長岡市医師会たより No.321 2006.12

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もくじ

 表紙絵 「Rothenburg」 内田俊夫
 「私の夢」 高橋和久(たかはし内科医院)
 「“どうしてもなじめない言葉”から」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「山と温泉48〜その49」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「シャル ウィ ダンス」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



Rothenburg   内田俊夫


私の夢  高橋和久(小林医院)

 人情味あふれる栃尾の人々に惚れ、この地に開業してから早2年が過ぎました。小さな医院ですが患者さんに優しくわかりやすい医療で、少しでも地域医療に貢献できればと思っています。
 趣味はカメラ(ニコンが好きです。)、バイク(カワサキが好きでZ750と20年間過ごしました。)、車はオープンが大好きでユーノスロードスター、MG、SLKと乗り継いできました。子供が生まれてからはワゴンに乗っていますが、またいつの日かオープンに乗りたいな、と思っています。
 学生時代は合気道、空手、ハングライダー、ダイビング、スキーなどさまざまな事に挑戦しながら遊びに勉強?に励んでおりました。最近は患者さんに運動療法を薦めてばかりではいけないと自転車や水泳を始めたところです。
 出身は東京で、学習院を卒業後、帝京大学に入学しました。6年の学生生活の後、昭和63年東京医科大学病院第三内科に入局、神経内科を中心に、アレルギー、糖尿病、血液、甲状腺、膠原病の診療に携わっていました。
 順天堂大学脳神経内科での勤務や、北海道の市立根室病院へも出向しておりました。根室病院時代は北方領土墓参のシップドクターとして、旧ソビエト連邦の色丹島や択捉島なども訪れました。当時は大型船が停泊できる港がなく、船にぶら下がっている10人乗りの救命艇に乗り移り砂浜に上陸するという信じられないものでした。
 平成6年学位取得後は東京の昭島病院に勤務し、一般内科、神経内科、小児科診療の他、胃内視鏡、頚動脈、甲状腺、腹部エコーなどの検査も行っていました。この病院は平成16年に新病院に建替えられましたが、新病院内オーダーリングシステム配置のためのコンピュータ委員会やリスクマネジメント委員会などにも携わりました。病院スタッフには勤務を続けてほしいと頼まれ、院長をはじめ病院スタッフに大変お世話になったこともあり悩みましたが、新病院着工のめどがついた時点で第二の人生をスタートさせるべく開業を決意しました。
 開業前までは、東京にそのうち大地震が起きるだろうから40歳すぎたら地震の可能性が少ないのどかな場所に住みたいというひそかな夢がありましたが、何と開業直前に中越地震が起き、私のはかない夢は見事に打ち砕かれたのでした。幸い建物に大きな損傷はなく、医療機器も搬入直前であったため難を逃れました。開院当初は余震の続く中での診療の合間に、新築の診療所の壁紙を補修したり、壊れた家具を直したりとなかなかヘビーなものとなりました。
 そんな状況の中、この地で開業してまず驚いたのは、地域の病院との連携が大変良くとれていることでした。各病院の痛診連携室をはじめ、各科の先生方もご多忙の中親切に対応してくださり、心強くありがたく思っております。また院外の検査についても栃尾郷病院をはじめ、立川綜合病院、長岡赤十字病院、長岡中央綜合病院にお願いすることで勤務医時代とほとんど変わらない、むしろそれよりも良い環境で診療している気が致します。
 空気、水、お酒、お米、豆腐、山菜などおいしいものを上げたらきりがない栃尾。この恵まれた環境の中で生活できることに感謝しつつ、また新たな夢を追い求めて行きたいと思っております。
 これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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「どうしてもなじめない言葉」から 丸岡 稔(丸岡医院)

