長岡市医師会たより No.295 2004.10

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もくじ

 表紙絵 「初時雨(妙高)」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「7.13新潟水害における赤十字病院の救護活動」内藤万砂文(長岡赤十字病院)
 「3ヶ月目の研修医の目から見た救護活動」三浦 智史(長岡赤十字病院:研修医)
 「新入会の挨拶」         杉本  努(立川綜合病院)
 「古代舞踊のタイムカプセル<綾子舞>」福本一朗(長岡技術科学大学)
 「山と温泉〜48〜その38」    古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「コロッケとディナークルーズとニューハーフと屋形船と天ぷら」岸 裕(岸内科・消化器科医院)



初時雨(妙高)   丸岡 稔(丸岡医院)


7.13新潟水害における赤十字病院の救護活動  内藤万砂文(長岡赤十字病院)

 7・13新潟水害は中越地域に甚大な被害をもたらした。災害時における救護活動は赤十字病院の重要な使命と位置づけられている。今回の7・13新潟水害において長岡市と中之島町で救護活動を行う機会を得たので報告する。

【長岡市での活動】

 7・13はテレビ報道や消防からの情報をもとに、午前中から救護班人選や救護資材の確認作業が進められていた。23時に長岡市から出動要請があり新組地区に救護班1班(医師1名、看護師3名、主事2名)が派遣された。「避難所の新組コミュニティーセンターが水没孤立し、なかに寝たきりや心臓の悪い高齢者が多数いる」との状況であった。現地は一面の湖となっており水没した革もあり避難所に近づくこともできない。救護資材と我々を乗せた小さなボートを消防職員が首まで水につかりながら避難所まで送り届けてくれた。午前1時を回っていた。せまいスペースに180名余りの方が毛布にくるまっていた。大半の方は起きていた。幸い体調を崩された方はおられなかった。隣の小学校にも200人余りが避難していた。停電し+具っ暗である。なかに新生児がいるという。ボートの準備をしてもらったが、中の保健師の判断で巡回には及ばずとのことで断念した。自衛隊も大型ボートを持って到着した。未明にかけ再び豪雨が予想されるため避難所から全員を移動させるという。暗い中で高齢者を水の上を移動させることは却って危険と思われた。市の対策本部と協議の結果明るくなってからの移動の方針となった。その結果自衛隊は別の避難所である福井公民館に向かうことになった。そこは比較的若い方が多いため今から移動させるという。我々も同行させてもらった。ここでも特に医療を必要とする方はおらず、一番最後のボートで引き揚げた。これも自衛隊員が泥水の中を引っぱってくれた。途中一軒家に残っていた人の救出劇もあった。気がつくとうっすらと夜が白み始めていた。水没した乗用車の天井に小さなカエルが数十匹避難している姿が印象的であった。水辺に救急車が待機している。最初にボートを引いてくれた救急隊員の顔もみえる。服はどうしたのかと聞くと、体温で乾いたとのことであった。災害時には消防や自衛隊が実に頼もしい。その存在を心から有り難いと思った。救護班の一部を避難所に残し病院に引き揚げた。講堂に災害対策本部が設置され、各地の赤十字からの救援物資が山積みになっている。その調整や移送に病院と赤十字県支部の職員が忙しく働いていた。ここでも徹夜作業が続いていた。ボーとした頭で口にしたおにぎりがとても美味しく感じられた。

 その後の対応は長岡市医師会が中心となり活動していただき、我々の救護活動はこの1日で終了した。結局、医療行為らしいことは何もしなかったが、救護班がきたという安心感だけは少し与えられたのではないだろうか。

【中之島町での活動】

 新潟県からの要請により7・17より20日間にわたり救護活動を行った。初日に金子院長の視察に同伴して泥の中を歩いた。下水と泥の混じった独特の臭いが鼻についたがすぐに麻痺した。決壊した堤防の近くにあったという寺は跡形もない。無惨に倒れた墓石がわずかに顔をのぞかせている。泥だらけの傷ついた車が傾きかけた家に引っかかっている。現場の臭いに包まれ泥に足を取られてみる景色は、テレビで何度もみた無機質な風景とは全くの別世界であった。大変な災害であることが肌で感じられた。

