長岡市医師会たより No.304 2005.7

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もくじ

 表紙絵 「競技場の森から」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「おわら風の盆考」        福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「心に残る温泉旅館 その2」   高木 正人(高木内科クリニック)
 「第3回長岡市医師会ACLSコースを受講して」 野々村直文(野々村医院)
 「ACLSコースを受講してみて」 湯野川淑子(田宮病院)
 「ACLS必勝マニュアル」    吉田 英毅(吉田病院)
 「We Will Rock You
」       岸   裕(岸内科・消化器科医院)



競技場の森から   丸岡 稔(丸岡医院)


おわら風の盆考  福本一朗(長岡技術科学大学) 

1.越中おわら節「風の盆」
 飛騨の山々が富山平野へと移り行く途上に、細く長く広がる坂の町、越中八尾がある。肩を寄せ合うような町並みの中を清らかな清水が流れ、坂と小路の織りなす古い町並みには300年前の悠久の時が佇んでいる。この小さな町が年に一度光り輝く夜がある。それは二百十日の初秋の風が吹く頃、毎年9月1日から3日にかけて行われる「おわら風の盆」である。越の山脈を赤く染める落日が濃紫の薄暮に暮れなずむころ、家並みに沿ってぼんぼりに燈が灯され、編み笠と涼しげな揃いの浴衣に恥じらいを隠した人々が、異国の哀愁を帯びた胡弓の音色に一人また一人と唄い踊りだす。涼しい夜風とぼんぼりの薄明かりに漂うように、東の空が明らむまで続く町流しは、町人も異邦人も誰もがおわらに染まっていく。

