長岡市医師会たより No.300 2005.3

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もくじ

 表紙絵 「春の渓流」       丸岡  稔(丸岡医院)
 「日本特許制度の父達」      福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「ACLS
コースに参加して」   西村 義孝(長岡西病院)
 「ACLSコースに参加して」   武田さち江(たけだ眼科医院)
 「第二回ACLS講習会に参加して」本田 雅浩(ほんだファミリークリニック)
 「山と温泉〜48〜その40」   古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「地震、地震、地震〜その5」   郡司 哲己(長岡中央綜合病院)



春の渓流(木曽路にて)   丸岡 稔(丸岡医院)


日本特許制度の父達〜福沢諭吉・高橋是清・清瀬一郎

福本一朗(長岡技術科学大学) 

1.独立自尊・実学の企業家:福沢諭吉
 福沢諭吉は1835年に大阪堂島の中津藩蔵屋敷で生まれた。儒学者でもあった父親が「上諭条例(清の乾隆帝治政下の法令記録書)」を手に入れた夜に生まれたことから「諭吉」と名付けられたという。父親は身分が低いことから中津藩で名を成すことも出来ぬまま世を去ったため、諭吉は後に「門閥制度は親の敵でござる」とまで述べている。1歳半の時父が亡くなったため中津に戻って19歳まで暮らした諭吉は、蘭学を志して長崎に遊学、翌年から大阪に行き緒方洪庵の適塾で猛勉強して22歳で塾長となった。25歳の時に咸臨丸に乗って渡米、26歳で遣欧施設団に加わり欧州各国を歴訪した。23歳で開いた蘭学塾を慶應4年に慶應義塾と名付け、独立自尊と実学重視の独特の学風を打ち立てて、「天は人の上に人を作らず」という自由平等思想を広めるとともに、数多くの優秀な卒業生を実業界に送りだしてきた。咸臨丸で渡米した諭吉はワシントンの特許局には同行せず、サンフランシスコで特許関係の書籍を数多く買い求めて咸臨丸で日本に引き返した。この時の船中にジョン万次郎が通訳として乗船していたが、オランダ語には堪能であった諭吉はこの機会に万次郎から英語を学び、特許関係の書籍を読破して理解し、後日の渡欧後に「西洋事情」の中で日本にはじめて特許制度を紹介したという。諭吉はその著書「学問ノススメ」の中で、当時の日本人には発明工夫を奇妙なものと怪しんだり、徒党を組んで機械を壊したり、思想家の功績に感謝しない風潮があったが、それらは「無知無教養」の性であると説いた。また、人は発明をしてその発明を隠さずに他の人に教えるべきで、世人もまたその発明に感謝して、発明家が発明による利潤を専有する権利を認めるべきであり、それがしいては国のためにもなると説くとともに、特許の手続きや具体的な書類書式なども提案している。

