長岡市医師会たより No.297 2004.12

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もくじ

 表紙絵 「信濃川の源流を訪ねて」 丸岡  稔(丸岡医院)
 「中越地震と私」         大関 道義(黒条内科診療所)
 「新潟県中越地震 一避難所への長期巡回診療体験記〜その実録と考察
                  木村 嶺子(木村医院)
 「災害医療、再び!〜中越大震災にみまわれて
                  内藤万砂文(長岡赤十字病院)
 「耳をすまして短刀の落ちる音を聞きなさい
                  中山 康夫(南魚沼郡医師会:中山医院)
 「山と温泉48〜その39」     古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「地震、地震、地震〜その2」   郡司 哲己(長岡中央綜合病院)



信濃川の源流を訪ねて   丸岡 稔(丸岡医院)


中越地震と私  大関道義(黒条内科診療所)

 震度5以上のときは近所の避難所に出向いて自主的に行動するようにと、市医師会で阪神大震災後にマニュアルが策定されていたなあと思い出し、歩いて400mの黒条小学校の体育館に行ってみた。誰がリーダーか分からない混乱状態で皆土足で体育館に出入りしていました。ゴザや断熱マットも敷いてなく避難所としては態をなしていない。隣の公民館にそれら必要物品があるぞと誰かが言う。鍵がかかっている。鍵はTさんが持っているはずと誰か。Tさんは私の自宅のすぐ近所だ。まだ救護所は開設できていない。私も一住民としてひっと走りTさんを呼びに走った。Tさん宅は壁が落ちかなりの被害だ。用件を話すとすぐに鍵を持って公民館に赴き開けてくれたので後は人海戦術でゴザや断熱マットを運び込んだ。そのさなか我が家の娘の婿殿が頚城村から迎えに来てくれた。なんと頼もしかったことか。とりあえず娘と孫娘を救出していった。余震打ち続くなか瓦礫の我が家に入り込み、乳飲み子やその母の子育ての必要物品を素早く探し出していった由。
 私も往診鞄と白衣を探し出し、体育館の一角にカーテンスクリーンと椅子と机を置いてもらった。これで細々ながら救護所の立ち上げだ。黒条小学校避難所のセンター長Sさんが「ボランティアとして市医師会から来てくれた医師である」ことを皆に紹介してくれた。初日は避難するときの外傷で打撲や擦過傷の方が数名相談にこられた。1名前腕の挫傷で病院の外科に受診していただいた。そして夫婦で避難所に泊めていただいた。翌日は10月24日(日)で休日診療所の当番に当たっていた。外科が混雑したが、内科は比較的ひまだった。
 夕方避難所に帰ると市の職員を中心に徐々に支援態勢が作り上げられていた。400人以上の避難者であふれていた。衛生上良くないと土足禁止となり掃除もされた。
 すぐ近くの堤岡中学にも被災者が集まっているので診に来てほしい、新組小学校にも300人程避難している(ここは7・13水害のとき一時避難所になりながら水の勢い強く床上浸水となり再び別の避難所に移動させられたところだ)。行ってみるとここにも顔見知りの方々が何人か見られた。黒条小学校に戻ってきたら夜9時を過ぎていた。4〜500人ほどになっていた。私はもう一晩避難所に泊めていただいた。ま、救護所の当直ですね。軽い怪我の人や血圧が心配、眠れないといった訴えが多かった。往診カバンの薬では足りなくなって医師会からの救援物質ならぬ救援薬が待ち望まれた。
