長岡市医師会たより No.323 2007.2

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もくじ

 表紙絵 「小国早春(三桶)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「運動器の10年 骨と関節の日・記念行事」 児玉伸子(こしじ医院)
 「新年ボウリング大会優勝記」 吉田正弘(吉田医院)
 「新年麻雀大会優勝記」 新保俊光(新保内科医院)
 「新年囲碁大会優勝記」 大山登喜男(長岡赤十字病院)
 「山と温泉48〜その51」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「干支うらない」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



小国早春(三桶)   丸岡稔(丸岡医院)


運動器の10年 骨と関節の日・記念行事

児玉伸子(こしじ医院)

 長岡整形外科医会では、“体育の日”の連休初日の10月7日に、長岡リリックホールにて“運動器の10年:骨と関節の日・記念行事”講演会を行ないました。
 “運動器の10年”世界運動を御存知でしょうか? スウェーデンのリドグレン教授が提唱したもので、2001年1月世界保健機構本部において、その発足が宣言されました。運動器とは、四肢・体幹の骨格、関節、靭帯、筋や脊髄・神経であり、身体の感覚を脳に伝え、反射的或いは意思に基づく身体運動を行なう器官です。運動器により営まれる運動は、脳や神経系を賦活し、循環系や代謝系の健康を保つために重要な役割を果たしています。“運動器の10年”世界運動の目標は、運動器障害の実態を把握し、市民自ら参加する質の高い治療や予防法を実施し、その基礎研究を推進することです。
 日本においても、日本整形外科学会・日本リハビリテーション医学会・日本リウマチ学会等45の学会が合同の委員会を組織し、この運動の推進に取り組んでいます。日本整形外科学会は、1994年に10月8日を“骨と関節の日”と定め、運動器を健康に保つことの重要性を日本各地で訴えてきました。
 新潟県でも、早くから新潟大学の整形外科医局や新潟臨床整形外科医会(医師会A会員の整形外科医から成る)を中心に、新潟市の会場で市民公開講座等が開催されていました。そして三年前から、中越地区でもリリックホールを会場に“すこやかともしび祭り”に合わせて以下のような講演会を行なってきました。“すこやかともしび祭り”は、20年以上前より毎年体育の日の連休に、ハイブ長岡で開催されている、長岡市主催の福祉をテーマにしたイベントです。

第1回 高齢者のための転倒予防教(東京大学:武藤教授)
第2回 リウマチの話と落語(長岡日赤病院:羽入先生とスタッフ、落語家:林家たい平師匠)
第3回 ランニング教室と膝の障害について(マラソンコーチ:金哲彦氏、新潟大学:大森助教授)

 4回目となる今年は、副題を“介護と整形外科”とし、二人の講師にお願いしました。

○講師:女優・エッセイスト 中村メイコ氏 題名:私の生き方
○講師:支え合いの地域づくりアドバイザー・『うちの実家代表』河田珪子氏 題名:頑張りすぎていませんか?〜ひとりでやらない介護・一人でもいい老後〜

 当日はあいにくの雨模様でしたが、講師の中村メイコ氏の人気に支えられ、整理券配布予定の11時前には、百名近い人出がありました。講演開始時は定員450名のホールが満席となる盛況で、アンケート(回収率75%)の結果をみても、好意的評価が大半を占めていました。中村メイコさんの軽妙な話術は、テレビやエッセイから伺える以上に素晴らしく、矢継ぎ早に繰り出すエピソードとともにプロの技で会場を魅了されました。一方、新潟市で介護に関する様々のユニークな活動を主催されている河田氏は、具体的な事例を紹介しながら現場における地域活力の重要性を強調されました。実践に基づく提案には説得力があり、そのパワーに圧倒された印象でした。

 長岡地区の整形外科の医師会A会員は以前からまとまりがよく、年5回程度の頻度で“蒼整会”と名付けた懇親の場を設け、持ち回り幹事によって運営していました。その蒼整会に、四年前に突然、“骨と関節の日・記念行事”を長岡地区で行なうようにとの話が、新潟より降って湧いてきました。それから、中村整形外科医院の中村敬彦先生を中心にあたふたと準備を進め、今回で4度目の講演会を何とか運営してきました。
 長岡地区は新潟市程の人口もないため、単独事業では多数の参加者も期待できず、主催者側の人手も限られた状態です。そこで、長岡市の行事である“すこやかともしび祭り”に協賛し、講演会形式にて行なうこととしました。また、今までの懇親会としての蒼整会では会の運営には不適当ですので、市内の整形外科勤務医も加えて長岡整形外科医会を新たに発足させ、会則も整備しました。
 以上、中村先生達が3年間かけて土台を造られ、その上の4年日の昨年は私が事務局をさせて頂きました。書類の宛名を間違えたりと結構とぼけた事務局でしたが、とにかく大きな事故もなく無事に終了し、ほっとしています。日頃の診療とは異なるちょっと刺激的な経験でしたが、一番印象的でしたのは、中村メイコさんが8センチ近いピンヒールで登場したことです。
 最後に、長岡市で医業を生業とすることは、この地区の患者さんに支えられていることですから、少しでも多くの方々に喜ばれる活動が続けられることを願っています。先日の“ぼん・じゆ〜る”に八幡先生の書かれていた“糖尿病を知るつどい”は、手作りでこつこつ20年間続けられているとのことです。改めて、感服しています。

