長岡市医師会たより No.281 2003.8

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もくじ

旧医師会館惜別記念号

 表紙絵 「旧長岡市医師会館正面図」 丸山 正三(丸山医院)
 「旧医師会館建設の思い出」     丸山 正三(丸山医院)
 「医師会館設立の頃」        田中 健一(小児科田中医院)
 「新医師会館の竣工を迎えて」    鳥羽 嘉雄(内科小児科鳥羽医院)
 「旧医師会館の思い出」       関根 光雄(関根整形外科医院)
 「旧会館の思い出」         高橋 剛一(高橋内科医院)
 「医師会館のこと」         齋藤 良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)
 「新会館事業の動向〜その15」
 「妖怪天国」            岸   裕(岸内科・消化器科医院)

旧長岡市医師会館正面図(設計図面に彩色した完成予想図)

丸山 正三(丸山医院)


旧医師会館建設の思い出  丸山 正三(丸山医院)  

 私達の医師会館設立が極まって建設委員として大森先生、神谷先生、諸橋先生、工藤先生それに私が指命されました。昭和40年夏も過ぎようとしている頃でした。工事着工は40年10月、竣工は翌41年6月の予定であった。

 第1回の会合には委員は皆白紙で望んだが設計士の細貝さんも出席して早速青写真を開いて説明を聞いた。一見したところそれは会館というよりも寧ろクラブハウスを思わせるもので、細貝さんは多忙な医師が余暇に寛ぐ為のものと考えて居られるのではないかと思われた。私達は医師会館の在り方、必要設備等に就いて話し、私は一例としてのスケッチをその場で措いて手渡した。次の会合では設計は略々私のスケッチに近い箱形のものに変わり、色々な希望を集約して更に検討を重ねた末今迄の医師会館の形が出来、必要に応じて随時変更を加えるという事で数次に亘る会合が終わった。此の問に何時となく私は内装、外装関係を受け持つようになつていた。

 コンクリートの外郭が出来ての最初の仕事は外装であった。北正面の横に長いだけで全く変化に乏しいこの大きな壁面を見た時、ファサードは医師会館の顔になるのだから最も大切な場所であろうと考えた。横長の面に縦線を多く見せる事で装飾性を加味したいと思って日本家屋の縦じたみに相当するカーテンウオールを使用することを考えた。色は焼き附けなので耐久性もあるということであったが青緑系は槌色の懸念もあって、暖色系のブラウンにする事に極め、数の多い窓の支柱は白く塗ってアクセントをつけて貰った。

 次の間題は階上の広いホールの床であった。窓が多く殊に南面の光の強くなる時期の事も考えられ、初めグレーを選んだが適当な色調のものが無く、市松にするには広過ぎて落ち着かないだろうと思われ、若さからくるシャレ気も手伝って黒一色にして了った。所が是が大失敗で埃が浮き出て黒色を保つには手入れが大変な事になって了った。ワックスで磨いた時は黒が輝いて美しいが、人の出入りの後は挨が目立って汚くなり失敗が悔やまれた。

 インテリアでは長岡大和の山崎さんが凡てをまかなつて呉れた。その頃は金沢の大和本店でも家具に力を入れて居たので長岡店にもかなり大きなスペースの家具部があった。山崎さんはその主任で家具に就いての知識は豊富であった。店には天童の椅子もあった。天童家具は曲げ合板を用いてイームズ調の魅力で有名になって居たものであった。

 会議室の大机は一物作りで金沢の工場で作っている最中との事、山崎さんの案内で一泊旅行で金沢へ見学に行った。台の部分が作られて居り、かなり長尺の両端に向って穏やかに絞りがつけられ中央のふくらみも大らかに見えた。立派なものが出来る気配がした。