 翌日25日(月)、我が診療所の職員は栃尾の山奥で道路事情その他でこれなかった者を除いて全員出勤し、鬼の大暴れの後のような診療所の片付けに専念した。正面に本日休診のプレートを下げておいたが、処方箋だけ希望の患者さんは受け付けることができた。レセコンが無事だったことと隣の調剤薬局の被害が軽かったので助かった。
 この日から往診カバンのほかに隣の薬局から無料提供を受けた薬を携えて、夜7時から3箇所の避難所回りが始まった。堤岡中学校は余震で土台がぐらつき始めたので4〜5日日頃に閉鎖となり黒条保育園に移動となった。保育園は天井が高くなく暖房効果は抜群だった。要請にこたえて避難所生活での風邪の予防特にインフルエンザの予防についてお話の機会を持たせていただいた。15分か20分だったが資料も無く(作らず)十分理解されたか心配だった。しかしその後の行動を観察していると、かぜ予防の知識はかなり身についているように見受けられた。中年老年の婦人で他県から引っ越してきて長岡の環境になじめない自分の生い立ちなどを1時間近く訴え家族の大変さに同情した。
 上京中だった倅が臨時の飛行機便で新潟経由で駆けつけてくれたのは、地震発生から3日後だった。家の片付けを手伝った後、私が学校医を引受けている山本地区の避難所3箇所へ半日かけてナースと一緒に回ってもらった。夜には父と子で黒条新組地区の3箇所を回った。1日だけだったが、若い医師にはよい経験になったと思う。地震も徐々に落ち着いて、黒条新組地区の避難所は11月6日の新組小の閉鎖を最後にすべて無くなった。自主運営の小さな集会所はしばらくあったが5名ほど仮設住宅入居まで残っているのだそうだ。元気そうだった。
 しかし、連日の医師会からのFAX通信ではまだまだ医師派遣要請が数箇所から発信されている。健康センタ一に問い合わせたら山本コミセンは如何かとのことで、OKやらせてくださいと。11月9日の晩から山本通いが始まった。その時点で120名弱の避難者のいる山本コミセンはそれまで石川県チームが担当していたところで、保健師は静岡県から、そのほかの部門でも県内各市、県外から遠く函館や広島から応援隊が活動してくれて、連帯感を強くひしひしと心に感じました。日本も捨てたものじゃないな。
 ここ山本地区は7・13水害でも甚大な被害を受けたところで、その復興も緒につかないうちにこの震災です。センター長のKさんが私を紹介し呼びかけてくれました。このころになると風邪や感染性胃腸炎と思われる人が数名発生し、拡大阻止のため手洗いの励行、使い捨て紙タオルの利用など呼びかけ、有症者は早めに受診を促す等、保健師が活躍してくれました。ここでも風邪予防、インフルエンザ予防の話の中でぜひ山古志村の避難民のように行政の責任で集団でワクチン接種をしてもらいたいねと、保健師と話していたら、翌日にその保健師から電話があり、「先生、昨日の話、市でやってくれることになりましたよ、よかったですねぇ。」タイミングのよさに吃驚しました。不眠症や風邪の人にこの頃には医師会から提供された薬を利用することができました。12月6日を最後に山本コミセン通いは終わりました。今は心に何か暖かいものをいただいて日常の診療に当たっています。両地区の皆さん、感動をありがとうございました。大変でしょうが、これからも元気で頑張って下さい。

