長岡市医師会たより No.282 2003.9

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「高原の秋」        内田 俊夫(内田医院)
 「2度目のアキレス腱断裂体験記」  内田 俊夫(内田医院)
 「巨人軍のメークドラマは絶望か?」 吉田 鐵郎(吉田病院)
 「恐くて悲しき少年兵」       宮村 治男(中央アフリカ共和国在住:元長岡赤十字病院)
 「防災訓練に参加して」       渡辺 正雄(渡辺医院)
 「新会館事業の動向〜その16」
 「パラソルの夏」          郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

高原の秋   内田 俊夫(内田医院)

2度目のアキレス腱断裂体験記  内田 俊夫(内田医院)  

 「ぼん・じゆ〜る」1980(昭和55年)の創刊号に市川豊樹先生からそれこそ強引に書かされた1度目のアキレス腱断裂体験記が載っております。

 「あっちゃちゃ……」なる言葉を発せられたのは診察台に横たわった小生(55才)の右足を見られた関根光雄先生である。

 これが書き出しで長々と良くもこんな駄作を書いたものだと77才になった敬老の日にあきれ果て、2度目のアキレス腱断裂体験記を書いて置かねば釣り合いが取れないと思いました。それにはそれなりの訳があって、昨日丸岡家4人兄弟の素晴らしい絵画展を拝見させて頂いた時、受付に出て来られた丸岡稔先生の前で毛筆で下手くそな字で住所と名前を書かされて頭も顔もくしゃくしゃになった自分の顔を思って赤くなったのが切っ掛けで丸岡先生に再度左足のアキレス腱を断裂した話を簡単にしたのはよいけれども階段を上る時、丸岡先生がじっと私がびっこを引きながら上るさまを御覧になっておられる様に思い恥ずかしかったのです。丸岡先生には簡単にお話しましたが、今回のアキレス腱断裂はオーケストラ(以後オケと略します)と関係があるのです。3月9日が本番ですから真剣に練習しないと間に合わないので気が焦っていた事は事実です。兎に角、曲がMozartのSymphonie Nr.40で(他に2曲ありました)私にとって神のような曲で、41曲作曲した交響曲の中でト短調の曲は2つしかなくViolinの旋律のしなやかさや美しさはちょっと類を見ないと云われている曲だけにこの曲を演奏させて貰えるだけでも光栄ですから私は興奮していたのでしょう。2月23日の日曜日の夜、オケの練習のためにRober miniを運転して市立劇場の楽員の駐車場に止め、楽器をぶら下げて半ば走るようにした所が真っ暗だったためもあって、車止めに左足を引っ掛けてぶっ倒れてしまったのです。2階にいる団員の所迄どうやって階段を上がっていったかこれは全く覚えておりません。ホルンを演奏される整形外科医の村山信行先生が左アキレス腱の部分を触って切れていると云われ、団員2人の方に担がれる様な具合で階段を降りて帰宅しました。以前長岡中央綜合病院におられ今は開業され親しくさせて頂いている土田桂蔵先生に頼んで長岡中央綜合病院に連絡をとってもらい、矢尻洋一先生を紹介していただき、月曜日の早くに診察して頂く事が出来ました。矢尻先生は触るなり完全に切断されていると云われ、今日はOpe.は満杯ですから明日手術をしましょうと云って下さいました。

 手術(2月25日)は戸内英雄先生と矢尻先生とお二人でやって下さいました。ギプスは膝下迄でアキレス腱の所は窓の様になつていて窓を開けて消毒出来る様になっていました。26日も午前8時20分(特に早く)呼ばれて処置して頂きました。ここで問題なのはオケ本番に出られるかどうか?パールマンのように手や腕は何とも無く足だけが不自由な立派なViolinistもおられますが、沁w揮者へはFaxでこの際、「年齢的にもギプスを付けた足の状態からも退団させて下さい」と伝えました。沁w揮者からFaxが届きました。

【楽団員たちは口々に「先生が出席される」という嬉しい情報を語っていました。公演前日からは殆ど段差の無いリリックホールで行けるからそれまで静養するのもいいかもね。などと勝手なはなしも出ておりました。沁w揮者が東京の自宅に帰ったのが午後11時前で私が送ったFaxを穏やかな気持ちで読み始めました……。が、が、が、何ですか、あの内容は!先生駄目です。とうてい許可出来ません。何を言っているのですか、退団なんてとんでもない!正直な話、今回の公演にも全曲、ご出演いただきたいのです。でもオーバーワークになってはとの配慮から団長は″Mozartだけでも″と言ったのでしょう。むろん、お怪我の回復具合と相談しなければならないでしょうし、その結果、今回は見合わせるという残念な結論も覚悟はしておりました。ですが退団というのは、誰の選択肢の中にもありません。考えても見て下さい。今の長岡交響楽団に先生がいなくなると、残されたみんなの元気が一気に萎んでしまいます。みんなを助けてやってください。いま長岡のオケの指揮台上には中年のおじさんの″少年″がいます、同時に2nd Violinのなかには頭の白い″少年″がいます。この状態をこれからも長く続けてゆきたいと願っています。失礼の数々お許し下さい。】 