 「患者様」という言葉を初めて聞いたのは何年前だろう。もう二十年以上経っている。
 国会議員選挙の時、ある著名な候補者の応援のため、夫人が私の勤めていた病院に来て盛んに「患者さま、患者さま」と呼びかけた。その言葉が何とも耳障りに聞こえたのだが、投票を依頼するのに、「患者さん」ではなれなれしいし、ここはやはり「患者さま」かなと思ったが、何とも耳に快くなかった。その後長く忘れていたその言葉を最近頻繁に耳にし、目にするようになったが、いつまで経ってもなじめないでいる。これはどうも私だけではないようだが。
 毎日のようにマスコミが取り上げる医療ミスの問題は医師側の過失を指摘するものだ。医療行為には、いささかのミスも絶対に許されないというようにとれる。我々は、患者さんのことをとても大事に考えているということを知ってもらいたい気持ちから「患者さま」と呼ぶようになったのだろうか。
 勿論、ミスが許されていいわけがないことは当然であるが、人間は悲しいことではあるが、過ちを侵す者であることは事実である。医学の進歩はこうした道程(みちのり)を経て現在に至ったのであり、人々は今その恩恵を受けているのである。
 今から五十年前、大学の最終講義で、「君たちは、これから一人の医師として世の中に出て行く。長い間にはいろいろなことがある。しかし誠心誠意、患者さんの為にやっていれば、必ず認めてもらえる。どうかしっかり頑張ってくれ。」と言われた教授の言葉をよく憶えている。
 私は産婦人科医を目指したが、最近、トラブルの多い産科を希望する医師が激減し、更に分娩を扱わない病院が増えている。我々がかつて、医療現場で感じた感動と情熱と誇りを、これからの若い医師達が感じられないとしたら、医療を受ける側にとっても何と不幸なことであろう。
 医者が常に全ての条件の整った所で仕事が出来るのは稀と言っていい。
 設備やスタッフの問題だけでなく、自分の心身の状態も関わってくる。
 如何なる条件の下でも、全力を尽くす。それが評価されるような世の中にならなければ本当ではないと考えている。
 「君が何も持たない素手の時、今日の前にいる病める人に何をして上げられるか。」そこに医者の医者たる面目が問われるのではないだろうか。
 私は若い頃、言わば働き盛りで自信に溢れていた頃、病気を治すのは医者だと思っていた。しかし長年仕事を続けている中に、病気を治すのは患者さん自身で、その人の持っている治癒力を引き出し、支え、育てるのが医者の本当の役目であることが分かった。それと同時に、自分が一人前の医者になる為に、実に多くの人に援けられて来たわけであるが、その第一は患者さんであり、自分は患者さんに育ててもらったのであることに漸く気付いた。そういう意味では私の中に「患者様」という気持ちは常に有り、自分が勉強し、学んだことを患者さんに還元する、これが臨床医の姿勢でなければならないと自戒している。
 病気を治すのは、患者と医師との共同作業である。したがって、相互の信頼が基盤になければならないし、その上で互いが真剣に向き合い、時に患者は医師に厳しくあって当然であるし、医師も患者に厳しくなければならないと思っている。
 病気を克服するのは医者と患者との協力の仕事であると言ったが、これだけではまだ本当ではない。
 フランス16世紀の外科医、アンプロワーズの言葉、「余は治療し、神が治す」これが真実であろう。
 医者と患者が心から協力し合って後、共に神に祈る。これが医療の望ましい姿と思うが如何であろうか。
 今、日本がおかしい。誰しも思っていることだろう。あらゆる面で、日本人は大事なことを忘れている。物質的な豊かさは金で買える。その同じ感覚で「いのち」の質よりも長さのみを希求している。そこにずれが生じ、次第に大きくなって来ている。かつて、日本人は共通の意識として、確固たる死生観を持っていた。いつの問にか、釈尊が受容しなければならないと説いた「生老病死」を忌避し、遠ざけている。混沌とした現代の日本(医療も例外ではない)と日本人の不幸の最大原因がそこにあると思っている。
 医療は勿論、教育も、政治の在り方も、「生老病死」を受け容れる基盤の上に再構築しなければならないと考えるが、如何であろうか。

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山と温泉48〜その49  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

