長岡市医師会たより No.319 2006.10

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もくじ

 表紙絵 「上高地」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「今年の夏の輪禍犠牲者(蝶)、考案」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「信濃追分」 内田俊夫
 「心に残るゴルフIV」 太田 裕(太田こどもクリニック)
 「山と温泉48〜その47」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「くさかり・まさおクンのひとりごと」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



上高地   丸岡 稔(丸岡医院)


今年の夏の輪禍犠牲者(蝶)、考案  廣田雅行(長岡赤十字病院)

 ようやく暑い夏も終わり、少し過ごし易い季節になって来た様です。今年の夏を一寸振り返って気が付いた事が有ります。それがこれなんです。実は私、中島の社宅から寺島の病院まで気候の良い時期は自転車で通っています。水道公園から土手に上がり長岡大橋を渡り、対岸の土手を通って通う訳です。逆風の強い時とか激しい雨でなければ比較的痛快に通勤できます。その途中の長岡大橋の歩道で河川敷の上の部分に相当する範囲で、時折身体には大きな損傷も無いのに飛べずに、歩道でバタついていたり、既に事切れていたりする蝶を見掛ける事が有るのです。その他の場所ではこの様な状態の蝶を見る事は無い事から、恐らく橋の上を通過する時に自動車のスリップストリームに入り込んでしまって後続車とぶつかったりして羽根の付け根の部分等に受傷、動けなくなっているのでは?と、考えているのです。
 例年(ここ3〜4年ですが)、一夏でジャコウアゲハが2〜3頭、コムラサキが同様2〜3頭、他にキチョウやキタテハ、ヒョウモンチョウの類が少し、トータルで7〜8頭位を数える事が多かったのです。一般に、人の目に付く虫の数は其処に棲んでいる総数の約一割弱位とか − そう考えると更に事故に遭う虫の数はずっと少ないはずです。ジャコウアゲハを例に考えてみましょう。先ず、今迄は数が多かった。更にアゲハの類は「蝶道」と言う良く通る道筋が有ると言われていて、一定の種類の蝶は「蝶道」を見つけると其処で待って居るとかなりの数が取れると言われています。橋の上を横切る形で「蝶道」が有る可能性が無いとは言えないと思われます。その上ジャコウアゲハは、羽根がかなり脆弱に出来て居て、飛び方も脅かさなければ「ヒラヒラ」で、低い。傷つき易い為、犠牲になり易いと考えられます。今年はこの蝶の犠牲者は、辛か不幸か見られませんでした。キチョウ、タテハチョウ、ヒョウモンチョウの類は、秋になると活動が活発になるので、これからなのかも知れませんが、これも未だ見られませんでした。ジャコウアゲハはこの事一つを取っても、やはり今年は何時もより少ない可能性を示すのでは無いかと考えられそうです。以前は長岡大橋の東詰めでは、この橋を挟んで両側で分布が認められていたのですが、どうも下流側が急速に減少しているような感じがします。この為、橋を越える味の数が減っているのではないかと思われます。
 さて、この夏唯一種の犠牲者が写真のこの2頭です。この蝶は、先程も書きました「コムラサキ」の雄、雌各一頭ずつです(写真向かって右が雄です)。この蝶の名前の由来は、国蝶「オオムラサキ」に対して小さいながらも雄の前羽根に光線の当たり方でメタリックな紫に光る鱗粉が有る事によるとされています。8月中頃、朝の通勤時にこの雄が動けなくなって、他にあまり身体の損傷無しで歩道に横たわっていました。そのままでは他の捕食者にやられてしまうのは目に見えていましたので、捕獲しました。それから約1週間後の帰りの時に、やはりほぼ同じ場所で、この雌が既に動かない状態で横たわっておりました。こちらもかなり傷んだ羽根の状態では有りましたが、やはり身体には殆ど損傷は有りませんでした。
 これを題材にして話を膨らませれば多分、事故で亡くなった雄の後を追って、産卵の後、飛び込み自殺をした云々……と、一大メロドラマにでもなる所でしょうが、文才に乏しい私ではとても其処まで膨らます事も出来ず、この様な文になってしまっている訳です。
 この「コムラサキ」が事故に遭うのは、食草が「柳」であり、河川敷にかなり多く生えているので、潜在的にはかなり分布しているのが一因であろうと思います。但し余り目に付かないのは飛び方がかなり早い事と小型な為、意識して見ていないと分からない事が多い為だろうと思われます。
 輪禍被害者(煤)の考案上、やはり今年のジャコウアゲハは少なかったのかな、と言う事になります。因みに事故に遭ったコムラサキの「夫婦」は「鱗粉転写(リンプンテンシャ)」をして保存しようかと思って居ります。あ、「鱗粉転写」につきましてはいずれ又、稿を別にして御紹介させて頂く事に、等と考えております。あ、それから以前書きました土手の草刈りの件ですが、9月初旬迄は新たに刈られておらず、結構丸々と太った幼虫が付いておりました。このまま何とか蛹に成って越冬して呉れると良いのですが。

