長岡市医師会たより No.298 2005.1

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もくじ

 表紙絵 「待春(大川原)」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「年頭のご挨拶」      会長 齋藤 良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)
 「新春を詠む
 「開業して一年が経過して」    奥川 敬祥(おくがわ小児クリニック)
 「八百枝先生。お節介ですが謎を解きましょう。
                  中山 康夫(南魚沼郡医師会:中山医院)
 「地震、地震、地震〜その3」   郡司 哲己(長岡中央綜合病院)



信濃川の源流を訪ねて   丸岡 稔(丸岡医院)


年頭のご挨拶  会長 齋藤良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)

 新年おめでとうございます。
 会員の皆様には如何新年をお迎えでしょうか。この度の地震により被害を受けられた先生方には先ずもってお見舞い申し上げます。
 この度の医療救護活動には、多大の犠牲を払ってご協力を頂き有り難うございました。お蔭様にて、何とかこの難局を切り抜けることができました。なお当医師会の医療救護活動の概略は県医師会報で報告する予定でありますが、ここで少し補足させて頂きます。
 我々のマニュアルは大規模地震発生後3日間の対応を前提としたものであり、その後の対策は定めていません。これは地震災害時には、市民の被害状況、医療施設の損壊程度、外部救護班の支援体制などにより地元医師会の対応が大きく変わってくるためです。その対策は各時点で臨機応変に対策を立てざるを得ません。そのため会員の皆様には多大のご迷惑をお掛けすることになりました。今回の経験から我々の地震対策マニュアルには多くの不備があることが明らかになりました。今後総括をおこない、会員のコンセンサスを得て、より良い有用なマニュアルにしてゆく必要がありましょう。
 最近、会員の方々から、市町村合併に関連して医師会の関与する地域保健活動(学校保健、住民健診、介護保険、乳児健診、予防注射など)についていろいろご質問をうけます。
 これまで長岡市に対し、これらの課題全般についてまず行政側で原案を作成し、それをもとに関連医師会で協議しながら具体策を決める予定でした。長岡市でもその線に沿って検討中でしたが、不幸にも、昨年の水害と地震のため本格的な協議に入らぬまま今日にいたっています。ただ次期介護認定審査会については関連医師会の了解のもと審査委員の分担が検討されています。現時点では個別の課題ごとに対応せざるを得ない状況です。1
〜2年はこのような対応でゆき、最終的な市町村合併の決着に合わせて医師会の再編も考慮に入れながら全般的な解決に至るものと考えています。
 さて日本医師会では昨年4月植松新会長が選出され、執行部も一新されました。また7月の参議院選挙では西島候補が25万票を獲得し上位当選を果しました。春先から景気回復の兆しが見られるとの報道もあり、医療経営にも追い風になることを期待しましたが、診療報酬の引き下げ、高齢者完全定率制、本人の三割負担などの影響が大きく、医療経営も危殆に瀕していると言えます。また中越地域では水害、台風、地震がこれに追い討ちをかけました。
 今年はいよいよ高齢者の医療制度の抜本改革が検討されます。特に70才〜75才の保険料負担、給付率が大きな問題となりそうです。更に厳しい状況も予測されます。
 また問題の多い中医協の見直しが狙上に上がります。これは厚生労働省の下に置かれると決まったものの、経済財政諮問会議への報告義務などをめぐって駆け引きが始まっています。中医協の問題は構成メンバーはじめ細部の決定には要注意です。これに対し日医では「社会保険診療報酬検討委員会専門部会(仮称)」を設置して対応したいとのことです。
 昨夏から論争となっていた混合診療の問題は、昨年12月15日、厚生労働大臣と内閣府特命大臣との間で基本合意がなされ、混合診療の全面解禁は阻止されました。基本合意は五項目から成っておりますが詳細は省略します。病院の先生方が心配されていた先進技術と国内未承認薬については、当初特定療養費制度の適用が検討されましたが、結局この制度は廃止されることになり、代わって「保険導入検討医療(仮称)」と「患者選択同意医療(仮称)」が新しく作られ、前者で対応することに
なります。
 この度の合意は、日医が混合診療の解禁は我が国の国民皆保険制度の崩壊に連なると捉え、署名運動などで直接国民に訴えた活動の成果と評価されます。衆参両院に提出され、採択された600万の署名の重みはさすがに小泉首相も無視出来なかったようです。
 今年は更に市民の立場に立って、地域に根ざした医師会活動を目指したいと存じます。市町村合併も二次医療圏の区分変更もまた医師会の再編の問題もその延長線上にあると思います。診療所会員も病院会員も一致協力して、この大きな時代の変革に対処しなければなりません。先生方のご支援とご協力を切にお願い申し上げます。
 最後に本年が会員の皆様に幸多い年になりますよう祈念して、新年のご挨拶と致します。