菱ケ岳 1129m
地籍:上越市安塚区(東頚城郡安塚町須川)・大島区(東頚城郡大島村)
 菱ケ岳は、黒倉山と共に多くの古文書に登場している。山名を、菱山、志多ガ岳、とも言っていた事が文書に記載されている。山名の由来は、その山の形態からきていると考えます。「上越市高田から観た三角形の山容を山名とした。」(新日本山岳誌)。又、「妙高山開山裸形上人が、妙高より遥か彼方東方に優美な山容の霊山在ることを認め、山野を跋歩して須川に到り、菱ケ岳と命名し、薬師如来の霊場として開山した。山頂に薬師堂建立した……。」(東頚城の歴史)
 「この山は、山岳修験の霊山として明治初年頃まで、女人禁制であった。」(新日本山岳誌)。菱ケ岳薬師信仰は、近隣一帯に広まってあり、里宮菱神社大祭は盛大であったと、記述されている。山寺薬師、金谷薬師、米山薬師(いずれも上越市)、と共に山岳修験道の道場であったようで、「古来久比岐の須弥山といわれていた。」(新日本山岳誌)のように、上越地方に伝えられた山岳修験の中心であったのでしょう。
 山麓の須川、伏野、真萩平、信濃坂、大島村菖蒲を含めて安塚町は、十四世紀(1333〜1392年)南北朝期に活躍した、南朝方・風間信濃守の居城・直峰城の城下町であった。このような古い町であった事で、近代・明治以降、つい先年まで、東頚城郡における行政の中心地であったのです。
 塩沢町の鈴木牧之は、「北越雪譜」で次のように書いている。
 「……菱山の奇事……さて松の山の庄内に菱山といふあり、山の形三角なるゆゑの名なるべし。山ちかき処に須川村、川より名づく菖蒲村といふあり。此ひし山、毎年二月に入り夜中にかぎりて雪頽(ナダレ)あり、其のひびき一二里に聞ゆ。伝ていふ、白髪白衣の老翁幣をもちてなだれに乗り下るといふ。また此なだれ須川村の二十町余の処実直に突下す年は豊作也、菖蒲村の方へ斜に下す年は凶作也。其験少も違ふ事なし。年の豊凶雪頽に関わる事此山にのみ限るも一奇事といふべし。……」
 こ
の菱ケ岳は、眺める方角に因り、山岳形態が、全く遣って見える。標高1000m余、大きい山ではない。其の山での植物生態が、多種にわたり観る事が出来る。この山の成立には、次のような地質学的な事実があると言う。
 「……菱ケ岳は黒倉山とよく似
た地形で、新第三紀褶曲隆起の山地にあり、南北両方が陥没する断層ができたとき火山岩の噴出を伴い、独立峰のような山容を造ったもので、山麓から山頂まで、地質学的に興味のある山だ。……」(越後の山旅)
 山の一方が削ぎ落ち、また一方で、
火山爆発で吹っ飛んだ斜面と平が、様々な形の山容を観せる山。山頂から、月の化石が発見されている事から、海からの隆起も考えられている。荒々しい黒みがかった鼠色の肌の岩、赤茶けた山土は、多種の野草、雑木、潅木に蔽われている。尾根で繋がる東側の須川峰(1150m) は、菱ケ岳より高く、穏やかな山容で、全山、樹木に包まれている。登路はない。この須川峰との狭い谷間に、旧須川峠に向かう旧須川道跡が、尾根まで残っている?否残っていない。
 登路の起点は、全て上越市安塚区安塚(旧東頚城郡安塚町)、長野県側からは、飯山市藤沢(須川峠経由R117からR403)。
 歩行の場合は、直江津、高田駅前より頚城バス。安塚・浦川原・須川・キューピットバレースキー場・雪だるま温泉のいずれかを利用。詳しくは、頚城バス案内所でお確かめください。
 列車利用:直江津・六日町間の北越急行「ほくほく線」で、「虫川大杉」又は、「うらがわら」下車、バスで安塚、須川、に入る事になります。夏冬問わず、いずれも、キューピットバレースキー場が登山口になります。
 車利用の場合は、上越インター、柿崎インター、長野県側では、R117で飯山市よりR403須川峠越えになります。
 上越インターからは、R8バイパスより牧区(旧牧村)に向かい、和田で右折後直進、R403に入り、間もなく須川集落に入る。温泉、スキー場に駐車場があります。
 柿崎インターからは、安塚、キューピットバレースキー場の標識を確かめながらおいでください。インターを降り、長岡方面に戻り、右折、県道25ついで61浦川原で左折、R253に入り、虫川三叉路で右折、県道43、間もなく安塚町に入る。須川は、さらに約八粁山麓の奥まで行かねばならない。山容の変わる菱ケ岳を眺められる。
 長岡からなら、このルートが一番近いようです。柿崎インターで降り県道に入るとき、新井柿崎線に入らないよう御注意願います。スキー愛好者はキューピットバレースキー場へのルートは御存じと思いますので、お聞きください。(つづく)

