長岡市医師会たより No.290 2004.5

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もくじ
 表紙絵 「水道公園にて」  丸岡  稔(丸岡医院)
 「新米理事です 」     中村 敬彦(中村整形外科医院)
 「理事就任のご挨拶」    小西  徹(長岡療育園)
 「私の研修時代」      齋藤 良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)
 「私の研修時代」      杉本 邦雄
 「新入会ご挨拶」      吉井 新平(立川綜合病院)
 「分け入っても青い空」   郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

水道公園にて   丸岡 稔(丸岡医院)

新米理事です  中村敬彦(中村整形外科医院)  

 今回新しく理事を拝命いたしました中村整形外科の中村です。これまでこのような公的な役割に就いたことが一切なかったものですから少々不安と焦りを感じております。理事職務分担表を初めて見させていただいて、こんなに多くの部があるのかと驚いております。合計23の部署があり斉藤会長を総元締めとして大貫、太田副会長の2分野に分かれさらにその下で各部署を1〜数名の理事が担当する形となっています。不慣れな私に考慮戴き、在宅ケア部、広域リハビリセンター、福祉部、産業保健部を割り当てていただいております。日ごろからチャランボランで「まあこんなんで良いのじゃない……」と言うことの多い私には公的な仕事は苦手で、非常に苦しいのですがまあ自分なりに頑張っていくしかなく、皆様には色々とご迷惑をおかけすることと思いますが、優しい目で見守っていただければと御願いする次第です。

 自己紹介も兼ねてという事ですので、私事を書かせていただきます。出身は東京です。といっても、昔の年賀状の住所は 『東京都下西多摩郡奥多摩町氷川』といって、新潟県で言えば奥只見ダムの近辺でしょうか。東京出身とは言っても名ばかりのど田舎で生まれ育った人間です。因みに『巨樹の会』によれば、『巨樹とは地上3。の幹周りが3。以上』で全国に6万4479本あり、その内各市町村の数を比べると、奥多摩町が891本でダントツだそうです。(それだけ自然が多い!)。

 仕事については、昭和47年に新潟大学を卒業後、すでにインターンが無くなっていたこともあり郡山市の太田総合病院で外科を1年研修したあと、翌48年に新大整形に入局。はじめはリウマチ班に所属しましたが、徐々に脊椎班に移り、二足の草鞋の後、脊椎外科医として25年やってきました。尤も平成4年に開業してからは手術はたまにしか関っていませんので、昔の貧乏侍の刀のように腕の方はすっかり錆付いていますが。

 趣味はというと、子供の頃はどっぷりと自然に浸かって過ごしていましたので今でも自然の中でのことが好きで川面を見るとすぐ魚の姿を探している自分に気付き苦笑します。新大時代にちょっとした暇な期間に習った社交ダンスに嵌ってしまい、一時はプロも?と考えましたが、親の顔を思い浮かべ、道を間違えずに済みました。今では殆んど忘却の彼方に有りますが。開業後仲間に入れていただいている医師会ボウリングは月一回の例会参加だけでは進歩は望めず、窪田先生からハウスボール、ハウスシューズでは駄目と言われています。

 現在『趣味』というより日常生活の一部のようになつているのがランニングです。一度で良いからフルマラソンを走ってみたいと3年計画を組み、初めは1kmから始めたものが、ゴールドコーストマラソンを第1回として今年の長野マラソンで20回のフルマラソンを完走出来ました。出来れば毎日走りたいのですが(しっかり汗をかき、シャワーを浴びた彼の気持良さは最高です!!!)今回の役目もあり、走る回数は減りそうです。ところで第4回中村杯を6月5日(土)15時長岡市陸上競技場スタートで10kmマラソンを行います。ちょっと汗をかきたい人、マラソンをやっている人は一緒に走りませんか?