 中之島町での活動は避難所における救護所、巡回診療、心のケアを3本柱とした。この期間中、自衛隊やボランティアの参加と撤退、梅雨明け、夏休み突入など状況の変化がめまぐるしかった。その都度柔軟に対応することが求められた。救護班は医師3名(うち研修医2名)、看護師3名、主事2名という変則編成とし、10〜20時を2班で交替制とした。午後の班にはさらに心のケアチームが加わり、被災者の就眠時間まで対応した。

(救護所)

 当初は食事休みの時間帯にだけ避難所に救護所を開設した。すぐに10時から20時までのフルタイムの開設が必要となった。受診は切り傷、皮膚炎、腰痛、不眠や頭痛などの軽症の方が多かった。ピーク時には一日80名程度が受診された。不安そうに何度も血圧測定に訪れる高齢者もいた。ボランティアの怪我も多かった。長野からきた30歳台の男性は糖尿病でインスリンを24単位使っているとのこと。最近調子がよかったのでボランティア参加し作業にあたっていたが倒れた。当院で輸液を行い元気に戻っていった。十日町市からの高校生は側溝のコンクリートのふたに指をはさんだ。骨折していた。いつしか受診者も少なくなった。食事休みの時間帯だけに縮小した後、2週間で活動を終えた。あとを地元医師会にお願いした。

(巡回診療)

 最初は救護所への受診者の少ない時間帯に行われた試みであった。やがてこの巡回診療が救護活動の中心となっていった。脇目もふらず床下の泥出し作業に没頭している人に声をかけることに最初は抵抗があった。長靴の中に入った水を出す余裕すらない泥まみれの作業である。小さな怪我にかまっていられない心境だろう。「今欲しいのは薬ではなくて、泥を運びだす人だ」と怒鳴られそうな雰囲気のなかで巡回診療は始まった。それでも毎日巡回していると、向こうから声がかかることも多くなってきた。作業が進み少し余裕ができたのか、ゆっくり詰も聞けるようになってきた。具合の悪い人の情報などももらえるようになった。35度の猛暑のなか、日焼けの軟膏、ビタミン剤や袋詰め氷なども準備して配って歩いた。氷でいっぱいのアイスボックスを楽々と担ぐ研修医の若さに驚くとともに、羨ましくも感じた。現場で傷の消毒をしてもまたすぐに作業に戻らざるを得ない状況である。自宅で消毒ができるように1日分の抗生剤を入れた消毒セットを手作りした。一時期は100人近い需要があったが、作業が進むにつれ家の中にいる人が多くなった。声をかける人も限られるようになり、2週間で撤退となつた。消毒セットもたくさん余り、外科系の病棟で第2の人生を歩んでいる。夜遅くまで袋詰め作業をしてくれたナース達には申し訳なく反省しきりである。

(心のケア)

 災害に見舞われた被災者は、心に大きな影響を受け、一見異常に見える言動を示すことがある。これを当然の反応と理解することが重要とされている。阪神大震災以後、災害後の心のケアの重要性が認識されるようになった。日本赤十字社でも「心のケア指導員研修」が行われ全国の赤十字病院に約90名の指導員が養成された。当院にも2名の指導員がいるが、東部ブロックの赤十字病院からも応援をいただいた。当院の救護班師長も加わり、延べ50名の心のケアを継続的に行うことができた。数日間閉じこもり口も開かなかった高齢者が、家族のために弁当をとりに行く意欲をみせた事例もあった。この活動は3週間行われ、中之島町の保健師に引き継がれた。

【まとめ】

 今回の災害は地震災害とは違って、救命救急センター対応の医療活動が要求されるものではなかった。多数の失意の軽症患者が対象であり、まさに赤十字の活動が試された場といえよう。今回の活動を通して多くの課題が浮き彫りになつた。今回は市や県の要請を受けての活動であったが、被災者からは遅かったとのお叱りの言葉をいただいた。大きな被害を受けた三条市においては赤十字病院は全く活動できていない。近県の赤十字病院では準備を整え協力要請を待ちわびていたと後になって聞いた。初動のタイミングや診療体制などを考えたとき、要請や要望を待って動いていたのでは被災者が満足する救護活動にはならないようだ。受け身の姿勢から脱却し、軽快なフットワークで活動することが求められている。

