長岡市医師会たより No.313 2006.4

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もくじ

 表紙絵 「安曇野の春」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「医師会長就任のご挨拶」 会長 大貫啓三(大貫内科医院)
 「新病院とヘリポート」 富所隆(長岡中央綜合病院)
 「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その5」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「ACLSコースを受講して」 阿部良興(あべ内科クリニック)
 「ACLS講習会に参加して」 加納昭彦(加納耳鼻咽喉科医院)
 「ACLS講習会に参加して」 吉原正博(宮内中央診療所)
 「たくさんの感動」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



安曇野の春   丸岡 稔(丸岡医院)


医師会長就任のご挨拶 大貫啓三(大貫内科医院) 

 この度、齋藤良司前会長のあとを引き継ぎ、長岡市医師会の舵取りをお任せいただきました大貫です。栃尾市古志郡医師会と三島郡医師会との合併という大きな節目の年に大役をお引き受けし、身の引き締まる思いがいたします。
 医療界を取り巻く状況は一段と厳しいものがあり、今回の診療報酬改定においても3.16%(本体部分1.36%)の大幅引き下げがありました。先般開催されました第114回日本医師会定例代議員会の日本医師会長選挙に日本医師会代議員として出席して参りましたが、診療報酬大幅引き下げに象徴される日本医師会の地盤低下と発言力の低下を食い止めたいとして立候補した唐澤祥人氏(東京都医師会長)が、2期日を目指した植松治雄氏を破り日本医師会の新会長に就かれたのは会員諸兄ご承知の通りです。このような厳しい状況の中、唐澤日医新執行部には、主張すべきはきっちりと主張し、私たち医師が安心して診療に取り組むことができ、国民の皆さんが満足できるような医療を提供できる環境作りをしていただくよう期待しております。
 さて齋藤前会長には、3期6年に亘り会長職をお務めいただき、数多くの業績を残されました。斎藤前会長は平成14年救急救命士の気管挿管問題では全国に先駆けて挿管できるように働きかけられました。また、平成15年10月医師会館を現在の場所に新築され、平成16年10月23日発生の中越大地震においては、被災者住民の健康管理のため長岡市と協力し陣頭に立って指揮を執られました。さらに本年3月には、広域的な長岡市中越こども急患センターを立ち上げ、小さなお子さんを持つお母さん方に大きな安心を与えられました。そのほが挙げれば切りがありません
が、齋藤先生本当に6年間ありがとうございました。
 前にも述べましたが、本年4月からは栃尾市古志郡ならびに三島郡の両医師会と合併し、新しい長岡市医師会が誕生し、会員数も40数名増加して400名にならんとしております。当医師会も副会長に太田 裕、富所隆、庶務担当理事に長尾政之助の各先生をはじめ、春谷垂孝、中村敏彦、小西 徹、森下英夫、鈴木しのぶ、大塚武司、丸山直樹、高木正人の各理事に加え、旧栃尾市古志郡ならびに旧三島郡医師会から参与として坂井克一郎、小林 徹の2名の先生方を迎え、新たな執行部でやって参ります。合併によって以前よりも住民の方への医療や健診サービスが低下したり、医師会機能が低下したりすることがないように、医師会執行部ならびに職員一同頑張って参りますのでよろしくお願いいたします。
 一昨年から医学部を卒業するとすぐ2年間の卒後臨床研修が義務付けられ、長岡市内の3病院に合わせて40名ほどの若き医師が研修を受けています。その研修の一環として地域医療研修があり、開業している先生方の所にも研修医がお世話になり地域に密着した医療の実態を勉強させていただいています。若い医師に地域医療がいかなるものかを感じてもらうことも大切ですが、この研修を通じて地域医療に興味を持ってもらい、さらにはそのうちの一人でも二人でも長岡の研修を受けた病院に再び常勤医として戻って来てくれるようになれば、長岡の医療がさらに充実したものになると考えます。医師会としても3病院の地域医療研修に全面的に協力するとともに、地域医療研修指導者講習会の開催や研修成果の発表の場を提供していきたいと考えております。会員各位のご協力をお願い申し上げます。
 また私たちの医師会は、医療はもとより福祉・保健事業を通じて行政当局である県あるいは市と密接な関係にあります。行政に出来る範囲で協力することは当然ですが、医師会の意見も行政当局にしっかりと申し上げ、市民が十分に福祉保健事業の恩恵を受けられるように努力する必要があると考えます。特に合併によって以前よりも福祉保健サービスの質が低下することあってはならないと考えております。このためにも行政当局と医師会のより密接な連携を構築していきたいと考えております。
 小児救急事業につきましては、長岡市内の小児科医の先生方だけでな
く広く中越地域の小児科医のご協力の下、長岡市中趣こども急患センターの運営が成り立っております。中越地域の小児科医の先生方には大変なご負担をお願いしておりますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。
 ここで残念な報告をしなければなりません。当医師会員の一人が、電磁的公正証書不実記録未遂の罪で厚生労働省から平成18年3月1日付けで医業停止3ケ月の行政処分を受けました。はなはだ不名誉なことであり当医師会としても裁定委員会の答申を受け戒告処分を決定し、当人に処分を厳粛に受け止めるようきつく通達いたしました。
 人事異動では、医師会に30年もの長きに亘ってお勤めいただきました梅沢サクさんが定年退職され、地域産業保健センターにお勤めいただいた大井美都子さんが一身上の都合で退職なさいました。お二人のこれからのご健勝をお祈り申し上げます。またお二人に変わって廣田千尋さんと米山玲子さんが新たに勤務されております。よろしくお願いいたします。
 綿々と続いている長岡市医師会の伝統を汚すことなく、活動的な開かれた医師会運営に新執行部一丸となって邁進する所存ですので、会員各位の変わらぬご支援ご鞭撞をお願い申し上げて就任のご挨拶とさせていただきます。