2.初代特許庁長官:高橋是清
 そもそも日本の近代特許制度の始点とされているのは明治18年(1885)の「専売特許条例」である。ただこの条例は「急ごしらえの寄せ集め(特許庁工業所有権制度史研究会編「特許制度の発生と変遷」)」であり欧米の特許制度に比してあまりにも未完成であった。そのため欧米の特許制度の調査研究が緊要とされ、初代特許局長の高橋是清が調査研究に派遣され、その成果に基づいて成立したのが、日本の特許法の始まりとされる「明治21年(1888)特許条例」であった。この旧民法を予定して制定された明治21年特許条例(明治21年12月18日・勅令84号)は、1条2項で特許を定義して、「特許トハ発明者二他人ヲシテ其承諾ヲ経スシテ前項ノ発明ヲ製作、使用又ハ販売セシメサル特権ヲ許スコトヲ謂フ」とした。この定義は先に述べたフランス特許法やアメリカ特許法と同じ規定である。本条例においては本権訴権は(民法にあるので)規定せず、不法行為につき「特許ヲ侵害シタル者ハ特許証主二対シ損害賠償ノ責二任スヘシ」(34条)と定め、また侵害に対する刑事罰(1月以上1年以下の重禁固)を定めた(37条)。なおこの日本最初の特許則が、「法律」ではなく「条例」として制定されたのは、「条約改正において日本から外国に求むるべき事は多くあれど、外国から日本に求むるものは少ない。発明の保護は決定せずに残しておいて、条約改正の時にうまく利用する方が日本のためである。」という是清の考えに基づいたものとされている。
 是清は13歳で米国に留学し、33歳で初代特許庁長官となつた。彼は米国特許局事務局長のDuryeeと親しく交際し、米国特許局を頻繁に訪問して、日本に特許局を造るための資料を収集した。彼は日本の特許局を米国をモデルとして作ろうとし、庁舎のみならず机やキャビネットなどのビジネス用品まで模倣して新しく作ったため、税金の無駄遣いという批判も受けた。しかし是清は「この立派な庁舎が狭いと感じられる様にならなければ、日本は技術立国として成り立たない」と反論したといわれる。国際的に広い視野を持ち、時代の一歩先を見越して政策決定をした是清は、「日本の国を富ませるのは技術力や産業であって、軍事力ではない」との信念のもと、大蔵大臣として軍縮を実行したため軍部と対立し、1936年2月26日のクーデターで暗殺された。

3.我が国特許法の父:清瀬一郎
 高橋是清の定めた明治18年の特許条例は、大正時代に至るまで日本の特許制度の根幹を為してきたが、外国との技術格差が狭まって自主技術開発が盛んになってきたため現状に合わなくなってきた。そのため大正10年に特許・実用新案・意匠・商標・弁理士法の5つの法律を改正することになった。この法律改正を審議した第44回帝国議会衆議院議員特別委員として、筆者の出身校である兵庫県立姫路西高校の前身、旧制姫路中学卒業生(明治34年)の清瀬一郎先生(1884〜1967兵庫県姫路生、工業所有権法調査委員長・文部大臣・衆議院議長・極東裁判東条英機主席弁護人)がおられた。清瀬先生は、大正10年の特許法改正に際して逐条審議された後、その経験を元に工業所有権の分野の法学研究者にとってバイブルとされている「特許法原理」を執筆された。この大正10年特許法は、先願主義・異議申立・拒絶理由など現行の制度にも含まれている主要な内容を全て含んでいたとされ、第2次世界大戦中の臨時処置を除いて戦前の20年と戦後の20年に渡って使われ続け、昭和34年新法にバトンタッチされるまで日本の知的財産法の根幹となってきた。
 清瀬先生は関大教授・京都法政大学(現立命館大学)教授などの法律学者としての一面以外に、大正9年衆議院議員当選以来、在職38年余りの政治家として戦前は自由主義者・民主主義者として治安維持法に反対し台湾住民運動を支持し、戟後は一貫して占領体制を批判して文部大臣として教育委員任命制を主張するなどの経歴を有しておられた。更に戦後の
「東京裁判」において占領軍を恐れて誰も弁護人とならなかった東条英機元首相の弁護をただ一人敢然として引き受けられた。人格高潔にして確固たる信念を貫かれた清瀬先生は、1967年82歳で、その法学者・弁護士・政治家・思想家としての人生を全うされた。
 清瀬一郎先生がその京都帝国大学博士請求論文「発明特許ノ起源及発達」
の中で述べられた「特許権は発明者が請求する権利」という信念は、ひとり「人は平等でなければならない」と述べた福沢諭吉の思想と符合するのみならず、封建制の象徴ともいうべき軍部と勇気をもって対立した高橋是清の思考とも呼応するものであり、また「技術家、発明家ハ無言ノ社会改革者ナリ。政治家・立法家ハソレニ追従スルニ過ギズ」と特許法原理の巻頭に述べられて、「特許権を正しく守ることは、文明の進歩に貢献するのみならず、世界の人々の人権擁護にも繋がる」ことを御著書を通してお教えいただいた。また清瀬先生は、奇しくも小生の卒業論文での主張と軌を一にして、「諸外国卜比較スルこ我ガ国ノ特許刑法ノ処罰ハ重罰二過ギタリ」との警鐘を鳴らされていた。この郷里の偉大な先輩がライフワークとされた工業所有権法を、図らずも中央大学法学部卒論主題として最終試験に合格し、この春に無事卒業できたことに、不思議な宿命を感じざるを得ないとともに、我が国の工業所有権発展に寄与された明治の先人の熱意と努力に深く感謝する次第である。