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3ヶ月目の研修医の目から見た救護活動  三浦智史(長岡赤十字病院研修医)

 7月19日、救命救急センターに配属になっていた同僚の研修医Kが言った。「俺、明日中之島の救護班に参加するぞ。」“救護班”という言葉は実に耳に心地よく心を誘われた。自分の研修先の指導医に無理にお願いして許可をいただき翌日から私も参加できることになった。救護活動には学生の頃から興味を持っていたが、初めて体験することになり、どきどきしながら中之島に入った。

 避難所で目にしたものは、山積みされた物資とたくさんのボランティアであった。目を覆いたくなるような事件ばかり報道される昨今にあって、人の温かみを感じさせられた。

 水害発生からすでに1週間が経過しており、倒壊した家屋が水浸しという状況ではもはやなかった。しかし、道路には泥水があふれ、泥まみれの大量の家財道具が積み出されていた。決壊した堤防の真にあった寺は跡形も無く、墓石が散乱していた。直撃にあった家屋の1階は柱と壁だけとなり、車が横転していた。被害の大きさに眼を覆いたくなった。

 救護活動の中では巡回診療が最も印象に残った。“さあ、やるぞ”と意気込んで道を歩いていると、作業をされている方がいた。その方に声を掛けようと思ったのだが、声が出ない。何と声を掛ければよいか分からない。表情の乏しい、虚無感に打ちひしがれたような顔で、一心不乱に家の中の泥をかき出している、そんな人にどんな言葉をかけたらいいのだろうか。自分の小ささを痛感した瞬間だった。それでも回を重ねるにつれて少しずつ慣れ、自然に話しかけることができるようになっていった。しかし、「お身体で具合の悪いところはありませんか?」と聞くだけでは不十分であった。彼らは片付けに精一杯であった。「どこも悪くね。」とか、「そんなこと言ってらんね。」といった返事ばかりが返ってくる。こんなやり取りを続けていても住民との距離は縮まらず、良い関係を築けるとは思えなかった。そんなことを考えている時に消毒セット、湿布、ビタミン剤が巡回リュックの中に入るようになった。巡回診療に必要と思われるものが日替わりで準備されるようになっていった。先ほどのやり取りの際に、「ずっと作業されていて、腰や肩は痛くならないですか?」と尋ねると、たいがいの人が「そりや痛いけど、そんなこと言ってらんねすけ。」と返してくるが、「湿布ありますけど、置いていきましょうか?是非貼ってください。」と言うと、ほぼ100%の確率で「そんならもらおうかね。」となった。住民と私たちとの関係が築けるようになってきた。これはとても重要なことだった。一度関係ができると、「うちのばあちゃんが調子悪くて……」と家族のことや、「そういえば、あそこのじいちゃん血圧高かったけど大丈夫かな……」と周りの住民で気になる人のことなど、さまざまな情報を得ることができた。何日か連続して行っていると、知った人と顔を合わせるようになる。住民のほうから「またあんただね。」とか「今日でもう何日目でしょ。」などと声をかけてもらえるようになった。知った顔がいることが、住民の安心につながるということが実感できた。また、被災者の方のほうがもちろん大変な状況なのに、「あんたがた、毎日大変だねぇ。ご苦労様。」とか、「私は歩いて救護所まで行けねぇすけ、来てくだすって、ほんにありがてぇこって。どうもありがとうね。」などと言われると涙がでそうになった。医者になって本当に良かったと思った。

 巡回診療、救護所の役割は日々変化していった。当初は擦り傷、刺し傷など傷の手当が多かった。長時間泥水に浸かったことや、石灰に触れたための皮膚のかぶれ、爪周囲炎、爪下出血などが多かった。時間が経つにつれ、関節痛や手指、関節の腫脹を訴える人が多くなっていった。また、避難生活が長くなってくると、不安、不眠や、情緒不安定になる人が多くみられるようになった。7月25日の夕方、再び激しい雷雨があり避難所が停電した。この時、堤防が決壊した時のことを思い出し、情緒不安定になった方がいた。家の荷物を全部高いところに上げて避難所に逃げてきたと話す人もいた。心の問題がずっと残っていくのだろうと感じた。