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信濃追分  内田俊夫

 私が東大卒業後大阪の会社に勤めたのですが、体調をこわして大阪と長岡の問を何回も行き来しました。私は癌の為に2004年1月22日全身麻酔の手術を受けました。左肩、左頚部〜顎から左耳介〜左目の痛みと痺れが未だに取れず辛い思いをしており、家内と2人で信濃追分に行く事に決めました。父の愛した1,500坪の土地を見に行きました。父が求めた頃は樹木もそれ程背がのびておらず、父は早速購入する事に決め、それも私の名前にしてありました。4ケ所に「内田」の文字が彫ってあり、父が亡くなって始めて知りました。

 旧軽井沢にドイツ人のおばあさんがいると言うのでドイツ語を教わりにバスで通ってみました。Weissさんと言うドイツ人のおばあさんは、たいへん潔癖な人で、ドイツ語については勿論、消しゴムの粉を机の上で払うと“Nein”と言って叱られました。帰りもバスで、郵便屋さんについて来た白い子犬が私を待っていて、小さい私の勉強部屋で私の帰りを待っていたのでしょう。喜んで私の周りを飛び跳ねるようにして、私が見付けると彼の方が隠れたり、そのような時に限って浅間山は紫色に輝いて、私も随分自と遊びました、今思っても楽しかったです。Weissさんから色々教わりましたが、「貴方は身体が弱いから東大を受験するより信州大学医学部を受験しなさい」と親切に言って下さいました。其の夜はこれだけは聴いておかなければならないとGerhard Hueschが歌うSchubertの歌曲をラジオに耳をくっけて聴きました。

 今回の旅は高崎から軽井沢にすぐつきます。しかし軽井沢駅から信濃追分までは結構距離があります。

 色々な別荘が彼方此方にあって、大変静かです。勉強家が多い様でお向かいの教授は滅多にお目にかかりません。それでも自家用車に乗せてもらって旧軽井沢へも行く事が出来ました。それ以外は足を鍛えるつもりで長い距離を散歩に出ました。それも朝早く起きて出掛けるのが一番良い様です。高く育った木々で遠くの樹木は霞んで見えます。その色合いが美しく、朝晩は寒い位で暖房をつけたりカーデガンを着ました。朝早くですと遠い所の樹木が霞んで凄く美しく見えます。

 信濃追分で2週間ゆっくり静養出来幸いでした。出来れば一刻も早く痛みの取れる事を願っています。

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心に残るゴルフIV   太田裕(太田こどもクリニック)

 秋晴れの好天とダブルペリアの気まぐれな賽の目に恵まれ優勝することができました。また同伴の皆様の楽しい会話の中でプレーができ本当に楽しい一日でした。皆様ありがとうございました。
 この日は長岡カントリーのクラブ選手権最終日で、グリーンにローラーがかけられ今まで経験したことのない高速グリーンでした。芝目を考えず、傾斜のみで判断しパッティングをするなど長岡カントリーでは考えられないことですが、皆様の評判はすこぶる良く、来年も是非この日に合わせて開催してほしいとの要望がありました。
 最近、生き方、考え方が多様化し、その流れはスポーツ、レジャーについても例外ではありません。私が医局に入ったあの頃は、経済も右肩上がりでみんなが同じ方向に向かって進む風潮でしたので、その当時遊びの主流であったゴルフ、卓球をしない医局員は全くいませんでした。あれから30数年が経ち、一人抜け、二人抜け今でもゴルフを続けている人は少数派となり非常に寂しい思いをしています。昔を懐かしみ、思い出をたどってみます。