〔参考文献〕
1.清瀬一郎:「特許法原理」、pp17〜47(第3章特許法ノ起源並ビニ発達)、pp471〜496(第4編特許刑法)、巌松堂書店刊、1929
2.福本一朗:「知的財産権刑事罰に関する一考察−特許権侵害罪を中心として−」、平成16年度中央大学法学部通信教育課程卒業論文

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ACLSコースに参加して  西村義孝(長岡西病院) 

 地震による延期で1月16日(日)、開催となった第2回長岡市医師会ACLSコースを受講させていただいた。年齢制限で受け付けを拒否かと心配したが、幸いお仲間に入れて頂き、特に丁寧なご指導をたまわり感謝の気持ちでこの一文を記している。
 少しでも足手纏いにならないようにと、日本医師会配布の「救命蘇生法の指針」、「心臓病の外来診療」を頼りにプレテストに取り組んだが、結果は無惨であった。しからば気力、体力でと早寝して参加した。
 講習会の内容は昨年の本誌9月号に大貴先生が詳しく書いておられるので、私はここでは参加の動機、講習を受けての結果、感謝と全会員参加勧誘の文として参加記執筆の責めを塞がせて頂く。
 参加の動機はこれから公共施設内に除細動器がそなえられることになるが、医師として使用法が不明では困るからである。
 参加してみて分かったことは、ACLS(Advanced Cardio vascular Life Support)は二次救命処置と訳されるように、その前に一次救命処置(BLS)を修得する必要があることである。見事な救急隊の実技を手本に訓練を受けた。
 その後、気道確保、人工呼吸、バッグバルブマスクによる送気、気管内挿管、心マッサージ、除細動器の適応、使用法、薬剤の使用法まで訓練を受け、かなりの自信を持つことが出来た。これはひとえに企画教育を担当された講師方のお陰と感謝し、また私とチームを組んで訓練を受けてくれた方のお陰と感謝している。
 前置きが長くなったが、この貴重な経験をどのように活かすかが、問題と思う。
 毎日あるいは毎週にでも、周囲の人と共に声を出して事故を頭に浮かべて「どうしました?」「誰か手伝ってくれ」「見て、聞いて、感じて、呼吸停止!」「救急用具用意」「救急車手配あるいは救急要員集合」「気道確保体位」 「お助け呼吸開始」「息、咳、動きなし、頚動脈は拍動なし!」「心マッサージ開始(毎分100回)」「人工呼吸開始(500〜800ml/2秒)」「気管内挿管用意」「挿管成功(350〜500ml換気)」「酸素管結合」「点滴血管確保」「除細動器用意」等と修練したいものである。壁に絵や文字を書いた表を見ながらで良い
と思う。
 そして若し実際の現場に遭遇したら、そのように実施し、周囲の人にも状況を知らせながら実施すれば、安心して協力をしてくれる、あるいはたよりないと感じた実力のある人が変わってくれるであろうと思う。私としては「ご苦労さんでした、今度は私が変わります。」という医師会員が増えることを願うばかりである。

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ACLSコースに参加して  武田さち江(たけだ眼科医院)

