長岡市医師会たより No.298 2005.1
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表紙絵 「待春(大川原)」 丸岡 稔(丸岡医院)
「年頭のご挨拶」 会長 齋藤 良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)
「新春を詠む」
「開業して一年が経過して」 奥川 敬祥(おくがわ小児クリニック)
「八百枝先生。お節介ですが謎を解きましょう。」
中山 康夫(南魚沼郡医師会:中山医院)
「地震、地震、地震〜その3」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
たまゆらの大冬晴や初スキー 渡辺修作
初夢のドアいつまでも開かざる 荒井紫江
すさまじき地震かくして雪が降る 十見定雄
語り継ぐ地震のひと夜年酒汲む 伊藤 洸
ひびわれの壁しらじらと初昔 郡司哲己
このたび恒例?とのことで「開業して一年が経過して」という題目で「ぼん・じゆ〜る」に寄稿するようにとの依頼がありました。これまで私は平成元年に大学を卒業し、以来15年問同大学での診療、研究、関連病院での小児科診療に携わってきました。そして平成15年10月、古正寺町に小児科医院を開業しました。開業して一年間はあっという問に過ぎました。勤務医時代には想像もしなかった多くの新しい経験もありました。一つの医院を開設し、これを営んでいくには楽しいことばかりではありませんでした。それなりに壁に突き当たったり、思い悩んだり、無理をしたりしなければならないこともあったように思います。銀行との交渉では、中小企業の悲哀?のような経験もありました。ある雑誌の記事に、開業医の一番の悩みは従業員の人間関係だと書いてありました。私自身は明るくて、伸のよい、良き従業員に恵まれたと感じていますが、……時にはやはり経営者というものは孤独なものだなと感じるときもあります。開業してこの一年間を振り返って、……徒然なるままに書き進めてみます。
開業してみて当然のことながら、勤務医時代とはまったく違う日常が待っていました。勤務医時代と一番変化したことは何か?と考えてみると、それはちょっとしたことですが、あらためて自分という人間と向き合う機会が多くなったことではないかと思います。自分自身を感じるようになったのは、勤務医時代とは違い、個人での単独行動が多くなったからというのがもちろん一番の大きな理由だとは思いますが……ほかにも少し原因があるようです。過去15年間の小児科医生活の中で医学書や論文はもちろんたくさん読みましたが、個人的な読書という点では、わずか20冊程の読書量というありさまでした。それがこの開業医生活一年間とちょっとで約250冊以上の本を読む機会に恵まれました。経費でも本を買えるようになった?こともひとつの理由かもしれません。内容は、純文学・美術・芸術・科学に関する本から紀行・経済・金融関連の本までさまざまです。色々なことに興味が湧くということは、それだけ自分自身を見つめ直す気持ちが湧いてきたことのひとつの現われだという気がします。おそらく勤務医時代には自分を見つめる余裕がなく、それだけ非人間的な日常を送っていたのかもしれません。
診療に関して大きく変化したことは、やはり入院患者さんの診療がもはやないということです。今あらためて思うと入院患者さんの診療は、私個人にとって大きな意味合いを持っていたように思います。入院する子どもたちはそれだけ具合が悪く、その家族にとっても大変つらい状況です。小児科医の私にとっても患者さんの容態はいつも気になっていて、病院勤務医時代にはいくつもの眠れない日々を渦ごしました。寝るときもトイレや風呂に入るときもポケベル・携帯電話が離せない生活でした。それだけに子どもたちが元気になって退院していくのは大変喜ばしいことでした。今の仕事では外来診療がほとんどですから、病棟回診という言葉が妙に懐かしく感じられます(久しぶりに回診がしてみたいなと感じるこの頃です)。もちろん今でも、外来で多くの患者さんたちとの暖かい出逢いがあります。また、診療している患者さんの数だけみれば、おそらく病院時代よりもその数は多いと思いますが、患者さんとのお付き合いは、何か少しあっさりとしてしまった感じがしています。そういえば今年の年賀状は以前の病院時代の患者さんからのものが大半でした。
最近もうひとつ変化したことは、診療にワイヤレスマイクを使い始めたことです。泣いてしまう子どもよりも大きな声で一日中しやべり続けていると夕方には声が枯れてしまうので、子どもが泣き始めたら、密かにマイクのスイッチをオンにしています。病院時代には考えもしなかったことです。もうひとつ、お店(たとえばコンビニエンスストアなど)に入ると、どの人が経営者なのかすぐにわかるようになりました。
病院小児科医時代、30代後半になって何か世の中のことがわかったような気になっていたように思います。昨年41歳になりましたが、まだまだ新しく学びたいことや、やってみたいことがたくさん出てきた一年間でした。これからも新しいことに挑戦していきたいと思います。開院してわずか一年です。どうぞみなさんよろしくお願いいたします。
中山康夫(南魚沼郡医師会:中山医院)
先生の文(注:本会報11月号)を懐かしく拝読いたしました。私もこの歌は子供の頃よく歌いましたよ。祖父に教えてもらったのです。