 このようなメールを読んで私は全曲に出る事に決めました。助けて欲しいと言う場合、医師として助けないわけには行きません。それからが又大変でした。ステージに出た場合松葉杖で出るのは可笑しい。車椅子でも困る。それではステージは皆さんと同じ椅子にして演奏が始まる前の扉があいたら私は車椅子に乗ってステージに出て皆さんと同じ椅子に乗り換える。A君がViolinと弓を持ってくれて、一曲終わる度にこの繰り返しをやるという具合に決まりました。Mozartが無事に終わり、拍手を受けて出入りする扉が開き皆は引き上げたのに私を迎えに来てくれないのでステージに私一人残されてしまい、何度か扉の方に顔を向けて見るのだが、車椅子を持って来てくれず恥ずかしいやら照れるやらで困っていたらやっと迎えがきてくれてほっとしました。この状態を客席から見ていた薬メーカーの若者が携帯電話で「先生、可愛かったですよ」。Mozartも喜んでくれたかもと思います。その後毎週水曜日、長岡中央綜合病院に通院して4月16日ギプスは取れました。やっと取れたと言う感じです。私の診療所は従業員が助けてくれたお陰で無事に患者さん達の診療をすませる事が出来ました。ある薬メーカーの MR.に言わせると名前の姓名判断では私は怪我が多いそうです。確かに怪我は多い方です。これからも気を付けて行きたいと思います。私を取り巻く皆さんにどれだけお世話になった事か心からお礼の言葉を送ります。

 

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読売ジャイアンツ巨人軍のメークドラマは絶望か?  吉田 鐵郎(吉田病院)

 6月17日、札幌で広島に3連勝し、阪神との差9.5ゲームとなり、さあメークドラマの再現だと意気上った。処が阪神が好調でなかなか負けない。

 その後巨人は負け続けて6月19日阪神タイガースに遂にマジック49が点燈し、19ゲーム差となつた。然し巨人軍の選手達は眦を決して闘志を燃え立たせている。私はその昔巨人ファンであった。

 巨人軍には川上、青田らの著明な選手が多かったのと、川上哲治氏からコーチを受けたこと等で、いわゆる巨人、大鵬、卵焼と揶揄されるミーハー族の一人になっていた。家内は神戸育ちだから当然阪神ファンで時折小競り合いがあった。

 戦後、野球が猛烈にはやり出した昭和23年頃に、私の郷里の先輩池田恒夫氏がベースボールマガジンと云う野球雑誌の出版社を設立し、その関係で川上哲治(ジャイアンツ)の4番打者が越後の山の中の小出町へ来られて、野球教室を開いた。約40人余りが集った。川上さんは真撃な人柄で、熱心に練習を見て廻り、全員にバットの素振りをやらせ、一人一人を見た後で一人の学生を呼び出し「君が一番よいバッティングをしている。素直にバットが振れている。君は今後よい打者になるでしょう。」云われた本人は呆然としている。何故なら彼は小出町学生会野球部の万年補欠で、その後C校野球部でレギュラーになれなかった非力な人である。

 次に何か質問はないか?と云われたが、皆後込みした。折角巨人軍の大打者が目の前にいるのに。そこで私が質問した。「私は直球ならそこそこ打てるのですが、カーブが駄目です。カーブはどうやって打てばよいのでしょうか。」川上さんは「カーブはカーブのボールが曲り切った処を打て。」と簡単に答えてくれた。併し私には納得出来なかった。カーブが曲り切った時はボールは捕手のミットの中に入ってしまっている。

 ボールがカーブする前に叩く、私にはその方が合理的だし、野球技術の図書にもそう書いてある。

 強打者が必ずしもよい打撃コーチでないことをその時知った。原監督は長い間巨人の4番を打ち、人柄も穏やかな紳士である。だからと云って大巨人軍を指揮する監督ではないように思う。