 コンタクトレンズを希望して受診した患者が、目の前に迫りくるレンズに恐怖のあまり迷走神経ショックをおこし、意識喪失・痙攣となるのは珍しくありません。しかし、造影剤を静注して眼底撮影をしている最中に、患者があくびをし出すとなると本当にビクッとします。
 造影撮影をやめれば受講しなくともいいのかなあと思いながら申し込みました。最近の学生はACLSの授業があるそうで、「はいこれ。おっ母さんがんばれ。」と手渡された資料と日本医師会の「指針」で勉強開始。プレテストを解きだし、資格テストならまちがいなく落ちると悟りました。
 それなのに受講前日に中越地震がおきてしまいました。救護所に着いてまず「どうしよう。」医師は生憎私一人。救急セットはというとガーゼ・マキロン・大量の紙おむつの類のみ。市の職員に問うても「これだけです。」縫合や点滴セットは自分の所から持ってくるとしても呼吸補助はどうしよう……。(保健室の棚に大事にしまってあったと知らされたのは後日のこと)高齢者も多く、何かあったらとの不安と寒さで、まんじりともしない夜を過ごしました。
 待ちこがれて(?)参加しました。
 まずは個々の技術の確認から。気管内異物摘出を試みる時、乳児では肋骨や胸骨骨折を起こさないように注意。吐物で窒息しないようにと側臥位をとらせるが、頚部損傷を疑う場合にはどうするか等々。
 気管内挿管は何度しても片肺飛行になりました。眼科医でしかも開業している私にとっては、今日覚えなければ次の機会はないのですから、昼休みも「もっと浅く。この位かな。」でトライアンドトライ。
 肘静脈確保ができなかったら次はどこを何Gで行ったらよいのかの説明もありました。ついでにアナフィラキシーの場合の投与法や量も教えていただきました。
 次は緊急を要する心電図の解説。耳慣れない用語はすぐには口に出て来ません。「無脈性……。ん?」
 盛り沢山のメニューであわただしかったこと。
 午後は、心電図の変化する人形を使って除脈系・頻脈系の各々の蘇生法の実際でした。
 私の一例目は観劇中に意識を失った人が出たとの想定でした。まず大声で人を集めて協力してもらう。「見て、聞いて、感じて」と呼称しながら呼吸・循環の確認と補助をする。AEDが備えてあったので電極をはりつけ、ボイスの指示に従い、適応であれば、「皆さーん、危ないから離れて下さい。」と叫んでからスイッチオン。
 二例日は「餅を喉につめて意識がなくなった人が先生の所に運ばれて来ました。さあどうしますか?」
 見て、聞いて、感じました。餅がとれるかな?
「あ、とれそうな所にありますよ。」とったことにして。心電図はPEA
だからAEDの適応ではない。静注は指示どおり行われている。窒息だから次は挿管だが、どうしよう。
「あのう、私の所に運ばれて来たんですよね。」
「そうです。」
「すみません。私の所にはマスクも挿管器具もありません。」
「え!そういう場合もあるのかー。仕方ないです。救急車がくるまで吹き込む以外はないですね。」
 柔軟性のないオバタリアン振りが出てしまいました。講習ですから、所有してなくとも行うべきでしたと猛反省しました。すみませんでした。
 最後のコースは、本日習った救命処置を実際に行ってみる二次ABCD評価でした。
 ここまではおとなしかったダミー人形が豹変しました。スタッフがパソコンで操作しているのですから何でもありです。
 モニターに出たのは心筋梗塞→心静止の波形→誘導法・感度を変えたらVF→AEDを作動させてもさせてもVF→灯台のようにチラチラ出るだけの洞調律→延々とVF。リーダーになっていたら超パニック。
 私の場合は、救急隊がAEDを行ったが蘇生せずに救急室に運ばれてきた患者でした。AEDは最初から360Jで行って、心電図は正常になった。次は挿管。ガリガリッ。
 歯が折れたわ。
「入れ歯ははずしてあります。自分の歯は一本もありません。」
 あっ、また右肺だけかな?
「大丈夫です。心窩部に音も聞こえません。」
 まだ聴いてません。急いで五点を六回聴いて、これでやっとICUへ送れる、でした。
 指導して下さったスタッフの方々はもちろんのこと、同班だった大関道義先生・本田雅浩先生、ありがとうございました。救急蘇生法は「分かっていること」ではなく「できる」ことと肝に命じました。
 受講の翌日、マスクと日本光電のポケットECGモニタを購入しました。使用する機会がないことを切に祈っております。