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新病院とヘリポート 富所隆(長岡中央綜合病院)

 早いもので、新しい病院に来て丁度半年が経ちました。不案内な病院内の地理に慣れ、複雑怪奇なオーダリングシステムを何とか使いこなし、辛い禁煙生活を乗り越えて何とかここまでやってきた感じです。昼食抜きの生活にも慣れてきました。幸い今のところシステム上の大きなトラブルも無く、入院ベッドの回転も順調で、評判の悪かった外来での待ち時間も少しずつ改善されつつあるようです。
 さて、先日当院の病診連携便りにヘリポートの初利用のことを書いたところ、“ぼん・じゆ〜る”の編集長から、もっと詳しく書くようにと指導を受け、この誌面をお借りいたしました。
 当院がヘリポートを敷設しようと決めたのは中越地震の後です。自衛隊のヘリコプターで避難してきた山古志村の人達を見て、病院内にヘリポートがあれば直ちに治療ができるのにと思いました。幸い広大な敷地があったので、駐車場の一角をヘリポートとして利用することができました。
 以前から山岳遭難のニュースや、北海道などで活躍しているドクターヘリの存在は知っていました。日本航空医療学会のデータでは昨年7月現在でドクターヘリの拠点病院は全国で10カ所になったそうです。ヘリを利用することで死亡者数の割合、後遺症を持って退院する人の割合が大幅に減少したとのことです。ヘリによる救急患者の搬送に関しては新潟県ではまだ馴染みが無く、ここ長岡では要請後数分以内に救命救急士が同乗した救急車が現場に到着することもあってあまり深刻に必要性を感じませんが、先の地震のように車という交通手段が絶たれたときには大きな戦力になることは間違いありません。
 2月18日出、幸運にも晴天で“雪しか祭”の会場に来てくれた朝日航洋のヘリに試乗させてもらいました。風もなく絶好のフライト日和で揺れることもなく快適な飛行でした。会場から山古志村まで飛んでもらい、その後病院のヘリポートに着陸してもらいました。村は一面の雪に被われており、地震の爪痕を確認することはできませんが、あちこちで雪崩が起きており、山の険しさを感じさせるものでした。山古志村役場や、懐かしい虫亀診療所、佐藤良司先生のご自宅などを確認して病院へ向かいました。村からは、僅か5分で病院に到着しました。あの山道を車で長岡まで来ることを思うと、ヘリでの患者搬送に大きな魅力を感じざるを得ません。現在日本で活躍しているドクターヘリは有視界飛行なので、日の出から日没までしか飛べませんが、救命救急処置を必要とする患者に対しての現場での救命処置、医療施設への迅速な患者搬送に今後利用される可能性が大きいと感じました。
 ヘリポートを使うような大きな天災はもう起きて欲しくはありませんが、もしもの時に役に立てばと思っています。日本は世界で三番目に多くのヘリコブターを保有しているとのこと。もう少し人命救助に利用されても良いのかも知れません。