2.おわら節の歴史
 越中おわら節の歴史は、元禄15年八尾の開祖米屋少兵衛の子孫が保管していた町建(まちだて)に関する重安秘密文書の返済を得た喜びの祝いとして、三日間唄・舞い・音曲はもとよりどんな賑わい事でも構わずに町内を面白おかしく錬り廻れとのおふれが出され、町中の人々は総出で俗曲・浄瑠璃・俄・その他の仮装行列や滑稽芝居など思い思いの催しをなし、三味線・胡弓・太鼓・尺八・鼓などの鳴り物もにぎやかに町内を錬り廻ったのが始まりとされる。その後、この祭日三日が孟蘭盆三日になり、やがて二百十日の厄日に風害をおさめ豊饒を祈る「風の盆」に変わったとされている。
 「おわら」の語源としては、生活の中から見いだした喜びを面白おかしく表現しながら、町を練り歩いたことが町流しの始まりであったが、その多くの表現は当時の庶民生活の実態をそのまま露骨に唄ったものだったため「このままでは伝えるより先に滅んでしまう」。
 そう感じた芸達者な人々は、歌詞を改め、新しい詞の問に「おおわらい(大笑い)」の言葉を挟んで踊ったという「お笑い節説」、藁の束が大きくなるようにとの思いから“大藁”が転じて “おわら”になったという「大藁節説」、さらに八尾近在の“小原村”出身の娘が女中奉公中に得意の美声で唄った子守歌が起源だとする「小原村説」等が語源とされている。
 おわら節は大正から昭和初期に最大の変革の時期を迎えた。おわらは他の民謡と同様に、はじめは唄だけだったが、そのうち楽器が入り、踊りが入ってきた。時代と共に踊りも変わってきて現在は、1.「豊年踊り」(旧踊り) 2.「男踊り」 3.「女踊り」(四季の踊り)と3通りある。町流しや輪踊りを中心に踊られる最も古くからある素朴な踊りが「豊年踊り」、舞踊的な踊りで主にステージなどで披露されるのが「男踊り」と「女踊り」で、そのうち「かかし踊り」ともいわれ法被を着て勇壮に踊るのが「男踊り」であり、春夏秋冬それぞれに異なった所作を持ち「四季踊り」ともいわれるものが「女踊り」である。
 舞旬・俳句の文化が全盛のころ、大正8年に誕生した「おわら保存会」もまた、おわらの唄、踊り、拍子にその影響をうけ、若柳流の舞い、三味線、太鼓、胡弓の音色、それぞれが、おわらの魅力に引き寄せられたようにひとつになった。町医者でありおわら保存会会長の川崎順二らの働きかけで、各界の一流の文化人たちが次々と八尾に来訪。おわらに文芸の息吹を吹き込んだ文化人には、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸もいたという。
 大正2年に北陸線が直江津まで開通し、富山県は記念事業として、東京都をはじめ7県の連合共進会を開き、9月1日から50日間の大イベントの中で「おわら」や「麦屋節」が踊られた。その際、江尻せきが中心になって、芸者たちと富山に出て来て、歌詞や伴奏を練り直した。「宙返り」を深川踊りから、「稲刈り」をカッポレから取り入れたのもこのころだった。それにより、これまでの芸者の色っぽくて難しい踊りから、非常に単純で美しい「豊年踊り」に仕上がった。大正9年に「おわら節研究会」ができ、以後毎年2月に「おわら大会」が、鏡町の明治座で催され、皆楽しみにしていたという。2月というのは長野県や群馬県の製糸工場に出稼ぎに行っている女性が帰ってくる時期で、女性の人口が1番多い月だからだ。「おわら」は女性中心であった。
 昭和4年に、東京三越で富山県の物産展示即売会でのアトラクションの呼びかけがあったのを契機に、富山県の要請で医師の川崎順二を中心に「おわら」の修正がなされた。踊りは若柳吉三郎、唄は常磐津の林中、四季の歌詞は小杉放庵らに依頼した。若柳は40日間八尾に滞在し、八尾の情感を体に溜め、熟させて、5月に「四季の踊り」が仕上がった。
 東京三越で初めて芸者が披露し、きれいな踊りと大人気だった。
 当時「おわら」は芸者が踊り、町の娘は踊らなかった。「女踊り」は鏡町の芸者が踊り、「男踊り」は「甚六会」が踊ったという。娘を人目に触れさせなかったし、踊りに出すのはもってのほかだった。しかし、医者で名門の川崎順二は、5人の娘を率先して踊りに出した。
 「あの川崎先生の娘さんが踊っているのなら」ということもあって、一般の人も踊るようになったという。戦時中の 「踊ったら国賊」という時代背景にもめげず受け継がれてきた伝統の「おわら」は、町ぐるみの熱い思いとなって現在に至っている。

