長岡市医師会たより No.280 2003.7

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もくじ
 表紙絵 「竹沢(山古志)にて」   丸岡  稔(丸岡医院)
 「見附「鉢木」伝説考」       福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「山と温泉48〜その36」       古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「新会館事業の動向〜その14」
 「森からの訪問者」         郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

竹沢(山古志)にて   丸岡 稔(丸岡医院)

見附「鉢木」伝説考  福本 一朗(長岡技術科学大学)  

  観世・宝生・金剛・金春・喜多五流に伝えられている四番目物能の「鉢の木(はちのき)」は一説によると世阿弥の作で、“鉢の木を焚いて旅僧をもてなす美談”として有名であり、武士道を最もよくあらわした謡として広く能や歌舞伎に演じられ、年輩の人たちには幼いころの懐かしい物語のひとつとなっている。

 そのストーリーは、鎌倉幕府の執権・北条(最明寺)時頼が民情視察のため旅僧に姿をやつして諸国行脚の途中大雪に難儀し、上州佐野の里で一夜の宿を乞う。宿の主人・佐野源左衛門常世(とこよ)は親族に所領を横領されて貧窮の極にあったが、時頼とは知らぬままに、秘蔵の梅・松・桜の三本の鉢植えの木を切って火にくべて時頼をもてなし「落ちぶれていても、いざ鎌倉のときは一番に馳せ参ずる覚悟だ」と語る。やがて鎌倉に帰った時頼が軍勢召集の触れを出すと、果たして常世は長刀をもち、やせ馬に鞭打ってかけつける。そこで時頼(後ワキ)は「諸国の軍勢の中でもっともみすぼらしい武士を連れてこい」と命ずる。呼び出された常世に時頼は過日の旅僧は自分であったといい、さらに鎌倉に馳せ参じた忠誠をほめ本領を安堵した上、「火にくべた鉢の木の礼」にと鉢の木に縁のある梅田・桜井・松井田の三ケ庄を与える。常世は「喜びの眉を開きつつ」喜び勇み立って安堵された本領の佐野へと帰ってゆく。

 この物語は零落した武士が節操を守ったため返り咲く話を時頼回国の伝説に結びつけて構想したものであり、劇的要素に富む作品として一般に広く愛され、後世の浄瑠璃・歌舞伎への影響もきわめて大きく、「鉢木物」(はちのきもの)というひとつのジャンルを形成している。しかし能楽的には現行曲の中で最も長い文章の曲であるうえに似た文句が多く、間違えずに一曲を演じきるのが一苦労とされ、能の中でも極端に芝居がかっているため「この能、能にあらず」の例えがあるほどである。

 さて、この話はあくまで創作話であり実話ではないとされているので、モデルとなった佐野源左衛門という人が実在していたかどうかは不明であるが、当時の地名から佐野という地方は現在の群馬県高崎市あたりの佐野町付近または葛生町鉢木であろうと言われている。またこの説に従うと佐野という名前から栃木県佐野市の領主であると思われ、佐野市の郷土伝説にときどき語られることはあるものの、もし佐野の領主であったとすれば、「貧しい御家人」という設定は不自然であり、「佐野源左衛門常世は佐野の人ではなかった」と考える人も佐野市には多い。

 小生は長岡に住み着いてはや12年、その間心優しい町人のお誘いでこの町に伝わる金春流の謡の会「乙羽会」 に参加させていただき感謝している。鰐淵師匠から謡曲「鉢木」を習って、シテである常世の最初の口上「ああ降ったる雪かな、いかに世にある人の面白う侯ふらん、それ雪は鷲毛に似て飛んで散乱し、人は鶴を被て立って徘徊すと言へり、されば今降る雪も、もと見し雪に変はらねども、われは鶴を被て立って徘徊すべき、袂も朽ちて袖狭き、細布衣陸奥の、けふの寒さをいかにせん、あら面白からずの雪の日やな」と詠じたとき、“ああこれこそ越後の冬の情景そのものだ”と感じた。しかし、謡本の説明によれば、前述の様に物語の場所は雪の少ない表日本の上州佐野(栃木県佐野市)となっており奇異に感じた。また常世が恩賞として時頼から拝領したとされる、鉢ノ木にちなんで梅・松・桜の付く加賀(石川県)の梅田、越中(富山県)の桜井、上野 (こうづけ:群馬県)の松井田の三ケ荘の地理的位置関係は互いに400kmも離れており、街道の未発達であった鎌倉時代に荘園管理を実際に行うことは至難の業であったはずであり、また合理主義者であった時頼がそのように実質的に宰領困姓な荘園を自分に忠実な御家人に与える訳が無いと疑問に思った。