 ある看護師長さんから言われた。「住民の方々の私たちへの対応と、医者の名札をしてるあなたへの対応は違います。やっぱりお医者さんに診てもらうというのは特別なのよ。」結局中之島町には8回、救護班として参加した。医師になって3ケ月目のまともな医療行為もできない研修医であるが、最前線の救護活動に参加でき、医師という職業の重みややりがいを痛切に感じとることができた。これからの一生を医療に、地域の人々のために捧げていきたいと思う。

 最後になりましたが、今回の水害で被害を受けられた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

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新入会の挨拶  杉本 努(立川綜合病院)

 はじめまして、立川綜合病院胸部外科にお世話になっている杉本と申します。出身は栃木県の北部の矢板市で、人口4万人ほどの緑の豊かな小さな町です。高校は隣町の大田原高校に通い、昭和63年に山形大学医学部に入学しました。幸い6年間で卒業することができ、平成6年に山形大学第2外科(現在は循環器・呼吸器・小児外科学分野)に入局しました。入局時の教授は長岡市出身で、新潟大学第2外科より山形大学の心臓外科を立ち上げるために来られた鷲尾正彦先生でした。鷲尾先生が退官された後は大阪出身の島崎教授となりまして、両先生の御指導のもと日々胸部外科学(特に心臓血管外科)を修練してきました。そして、平成13年4月より、同病院に勤務しております。

 学生時代の生活は、山形のような田舎では他にやる事がないのもあり大学から始めたテニスに夢中になり、熱病に目されたように朝から日が落ちるまでテニスばかりしていました。どうしたら強くなれるのか、どうしたら試合に勝てるのか、技術論から精神論にいたるまで専門書をあさり日々研究していました。一時期は一年間休学してアメリカのテニススクール(アガシや松岡修造のいた)に留学しようかと本気で考えたこともありました。多くのスポーツがそうであるようにテニスのレベルも西高東低であり、特に東北は最弱のランクに属しておりました。私が選手であった4年間の東医体の成績は1、2回戟止まりと寒々しい結果でした。山大の他の運動部が華々しい成績をあげているなか、練習量の割に成果が上がらなかったのが残念な思い出です。

 さて新潟というと自分にまるっきり緑の無い土地ではなく、テニス部時代は新潟大との交流戟のため1年置きに新潟へ来ていました。また長岡へは大学2年生の時に、山形でも有名であった「長岡の花火」を観にきたことがありました。もう十数年以上前のことなので、山形からどこをどう通って長岡へ来たのかは忘れてしまいましたが、長生橋の川べりでビールを飲みながら寝そべって観たのを覚えています。それまでは単発式の地味な花火しか見たことがなかったので、身の危険を感じるほど頭上に広がる息もつかせぬ花火に魅了され感動したのを覚えています。

 心臓外科も含めた外科分野は、手術術式・器具の進歩には目覚ましいものがあります。患者さんのためにより低侵襲でかつ効果大な手術を行う技術が要求されます。ここ立川病院は、月曜日から金曜日まで(時には土日も)手術漬けの毎日を送れる幸せな環境であり、日々の技術の向上のため修練しております。

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古代舞踊のタイムカプセル<綾子舞>  福本一朗(長岡技術科学大学)