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新年ボウリング大会優勝記  吉田正弘(吉田医院)

 平成19年1月15日ドリームボウル長岡で恒例の新年ボウリング大会が行われました。参加者は長岡メジカルボウリングクラブのメンバーのみの10人で新たに参加されたり復帰された先生は居られず少し寂しい大会になりました。次回はもう少し盛り上がるよう大勢の方の参加を期待しています。
 4回目の挑戦で初めて優勝させていただきました。前半はいつもの調子で160点程度(細かい数字は忘れました)でしたが3ゲーム目は珍しくNoMissで199点と私としては上出来で、気分も良くなり4ゲーム目も175点と、終わってみればHCを足して858点で思わぬ結果になりました。調子が良かった訳はもう一つあります。私達 (小生・佐藤充先生・新保俊光先生)の隣のレーンが故障中で空いて、他人のスコアが日に人らず野次も飛んでこなかったためいつもより冷静に坦々とゲームを進められた事です。何となく疎外感があり淋しい面もありましたが、ゲームには集中できました。しかし今回の優勝は、前年の優勝者である野村権衛先生、実力者の茨木政毅先生が残念ながら出席されなかった事、常勝の窪田先生がなぜか調子が悪かった事、参加者が少なかった事などの偶然が重なった、言わばフロック優勝でした。今年は運が良いのでしょうか?それともこれで運をつかいはたしたのでしょうか?
 4年前にこの大会に高野吉行先生と一緒に初めて参加させてもらい、以降月例会はほぼ皆勤で出席しております。こんなに続けてボウリングをしたことはこれまで一度もありませんでした。学生時代は小遣いが少なく、研修医時代は暇がなく、暇になってからはボーリング場が少なくブームもありませんでした。しかし実際にやってみれば意外に難しく体力・忍耐力を必要とするスポーツであることを実感しました。そこで、少しはうまくなろうとマイボール、マイシューズ、How to本を買いそろえ、イメージトレーニングを始めましたが所詮は練習嫌いの怠け者ですので、いっこうにうまくなる気配はありません。他のメンバーが着々とHCを減らしている中(特に同時に始めた某先生はHCを20近くも減らし、もはやライバルの域ではなくなり遠い存在になってしまいました)、相変わらず沢山のHCを貰っています。
 最近はうまくなることを諦め、ボーリングの後の「ちょっと一杯」だけが目的で月例会に参加している状態でしたが、この優勝を機にHCを減らすよう努力するつもりです。

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新年麻雀大会優勝記
麻雀は、悪女の魅力  
新保俊光(新保内科医院)

 麻雀は時の運が大半で、短期戟においてはなおさらですから、勝てたのはただツイていたといえます。それでも学生時代に膨大な時間を麻雀に捧げた人間としては、あれこれと思いを馳せることもありました。

(大会模様)
 1月27日に医師9名とMRさん3名が雀荘「トップ」に集いました。ビール片手の先生もおられ、相当含蓄のあるお言葉から下ネタまで、硬軟織り交ぜたお話が、場を盛り上げました。大会終盤には、方々から歓声や悲鳴が開かれ、すっかり打ち解けた楽しい大会になりました。

(ルール)
 計3卓、1回戦毎にメンバー交代し全3回戦が行われました。「1時間打ち切り」、「赤牌、割れ目なし」、「喰いタン禁止で3本場から確定2ハン縛り」、「3万点持ちの3万点返し(オカなし)」、「順位点なし」。

(戦略)
 今ルールでは一回戦毎の勝ち負けは関係なく、3回戦を通しての得失点差で勝敗が決まります。通常の「オカあり、順位点あり」ルールでは、トップの価値が「オカ2万点、トップ賞2万点、計4万点」にもなります。皆がトップを目指し必然的にスピード重視になります。ところが、今ルールでは順位の価値が無いので小さな手を上がっても意味がありません。「スピードよりも重量級の手作り」が基本戦略になります。リスクの考え方も違います。通常のルールでは、トップを取りに、親の満貫に千点で立ち向かうことも十分あることで、トップ取りレースに参加しない「消極が最大のリスク」になります。しかし今ルールでは、無理な競り合いをして深手を負う「打ち過ぎが最大のリスク」になります。