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新潟県中越地震 一避難所への長期巡回診療体験記 その実録と考察

木村嶺子(木村医院)

 冬至も間近いというのに新潟にしては稀に見る珍しい好天気続きである。山古志村の被災者の方々の仮設住宅への引越しも順調にはかどっていることだろう。引越し完了まではなんとしても雪は降らせたくない気持ちでいっぱいである。一足お先に太田地区の人達は長岡操車場跡地の仮設住宅に入られて、新しい生活が始まっているので一層その思いが深い。
 地震発生後、医師会事務局から送られてきたFAXでは私達は関原小学校避難民の面倒をみるように指示されており、そこを連日巡回したが、幸いにも被害の少ない地域だったので余震が怖いいった理由だけで集まっている高齢者が多く、血圧を測った人が数名いただけで、私の目から見て比較的ゆったりした雰囲気を感じていた。関小は11月1日閉鎖された。
 私達が新産体育館の避難所に行くようになったきっかけは、10月27日に市内の2〜3か所の避難所の巡回状況報告のために、たまたま医師会へ顔を出した際、事務局の方から新産体育館に太田地区(蓬平、濁沢、竹之高地)から自衛隊のヘリコブターで運ばれてきた人たち(約150人)がいるので診てもらえないだろうかとたのまれたことからである。
 翌日10月28日に新産体育館に行ってみた。市職員が受付をしている所で「医師会から派遣された木村です」と名乗ると、直ちに患者の所へ連れて行かれた。一人診ると、次々に診療希望者がまわりに集まってきた。大半はかぜ薬を欲しがり、血圧に不安を持った人々であった。医師会事務局からは健康相談に乗るだけにして、医療を要する人には市内の医療機関を受診させ、その場では薬を渡さぬ様にしてほしいと言われたが、この状況下にあっては無理な話であった。急遽診療を開始し、処方箋を書いて渡した。患者の一人が10数人をとりまとめて調剤薬局へと走ってくれた。「明日もきてくれますか?」と問われれば「来ますよ」と答えざるを得ない雰囲気であった。
 災害後5日間も風呂に入っていない人たちは汗ばみ汚れていた。可哀相でならなかった。関原にある「縄文の杜」に入浴施設があるのを思い出し交渉したところOKの返事で、翌日からマイクロバスで送り迎えをしてくれる事になりほっとした。
 10月29日 前日と同じように大勢の中で裸にするのは抵抗があったので、体育館の片隅にある更衣室や用具室を使いたいと申し出、ここに折りたたみベッドを2台運びこんだ。一つは診療室に、もう一つには発熱患者を収容させた。夜間は病室に早変わりし、後々まで使用された、
 10月30日には、県立吉田病院の看護師が休暇をとって一日ボランティアとして活動してくれた。発熱患者の世話や乳癌手術を待っている人の精神的支えとなってくれた。体育館の中は乾燥しているので水分を十分とること、朝のテレビ体操をすること、かぜ予防に果物を食べること、換気をこまめにすること等をマイクを通して避難民の人たちに話した。
 11月1日 保健師二名が長崎県から派遣されてきた。(新潟県からの要請で、一週間交替で12月12日までいたようだ)
 医師会からのFAX(10月30日付)で、避難されている人にはインフルエンザの予防注射を積極的に勧めるようにとの通達があった。それに従い体育館で予防注射をPRしたところ、「どこで、いつ? 先生がやってくれるのかね?」と声が上がった。しかし市の健康課の方針は決まっていなかった(この時点で)。仕方なく、大学の同級会が送ってくれた見舞金(10万円)で補って一律1050円負担で、11月3日の午後と夜の二回に分けてやることにした。ただ、市の健康課はこのインフ注射に関しては木村医院が勝手にやるのだから派遣の看護師に手伝わせてはならないと言われた。
 11月3日 木村医院だけでなく、いまい皮膚科のスタッフも動員してインフ注射を施行した。計40名、後日にも予防接種を受けた人がおり、55名であった。(そのうち5名は11月11日に市の健康課による接種である。)
 予防接種による副作用は全くみられなかった。尚、小千谷体育館では、3000人中、接種者は僅か30人との事を後日、庭山医師会長より聞いた。
 小国町立診療所金子先生のお便りでは、11月2〜4日で、インフルエンザワクチンを約1500人に接種を行った由。
 11月4日から、鹿児島の精神医療チームの巡回が始まった。「避難所には、独立したコーナーか部屋が必要であり、ここは保健室があるのでよい方です」と言われた。この日から自衛隊による炊き出しが始まり、暖かな食事がゆき渡るようになった。11月に入って夜間に咳をする人が多くなったので6台のベッド(市から届けられた4台のベッドを含めて)をフル回転するように市職員に頼んだ。

