長岡市医師会たより No.277 2003.4

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「四月の朝」       丸岡  稔(丸岡医院)
 「ピアノとの出会い」       田村 隆美(田村クリニック)
 「輪廻転生〜その2」       岸   裕(岸内科・消化器科医院)
 「第1回地域医療連携運営委員会」 理事 富所 隆(長岡中央綜合病院)
 「新会館事業の動向〜その11」  会館建設委員会委員長 大貫啓三
 「新会館新築工事地鎮祭祝詞」   蒼柴神社 永井康雄宮司様
 「丸山正三展と院展をハシゴする」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

四月の朝   丸岡 稔(丸岡医院)

ピアノとの出会い  田村 隆美(田村クリニック)

 「もしもピアノが弾けたなら」「サバの女王」「゛サウンド・オブ・ミュージック」「翼をください」「花嫁」「ノクターン」…最近弾いている曲目の羅列です。

 年男のアンケートで、趣味はピアノと書きましたが、趣味とは「本業以外でストレスを余り感じないもの。」と自分なりに勝手に解釈した結果ピアノとしました。簡単に言えば、下手でも面白いと言うことで、はっきり言って下手くそです。

 出会いと言うほどおおげさなものではなく、初めてピアノを弾いた(触れた)のは小学校3年生位だったと思います。母親に「明日からピアノの稽古があるから」と言われ、いやいやながら習い始めました。当時(昭和40年代頃)広島県の高校入試は、公立高で9科目(主要5科目に、音楽、技術家庭、美術、体育実技)で、母親の「音楽が出来ないと高校入試に落ちる事がある。だからピアノを習いなさい」と言う、とんでもない理由でスタートしたわけです。

 しかし、何のモチヴューションもなく、自宅にピアノはなく、練習は紙の鍵盤では上手になろう筈もなく、さらに「男のくせにピアノを弾いてる」などと陰口を言われ、ピアノ教室内がほとんど女の子で一杯の中、長く続くはずもありません。「腹が痛い」「熱がある」などの言い訳を続け、黄色バイエルの途中で止めてしまいました。1年半は通ったでしょうか、かすかな記憶ながら、何回かの演奏会には出席し少なくとも、両手で弾けた記憶は残っています。高校入試で和音が聞き取れなかった時、「やめないでいれば。」と一瞬思いましたが…。(無事合格はしました)

 心のどこかに「あの時やめないで続けていれば…」と言う思いがあったのだと思います。平成12年の3月頃、娘が「ピアノを習いたい」と言い出した時、つい「俺も始めようかな」と一口言ったのが再度のピアノとの出会いです。

 現在週一回ヤマハの個人レッスンを受けています。周りは幼稚園児から、小学生までで大人(中年) は私だけで、娘を迎えに行く振りをしながら通っています。レッスン書は、「大人のためのピアノ教本」(英語に例えるなら文法)と「やさしくひける大人のピアノ」(実践編)で月2曲程度練習しています。

 丸3年習った効果のほどは、とても人様に聞いていただけるものではありませんが、日曜日に愛犬(時に室内犬となる)のゴールデンレトリーバー(34kg、雌、4歳)に聞かせてやると、自分も心が落ち着きます。

 年男のコメントで格好をつけて、偉そうに演奏会をやりたいなどと書きましたが、60歳からが上り坂の人生だと考えれば、12年後本当の希望として実現したいと思っています。

 ちなみに、私の名前の隆美は「たかみ」と読み「たかよし」ではありません。女の子の様な名前ですが、47歳の男性医師です。

 

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輪廻転生〜その2  岸 裕(岸内科・消化器科医院)  

 「みんな男ですか、と聞く人いっぱいいますけど、みいいんな男ですよう。とっても椅麗ですよう。」「チップに20バーツ札用意しておいて下さい。20バーツ(60円)でいいですよ。一緒に記念写真とれまあす。」というブーン・チャイさんの言葉に従って背広のポケットに20バーツ札を数枚用意しながら客席のテーブルに着く。

 長岡市立劇場程度の中規模なホールはテーブル席、椅子席ともに超満員で、若い日本人観光ギャルもどこから湧いて出て来たのかと思うほどいっぱい集まってきている。

 そして中央の大きなステージにはすらりとのびた長い足のどこから見ても美女という数十人の男達(本当か?)がアップテンポなビートに乗ってところ狭しと踊りまくる迫力は地鳴りのような振動と眼にみえるほどの舞台のゆれを伴い観客を圧倒する。レビューやダンスとしてのレベルは極めて高い。おーこれぞタイのタカラヅカ!