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新春を詠む

 たまゆらの大冬晴や初スキー  渡辺修作

 初夢のドアいつまでも開かざる  荒井紫江

 すさまじき地震かくして雪が降る 十見定雄

 語り継ぐ地震のひと夜年酒汲む  伊藤 洸

 ひびわれの壁しらじらと初昔  郡司哲己

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開業して一年が経過して  奥川敬祥(おくがわ小児クリニック)

 このたび恒例?とのことで「開業して一年が経過して」という題目で「ぼん・じゆ〜る」に寄稿するようにとの依頼がありました。これまで私は平成元年に大学を卒業し、以来15年問同大学での診療、研究、関連病院での小児科診療に携わってきました。そして平成15年10月、古正寺町に小児科医院を開業しました。開業して一年間はあっという問に過ぎました。勤務医時代には想像もしなかった多くの新しい経験もありました。一つの医院を開設し、これを営んでいくには楽しいことばかりではありませんでした。それなりに壁に突き当たったり、思い悩んだり、無理をしたりしなければならないこともあったように思います。銀行との交渉では、中小企業の悲哀?のような経験もありました。ある雑誌の記事に、開業医の一番の悩みは従業員の人間関係だと書いてありました。私自身は明るくて、伸のよい、良き従業員に恵まれたと感じていますが、……時にはやはり経営者というものは孤独なものだなと感じるときもあります。開業してこの一年間を振り返って、……徒然なるままに書き進めてみます。
 開業してみて当然のことながら、勤務医時代とはまったく違う日常が待っていました。勤務医時代と一番変化したことは何か?と考えてみると、それはちょっとしたことですが、あらためて自分という人間と向き合う機会が多くなったことではないかと思います。自分自身を感じるようになったのは、勤務医時代とは違い、個人での単独行動が多くなったからというのがもちろん一番の大きな理由だとは思いますが……ほかにも少し原因があるようです。過去15年間の小児科医生活の中で医学書や論文はもちろんたくさん読みましたが、個人的な読書という点では、わずか20冊程の読書量というありさまでした。それがこの開業医生活一年間とちょっとで約250冊以上の本を読む機会に恵まれました。経費でも本を買えるようになった?こともひとつの理由かもしれません。内容は、純文学・美術・芸術・科学に関する本から紀行・経済・金融関連の本までさまざまです。色々なことに興味が湧くということは、それだけ自分自身を見つめ直す気持ちが湧いてきたことのひとつの現われだという気がします。おそらく勤務医時代には自分を見つめる余裕がなく、それだけ非人間的な日常を送っていたのかもしれません。
 診療に関して大きく変化したことは、やはり入院患者さんの診療がもはやないということです。今あらためて思うと入院患者さんの診療は、私個人にとって大きな意味合いを持っていたように思います。入院する子どもたちはそれだけ具合が悪く、その家族にとっても大変つらい状況です。小児科医の私にとっても患者さんの容態はいつも気になっていて、病院勤務医時代にはいくつもの眠れない日々を渦ごしました。寝るときもトイレや風呂に入るときもポケベル・携帯電話が離せない生活でした。それだけに子どもたちが元気になって退院していくのは大変喜ばしいことでした。今の仕事では外来診療がほとんどですから、病棟回診という言葉が妙に懐かしく感じられます(久しぶりに回診がしてみたいなと感じるこの頃です)。もちろん今でも、外来で多くの患者さんたちとの暖かい出逢いがあります。また、診療している患者さんの数だけみれば、おそらく病院時代よりもその数は多いと思いますが、患者さんとのお付き合いは、何か少しあっさりとしてしまった感じがしています。そういえば今年の年賀状は以前の病院時代の患者さんからのものが大半でした。
 最近もうひとつ変化したことは、診療にワイヤレスマイクを使い始めたことです。泣いてしまう子どもよりも大きな声で一日中しやべり続けていると夕方には声が枯れてしまうので、子どもが泣き始めたら、密かにマイクのスイッチをオンにしています。病院時代には考えもしなかったことです。もうひとつ、お店(たとえばコンビニエンスストアなど)に入ると、どの人が経営者なのかすぐにわかるようになりました。
 病院小児科医時代、30代後半になって何か世の中のことがわかったような気になっていたように思います。昨年41歳になりましたが、まだまだ新しく学びたいことや、やってみたいことがたくさん出てきた一年間でした。これからも新しいことに挑戦していきたいと思います。開院してわずか一年です。どうぞみなさんよろしくお願いいたします。