 椅子は天童の物を考えていたがこの舟形机に調子を合せて其所で作って貰う事になった。会長室の机は普通の事務用のものとし屑寵は薄手合板の静かなものを選んだ。

 検査室も夫々に準備が完了し愈々落成である。竣工式は6月19日の日曜日と極められた。

 当日は梅雨のさなか乍ら朝から爽やかに良く晴れ渡って、定刻には来賓、会員の方々が次々に到着、会員92名、来賓60名の大人数が階上のホールに集った。床もよく磨かれて黒々と輝いて居る。この日の為に任期を先送りした林啓介会長のお顔も清々しくみえた。式辞は流石に堂々として立派であった。招待客の上村長岡市長は会館の設立を歓び、称讃の言葉に満ちて居たが、中には建設委員の功を労う言葉もあった。市長はその席で大和店に電話をさせ竣工祝いの品を届けさせた。届いたのは大型の置時計であった。私は竣工記念カードを作っておいたのでこの日参列の方々に手渡しで差し上げ、喜びを共にすることができた。工事概要と共に表紙に会館正面の眺めをスケッチしたもので今只一枚だけ私の手許に残っている。

 長岡市医師会館はこのようにして名医師会長林啓介先生の許で竣工致しました。昭和三十九年会館設立が本格的に討議決定された以降、敷地の選定、買収、整地等、又諸経費の準備など数次に亘る会合等々言葉に尽せぬ御苦労があった事でしょう。会一員の中にはその健康を心配する向きもあった程でその御尽力に対して会館の出来上がる迄林先生に留まって貰い度いという声が当初からありました。恒例の会長改選の3月も迫って居り、その頃は次期会長は大方のみるところでは神谷退蔵先生と極まっているようなものでした。こんな空気の中で林会長の任期延長の動議が出て提案理由の説明があり賛成多数という形で林会長の留任が極まりました。私はこれは今迄に無かった異例な事だと思いました。情は情、然しそこにはけじめが大切だと思いました。会館建設のような大きな仕事は一人の会長の一期や二期の任期中に終わる事は少なく次の人がそれを受け継いで完成するのが一般であろう。それによって前者の功績が些かも色褪せることなく御苦労に対する感謝が薄らぐものでも無い筈である。私は前会長は任期を全うし会則に準據して次期会長に後事を託すのが筋であると思った。その方が立派な印象と信頼、尊敬が残り寧ろ名誉ある事であろう。竣工式の間じゅう神谷先生の後ろ姿を見つめながらその心情を忖度し、人として筋を通すことの六ケ敷さを考えて居た。医師会館建設に就いていつも浮かんでくる一つの思いである。

<竣工記念カード>

 

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医師会館設立の頃  田中 健一(小児科田中医院)

 会館竣工式は昭和41年6月であった。それまで例会は借り物の会場であった。それは長岡信用金庫のこともあった。外の階段を昇って3階だかの会場へ入ると、前の国道8号線を走る自動車の騒音が喧しくて、話が中々聴きとれなくて困ったものであった。又、山一証券を借りた時期もあった。裏通りから入って、暗い通路を右に曲り、左に曲り、階段を上って会場へ着くと、自分は北を向いているのか、南を向いているのか、いつもそんなことを考えて落ち着かなかったものである。デパートを借りたり、市長公舎のこともあったような気がする。

 会館が出来てから先ず第一に、女子高を仮の教室としていた准看養成所の生徒が落ちついて勉強出来たことは大変良かったし、検査所として、更に講演や会議の場として活躍が始まり、医師会発展の拠点となった。

 それから数年後、長岡市から医師会に休日診療所開設の要望がなされたので、例会でも話し合いが持たれたし、又そのための準備委員会が会館で持たれるようになった。

 当時休日診療所の有無はマスコミが取り上げる医師会攻撃の恰好なテーマであった。実際には休日も夜間も医師会員の努力できちんと診療が行われていたのであるが。

 休日診療所はゼロから始めることになるので、雲を掴むように大変だったのである。長岡では先ず設立準備委員会を立ち上げることから始まった。

 それにつけても医師会館をその会場にすることが出来たので、幸いであった。委員として味方正作、鈴木宗、市川豊樹、荒井奥弘、藤島暢の諸先生と私が参加した。私としては蝸牛のような毎日の狭い世界から脱け出して、広い分野のことを考える有難い機会であった。一同して、ここで何回も意見を述べあって休日診療所の凡てを定めたのであった。

