危害を加えようとする人間から逃げることは許されるが、反撃してはならない。
第2条 ロボットは原則として人間に対して注意と愛情を向けるが、ときには反抗的な態度をとることも許される。
第3条 ロボットは原則として人間の愚痴を辛抱強く聞くが、時には憎まれ口をきくことも許される。
アシモフとAIBOの三原則の最も大きな違いは、ロボットを 「奴隷」的なものとして捉えているか、「パートナー」として捉えているかという点にある。「パートナー」である以上、人間の命令を聞くだけでは豊かなコミュニケーションは発生しないというのが、AIBOを開発したソニーの技術者達の考えである。
確かにAIBOを相手にしていると、単なる機械人形ではなく、「意志」をもっている生き物のように思える。しかし、猫や犬を飼ったことのある人は 「何かが違う!!」と感じるはずだ。それは「故意に無機質的に作られている外見から受ける印象」からのみではない、もっと深い「生命体としての存在感」というべきものが欠如しているように思える。言葉を変えて言えば「かけがえのない個体が個体を認識し、他の個体に対する時とは異なる個別的な反応をする」ことがないためではないだろうか。そのためには、哲学も解決しえていない「自我」とはなにかという問題と直面しなければならない。
ここに至ってロボット作りは工学者だけで行える電子機械工作だけではなく、心理学者・精神科医・文学者そして一般大衆にも問いを投げ掛ける「汎人間学」であることに気づく。手塚先生が夢見た鉄腕アトムは、実は人間が人間自身を知らねば決して実現しない「人類究極の夢」であったのだ。空を自由に飛び回ることも、天馬博士の夢だった「成長する人形」も、客船を持ち上げる十万馬力も、今日の科学技術をもってすればかならずしも不可能ではない。しかし「良心」や「愛憎」そして「喜怒哀楽」を備えた電子頭脳を作ることは、もしかしたら「生命」を作り出すことと同じくらい困難なことであるかもしれない。アトムが教えるように、「汝自身を知れ」という古代の哲人の命題を真撃に考え続け、かつ「科学技術は人類の幸福のためにのみ存在する」ことを全ての人が片時も忘れず努力してゆけば、人類は「青い鳥」のようにいつの日か幸福に巡り会えることであろう。身を挺して地球を護った鉄腕アトムの愛に満ちた気高い精神よ永遠なれ!
(2002.8.15 57年目の終戦記念日に)
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歎異抄は親鸞の没後、弟子唯円によって編集されたとされる。親鸞はその中で「善人猶以て往生を遂ぐ、況んや悪人をや」と説いているが、これも親鸞のような人物が言うからパラドックスに成るのである。パラドックスとは一般に「矛盾している様で実は真理を衝いている表現」とされるが、「一見正しく見える矛盾した言葉」とも訳されている。以下の如し。
瀬戸の花嫁は不幸になるというパラドックス
30年前「瀬戸の花嫁」という歌が流行した。「♪若いと誰もが心配するけれど、愛があるから大丈夫なのー」と歌うあれである。これからお嫁に行く彼女は「彼と私は愛で固く結ばれているから心配いらない」と周囲の者に誇示している。しかし愛などという漠然としたもの、暖昧模糊としたものを彼女が盲信しているから、周りは「まだ若い」と心配するのである。
男女間の愛などは儚いもので、それに気付いた時に多くの女が傷つき、傷つくのを拒む女は不幸の門出となる。
信号を守ると事故に遭うパラドックス
小生は歩行中は信号を守らない−守らないというよりも、信号を信用しないのである。例え青信号でも無謀運転車が急襲して来ないか、戦々兢々として右顧左眄しながら渡る。逆に車が来ないと見れば、赤信号であろうが横断禁止であろうが大手を振って憚りなく渡ってしまう。