 タイ語、英語(これがまた極めて分りづらい発音)、中国語、韓国語、日本語、フランス語、ドイツ語、アラビア語のアナウンスがある事からわかる様に各国に気を使ってのショーはマリリンモンローやライザミネリのそっくりさんのレビューや蝶々さん風の歌劇、美空ひばりのふり真似、カサブランカやゴッドファーザーの一場面などなど最も面白そうな場面だけを豊富なサービス精神で節操なくつなぎ合わせたようなものだが文句なく楽しめる。そして文句なく美しい人、女?、男?。このショーを皆(子供達も)カクテルやソフトドリンクを飲みながら堪能したのでした。

 ショーが終わると出口の通路に出演者全員(50人位か、人件費の安いタイならではであろう)がならんで待っている。日本人の大好きな記念写真タイムである。日本人ギャルが20バーツ札を握り締めながらお目当てのヒトのわきにむらがり寄って写真を撮っている。こっちで見ていると、すらりと背の高い女優の腰に小太りのお子ちゃまがしがみ付いているという格好である(こんな事言ってもいいのか?)。そりやあまあ相手はプロだし30cmくらいの高さのハイヒールを履いているのだからとは思うが、俺はあんなぶざまな格好はしないと思いながらお目当てのヒトのところへ行って(私の好みはオーソドックスに吉永小百合やオードリイ・ヘプバーンのタイプ…という事にしておこう)チップを差し出して記念撮影をする。しかし美女2人に挟まれてついうっかり日本的喜びのあいまいスマイルを浮かべてしまったのでした。かくして白い袖なしタキシード姿の美女2人に囲まれて真っ赤な顔で上を向いて歯ぐきまで見せてにんまりとしている大間抜けの写真が出来あがったのです。これで20バーツ(60円)は安い。もう3〜4枚撮って並べておいておのが醜い姿を眺め、たらりたらーりと脂汗を流せば格好のダイエットになったであろうに。

 それにしても日本のギャルはなんでああもうれしそうにニューハーフに寄っていくのかね。えらく一杯集まっていたようだったが。でもねえ、あれが本当の女性だったらあんなに喜びはしないだろうに。なんで1とかいってもそもそもタイの人達はそんな面倒くさい理屈は全く気にしないのでしょう。

 かくしてツアーは全行程を無事終了し、ニューハーフ・ショーの劇場をあとにし、バンコクの繁華街のなかをぬけてホテルへと向かったのでした。繁華街は10時を過ぎてもレストランや屋台の灯りがこうこうとまたたき、夕刻よりもさらに人出が増えている。ホテルヘ帰って一泊し、明日の朝は6時45分に空港へ向かって帰国の予定だ。ブーン・チャイさんは「ニュー・ハーフ・ショー面白かったでしょ。私だーい好きです。子供もつれて良く行きました。子供たちもだーい好き。」と愛想が良い。それにしてもブーン・チャイさんはよく働く。今朝も7時頃から皆を迎えに来て夜10時過ぎまで付き合い、明日は6時45分に迎えに来るという。一体いつ飯を食っているのだ?「ぜーんぶ屋台です。子供たちもみーんな屋台でたべます。屋台の方が美味しくて、速くて、安くつきます。だからみーんな屋台で食べまーす。」とのこと。要するに家では全く食事はしないらしい。屋台の方が安くて美味しいならその方が合理的かもしれない。

 それにしてもこの焼き魚系の臭いにつつまれ裸電球に彩られた大都会の深夜の雑踏が私には妙に懐かしい。東京の一流サラリーマンのエネルギーが溢れていた70年代〜80年代の新橋の駅前あたりを思い出す。

 はてみんな何を食べているのかと二階だてのバスの窓からじっと覗いていたりすると向こうも気がついてニコッと笑って手を振ってくれたりする。すごく愛想がいい。この東洋的微笑みがいいな。結局、家中みんなすっかりタイが気にいってしまってあっというまの5日間でした。

 今、私は韓国の古酒(タイはあまり良い酒は無いというから帰りの乗り継ぎ地のソウルで買って来たのです)を傍らにワープロを打っています。米で作った焼酎なのにブランデーのようなとっても良い香りがする。