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タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その5

田村康二(悠遊健康村病院)

 ついに憧れのオルドバイ渓谷に着く

 ンゴロンゴロのソパ・ロッジを出発してから、約60km位を2時間位かけて揺られながら走ってようやくオルドバイ渓谷の端に到着した。そこから眺めた渓谷美は忘れ難い。ここが長年目指してきた私のご先祖が発生した地か!と感動した。

 オルドバイ博物館

 まずオルドバイ博物館に入った。ここでの見物は2つある。第一の見せ物は人類最古といわれる頭蓋骨を初め、同時に発掘された石器や化石の展示品である。この頭蓋骨は第一部でお見せした写真を思い出して欲しい。これは実はレプリカで、本物は首都ダリエル・サラームの国立博物館にあるという。この渓谷の谷底を流れているオルドバイ川の河岸を、考古学者メアリー・リーキー夫人は1959年7月の雨上がりの時に、愛犬と一緒に化石に目を光らせて歩いていた。そのとき雨に洗われて露出していた頭蓋骨の化石を見つけたのだ。そこで風邪で休んでいた考古学者の夫ルイスを連れ出してこの頭蓋骨を見せた。ルイスは最初観た時には、類人猿の頭蓋骨だろうと考えた。しかしやがて世界最古のヒトの頭蓋骨であることが立証された。かれらは1932年から約30年もかけて、この人里から遠く離れた地でキャンプしながら継続して発掘を続けていたのである。だから20世紀最大の生物学的な快挙だった。この頭蓋骨の持ち主をジンジャントロプス・ボイセイと名付けた。いまではバラントロブス・ボイセイと呼ばれている。それに付いていた火山灰を、カリウム・アルゴン法で測定した年代は175万年前であったという。
 ルイス・リーキーはこの猿人は人類の祖先だと主張した。そこでホモ・ハビリス(猿人)と名付けた。「能力があるヒト」という意味だ。かれらの脳容量は650mlもあり、しかも石器を用いていたのだ。しかし彼らが今のヒトの祖先ではなくて特殊な猿であり、現生に続く子孫を残すことなく絶滅したと考えている学者もいた。しかしリーキーらは1960年に同じこの地からホモ・ハビリスに続くホモ・エレクトス(旧人)の化石も見付けたのでヒトの祖先である証拠は揃ってきた。
 第2の見せ物は、ヒトが二足歩行を始めていたという証拠である。1978年になってリーキーらはタンザニアのラエトリでおよそ400万年前にできた猿人の足跡の化石を見つけた。火山灰が降り積もって凝固する前の足跡が化石として残ったのだ。そのレプリカがこの博物館に展示されている。これを見ると親子3人が連れ立ってそれぞれ2本の足で歩いている足跡であることが分る。この頃から家族が有ったんだと思うと、当たり前のことだが、不思議な気がした。この足跡から親の身長は1.2〜1.5mと推測されている。その発掘された地層は360万年前という。この足跡こそサルの四つんばいからヒトの二足歩行への進化の問に失われていた輪を繋ぐ証拠となったのだ。この類人猿たちはアウストラロピテクス・アファレンシスと命名された。

