長岡市医師会たより No.299 2005.2

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もくじ

 表紙絵 「越路橋辺り」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「地震、プレハブでの診療」  中島  滋(中島内科医院)
 「新年ボウリング大会優勝記」 窪田  久(窪田医院)
 「新年麻雀大会優勝記」    富所  隆(長岡中央綜合病院)
 「新年囲碁大会優勝記」    斎藤 昌志(三条市医師会:さいとう小児科)
 「長岡赤十字病院の登録医制度と施設の協同利用について
                武田 啓治(長岡赤十字病院)
 「地震、地震、地震〜その4」   郡司 哲己(長岡中央綜合病院)



越路橋辺り   丸岡 稔(丸岡医院)


地震、プレハブでの診療  中島 滋(中島内科医院)

 黒みがかかった不気味な赤い不整形の雲が瞬く間に塀の陰に消えました。地震雲だったようです。
 土曜日午後の講演会に出席したあと、市内の銭湯温泉で疲れを癒していました。
 入浴を終え着替えていると激しい揺れに襲われました。
 脱衣所では落ちたり割れたりするものはなく、家に居られた人々のような強い衝撃を受けなかったことは不幸中の幸いでした。
 2度目の激震のあとクルマで帰宅の途中に3回目の強い揺れにあいましたが、心配していた途中の橋もスムースに通過、自宅の車庫に入ろうとして駐車スペースに避難していた隣人にストップをかけられました。
 暗くて見えなかったが最大30センチ位の段差と亀裂がはしり、車庫の床も激しく破壊されていてようやく被害の大きさを実感しました。
 2階に上がると家具類はすべて倒れ、食器類が散乱していて廊下も歩けず、急いでセーター、アノラックを着込んで外に出ました。
 とりあえず車のなかで一晩過ごそうかと考えましたが、お隣の境界でガスが漏れていて、エンジンを切るよう注意されました。
 駐車場に避難していた近所の方々は歩く気力がないと言われて、家内と二人歩いて避難所に行き、入り口で夢遊病者のように歩いている患者さんに出会い、体育館に避難されたというご主人のところまで同行しました。
 医務室には避難された中から3人の看護師さんがすでにおられ、軽い傷や打撲、やけどの手当をしましたが、水は出ないしガーゼ類も少なく、湿布は小さく切って使用する有様で、家庭の常備薬にも負けていると感じました。
 10時を過ぎてダオニール、メルビン各2錠、漢方3種類を飲む時間だからと水を求めて老婆が来られました。食事をとっていないからといっても納得されず、ようやくダオニール半錠だけと折り合いをつけていただきました。
 この間も廊下の窓ガラスが頻繁に音を立てていましたが、不思議と恐怖感はありません。
 11時過ぎて、「こちらのほうは落ちついたから」と市の職員らしき人の指示で小学校に移動しましたが、体育館では明かりは大きめのスタンド2個と1台のテレビだけ、市の職員らしき若い2人の女性に来意を告げたが、救護室も立ち上がっていないようで、その後全く連絡がありませんでした。
 体育館はすきま風が冷たく、テレビで各地の報道を続けていますが見る気分になれず、一睡も出来ずに寒い朝を迎えました。
 早々に帰宅して、二階の整理を始めましたが、頻繁に診療室の電話のベルが鳴りました。5台ある受話器のうち災害時優先とされた外来受付の電話だけが受信可能で、そのたびに二階から急いで降りますが間に合わずに切れてしまうことが再三で、多くの方に更なる心配をおかけしたようでした。
 受信はできるが発信はできないじつに不自由な機械で、通電回復まで続きました。
 混乱のさなかに被害金額を業者の見積もりではなく、自己判断で2時まで報告するようにと行政から電話がありましたが、おおよその金額さえ見当がつかず困惑しましたし、集計の意義や確度に疑問がありました。
 外来の床は前後方向に中央部全体が20センチほど盛り上がり、カルテなどが散乱し、心電図のキャスターが5センチ位の縦方向の割れ目にはまっていました。
 大工さんに「この建物は使用できない」といわれて目の前真っ暗、頭は真っ白になりましたが、間もなく駆けつけてくれたゴルフでライバルの建設関係のM社長の「外壁、基礎は大丈夫、床を張り直せばよい、自分がすべて手配する」との言葉で気力を盛り返しました。
 月曜から駐車場の整地が始まって玄関からスムースに出入りできるようになり、近所の空き地に建てるプレハブ、簡易トイレ、床の張り替え工事など混乱のなかで神業のようにすばやく手配されました。
 床が傾斜していて、診療しているとキャスター付きの椅子が患者さんから離れるので、血圧測定やカルテ記載(書き)は机につかまっての作業でした。
 傾斜はわずかだが徐々に強くなり、1日も早い工事の着工を祈っていました。
 11月6日、ライフラインが整い、午前の診療後、プレハブに引っ越し、8日から自宅の修復とプレハブでの診療が始まりました。
 ヒトが出入りしたり、車が外を走るたびに余震と間違うような音と揺れがあり、雨音で電話は聞こえなくなります。
 ようやく血糖測定、点滴、予防注射などが可能になりましたが、工事中の医院の玄関に来られてそのまま帰られる患者さんがおられ、「中島医院はやっていない」という風評が長い間周囲に流れたようで、とくに午後は人通りも少なく極端にヒマになりました。
 外来では時間は十分あるのに、本や書類に日を通す気力、集中力がだんだんとなくなりました。
 また、調剤薬局が崩壊、撤退して患者さんともども12月末まで長い苦労が続くことになりました。
 医院の修復は周りの人が驚くほどのスピードで進んで、寒くて不便なプレハブでの診療はほぼ1ケ月で終りましたが、自宅診療に戻った直後、昨日までのことは夢だったかと一瞬錯覚したり、記憶が欠落していることがありました。
 診療室の床は今までよりも20センチほど上がり天井が数センチ下がって、身長が少し伸びたような違和感をしばらく感じました。
 中沢地区は被害がもっとも大きかった地域のひとつで、年が明けてからも町内では取り壊しが進んでいて市内外に転居する家庭が少なくなく、紹介状もかなり書きました。
 1週間学校に避難しましたが、行政やボランテアの方々などの力で、食事やトイレなどに不自由することもなく感謝するばかりでしたが、それらの人々と避難したヒトと識別するものがなく不便を感じました。
 「医院がなくならずほっとした」「医院が早く、きれいになってよかった」などと受診する患者さんが一様に喜んでくださることに励まされる日々でした。