 ブーン・チャイさんは言っていた。「一期一会ですね。皆様方とお会いしたのも何かのご縁ですね。皆様これまで金びかのパゴダ、みてもらいました。あれ王様の、貴族の人のお墓。タイの庶民はお墓ありません。タイの人達、魂(ピーというのだそうです)、信じています。死んでもすぐ生まれ変わります。だからお墓いりません(しかしお葬式は7日間くらいかけてとっても立派にするそうです)。皆様方、日本も仏教国ですね。生まれ変わったらどうしますか。男ですか。おんなですか。アジアですか。やはり日本ですか。−それともヨーロッパ?」

 そうねえ。やっぱりアジアかなあ。ヨーロッパの宗教よりこっちの方がずっと穏やかな感じがするもんね。男の方がいいかな??。生まれ変わるんだったら日本かな。でもあの昭和の一番活気が溢れていたころの東京のような、そしてなんでも有りのようなバンコクもいいな。でももしこの国で美しく、とっても若く美しく、生まれ変わったらどうしよう− か・し・ら。

 なーんてね。(冗談よ。ジョーダン。)

 では今夜の楽しい夢に乾杯。

 

(参考文献:「不思議なアジア」にはまる本(青春出版社)/「極楽タイ暮らし」高野秀行著(ワニ文庫)等)

 

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第1回地域医療連携運営委員会  理事 富所 隆(長岡中央綜合病院)

 この度、4月1日から始められた開放型病床の適正な運営を司るために、地域医療連携運営委員会が設けられました。開放型病床を円滑に運営することを背景に、診療所と病院の連携の橋渡しとなり、諸問題の解決や、より発展的な病診連携を図ることを目的と致します。

 3月26日に行われた第1回目の会議では、委員会の規則と、開放型病床に参加できる会員の要件について話し合われました。

 委員会は斎藤医師会長を委員長とし、長岡健康福祉環境事務所長(予定)、医師会貞、病院の開放型病床担当者をもって、これに充てることとなりました。

 登録医の要件については若干流動的な点を残しておりますが、とりあえず無床及び有床診療所の医師と致しました。その他の会員に関しては希望のあった時点で協議することに致しました。

 現在、登録医は50名以上となり、立川綜合病院、長岡中央綜合病院とも順調に開放型病床の利用がなされております。これからいろいろな問題や意見が出されてくることと思います。この委員会で、良い解決策を考えていきたいと思います。

 

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新会館建設事業の動向〜その11

会館建設委員会委員長 大貫 啓三(大貫内科医院)

 3月1日着工以来、新会館建設工事は順調に進んでおります。

 4月20日現在、基礎駆体工事の最終段階で、4月末には全工程の約20%が終了する予定です。これまではフェンスに隠れて外からはあまり見えませんでしたが、いよいよ5月に入りますと1階部分が立ち上がってまいりますので、外からも進捗状況が分かり易くなるものと思います。

 さて、この工事の進行に伴って、何点か仕様等の変更が出てまいりました。まず、ガラスのグレードアップです。普通のペアガラスからLow-Eペアガラスへ変更いたします。Low-Eペアガラスとは、外部からの熱線を防ぐため内部にコーティングを施したもので、冷暖房、特に冷房の効率の点では大変優れた素材です。

 このガラスについては、優れた機能性と当初の想定価格の約半額で可能となったことから、理事会で協議のうえ変更することにしました。これによりかなり冷暖房費の節減効果が期待でき、また、見栄えも向上することと思います。

 このほかの変更点としては、自動ドア(開口部を広くしました)や断熱材がありますが、これらは費用の変更を伴わずに仕様を向上させることが出来るものです。

 現場では事細かに設計監理チームと施工側で打合せが行われており、それらの一つ一つについて指示書が作成され、医師会の方にも回ってくることになっています。この24日には、医師会も加わっての現場打合せ会が行われることになっており、このことについては、また改めてお知らせいたします。

 なお、今回、蒼柴神社永井宮司様の了解を得て、地鎮祭の際の祝詞(のりと)を掲載させていただきました。永井宮司様には、この場を借りて改めて御礼申し上げます。

 

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新会館新築工事地鎮祭祝詞(のりと)   蒼柴神社宮司 永井 康雄