しかるに子供は単純だから、先生に教えられた通り信号を頑なに守ろうとする。「青信号は安全」と信じ切っているから、左折のダンプに巻き込まれる事故が後を絶たない。
民主主義が独裁制を生むパラドックス
ドイツがポーランドに侵攻する6年前(1933年)、ナチスの党員は150万人に達した。1月の選挙でナチスが第一党になり、ヒトラーが43歳で首班に指名された。そしてその年の3月には議会政治が廃止された。国会議員が自らの投票で、全権委任法を可決したからである。ヒトラーの独裁政治は民主的に多数決の下に誕生したのである。
泳げる人が背の立つ浅瀬で溺死するパラドックス
前東京都観察医務院長の上野正彦氏は多くの溺死者の解剖の結果、錐体骨内に特有の所見を発見した。即ち錐体骨内の出血が溺死を引き起こしていると考え、このパラドックスを解明した。
私達が予期せず水中に潜ると、鼻や口から水を吸い込み耳管に水が入ることがある。細いパイプ状の耳管に入った水は水の栓を形成する。更に水中で嚥下運動が繰り返されると、耳管内の水栓はピストンのように耳管内を往復する。その結果鼓室から錐体内の庄が急変し、毛細血管が破綻して錐体内出血を起こす。そのため錐体内部にある三半規管は急性循環不全に陥り、平衡感覚が失われて溺れてしまうと説明する。
酒を止めると不健康になるパラドックス
「小説を書くことくらい体に悪いものはない。しかし私は小説を書く。体に悪いから止めるという訳にはいかない。
酒を止めたら、若しかしたら健康になるかも知れない。しかしそれは、もう一つの健康を損なってしまうのだ。」山口瞳
売春は合法というパラドックス
1979年の英国、売春を合法化し売春婦の身分を保証しようとする法律が国会で審議された。彼女等の代表いわく「生活のために一人の男にセックスを提供する妻は答められず、同じく生活のために複数の男にセックスを提供する私達が罰せられるのは如何なものか?」
裏口入学のパラドックス
受験競争の過激なる昨今、裏口入学の問題が後を断たないが、その元凶は現行の入学制度にあると私は考える。即ち、学校経営に多大な貢献をした受験生をコソコソ裏から入れるので、一般民は「何か裏がある」と疑うのである。
高額の寄付金を納めた者はその金額順に公表して、須く表から堂々と入学させるべきである。優秀だが金のない受験生こそ裏口からこっそり入学させてやれば、負い目を感じてひたすら勉学に励むことであろう。さすれば受験地獄の呵責から解放され、一切有情往生が叶うのではないだろうか。
各班の紹介が、ここ二年の間にあり、当班がシンガリだと云うことで、大変遅くなりましたが、ご報告申し上げます。
当班は一番少人数の班で、一月に谷口昇先生を失って淋しい限りです。谷口先生を偲んで昨年の忘年会の写真を使わせていただきました。
写真に写っておられる方以外、江部恒夫、江部佑輔、斎藤寛、十見定雄、渡辺健、笛田孝雄、笛田孝明の先生方、総勢17名の所帯です。
かつては、市中心部で活気がありましたが、現在ではお互いに疎遠になり、顔を合わせるのは忘年会のみと云うようなことになってしまいました。
今回の忘年会の出欠ハガキに
(1)自己紹介
(2)今、思っておられる事
と自由に書いていただきました。許可を得てこれを原文のままご紹介します。
A先生
(1)旭川より、かつて軍医として高田にいた父の想い出の地、新潟に来ました。日本海の夕日に魅せられ、女房とも出会えたことで、新潟に居残ってしまいました。開業してはや21年日になりましたが、”何もかわらなかった”が実感です。
(2)哀愁の○○という曲なら何でも聴いてみたいです。形無き画、形有る詩、いのちの書なるものに想いをめぐらせながら、日本海の夕日を眺めていたいと思っています。