 昭和51年「国の重要無形民俗支化財」に指定された「綾子舞(あやこまい)」は、柏崎市街地から南へ16キロ離れた鵜川村大字女谷の二つの集落(高原田(たかんだ)・下野(しもの))に約四百年前から伝承されてきた古典芸能である。綾子舞は女性によって踊られる小歌踊と、男性による囃子舞と狂言の二種類から構成されている。踊りは扮装や振り、歌詞など、出雲の阿国(おくに)一座などの女歌舞伎の踊にきわめて似通うものがあり、狂言にも現存の流派の演目になく、若衆歌舞伎の演目にあるものを伝えていることなど、初期歌舞伎の面影をよく残している。地元に伝わる由来には、綾子舞のうち小歌踊りは越後守護上杉房能の奥方綾子の方が伝えたとする説と京都北野神社の巫女文子の舞ったものが伝えられたとする説があるが、研究によればおそらく阿国一座か、その他の女歌舞伎の座によって伝えられたと考えるのが妥当だといわれている。これに対して狂言や囃子舞は、江戸中期に京都の茂田茂太夫なる狂言師が夫婦で来て教えたという説が伝えられている。小歌踊は門外不出であったためか、400年の問に集落毎に微妙に変化して伝承され、下野では三人踊り、振り袖、だらり帯の衣小切子(こきりこ)舞(高原田)装、高原田は二人踊、振り袖、緋袴の衣装の違いが生じている。ただともに頭に中世のかぶりもの赤いエライをつけ、美しい扇の手振りと足をアヤにして踊ることは共通している。現在では「踊」11番、「磯子舞」22番、「狂言」33番のみが伝承されている。ただ現在伝承されている曲目名も高原田と下野で集落差があり、表1の様に若干異なっている。高原田の小切子踊では天冠をかぶり綾竹をもつが、これは貧しい高原田集落では、江戸時代に越後獅子等と同じく地方巡業に出かけたために、その際他郷の文化を取り入れたのではないかと推察される。また下野の踊りはより優艶で室町の姿をより濃く残しているものと感じられる。

表1 高原田と下野に伝承された曲目の相違 (*印は現在、上演可能なもの)

〔高原田に伝承された曲目〕

<踊> 小切子踊* 因幡踊* 常陸踊* 小原木踊

<囃子舞> 肴さし舞* 狸々舞* 恵比寿舞 蟹舞* さいとり舞 うったり舞

<狂言> 海老すくい* 閻魔王* 掬模* 鐘引* 烏帽子折れ 唐猫* 三条の小鍛冶 流               砂川 明神狂れ* 伊勢うつし

〔下野に伝承された曲目〕

<踊> 小原木踊* 堺踊* 常陸踊* 恋の踊* 田舎下り踊*

<囃子舞> 亀の舞* 恵比寿舞* 肴さし舞* 三番叟* うったり舞 さいとり舞

<狂言> 三条の小鍛冶* 閻魔王* 海老すくい* 布さらし* 流砂川* 明神狂れ 佐渡亡魂*

 室町の華やかさを表現する歌詞は、小歌の組歌形式になっており、踊りもそれに合わせて、出羽・本歌・人羽の三段階になっている。囃子舞は、猿若芸の系統を汲むもので、ユーモラスな、歌と囃子に合わせて演じられる。決まった振りを繰り返すものと、歌の文句に合うような物真似のものがある。狂言は、武士の趣味に従って洗練された能や狂言とは異なり、これは古態のままにはつらつとした面白昧を残して民間に伝えられた。殿様・冠者の能狂言風のものと、もっと形の自由な地狂言風のものとに分けられる。

 なお綾子舞は現在では年間数回新潟県下で鑑賞することができるが、現地公開は柏崎市大字女谷黒姫神社境内において毎年9月15日午後1時から3時半まで開催されている。交通も50分柏崎駅前発で鵜川行終点から徒歩5分の定期バスもあり、車でも国道8号線から国道353号線へ約30分でのどかな村落に到着できる。また近くにはキノコ狩とおいしい米・山キノコ料理が驚くほど安価に楽しめるキノコ園があり、立派な綾子舞会館の見学の帰りには是非立ち寄りたいものである。

 新潟県にはその他、現存の観世・宝生・金剛・金春・喜多の五流に分かれる前の原始の能楽と考えられる大須戸能なども伝承されており、越後の地は古代から伝わる我が国古典文化のタイムカプセルと見倣すことができる。しかしそれも京都を遠く離れてなお、あくなき古典芸能追求の心をもち、戦乱を越えて舞踏を伝承してきた越後の人々の熱い想いがあってこそのことであることを忘れてはならないと愚考するものである。