 最初休日診療所は干場にあった木造平屋の長岡保健所の一室を借用して始まった。休日診療が終わると一切の道具を小さな箱に収納して、翌日の保健所の本来の用途に支障のないようにするのである。最小限の道具として、心電計、血圧計、検尿のテストペーパー、白血球計算用の道具と顕微鏡であったと思う。休日診療所は後に柳原の旧市役所跡、次に西千手の新設の健康センターと移転したが、初期の形態が後々まで影響しているように思われる。途中で外科系が加わり、最初の頃の先生は亡くなったり、定年で当番から外れたりした。

 ここに来て注目すべきことは、昨年、平成14年から、小児救急医療体制整備の必要性と題して、俄に検討が開始されて来ていることである。新潟県は四地域に分けられているようである。下越地域、県央地域、中越地域、上越地域とされ、長岡は中越地域に属するものであろう。

 事務局は県医薬国保課でもあり、健康福祉(環境)事務所でもあるようであり、仰々は国の要求から始まったようである。

 休日診療所の検査設備を十分にせよと云う意見も考えられる。例えばレントゲン機械である。レントゲンを撮れば肺炎の診断がつく場合もあるであろう。今はそう云う時代かも知れない。休日診療所が柳原の旧市役所に移った時、そこにはレントゲン機械の設備があったと思う。それを使いたいと云う意見は一つもなかったと思う。検査設備凡て病院並にすることも一案である。と云うより休日診療所を痛院内に設けた方が良いかも知れない。

 小児救急医療が新しく検討され始めた以上、現存の長岡休日診療所に何が反映されて来たのか、何が反映されないのか、一般の医師会員としては知りたい所である。県下の四地域の何処で何が検討され、何が調整されて来たのか、そのようなことは医師会員に公開されるべき時期に来ていると思う。

 医師会館設立の頃、例会も頻繁にあったが、例えば税金申告の時期、例会で役員から一日説明を聞けば、自分で申告書が書けたのである。今は税理士に任せて、出来上がったものを見ても分らなくなっている。給料や年金は社会保険労務士や家内に任せて自分では訳が分らなくなっている。会館設立の頃、従業員の給料は私自身渡していたような気がする。かつてレセプトも自分で書けたが、今は全く他人任せであり、自分では書けなくなっている。どうも可笑しい気がする。可笑しいのは自分であろうか、世の中であろうか。

 

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新医師会館の竣工を迎えて  鳥羽 嘉雄(内科小児科鳥羽医院)

 私が開業したのは昭和38年12月でしたが当時は医師会員数も150名位で現在の半分以下であり、まだ医師会館はなく従って医師会職員もおらず医師会の事務は医師会長宅でやっておられた様である。カルテや麻薬帳簿などの用紙類を監事であった川瀬先生のお宅に買いに行った記憶がある。理事会は何処で開いておられたのかは知らなかったが、毎月大手通りのイチムラ2階ホールで例会が開かれて殆どの開業の先生方が出席され活発に意見を交換しておられた。終ると私達中央病院OBは近くの寿司屋や飲み屋に流れて例会の話の続きや保険請求・診療報酬などについて情報や体験を話し合い、何も知らない新人の私には大変勉強になったと思っている。

 時代も今とは違い人の心も比較的のんびりとしており、確定申告は毎月のレセプトを基にして出した税額とそれに一定の率を掛けて計算した自由診療分を上乗せして、医師会役員より「君の今年の税金はこれだけ、医師会費はこれだけ」と言ってメモを渡された。