 オルドバイ渓谷での白昼夢

 博物館を出て眼前に広がる美しい渓谷(写真)を眺めた。イギリスのガイドブックには「タンザニアはサファリに熱心だが、もっと豊かにある遺跡を観光資源としてはどうか」という提言が書かれている。同行した一同は私の家内を含めて「なんだこんな谷は」と関心を示さない。ガイドですら遺跡の説明をしてくれない。そこでガイドのマユダさんに聞いてみた 「マユダさん、馬でも犬でも純系は優れていますよね」「その通りです」と彼は言う。「じや、人類の純系に最も近いあなたがたは他の我々のような雑種と比べて何が優れているのでしょうか?」と尋ねた。博学なマユダさんも、「?」とこの問いには答えてくれなかった。近くに到来すると予測されている大氷河期には、現在の人類(ホモ・サピエンス)に代わって再びあたらしい人類が彼らの開から生まれてくるという歴史を考えてみた。前から出版社から頼まれている時間医学をもとにしたタイム・マシンのSF小説のネタになりそうだと思っている。
 この崖っぷちに腰掛けて持参した越後煎餅をかじりながら、眼下に広がる渓谷を見下ろし、しばし夢想に耽った。オルドバイ川は西に50km位離れた所にあるNdutu湖から発してオルドバイ沼地に至るという短い閉鎖系の河である。この河底はこの後で訪れたセレンゲティ国立公園と同じ高さにある。断崖部分の約70mもの高さの土地は、度重なる噴火のために積もった土砂でできたのである。渓谷の幅は意外に狭く対岸に人が立っていれば、それと識別できる位の距離である。だから対岸の地層が肉眼でよくみえる。この噴火の度に重なってできた地層の下から順に類人猿、猿人、旧人、新人とヒトに繋がってきた全ての化石がそれぞれの地層から発掘されている。この点で世界でも極めて稀な場所であるという。
 最近になってこの渓谷内への一般旅行者の立ち入りは遺跡保存のために、禁じられた。ガイドに「なんとかなりませんか?」とたずねたら、「次回は考古学者になって来て下さい」と笑いながら言われた。現地のガイドブックによれば、頭骸骨がみつかった場所には 「ここで頭蓋骨は見付かった」という記念碑が置かれているという。1972年にリーキーの次男リチャードがケニアのトルカナ湖畔で頭蓋骨の容量が750mlの頭蓋骨を発掘した。この化石は200万年前のものであった。これもホモ・ハビリスの存在の証拠となった。彼らは時に数キロ離れた所から石を運んで様々な石器を作った。それらはオルドバイでの石器類と一致した。この点からもヒトの祖先であると認定された。一方、考古学者ドナルド・ジョハンソンらは1974年に隣国のエチオピアのハダールで300万年前の古い猿人の化石を発見した。その骨から二足歩行をしていたと推測された。かれらはキャンプでこの発見を祝って音楽を聴こうとしてテープをまわした。するとビートルズの「ルーシーインザスカイ…」が聞こえてきた。そこでこの猿人を「ルーシー」と名づけた。ルーシーは私を始め人類の母の一人として一躍有名人になった。
 リーキーらは1975年にトルカナ湖畔で猿人に次ぐ世代である原人の頭蓋骨を見つけた。今から150万年前の化石であった。そこで原人たちはアフリカ大陸の大地溝帯からヨルダンやシリア高原を通って世界に広がったのだと推測できたのである。その証拠の1つはヨルダンの奥地にある有名な遺跡、ベトラ遺跡に残されている。ベトラ遺跡は、ハリソン・フォード主演の映画「インディ・ジョーンズ」の舞台になって一躍有名になった。この遺跡で以前に私達が見た無数にある洞窟には猿人を始めとする古代人の証拠が数多く残されているという現地ガイドの説明を思い出した。1891年にオランダの若き解剖学者エージン・デボアはジャワ原人の化石を見つけピテカントロプス・エレクトスという名を与えた。今からおよそ60万年前の骨だ。さらに1927年に北京原人がみつかった。原人達はアフリカに留まらず、明石原人ともなり世界中に散らばっていったのである。彼らの開から次の時代のヒト、ホモ・エレクトス(旧人)が生まれた。その証拠は1857年にドイツのデュセルドルフ市の郊外にあるネアンデルタールの渓谷で見つかった。ネアンデルタール人(旧人)は寒冷地に適応していた。しかし、新たに火、暖房、衣服などの新技術を持っていたクロマニオン人(新人)、ホモ・サピエンス(賢いヒトという意味)に駆逐されたらしい。最近の説では旧人を襲ったレトロビールスの感染が、現代人に繋がる新人であるホモ・サピエンスを生んだのだろうとも考えられている。ビールス感染が遺伝子を変えたというのである。
 ヒトの進化は段階的に継続して起きた“漸進説”のではなくて、地質学的な変化が原因で突然変異がおき短時間の内に進化した“断絶説”と説明されている。日本では何故か地球の温暖化のみが叫ばれている。しかし、アメリカでは実はかなり前から温暖化よりもやがて氷河期がくるという学説が有力なのをご存知だろうか? それが米映画「デイ・アフター・トゥモロー」の筋書きになっている。米国防総省は昨年、大西洋を流れている海流のコンベヤーベルトの変化がもたらす寒冷化で氷河期に入り食糧危機などの安全保障上の問題が起きるだろうという専門家報告を公表した。最近の長岡市の異常な寒さにたじろいでいると、この寒さや地震がやがて我々の今後にどう関わってくるかと不安になる。
 アフリカの大地で別れたチンパンジーとヒトの違いは何か?を考えてみたい。
 ゴリラやチンパンジーと人の違いの1つにはそれぞれの家族との係わり合いの差にある。リチャード・リーキーはその差をこう述べている。「ゴリラではメスがムコを他の家族から迎える。しかしチンパンジーのメスは嫁に行く」。だから人に近いチンパンジー社会は男子継承である。オス同士が団結して群れ、つまり血族、を守って行くというのだ。人類学的にはルーシーが人類の母としても、ヒトの家族の始まりは父系か母系かの結論はまだ出ていない。今話題になっている後継天皇問題ではチンパンジー並に男子血統主義こそが生物学的に自然なのだろうか? しかし、江戸時代の大名家で男子血統主義を貫けたお家は無いという。私も娘2人なので側室を公認して貰わないとお家は断絶となるなんてことを思いながら、オルドバイ渓谷を眺めていた。「さあ、出発しますよ!」と大声で言われて、私の白昼夢は終った。発車した車の中でこの夢物語を家内にしたら「あなたには、側室なんて無理ですよ」と一笑に付された。こうしてたわいなく旅は続くのである。(続く)