“陸軍の・乃木さんが・凱旋す・雀・目白・露西亜・野蛮国・クロバトキン・金玉・マカーロフ・禅・締めた高ジャツポ・ポンヤリ・陸軍の……”といつまでも続きます。また、尻取りの共通音を繰り返さない早口に言う言い方もしました。
“りくぐんのぎさんがいせんすずめじろしやばんこくろばときんたまかろーふんどしめたかじゃっぽんやくりぐんのぎさんが……”
さて、クロバトキンは露西亜の軍人(1848〜1921)で、陸軍大臣でしたが日露戦争の時は満州の
露西亜軍総司令官に命じられました。しかし、敗戦の責任を問われて左遷されました。
「謎」の一つ。マ一口ーフは正しくはマカーロフです。もっとも私たちもマカローフと発音していましたが。露西亜の提督で、日露戦争では露西亜太平洋艦隊司令長官でした。旗艦「ペテロパウロフスク」が旅順港外で敷設水雷に触れて沈没したのと運命を共にしました。なお、サハリン東海岸に同じ名前の港湾都市があります。
二つ目の謎「高ジャツポ」は山高帽子のことです。帽子を指すシャッポという言葉も死語に近くなってしまいました。
ボンポロリンは私たちはボンヤーリと言いました。ボンヤリと同義でしょうか。一本槍ともとれますが。
クロバトキンが出て来る歌はもう一つ、手鞠歌があります。
“いちれつ談判破裂して
日露戦争始まった
さっさと逃げるは露西亜の兵
死んでもつくすは日本の兵
五万の兵を引き連れて
六人残して皆殺し
七月八日の戟いに
ハルビンまでも攻め行って
クロバトキンの首をとり
東郷大将万々歳
ばんばんざーい”
これを次のような替え歌にしました。
“いちれつ院長さんの禿頭
新高ドロップおいしいな”
あとは忘れてしまいました。
「汽車」の替え歌は次のように記憶しています。
“今は夜中の三時頃
でこぼこ親父が夢を見て
寝床と便所を間違えて
あっという間に寝小便”
おっしゃるように馬鹿馬鹿しい歌ですがこれも文化だと思います。いや、子供の遊びの中にこういう歌が無くなったのが今の庶民文化の衰退であり、子供達の学力低下につながるのではないでしょうか。こういうものが文学的になったのが江戸狂歌であり、更に高尚なのが掛詞であり、もっと奥深いのが万葉の枕詞ではないでしょうか。
駄酒落を聞いて「やあね。また親父ギャグ。」なんて言っている母親では文化的教養のある子供は育ちません。子供達の学力低下についても、ただ五日制が悪いなどと言っていないで、日常の遊びの中や、大人達なら茶飲みの場での他愛のない馬鹿話の中からいかに文化を育てて行くかを考えて行かなければならない時期ではないでしょうか。
その夜、布団に入る前に家人がソックスを脱ごうとしてはじめて気がつき、びっくりしました。
「あれ、足がずっと濡れていると思っていたら、血だったんだわ。」
『あら、痛い。』とは申しませんでしたが、手にかかげた白いソックス
の足裏部分が赤黒く見えました。
入浴中に被災した家人は『着のみ着のまま』どころか『裸一貫』でした。停電で真っ暗な闇の中、風呂場のドアを開ければ、なにかが洗面所の通路を半分塞いでいました。その下を必死でくぐりぬけ、手さぐりで着替をつかみ、階段を上って二階でジャケットを取り出しながら、落ちて割れた硝子やCDケース等で足を切ったもようです。とにかく逃げるのに無我夢中で痛みを感じる間もなかったようなのです。
「消毒してガーゼ鮮創膏を貼ればいいよね?」と言いつつ、片足は例のサビオでミイラ男の足裏状態。見れば反対の足底にも数えきれない切創がありますが、さいわい深くはなさそうです。
「傷は浅いぞ、しっかりしろ。でもこれで止血できないと縫合だね。」
「だいじょーぶ、この程度で救急外来になんか受診しちゃ、重症なひとに申し訳ないよ。」
ふーむ、我が妻ながらなかなかしっかり者の発言であるなあとその場では思わず感心しました。あとで考えると、日頃から薬や注射が大嫌いな女性ですから、その真意のほどは不明であります。
翌朝はせつないほどの秋晴れ。
わたしは避難時のままのジャージー姿で勤務先病院へ出勤。顔を合わせた同僚と無事を喜び合いながら、上に白衣をはおり病棟回診。そのさなかにも数回の余震がありました。
午後は家人と高町の自宅を見に行きました。道路のあちこちがひび割れ、陥没や隆起などがあり、交通信号は点灯していません。大地震直後の日曜日で交通量も少なく、お互いに実に紳士的に譲り合って運行している状況でした。この震災では大被害を受けた住宅地に、なんとか車でたどり着けました。
玄関横に風除室の重い大きな硝子戸が一枚吹っ飛んで転がっていました。奇跡のように硝子が割れていませんが、家人はこれも闇の中で飛び越えたらしいです。
ドアは無事に開きました。下駄箱の上の小型水槽が落ちる寸前で、こぼれて水量は半分。居間の大型水槽は壁面硝子が割れ全面洪水状態でした。そばの絨毯、座布団や本類がすでに一晩で水を吸い込んでふくれあがっていました。
水草水槽が壊れての『ミニ水害』。百匹近いメダカは乾燥して全滅、すでにチリメンジャコ状態。後日談では、この状況が一部の親戚に「地震で(水槽でなく)水道が壊れて家は壊滅状態。」と誤って伝わっていたとか。
さて問題のお風呂場は、地震の激しさを物語るように、壁タイルが落ち、浴槽もひび入り、タイル床も一部が亀裂し床下がのぞいていました。とくに着替えの洗面所は壁面から外れて落ちた大きな鏡のボードが腰の高さで真横にはまり込み、びくともしない状況でした。昨夜地震の直後のまっ暗闇を、家人が手探りでくぐり抜けて逃げ出したことを考えると、まさに奇跡の脱出劇です。
「奥様は魔女のよう。」
「今後は『マダム天功』と呼んでくださる?」
(その4へ続きます)