 その後私はいつの間にかアンチ巨人になってしまった。理由は巨人軍があまりにも卑怯な球団だからである。

 日本シリーズでどうしても勝てなかった南海のエース別所毅彦を大金を積んで引き抜いたのである。それから南海ホークスに勝てるようになった。

 それに味をしめて、各チームのエースや、4番打者を引き抜くのが常套手段となった。清原、工藤、江藤、ベタジーニらがそれである。だから巨人軍の打線は一番から八番迄ずらりと大砲が並んでいる。

 高橋由信、清水、二岡、仁志、元木、後藤などは皆他チームに行けば三番、四番を打てる人達である。然し打撃には波があって、よい時も悪い時もあり安定しない。まして常時出場せずピンチヒッターにだけ出されては良い成績を望む方が無理だ。

 むしろ投手力の充実しているチームが勝つ。調子の良い投手の球は仲々打てるものではない。

 投手陣は桑田、工藤が衰え、若きエース上原も生彩がない。先発投手が崩れると中続ぎに困っている。岡

島も駄目で、河原投手など1インニングだけでも押さえられない。

 将に投壊状態で、僅かに新人の木佐貫、久保が頑張っている。

 そして又怪我、故障の選手だらけで二岡と阿部以外は皆どこかを傷めている。

 元木は休場、仁志、高橋も腰痛、清原、江藤、清水、ペタジーニもどこかが悪い。

 これは原監督が厳しいキャンプをやらなかったのが、怪我人続出の原因であると云われている。一方阪神は笑いが止まらない。選手がどんどん打って、守って勝ち続けている。監督はベンチに座ってニヤニヤしていればよい状態で、星野監督が腕を振るう場面がない。

 星野さんはよく云えばファイトマン、選手にハッパをかけたり、誰かがミスするとすぐ頭へ血が昇って、何か回りにある物を蹴飛ばしたりして、怒り狂う。弱いチーム用の人である。

 それが阪神らしからぬ大補強をして貰い、エースの井川、アメリカから帰国した伊良部迄投手陣は好調で、これなら俺の出番はないと嘆いていると思う。

 又一方忘れてならないのは前監督野村がぼそぼそぼやき乍ら勝つ野球を教えて来た。その遺産を貰って今日の勝つ星野阪神があるのだと云う事である。ちょいと2〜3カ月キャンプで鍛えても一年たらずではそう変わる筈はないのである。

 万一、阪神が予想通り優勝すると興奮した若者が又裸で道頓堀に飛びこんでワイル氏病に感染するだろうが、それよりも阪神優勝の経済効果は約一千億円で日本の経済を潤す。'85年に優勝した時も経済に好影響を与えたと金融経済担当竹中平蔵は阪神優勝は不況日本救済の鍵だなどと云っておるが、'85年は円高不況があってこれを何とかしようとしてバブルを招き結局はじけた。今とは全く条件が違う。一千億円など竹中さんの根拠の無い事を平気で口にする戯言にすぎない。

 神戸ベイシェラトンホテルでは阪神が5点差で勝てば5割引き、10点差で勝てば10割引き(只)を実施しているが、阪神が勝ちすぎるので悲鳴をあげている。大体一国の経済を一球団の勝敗に依存するなんて、そういう政治家は情けないの一語に尽きる。  完

 

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恐くて悲しき少年兵  宮村 治男(中央アフリカ共和国バンギ在住・元長岡赤十字病院)