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新年ボウリング大会優勝記〜さよならアルピコボウル

窪田 久(窪田医院) 

 1月17日、恒例の新年ボウリング大会が11人の参加者により、サウンドボウル見附で行われました。
 30年以上にわたり、医師会のボウリング大会が毎月行われてきたアルピコ長岡が、昨年の震災の被害により閉鎖されたため、今年からは、奇数月はサウンドボウル見附で、偶数月は喜多町の遊ボウルで行うことに決まりました。
 震災以前は、車で5分のアルピコ長岡で、連日汗びっしょりになるまで練習していましたが、震災後は川向こうの遊ボウル、サウンドボウル見附、アルピコ柏崎の3カ所で週3回程度練習しています。昨年と一昨年は連続優勝を飾った私ですが、今年はハンディキャップもゼロとなり、練習量も減ったため、今年の優勝は厳しいだろうと覚悟していました。
 1ゲーム目226点、2ゲーム目は211点と予想外の好調な出だし、3ゲーム日は187点と小休止しましたが、最後の4ゲーム日は257点と爆発し、優勝とハイゲーム賞を頂くことができました。しかし、他の先生方のレーンでマシンの度重なるトラブルがあり、ゲームが順調に進まず、実力を出せなかった先生方には誠に申し訳なく思っています。また、アルピコ長岡ならこんなことにはならなかったのにと残念に思っていました。
 アルピコ長岡は昨年10月23日の地震のために天井が破損し、スプリンクラーが作動したため、レーンが水浸しになり、大きなダメージを負いました。外からみたところ、大きな被害はなさそうでしたので、いずれ修復し、営業再開するだろうと思っていましたが、アルピコグループは今までの経営状況も考慮し、再建を断念しました。
 実は地震の当日も私は午後5時40分ころまでアルピコ長岡でボウリングの練習をしていました。そして、ボウリング場をあとにして5分もたたないうち、家までの車中で、あの地震に見舞われました。あと1ゲーム練習していたら、天井から1トンもの水が巻き散らかされる悲惨な場面に遭遇するところでした。私は最後の最後までアルピコ長岡で投げていた数少ない客の一人なのです。
 アルピコ長岡は、多くのボウリング愛好家の憩いの場でした。月に10回ほどあるセンター大会には毎回4、50人の参加者が集まり、会員数の多さでは県内有数のセンターでした。大会の時には参加している人たちだけでなく、後ろで応援したり、ボウリング談義に花を咲かせたりしている人たちも多く、スポーツの場としてだけでなく、社交の場として、会員の皆さんの生活に深く関わっていたと思います。
 また、アプローチやレーンもよく整備されており、非常に投げやすく、
点の出しやすいレーンでした。
 子供の頃、父に連れられ、初めてボウリングを楽しんだのもこのボウリング場(当時は松電長岡中央ボウルの名称)。平成13年2月にマイボールを買って以来、本格的にスポーツボウリングを始めたのもこのボウリング場。そして多くの人たちから、たくさんの教えを受け、多いときには月間200ゲームも投球し、ボウリングの基礎ができたのもこのボウリング場でした。このボウリング場がなかったら、私のアフターファイブは全く違っていたことでしょう。
 平成17年には、全日本ボウリング協会に加盟して、大きな大会にも参加し始めようかと意気込んでいたのですが、思い出探いこのボウリング場の閉鎖というショックな出来事で、少し弱気になっています。
 できれば、私のボウリングに対する情熱が消えてしまわないうちに、アルピコ長岡のようなすばらしいボウリング場が長岡市に再建されることを心から期待しています。また、交通が不便になってしまいましたが、このようなときだからこそ、みんなで長岡メディカルボウリングクラブを盛り上げていきたいと思います。