 肋骨骨折

 ゴルフをはじめた黎明期。ようやく百獣の王で回れるようになった頃。一回り遅れでゴルフを始めた某マスターと札幌でゴルフ三昧。2ラウンド3日間。最終日、胸が痛いと訴えるマスターに医者が3人、診たては「大丈夫、医者が言うんだから間違いない」とプレーを続行。マスター180。握りは大勝。後日「肋骨が折れていたんだ」と告げられる。本当に医者の言う事は当てにならない。

 130ヤードのショートホール

 だいぶ前になるが小児科の仲間と台湾にゴルフに出掛けた時の話。台湾に「淡水」という有名なゴルフ場がある。我々の訪れたのは淡水を遥か下に見下ろす山の上にある 「新淡水ゴルフクラブ」。何かの手違いか、はたまた旅費をケチった為なのか定かでないが、淡水ゴルフに行くはずがnew淡水となっていた。ゴルフ場に行く道筋、まだ山を登る前。「あれこんなところにグリーンがある」と記憶の片隅に。山岳ではあったがまあまあのコース。後半のショートホール。打ち下ろしの130ヤード。最初の組、ピッチングでオーバーしOB。結局4〜50ヤードでオン。ティーグランドからグリーンヘは急峻な岩場の坂を鎖につかまりながら下りる。八海山の岩場の参道かプロゴルファーサルに出てくるようなすごい坂道。とてもゴルフ場にいるとは思えない。グリーンへ降りて納得。高低差130ヤードなのだと。

 ボール売りの少年

 これも新淡水での話。当時台湾ではボールが高級品とのことで、多めに持参したのだが、山岳コースと腕の悪さで、ボールも欠乏状態。時々ボールを売る少年から声をかけられるも、知らぬ顔。左ドッグレッグのロングホール。左の林の中にぽつりぽつりと玉拾いの少年の姿。心優しき小児科の面々。次から次へボールを林の中へ。林の中は少年たちの領域。ボールを捜しに入ってはいけない決まり。次のホールで古くて値の張るボールを入手。恵まれない子ども達に愛の手を。

 AED

 小学校時代からの友人。ゴルフはパター一流他三流。ゴルフ場に行く前にコンビニに寄りビールを1〜2本員い求め飲用するのが習慣。(車の免許なし) 昼食時の会話「アル中でもないのに、どうして朝ビール飲むんだ?」曰く「不整脈がなくなりゴルフの調子が良くなる」以前より不整脈があり投薬を受けていたとのこと。私も気になり循環器の専門医にアドバイスを受ける。後日「不整脈の人が酒を飲んで運動するのは危険なんだって」と伝えると、その後ピタリとゴルフをやらなくなった。これには私も困ってしまい、その当時発売されたばかりのAEDの効能効用を説明し、是非購入するように勧めるも、応答なし。数年が経過し責任の重さが増大してきたため?、今年AEDを購入(医院に設置)。
 今度AEDを持参するからと誘っても「もう少し経ったらね」とかわされる。果たして雪解けは来るのだろうか。

 腰痛

 浪人時代、関東の冷たい空っ風で腰を痛め、それ以来腰痛友の会の会員となる。40才を越え寒い時期、腰痛が顔を出しゴルフ困難症となる。症状は年々増悪し、冬場だけでなく暖かい時期にも見られるようになる。3年ほど前、整形の友人よりコルセットを作ってもらう。それでも状況は改善せず、症状に比例してハンディも悪くなり、そろそろゴルフから足技けしようと云うと、腰を使わなくても打てる良いドライバーがあるとの甘言に乗り、購入。飛距離は出ないがパコーンパコーンと真っ直ぐに飛び、スコアも少しまとまるようになる。人間とは現金なものでスコアが良くなってくると多少の腰痛も我慢できるようになる。今年の春、拇指に違和感を感じ、痛風の軽い発作と判断し、ロキソニンを内服しゴルフ場へ。なんと腰の痛みもなくなりプレーができた。何年ぶりのことであろう。鎮痛剤は腰にも効くのか。当たり前のことに大いに納得。その後ゴルフ場へは鎮痛剤を必ず持参するようになった。こんなまやかしがいつまでも続く訳はないが、できることならこの程度で済むようにと願いを込めて。

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山と温泉48〜その47  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

関田山塊(関田山脈)