 11月5日 体育館の入り口にべット用テントが二つ出来た。自衛隊の入浴施設と調理場を点検した。ここへ派遣の自衛隊員数約50名とのこと。
 11月6日 大型バス改良の床屋とラーメン屋がボランティアに来た。
 11月7日一時帰宅の許可が出たため、昼間の体育館の中は年寄と子供が僅か20人あまりで閑散としていた。今晩交代する長崎の保健師さんの労をねぎらい、「越の雪」と抹茶をふるまった。ふだんは数名の診療希望者があるが、この日は健康相談一名のみ。
 11月8日一時帰宅の翌日は患者さんが多い(10人を越える)。避難所で一日中ゴロゴロしているのに、その日は目いっぱいの作業で、疲れが著しくなったためであろう。私たちだけがこのままここで診療を続けていいのだろうかと疑問を感じて、近くの先生方にも順番で巡回してもらったらどうかと医師会に申し出た。この時点でまだ新産体育館には健康センターからの常備薬は届いていなかった。
 11月9日 齋藤医師会長よりこのまま巡回を続けてほしい旨の依頼があった。そしてやっと健康センターからこの体育館に常備薬が届けられることになった。又、この避難所には車椅子利用の人が三名おり、デイサービス利用がとぎれた状態であったが、「縄文の杜」のケアマネージャーの介入で利用所変更届がなされ、施設に通えるようになった。
 11月10日 健康センターから届いた薬は三日分まで渡してよいと許可が出たので、これらの薬に関しては無料で診療ができるようになつた。しかし、この薬の中には抗生物質が含まれておらず、抗生剤を要する患者は医療機関を紹介するように指示された。その頃、運よく同級生が救援物資と称して大量の抗生物質を送ってくれた。これを使ってこれ以降、本人からは徴収金ゼロで押し通せるようになった。
 11月11日 自衛隊の炊き出しが始まって早一週間。この頃より避難民の体重が増えているのに気づいた。自衛隊員の一食分は避難民に多すぎる。しかも届いた食事は、もったいないとがまんして食べている。そこで、盛りつけ係(市職員)には、できるだけ少なめにするようにアドバイスし、味付けも薄味にするように炊事隊員に申し入れてもらった。
 11月19日 送られてきた救援物資の中に腐りかけたさつまいもがあった。(送り主から励ましのメッセージ付)そこで、包丁とふかし釜を持参してふかし芋を作って配った。温かい芋は大好評で喜んでもらえた。りんごも山積になっていたが、「包丁がない」「かたくてかめない」「面倒だ」などの理由で食べてくれないので、りんご煮を作っては…ともちかけたら市の男性職員が大いに乗り気になり作ってくれた。数日で、山積のりんごもさつま芋も食べつくした。この頃に、仮設住宅入居の説明会が開かれ、皆の顔に明るさが出てきた。
 11月26日 航空自衛隊のバンド演奏が体育館真の広場であったが、避難民は楽しんで聴いていたようだ。12月1日に仮設住宅の鍵が渡されることになったので、安心感が漂っていた。患者さんは2〜3名となった。私たちが持ちこんだベッド、布団、卓上コンロ、ポットを引き上げた。
 12月1日 仮設住宅の鍵が渡されると、次々に引越しが始まったが、移転先付近の医療機関について質問された。医療機関マップが医師会より届けられたので、手渡した。
 12月4日 巡回最終日。さすがに患者ゼロ。残り物の自衛隊食を食べて、残っている十数名と名残を惜しんで体育館を出た。翌12月5日朝に避難所は閉鎖され、太田地区の全ての避難民は仮設住宅に移った。
 私たちの医療活動が新産体育館に避難されていた方々にとって、一か月余りの期間ではあったが、少しでも健康面でのサポートにつながるものなら、それは私たちにとっては望外の喜びである。
 その一方で、ボランティア医療について感じたことを述べてみたい。
 個人として、長期にわたる避難所の医療活動は、とてもむずかしい。木村チームと名づけられてはいたが、日赤医療チームや山形県チームとは大いに異なるものである。診療後の与薬・インフルエンザワクチン接種にしても勇気と決断がなければ行えなかった。私をとりまく、自院の医療スタッフやいまい皮膚科の夫やスタッフ、気心の通じた無理のきく調剤薬局の存在、それに薬の卸の従業員たちの協力がなければやり通せなかったと思う。(長岡市医師会という大きなバックはあっても、実際に動くのは個人である)幸いにして、医療事故も起こさずにやり終えたが、責任の所在云々といわれれば腰がひけるのではないだろうか? 自院の診療以外のことであり、介護度5で週三回透析に通う母を抱えての、連日午後一〜二時間のやりくりは協力がなければ出来なかっただろう。
 無理をしながらもやり続けたのは、いったい何だったのだろうか? それはきっと太田地区の人たちの人柄によると思われる。連合町内会長が先頭に立って、それに続いて頑張る人たちが一つの大きな家族に見えた。その人たちに引きつけられて毎日行ったような気がする。これが、アチコチからの寄り合い所帯の避難所だったら、人間関係がうまく結べたかどうかわからないし、たぶん行かなかっただろう。
 最後に避難所管理については市職員が責任を持って行っている筈であるが、責任者の力量によって違いがみられた事である。上からの指示を待つのではなく、避難民の立場で考え行動すべきであろう。健康管理面から言えば、長崎県の保健師の活躍は、大きくて頼りになったが、一週間交代では「やっと何でも言えるようになったのにもう帰るんだかね」と避難民が残念そうに話すのを聞いた時、新潟県民は耐えて、がまんばかりで何も言わないと心のケアの講演で指摘されたが、本音を言い出すのに他県とくらべて手間どるだけと思った。私たちには、本音で何でも話してくれたから…。市の健康課の保健師が短時間でも度々避難所訪問をし、避難民とのふれ合いがたび重なっていれば長崎の保健師との間にパイプがつながり、そのような声も出なかっただろうと思われ残念でならなかった。