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新年麻雀大会優勝記  富所 隆(長岡中央綜合病院)

 去る2月5日(土)に殿町の雀荘しらかばにて医師会主催の麻雀大会が開催されました。出席者は10名と少なかったのですが、MRの方にも加わってもらい3卓で1時間ずつ計3回の試合を行い勝敗を決しました。1、2回戦はランダムに組み合わせを決め、3回戦はそれまでの得点上位者が対戦するというルールでした。
 前任の鈴木丈吉先生から幹事を仰せつかって4年目にして漸く優勝することが出来ました。特別大きな役を上がったわけではありませんが、大きな振り込みも無く、幸運にも3回ともトップを取ることが出来ました。
 麻雀は運が7割、実力が3割の格闘技で(徹マンなどするとただひたすら体力勝負になります)“勝つも負けるも時の運”的な要素があります。ただ毎回牌をつもる度にどれを捨てるか頭を悩ますところが、とっても知的な雰囲気を醸し出します。相手の性格、その場の雰囲気、自らの持つその日の運気など迷い始めると際限がありません。高齢者の呆け防止にも非常に有益で、麻雀をレクリエーションに取り入れている介護施設もあるように聞いています。
 麻雀というと賭博・煙草・不健康という悪いイメージが付きものですが、最近都会では女性の愛好家が増えてきて、お金をかけない・禁煙などを売り物にした女性専用の雀荘も出現しており、初心者のためのカルチャー教室も盛んに開催されているということです。知的なコミュニケーションのスキルとして再認識されてきているようです。
 小生が麻雀を始めたのは高校1年生の時で、麻雀歴は、早30数年になります。当時三条高校の直ぐ脇にあったラーメン屋さんの2階に麻雀のセットが置いてあり、溜まり場になっておりました。土曜の午後は決まって、味噌ラーメンを頼んで2階に上がるのが習慣でした。その後大学でも、医者になってからも結構麻雀を知っている仲間がおり、ずっと続けてくることが出来ました。もっとも最近は年に数回やる程度ですが。
 麻雀の唯一の欠点は4人揃わないと遊べないことで、最近は暇な人間を4人もそろえるのは容易なことではありません。近頃の若い人には他に興味の対象が広がってしまい、麻雀の様なマイナーなゲームを知る人が極端に減ってしまいました。昭和の時代には中央病院の麻雀人口はかなり高く、泌尿器科の武田正雄先生が会長職を長く努められていた麻雀部の総会などは70〜80名の雀士が参加して、盛大に大会が催されていました。その頃、中央病院の医師当直室には麻雀卓が設置してあり、当直になると他に4人のメンバーを集め5人で当直をするのが習わしでした。二抜けと言い、前の試合で2位になった人がゲームから外れ、急患の診療にあたります。いろんな専門分野の医者が夜遅くまで当直室で待機していますので、どんな急患にも対応でき、心強さは例えようもありません。ただ下手をすると、当直料をすべて巻き上げられる危険をはらんでいることが問題でした。
 さて、昨年は水害・地震と大変な年でした。今年も新年から大雪のスタートとなりました。今回の優勝にいつまでも浮かれていないで、気を引き締めて一年間頑張ろうと思っています。
 最後に他の参加された先生方には無断で成績表※を掲載致します。(原稿を書くスペースがたくさん与えられて困ったので)。紙面を借りてご了解をお願い致します。
 また小生が優勝して幹事を退任できることになり、次回から幹事を務めてくれることになった高橋暁先生に感謝の意を表し挨拶を終わらせて頂きます。参加された皆様ありがとうございました。