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「シャル ウィ ダンス」  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 「スポーツは見て楽しむもの」と思ってこれまで生きてきた。生来慎重な私としては、かけっこではヨーイ・ドンのピストルが鳴ると左右がスタートしたのを確認してから走り出す。真っ先に飛び出す奴の気が知れない、というのが自分のスタイル。だから幼稚園や小学校外遊戯や発表会では人様よりはどうもワンテンポ遅れて行動していた様に記憶している。
 そんな私が無謀にも社交ダンスを始めた。「私、フォーク・ダンスも踊れなかった。」という、似たもの夫婦の家内の突然の思いつきによってである。
 と言ってもまだ数回プライベート・レッスンを受けただけなのだが。
 私は運動不足の解消に、家内は曲がった背骨を伸ばすために…、とネットで見つけたダンス・スタジオに見学に行き、1レッスン30分のプライベート・レッスンを申し込む。
 前述のごとく運動神経なし、リズム感なし、ダンスの知識なし、にもかかわらず、さすがにプロの先生、“最初はブルースから…”と、立ち方…、手の組み方…、と最初の一歩から教えていただき、だんだんその気になっていく。
 スロー・スロー・クイック、右・左・右…あれれ…?
 家内が先生に訴えている。「先生、右と左がわからなくなっているんですけど…。」前途多難、道は達しである。
 あっというまに30分が過ぎ、週に一度こんなもんで大丈夫かいな、と壁のポスターを見ると、美男美女が爽やかに品をつけて踊っている写真。え、新潟県スポーツダンス選手権大会、於・厚生会館。
 その週の日曜日。そっと見学。プロ部門の決勝戦で私たちの先生が踊ってらっしやる。長身でスタイルの良いリーダーと現代的美女のパートナー。目立って格好良い。
 「私たちが教えてもらうには、もったいないほどのプロだったのね。」などと話していると、同じダンス教室でお見かけする役所コージ氏(本名は存じ上げないが、彼はいつもM先生をパートナーにして楽しそうに踊っている。)とお会いする。
 「M先生、おきれいですね。」と話しかけると、「本当きれいです。私、メダルテストをM先生と踊って受けたんですけど、皆がM先生ばっかり見てるんですよ。」と、この方もシャルウィダンスの世界にはまっているご様子である。
 「私たち、ぜんぜん上手くならなくて」と言うと、「立っているだけで良いペアーですね。」と言っていただく。上背があるのでどうも立っている時は良いらしいのだが、動き始めるともう腰くだけになってしまうのだ。
 ダンス大会の方はプロの部門が行われている。あざやか…という他はない。そして大会の最後にスペシャル・デモンストレイターとして全日本チャンピオンの谷堂誠司、早野恵美ペアがいくつものダンスを踊ってみせてくれた。
 ダンスのステップは複雑でわからなくとも、ぬきん出た容姿、技量、美しさに魅せられる。なんでも数年続けて優勝の圧倒的なチャンピオンということで大変に有名な方らしく、出場していた選手や観客は皆、大興奮の中、拍手の嵐でしめくくられた。
 せっかく始めた社交ダンス、一週間にたった30分ではあるが、心と身体のリフレッシュ・タイム。何とか時間を確保して、ぜひ続けて行きたいと願っている。…でもこんな事、書いても良いのかな? まだ何も踊れないのに。シャル ウィ ダンス?

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