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第二回ACLS講習会に参加して  本田雅浩(ほんだファミリークリニック)

 平成16年10月23日夕方、私は翌日開催されるACLS講習会のプレテストを見ながら居眠りをしてしまっていました。5時56分、突然の地震の強い揺れで飛び起きました。揺れが収まるまでの間、身の危険を感じながら、「これはただ事ではない」と思うと同時に、「どうしようか」と別のことを考えていました。翌日の講習会のためにこの真っ暗な中でどうやって勉強しようかということ。地震による被害が大きい場合にどうやって救命処置に当たろうかということ。幸いにも当地では人的な被害も少なく、トリアージ、救命処置などを必要とする事態はありませんでした。しかし、このような緊急事態に直面して初めて、己の準備の悪さと無力さをつくづくと感じてしまったものです。
 震災による被害の大きさのため、10月24日のACLS講習会は延期となりました。
 延期された第二回ACSL講習会は本年1月16日に無事開催されました。なお、この概要については、?ぼん・じゆ〜る?平成16年9月号に第一回講習会の内容が内藤先生、大貫先生、森下先生の文章に詳しく書かれています。今回もほぼ同様の内容でしたのでご参照ください。私は今回の講習会の反省もこめて、感想を書いてみます。
 当日は、とにかく無我夢中で講習を受けました。やっと終了時間がきて「終わってほっとした。」というのが正直な気持ちです。実のところ、講習会の直前まで、「恥をかきたくないから出たくないな。」という思いがありました。恥ずかしい思いをしながら、講習を受けたのは事実です。「知らない、できない恥ずかしさを人前でするのは何年ぶりだろう」という思い。しかし、時間が経つにつれて、恥ずかしいという思いはどこかへ行って、達成感とこれからへの可能性を感じ始めていました。
 開業医になって、今回の講習会のような一刻を争うような緊急事態を最近は経験しなくなりました。これからもこんな経験をすることはほとんどないだろうと思います。しかし、だからといって準備を怠ることなく、いつそういう緊急事態に遭遇するかもしれないという思いで、繰り返しトレーニングを積む必要があると感じました。最近は、一般の人も、万が一に備えて救命救急の講習会に出たり、除細動を行うAEDも各所に備え付けられるような時代です。私も医療従事者の一人として、まず、AEDを備え付け、その上でいつでも一次救命処置および二次救命処置ができる心の準備体操をしておかなければならない。私はACLS講習会を受けこう考えました。
 ACLSはアメリカ心臓協会が提唱する一連の救命処置であり、エビデンスを踏まえて作成された国際的なガイドラインに基づいています。どんな厳しい状況下でも誰もパニックにならずに、自分のおかれた状況の困難さに打ち勝ち冷静にべストを尽くすために、エビデンスに基づいて標準化された手順とそのたゆまない訓練、これがACLS講習です。一連の救命処置の中で次にやるべきことを誰しもが知っていて、チームとして救命処置をスムーズに行えることが必要です。このACLSの知識や技術を日常診療やもしもの緊急事態に活かすためにも、一回の経験だけで終わることなく、さらにトレーニングを受ける機会を得て、自信を持った救命処置が行えることが大事なことだと思いました。
 最後に、講習会の中で、デモンストレーションの長岡赤十字病院の研修医の先生方や一緒に訓練に参加した救急隊の方々の姿を頼もしく見とれておりました。
 いずれも普段の繰り返される訓練のたまものと思いました。患者の急変時には、救急車を呼んで送り出す側として、救急隊の方々が事故や救急の現場で具体的にどのような処置しておられるのか、また、病院での受け入れがどのように行われているかを再確認する機会ができました。自分の患者、もしかして自分自身が、命のリレーの中で、このように救命されると知ることができて、大きな安心を得ることができました。