※注)成績表の掲載はここでは省略しました。

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努力で越せる山はあれど〜新年囲碁大会優勝記

斎藤昌志(三条市医師会:さいとう小児科)

 大学入学から数えて三十年以上、飽くことなく続けてきた趣味が囲碁である。大学時代は囲碁部にも入ったが、盤外の酒の腕が上がるばかりで、肝心の棋力の方はさっばり伸びなかった。卒業後も、医業の傍らコツコツと努力を積み重ね、十年ほど前にようやく五段の免状を取得することができた。囲碁部出身としてはとりあえず一息つけた気がしたが、それからというもの、棋力は停滞気味である。
 もうかれこれ十数年前から、長岡市医師会の先生たちに混じり、月に一度プロ棋士の指導を受けている。そんなご緑から、今回、長岡市医師会新年囲碁大会に誘われて出場することになった。
 負け碁を逆転で拾うこと数局、斎藤古志先生との3戦全勝同士のプレーオフまで漕ぎつけ、そこでも運良く勝ちを収めることができた。少人数の大会とはいえ優勝できたことはとても嬉しかったが、後で優勝者には優勝旗ならぬ優勝記のノルマがあると聞かされ、喜びもつかの間、締め切りに追われて苦しむこととなった。
 これがゴルフだと、プレーの一端を披露しながら同伴者へ上手に礼を述べ、次回に向けての決意を語って「優勝者の弁」とするところだが、囲碁の場合、ギャラリーに碁盤なしで説明するのは至難の技だし、同伴者はすなわち敗者であり、礼を言われても忸怩たるものがおありだろう。また、次回の参加も未定とあっては、さて何を書こうか、次の一手が見えてこない。
 悩んだ揚げ句、小児科医には僭越ながら、囲碁と左脳・右脳の働きについて、思うところを書いてみることにした。
 私ごときの考察だけでは説得力に欠けるので、ちょっと養老孟司先生の著書から知識を拝借する。報道ステーションの古館伊知郎氏との対談集「記憶がウソをつくー」余裕(扶桑社)
の中で、養老先生は次のようなこと
を仰っている。
 人間の五感すなわち、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚は、その働きから二つのグループに分けることができる。視覚には文字で、聴覚には音声で、触覚には点字で、それぞれ言語化して情報伝達が可能であるが、味覚や嗅覚については、言葉での情
報伝達ができない。視覚・聴覚・触覚は、その情報が言語化できることからほとんどが大脳新皮質へ送られ、言語化できない味覚・嗅覚は、情報の半分が大脳新皮質、残りの半分が大脳辺縁系へ送られるのだという。大脳辺縁系は情動を司る古い脳で、この古い脳に働きかける情報は、時間の経過によって減衰しにくい、つまり長く記憶として残る。例として、「おふくろの味」とか「故郷の匂い」を挙げていた。
 そこからさらに右脳と左脳の話に進む。人間の左脳はもっばら情報を言語に統合して処理するのに長けていて、右脳のほうは逆に、情報をその人力経路に従って、視覚は見たまま、聴覚は聞いたままというふうに、言語化のフィルターにかけることなく独立処理するようにできているのだそうだ。
 そこで、囲碁との関連だが、棋力には覚え始めた年齢が大きく影響するといわれる。タイトルこそ手にしていないが、私たちが指導碁を教
わっている中堅プロも、天賦の才能と不断の努力の結果、若くして棋士となった超エリートである。局後の手直しをして貰いながら私がいつも感心するのは、鋭い手筋やヨセの正確さもさることながら、勝負の行方を常に盤面全体で捉える大局観である。プロ棋士は、きっと我々よりも右脳がよく働いているに違いない。一目惚れという言葉がある。それと同様、プロのいう「ひとめ」も、まずは直感的な閃きが答を出し、理屈は後からついてくるものらしい。我々は、左脳でその理屈を納得できても、閃きのほうは、右脳が空回りして、「ヨク身ニツク」ところまでいかない。理屈の山は努力次第で越せるかもしれないが、直感的な閃きは、きっと、我々にとって「越すに越されぬ大井川」になっているのだろう。