新産体育館避難所の避難民(156名)の診療について(10月28日〜12月4日迄)
・巡回・巡視回数  37回 (36日)
・延患者数         232名
・受診者カルテ数       71枚(インフ接種者カルテは除く)
・インフルエンザ予防接種者数 55名(木村医院接種 50名 市接種5名)(内訳 老人35名 若者20名)
以 上

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災害医療、再び!〜中越大震災にみまわれて〜

内藤万砂文(長岡赤十字病院)

 7・13新潟豪雨災害の興奮さめやらぬうちに、2回目の大災害にみまわれ「中越」、「長岡」の名前はすっかり全国区になった感があります。平成16年10月23日午後5時56分、私は自宅で家族と一緒にいました。幸い電気は消えず置き物がひとつ落ちた程度の被害ですみました。自転車に飛び乗り病院に向かいましたが、途中歩道が何カ所かで盛り上がり砂の混じった水が浸みだす液状化現象を目にしました。恐怖と不安にかられながら病院に到着。幸い病院機能は温存されけが人もでませんでした。最低限の検査もできることがわかりました。当院は赤十字病院であると同時に県の基幹災害医療センターであることから、「多数傷病者受け入れ訓練」は毎年行っています。今年はちょうど1週間前に長岡消防本部と共同で230人が参加して地震を想定した訓練をしたばかりでした。その訓練と同じ光景の始まりとなりました。発災1時間で100名、2時間で300名の職員が集まりました。震度5以上は自主登院の決まりです。緑エリアのリハビリセンターに簡易ベッドが40台準備されました。救急外来の入り口がいつものトリアージゾーンです。24時間で約300名が受診し、うち100名が中等症以上、50名弱が入院となりました。訓練と違う点は重傷者が少なかったこと、救急搬送がゆっくりしたペースであったことです。訓練ほどの混乱はなかったともいえます。予定手術は1週間中止されましたが、ベッド確保が再重要課題となりました。慢性患者さんの転院交渉には武田副院長が奔走されました。医師会員の多数の皆様にご協力いただきました。また転搬送では救急隊に多大の協力をいただきました。おかげさまで地震関連の受け入れはなんとか滞りなく行うことができました。
 救護活動としては翌24日未明に救護班先遣隊として市内の避難所をいくつか回りました。いずれの避難所にも医師会の先生による仮の救護所ができているのには驚かされました。山沿いの地域で道路亀裂や塀の倒壊が多くみられましたが、道路のアクセスは良好であり長岡市内の医療ベースは損なわれていないと判断できました。25日からは全村避難となった山古志村民の避難所の巡回診療に訪れました。医師会と健康センターとの協議の結果、仮設住宅完成まで赤十字で担当させていただくことになりました。ペーパーバッグ2個を下げて避難所に入ってくる高齢者の多くは高血圧や糖尿病の常備薬を持ち出す余裕さえありませんでした。ある避難所では30名を当院にバスで輸送し、当座の薬を処方しました。診療所の佐藤先生が来られていることがわかってからは、そのサポートに努めました。また市医師会にお願いして避難所周辺の医院マップを作っていただき避難所の保健師に配布しました。救護班がだせる薬には制限があるからです。傷病者受入れに忙しかった時期は北陸、中部の赤十字病院から延べ8チームの応援をいただき全8カ所の山古志避難所の巡回診療を行いました。11月10日からは当院単独で引き継いでおります。また医療班とは別に「赤十字こころのケアチーム」も初日から毎日巡回を行い、地震後のストレス反応の軽減に努めました。
 地震から50日が経過し、ようやく余震をあまり感じなくなってきました。しかし大震災の爪痕は生々しく、救護活動はいまだ進行形の状況が続いております。今回の活動を客観的に評価できる状況にいたっていないのが現状です。あの奇跡の幼児救出劇が唯一明るい話題でしたが、対策本部を襲ったマスコミ災害と同時進行であったことを思いおこす時、苦い想い出となってしまいます。
 最後になりましたが、今回の地震で被災された皆様には心よりお見舞い申しあげます。

