長岡市医師会たより No.301 2005.4

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もくじ

 表紙絵 「水芭蕉の頃」      丸岡  稔(丸岡医院)
 「13+1の回顧録」       七條 公利(七條胃腸科内科医院)
 「ボディパンプのお誘い」     河治 洋一(立川綜合病院)
 「山と温泉〜48〜その41」   古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「地震、地震、地震〜その6」   郡司 哲己(長岡中央綜合病院)



水芭蕉の頃   丸岡 稔(丸岡医院)


13+1の回顧録  七條公利(七條胃腸科内科医院) 

 私は徳島生まれの高松育ちで、すだちとうどんで大きくなった(たいして大きくなりませんでしたが……)生粋の四国っ子です。親父は徳島大学医学部の二期生で、今でも高松市内の中心街で現役内科医を続けております。今も両親と仲良くしているそんな私が何故、長岡で開業することになったのか……

 それは何と言っても、故立川晴一先生との出会いに他ならないと考えます。

 私は昭和58年に東京医大を卒業し同年に同大学病院の第四内科へ入局しました。研修医時代にひょんなことから立川綜合病院へ出張することになり(今を思えはこれが運命の分かれ道でした)、生まれて初めて新潟県へ足を踏み入れ約2年間長岡で暮らしました。その後約5年間は本院での東京暮らしが続いたのですが学位取得とともについてくる再出張の話が浮上し、1年間の約束で再び立川へ出向くことになったのです。当時の立川病院は自由な空気と革新的活力に満ちあふれ、元々常識外れや奇想天外な発想が持ち前の私にはピッタリの雰囲気でした。その性格が晴一先生の日に留まったのか青二才の私を見初めていただき、35歳で内科部長、36歳で副医局長、37歳で法人理事に任命していただき高いモチベーションの中で業務に邁進することができました。晴一先生と接する時間が増えていく中でその先進的考えや経営理念に共感を覚え、いつしか私自身が徐々にそのカリスマ性に魅了されるようになり、気が付けばアッという間に10年以上が過ぎていました。その間、研修医教育や高度な最先端医療に情熱を注ぎ、開業医の息子でありながら開業など微塵も考えていませんでしたが、奇しくも晴一先生が此の世を去られた以降に医療評価機構による、言わば病院画一化の波が押し寄せ、立川病院の特色が次々と消されていく現実を見るに付け、にわかに独立する考えが頭をよぎるようになりました。
 てな訳で前置きが少々長くなりましたが、とにもかくにも平成16年5月28日に開業医としての火ぶたが切っておとされました。開院日が近付くにつれて、その緊迫感や期待感は日増しに募るばかりでしたが、いざ蓋を開けてみると想像以上に楽しい日々の連続でした。やがて1年が経過しようとしていますが、とても充実した開業医ライフを過ごさせていただいております。立川時代にも感じたことのないこの充実感は一体何処からくるのか自問自答してみました。先進医療の管理責任者の目に見えない重圧から解放されたこと、自営の楽しさ即ち自分の理想的な医療体系が築けたこと、私の医療理念に賛同してくれた有能なスタッフに恵まれたことなどが挙げられると思います。でも日々の診療の中で最も嬉しい瞬間と言えば、何と言っても遠方からわざわざ患者さんが来てくださる時でしょう。立川病院時代、私は多くの方々の診療に携わらさせていただきました。ご承知のとおり病院の診療圏は広域で、開業後は到底来て下さるとは思えませんでしたが、その多くの患者さんが今も通院していただいていることは何物にも替えがたい私の喜びです。ことさら開業してからは水害、地震、大雪と矢継ぎ早に自然災害が発生したため特に遠方の方々の安否や被害状況を把握するのが大変で、困惑した日々もありました。そんな状況下でも途絶えることなく通院される患者さんには本当に頭が下がる思いです。最近では中越地区は素より、新発田、柏崎、弥彦、三条、浦佐、糸魚川などの地区からも少しずつですが増え始め、身の引き締まる思いです。
 立川綜合病院在職中の13年間は、故晴一先生を初め病院関係の多くのスタッフの方々、日赤病院や中央病院の諸先生方、また色々な患者さんを紹介して下さった診療所の先生方には大変お世話になり、この場をお借りして深謝申し上げます。そして何より今日の私を育てていただいたのは、携わった一人一人の患者さんに他ならないと確信しております。これは今も昔も変わりませんが、この気持ちを大切にしながら、今後は一診療所の院長として、新潟県の地域医療の発展に少しでも貢献できるように精進し、自分が目指す究極の診療所像に向けて貧欲に邁進していく決意です。院長としてはまだまだ駆け出しの身ですので、皆様方には何かと御指導いただく機会も多いと思いますが、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