山と温泉〜48〜その38  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

栃川高原温泉

 地籍は、栄村堺宇和山。和山に属する。

 温泉はあれど、浴場はない。引湯のための源泉として使用されている。

 栃川は、苗場山・龍ノ峰西面、大岩山(1946m)北面の沢が源流で、高原台地を削って暴れ川となり、河原は広く、巨大な岩石で、埋められている。

 上野原集落から約三キロ、一里はない。半道。国道四〇七号線を西から南に向かい、間もなく左カーブ、広い栃川の荒れた河原に出る。栃川鉄橋を渡り急坂を上る。展望のきかない路をなお上る。路は平坦になり、広い台地の一角に出る。間もなく三叉路標識に「和山」。直進すれば「和山温泉」経由「切明」、左折すれば国道四〇七号線経由で切明・切明温泉に行く。和山経由切明の道路は、暗い原生林の中を行く国道より距離・時間共に短く迅い。和山・切明間には遊歩道も完成、旧い時代の路を利用。但し、佐武流山登山目的で、中津川林道に入る方は、国道を更に行かねばならない。国道三叉路の標識から左折、道路左に広場、路は直角に曲がり、道路右の林間に草地のキャンプ場。隣に、民宿「ヒュッテひだまり」。道路左の広場は、旧テニスコートと駐車場。ここを過ぎると、国道は大きく右にカーブする。このカーブの左側の高台に、木造作業小屋風な建物がある。階段を上がり中を覗くと、荒れ果てたドライブイン。現在、閉鎖中の貼り紙(平成十四年)。看板は「栃川高原温泉」。この温泉は、三百米ボーリングで五十六度の温泉を堀当てたものです。この温泉は、昭和五十三年、和山温泉の民宿に引湯、平成元年(昭和六十四年)「のよさの里」完成で、引揚しています。周辺の施設の泉源となっているのでしょう。昭和五十三年「栃川台地休憩所」完成、翌五十四年「栃川台地テニスコート四面」完成(栄村村勢要覧)とあるのだが、昨年現地を通過した時には、キャンプ場、テニスコート、共になくなり、日陰の草地と広場しか見えませんでした。此処は、この台地だけで、他の秋山郷には見られないと思われるような景観がある。天空は明るく広く、台地の原生林は厚く、その彼方に山々が並び、素晴らしい栃川高原台地の景観を満喫出来ます。栃川台地は苗場山・和山登山道の登山口です。テニスコート跡の脇道から、森林帯の中に入り、栃川河原に出ます。丸太橋があれば、これを利用、なければ徒渉。直登となります。コースの詳細は、民宿「ひだまり」で教えて戴いたほうが良い。

 国道を、切明方面に更に進むと中津川林道の分岐点があります。ここからは、佐武流山登山の登山口への入口です。佐武流山登山道は、最近整備されました。「ひだまり」のご主人が、新しく伐開、整備に苦労されたようです。佐武流山登山をされたい方は民宿「ひだまり」に泊り、登路の詳細を教えて戴いてください。中津川林道ゲートから入るのですが、営林署の許可が必要です。山頂往復:林道ゲートから山頂・約五時間三十分、降路・山頂から林道ゲート・約五時間。林道ゲートから檜俣川徒渉地点まで、六粁と距離がある。従って、日帰りは無理です。やはり、民宿「ひだまり」に一泊、お世話になる事。(栄村・佐武流山ガイド)

 数年前私は、苗場山登山に和山登山道から山頂往復しました。此処の駐車場に車を置かせて戴いて、苗場山・和山登山道から日帰りで登山しました。四つある苗場山登山道の中で距離は最短、しかし急坂の連続。平太郎尾根に取付き、山頂台地までが勝負でした。