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耳をすまして短刀の落ちる音を聞きなさい  中山康夫(南魚沼郡医師会:中山医院)

 長岡市で医院を開業されている江部恒夫先生が五月に亡くなられた。九十七歳の高齢で、しかもそれまで現役として診療にあたっておられた方だ。
 私は長岡市医師会で会報「ぼん・じゅ〜る」の編集委員をやっていた時にずいぶんお世話になった。先生はプロといってよい画家であった。それで、表紙の絵や、いろんな記事の挿絵を描いていただいた。イラストの専門家にほめられた表題のデザインもあった。
 医師会の旅行にもよく参加なさった。そこでは私のような若輩にも気楽につきあってくださった。富山県の立山に行った時だった。荒井先生と市川先生(故人)と私は翌朝雄山に登る計画を立てていた。しかしその晩は雨だった。
 「あんた方、あきらめてゆっくり飲みなさいよ。」
 江部先生にそう言われて三人は腰を落ち着けてまた飲み始めたのだが、そのうちに雨の音がやんだ。「やっぱり晴れるげですから私どもはお先に失礼します。」荒井先生と私は先に休ませてもらったのだが、市川先生はとことん付き合ったらしい。
「江部さんに飲まされて」と言いながらそれでも何とか私たちについて来た。
 十日町にいる時にも、たまに長岡での講演会などに顔を出すと、江部先生が前の席に座っておられて、よく質問もなさるので、「いくつになられても立派なもんだ」と感心していたのだった。
 さて、医者として長年にわたってつきあっていただいた先生には私にとってはもう一つの顔がある。それは高校の同級生江部達夫君の親父さん、つまり、「江部っちの小父さん」で、そちらの思い出の方が実は鮮明で懐かしい。
 長岡高校一年六組。入学式を終わって教室に入り、席に着いた私の後ろで床にピンポン球がはずむ音が聞こえた。
 「おい。誰だ。江部か。早くしまいなさい。」
 担任の町田(今は三宮)先生が優しい声でたしなめた。入学早々変なことをする奴だなと思ったが、これが現在の江部医院の院長 − 江部達夫せんせーである。中学から仲の良かった河井寛治君(河井継之助の親戚)が江部君と小学校で一緒だった関係もあって、私は彼とはすぐ友達になった。
 ある日江部が言った。「おい中ぞう。おれん家へ遊びに来いや。庭から魚釣りが出来るぞ。」
 確かに彼の家は柿川に面していて、庭から釣りが出来た。でもそれより目を見張ったのは見たこともないほど大きな電蓄(その頃はまだステレオとかオーディオなんて言葉はなかった)だった。「ごうぎ立派だなあ。聴いてみてえなあ。」と私たちは口々に言った。そこへ小父さんが出て来てLPレコードをかけてくれた。ベートーベンの田園交響曲だったかシューベルトの未完成だったか忘れたが、とにかく誰にもなじみの深いクラシックの名曲だったと思う。
 私たちはそれがすっかり楽しみになった。そして小父さんの解説がまた良かったのだった。
 ある日また江部がもったいぶって言った。
 「おい、中ぞう。こんどの土曜の午後からおれん家へ来いや。河井も倉地も来るぞ。おめえ、マダム・バタフライを聴いたことがあるか。全曲を聴かせるぞ。」私は中学校の音楽の授業でプッチーニのオペラ、マダム・バタフライ(蝶々夫人)は聴いた覚えがあるし、「ある晴れた日
に」のアリアも知っている。ただ、全曲を通して聴いたことはなかった。全部聴くと二時間余りはかかる長い曲だ。
 当日私たち(五人くらいだったか)は江部宅に集まった。
 やがて小父さんが現れ、私たちは座り直して小父さんの話を聞いた。
 演奏が始まった。
 「今、さくらさくらのメロディーがありましたね。こんどは『宮さん、宮さん』の曲が聞こえますよ。」
 小父さんの言うとおり、日本のメロディがところどころに挟まれていた。
 やがて曲も終わりに近づいた。
 「最後に蝶々夫人が屏風の蔭に入って短刀でのどをついて自殺します。その手から短刀が床に落ちる音が聞こえますから、耳を澄ませていなさいよ。」
 曲が終わり、かすかに尾を引く余韻の後に静寂があり、「コトリ」と確かに堅い物が落ちた音が聞こえた。