3.おわら節と胡弓
 「胡弓」といえば、「おわら節」には欠かせない楽器である。昔から、胡弓の奏者は楽器を自分で作ったものである。しかし現在奏することが出来る者はごく少数で、八尾町全体でも20人程度といわれ、製作者ともなると、その工法の難しさからか富山県内でも数えるほどしかいないとされている。「おわら節」はもともと青森の「津軽あいや」から鹿児島の「はんや節」まで、全国に名前を変えて存在し、出稼ぎ者が地方から持ち帰った「はいや節」が変化したものといわれている。特に「佐渡おけさ」とは兄弟分と思えるほどに似通ったところが多いとすれば、おわらにも最初は胡弓が無かったと考えられる。文献には、明治の終わりごろ「おわら節」に胡弓が使われるようになったとされている。元祖は松本勘玄(輪島出身の漆職人)といわれている。彼は大阪で浄瑠璃の修行をしながら、長唄・小唄・三味線音楽などあらゆる分野をマスターした。
 旅芸人の一座に加わり全国を回っていた彼は、縁あって八尾で結婚した。ある日、越後曹女の佐藤千代が奏でていた胡弓と出会う。おわらの唄や三味線に、何とかして胡弓を合わせられないだろうか、と研究を重ねた結果、今日のような形となった。
 八尾が芸人の町だったこともおわらの発展に寄与している。
 もともと胡弓を演奏していたのは、卑しい身分とされた門付芸などの人々ばかりでなく、社会的にも地位が高かった検校など専門盲人音楽家たちにも胡弓が取り上げられて芸術音楽として磨かれていた。江戸時代初期から始まった門付をはじめ、各地の盆踊り、祭の磯子など、民俗芸能に胡弓が使われることも少なくなく、例えば三河地方(現愛知県東部)や知多半島では農民の冬の副業として胡弓や三味線による萬歳の門付を行う所があり、明治の末頃までかなり広い範囲にわたって活躍していた。また春駒の門付や、鹿児島県大隈の「八月踊」、大阪の盆踊り、信州高遠町の祭の嚇子、鳥取の人形芝居にも胡弓が加わっていたり、越後の瞽女(ごぜ)も胡弓を奏しており、日本各地で幅広く使われていた。民謡での使用例はあまり多くないが、津軽では胡弓のことを「バンコ」と呼び民謡の伴奏に用いたし、今に残る富山県八尾町で行われる「風の盆」の「越中おわら節」、同県五箇山の「麦屋節」なども胡弓入り民謡の例である。「越中おわら節」 に胡弓が入るのは明治以降であり、越後瞽女の影響と言われている。これら諸芸能が、江戸時代初期の胡弓を使った民俗芸能とどのようなつながりを持つのかについては、まだ不明な点が非常に多いが、全体的に見れば、このような民俗芸能においては東海地方を中心として三河、伊勢、信濃、越中、越後など中部地方に胡弓を使用する例が多く、胡弓楽において名古屋によく伝承が残っていることと何か通ずるものがあるのかも知れない。
 アジアの擦絃楽器は多くが歌謡と密接な関係を持ち、基本的に歌唱、朗唱の伴奏に用いられてきたが、独奏楽器としての発展はあまりなかった。ところが胡弓の音楽では逆に、歌の伴奏ももちろんではあるが、声楽の占める比重が極めて高い近世邦楽の中にあって、珍しく早くから器楽性が追求されてきた。擦絃楽器としては中国の奚琴より千年、朝鮮半島のヘグムに比べても4世紀も遅れて現れた胡弓は出現して100年の間に急速な発展を遂げた。現在の胡弓の重要な特徴としては、弓毛が大変に長いこと、また毛を緩く張り、量が非常に多い(ただし民謡で使用される胡弓では短く毛の畳も少ない)ことで、これは江戸時代前期の音楽家、八橋検校(やつはしけんぎょう)の改良によるものである。これにより響きにふくらみが生じ音色が柔らかくなり、また長い音価を一弓で奏することができるようになった。江戸時代中期には更に長い弓となる。このような弓は他のアジア諸国はもとより、ヨーロッパにも類似するもののない日本独自の工夫であるとされている。その他、現在でも絹絃を使い続けていること、猫皮を張ることについても、日本人が音色に対してきわめて強いこだわりを持ち続けているからであり、絹絃を捨てて金属絃を採用した中国の胡琴類とは対照的である。
 胡弓伝来の経路は今では想像の域を超えないが、一説には生まれ故郷の中東から遥かシルクロードをたどり、チンギスハーンの愛した馬頭琴をモンゴルの平原に残して、渤海国を経て能登に伝わったとする。その後、越後に伝承して越の国の風土と精神文化に見事に適応し、越中おわら節にその物悲しい音色を残したとすれば、それはまさに遺伝子に組み込まれた日本民族の祖先の遥かな記憶を呼び起こすものであり、それ故にこそ風の盆における越中おわら節の幻想的な一夜は観る者を悠久の幽玄境に誘うものといえよう。

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心に残る温泉旅館 その2  高木正人(高木内科クリニック) 