 最近、元新潟県教育庁職員で窯場研究により新潟日報文化賞を受賞された石川秀雄氏の著作に触れ、実は越後山吉(やまよし:新潟県見附市大字山吉)が舞台”であったという説を知り、この説の方がずっと信憑性と説得力をもっていると感じた。ここでは石川氏の説に従い「見附鉢木説」をご紹介したい。

 “鉢の木見附説”が唱えられる最大の理由としては、見附市山吉には(1)佐野源左衛門が実在したという数々の証拠があり、(2)鉢の木の舞台を裏付ける史的、地理的条件が完備しているのに対して、(3)栃木県の佐野市にはそのような裏付けが何もない、などの点が挙げられる。

 佐野源左衛門常世の実在を裏付ける証拠としては、(1)見附市山喜は鎌倉時代既に成立している集落で、主人公の佐野源左衛門常世にまつわる鉢ノ木史話が、山吉固有のものとして古くから伝わっている。(2)江戸末期まで佐野源左衛門常世の子孫一族が、山吉に油屋敷と呼ぶ豪邸を構えていた。(3)山吉に佐野源左衛門の墓跡(見附市山吉町809番地佐野新一氏宅)があったこと、を示せば充分であろう。

 また地理的条件からみても一致する。謡曲には、「御覧の通りの見苦しさ、お気の毒ながらとてもお泊め申すことはできません。ここから十八町程先に山本の里という宿場があります…」と一旦断る下りがあるが、山吉に伝わる史話には、「向こうの山の鼻から十八町のところに山本の里という…」となっている。(4)「向こうの山の鼻とは、山吉の東南にあたる同市の耳取山(見附市耳取町)の南端部のことである。また、「山本の里」は現在の長岡市浦瀬町付近のことである。この付近は昭和30年頃、長岡市と合併するまでは山本村と称していた。しかも、耳取山の鼻から旧山本村までの距離が18町と一致している。

 また、(5)北条時頼が恩賞として与えた三ケ庄の地名梅田・桜井・松井田については、見附市新潟地区の梅田(現在:見附市下鳥町)、桜森(現在:見附市指出町)、松ノ木(現在:見附市新潟町松ノ木町)の大字名とほぼ一致し、地形および位置が隣接している点からも真実性がある。このほかに「鉢木」の作者といわれる室町前期の能役者・謡曲作者世阿弥(本名観世元清)は、能楽大成の中心人物であったが、足利三代将軍義教から弾圧をうけて、(6)佐渡へ流された。佐渡における三年間の流罪生活で世阿弥は、越後・佐渡にまつわるいくつかの作品を取材しており、「鉢木」も見附山吉の史話をもとにして、主人公の姓にあやかり、舞台を佐野に置きかえて創作したものと考えることもできる。

 なお、(7)山吉の佐野源左衛門常世が所持していた刀が、見附市に隣接している南蒲原郡下田村大浦の枡箕(ますみ)神社に、鎧が三島郡越路町来迎寺の安浄寺(見附市梅田から移った寺)にそれぞれ寄進されて現存している。

 越後は能楽の舞台となった名所旧跡(駒札)が、越後国上寺(禅師曽我:ぜんじそが)・佐渡(檀風:だんぷう)・越後松之山(松山鏡:まつやまかがみ)・越後上路山(山姥:やまんば)など多数有り、京都・奈良以外の地方では異常ともいえる多さである。それは能楽大成者の世阿弥が佐渡に流されていたこともあるであろうが、山椒太夫(直江津・佐渡)や酒呑童子(国上山)など日本人の心の糧となつた民話を産んだことにわかるように、人間を愛する優しい越後の人々の心根と生活、そして自然に恵まれた風土のなせるわざであったと思われる。

参考文献

1.石川秀雄著:「佐野源左衛門は実在の人」−栃木県佐野市説は置きかえ創作−、新潟県能楽連盟「能楽連盟報」、第47号 学術・研究、pp4、平成元年5月20日

2.郷土見附歴史散歩第3集「山吉氏山吉の地におこる」、昭和40年代

 

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山と温泉48〜その36  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 大赤沢の温泉(現在では、温泉はない)