(中山医院院内誌「舞子の丘」平成16年10月号より)

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山と温泉48〜その39  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

和山温泉
 地籍は、栄町堺宇和山
 越後・信州秋山郷内で、中津川上流の切明温泉と共に、最古の温泉と伝えられて居る。古文書にしばしば登場する。温泉の開湯は文政八(1825)年(栄村誌)と言われている。湯本・現在の切明温泉は、寛政六(1794)年と言う。この温泉の唯一の旅館「仁成館」の創業は、寛政元(1789)年と旧く、開湯以前、既にあったのでしょう。
 この時代の信州秋山郷の支配は、それ迄の領主上杉が慶長三(1598)年会津移封後、次々と代わっている。そして、享保九(1724)年飯山藩領から江戸幕府・八代徳川吉宗時代、直轄地・天領となっている。この地の差配は、近隣の各藩に任せていたようです。
 和山温泉は、十二世帯、旅館・仁成館一軒、他は民宿。
 国道405号線を、上野原から、栃川を渡り、坂を登りきると、栃川高原台地。三叉路を「和山経由切明」の標識に従って右折する。直進は、国道405号を「切明」。間もなく、林が切れ、左側に「栗地蔵」が在る。地蔵を幹に包み込んでしまった大きい栗の木のことで 「地蔵栗」とも言うのだそうです。この地蔵は、他の場所から移されたもののようだ。地蔵の由来は、色々とあるようです。(実は、その資料を地震のドサクサで紛失・御容赦)。この辺りは、標高977米、展望が開けてくる。路は中津川に向かって下る。集落が見えてくると、和山集落民宿の看板があり、分岐に出る。右折し、集落の問を更に下ると何時の間にか中津川河畔の旅館「仁成館」前に出る。切明温泉には、一旦分岐迄戻り、南に向かい右折する。この路は近年完成した。国道・和山−切明問のバイパスで、一日四往復のバス道路になっている。本来の旧道は、中津川断崖中腹にあった。路狭く、危険難路あった。この新しい道路は、旧道を断崖の上部に移し、車の通行を可能にしたようです。
 和山温泉は、源泉で五九度、昭和五十一年再ボーリングの食塩泉。集落り民宿は、栃川高原温泉からの引き湯。源泉・五十六度。
 鈴木牧之は文政十一(1828)年に秋山郷に入っている。和山温泉の開湯は、文政八年だから既に温泉が在ったのだが、湯本(切明温泉)に行くのを急いだため立ち寄っていない。
「北越雪譜・秋山紀行」に次のような文章がある。「……村端、中津川の辺りに温泉ありやと尋るに、此処を四五丁も隔て、川端の大樹原の中にあり。土を掘りて四方に木を畳ん斗り、小屋もなく、湯ハ澄んで暑と云うも、湯本迄遅からんと此温泉見ぬ事本意なく……」(鈴木牧之全集・中央公論社)
 明治三十人年に新潟新聞に連載された「小林存・越後秘境探検記」に次のような文章がある。「……和山温泉は部落の西、蕎麦畑を隔てた中津川の清流に臨み、小奇麗な旅館がある……」
 和山温泉は、鳥甲山2037.6米の登山基地。甲山は三峰からなる鳥の頭と両翼、翼をひろげたまさに鳥。南の峰白い岩肌の白山品1944米。北の峰赤い岩肌の赤山品1840米。そして中央の鳥甲山主峰、見事な山です。しかし、どうしてか、今一つ人気が無い。
 仁成館の裏手かせ中津川を渡り、左岸の車道(秋山郷西側道路秋山林道)迄上がる。車道を南に向かい少し行くと分岐、左切明温泉方面、右の志賀高原方面の林道に入り、間もなく右側に駐車場があり、登山口となっている。標高1020米。上の始めると「むじな平」。車の場合は、切明迄行き、発電所の下手、切明温泉で中津川を渡り、林道を分岐迄行く。又、下山口でもある屋敷集落から秋山林道に入ればよい。いずれにせよ、最近、良く整備された秋山郷西側道路を行けば登山口、下山口に達する。