 やがて医師会館建設の話が例会に出て現在の幸町の場所に建設することが大した反対意見もなく決定したことは会員が会館の必要性を感じておった所為であろう。土地は田を埋立てをし、土を締め固めるのに良いからと電々公社の資材置場として会館建設まで貸すことになった。開業早々で借金もあり24時間態勢で頑張っていた私には建設の負担金は相当にこたえる額であったが、林会長から「気の毒だが我慢をしてくれ」と言われたことを覚えている。やがて医師会館は昭和41年6月に竣工した。

 会館は前が芝を植えて西洋庭園風で、2階ホールは例会や給会・勉強会などに使用し総会後の懇親会も此処でやっていた。また神谷病院より移った准看養成所がこのホールをアコーデオン・カーテンで仕切って二教室とし1年生と2年生が同時に授業を受けていた。然し2学年が間仕切り一つで一緒に授業をするのですから喧しくて集中出来ず、鈴木会長の時に左側の物置を壊して会館を増築し2階を教室に1階を倉庫とした。後年一階の倉庫は改装して教務室としたが、それまでは教務は医師会事務室に同居していた。

 検査室は現在の坂之上小学校の処にあった東中学の一室を借りて寄生虫検査所として仕事を行っていたのが医師会館1階に移り、やがて生化学検査や心電図検査機器なども加えて学童の保健衛生に力を入れ名称も保健衛生センターに変更し、検査技師も増員した。私が会長の時に学童・生徒だけでなく、一般企業の従業員の健診にも手を拡げたらという提言があった。然し医師会は学校医の立場で学校保健に盡力すべきで市井の検査機関と競合すべきではないと考えて現在に至っている。

 会館の前庭は何時の間にか駐車場と化したが、既に車の時代になつており何故駐車場を設計段階で考えなかったのだろうか不思議であった。

 例会も次第に出席者が減って鈴木会長は連絡事項などは回覧ですることにし特に必要な時のみ会を開くことを決められたが、数年前より確定申告は夫々各人がすることになり確定申告や診療報酬改定の説明会には2階ホールに入り切れぬ程の出席者だったことは皮肉であった。会員数が増加すると共に医師会に対する会員の考えも変わって来た様に感じられたが、休日診療所を開設する時には頻繁に集って多くの会員が熱心に討議を繰り返した。市民の為に開設する休日診療所に医師会は協力を惜しまないが設立は市が行うべきだと言う会員の意見に対して、赤字を恐れて設立母体になることを渋る市当局との間で板挟みとなつた神谷会長は大変に苦労をされた様である。

 私が昭和61年に会長になった頃はまだ雪が多く一冬に2、3回の雪下ろしは当り前で医師会職員が暇をみては会館前の除雪をしており、是非融雪井戸が欲しいとの希望があった。尤もな事と考え融雪井戸を掘ることを決めたのが会長として新たな予算を伴う最初の仕事であった。昭和62年の夏に井戸を掘り、雪が降るとセンサーで自動的に水が流れて雪を融すことが出来る様になつたので職員の冬の苦労も一部解消された。

 市町村合併に伴い郡市医師会の合併、再編も考えられる時に新医師会館が長岡市医師会の更なる発展の基盤になることを祈念し、建設に関係された方々の御苦労に心より感謝を致します。

 

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旧医師会館の思い出  関根 光雄(関根整形外科医院)

 私が初めて医師会館を訪れたのは開業を決めた昭和45年の秋ごろであったと思う。手続等のことで当事の小川事務長より事務長室(実は会長室)で懇切丁寧な指導を受けた。(その小川さんとは現在も交流が続いている。)