 

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理事就任のご挨拶  小西 徹(長岡療育園)

 皆様のご推挙を得て理事に就任することになりました。世間知らずで且つ我侭者ですので、どの程度医師会活動に貢献できるか解りませんが、任期中は誠心誠意努力するつもりですので、皆様方のご指導・ご鞭撞の程よろしくお願い致します。

 私は、昭和49年に新潟大学を卒業し、同小児科学教室に入局しました。そして、昭和50年から生まれ故郷の富山の病院に1年の約束で出張になりました。しかし、その間に教授の交代があり、色んな事情(主として医局の事情)から教室に戻る機会を逸してしまい、系統的な研修を果たせないままに、昭和53年から、新設の富山医科薬科大学小児科で勤務することになりました。以後22年間、“馬鹿の一つ覚え”の様に教室の創設・充実・発展を目指して努力してきました。

 開設当初は4人(教授、助教授、助手2人)で始まった教室でしたが、今では70人を越える大所帯になっています。私は、主として小児神経を担当させてもらったのですが、その成行きが余りにもいい加減なものでした。昭和54年に病院が開院し、患者さんが続々と来院され、大学としての専門診療が始まりました。新潟大学出身者が殆どでしたので、腎疾患・アレルギー疾患については、順調な滑り出しでした。しかし、外来患者のかなりを占める、てんかんや小児神経疾患を診る医者が居ない。そこで、当時スタッフの中で最も若かった私に……、と言うことになってしまったのです。「取り敢えず、3ケ月間だけ国内留学(府中キャンパス)させるので、脳波を読めるようにになって帰って来い」、でした。30歳を過ぎてからの専門領域の変更……、当然ゼロからのスタートでした。新設大学故にと言えばそれまでなのですが、今年から始まる手取り足取りの新臨床研修制度などに比べると、余りにも違い過ぎます。

 3ケ月が過ぎ、脳波だけどうにか読める状態(小児神経に関しては殆ど素人同然)で帰ると、神経班を作って専門外来を……、無茶苦茶な要求です。でも「何らかの新しい治療を求めて来院してくる患者さんの為にどうにかしなければ」と言う想いもあり、コツコツ始めざるを得ませんでした。1年、2年と経過する内に、受診患者数が増え、患者さんから敢えてもらいながら、どうにか専門外来としての体裁も整ってきました。しかし、「臨床だけでは大学人としては不十分、研究活動つまり学会発表や論文を書くことも必須条件である」、なかなかの難問でした。ゼロからのスタート、指導してくれる先輩も居ない一匹狼です。何をまとめて研究したら良いのか?見当もつきませんでした。そんな中で、新卒の女医さん達が小児神経に興味を持ってくれ、グループが広がり、それに伴って臨床に直結した研究テーマが少しずつ出てきました。

 “石の上にも三年”余りにも一般的な諺ですが、正にその通りでした。小児神経を志して丁度3年過ぎた頃から全国学会での発表が出来るレベルになりました。その後はモチベーションを高めながら3年毎にレベルアップ、神経グループ全員の頑張りもあり、年間20〜30演題の発表、今までの論文掲載が50編を超えるまでになりました。そして、地方大学としては珍しいのですが、小児神経学会優秀論文賞を2人が受賞する栄誉もいただきました。富山医科薬科大学22年間(うち小児神経20年)、臨床重視の自分がどうしてこんなに長く大学に在籍していたのか?それなりの業績を収め、満足はしていますが……。果たして、自分で選んできた道なのか?両大学の教室の事情、それに押し流される形で進んできたのでは?少し意志薄弱であった感は拭えません。

 平成12年、始めて?自分自身の選択で、重症心身障害児施設「長岡療育囲」に赴任してきました。社会のなかで最も弱者である(でも純粋な)重症心身障害児・者に対して小児神経20年の経験を還元出来るのではないか、そんな想いで大学を去りました。“石の上にも三年”、長岡に来てもう3年は過ぎてしまいました。長岡療育園はどの程度良くなったのか?少なくとも新潟県の重症心身障害児施設の中核的存在にはなつたと自負してはいるのですが…。これからも皆様方のご指導ご協力をお願い敦します。