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ACLSコースを受講して  阿部良興(あべ内科クリニック)

 以前人工蘇生講習に参加したことがあり、その時は体育館のような場所でダミー人形相手に人工呼吸と心臓マッサージの練習だけだったので、今回のACLSもその程度のものかなという印象でした。それにしては丸1日と長時間なのはどうしてなんだろう?といぶかしく思っていました。事前に医師会から資料が送付されて来ましたが、申し込んだのが直前だったので時間がなく、送付資料「Guideline2000でのACLSアプローチ」もちんぷんかんぷん、推薦図書の「救急蘇生法の指針(日本医師会)」も見つからず、不勉強のままの出席になってしまいました。それでも一応内科医なんだし、5年前までは勤務医で心肺蘇生もしていたのだから何とかなるだろうと思っていました。
 会場に着くと少人数の
受講者に対し圧倒的に多くのスタッフがおられ、驚きと緊張が走りました。ACLS指導責任者の内藤先生のテキパキしたレクチャーの後、3人一組での実習になります。まず、倒れている人(ダミー人形で会話や歩行まではしないものの、挿管は出来るしバッグバルブマスクで送気すれば肺音も聴取可能、心電図をつければコンピュータ制御で波形は出る、除細動すれば波形も変化、さらに頚動脈も触知可能という高性能です)を見たら声をかけて、意識のない事を確認した後、すぐさま大声で周囲の助っ人を集め、除細動器や救急カートを依頼する事から始まります。処置が遅れる程、救命率が低下するので迅速な行動が要求されている訳ですが、いつも呑気な生活をしているので、大声が出せないし簡単な依頼の言葉でも口がもつれました。
 次
に一次ABCDに入りA:頭部後屈による気道確保、B:バッグバルブマスクで100%酸素投与の人工呼吸2回、体動や自発呼吸の確認、C:頚動脈波をチェックして脈がなければ心臓マッサージ、除細動器の心電図モニターで波形の確認、適応があればD除細動3回までと、どんどん進行していくわけです。ここ迄でも既に頭が混乱してしまい途方に暮れたりしました。しかし、これで終わる訳ではなく、更に心拍が再開しなければ二次ABCDへと進み、A:気管内挿管し、ちゃんと挿管出来たか胸郭の挙上、挿管チューブ内の曇り、両前胸部・両側胸部・心窩部聴診などで確認。C:再度心電図診断、静脈確保して薬剤投与し生食20ml注入、注入肢挙上、除細動。それでも駄目なら、D:心肺停止の鑑別診断、薬剤注入、除細動。と心電図で洞調律波形が出るまで続けるわけです。この過程では、呼吸器科医なのに挿管が出来ず自信喪失、やっと挿管しても確認を忘れる。薬剤注入して除細動してもVF→Asystoleになって変化なし、一瞬「もしかしたら、いつもの現実のように回復しないのでは?」などと諦めモードになりかけていたら、内藤先生がさすがに呆れたらしく「VFに使うのはボスミンだけじゃないだろう!」とアドバイスを下さる。その一言で我に返り「リドカイン50mg静注」と言ってしまう。あとで考えると、順番としては硫アトが正解だったかもしれないが?お情けで心臓が何とか動いてくれホッとする。因に内藤先生とは同級生で、いつも真面目で、今回だって一生懸命準備してくれたのに、こちらは準備不足で来て申し訳ないなあと思った。御免。しかし、拙いのは私だけで他のメンバーは難なくこなして行くので益々自信喪失。このような実習が手を変え品を変えて3コース続き、どんなに下手でも、終了する度にスタッフ一同が笑顔で拍手してくれるので面目ないと同時に少し恥ずかしく救われた感じになる。最後の挨拶で内藤先生が「受講者に二度と来たくないという印象だけは持って頂きたくないのでスタッフ一同努力している」というような事を言っていたが、本当にその通りだと感心した。スタッフの皆さんお疲れ様でした。ありがとう。まだ受講していない方は私より勉強して是非出席してほしいと思います。最後に現実問題として、当院を見てみると救急薬があまり無いので、以前の受講者も指摘されていましたが、医師会でバラ売りして頂けないでしょうか? それからAEDも近い将来設置したいと考えました。最後に要望、ダミー人形が机の上にあり、少し高すぎるので善処お願い致します。