 そして12月に開業、A会員の一員として当時は毎月2階大ホールで開かれていた例会に出席していた。

 当時日医は武見会長の全盛時代で、年が明けてまもなく厚生省と激突し、4月には保険医総辞退に突入。臨時総会も何回か開かれ、その度に会館にかけつけて新米会員は先輩の先生方の満々たる発言に耳を傾けた。当時の会長は神谷退蔵先生でいられた。営業的には開業まもない身にとって保険医療をやらないというのは非常な痛手であった。

 開業まもなく准看学校の整形外科の講師を依頼されて週に一回会館で講議を行った。当時は大ホールをアコーデオンカーテンで仕切り、一、二年生同時に講議があってともども講師の声が筒抜けであった。

 月一回の例会もだんだんと集まる先生方の数が減り、鈴木会長の頃であったと思うが廃止になった。然し4月の年一回の総会は大ホールで行われ、懇親会もその場で開かれていた。

 次の鈴木会長の時代になつて学院のために会館の向かって左側に附属の別館が新築され、講師の方々もすっきり講議が出来るようになった。

 医師会館の選挙規程改正問題の検討委員、引き続き医師会の理事に選ばれ、更には鈴木会長時代に発刊された会報「ぽん・じゆ〜る」の編集委員として考えてみれば月に何回かは会館に通ったものである。

 奥の畳の部屋にはやはり小国の小川さんという用務員さんが寝泊まりしていたが、辞めてからはいまの梅沢さんが5〜6年引きつぎ、その後夜間警備は業者に任せるようになった。

 会長室や会議室にはいろいろな絵が彩りを添えている。最も古くは小山良修画伯の婦人画像があり、内田先生の寄贈のもの、丸山正三先生の描かれた花火の絵等が思い出される。これらは新会館でも飾られることと思う。

 また会議室には余り使われたとは思えない書棚、ビデオつきテレビとか歴代ゴルフコンペの優勝者の名札つきカップ等が置かれていた。

 事務室は狭く、書棚や机があって更に狭くなっているところに3〜4名が仕事をしており、中を通って事務長のところへ行くのに体を横にしてすりぬけるようにして歩いた。でも私の体がやせているので出来たのかも知れない。

 鳥羽会長になつて県医師会館の建て替えの話が持上り、会長命によって私が長岡市医師会を代表して建築委員に選ばれた。県医の意向としては今の県庁の近くで鹿島建設所有の土地に移転新築という案であった。然しそれを実行するには余りにも金がなく、十数億円を借金した上でということがまず一番の陸路であった。いろいろ検討したが結局地元新潟市医師会の意向で移転せず現在地で建て替えということになり、私も最初からその案に賛成であった。

 そのうちに私が会長になって当医師会館の建築は昭和41年であり、県医師会館と三〜四年しか違わないことから建物のぐあいはどうかということになり、当直室の雨もり、水道まわりの不備等が指摘された。水道工事を担当した今井設備にみてもらったところ古くなって修理不可能ということであった。

 事務長と相談して県医の前例もあり、先ず或る程度資金をプールしなければということで会員の先生方の諒解を得て、各種手当、日当等から一定割合を天引きさせて頂き、それを貯めて今日に到り、かなりの額に達したので2〜3年来建築委員会等を設け、各種条件を揃えて今年3月1日の起工式に到ったことは周知のとおりである。

 以上「旧会館の思い出」に該当するかどうか判らないが、かけ足ながら私のみた或は経験した当医師会の歴史を一部混えて振り返ってみた。

 同時に事務、学院等の古いメンバーの方達もなつかしく思い出され、またいつも問題を抱えながら頑張って来たがついに閉校になつた准看学校のことなど、いろいろと懐古の世界にひたった次第である。

 

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旧会館の思い出  高橋 剛一(高橋内科医院)