 医師会の理事は始まったばかりです。石の上にも三年”にはとても届きません。皆様のご厚情を重ねてお願いし、ご挨拶と致します。

 

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私の研修時代   齋藤良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)

 私は昭和35年卒で、この年国民健康保険法が制定された。今年の新研修生の生まれる前の話である。その頃の研修制度はインターン制度と呼ばれ、第二次世界大戟後、米国の制度を真似て、昭和21年に作られ、42年まで続いた。この研修は一年間義務附けられており、卒後研修の第一歩はインターン生になることから始まる。

 インターン生といえば聞こえは良いが学生でも医師でもなく、無職で身分保障は全く無い。そのせいか本人も学生気分で、あとに国家試験が控えていることを別にすれば至極呑気で気楽なものであった。いや失礼、これは私のことで、病院選びの段階からすでに将来のことを考え、目の色が変わっていた者もいたようだ。

 その頃、歌声喫茶のリクエストNo.1は、あの「匂い優しい 白百合の」で始まる「北上夜曲」であった。俺もいつかは北上川の川辺を歩いてみたいと柄にもなく想っていたものだ。あれは学4の夏だった。盛岡のT病院から実習を兼ねて盛岡を訪ねる誘いを受けた。これがきっかけで私のインターン病院は岩手県の盛岡日赤病院に決めた。

 研修病院からは一銭の補助も出なかったが、代ってT病院が三食付きで宿泊まで面倒をみてくれ、その上月六千円の手当てと背広を一着新調してくれるとのことであった。その代わりに交代で宿直の手伝いをやる条件だった。それに奨学金がインターン中も六千円出たので生活費の心配は無くなった。当時大学助手の給料が一万円程度だったからむしろ良いほうだったかもしれない。もっとも部屋は民家の2階で六畳一間に二人で、ラジオ、テレビ、洗濯機などなく、襖一つで見知らぬ隣人が居た。

 さて、肝心の研修だが今考えると妙なものであった。盛岡日赤病院と私立丁病院の二病院での研修といった方が良いかもしれない。その内容は極端に違った。日赤病院ではあまり歓迎された印象はないが、T病院では歓待された。一応研修の日程表はあったがカリキュラムの詳しい内容は全く無かった。朝、T病院で朝食をとり、弁当を持って8時30分に日赤に出勤する。午前中は外来で診察医の傍に立って見学、患者に触れることはほとんど無く、ポリクリに毛が生えたようなものだった。昼食後特に用が無ければ部長の許可があれば病院を退散することが多かった。入院患者を受け持った記憶はなく、結核病棟で2〜3回廻診に付いたほかは入院患者を診た記憶もない。どうもインターン生はお荷物扱いだったようだ。6人の仲間は午後3時頃には皆何処かへ消えてしまった。といっても特に行く所があるわけでもない。結局T病院で各自の好きな医局に潜り込んでいたようだった。

 私は部長が奇術の名手であった外科へ入り浸った。そのうち手術室に入れてもらえるようになり、一般外科の殆どの手術で第一助手をさせてもらった。今では考えられないことであろう。

 当時、岩手県は日本のチベットともいわれ、無医村も多かった。こうした無医地区にもT病院はこの頃から既に巡廻診療を行っていた。私も時々これに同行した。

 ある時の巡廻診療で、集会所から更に歩いて30分程の山奥の村から往診依頼があった。患家に到着して、診察の間私は囲炉裏端で汗を拭いていると、中年の小母さんがそっとジュースをコップでさしだした。とたんに小さな子供達がわっと私を取り囲んだ。今、下の店で買ってきたジュースだった。子供達の口には滅多に入らないものらしい。ジッと見つめる幼い目のなかで、私にはとても手が出なかった。小さな出来事だが今思い返しても、医師としても貴重な経験に思えてくる。

 小学生と共に岩手山に登り、仲間と八幡平を彷律し、夏は三陸海岸浄土ケ浜で泳ぎ、秋は奥入瀬の渓流に遊んだ。冬は自然の氷湖でスケートを山宋しみ、岩手のスキー場へも行った。