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長岡赤十字病院の登録医制度と施設の共同利用について

武田啓治(長岡赤十字病院) 

 このたび当院は登録医制度と共同利用事業を3月1日から開始するにあたり、医師会の皆様に御案内を差し上げたばかりでございます。医師会会員の皆様に今まで以上に当院をご利用をいただきたく、「ぼん・じゅ〜る」の誌面をお借りして御説明申し上げます。
 登録医制度は当院が作成した地域医療機関等連携推進要領に基づく登録制度です。当院に登録された方に当院の種々の施設を共同利用に提供し、地域の皆様のお役に立つようにしたいとの考えによるものです。登録医は医師と歯科医師が該当いたします。
 施設の共同利用には4種類があります。病床、医療器械、会議室・講堂・図書室・視聴覚器械、研修研究会活動です。
 病床は2床を提供いたします。共同診療主治医として入院カルテに記載し、患者様入院中はたびたび御来院いただき、当院主治医と診療を行い、主治医各々カルテヘ記載・サインを行います。御来院の際はまず2階の事務棟の病診連携室にお出で下さい。白衣・名札の用意、病棟までの御案内を行います。休日・時間外の場合は看護部(病診連携室並び)にお立ち寄り下さい。
 当院の共同診療病床は医師法に定められた共同利用を目指すものであり、保険診療による解放型病床とは異なります。従いまして共同診療に御来院いただきましても、登録医はレセプト請求ができません。この点が開放型病床と一番違う点ですので御承知おき下さるようお願い申し上げます。
 提供する病床が2床では少ないとの御意見もあろうかと思いますが、新潟市民病院も2床ですし、当院の入院待ち数や病床稼働率から考えますと、現状では2床が限度かと考えております。共同診療病床は緊急用ではございませんので、緊急入院を要するものは紹介状で受診させて下さるようお願いいたします。
 医療器械の共同利用は御案内いたしました文書の共同利用の細則第3条に載せてあります10種類です。CT、MRI、シンチグラム、骨塩定量、内視鏡 (上部消化管)、心エコウ、ホルター心電図、聴性誘発反応検査、尿流量検査、網膜電位図・蛍光眼底撮影になります。これ以外のものでも御要望があれば病診連携室に連絡いただければ検討させていただきます。
 検査項目は検査結果を読影するものに限らせていただきました。読影をしないで検査データをお渡しする方法も保険診療にございます。この場合、検査に係わる指示と患者様への説明を御依頼医にしていただくことになり、相互の手続きが甚だ面倒になることがわかりました。そのため読影するものに限らせていただきました。従って検査にかかった費用は初・再診料も含めて当院からレセプト請求いたしますので御了承下さい。
 検査は検査のみで患者様の診療は行いません。診察も御希望の場合は紹介状で受診させて下さるようお願いいたします。医療器械の共同利用は検査の予約枠を使って行いますので、緊急例は共同利用の対象外となります。その場合は紹介状で受診させて下さるようお願い申し上げます。
 会議室・講堂・図書室・視聴覚器械については、御利用したい時は病診連携室にお申し込みください。当院庶務課と日程調整や手続きをとっていただくことになります。御利用者全員が登録されている必要はございません。お一人でも登録されてる方がおられればその方の御名前で申し込んで下さい。当院の職員がおれば職員の名前で申し込んでいただければよろしいかと思います。
 研修研究会活動は研修研究会活動の第2条に記載してありますように、利用対象者は全ての医療従事者になります。登録者・非登録者を問わず利用可能ということになります。オープンする会の時は御案内を差し上げますので、その時は職種を問わず自由に御参加いただければ幸に存じます。
 最後になりますが、今まで以上に当院を開放して地域医療に貢献したい所存ですので、是非とも御登録いただきまして御利用下さるようお願い申し上げます。