 次は、いつ行っても食事の美味しい温泉旅館のお話をいたします。
 最初は糸魚川市早川温泉郷にある笹倉温泉・龍雲荘です。北陸自動車道を能生ICで降りて早川沿いに焼山を目指して約10kmの山中にある宿泊定員180名の中規模旅館です。
 ここは山中ですが日本海から近いため、海の幸、山の幸が豊富なのが特徴です。3回ほど宿泊したのですがいつも料理は大満足でした。特にお膳の上で炊き上がる、温泉で炊いたご飯はやや黄色で絶品と思います。また、それをおにぎりにしてもらっても美味しいです。内湯、露天風呂は普通ですが、泉質は重炭酸ナトリウムの含有量が非常に豊富な重曹泉で、美人の湯と親しまれるようにお肌がつるつるになります。観光は「月不見(つきみず)の池」と女性が喜ぶ「ヒスイ海岸」でのトレジャーハンティングでしょう。奇遇なことに、あの中越大震災の日に、私はこの温泉旅館に宿泊しており、すでに酔っていました。
 次は、三条市下田の越後長野温泉・嵐渓荘です。近いので行かれた方もいられると思いますが、山の幸、川の幸、里の幸をふんだんに使った料理を出してくれます。特に山菜ときのこの季節はお勧めです。朝食も手抜きがなく、特に温泉水で作った朝粥は温泉の塩味が利いてとても美味しいです。泊まるなら最近できた渓流館ではなく、大正時代の建築で燕駅前にあった料亭を移築した緑風館が情緒があり面白いでしょう。また、最近できた二つの貸し切り風呂は、内湯と露天風呂が付いており、川のせせらぎも聞こえてきますので必ず入りましょう。宿にチェックインした時に予約をしないと、良い時間帯は取れませんのでご注意ください。さらに、温泉卓球をしたい方には無料で使える卓球台が有ります。泉質は純粋な食塩泉でかなりしょっぱいですが、冷鉱泉(湧出時15℃)のため残念ながら加温しているそうです。
 さて、次はお湯そのものが素晴らしく良い温泉で、日本3大薬湯としてその名を知られている松之山温泉です。四つの泉源の中のひとつに「鷹の湯」があります。含ホウ酸食塩泉で、ホウ酸の含有量は日本一だそうです。私の宿泊した旅館は「ひなの宿千歳」でした。ここの露天風呂「月見の湯」は母屋から少し離れたところに在りますが、なかなか感じがよく、「ぬるぬるのお肌すべすべ」という表現が当てはまるお湯です。とにかく、「あ〜いい湯だったな〜」と感じられるお湯でした。
 最後に、本当は他人には教えたくない温泉旅館の話をいたします。その旅館は六日町温泉河原崎・湯元館です。六日町温泉には湯元館がもう一軒ありますので、お間違いのないようご注意ください。この温泉旅館は、以前からあった料亭旅館を今のご主人が「もっと気軽にマイ露天風呂」というコンセプトで改築してしまったようです。この湯元館には露天風呂付の客室が合計10室あります。すべて趣の違った露天風呂が付いていて、大人が楽々4人以上は入れる大きさです。当然すべて掛け流しで24時間いつでも入れます。まずお部屋に案内されると、そこにはお茶の用意だけでなく冷の升酒が用意してあり、露天風呂に入りながらどうぞとのことでした。なんとも気の利いたもてなしであろうか。仲居さんは、一通りの説明と夕食の時間を聞いた後は朝まで部屋には来ません、いや人手がなくて来れないのです。当然飲み物は好きな物を持ち込まないと困ってしまいます。いろいろなタイプのお部屋がありますが、私はCタイプ(メゾネット)を一番にお勧めいたします。その広さは1階4.5畳和室(掘りごたつ風)+10畳和室(囲炉裏・自在鍵付)+2階12畳和室又は洋室と大きく、さらにこの2階には使いたい放題のマッサージチェアーが備え付けてあり極楽です。2階は寝室と考えているらしく、到着時にすでにお布団が敷いてありました。また、廊下には子供たちが自由に取っていける駄菓子コーナーやカップヌードル、アイスクリーム、わたあめ製造機、おもちゃ、射的コーナー、温泉卵、冷やし野菜など全て無料で、人手不足を補うための工夫とサービスがありました。夕食は個室が用意してあり、山の幸、海の幸が大皿に豪快に盛られて出てきます。量が多いのでパーティ気分で、みんなで分けてわいわい言って食べるのが良いでしょう。温泉は硫黄の香りがして、湯船には湯の花が混じっている本物で、お湯の出口は60℃と高温です。そのため、客室付の露天風呂や大浴場、その露天風呂共にとても熱いので、入浴時には水を足して冷やさないと入れないくらいです。有名高級旅館では、高温の源泉を竹の樋を通すことでその温度を適温まで下げ、源泉をうすめないで入浴できるようにしていると問いていますので、もうひと息工夫してもらいたいと思います。気になる宿泊料金は、大人4名で休日前に泊まった場合、お一人様1万8千円(税・サービス科込)とお安くなっています。あと、Aタイプは8畳和室+8畳和室+4.5畳洋間に改築前の大浴場がついているらしく、今度是非泊まってみたいものです。
 最後に、皆様の知っておられる、近くて、安くて、情緒のある心に残る温泉旅館を教えていただけると幸いです。