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ボディパンプのお誘い  河路洋一(立川綜合病院) 

 今年の冬は何か長く感じられましたが、ようやく春の兆しを感じられるようになって来ました。そんな中、下腹のたるみが気になってきて、なにか運動を始めようと考えられている会員の先生も、いらっしやると思います。そこで私が始めて(はまって)3年になるボディパンプを紹介します。
 私は元々そんなに運動をやっていたほうではなく、卒後数年は運動らしい運動は、ほとんどやっていませんでした。卒後8年目にゴルフを始めたくらいでした。しかし40歳の声を聞く頃から、下腹のたるみが気に成りだし、ちょぼちょぼ運動を始めました。まず始めたのが水泳です。当初は100mがやっとだったのですが、結構はまって1000mくらい泳げるようになりました。ただ食事がおいしくなる効果が強く、思ったように脂肪は減らせませんでした。次に始めた
のがジョギングです。スポーツクラブのランニングマシンで始めました。これが走行距離、時間、消費カロリーなどリアルタイムで表示されるのが、面白くて、ハーフマラソンくらいなら完走できるようになりました。ただ走るだけでは筋力はつかないようで、期待したゴルフの飛距離アップにはつながりませんでした。そこではじめたのがボディパンプです。
 ダイエットにおいて、単なるカロリー制限だけではすぐリバウンドしてしまうことは良く知られています。体内で、脂肪を燃焼させるところは筋肉です。筋肉量が乏しければ、食事制限を緩めたとたんに、脂肪が戻っていくのは当然だからです。従って筋肉量を増やしながら脂肪を減らすことが求められます。それがボディパンプです。
 何をするかといえば、重量変更のできるバーベルを使って、スクワット、ベンチプレス、アームカールといった 「筋トレメニュー」をやっていくだけです。単なる筋トレでは、単調で長続きさせるのは難しいですが、ボディパンプはスポーツクラブのスタジオで、インストラクターの号令のもと、超一流ミュージシャンの曲にあわせて行なう、言ってみれば「筋トレのディスコ」といったものです。
 とはいっても運動をやってない人がいきなりやるとかなりこたえます。全身の筋肉をトレーニングすることがうたい文句になっていますので、下手すると全身筋肉痛になりかねません。ただこれを乗り越えると、非常に楽しい時間となることうけあいです。
 ボディパンプはニュージーランドのオークランドに本部がある「レス・ミルズ・インターナショナル」で開発された、ボディートレーニングシステムというプログラムのひとつです。世界の超一流ミュージシャン(マドンナなど)の曲を使用し、各部位のトレーニングに最適な動作を研究して提供してくれますので、無駄なく効果があがるようになっています。
 プログラムは、ひとつの種目が、だいたい一曲5〜6分で、軽い負荷を持続して筋肉に与えることが目的になっています。筋トレのやり方には、最大限の負荷を、短時間かけるやり方と、軽めの負荷を持続してかけるやりかたがあります。ボディビルのように、筋肉を肥大させることが目的であれば、最大限の負荷をかけたほうが、効果はあがります。しかしシェイプアップのためには、軽めの負荷を持続してかけて筋肉量をふやしたほうが、より良質な筋肉がついて、太りにくい体になるといわれています。ボディパンプはまさにこれに則したトレーニングといえます。
 また集団でのエクササイズですので、仲間ができることも、大きな楽しみです。トレーニングマシンとの孤独な戦いは、なかなかできるものではありませんが、仲間をつくっていくことがはげみとなって、継続する理由のひとつとなります。
 ただどんな薬にも禁忌項目があるように、ボディパンプに向かない人がいるのも事実です。ひとつは、集団での行動が嫌いな人、インストラクターの指示に従って運動することが嫌いな人です。こういった人は、ランニングマシンや、トレーニングマシンで、マイペースに運動することをお勧めします。あとアップテンポな音楽の嫌いな人も、向かないと思います。かなりの大音響で音楽をかけてやりますので、のめりこんでいくと、これが一種のトランス状態をもたらして、快感につながるのですが、演歌しか受け付けないといった人には、苦痛となるかもしれません。
 ただこういった禁忌項目に該当しないかたには、是非お勧めしたい運動です。ボディパンプ発祥の地、ニュージーランドのお隣オーストラリアでは、一般の人が親しんでいるスポーツの順位が、1位水泳、2位ボディパンプ、3位ジョギングといわれるほどボディ パンプは身近なものになっているそうです。
 日本ではコナミスポーツクラブがパテントを取得して、会員に提供しています。長岡では、現ダイエー長岡店6Fの「コナミスポーツクラブ長岡店」でおこなわれています。興味ある方はそちらへお問い合わせください。
 最後に私のボディ パンプ3年間の効果ですが、少なくとも下腹の脂肪は、減りました。胸板も多少厚くなったような気がします。ただゴルフのボールの飛距離には、あまり変わりが無いので、これはパワーより技術の問題だったのだと思います。
 私の場合、ボディ パンプに参加すること自体が楽しみになつているので、今後も続けていこうと思っています。