 世界の各地で戦闘が続けられている。現在のアフリカで戦闘が全く無い国はまれだ。私が今住んでいる中央アフリカ共和国も例外ではなく、私がこの国の首都バンギに到着した2週間後にクーデターが起き、市街戦が行われた。結果的に政府軍は敗走し、ポジゼ将軍率いる反政府軍が新たに暫定新政権を樹立した。クーデターで成立した政府は原則として認めない、というのが日本政府の立場なので、ポジゼ政権は目下のところ日本の承認を得ておらず、したがって日本からの経済援助も期待できないという苦しい状況にある。この国の人口は360万余で新潟県なみであるが面積は日本の1.7倍あり、金・ダイヤモンド・石油など地下の鉱物資源も豊富とされている。その利権をめぐって戟争が絶えず、結果的に経済は破綻し、世界最貧国の一つとなってしまっている。こういう国での戦争とはどんな形をとるものかというと、総勢合わせて数百人の兵士が銃を撃ち合うのである。数年前までは、敵も味方も同じ中央アフリカ人同士だったので(知人友人がいるので)まともに殺し合うことはせず、銃口は斜め上方に向けられ、沢山撃った方が進軍し、弾丸が尽きた方が逃走したという。2年前にカダフィ大佐の指示のもとリビア兵が政府側について内戦に参入してから戦争は悲惨になった。リビアの兵士は水平に射撃し相手を倒すのである。そして武器も自動小銃・機関銃・迫撃砲・ロケット砲と大型になった。リビア兵はその後去ったが、今度は隣国コンゴからベンバ兵というまことに獰猛な兵隊が参入してきた。ベンバ兵はコンゴのジャングルで暮らしている傭兵達で、文明とはほど遠い人達であった。彼らは反政府軍と戦うだけでなく、民家を襲って略奪・強姦もやってしまうのだ。少数民族のピグミーを狩って人肉を食べたという記録もある。だからポジゼ将軍が旧政府を倒しベンバ兵をコンゴに追い払ったとき、国民の大部分はこれを歓迎した。しかし事実上は、この反政府軍の殆どは隣国チャドからの傭兵だった。中央アフリカの国土の上で、様々な国の兵隊が入り乱れて戦闘を繰り返しているのである。私が初めてこのチャド兵を見たとき、身震いするほど恐怖を感じた。市街戦が終わって「占領軍」のように首都内を閥歩しているチャド兵はみな眼が異様にギラついて視線そのものに殺気を感じた。平気で人を殺す眼だった。戦闘の恐怖感を消すために彼らの殆どはハシツシ(大麻)を吸っているという。私が恐かったのはその異様な顔つきだけでなく、かれらの多くが10代と思われる幼さを体格に残していたからである。15〜6才の少年兵というと何か愛しいような感を抱く人も居るかもしれないが、とんでもない、少年兵が一番恐い。人生の機微というものを知らない彼らは、上官の命令とあらば誰でも迷わず射殺する。日本であれば、野球部やサッカー部で監督の言いつけ通り練習し球技に熱中する年代の子達が、読み書きもまともに習うことなく招集されて銃の撃ち方だけは一人前になり、戦闘最前線に送られているのである。しかも彼らは「戦闘に勝利」し、いま意気軒昂なのだ。だが、やがて戦争が一段落すれば少年兵は皆解雇され故郷に帰される運命にある。もの心ついてから武器の使い方と殺し方しか教えられなかった彼らが、戟争が終わったからといってまっとうな職に就き普通の生活が送れるものであろうか。少年兵はアフリカの悲劇を象徴している。

 

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防災訓練に参加して  渡辺 正雄(渡辺医院)

 8月31日(日)、南中学校において地震総合防災訓練が行われた。長岡市中心部に震度6弱の直下型地震が発生したとの想定で、新聞によれば約1500人が参加したとのことである。医師会からも、今井春雄、窪田久、佐藤充、藤田繁の四先生と小生で計五名が参加した。

 訓練の概要

(1)一般参加者40名の負傷者がゼッケンに負傷状態を記入されて登場。重症度分類(トリアージ)されて応急処置、搬送が行われた。

(2)日赤病院看護学生20名、ゼッケン無しで巧妙に損傷のメイクをされ、痛がったり、大声で泣き叫ぶ状態で登場。上記と同じく重症度に分別、搬送が行われた。以上60名であったが、1時間足らずで処置完了した。

 重症度分類に迷ったこと

(1)重症度判定に最重要なのはバイタルサイン(血圧、呼吸、脈拍等)なのであるが、訓練ではそこまで演技できないので重度判定が難しい。

(2)意識レベルの演技も困難なので実際の重度に迷う。

(3)熱傷の場合、受傷面積が最重要なのだが、これがわからない。

 訓練と真の災害との違い

 訓練では重症度判定は一回行えばそれで終り、次の負傷者に移ればよいが、実際の災害の場合はそうは行かない。ショック状態の患者の点滴にてこずるだろうし、強心剤、昇圧剤の適用も慎重に決めなければならないだろうから、重傷者のそばにかなり長時間ついていなければならない。病状が急変するので、同じ患者を二度、三度と診なければならないだろう。

 従って今日の訓練のように数十分の間に60名の負傷者を手際よく片附けるわけには到底いかない。救急車の搬送能力にも限度があるだろうから、いらつくことも多くなろう。

 訓練の意義

 以上のように訓練と実際は大いに違うであろうが、訓練とは、身を以て体験してみて、いろんな不備の点に気付いてそれを改善の方向へ持って行けばよいのである。

 私事で恐縮だが、病院を辞して18年になったが、この期間挿管など緊急処置を行ったのは5例位で、生命の危機に面する緊迫場面にはとんと御無沙汰である。

 だから実際の災害に直面したとき、果たして冷静沈着な行動がとれるか、いかさか自信が無い。訓練とはそういった心の準備をすることなのであう。

 結び

 医学的にみれば、実際とはかなりかけ離れた訓練ではあったが、やるとやらないでは大違いで、実災害に直面した時に相当大きな差が出るのではなかろうか。その意味で8月31日の訓練は有意義であったと思うし、これからも機会があれば諸兄も是非参加して経験を積んで頂きたいと感じた次第である。(以上)