 表題の山塊に就いて。
 山脈とした記述が覧られますが、山塊とするのが、旧来からの記述のようです。私も、「越後の山塊」藤島玄氏に倣い、山塊とします。山塊と山脈の違いを、日本国語辞典で覧てみます。

山塊:山々が重なり合って、塊り状になっている山々。山脈から離れている一群の山々。「日本風景論」三岳合わせて一大山塊なり。

山脈:多くの山がつらなつて顕著な脈状をなしている山地、山地と言うより、山地より高くてけわしい山々を言う事が多い。

 この二つの記述では、解ったようで、解らないのですが。

 平成17年刊行・編著者・日本山岳の会の「新日本山岳誌」にも、関田山塊とあるので、これに倣います。

 国道17号線で、小千谷市に向かう。小千谷市で、国道17号線と別れ、国道117号線に入る。長岡駅からJRで越後川口駅に向かい、越後川口駅で飯山線に乗り換え、十日町市、十日町駅に向かう。国道117号線は、信濃川に沿って南行する。十日町市からのJRは、信濃川左岸、国道は右岸に、それぞれに走る。群馬県との県境を走る越後山脈を水源とする魚野川と、埼玉・長野・山梨(武士州・信州・甲州)三県に誇る「甲武信ケ岳(2475m)」を源流とする千曲川・信濃川とは、魚沼丘陵山地を挟んで、並行して北流する。
 旧くは、国道17号線を、三國街道、と呼び、国道117号線を善光寺街道、と、呼び慣わされていたのです。
 国道117号線(R117とします)が十日町市の中心街を過ぎると信濃川は、次第に峡谷となってくる。旧田沢村付近から、信濃川の峡谷と河岸段丘の地形がはっきりします。左岸は、高い断崖となり、その上の台地と山地には、豪雪で名高い、旧松代・松之山町が広がります。この断崖は県境を越え、信濃川に沿って続く。この断崖の上に山塊が並ぶ。これが関田山塊。一方、右岸の河岸段丘は、苗場山などの二千m余の高山の山麓を作っている。関田山塊は標高千m前後の山、三十余座。縦走には通さない。むしろ、県下二番目に多い峠の探索が、この山塊の山旅になるのです。
 峠について、「越後の山旅」には、「…県下第一位は大佐渡の外海府から内海村、国仲平野へ出る十八の越だ。第二位は、関田山塊の峠郡だ。第三位が、信濃川畔の十日町市を中心に上、下流から魚沼丘陵を越し魚野川筋の六日町盆地へ十三の峠だ…。」、とある。又、「…関田山塊は、西端を飯山街道に、東端を雁ケ峰峠とする全長三十二キロ、登山の対象になる山は、最高峰の鍋倉山と、一等三角点のある菱ケ岳にすぎない。加えれば、天水山(1088m)で、峠路だけでやや淋しい。」と記述されている。
 では、関田山塊は、その範囲を次のようにしては如何かと考えますが。
 R117で中里村を過ぎ、清津大橋を渡り、津南町に入り、直ぐに、旧松之山方面に右折、県道49号線に入り、「越後鹿渡」で信濃川をわたる。鹿渡温泉、辰の口温泉を過ぎると、県道49号線はR353と合する。R353は、大きくカーブしながら、旧松之山町と津南町の「境界山(632.9m)」と「城山(641m)」があり、これらの山を関田山塊の北西端する。西端は、新井・飯山を結ぶ飯山街道、富倉峠。南端は、「斑尾山(1382m)」としたらどうだろう。山塊と峠を並べてみよう。
 地図は、十日町市の信濃川を辿り南下、長野県に入り千曲川、飯山市に至る川の左岸の新潟、長野県境、R117を中心にした図が必要です。

 城山 641m
  鰕池(エビイケ)峠
 有倉山 632.9m
  豊原峠
 烏帽子形山 546.2m
 城峰
 氷山
  雁ヶ峰峠
 山伏山 913m
 天水山 1088m
 三方岳 1138.8m
 (不名峰) 1136m
  深沢峠 1090m
  