B先生
(1)開業して15年がたちましたが、マイペースで細々とやっております。
(2)日本医師会は頼りないですね。
C先生
(1)老兵は消えるのみ。しかし「自らの楽しみ心、捨てたくない」。
(2)進化論とは本当か、神とは何かと考えています。そして1日が48時間くらい欲しいところ。
D先生
(1)趣味は、レコード・CD鑑賞、楽器演奏(ギター、ベース)
(2)特にありません。
E先生
(1)卒業後30年、開業15年となります。「なんともないか」をやっていますが、「いいともないか」を心掛けています。
(2)西部班の大先達、故谷口、野本先生方のように生涯現役を貫き、「臨床50年」を書くことを目標にしています。
F先生
(1)ただ何となく、のんびり診察です。
(2)小泉内閣と坪井日医に対する不信感。
G先生
(1)(2)私は旧制長岡中学校を卒業するまで長岡で育ち、毎冬、毎日スキーをした。その後スキーを全く止めたが滑ろうと思えば、いつでも出来ると思っていた。しかし最近、膝を老年性変化でやられ、スキーは絶対出来ないと悟った。年をとるとやれないものがあることを数え80才にして、やっと悟った。若い人は何でもやることです。若い人は何でもやれるんだから。
H先生
(1)平成15年は医師になつて40年目の年。この間の医学の進歩はものすごいもので、少しでも吸収すべく勉強しなくてはと思いながらも、胃全摘4年たっても夜間の逆流現象での慢性的な寝不足。この所為にして怠けています。休みの日は元気はよいのですが…
(2)日本丸沈没は時間の問題。民間から広く知恵を集め、起死回生の一策を立てられないものか? バブルを演出した政治屋達の追放が必要だが。
I先生
(1)話題少なく口下手。我俵で軽度鬱の典型的な雪国の長岡人と思っております。
(2)ご多忙にも拘らず沢山の趣味、しかも素人の域を越えられた多趣多芸の医師も多くおられるのに驚かされます。ああ、70数年間、何をやってきたのか。
J先生
(1)大学と江部医院の往復をやっています。
(2)仕事とゴルフの両立。
K先生
(1)昭和38年6月1日に、38才の私は70才の父のあとを継いで皮膚科医として開業しました。趣味は音楽と絵画ですが難しいです。
(2)12月に第九の演奏会があり、オケの皆さんについてゆかれる様に頑張りたいと思っています。
どの文がどなたのものかお楽しみ!
この度の忘年会は9名のご参加でしたが、
*日医、もっとしっかりやれ
*病気療養中の先生方のこと
などなど久し振りで楽しく一夜を歓談、来るべきよき年を祈念して散会と、なりました。
長岡市の委託事業による病後児保育室として、ことし4月から前田1丁目のながおか生協診療所に「すこやか」が開設され、また12月2日に四郎丸2丁目の東部どんぐり保育園に「にこにこ」が開設されました。
病後児保育室は、保育園や幼稚園に入園している児童が病気やけがなどの回復期で安静が必要なため通園できない場合で、保護者が勤務などの都合により家庭で育児できないときに児童を預かり、看護師らが保育する施設です。事業の利用にあたっては、かかりつけの医師から、病後児保育を利用するに適当と認めた旨の連絡票の交付を受ける必要があります。
医師連絡票は、一枚には病名・病状・処方内容・指示事項などを、もう一枚には医療機関名・医師氏名などを書きます。この場合情報提供料(A)を請求することが出来ます。連絡票は実施施設にありますが、今後、長岡市から医療機関に配布予定です。
当然のことですが保育室で医療行為を行うことは出来ません。与薬は公認されておりますが、職員は薬の内容を知っていなければなりませんので、連絡票に記載方お願い申し上げます。病後保育の適否については、
*与薬以外の治療を必要としないこと