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ACLS講習会に参加して  加納昭彦(加納耳鼻咽喉科医院)

 医師になって15年、新幹線内で「お客様の中にドクターはいらっしゃいませんか?」とのアナウンスに遭遇したことが2回あります。この確率なら、AED(自動体外式除細動器)が各所に設置されるようになった現在、それを使用する場面がないとも限りません。ましてやその対象が自分の家族だったら…。そんなことを思いながら、去る3月19日にACLS講習会に参加しました。
 講習会の内容については以前の“ぼん・じゆ〜る”に多くの人が書いているので、私は講習会の事前準備について書きたいと思います。まず実技講習で全然動けないのでは?と参加に躊躇してしまう人もいると思いますが、気軽にエントリーすることをお勧めします。講師陣は、日頃救急医療に接していない医師が実習中に慌てふためく姿を見慣れていて、少しでも良い所を探して褒めてくれるので、失敗による落ち込みが軽減されます。それ以上に講習内容が充実しているので、参加して良かったと感じることができると思います。
 事前学習ですが、受講一週間前に医師会よりACLS講習の案内、時間割、心肺蘇生アルゴリズムのフローチャート、プレテストなどが送られてきます。その内容を確認してから、事前学習を開始した方が良いと思います。効率的に学習するにはまずプレテストに回答することをお勧めします。20問の設問がありますが確実に回答できるものは1間もありませんでした。手元にあった日本医師会発行の「ACLSトレーニングマニュアル」を参考にしましたが、それを使ってもさっぱりです。そこでインターネットで検索すると、茅ヶ崎徳州会病院の湘南ACLSコースというホームページを見つけました。これを参考にプレテストの回答を作成するとかなり知識が整理されます。その後に心肺蘇生のフローチャートの暗記を行うと覚えやすいと思います。ただこうして勉強をしていっても、実習では2、3日落ち込むぐらい動けませんでしたが…。
 当日は9時から17時まで非常に良く考えられた講習が息をつく間も無く展開されます。日赤の内藤先生を中心に各病院の医師や看護師、救急隊の方々が、楽しい雰囲気の中にも真剣で情熱的に講習を行ってくれます。休日の貴重な自分の時間を割いて講習に当たる姿には、本当に頭が下がります。
 今後、色々な場所にAEDが設置されると思いますが、ACLS講習会を受講すれば、少なくとも心肺停止の患者を前にAEDを躊躇なく使用できるようになると思います。その意味でも、実際にAEDを使用したこの講習を受ける意義は、非常に高いと思います。受講後2週間が経過し講習内容が大分うろ覚えになつてきて、記憶力の低下を実感しますが、プレテストの問題の中にこんな設問がありました。「見様見まねで行った一時救命処置では効果は期待できない」。答えは「効果を期待できる」です。

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ACLS講習会に参加して  吉原正博(宮内中央診療所)