(進行)
 上記の認識がある上に、インフレルールや、喰いタンを廃しているため、進行は面前を基本とした落ち着いたものになりました。面前麻雀は、技術よりツキが勝敗を分けます。単純に「良い手と良いツモ」の者が勝つからです。そして私は一回戦からツキに恵まれました。東一局に序盤に手なりで“リーチツモピンフドラドラ”の満貫を引き上がりました。これで余裕が持て、その後冷静に打つことが出来ました。エラーに気をつけて降りるべきは降りていると、その後もツキに恵まれ大きな手を上がることが出来ました。成績表を見ると、大会上位者3人は、全て一回戦の各卓トップ者です。やはり、先行して心に余裕が出来ると、その後のツキも呼ぶのでしょうか。

(麻雀熱中記)
 偉そうなことを書いてきました。学生時代に麻雀に費やした膨大な時間と情熱が私を餞舌にさせます。「チョット語らせてくれ」です。ハリソンやセシルは読まなくとも麻雀本は山のように読みました。戦術書は阿佐田哲也の「Aクラス麻雀」、娯楽本は同じく阿佐田哲也の「麻雀放浪記」と片山まさゆきの「スーパーズガン豊臣君」、賭博論はドストエフスキーがお勧めです。高校時代に「麻雀放浪記」に出会って痺れた私は、新大六花寮に入寮後、直ちに麻雀漬けになりました。毎晩徹夜し、睡眠は夕方数時間のみの生活を二年間続けました。友達から「雀獣」と綽名されたのもこの頃です。この時は、1日たりとも麻雀無しに暮らせず、フリー雀荘にも出かけました。パチンコ依存症やゲーム脳と同じ病理です。今でも徹マン明けのあの溶けるような恍惚が思い出されます。顔は興奮と疲労で赤黒く脂っぽくなり、脳内エンドルフィンで酪酎状態のため、やたらに笑い、やたらに放屈していました(なぜかよくオナラが出た)。それでも留年しないで済んだのは友達のおかげです(感謝、感謝)。身の危険を感じた私はその後退寮し、社会に出てからは、麻雀は年に数回になりました。
 麻雀から離れ約15年経ちますが、今大会では未だに指先は盲牌を、頭は50符3ハンの上がり点を覚えていました。大切な多くのことを忘れているのに「コンナコトニズイブンジカントジョウネツヲロウヒシタモンダ」と、後悔というか自虐というか、なにか甘酸っぱい複雑な心境になりました。
 麻雀は私にとって悪女です。次に惚れたらヤバイネ。でも時にはコッソリ会いたいし。40才を超えてもこんなことを心配している私です。

(追記)
 新保内科医院も古正寺に開業し、一年を迎えることが出来ました。ひとえに地域住民皆様の励ましと病診連携、診々連携でご指導いただいている先生方のお陰と深く感謝申し上げます。これからも初心を忘れずに、一次医療の担い手として何が出来るか真撃に取り組んで参りますので、ご指導ご鞭撞をよろしくお願い申し上げます。

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新年囲碁大会優勝記
手談雑考  
大山登喜男(長岡赤十字病院)