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八百枝先生。お節介ですが、謎を解きましょう。

中山康夫(南魚沼郡医師会:中山医院)

 先生の文(注:本会報11月号を懐かしく拝読いたしました。私もこの歌は子供の頃よく歌いましたよ。祖父に教えてもらったのです。
 “陸軍の・乃木さんが・凱旋す・雀・目白・露西亜・野蛮国・クロバトキン・金玉・マカーロフ・禅・締めた高ジャツポ・ポンヤリ・陸軍の……”といつまでも続きます。また、尻取りの共通音を繰り返さない早口に言う言い方もしました。
 “りくぐんのぎさんがいせんすずめじろしやばんこくろばときんたまかろーふんどしめたかじゃっぽんやくりぐんのぎさんが……”

 さて、クロバトキンは露西亜の軍人(1848〜1921)で、陸軍大臣でしたが日露戦争の時は満州の
露西亜軍総司令官に命じられました。しかし、敗戦の責任を問われて左遷されました。
 「謎」の一つ。マ一口ーフは正しくはマカーロフです。もっとも私たちもマカローフと発音していましたが。露西亜の提督で、日露戦争では露西亜太平洋艦隊司令長官でした。旗艦「ペテロパウロフスク」が旅順港外で敷設水雷に触れて沈没したのと運命を共にしました。なお、サハリン東海岸に同じ名前の港湾都市があります。
 二つ目の謎「高ジャツポ」は山高帽子のことです。帽子を指すシャッポという言葉も死語に近くなってしまいました。
 ボンポロリンは私たちはボンヤーリと言いました。ボンヤリと同義でしょうか。一本槍ともとれますが。
 クロバトキンが出て来る歌はもう一つ、手鞠歌があります。

 “いちれつ談判破裂して
  日露戦争始まった
  さっさと逃げるは露西亜の兵
  死んでもつくすは日本の兵
  五万の兵を引き連れて
  六人残して皆殺し
  七月八日の戟いに
  ハルビンまでも攻め行って
  クロバトキンの首をとり
  東郷大将万々歳
    ばんばんざーい”

 これを次のような替え歌にしました。

 “いちれつ院長さんの禿頭
  新高ドロップおいしいな”

 あとは忘れてしまいました。

 「汽車」の替え歌は次のように記憶しています。

 “今は夜中の三時頃
  でこぼこ親父が夢を見て
  寝床と便所を間違えて
  あっという間に寝小便”