 医師会事務局からのおすすめと、近隣の公共施設へのAEDの普及(拙速と思われる)に、背中をおされて受講をきめた。
 当日(3月19日)は氷雨、勉強以外に過ごしようのないといった日和の中、会場の日赤病院へ向った。
 一日中、ヒマなく、疲れた。長い一日が終り、講評で、プレテスト優秀者として、おほめの言葉をいただいた。受講を申し込んでから、寸暇をおしんで勉強したおかげか。
 しかし、OSCE(オスキー、臨床能力試験)は、指導の先生のご助言と、同じグループの、臨床工学技士、救急隊員のお二人に助けられての合格?であった。
 頭デッカチではダメで、口を動かし、体を使って、救命劇の当事者を演じなければならない。状況把握、意思疎通、実践協助の世界だ。
 夕方に供覧された、救急隊による実技のデモンストレーションは見事であった。
 あと一回、二回、体験できれば自分のものになるかもしれない。
 休日返上して準備下さり、懇切に
ご指導いただいた、内藤先生はじめスタッフの皆様に感謝申し上げ、敬意を表します。

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たくさんの感動  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 昔は感動することがもっと多かった。本を読んで、映画を見て、オリンピックetc.…。最近は歳を取ったのかあまり感動することもなく日々過ごしていたのだが久しぶりにスポーツでたくさんの感動を与えてもらった。
 荒川静香さん、金メダルおめでとうございます。開会式でオペラ・トゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」を三大テノールの一人パバロッティが歌った時に運命を感じたとの事ですが、ドラマチックな曲で金メダルにふさわしい演技を有難う。
 そしてワールドベースボールクラシック・王ジャパンの皆様方、本当におめでとう御座います。
 巨人、大鵬、卵焼きの時代に育ち、巨人フアンの父とよくテレビ中継を見ていたのに、いつのまにか仕事に追われあまりテレビも見なくなっていた。テレビの野球中継も減ってきていた。
 そんな時の“野球世界一を決める第一回のワールドベースボールクラシック”の開催、…選抜選手の辞退等、大変苦しい思いをすべて飲み込んで戦った王監督。
 王監督のもと、大リーグから日本人選手としてチームに参加したイチロー、大塚。あのキューバ打線をMVPにふさわしい素晴らしい投球でおさえた松坂。巨体を揺らしてホームをめざした松中。
 日本が同じチームに3度続けて負ける事は決して許されないとイチローが言っていた韓国戦で代打ホームランを打ってくれた福留、韓国打線を抑えた上原、皆、素晴らしかった。
 一番感動したのは、アメリカの
ジャッジの明らかな誤審も含めて運に見放されたかのような日本チームが甲子園球児のようにあきらめずに必死に努力している姿だった。そしてなんとメキシコがアメリカに勝ってしまったとき、必死に努力している者にだけ神様が奇跡をおこしてくれる、と思ったのです。
 …あれから何回か日本優勝のシー
ンを繰り返し流すニュースを見て、野球中継も時々見て、あ、野球って面白かったんだよな、…夕飯時は親父はビールを片手に読売巨人軍の試合の中継を見て一日の労働の疲れを癒す、子供としては他に見たいテレビもあったこともあるが、それが正しい日本の夕食時の風景だった。
 …昭和40年代かな。大学野球も面白かった。
 初めて早慶戦を見に行った時、神宮球場の巨大なスタンドが学生たちで超満員に膨れ上がっているのに驚いた。早稲田に谷沢がいた。阿野がいた。慶応に藤原がいた。スタンドの観客みんなが手を振って作る稲穂のウエーブ。みんなで肩を組んで歌った“都の西北”。反対側のスタンドから響いてくる“紺碧の空”。仲間との不思議な一体感、早稲田に入って良かった、と心から感動した。
 早慶戦で優勝を決めたかったのにしばしば法政がその前に立ちはだかっていた。田淵がいた。荒川がいた。原はそのすこしあとだったかな。
 野球でこれほど感動したのなんかあの時以来かもしれない。三十数年ぶりか? 何故そんなに…。
 鍛え上げたスポーツ選手の必死の努力と集中力を見るからか。選手と観客みんなとの不思議な想いや一体感からか。愛国心?。…どうせ応援するなら日本を応援するに決まってはいるが…。
 あれから1ケ月、朝のニュースに流れるアメリカ大リーグでの日本選手の活躍にもう一度感動しています。
 そして感動する心をこれからも持ち続けたいと思いを新たにしています。

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