 私が初めて長岡市医師会館の中に入ったのは、昭和47年まだ中央綜合病院の内科にいた時である。当時会館の2階講堂で中越地区の国保審査会が月に1回開かれており、そこに審査員として出席したのが最初と思う。その頃の会館は今にして思うと、築6年で一部臙脂色のすっきりした外壁が印象的であった。審査の時間は昼休みの1時間半から2時間位で、慌ただしく病院の車で行き来していたので、会館の内部についてはほとんど覚えていない。審査会には昭和57年に開業するまで通っていたが、それ以外では全く会館に縁がなかった。僅かに開業の手続きのため、小川前事務長と会長室兼事務長室で話をしたことが思い出される。

 昭和61年4月、鳥羽先生が会長に就任した時に理事となり、以後定例理事会や保険の説明会、選挙などの医師会の行事、准看護婦養成所、保健衛生センターの用事で会館に顔を出すようになった。当時の会館はすでに築20年でお世辞にもきれいとはいえず、ほぼ現在の会館の姿になっていた。より頻繁に通うようになつたのは、平成2年に庶務担当理事になって毎週火曜日の三者会議に出席するようになつてからである。以来会長を辞めるまで少なくとも600〜700回位は通った計算になり、よくも通ったものである。医師会に通うようになって気付いたことは、事務室が驚くほど狭いことであった。幸いスマートな職員ばかりで何とかつめこめたといった状態で、中央病院の医局並みかそれ以上であった。また保健衛生センターも決して快適とはいえず、季節によっては医師会の玄関に入ると異臭がするという環境で、よく職員が我慢していたと思うと同時に申訳ない思いで一杯である。

 所で築30年近くになると、会館のあちこちで水もれ、壁紙のはがれ、水まわりの不具合、冷暖房の故障など老朽化が目立つようになった、たまたまその時期、会館より数年古い県医師会館の新築問題がおこり、次は長岡という考えが一般的であった。関根会長の時に、一時本気で新築を考え、理事会で私が建築委員会の責任者になりかけたが、まだ養成所存廃問題が未決のため、とりあえず資金面の手当てだけはいくら早くても良いのではということで、検診手当などの天引き、役員手当、費用弁償の半減などが実施されることになった。当時の私は養成所、保健衛生センター抜きでの新築を考えており、新築場所も現在地で、移転新築の考えは県医師会の前例もあり、ほとんど頭になかった。結局養成所は1年間の生徒募集停止があったが、昼間の看護学校として継続することに決定、新築問題は先送りになってしまった。

 平成8年私が会長になってからも、ますます会館は古くなり、修繕の機会も多く、一段と見すぼらしくなつてきた。しかしいずれ新築を考えていたので全面改修もままならず、毎年修繕費が予算をオーバーするかどうか気にしていたが、幸い補正予算を組むほどの大修理はなかった。事務長も随分頭が痛かったことと思う。また阪神大震災の後に、長岡地域も危険であるとのマスコミ情報があり、一時はかなり心配したが、今日に至るまで無事で心からほつとしている。

 1年後学校は再開したものの准看護学校をめぐる社会環境は厳しく、近々学校廃止を考えねばならない情勢になってきた。当時の会員のアンケートでは、なお一部の会員は学校存続を希望していたがごく少数派で、廃止が正式に決定した。ここにきてようやく学校抜きの会館建築計画にゴーサインが出たのである。そして斎藤現会長を委員長とする会館建設準備委員会が発足、新会館のビジョンが呈示された。間もなく大貫現副会長を委員長とする会館建設委員会で、保健衛生センター存廃、建築場所などの懸案が解決し、以後順潤に推移して今日に至っている。そして遂にこの10月には新会館の竣工式が行われる予定となった。関係者の一人として本当に感無量であり、現執行部の実行力、努力に心から敬意を表する次第である。

 以上思いつくままに旧会館に関することを書いてきたが、私にとってやはり看護学校廃止、会館新築問題が最も強く印象に残っている。

 

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医師会館のこと  齋藤 良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)