※実際の原稿は全て漢字の表記に振り仮名ですが、勝手ながらここでは通常の文章に近い形で掲載させていただきました。

見霽(みはる)かすもの皆清良(きよら)らなる長岡市古正寺土地区画整理事業地仮換地一街区なる怜(うま)し広庭(ひろにわ)に注連縄(しめなわ)引き廻(は)し巌(いづ)の齋庭(ゆにわ)と祓へ清めて五百枝(いほえ)の真榊(まさかき)をあまつ神籬(ひもろぎ)として招(おぎ)奉り坐世(ませ)奉る掛けまくも畏(かしこ)き蒼柴の大御神(おおみかみ)の神霊(かむみたま)を始め奉り大地主神(おおとこぬしのかみ)や船久々(くく)の知神(ちのかみ)や船豊(とよ)受け姫の神工(たくみ)の神手置き帆(ほお)ひの神彦狭智神(ひこさそりのかみ)(たち)神霊(みたま)の大前(おおまえ)に齋主(いわいぬし)蒼柴神社宮司永井康雄伊畏(かしこ)み畏(かしこ)みもも(ま)うさく

これの社団法人長岡市医師会はしもつねも見守りたまう皇神(すめがみ)たちの広き厚き恩頼(みたまのふゆ)を日に異(け)に蒙(かがふ)り奉りそれの医師(くすし)の業々(わざわざ)も時の代(よ)の進みゆく世にたち進み歳月と共にいや拡古(ひろご)りゆく随々(まにまに)この度主とある長人(おさびと)たち相謀りに謀りこれの怜(うま)しき処を撰び定めて社団法人長岡市医師会館をば新しく建て築かむとして先つ頃より設計管理をば(有)アーキセッション・(有)サトウクリキ設計事務所、今井保一設計室、和田正則建築環境計画にその工(たくみ)の業(わざ)を常に忠実(まめやか)なる鹿島建設株式会社北陸支店に事請(ことうけ)おいはし起工(たくみおこし)始めんと八十日日(やそかび)はあれども今日を吉日(よきひ)と齋(いわ)い定め大神(おおかみ)たちの巌(いづ)の御神霊(みたま)乞いのみまつり昔(いにしい)の古き手振りの随々(まにまに)(いみ)鎌持ちて荒草苅りはらい忌(いみ)鍬忌(いみ)鋤持ちて大地(おおとこ)を土堀り打ちならし大地(おおとこ)を齋(いわ)い鎮(しづ)め地鎮(とこしづめ)の御祭(みまつり)(つかい)まつらくと大前に御饌御酒海山種々(みけみきうみやまくさぐさ)のためつ物を供え奉り長人たち玉串の採(とりど)りにたむけ拝(おろが)み奉り只管(ひたすら)に安全をば乞い願(ね)ぎ奉る状(さま)を平らけく安らけく聞こしめして愛(め)ぐし慈(いつく)しと見看(みそな)わしまして今より往先(ゆくさき)(くす)しく妙(たえ)なる恩頼(みたまのふゆ)を蒙(かがふ)らまして四方(よも)の隅々より疎(うと)び荒(すさら)びこむ八十(やそ)(まが)つ日のあまつ禍事(まがごと)に逢はしめたまわず邪(あ)しき気(け)のより来るとも上より来つれば上を守り下より来つれば下を守りいく弓やいく太刀持ちて神祓いに祓い神やらいにやらい退けたまいこの大地(おおとこ)を土堀り切り開き基礎(いしづい)築き固めつきたてゆかん工(たくみ)の業(わざ)の行(ゆく)てに種々(くさぐさ)の災禍(わざわい)なく諸々の過ち障(さわ)ることなく大地(おおとこ)のそこつ磐根(いわね)の極みすきすえゆかん千引(ちびき)の盤(いわ)の礎(いしずい)のいや遠永(とおなが)にゆるがずつ積重ね固むる石の常(とこ)永遠(とわ)に崩るる事なく築き建立(たて)ゆかむ黒鐵(くろがね)の百八十柱(ももやそばしら)直く正しく取上ぐる棟(むね)(けた)(うつばり)(と)(まど)の交錯(きかひ)動き鳴(きしむ)ることなく初めの計画(もろくみ)に従いて事違(たがは)ずあまつ御量(みはかり)の法則(おきて)の随々(まにまに)事進めしめたまい預れる工匠達(たくみたち)を始めて人達(びとたち)に至るまで仮初めにも手のまがい足のまがいあらしめず速やけく竣(こと)なり終(お)いしめたまい長岡市医師会館の巌(いかし)き使命(いのち)なる事業(ことわざ)の道に大御代(おおみよ)の光と共に経営(いとな)む業々(わざわざ)豊かに向栄(むくさか)におおいなる幸福(さきわい)と功績(いさおし)とを圓(まどか)に満足(みちたら)はしめたまいいや益々に立栄(たちさか)いゆかしめたまえと神職(かむづかさ)(いか)しき鉾(ほこ)の仲執り持ちて恐(かしこ)み恐(かしこ)みもま(も)うす