 「萌木の里」を出て国道405号線を右折、南に向かう。断崖上を走る国道は、拡張工事のお陰で、少しずつではあるが、狭い道路は広くなり恐くなくなった。国道が媛く上りながら前倉の集落を過ぎ、峠にかかると、道は分岐。右に更に上れば、高倉山、布岩山等、鳥甲山山麓の山上台地を経て千曲川に下る。この道路は、先に行って更に分岐する。分岐を左に行くと、中津川左岸の断崖を切明迄行く左岸(西)道路となる。最近完成しているようですが。峠の分岐を左に、国道405号線を下る。暗い潅木林の中の九十九折(葛折り)の狭い路を一挙に前倉橋へ降下。標高差約500米で中津川の谷底。橋を渡ると、大赤沢集落に向かう。国道は、同じ標高差を一挙に上がる。上がった処で、結東からのバイパスと合し、大赤沢集落に入る。前倉橋を挟んでの急坂は、この国道随一の難所。前倉橋からの景観は、峡谷が廊下となり、四季を通じ見事。危険な路の代償には充分。一見の価値あり。しかし、難所の路にはくれぐれもご注意下さい。バス道路です。定期バスは何の苦もなく走っているのですが。大赤沢は越後秋山の中心地。地籍は津南町大赤沢丁。標高約700米。長野県との県境の集落。旧くは16世紀頃から、越後・信州国境の集落。世帯数は20余。集落の南端を、苗場山を源流として西に流れ下る硫黄川が県境。赤沢の地名は「赤濁した水の流れる処」から付いたと言います。本題の温泉は、この硫黄川、又その支流沿いにあった。これを確認し、記事にした人がいます。「小林存」、民俗学看で、新潟新聞社記者。明治39年、現在の新潟日報社の前身新潟新聞社発行の新聞に、当時、越後の秘境と称された三面・秋山・銀山平に入り、その地域、風俗の調査、地質調査を含めての研究、その報告記事が連載された。所謂、秘境踏破ルポルタージュ記事があった。報告者は「小林存」。記事は、「三面記進」「秋山部落の探検」「銀山平実査記」。この記事を、平成2年、曾我広見氏がまとめ、現代語、口語体訳にして「越後秘境探検記」として復刻出版された。この書の中に、温泉のあったことが記るされてある。それに拠ると、次のようです。

 探検隊一行は11名、それに案内人・杣人(村人・杣人(そまびと)は山の人の意)2名の13名、「苗場の登山」は、明治39(1906)年9月18日。一行は、宿舎の小赤沢集落から苗場山登行。山頂より、硫黄川探検調査の目的もあって、路のない硫黄川を下り、大赤沢に下山、小赤沢の宿舎に帰る予定であった。が、しかし、下山で遭難寸前の惨憺たる思いをして大赤沢経由で帰着している。この時、硫黄川沿いに、白水・紫水・赤水・塩水の四つの温泉を確認している。記事は 「……一応この山中で生活している人々の伝えとして、四ケ所で異なる温泉が湧き出ている。白水、紫水、赤水、塩水で、塩水は富山氏の経営しているもので、大赤沢よりは女の足で半日で往復できる距離、この間にはどうにか遣らしい跡があるそうである。‥…・」とある。更に、温泉発見の喜んだ模様が次のように記されてある。「……突然前の方から“塩水があったぞ”の声が上がった。九死に一生、地獄に仏とはこういうときの嬉しさを表するのであろう。筆者は急いで湯の湧き出る口の辺りを、ロウソクをともして観察した。崖下に小さい四角の槽を設けてあり、その中に湯が沸沸と出ている。その上にロウソクをかざすと火が消えるが、これはガスを含んでいるからである。富山君(塩沢町・富山氏、探検隊には入っていなかった。)の話では分析を依頼した結果も証明されているので、やがて温泉経営に乗り出すそうである……」。又、「……ようやくにして白水に出合った。白水は硫黄の湯花である。赤水も発見した。これは鉄分の沈澱したものである。……」紫水については説明がないが、冷泉の溜り、鉄泉と硫黄泉の混じったものではなかったかと、考えます。探検隊は、苗場山頂より、現在の雲尾坂を降り、神楽峰までの吊り屋根の鞍部、お花畑付近から硫黄沢の源流・オ花沢に入ったのではなかろうか。そして、硫黄川の左岸を降りたのではないか。神楽峰から一の沢を降りるとすれば、大きい滝に出る、とすると、この下降路は採らなかっただろうと推測されます。温泉は川の左岸を、かなり下降して、やや平坦になってから発見しています。その後、川の左岸から右岸に渡り、平らに出、大赤沢に辿り着いているのです。現在、探検隊発見の温泉は何処にあったのだろう、と思い津南町役場に尋ねてみました。いろいろ教えて頂きました。私が大赤沢林道からの新しく開伐された、大赤沢苗場山登高コースを横山付近迄入りましたが、昔、湯煙りのようなものの見えた処は全く判りません。硫黄川付近は、崩落が激しいため、工事が行われており、様相が全く変わっているとの事でした。昭和30年代に、硫黄川の大崩落があったようで、以後、例年、河川改修の大工事が行われているのだそうです。探検記にかかれてある、温泉は見当らず、集落の人達も温泉の所在は判らないと言う事だそうです。しかし、硫黄臭はする、冷泉は見られる、との事。又、硫黄鉱山、鉄鋼石採掘鉱山跡があるところから、間違いなく、温泉は湧出するのでしょう。その場所は、集落から遠くない、むしろ近い、硫黄川左岸ではないでしょうか。違うかな? (つづく)