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地震、地震、地震〜その2  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 そうだと家人は思いつき、路上に動かした車のカーナビのテレビをつけたそうです。
 小さな画面にみんなで顔を寄せ合い、見たニュース。それでなにが起きているのか?
 …とてつもない大地震なんだとわかったといいます。柴犬のゆめは車の後部座席にちょこんと乗っていました。お隣のKさんが手伝ってくれ、玄関ドアの内側に震えているのを連れ出したそうです。顔を見るとさかんに犬語でしゃべりかけます。「そうか、そうか、たいへんだったね。こわかったね。」と撫でてあげました。
 よし、まずは照明器具の確保から活動開始。キャンプ用のカンテラを風除室から取り出して点灯、家の中に入り、まだ蝶ネクタイにスーツ姿のわたしの着替えを捜す。TPOとしては、やっぱりジャージーでありますな。戸の外れた納戸から懐中電灯とロウソクも見つけ出しました。この間も地震が続くので、真っ暗な路上へ逃げ、カンテラの灯で着替えました。
「小便がしたくなったな。」
「トイレは使えないから、お庭で、したら?」と家人。
「そうだね。」
 庭のブルーベリーの茂みに近寄り用を足そうとすると、懐中電灯の光が下半身を照らします。
「おいおい、なにすんだよ?」
「あら暗くてたいへんかと思って、照らしてあげようと…。」と家人。
「バカだね。おしっこするんだから暗いほうがちょうどいいの。」
「そうか、ごめんなさい。」
 深夜になり回線が回復してきたのか、携帯電話がやっと通じるようになりました。そこで職場に電話するとT副院長が出られました。地上階への患者避難は済み(帰路のタクシーのTVで、T副院長が避難患者さんへ説明にあたるニュースを見たのであった。)同僚T医師が避難してきたご家族と病院に詰めているので翌日の顔出しでOKとのこと。
 長岡市内のF町に住む甥のH君から携帯電話。自宅は無事でただちに車で親戚の巡回中。実家のあるM町は棚から物が落下程度の被害で父母もなんの怪我もなく無事とのこと。
「でもM町は停電なので、おじいちゃん、おばあちゃんはF町にいっしょに連れて帰るね。」
「ありがと、安心した。我が家は中はぐちゃぐちゃだけど、潰れずに立っている。じや、よろしく。」
 電話を切った直後。「待てよ、M町は停電って言ってた。ということは…」すぐにリダイアルです。
 なんとHくんの住むF町は被害軽微で、電気どころか、ガスも水道も止まっていないらしい。去年新築した家は全然被害なし。蒲団が不足だから、できれば毛布だけでもいいからもって来てくれとのこと。
「悪いけどおじさんたち二人も、そっちに避難させてもらうよ。うん、大のゆめもいっしょね。」
 お隣さんたちに声をかけました。
「新潟も三条も全然無事でしたし、長岡も停電でない地区もたくさんあるようですよ。きっとこの高町が一番ひどいんですよ。みなさんのご実家もきっと避難できますよ。電話がつながり出したから、今から連絡してみたらどうでしょ?」
 残す隣人たちにすまながる家人をせき立てるように出発。道路のあちこちが亀裂し、交通信号の消えている東バイパスを徐行運転。避難先のW家到着は夜中の2時過ぎ。
 そこで新潟駅で買った駅弁二個を取り出し分けあって食べ始めたのはさすがでしょ?
 (その3へ続きます)

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