平成十五年三月一日地鎮祭

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丸山正三展と院展をハシゴする  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 ようやく1か月ぶりの休日で家人とお出かけで、前の晩に立てた計画はこうです。

 その1、長岡市医師会関係でご案内のあった大先輩地元医師会員の丸山正三先生の絵画展(新潟市で開催中)に行く。こどもの頃から絵の鑑賞は大好きです。

 その2、近郊の以前に行ったなかで最もおいしかった蕎麦をまた食べに行く。さいわいに夫婦二人の意見は一致して、W膳の更級蕎麦でした。

 朝のひと仕事は庭先のミニ畑を耕して「天地返し」をし、消石灰を散布して汗をかきました。(数日後に有機肥料を鋤き込み、えんどう豆の苗を植えつけました。)ひと風呂を浴びて、お昼どきに向け、岩室温泉の蕎麦屋W膳へと車で出発。そのまま午後に新潟へ回り、かの展覧会を見て帰宅という計画です。ついでに新潟Mデパートで開催中の「院展」にも寄ることに。

 1時間で岩室に到着。20食限定という蕎麦の香りのよい「極上へぎそば」、この大盛を二人でいただきました。食後の蕎麦がきを入れたお汁粉もおいしい。おなかをさすり、「余は満足じゃ」という感じ。

 カーナビゲーションの助けを借りて新潟Mデパートに到着。院展を先に鑑賞しました。狭い会場のスペースに大作(字義どおりにサイズも大きいものがほとんど)が並んでいます。一番横に大きいのは平山郁夫先生のお作だったかも。見ていてゆったり気分になれる、さすがに上手な絵が多くて、すてきでした。

 その後は新潟市立美術館へ移動し、いわゆるハシゴですな、絵画展の。さてメインの丸山正三展です。こちらはゆったりとした会場に、第二次大戦前後に始まる60年の画業が、5つの制作時期の区分で展示されていました。

「へえー、若い頃はこんな絵を描かれていらしたのね。この壁派というのはさっきビデオで見たけれど、手法にも奥深いものがあるのよ。丸山先生はまじめでおだやかな方なのねえ。」と会場の一部で先に作者・作品紹介のビデオを見てきた家人。

 10年ほど前に訪れたピカソ美術館でも、ピカソの時代による画風の変遷の著しさに驚かされた記憶があります。今年90歳におなりの丸山先生の場合もそうでした。1980年代のポップな黒人シリーズ以降どんどん明るい画風に変化しておられます。わたしは明るい色彩のこどもの風景が多い最近十年間の欧州シリーズがもっとも好きでした。

 ちょうど会場には、つい今しがたビデオでお顔を見知ったばかりの丸山先生のお嬢様と奥様のお姿をお見かけしました。

 欧州シリーズをふたりでじっくり見直していて、自分でも日本画を習ったことのある家人がぼつりと言いました。

「ここでは紫色がどの絵にも入っているわね。お好きな色なのね、きっと。」

「なるほど、そう言われてみると、陰にも紫色が使ってあるんだね。」

 南欧の街角の人や動物のいる風景を描いた作品は明るい色使いのほんとうにやさしさあふれる絵です。

 丸山正三先生のお言葉です。

「何所にでもみられる当たり前なものを、何の気取りもなく、ほのぼのと措いてゆきたいと考えて居る。こんな絵描きが一人くらい居ても良いだろうと思う。」

「バルセロナの広場」という作品のかの「国境なき医師団」の今年のカレンダー・ポスターを記念に購入して、よい気分で帰路につきました。

 

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