 おっしゃるように馬鹿馬鹿しい歌ですがこれも文化だと思います。いや、子供の遊びの中にこういう歌が無くなったのが今の庶民文化の衰退であり、子供達の学力低下につながるのではないでしょうか。こういうものが文学的になったのが江戸狂歌であり、更に高尚なのが掛詞であり、もっと奥深いのが万葉の枕詞ではないでしょうか。
 駄酒落を聞いて「やあね。また親父ギャグ。」なんて言っている母親では文化的教養のある子供は育ちません。子供達の学力低下についても、ただ五日制が悪いなどと言っていないで、日常の遊びの中や、大人達なら茶飲みの場での他愛のない馬鹿話の中からいかに文化を育てて行くかを考えて行かなければならない時期ではないでしょうか。

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地震、地震、地震〜その3  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 その夜、布団に入る前に家人がソックスを脱ごうとしてはじめて気がつき、びっくりしました。
「あれ、足がずっと濡れていると思っていたら、血だったんだわ。」
『あら、痛い。』とは申しませんでしたが、手にかかげた白いソックス
の足裏部分が赤黒く見えました。
 入浴中に被災した家人は『着のみ着のまま』どころか『裸一貫』でした。停電で真っ暗な闇の中、風呂場のドアを開ければ、なにかが洗面所の通路を半分塞いでいました。その下を必死でくぐりぬけ、手さぐりで着替をつかみ、階段を上って二階でジャケットを取り出しながら、落ちて割れた硝子やCDケース等で足を切ったもようです。とにかく逃げるのに無我夢中で痛みを感じる間もなかったようなのです。
「消毒してガーゼ鮮創膏を貼ればいいよね?」と言いつつ、片足は例のサビオでミイラ男の足裏状態。見れば反対の足底にも数えきれない切創がありますが、さいわい深くはなさそうです。
「傷は浅いぞ、しっかりしろ。でもこれで止血できないと縫合だね。」
「だいじょーぶ、この程度で救急外来になんか受診しちゃ、重症なひとに申し訳ないよ。」
 ふーむ、我が妻ながらなかなかしっかり者の発言であるなあとその場では思わず感心しました。あとで考えると、日頃から薬や注射が大嫌いな女性ですから、その真意のほどは不明であります。
 翌朝はせつないほどの秋晴れ。
 わたしは避難時のままのジャージー姿で勤務先病院へ出勤。顔を合わせた同僚と無事を喜び合いながら、上に白衣をはおり病棟回診。そのさなかにも数回の余震がありました。
 午後は家人と高町の自宅を見に行きました。道路のあちこちがひび割れ、陥没や隆起などがあり、交通信号は点灯していません。大地震直後の日曜日で交通量も少なく、お互いに実に紳士的に譲り合って運行している状況でした。この震災では大被害を受けた住宅地に、なんとか車でたどり着けました。
 玄関横に風除室の重い大きな硝子戸が一枚吹っ飛んで転がっていました。奇跡のように硝子が割れていませんが、家人はこれも闇の中で飛び越えたらしいです。
 ドアは無事に開きました。下駄箱の上の小型水槽が落ちる寸前で、こぼれて水量は半分。居間の大型水槽は壁面硝子が割れ全面洪水状態でした。そばの絨毯、座布団や本類がすでに一晩で水を吸い込んでふくれあがっていました。
 水草水槽が壊れての『ミニ水害』。百匹近いメダカは乾燥して全滅、すでにチリメンジャコ状態。後日談では、この状況が一部の親戚に「地震で(水槽でなく)水道が壊れて家は壊滅状態。」と誤って伝わっていたとか。
 さて問題のお風呂場は、地震の激しさを物語るように、壁タイルが落ち、浴槽もひび入り、タイル床も一部が亀裂し床下がのぞいていました。とくに着替えの洗面所は壁面から外れて落ちた大きな鏡のボードが腰の高さで真横にはまり込み、びくともしない状況でした。昨夜地震の直後のまっ暗闇を、家人が手探りでくぐり抜けて逃げ出したことを考えると、まさに奇跡の脱出劇です。
「奥様は魔女のよう。」
「今後は『マダム天功』と呼んでくださる?」

(その4へ続きます)

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