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山と温泉48〜その41  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所) 

 「佐久間象山」(1811〜1864年)は、信州松代藩下級武士の子。現在の長野県山ノ内町の代官所時代、志賀高原を中心に草津・秋山郷一帯の殖産開発のため調査を行っている。秋山郷は主に鉱山開発で、森林資源にも興味を持っていたようですが手を付けていません。市川氏の 「平家の谷」をみると魚野川上流、渋沢ダムから更に遡行すると、堅抗・横抗跡がみられ、これが佐久間象山の銅山開発跡であろうと考えられていると書いています。又、渋沢の「茶屋上の段」に住み、鉱山開発の指揮を執ったと伝えられていると「平家の谷」に記載されている。更に、和山温泉から切明への新道沿いに通称「佐久間屋敷」と言う処がある。此処から銅の鉱滓が採集されたとされている。いずれにしても、記録はおろか、実地の特定できるものはなにもないと市川氏は書いている。一獲千金を狙う山師達の話としては面白い。ところが、佐久間象山より遥か旧い時代に銅山開発が行われていたと思わせる記録がある。正徳四年(1714年)飯山城主音山大膳亮が、小赤沢より三里奥に銅山開発……、の記録、大量の食料を送り込んだ記録が見つかっている。その後、金鉱開発など話としては多くあるのですが、実地は不明であり、不存在だと言う。明治時代までに、銅鉱山開発に携わった人達は多いという。しかし、話は話であって、幻となって消えてしまった。明治時代に入って、鉱山話は残っていた。細々と銅採掘が行なわれ、それに携わって居た人達の記録が残っている。硫黄鉱山は、別にして、殊に銅鉱山の話は多い。発電所工事の始まる以前迄、鉱山開発を夢見る山師が入っている。しかし、亜炭採掘となるだけで、銅鉱山開発は、夢、幻、となっている。河川流域、魚野川、雑魚川のような深い沢を抱く谷川は、山師達にとっては「金、銀」に見えたのでしょう。同じ沢の谷川の水は、近代の水力発電屋にとって「金、銀」に見えた、と言います。
 「佐久間象山」の鉱山開発は、藩命に依るものと思われます。従って、信州松代藩内・支配領地内で行われたもので、中津川下流域ではなく、魚野川か雑魚川流域が探査山域であったのです。岩菅山・裏岩菅山から赤石山に至る連峰、野反湖(野反沼・池)より草津・志賀高原の山、谷の調査が行われたのでしょう。私も、渋沢ダムより魚野川本流上流域に数回入ってみた。しかし、悲しいことに、単独行で、時間をとれないことが重なって、数キロしか入れずに終わった。市川氏の言う、高沢川沿いの堅抗・横抗、佐久間象山の銅鉱山跡は、確認出来なかった。この中津川支流の魚野川・本流の遡行記録が無いかと探していたところ、目の前にありました。私の所属する山岳倶楽部の会報に「秋山合宿:目的・魚野川本流の完全遡行及び支流の遡行」の山行報告が記載されていました。人山:昭和54年10月、CL橋本氏、他8名。報告は詳細に書かれてあり、高山氏の「魚野川周辺概念図」も精確な山岳図です。
 この山行報告には、銅山開発跡の事の記載がないのは、目的が違うので仕方がないのです。この川の性格を次のように書いています。
 「魚野川の源流・赤石山2109m・切明より源流まで20キロ、切明より渋沢ダムまで8キロ。魚野川渓谷の支沢は、右岸の沢と左岸の沢とでやや様子が異なる。右岸はなだらかな沢が多い。これに対し、岩菅山連山が標高1700mから2100mにかけて、岩壁を連ねているため、源頭はルンゼ又は大きなガレとなっている所が多い」。市川氏の言う、銅鉱山跡は右岸の高沢(高沢川)で、野反湖が魚野川に注ぐ千沢の上流にある。従って、銅鉱山跡は見ていない。なんとか見たいのですが。後輩の諸氏には感謝します。
 この谷には、大ナゼ沢の80mの巨瀑もあるのだそうです。巨瀑の滝壷に入ってみたいものです。