*伝染性が高くないこと
を目途に判断して頂きたいと存じます。「病児」と「病後児」とを判別するのは難しいことでございますが、一定の基準は決められておりません。なお保育室には嘱託医が決められており、職員が子どもの病状について疑問を持ったときは嘱託医に相談するとになっております。両施設とも定貞は2名、利用料は1日2,000円です。
電話は「すこやか」38-0813、「にこにこ」34-8200
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「栃尾のMほという蕎麦屋、もう行ってみた?」と会合で顔を合わせたOさん。
「いいえ、まだ。うまいんですかあ?」「うん、手打ちでそば粉だけの十割蕎麦なんだよね。」
Oさんはグルマンです。新年の準備なら鮭一匹捌き、氷頭膾なんぞ作られます。蕎麦打ちも数年前に凝っていた時期があり、わたしも幾度かご馳走になりました。その鉄人の推奨の蕎麦、ぜひとも試さねば…。
その週末の午後、外来を終え家人と郊外ドライブがてら隣の栃尾市へ事で。新榎トンネルを越え、片道30分です。メモの店の住所からカーナビ探索、近くでお店に一度電話し無事に到着。方向音痴の似たもの夫婦なんですから、このカーナビ装置の進歩はありがたいです。
「さっき電話した者で、知人に教わり長岡から」云々と話し始めたら引き戸を開けて登場の次のお客は誰あろう、当のOさんご夫妻です。
「おお、さっそく食べに来たね。」
「はい。」
途中さびれてもう店なんかないと思うような道路で合っているからとの説明はその通りでした。
蕎麦屋の若いご亭主が「新しく蕎麦を打つので時間が少しかかるが、よいだろうか?」と聞いてきます。
当方は目の前で蕎麦打ちを見学でき、打ち立ての蕎麦を食するのは大いに望むところ。そば粉百%の蕎麦が手際よく打たれてゆきます。自ら経験のあるOさんがしきりに本職の手並に感心しています。
「蕎麦打ちキャリアはまだ一年半に過ぎないんすよ。」と正直な亭主です。
「もうちっと稼げると、この打ち台も見栄えのよいものが置けるんだけどね。」と照れます。
「ところでO先生、なにがお勧めメニューでしょう? 「鬼の涙」など謎の献立も品書にありますが。」
「それは辛すぎる。おろし蕎麦がうまいんだよ。わたしは二杯ね。」とOさん。
「それもかなり辛いから、わたしたちは大根おろしは別に付けていただきましょうよ。」と奥さん。この方も噂好が家人と似ておられ、辛味と葱が大の苦手。おろし蕎麦をO家は三杯、こちらは二杯とざる蕎麦一枚を試しに注文します。
「お蕎麦がどのくらいおいしいのかなんて、全然わかんないくらいおろしが辛かったわ。」と帰り道の家人です。自業自得の面もありです。せっかく忠告してくれるお方もあったのに、辛味大根おろしをぶっかけ蕎麦の丼に全部かけちゃったんです。食べ始め数口で箸の動きが止まり、相棒は心中辛さに泣いていると見抜いたわたしは、ざる蕎麦に交換してあげて、残りを頂戴しました。
蕎麦湯を飲みつつよもやま話。亭主は熱心な贔屓客のOさんを前にうれしそうです。この辛味大根も畑で栽培しているが薬味としての単価は結構高いこと、おろし蕎麦好きのお馴染にはサービスで気合込めて辛くするなぞと。…そっ、そうだったのかあ。わたしたち初心者は「並」でよかったのにどうもOさんを意識して「特辛」だったらしいのです。
ところで蕎麦は加齢とともに好物になりました。上京してたまに寄るのは神田Mやです。蕎麦そのものがうまいが、難点は遠方なのと込み合っていてあわただしく、「蕎麦型」より「ほうとう型」体型のわたしには席が狭いこと。
地元では越路町のA山酒造の蕎麦屋が酒もうまく好きです。この栃尾の蕎麦屋もよろしきかな。…くれぐれも大根おろしは別盛で注文し、自分で加減されますように。