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地震、地震、地震〜その4  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「あーあ、みんな割れちゃった。」大きなため息が台所の片づけに取りかかった家人の口からもれました。ふたりで二十数年前に旅先で買った思い出のベネチアグラス。ロンドン本店で手にとり選んだウェッジウッドの茶器セット。なぜか函館でお土産にしたバカラのワイングラス。こんなものが倒れかけた食器棚からすべて投げ出され割れていました。日頃からふだん使いで出しやすい、結果的には落ちやすいところに収納してあったからでした。
「“形あるものはすべて滅ぶ”と昔から言うじやない。夕べの地震で命が無事だっただけよかったさ。この家もさしあたりはつぶれなかったんだし。」と慰めるわたし。
「危ないから、まずこの割れた食器、お皿の類だけ片づけてしまおうよ。」
 力なく返事した家人。その後山ほ
どの割れ物をちり取りですくっては段ボールの箱に投げ込み、片づけながらだんだん気持の整理ができたようです。地震翌日の家の中はどこもかしこもめちゃくちゃ。片づけは最低限にしてミニ水害の居間と台所の割れ物だけでやめました。帰途の車中で家人がぽつりと言いました。
「割れたカップやお皿の残骸を思い切り捨てたら、気分がさっぱりしたわ。もうわたしなんにもモノなんか欲しくないわ。」
 突然に物欲から解脱して、ある種悟りの境地に達したようでもありました。はてさて…。
 以前友達の家族が遊びに来たときでした。幼稚園児のかおりちゃんがあちこちにいる「室内柴犬」の親子三匹に目を丸くしてカタマリながら言った言葉。
「かおり、ワンちゃんなんかこわくないもん。」…なるほどこわいんだね、ほんとは
「ティーセットやグラスなんかもう欲しくないわ。」…ふーん、ほんと?
 避難先のW家は被害が少なく、お風呂、暖房、暖かい食事あり。テレビ報道のいわゆる避難所生活に比べれば天国でした。わたしも勤務先より夕方は定刻に帰らせてもらい、余震が頻発するなか、なるべく家人のそばにいるようにしました。
 避難生活では買い物、食器洗い、ゴミ出し等の家事の手伝いをしました。地震に備えジャージー姿で勤務病院そばのスーパーH福住店に立ち寄ると、患者さんのご家族によくあいさつされました。被災数日後に初めて行ったこのお店。食料品が豊富で、被災環境とはまるで別世界なので驚きました。思わず興奮して、おさしみやお肉などあれこれ買って帰りました。その日の食卓ではW家の長男は「おじさん、ウチでは地震のおかげで、これは日頃よりずっとリッチな夕食だよ。」と赤ワインを飲みながらにっこりしました。
 柴犬“ゆめ”は十二歳でヒトにすればすでに初老。地震後は家の中に入ることが怖いらしくていやがりました。やむなくW家では庭先に駐車した家人の車の中で、毛布にくるまり日がな暮らしておりました。二週間ほどでやっとわれわれと一緒に部屋の中で眠るようになりました。
 犬の散歩は朝夕の必須事項。ついでに避難先のW家の飼い犬シェルティ二匹の散歩も引き受けました。そこの雌犬は恐がりで人に吠えつく犬でしたが、毎日いっしょに散歩しているうちになついてくれました。“ゆめ”とは相性が悪く、別々に二回の計一時間の早朝散歩。広大な刈田や東山の日の出を眺め、雨ニモ負ケズ風こモマケズ地震ニモマケズ、わたくしは散歩したのであります。(その5に続きます。)

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