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第3回長岡市医師会ACLSコースを受講して  野々村直文(野々村医院)

 米国では自動体外式除細動器(AED)が航空機や空港など人が集まるところで常備されています。日本もその動きに追随し、ゆくゆくは診療所でもAEDを常備する時代が来ると考え、妻とともに第2回のコースに応募しました。しかしながら10月24日のコースは地震で1月16日に延期となり、当日は子供のセンター試験と重なり受講することができませんでした。今回ようやく平成17年6月19日に開催された第3回のコースを受講することができました。待ち焦がれたこともありますが、期待に違わず充実した一日を過ごすことができました。
 コースは実技が中心で、時間的制約のため予め「救急蘇生法の指針(日本医師会)」を読み、プレテストで知識を確認するようになっています。昨年10月に指針を一度読みプレテストに備えていたのですが、きれいさっぱり忘れてしまい、老化が眼のみならずその奥まで進んでいることを再確認してしまいました。「救急蘇生法の指針」は、救急蘇生に当たる人が同じアルゴリズムに基づいて行動できるよう作成されたものです。これは臨床の場で導入されているクリニカルパスの考えに通ずるものです。
 心肺蘇生の機会に遭遇することはそうあっては困るのですが、除細動が1分遅れるごとに救命率が10%低下するとのことなので、知識のみならずチーム構成員がてきばきと実践できるよう日頃から訓練しておくことが必要です。
 実習ではまず大きな声を出すことが要求されます。初めは自信のなさ、恥ずかしさから声を出すことを躊躇してしまいます。声を出して協力者を探し、除細動器や救急カートを持って来てもらうことから蘇生が始まります。さらに協力者に状況と対応を伝えることで救命救急の処置がスムースに進みます。また声を出すことで、もはや読んだだけでは記憶に残らなくなつている脳を奮い起こし、知識を確実なものにすることができます。
 実習は三つのセクションに分かれており、(1)基本的手技、(2)人形を使って頻脈、徐脈の症例への対応、(3)まとめとしてそれらが複雑に入り組んだ症例への対応と、救命処置ができるように、これでもかと訓練させられます。症例の詳細は、既に受講された先生方が投稿されておられますので省きます。なかなか凝っいますので受講した時のお楽しみにして下さい。
 私の診療所でも一方向バック、マスク、気管挿管セット、エアーウェイ、ACDCPR(心臓マッサージ用)の器具などを備えていますが、AEDの購入も検討しなければならないと思います。突然のショックや心停止の治療薬は各々2〜3本あればよく、挿管チューブ、ラリンギアルマスクも各サイズ1〜2本あれば事足ります。さらに骨髄穿刺針や緊急気管穿刺術用のトラヘルパーなどは1本で十分です。箱買いでは無駄が多すぎます。ちなみに某市医師会では救急用薬剤を数年ごとに会員に配布しています。挿管チューブ、骨髄穿刺針、トラヘルパーなどは医師会でバラ売りし、診療所でも救急蘇生用具を備え易いよう取り計らっていただきたいものです。
 講習会の最後に救急隊による外傷患者の初期対応を見せてもらいました。てきばきと搬送がなされ、その習熟度の高さには驚かされました。私と同じグループの救急隊員は、私の診療所に搬送のため来たことがあるとのことで、実習でも機敏に動かれていました。院内の緊急時には救急隊に出動してもらい、蘇生の手伝い、搬送をお願いすることになるわけで、頼もしく思うとともに、われわれ医師の側も日頃から訓練することが肝要と思いました。まだ受講されていない先生方、医療従事者の方には是非とも受講されることをお勧め致します。
 最後になりましたが、内藤先生をはじめスタッフの方々の献身的で熱意にあふれた御指導でマンネリ化した頭脳をリフレッシュしていただきありがとうございました。