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山と温泉48〜その40  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所) 

 切明温泉
 地籍・長野県下水内郡栄村堺字切明三世帯(と、言う事になっていますが?)旅館三軒。雑魚川と魚野川の合流点を中心に、主に中津川右岸に自然湧出せる温泉。源泉56度、場所により温度は多少異なる。合流点より魚野川の少し上流一帯が、野天・川風呂になる。左岸の川原が広いので、川原を掘って絡み出る澄んだ湯を貯め、四合壜片手に湯浴みはオツなもの、と、やりたいのですが、余り良いものではありません。腰まで湯に浸かるのでも、容易ではない。時間を懸けて掘り、掘って貯めたお湯の濁りが澄んで、浸れるまでには…時間と労力が掛かります。容易ではありません。矢張り夏にのんびりやる遊びです。他人が掘った湯穴なら結構。道具はジョリンが必要。
 切明温泉の宿は三軒のみ、すべて中津川右岸にあります。「雄川閣」(栄村振興公社経営)はバス停前、「切明リバーサイドハウス」は切明橋の中津川右岸下手、「切明園」はバス停から南の魚野川右岸台地。合流点より雑魚川右岸に切明発電所があり、左の急傾斜の山の斜面に導水管が延びている。
 開湯は寛政六年(1794年)。湯本と呼称されていた。
 温泉は含芒硝石膏食塩泉で56度。和山温泉からは約3キロ。和山温泉集落入口分岐を右折、原生林の暗い国道のバイパスとして出来た中津川断崖上の路を行く。遮るものの無い、眺望抜群の景観。鳥甲山(2028m)が中津川左岸に吃立している。佐久間屋敷跡を過ぎ、国道405に出る。急坂を三曲がりすると、湯宿「雄川閣」の前のバス停がある広い駐車場に出る。一方、国道405は栃川高原台地の三叉路を和山温泉から来て右折、暗い原生林に入る。狭いながらも損傷の無い車道が深い森林の中に延びている。途中、左側に「佐武流山2191m」登山口に向う林道が岐れる。路は次第に下りとなり、間もなくバイパスと合流する。
 国道405は切明が一応の終点。次に国道405が現われるのは、群馬県に入った「野反湖」湖岸。その間、切明、高橋の吊り橋・渋沢ダム・大倉峠・左京横手地蔵峠、ハンノキ沢、野反湖と山路となる。この草津街道は、そう旧くない時代には荷を積んだ牛が往来していたとの記録があり、そのための右路を眼にする。
 鈴木牧之の「秋山記行」に、この温泉が紹介されてある。牧之は文政十一年(1828年)夏から秋に秋山郷に入っている。この時、「湯本」に逗留とある。湯本の開湯が寛政六年(1794年)と湯守に聞いたとあるから、開湯から約三十年余の新しい時期に訪れている。当時の湯宿は、粗末な小屋であったと思われる。湯の図を見ると、湯小屋は魚野川と雑魚川の合流点より雑魚川上流に寄った右岸、現在の切明発電所付近に在ったものでしょう。湯小屋の裏手にあった「薬師」を祀った「薬王閣 の場所は今は導水管が通っていると言う。またー「薬王閣」は小さい祠に変わり「リバーサイドハウス」の庭に在るといいます。(「秋山郷の地学案内」)より本を見るまでは気が付きませんでした。現在の宿は三軒共、魚野川の右岸にあります。湯の時代の宿は、雑魚川をたどる路が良かったのでしょうか、信州からのお客が多く、そのためか、雑魚川の右岸に在ったのでしょう。
 弘化四年(1847年)五月八日(牧之逗留十九年後)善光寺地震、推定M7.4、死者一万二千人。この地震により、山や谷の崩壊、鳥甲山からの山津波などに因って湯本は崩壊。中津川は土砂で埋まり、湯本の一帯は湖となった、と伝えられています。崩壊の爪痕が残っている。切明橋の下流、「リバーサイドハウス」横の流域内、川原にみられる巨大な岩塊が善光寺地震の名残だそうです。(「秋山郷の地学案内」)地震の翌年嘉永元年(1848年)信州松代薄利用係佐久間象山に依って、湖と化した、魚野川、雑魚川の排水工事が行われ、合流点上流の川原から湧出する温泉を得たと言う。以後、この地を切明と呼称したのだそうです。