 初めて医師会館に行ったのは多分昭和50年頃であったと思う。厳寒の1月役員選挙のため招集をかけられた時である。玄関は暗く、特に一階の廊下は真っ暗でどんな部屋があるのかさえ判らなかった。2時間もかかった長い選挙が終わり、外へ出ると新雪が30センチも積もっており、中島の宿舎まで歩いて帰ったのを覚えている。次に行ったのは准看護婦養成所の講議のためだった。教室は鉄骨鉄筋コンクリート造りの増築部分なのに廊下や階段を歩くと靴の音がやけに響いたように思えた。

 開業5年目に理事にさせられ、初めて会議室に入った。この時は円卓テーブルの一席を与えられ何か少し偉くなつたように錯覚した。あれからもう12年もこのテーブルの世話になっている。

 しかし各部屋をゆっくり覗いたのは新会館建設準備委員会を任されてからである。会議室の廊下を隔てて右から検査室、書庫兼倉庫、職員休憩室が並んでいる。どの部屋も日当たりが悪くて湿気が多く、老朽化のせいもあり気分も滅入りそうだった。書庫には棚にも床にも所狭しと書類が置かれ、片隅にコピー機が、その奥に救急用のジュラルミンのケースが積んであり、まさに足の踏み場も無い状態であった。とても書類整理など無理と思われた。それと共に先輩の先生方のこれまでの凄まじい医師会活動の足跡を見せられる思いがした。その隣の職員休憩室では冬場は特に結露で大変だったらしい。新会館は明るく、開放的で、ゆったりしたものにしたいとの意を強くした。

 5年程前、新会館建設の準備委員会に先立ち、まず長岡市医師会の全体像を頭に入れることと資料集めのため、長岡市医師会史を開いてみた。旧会館の建設の概況、准看学校のこと、保健衛生センターやその他様々の医師会の活動を読んでいるうちに、医師会史執筆の先生の筆力もあるとは云え、先輩の先生方の医師会活動への執念とこれを支えた旧会館との惜別を思うと複雑な思いであった。

 資料集めをしていてひとつの妙な一致に気付いた。旧会館の着工は昭和40年10月で、竣工が昭和41年6月である。なんとこの間、私はここ長岡にいたのである。昭和40年4月から41年6月まで長岡赤十字病院にお世話になっている。勿論、当時医師会員でなかった私には、県内郡市医師会で初めての独立した医師会館がこの長岡で建設中とは知る由もなかった。その後私は大学へ戻り、県外の病院を経て、昭和48年再び長岡に舞い戻った。30余年後の今、この新会館の建設にたずさわって、その定礎板を書くことになろうとは本当に夢想だにしなかった。何か因縁めいたものさえ感じ、やっと長岡市医師会員の仲間入りを許されたような気がしている。

 旧会館の設立当時の詳細は先輩の先生方にお願いすることにし、最後に旧会館の労をねぎらい、新会館の恙無い竣工を祈念して、旧会館とのお別れの言葉とします。

 

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新会館建設事業の動向〜その15

会館建設委員会委員長 大貫 啓三(大貫内科医院)

 心配された天候不順の影響もそれほどではなく、現在、9月末の完成に向けて急ピッチで内装及び外構工事等が進められています。

 今月お盆明けには、これまで周囲を覆っていた足場・フェンスもすべて外され、新会館のすばらしい姿が現れました。8月末の工事進捗率は約85%程ですが、外観は既にほぼ完成に近い状態となっています。完成時には、周囲に木々が植えられることを考えますと、新会館をじっくりと眺めるには、今が一番かもしれません。是非、一度お立ち寄りのうえご覧ください。

 工事に平行して竣工セレモニーの準備も着々と進んでいます、10月4日(土)の竣工式には、ご来賓並びに会員の皆様から多数ご出席いただき、盛大にお祝していただきたいと考えます。なお、本来ならば別に見学会を設けるところですが、あいにく完成後の日程の余裕がないため、竣工式の日に御披露日とさせていただきます。ご了承ください。

 