 あっという間に師走となり、新年を迎えた。研修は12月で終了したが、さすがに国家試験が気になりだし、皆その準備に没頭したのか自室に篭りがちになつた。毎日午後10時になると、T病院の給食係の娘さんが煮込みうどんの夜食を作ってくれた。これがまことに美味しく、皆で争って鍋をすくい空腹を満たした。

 ところで憧れの北上川の清流はその頃はすでになく、松尾鉱山からの廃液が北上川の支流に流れ込み、盛岡ではすでに茶褐色に濁っており期待は見事に裏切られた。しかし市内を流れ、此処で北上川と合流する中津川の清流は素晴らしく、川辺の盛岡城跡の緑と調和して何ともいえない風情をみせていた。私は好んでここを散歩した。その後昭和56年松尾鉱山は閉鉱となり、北上川に清流が戻ったとのことである。

 私の研修時代の正しい評価は難しい。自分自身ではこれまでに無い開放感を味わえたし、青春の1ページとして、有意義なものであったと思っている。

 特に印象に残っているのは、研修そのものよりも今は亡きT病院の院長の優しさと人間味溢れる人柄に感銘をうけたことと、かの地の人々のそほくで温かい人情だった。いつも酒宴の時には必ず院長の好きだった新潟の寮歌「項春の歌」 が歌われ、最後には北上夜曲の大合唱となつた。楽しかった若い頃のさまざまな思い出は歳を重ねる度に益々鮮明に建ってくる。

 

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私の研修時代  杉本邦雄

 このテーマで投稿せよとの編集委員会からの依頼がありました。私は医師は何人も一生研修だと思っておりますが、一応、開業医となり、この地に根を下ろす迄の事々を書き責めをうめたいと考えました。

 昭和36年、長岡日赤でインターンをさせていただき、その頃から本格的な医師としての心構えが出来て来たと思います。この制度がなくなって久しいですが、此の度の研修医制度がどうなるか?昔に戻った方がよいのではと思うのは私ばかりではないと思います。

 インターンは無給でしたが、各科を回らしていただき、医学問その他巾広く教えを乞いました。又、インターン生はコンパ要員でもあり大いに遊ばせてもいただきました。一応医者面(ヅラ)をさせて貰ったのも励みになったと思います。

 ただ嫌だったことは (1)外科手術に来られた教授の風呂番をさせられた事(「俺は風呂番の為にインターンをしているのではない!」 (2)宮谷産婦人科部長の特別な計らいで帝王切開の第二助手をさせて貰い、余りの出血に小生、気を失って皆に嘲笑されたこと (3)当然ながら、患者の前で本物の医師から「これはインターン生なんだから……」と蔑まれたこと。

 嬉しかったこと (1)インターン生一同で院長と団体交渉し、ボーナス3,000円を獲得したこと (2)若い看護婦、看護学生にモテモテだったこと (3)各科の部長はじめ諸先輩にアルコールの指導を受け、現在の「呑ん兵衛」の礎が出来たことなどなど。何しろ婆婆もいろいろと教えていただいたことは感謝感謝です。

 次いで、大学の医局生活になります。教授は雲の上の存在でした。でも、上司あっての部下です。講師の先生の許につき、子宮がん患者の検血、外来から来るスメアー担当で明け暮れる毎日でした。一日中、顕微鏡と向かい合っていたように記憶しています。ニュートンリングとかメランジュールなどは何のことか、今の若い人には判らないでしょう。でもペイペイの新米医師でも患者さんから過分の頂き物などをし、嬉しかった。スキンシップが大いにあったと思います。あの頃は病気を診るより病人を診ていた時代だったと思います。昭和42年、父が逝き、長岡に帰りっばなしで後を継ぐことになり、大学での受持ちの患者さんをスッパナしてしまい、申し訳ないことをしたと、今でも思っています。その他、入局後3〜4年目に横手病院に短期出張を命じられ、帝王切開で大出血。外科の先生の援助で事なきを得たのもホロ苦い記憶です。(あの先生のお名前、失念しました。すみません。)