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地震、地震、地震〜その5  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「じゃ、ちょっと出かけてきます。」
「気をつけて。」とW家の面々。
 地震後の避難生活を親戚W家で送りながら、着替の衣類などを取りに自宅にゆき来しました。家の中はめちゃくちゃ。でも余震があるのと水道も出ないので、片づけはついでに少しだけくらいです。
 なにしろ住民へ避難勧告の出ている被災地域です。上下水道もガスも完全にストップ。自宅のトイレも使用できません。数日後に公園に増設された簡易トイレを使用できることになりました。また公園内に水道蛇口が数個設置されました。これで公園内のテントで生活する半数近い住民の不便が減りました。地面埋設ではない電気だけは各家庭に数日後に復旧していました。でも崩壊の恐怖と生活インフラの不便の両面から、とても自宅で暮らせるわけはありません。みんな荷物を取りにこわごわ内部に入っては、あわてて外に飛び出すといったありさまでした。
「うわっ、来た。早く外へ。」
 家人は身がすくんで動けません。顔色は蒼白です。その腕をつかんでささえます。
「ごめん、あれ以来地震を感じるとすごく動悸がしちゃうのよね。」
「だいじょうぶだから。ゆっくり歩けばいいさ。ファイト、オウ!。」
 いつでも外に飛び出せるように、ドアは開け放ち、土足のままで家に上がり込んでいます。この日は震度4強クラスの余震でした。
 一週間彼の日曜日、また自宅に片づけに。お昼の配給弁当を公園の窓口で頂戴し、庭で簡易コンロでお湯をわかしながら食べていると玄関チャイム。女性ふたりの訪問者です。家人が応対に出ました。数枚のプリントを手に戻って来ました。どこぞの医療斑の「心のケア」のためのアンケート調査とのこと。
「地震後の生活面で変わったことがありますか? 次に○を付けてですって。」次々と質問を家人が読み上げます。わたしの答えはノーの連続。
「ああそれは、絶対イエスだな。」
「そうだね、たしかに。」と家人も笑って納得した質問は…。
「地震後に以前よりお酒を飲む量が増えましたか?」「イエース!」
 わたしだけですよ、もちろん。家人は全くアルコールに弱いのです。
「こころのケアになにがたいせつだと思いますか?」なんて質問もありいらだちながら記入した答。
「たいせつなのは地震がなくなり、一目でも早く元通りの家で暮らせること。」
 その数日後の昼下がり。今度は他県からの医療チームが住民の避難する公園を来訪。家人は自宅に行きこわごわと片づけをしていました。その家人が「用足し」に隣の公園に行った際の目撃談です。
 数台の単に分乗し女性中心の集団が来たそうです。若い女性が明るく支援活動のあいさつ。いっせいに手分けしてそこにいた被災住民に心のケアのアンケート調査の聞き取りを始めました。そこヘドーンとまず地鳴りがしました。そしてすかさず震度4クラス(立っていてぐらつく)の大きめの地震がありました。
 数分して地震がおさまると、心の支援に来たはずの十人ほどの人々は数台の車ごと完全に視界から消えていました。見事なまでの引き上げぶりだったそうです。安全本位の支援活動ですな。たったいま慰めの言葉をかけてもらっていたのに、突然置き去りにされたおばあちゃんたちの気持はどうだったでしょうね?(最終回に続きます。)

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