(後日談)
 ACLS受講10日後、家内は勤めている病院で、脳出血による意識障害を起こした入院患者に遭遇し、無事対応ができたと喜んでいました。

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ACLSコースを受講してみて  湯野川淑子(田宮病院)

 今回第3回長岡市医師会のACLSコースに参加しました。既に受講されていた先生から、為に成るから是非参加するように勧められていたのですが、長年精神科医をしていると、身体臨床から遠ざかり、緊急時には、救急車を呼んで、他院へお願いするばかりで、救命処置の実習というと気が重く、身体に関しては、素人以下の医者であることがバレルのではと、とても心配でした。
 コースを受ける前日に、一夜漬けで勉強したものの、心電図や略語の意味さえもが、頭に入らず、普段は不眠とは嫁がない私も、前日は良眠できませんでした。
 いよいよ当日、三人のグループに分かれて、実習が始まりました。教わることも実習することも、全てが新鮮で、年も役割も忘れて、一生徒になって、恥かきながら、課題をこなしていきました。この実習の特徴は、緊急患者に遭遇したら、まず声を出し、応援を求め、チームで対応していき、リーダーは、手順に従って、自分が何を判断し、どの段階の何をしようとしているかを、声に出して、他の人に伝えて、指示を出し、尚且つ絶え間なく起こる不測の事態に対処することが、要求されます。こうやって、書いただけでも、そんなことは不可能と思われますが、そこは、実習なので、やさしい指導の先生が、私の能力に合わせて、助け船を出して下さったり、他のメンバーが小声でヒントをくれたりと助けられながら、課題をこなしていきました。即席のグループなのに、午後には、連帯感や仲間意識さえも生まれてきました。
 当日知識経験不足のため、実習場面で、頭が真っ白になり、立ち往生してしまうことも多々ありました。それ以上に難しかったのは、声を出して、自分の判断や次にすることの指示を出すことでした。普段の外来業務では、一人で完結してしまうことが多く、声を出すことで、他のメンバーに理解と協力を得るという機会は、少ないのです。これは、時間と戦わなくてはならない救命という非常時には、一人の力を超えたものが要求されるため、声を出し合って協力して処置にあたることが必要不可欠なのです。自信を持って大声を出せるためには、救急救命士の方々のように、日々の訓練が必要なのだと思いました。
 それにしても、救急救命士の方々の訓練された機敏さと声に出し、確認しながら、処置を行うチームプレーは、美しくさえありました。
 あれだけ実習を受けるのを心配していましたが、終わってみれば、自分の知識の無さは、痛感したものの充実した疲労感を味わいました。人の印象に残るのは、巧く出来たことよりも、恥をかいたり、間違えたことの方です。そして、机上で学ぶことに比べ、実際に体験することから学ぶことの多さを、改めて実感しました。
 まだ、この講習を受けていない医師や看護の方に、声を大にして、受講することをお勧めします。
 最後に、このコースの運営に携わった講師の先生や、スタッフの方々に深く感謝いたします。

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ACLS必勝マニュアル  吉田英毅(吉田病院)