野々海峠 990m
 菱ヶ岳 1129.1m
  須川峠 1070m
  伏野峠 1020m
  宇津ノ股峠
 前山884m
  牧峠
  梨平峠
  関田峠 1120m
  旧筒方峠 1100m
 黒倉山 1242m
 鍋倉山 1288.8m
 仏ケ峰 1140m
  平丸峠
 風野山 875.4m
 黒岩山 938.3m
  北峠
  富倉峠 681m
  涌井峠 650m
 毛無山 1022.4mm
  大川峠
 斑尾山 1382m
  万坂峠
 袴岳 1135m

 山塊の標高は、班尾山(1382m)、鍋倉山(1288.8m)で、最高所謂高山、高い山はない。しかし、越後と信州を隔てる壁は無いが、重畳たる山塊は、人々の脚を苦しめたために旧くから多くの峠路が作られた。仙人の行き交う路から、海と山との交易の路、権力者の拓いた路、戦のための路、そして、峠、人々の生活が染み込んだ峠路なのです。峠と峠をつなぐ縦路は無い。(続く)

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「くさかり・まさおクンのひとりごと」

岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 ハウディ(こんにちは)。ボクはくさかり機・まさお。
 今年の夏から古志十日町(長岡市十日町)の岸医院で働いている。
 仕事はもちろん草刈り。乗って遊べる(仕事する、だろ?)乗用草刈り機さ。
 ボクを見たことあるかい。自分で言うのも何だけど、スマート。スマートに走り回って雑草を刈り払う。
 見かけは遊園地のゴーカートそっくり。イタリアン・レッドの車体と黒のオープン・シートが自慢さ。
 かわいい、って言ってくれる子もいるけど、クールって言ってほしいな。でもエンジン部分には触らないでね。ほとんどむきだしだからけっこうホットだぜ。
 エサはレギュラー・ガソリン。18馬力。草を刈らない時は並みのゴーカートとかわらない。
 仕事の時にはこの刈刃クラッチを入れる。すると車体の真下に数枚の斧のような刈刃が飛び出し、雑草を刈り取って粉砕しばら撒くのさ。
 車体の下は安全のためアンダーカバーで覆ってあるから刈っているところは見えない。能ある鷹は爪隠す、というやつさ。
 ワイルドな、背の高い雑草が伸びほうだい、というところがぼくは好きさ。ぼくの前に道は無い。ぼくの後に道ができる、と言うわけさ。
 ぼくが岸医院で飼って(買って)もらったのはこの夏のあっつい盛り。キャニコムという特殊小型車両を作る会社で生まれて、新潟クボタで主人となってくれる人を待っていたところ、庭や畑の雑草処理に困っていた先生に飼ってもらったというわけ。
 ぼくが始めてここに来たのは数週間ひでりが続いた真夏の日。待っていたぞとばかり、先生は早速雑草の中へ繰り出し、ゴーカートのスピードで草を粉砕しつつ前進する快感にあきれながらふと後ろを振り返ると数十メートルにわたって物凄い土煙。まるで風を巻いて突進する竜のしっぼのようであったと言います。
 まっ、そんないいものかどうかはともかく、乗っている先生の顔は、まるで遊園地の乗り物に乗ってはしゃいでいる5歳児のようであった、と奥さんが言っていました。
 そのため2回目からは先生は防塵ゴーグルに外科用マスク、リーバイス501XXのジーンズにスニーカー型安全靴という完全防御スタイルで作業に臨んでいますが、幸いにもさすがにこの夏のひでり続きも一段落したのと草の丈も2回目からはぐっと低くなっているのでそれほどほこりは出ません。
 休日になると得意になって先生はぼくに乗っているので、村の人が「いやー、いいの買いなしたのー。」と声をかけて行ってくれます。
 先生からも「もうトシだから、かがんで草とるのも難儀だし、円盤型草刈り機を振り回すのもあぶなっかしいし、楽して草取りができる。」と喜んでもらってぼくも幸せです。
 先生、この間、2度もパンクしちゃってゴメンナサイ。
 で、ぼくはもっばら草刈り専用。耕運機のように畑を打つことはできないのですが、ぼくが走り回ったあと、親切なお隣さんが耕運機で耕してくれるので、今、畑らしくなつています。
 でもいつのまにか越後も秋枯れ。草もひところの勢いが見られません。
 ぼくの役目も今年はそろそろ終わりかな。
 実は先生、あのときクボタの人と話していました。「いやー、草刈り機にしようか、除雪機にしようか悩んでいるんですよー。」
 今年は小雪でありますように。

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