 医局では夜遅く迄、オーベンが残っておられ、大体10時が帰宅時間で、早く帰ろうものなら白い目で見られました。でも新婚時代は早く帰れと言われたのも良い想い出です。この時の耳学問が後日大変役に立つことになりました。

 学士会報No.81号で幹事長内山聖教授が「昔の教授は威厳があったが、現代の教授はどんなものか……」と述懐されていますが、そんなに人間そのものが劣化したとも思えないし、思いたくもない。しかし政治家とか、偉い(?)人々の顔が昔日に比べイマイチのように思えます。何故?

 日本人みんな「ひとりよがり」になった所為ではないかと思います。

 研修医制度が始まりました。Tぼん・じゆ〜るU4月号に田村康二先生が「日本での研修制度が米国並みに稼働するには100年はかかる」と書かれていますが、井の中の蛙の小生ですが、私にはそんなことはないと思います。制度改善がもたらされれば立派な日本人の叡知が噴出するように思います。いろいろな難問があるかとは思いますが、幼稚な表現のようですが、研修医に対して実の子を育てる、又、実の親に教えを乞うの如く実践することが、実効ある研修医制度の将来を形成する本筋であると信じます。

 

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新入会ご挨拶   吉井新平(立川綜合病院)

 はじめまして、小千谷で育ち、新潟で医学教育を受け、山梨経由で長岡にもどった吉井と申します。私は小千谷市片貝町の出身で、長岡高校にお世話になり昭和46年に卒業しましたが、今回33年ぶりに高校のすぐ隣に住むこととなりました。少し気恥ずかしい感じで過ごしています。娘三人はそれぞれアパート暮らしで、学校町には女房と二人暮らしです。

 卒後新潟大学第二外科に入局、その後山梨医科大学の創生期に20年間「教育、研究、診療」に従事してきました。専門は「胸部外科」を貫いてきました。先天性心疾患、後天性心疾患、大血管外科、呼吸器外科が中心でしたが、同じ外科に末梢血管外科、小児外科、消化器外科などもあり、救急にも随分と鍛えられました。

 中でも先天性心疾患は他に率先してやってくれる人が少なく、いつの問にか中心となってやる立場となっていました。山梨での子供さんの心臓手術は、より早期の対応がのちのちの質を良くするという考えから、半数以上は1歳以下となっておりま.した。またより複雑な心疾患については、そのころから段階的に手術を進めていく方針として、小児科、外科、麻酔科、手術室、集中治療室など関連する多くの部門のスタッフが子供さん中心に活動する体制も整いつつありました。およそ30人の各分野の専門スタッフが必要でしたが、多くの後輩や関係者の努力に支えられてなんとか国内で認知されるレベルまで育ってきたのではと思っております。特に最近は2kg台や3kg台の新生児や乳児期早期の症例が多くなりましたが、これらを含め全例で25カ月入院死亡なし、1歳以上に限れば13年間入院死亡例なしの記録が続いておりました。これらの診療体制の構築に際しては多くの方々の相互信頼に基づいた協力関係が最も大切なことを学びました。

 硬い話になってすみません。すこし身近な自己紹介をしたいと思います。出身は片貝というところで、高校まで暮らしておりました。片貝は知る人ぞ知る、花火の町で、昨年はNHKの朝の連ドラ「こころ」の舞台ともなり、毎日のように楽しく見ておりました。特に9月6日に放送された片貝祭りと花火のシーンは圧巻で実家の連中もエキストラで参加、秒単位でしたが全員映っており、感動しながらビデオを何度も見たものでした。そして昨年11月に33年ぶりに帰ってきました。久しぶりの長岡はとても新鮮で、見るもの、食べるもの、飲むものすべてに感動しました。こんなに魚や野菜、米、それにお酒がおいしいかったとは……。皆さんはこれまでずっとこんなにおいしいものを食べたり、飲んだりしていたんですね。くやしいー。久々の冬の雪が心配でしたが、それも楽しむ余裕もできました。寒い方がむしろお酒がおいしい気もします。