 6月のある早朝、病院からの電話で起こされました。療養型病棟の患者さんが心肺停止状態となり、当直の整形の高橋先生が対応中との報告です。早朝の予期しない急変という状況を考えると、心肺停止からある程度時間が経過している可能性が高く、蘇生はかなり厳しい状況と思われます。暗澹たる気持ちで病院へ向かいました。病室に入ると高橋先生が「ボスミンと硫アトを5分おきに3回管注して心マして、VFで除細動をかけて脈も血圧もでたけれど、自発呼吸が出ない。」とおっしゃいます。血圧120 Sat100%と良好。治療を引き継いで、寝ぼけ眼でアンビューバッグをもんでいると自発呼吸もでてきて見事に蘇生しました。原因は急性心筋梗塞でした。医局に戻って高橋先生の見事な処置について話を聞くと、「ACLS講習会の参加を申し込んだら事前に勉強すべき資料が送られて、この当直中に読んでいたら、いきなり実践する事になっちゃった。」との事。読んだだけで効くACLSおそるべし。さらには後日の朝日新聞によれば、名古屋万博会場には100台のAED(自動体外式除細動器)があって、現在までに心停止が5名発生。うち4名がACLSで救命されたと言います。やはりACLSおそるべし…そんな経緯で受講する事になりました。前日までなかなか勉強に手が着かず、学生時代から進歩のない一夜漬け勉強を女房と笑いつつ会場へ向かいました。
 我が国も2004年7月から無資格者で
もAEDを用いた除細動ができるようになったそうです。そんな訳でいまや空港、飛行機の中、駅、ショッピングセンター、ホテル、遊園地…いつのまにか知らないうちにAEDが置かれている場所が増えています。きっとこれからもっと増えるでしょう。私にとっては子供と一緒にいる事の多い場所ばかりです。そんな場所で患者に出くわしたらどうしましょう。「お客様の中にお医者さまはおられませんか?」とのアナウンスに、心配そうにこちらを向く我が子の顔が日に浮かびます。子供の手前、見て見ぬふりもできません。あわてて寝たふりなんかしたりすると、かなりカッコ悪そうです。
 アメリカ心臓協会の心肺蘇生法ガイドライン(G2000)では病院外でも5分、病院内では3分以内に除細動を行う事が求められています。心臓停止後約3分で死亡率は50%なのだそうですから時間との戦いとなるのは当然ですが、3分は病院でもかなり厳しいと思います。救急外来で蘇生できた経験がないのもむしろ当然かもしれません。最近リスクマネジメントの講演会で聞きましたが、我が国のある医事紛争ではアナフィラキシーショックの患者で心マまで5分、挿管まで10分かかった事を対応の遅れとして判決で非難されたといいます。最近のマスコミの医療批判傾向もあって、医療訴訟件数は著しい増加を続けているとか…将来は除細動までの時間の遅れも過失とされるのかもしれません。明日の外来に突然、不安定狭心症の患者さんが迷って出るかもしれません。待合室で心筋梗塞から心停止となった時に現在の医療水準でやっておかなければならない事を、文字通り手取り足取り教えてくれるのがACLSです。AEDのメーカーの方から機器の説明も聞く事もできます。

 最後に誤解を恐れずに言い放っちまいましょう!(当日の私のあわてぶりを見ていた皆様。偉そうに何を言うかと責めないでくださいね。)ICLSという基礎コースだからとは思いますが、そんなに難しくはありません。以下は経験者が語る、必勝マニュアル四項目です。

(1)雑念を振り払い Primary ABCD Secondary ABCD のどこを行っているのかに集中しましょう。

(2)立場上、薬剤投与もしなければ… でもダイジョーブ。使う薬は数種類にすぎません。

(3)PEAの原因疾患は覚えておきましょう。

(4)それでも不安なあなた。過去の「ぼん・じゆ〜る」のACLSレポートも読んでおけば完壁。一夜漬けの最後に読んでおけば良かったと、いまだに後悔するような情報にあふれています。