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地震、地震、地震〜その6最終回  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 余震とは大きなものとまた揺られと川柳に作るほど、大きい余震が続きました。地震津波業務規則とか地震観測指針で程度を判定するらしいです。震度3は弱震、驚いて眠りから目覚める。震度4は中震、家屋の動揺激しく、眠りから飛び起き恐怖感抱く。震度5は強震、壁に割れ目が入り、石垣が倒壊。震度6は烈震、家屋の倒壊、山崩れ、地割れ。震度7は激震、30%以上の家屋倒壊、山崩れ、地割れ、断層など。ちなみに震度8以上はないとご存じでした? わたしは全然知りませんでした。「この余震が震度5ならさ、初めの一発は震度6強なんてもんじゃなくて、震度10じやないの。」なぞと失言。「Gさん、地震は人間が経験する最大規模を7度に仮想して設定しているんだそうですよ。だから7までしかないんですて。」と町内の被災仲間に諌められました。
 反復して余震を受けるために、自分で(発表される)震度が的中予想出来るようになってゆきました。
 わたしの居住地域は外周の道路と一部の住宅が地崩れし被害甚大でした。それでも被災三週間後に、比較的無事だった我が家を含む宅地地域では、ようやく上下水道およびガスが復旧。長岡市の避難勧告も解除。
 11月中旬の小春日和の日曜日。片づけに自宅に戻ると、水が出てトイレも使えました。ガス会社の点検が町内を回ります。「一軒ずつ係員がガス漏れがないか確認して元栓を開きます。」台所のガスレンジだけ係員がチェックします。「ガスストーブとか見なくていいんですか?」 「大丈夫ですよ、これで。ストーブとかは壊れないですよ。」(この自信の根拠はなに?)小心者の夫婦は家中のガスストーブをあわてて点火点検。ガス漏れも故障もなく無事に燃焼開始できました。ほんとだ。
 電気式の床暖房と掘り炬燵もテスト。無事に運転できるようでした。「でも矩燵のスイッチが最強かオフかしか段階調整が効かないわ。」「うーーむ、悉無律ねえ。」「なにそれ?」これはコンデンサーが効かない状態であると来客のひとりは判断したがなんのことやら?
 その日は冷えるので即席ラーメンとお弁当の昼御飯、学生みたいに。家人の好きな塩ラーメンはなかなかうまいお店がないので作ることにしました。地震からの復旧記念第一号献立はなんと久しぶりの即席ラーメンです。モヤシ、ネギ、キャベツ妙めが具です。細ネギは庭先の畑に植わっています。一回分は採れましたが、一見雑草に見えるミントおよび細ネギ畑が踏み荒らされていました。
 できあがった熱い野菜塩ラーメンを二人で啜りました。
「おいしいね。これからまたこの家でがんばろうね。」「ファイト、オウ。」(ごくせんファンです。)
「ネギ畑がね、たぶんお隣の修理の亙屋さんや大工さんが踏み荒らしたみたいだったよ。」「しかたないわね。地面なんか、気にする場合じゃないもの。それにネギは踏まれて育つとか言うでしょう?」「…それは麦じゃないか?」「…あっそうだったけ、ははは。」
 後日談。例の掘り炬燵は一ケ月後に電気修理店に依頼して出張点検。「えっ、これで毎日使用していた? よくぞご無事で。」と驚かれました。ヒーター装置の受け皿状金属カバーに水が溜まっていたそうです。かの水槽が地震で壊れ、洪水のあった部屋だから、納得、ぞわっ。部品全取っ替え修理でした。(ひとまず完)

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