 今回、縁あって立川綜合病院にお世話になることとなりました。立川病院の循環器・脳血管センターの伝統と実績には目を見張るものがあり、またコメディカルスタッフの実力も山梨の大学病院の数段上を行っているように思われました。

 長岡ではこれまで得られた経験をもとに皆様に少しでもお役に立つことができればと思っております。今後ともご指導、ご鞭撞を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

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分け入っても青い空   郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 「あれ新潟で山頭火の書の展覧会をやっているぞ、見に行くか。」と新聞の地方催し案内から顔を上げたわたし。「雪梁舎美術館だって。」

「いいわね。あそこは白根のJ子姉ちゃんの家がすぐ近くよ。ついでに寄って来ましょうよ。」

 以前から家人はいとこのJ子さんの庭を見せたがっていました。J子さんは数年前に『園芸熱』に雁患。両親(家人の伯母夫婦ですな。)と暮らす自宅の広い庭をハーブガーデンに作りあげました。ちなみにこのJ子さんは、持て余したラブサンスーチョンなる正露丸風香りの高級紅茶を賞味してくれた「紅茶通」で、数年前の本欄に登場した人物です

 まずは黒崎IC近くの雪梁舎美術館で『松山−草庵−山頭火遺墨遺品展』を見学しました。ご存じの方も多いでしょうが、種田山頭火は昭和15年に57歳で亡くなつた漂泊の口語自由律の俳人。

 わたしには「山頭火の顔」というと俳優の北村和夫の編笠の僧姿が浮かびます。酒乱で人に迷惑かけながら愛憎深く、出家して行脚しても人生は悟れず、自殺を試みる……そんな人格を暗く見せず、実にはまり役でした。桃井かおり主演のNHKドラマ『花へんろ』でした。(いま調べたら昭和63年の人気番組ね……うーん、そんな昔のことか。)

 山頭火の有名俳句のベスト3。

  うしろすがたのしぐれてゆくか

  分け入っても

       分け入っても青い山

  何を求める風の中ゆく

 展覧会場ではほろぼろな山頭火の遺品のいくつかも展示されていました。展示棚には「人生即遍路」と書かれた手提げ行李、編傘、そしてなにやら白い布が……。

「わあ、ふんどしかあ……?」

「なに言ってんの、これは脚絆じゃない。」と家人が声をひそめてたしなめます。たしかによく見ると脇に小さな鞐がたくさん並んでいました。ああ、驚いたな。

 書は写真で見たことがあったのですが、現物も大きな太い筆墨の立派なものでした。

 空へ若竹のなやみなし

 濁れる水の流れつつ澄む

 てふてふうらから

       おもてへひらひら

などが、山頭火の人生と重ねあわせて書に印象がありました。

 帰りに白根の素人ハーブガーデンを見に寄りました。あいにくの小雨模様でしたが、J子さんは庭に出ていました。なんと片手で雨傘をさしながら、しやがんでは草取りをするという離れ業を演じていました。

「こんにちは。この雨の中、熱心ですね。わかります。こんなきれいな花と緑の中にいると時間を忘れてしまいますもんね。」

「いやよね、ばかみたいでしょ。」とJ子さんは照れ笑い。

「遠藤周作のエッセイに、彼はこどものころ、雨降りでも毎日傘をさして鉢植えにジョウロで水をやっていたとあります。それに比べれば。」とわたしも笑います。

 濡れてひときわ美しい緑の庭を、草々を分けてひとまわり。雪解けの遅い我が家ではまだ花咲かぬポリジやカモミールが一面の花盛り。一株ずつ掘り上げてくれて、お土産になりました。すっかり泥まみれの靴を脱ぎ、アフタヌーンティーにお呼ばれ。手作りのブラックベリー・アイスと紅茶。

 ていねいに淹れるれてくださったのはさいわいにラブサンスーチョンの類でなく、ふつうのおいしいセイロン紅茶でありました。

 

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