 この原稿の依頼時に「読者が受講してみたくなるような内容で」との指示を受けております。どうですか? 受講してみたくなりましたでしょ? まだ不安ですって? そりや困ります。次回の受講者数が減ったら私の責任になっちゃいます。お願いですから受講してください。絶対に損はさせません。なにより結構楽しいですよ。

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We Will Rock You  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 改築新装したばかりの新宿コマ劇場にイギリスからのミュージカル「We Will Rock You」が来る。というので日曜日に家内と息子とで早速観に行ってきました。もちろん言わずと知れた伝説の、究極のロック・バンド「Queen」の曲を使ったQueenのメンバー自身によるプロデュースで、俳優や演奏者も皆イギリスでのオーデションに受かったメンバー。
 「We Will Rock You」と言うのは“俺達のロックであんた達を揺さぶって脳味噌をコネコネしてやるぜ”ってな意味だと自分は解釈しているので、その日の2週間ほど前からCDはロックしか聴かないことにし、ギターもエレキしか手にしない事にした。
 当日の朝もMDにQueen(英)、Aerosmith(米)、TheBlueHearts(日)、と3カ国の代表的ロック・アルバムを入れて新幹線の中から聴いていく。いずれも一世代から二世代以上まえからのロックだが、おかげで脳味噌は丁度良い蟹味噌状態に練り上がっている。…だいたいね、最近の1ポップなんかロックの格好ばっかりで“悲しい恋のラブバラード”みたいなものや、“今が一番いい時、今を大切にして行こう”なんて歌うたってどうするの、BAKA!
 …と思ってもそれは自分が中年以降にさしかかったからで、ロック自体が既成概念を揺さぶってひっくりかえすものだから、まあいいか…。
 新幹線は9時ちょっとに東京に着く。公演は2時からだから家内は新宿へショッピングに。息子と自分は秋葉原に行くことに。アキバはもともと自分の遊び場。学生の時はキャンパスから歩いて行っていたから。
 息子はTVゲームのソフトや海洋堂(いわゆる食玩−ミニフィギュアのメーカーです)あたりを見に行くので、自分はもう開店している大型電器店の最上階から見ていくことにする。だいたいは7〜9階建て位のビルで最上部の3階くらいは外人さん向けの免税店になつている。そこが面白い。
 額縁に入った立体写真の富士山、舞妓や浮世絵の付いたぐい飲みやとっくり、ニンジャの手裏剣や直刀、ど派手な龍の模様の浮き彫り付きカタナ、ショーグン様用のチョ一美しいどてら等みんなとっても魅力的。
 店員さんも国際色豊か。あの子はフィリピーナね、きっと。…え?… Can I Help You?…じろじろ見てたから買うと思われたかな?‥‥ちょっと待ってね。イヤホンはずすから…
「あー、ホワット・ダズ・イット・ワーク・フォア?」…「オー・シュア」…「フィッチ・ドゥ・ユー・レコメンド・ジィス・オー・ジス?」…「オー・シュア・サンキュ」…「アイル・バイ・ジス」「ドゥ・ユー・ハブ・バッテリィズ・フォー・イット」…Yes…「サンキユ・アイ・キヤン・ペイ…ウィズ・タックス」…Thank you…「バイ・バイ」
 あー、よけいな物買っちまった。…僕の英語がひどいって?…いいのよ。どこの国へ行ったって金払う時は相手は満面の笑顔よ。彼女だって良い仕事したんだから良いじゃない。
 結局、アキバでは数点のがらくたとベッカムや中村のネームのはいったサッカー・ユニフォーム、初期のビートルズのDVD、Queenの「We Will Rock You」と「Live at Wembley」のDVD(これを探していた−WembleyはFredddie.M没後、ロッカーの聖地と崇められている)を仕入れて(なんといずれも1枚千円・Cine Korea承認マーク付き)意気揚揚と聖地・新宿コマへと向かったのです。中年ロッカーの心は熱く燃え!

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