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妖怪天国〜ルーナティック・ドーン(月明かりの夜明け)2

  岸   裕(岸内科・消化器科医院)

 ハーイ。ロングタイム ノーシー。ひ・さ・し・ぶり。アルジャーノンだよ。今夜は十五夜。田んぼみちはまっくら。空は割と明るい。向こうのおっきな木から蝉の合唱が聞こえる。蝉しぐれだね。うるさいね。あんまりうるさくすると喰っちゃうぞ、なんてね。…あっ。大神(おおがみ)クン。蝉いじめちゃだめだよ。暑さでパテて落っこつて来たんだから。…あーあ、喰べちゃった。しようがないなあ。紹介するよ。大神クンだよ。犬神(いぬがみ)なんだ。普段は僕と同じ男の子なんだけど、今は満月だから犬なんだ。…えっ、犬じゃないって?犬神だって?だからそう言ってるじゃない。

 大神はね、その家について家を守ったり健康を守ったりするんだよ。“犬印妊婦帯”ってあるもんね。一所懸命お願いすると病気を治してくれるんだって。でも結構気まぐれでね、治せる事もあるけどいっくらお祈りしても治らない事もあるんだって。…うちの先生もそんな事言ってた事あったけどね。

 今、裏のあぜ道にいるよ。こないだ収穫直前のとうもろこしが全部やられて、これは狸1匹2匹のしわざじゃないって皆言ってて、その晩近所の馬鹿犬がきゃんきゃんさわいでるなと思ってたら、その家の裏庭で狐がかかっていたんだって。…狐、喰べられるのかなあ。

 この周りは大体田んぼ。田んぼは真っ暗。時々稲穂が揺れてきらめく。夜の海みたいだ。

 見て。ずっと向こうの南の方の妙見堰のあたり。ちっちゃく一本銀色のラインが見える。CDの表面のヘアーライン(こすり傷)みたいだ。すーつと伸びて、ほら、あそこから3本になる。…びっくりした?…お母さんの髪の中に初めて銀色に光るものを見つけたときみたいさ。

 3本のラインがぐんぐん伸びて、そのあとから黄色い光の玉が付いて来てどんどん大きくなる。地面とレールに振動が伝わって来てるよ。ほら来た。風を巻いて薫進して来る。大神クンしっかり足をふんばって。巻きこまれないように。すごいねえ、モーターのうなりと車輪がきしむ音、乾いた土ぽこりと鉄とオイルとブレーキシューの焼ける臭い。

 …たくさんの窓の明かりが…もう通り過ぎて随分向こうへ…今度は光の玉が架線とレールの3本のラインを引っばつて行ってしまった。

 迫力だったね。すべる様に突進してきたね。優雅だね。昔は鋼鉄の貴婦人って言ったんだって。先生が言ってたよ。…もう見えなくなった。

 僕はあれに乗って来たような気がする。いつかまたあれに乗って帰る。でも今はずっとここにいるよ。

 ちょっと冷えてきたかな。涼しくなった。ウチへかえろ。…え?ショートサムの親指はすっかり治ったんだって?そう、そりや良かったね。大神クンは鼻ターカダカだね。

 …でも僕のお母さんは治らなかった。お祈りしたのに。…え、どうしたの?しよげないでよ。大神クン。キミのせいじゃないよ。…そんなに僕の顔をペロペロなめないでよ。やだなあ、妙に人間臭い顔して。

 もうじき4時。山の端と空の境がだんだん明るくなってきたよ。

 秋になるとこの田んぼはみんな黄金色の海に変わるんだ。すると金色の波のうえにあのシルバーガールが立つんだ。すーっと彼のうえを滑っていって山すそまで行くとフワッと浮き上がって山の向こうに行ってしまう。…あの子だったら僕たちの仲間に入れてあげてもいいな、と思ってるんだ。…僕たちは男ばかりなんだけど。…じや、またね。(続く)

 

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