追記

 秋山郷のような、外界との交通がままならない郷は、天災、飢饉となれば、郷人を救援する手立てが無い。従って、一村全滅の悲劇がしばしば起こる。殊に、生産性の低い地域であるだけに、天災も当然ながら、最も怖い飢饉、昭和年代の初め迄繰り返されている。十月に初雪、六月末に雪を消して田植え。千人百年代の天保四、六、七、八年の大飢饉には、信州秋山郷の村々に、悲劇を齎らした。甘酒・上ノ原上村・和山上の台村は全村消えた。墓石だけが辛うじて残ったと言う。この時、越後秋山郷は、救援人があり、悲劇は、辛うじて食い止められた。明治、大正時代にも、しばしば飢饉に見舞われる。東北の大飢饉は悲惨であった。同じ歴史であった。

 秘境は悲惨である。

 日本国は、飢饉で危機を迎えるのだろうか。

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コロッケとディナークルーズとニューハーフと屋形船と天ぷら  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 私が何となく“紅白ものまね歌合戦”を見始めたのは、淡谷のり子大先生が審査員におられた頃からですからもう20年位も前から。

 普段は、TVはニュースと天気予報とたまに英会話の勉強をする以外は無くても良いんじゃあないかと思っている割にはこれだけは時々なんとなく見ています。ま、つかず離れずのかくれファンという所でしょう。(ちなみにうちの子供たちは大先生が『ま、ゲ・ヒ・ン・ね』とおっしゃるところを一番喜んでいた様な。)

 先回久しぶりに見た決勝戦では岩本恭生があの『マツケンサンバ』で登場し、これは勝ったなと思っていたところ迎えうつコロッケの物まねにはさすがに他の出演者には無い何かがあって、その芸に軍配が上がりコロッケの優勝となりました。

 コロッケを見ていて想いだしたのがグアムのジミー(そんな名前だったと思うのですが、もう十年も前の事なので…。)によるディナークルーズでの“物まねショー”。達者な日本語を使い多彩な芸を繰り出す彼は(タイのニューハーフとは違い)れっきとしたおかまちゃん。

 男装と女装を目まぐるしく繰り返して歌い踊り、ラストはカーテンの除からのぞかせる左半身はドレス姿、化粧も女顔女声で歌い、曲の変わり目から右半身は黒いタキシードの男声男顔で歌い、オーラスは女装での男声での熱唱熱演、といったテンポの早い大変楽しいショーでした。

 それにしてもご婦人方は何故あのようなものがお好きなのでしょうか。女性客のほうが圧倒的に多かったんだけど。ま、面白いから悪くないし、うちのfamilyも女4、男2と当方にとっては圧倒的不利。

 で、ディナークルーズと言えば日本でも東京湾や横浜港ではさまざまなものが楽しめるようです。この夏の終りに“屋形船でいく東京湾〜隅田川夕涼みツアー”に行って見ました。

 外観は、大屋根が偉容を誇る木造船。へさきからたもとまで軒下ちょうちんが並び、大江戸情緒あふれ、中は広いお座敷に掘りごたつ風のテーブルがたくさん並んでいる。しかし入り口や大きく開いた窓は二重ガラスで完全冷暖房完備。ねじりはちまきに黒いはんてん、きやはん、足袋すがたのいなせなおねえちゃんと兄ちゃん達が次々と揚げたての天ぶらを運んでくる。

 「メゴチです。」「あなごです。」「きすです。」「海老です。」「イカです。」…おなかが一杯になったところでお台場付近で20分ほど船をとめてくれた。

 お台場の観覧車やセガのゲームセンタービルなどの色とりどりの灯りや行き交う他の屋形船、世界一周クルーズの途中?かもしれない大型客船・飛鳥や超大型クルーザーなどで隅田川は光の洪水。

 酔いを醒ましつつデッキで夜景を楽しんでいると折り良く花火まで上がり、えらい得をした気分でホテルへ帰りました。

 それにしても東京は久しぶりに行くたびにその様相を変えます。私が永年青春を過ごした街とはとても思えない。といってももう加年以上前のことですが。

 今、東京では若い女性と熟年の女性だけがやたら元気がいい。まわりの人間をはじき飛ばしそうな勢いで闊歩している。すんげーのー。しょったれでちぢこまって歩いている東京の男どもはまるで×××みたい。これからは女性の時代なのだ。

 こんなこと、言っていいのか。東京の酒はちょっと悪酔いするみたい。

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