 

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新会館建設事業の動向〜その14

会館建設委員会委員長 大貫 啓三(大貫内科医院)

 7月末現在の工事進捗状況は、予定通り全工程の約65%程になる見込みです。先頃、井戸の掘削も問題なく終了し、8月からは内部足場の解体や外構工事も始まります。

 8月7日(木)には、第4回目の現場総合定例会議に併せて、午後1時30分から現場視察を予定していますので、ぜひ多数ご参加ください。15分程度の予定です。

※なお現場の見学は、予め現場事務所に電話で連絡していただければ、随時可能です。現場事務所TEL 29−2118)

■新会館竣工式の予定

 次の通り計画しています。ご予定置きください。

 10月4日(土:大安)

  午後3時15分 定礎除幕・テープカット

  午後3時30分 竣工式 (於 新会館)

  午後5時    祝賀会 (於 長岡グランドホテル)

 

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森からの訪問者  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 梅雨入りの頃のことです。帰宅すると家人が興奮した口調で、「きょうの午後、お隣さんが玄関チャイムを鳴らして来られたの。二階からふと見たら庭にリスが倒れて、怪我しているのかもですって。」場所を教えられつつ、樺の木の下に行き家人はびっくりしたそうです。「なに、これ?って感じ。全然リスじゃないのよ。大きな茶色の動物がうずくまり茂みに顔を突っ込んでいたの。」作業用皮軍手のKさんは、網袋を片手に「どれどれ、おやリスじゃなかったすね。なんだろ、こいつ?」とふさふさの尻尾をつかんで持ち上げました。じたばと動く1メートル近い動物の四つ足とわき腹にはっきりと膜がありました。「なんとムササビだったのよ、それが。」 「それでどうしたのさ、そのムササビ?」わたしはつい身を乗り出します。

 Kさんはその動物を網袋につめると、わが家の玄関先で家人と二人でじっくり観察。かわいい顔であったが、手を伸ばすとガブリと噛みかけたそうです。「おう、危ない、危ない。さすがに野生だなあ。」外見は出血も外傷もなかったのです。「たしかムササビは究極の夜行性なんです。夜明けになってしまったので、頭隠して尻隠さずみたいな格好で夜を待っていただけじゃないのかしら?」と家人が意見を述べるとKさんは感心していたらしいです。

「めずらしいから、うちの坊主たちが学校から帰ったら、見せてやりたいす。それから夜になったら、森に返してやりますね。」とKさんがひとまずぶら下げて帰ったそうです。

「そうか、この時問ならきっともう放してやったあとだね。自分もムササビを見たかったなあ、残念。」

 ムササビは体長は約40センチで尾を入れると80センチ位になるリスの仲間。飛行補助の皮膜が足から脇腹にあり、尻尾も駆使して、グライダーのように滑空します。けっして地上を歩かずに、木から木へと滑空で移動。テレビで見る滑空するムササビの姿は械毯ならぬ「空飛ぶ座布団」そっくり。ときに樹木への着地にずっこけて、地上に落下したりもするそうです。食物は楓・桜・棒・椎などの葉が大半、団栗や木の実まれに昆虫も。巣は大木のウロが大半だが、人家の天井裏なぞも利用するそうです。

 いつぞやの医師仲間の少年の頃の食べ物の思い出話。長岡の田舎育ちの自分は掬った鮒、泥鱒を食べました。飯山出身のNさん「冬はよく兎狩して、その晩の肉汁がうまかったな。」長野出身のGさん「今でも自分の実家は天井にムササビが住んでいる。」その頃はえらく感心したものの、してみるとわたしの現住居のザイゴ度(田舎度)もこれはいい勝負のようであります。

 ところで我家で御用になつたムササビ、真昼間に地面にうずくまっていて発見されたわけです。その頭上の欅の大木の枝からずっこけて墜落したのでしょうか? 気がつけば日が上り、動かずに夜になるのを待っていたのでしょう。ともあれ大怪我がなく、なによりでした。

 その後のことです。お隣の双子の男の子たちは、学校から帰って家の中に本物のムササビを見て驚きました。飼犬のラブラドールのアンディくんは変な奴と大興奮。すぐ夕暮になり、親子で団地のはずれの城跡公園にムササビを連れて行き、放してあげたそうです。彼が木に上って巣のある森に滑空して帰ったか、地面を歩いて帰ったか、その別れ際はつい聞き忘れました。

 

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