 

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新会館建設事業の動向〜その16

会館建設委員会委員長 大貫 啓三(大貫内科医院)

 一昨年10月に設計コンペを実施して以来丸2年、いよいよ9月30日に待望の新会館が竣工となります。

 行政の検査も無事に済み、25日には施主検査を実施いたしました。こまかい汚れなど数点の指摘事項はあったものの、非常に良好な結果で、本当に素晴らしい設計・施工であるとの印象を改めて受けました。

 10月4日には竣工式を行い、業務は6日から新会館にて開始いたします。ぜひ一度新会館に足をお運びいただき、新会館の素晴らしさを実感していただきたいと思います。

 

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パラソルの夏   郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 ついに購入することに決定しました。…なにをですって?庭の日よけ用パラソル。なんでもガーデンパラソルとか呼ぶんだそうです。まあ海水浴のビーチパラソルのようなものですね。よく女性ファッション雑誌や園芸用品通販カタログに掲載されているやつです。そこに出てくるような緑の芝生の上の白いテーブルと椅子のセット、恥ずかしながらすでに使用中。目差の強い日にはここを覆ってくれるパラソルが欲しいという家人の強い希望であります。

 二十年前福住という町で、雨漏りがする古い借家住まいでした。その頃に実はビーチパラソルを買ったことがあります。もちろんそれを家の中で卓袱台の上に広げて、夫婦で雨だれをよけて暮らしていたわけではありません。その夏に飼い始めた子大のために、外の犬小屋と周辺に日陰をつくってあげていたのです。

 これは古い町並みのご近所で目立ったようでありました。というのは後日、大の散歩で会った小母さんと世間話をしていました。「ああ、あんたは、そうすると去年の夏に子犬に大きなパラソルをしてやっていたウチの人らかね?」

 思わず赤面です。ご近所ではパラソルを庭に立てるなんてこと自体、笑われていたのかもしれません。

 もっともすぐに飼い犬も家の中の暮しにすっかり慣れ、‥・つまり外の犬小屋なんかキライダと主張し、ついに借家自体が巨大な犬小屋化。そこにわれわれ夫婦も同居させていただくような暮しとなりました。

 そこでそれはたったひと夏のパラソルの思い出となりました。

 最近では家人がいくどかカタログ見本を添えて、パラソル購入設置案件を提出しましたが、不賛成。

 購入の要件は第一に設置と収納が容易なこと。雪国なんですから庭に作り付けの方式は絶対に不可です。また我が家は山の上で風が強いので飛ばぬよう開閉が容易なこと。そして色調はシックで目立たないこと。我が家の夫婦手作りの芝生のある庭は、英国の田舎のコッテジガーデンを気取っていますから。もっとも片隅に純和風の野菜畑の畝なんぞもいっしょにあるんですが。

「ねえねえ、このパラソルはいいんじゃないかしら?」と家人の見せた通販大手D誌のカタログ。

 説明を読む限りそのガーデンパラソルはこれらの必要条件をクリアーしているようでした。またお値段もアジア某国製のためか、お手頃。横からの金属支柱がパラソルを上で吊り下げる様式。ハンドルでの開閉、設置収納も簡単。そして色は薄いベージュ。全体の重しは砂袋四個での固定で移動も容易。

「うーむ、これはよさそうだな。」わたしもついに勢い込んで短かい首を縦にふったのでした。

 申し込んで数日後に宅急便でそれは届きました。晴れ間の休日を待って、庭に組み立て設置しました。広げたパラソルの直径は三メートル余り、雨天や強風ではハンドル操作でらくらくとたたんでおけます。

 ところがこの夏のお天気!とにかく雨ばかり。日照時間が不足で米の不作が心配され、夏野菜も値上がりしたくらいでしたもの。雨に打たれてすぼんだままで過ごすパラソルの姿が芝生の上にありました。

 そんななか、やっと晴れ上がった夏もおわりのある朝。

「よーし、これでやっとパラソルを広げて干せるわ。」と家人がうれしそうです。

 えっ、あれって日よけ用じゃなかったの?

 

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