 明けましておめでとうございます。私は長岡赤十字病院歯科に勤務する大山と申します。平素は医師会会一員の先生方から患者さんのご紹介をいただきありがとうございます。本稿をお借りして厚く御礼申し上げます。非会員の私が縁あって一筆啓上する羽目となりましたが、その経緯を含めて簡単に自己紹介し稿を進めさせていただきます。
 私は昭和53年7月に赴任致しました。病院内の人事往来は院内誌「蒼柴」の告知板コーナーで扱っていますが、同時期着任の黒川先生(現栃尾郷病院)と並んで紹介されました。二人とも趣味が囲碁と共通。早速対局を申し入れ、昼休み・夕刻と時間の許すかぎり烏鷺を楽しみました。棋力は二〜三段格、互戦で五分の勝敗でした。当時病理の金子先生が五段と最高位で、二人のへボ碁を微に入り細に入り手直ししていただきました。今日の棋力はその賜物と感謝しております。他に、泌尿器科の斉藤先生、皮膚科岡先生、整形外科柳先生等々打ち手が多く、加えて院外から杉本先生、本田シニア先生、関根先生等ご参加いただき日赤病院碁会も盛んでした。その縁で医師会会員の準会員となり今日に至っています。
 前置きが長くなりましたが、同時期杉本先生が日本棋院より大枝雄介九段、その一門棋士を招いての碁会を主催されていました。県下より大勢の同好の先生方が参加され、賑やかな指導碁会でした。棋力向上におおいに役立ちました。プロ棋士の指導も初めて経験しました。職業とは申せ、プロの慧眼はまさに匠の技で感服しました。マイケル・レドモンド九段が入門したての頃、三子局で勝利したことがあり、今もって自慢の種としています。
 扨て話を新年会に戻します。今年は例年より進行が遅れ、決勝戦は宴会が始まった後に行われました。参加者一同、円座となり、その中で立川綜合病院小児科遠藤先生との対局となりました。二人とも冷酒に爛酒と次々に力水を注入され、格好の酒の肴とされつつ、石を運びました。遠藤先生は若さに似合わず、冷静な石立てで、厚い碁形でした。正攻法では勝機なしとみて、「劫」に打って出ました。その劫が奏功し勝利しました。四局全て劫がらみの勝局でした。劫を制するものは一局を制すると云われています。碁は劫というルールがあって成り立つゲームと認識しています。「劫の大山」と自称していますが、無劫を打つことがおびただしく、盤側から「向こう(無劫)のお山」と揶揄されています。
 最近、将棋やチェスのゲームソフトの進歩は目覚ましく、チェス名人を打ち負かすまでになっています。それに比して囲碁ソフトはまだ初段止まりの実力のようです。その差異は劫というファジーな要素が大きいのではと推測しています。
 インターネットの普及で囲碁も世界規模で拡大しています。囲碁のことを手談と云います。言語・人種の異なる人々が二十四時間いつでもどこでも対局が可能というすばらしい世の中になりました。右脳・左脳を駆使しての手談は元来寡黙に打つべきものですが、アマチュアには至難の業です。盤側の観戦者も含めて実に賑やかです。
 手談で気付いたことがあります。囲碁には「手」を芯にした言い回しが多く見受けられます。布石や競り合いの場面での一手の手順前後が、たちまち攻守所を変えます。たとえ悪手を打って形勢を損ねても手探りでひたすら状況打開の手を読み、手筋を尽くすことで、鬼手、しのぎ手を見つけ、攻撃に転ずることができます。時に上手がハメ手を用意して、下手いじめを楽しんでいますがあまり感心しません。盤上の手よりも、あの手この手の腹の探り合いも一興です。何事も手前みそですめば結構ですが、相手あっての勝負事、打つ手も変化します。手詰まりで泣きの入らない手談を常に心がけたいものです。

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山と温泉48〜その51  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

追記

 菱ケ岳と、隣の峰・須川峰は、余り広大な山とは言えず、寧ろ小さい山と言ってよいが、その植物生態は、特徴的であると言う。「越後の山旅」には次のように書いてある。「……頂上部へかけて椈、水楢、板屋楓の喬木林が続き、雪椿、七竈、丸葉万作、山漆、譲葉、大躑躅、空木、辛夷、ハナヒリノ木等の潅木の林床は、千島笹だ。……」。安塚町史にも、植生の豊かさが記されている。
 古くから、安塚町周辺では、菱ケ岳山麓で採取される、ミカン科の落葉高木「黄蘗・黄膚」のコルク質の樹皮に、薬草を加え、煎じ、煮詰めて固め、通称「須川のにせ熊」として漢方薬を生産・販売が盛んであった。本名は、明治七年、近藤氏により「百草円」と改称された。(にいがたの歴史散歩)。この漢方薬の由来は、千六百年代からの生産ではないか?と言い伝えあり、詳細不明。当時、貴重な薬であった、「熊の胆」に、薬効(良く解らない。)ばかりでなく、樹皮等を煮詰めて固形化してあるので、形、香、味が良く似ている事から「にせ・偽熊」と呼ばれていたと言う。(にいがたの歴史散歩)
 「キハダ」の木は、全国各地の低山で見られ、高木で、約15〜25米にも成長する。(日本国語辞典)効能はなんでしょうか。現地で聞き漏らしました。キハダの木は安塚町の町木だそうです。銘木として販売されています。

菱ケ岳周辺の温泉

 温泉ではなく、冷泉だと言わずに、また、此処は、鉱泉でしかないと言わずに、すべて温泉にします。

(1)ゆきだるま温泉「雪の湯」
 旧安塚町須川
 キューピットバレースキー場の入り口右の高台に、ゆきだるまをモチーフにした建物があります。(私にはよくわかりませんが)檜造りの木造建物。かなり大きい。駐車場は、ひろびろしています。バスの場合は、ほくほく線(北越急行線)虫川大杉駅よりスキー場行きでおいで下さい。旧安塚町は、豪雪地と過疎の脱却をめざし、「雪国文化村構想」を掲げ、見事に、その構想を実現した結果の産物の一部が、この温泉とスキー場なのでしょう。H・Pを見ますと、観光カリスマは、矢野前安塚町長なのだそうです。
 温泉の開湯は、平成4年2月。スキー場は、平成2年オープン。温泉質は塩類泉。広い浴室は、一浴の価値あり。

(2)霧ケ岳温泉「ゆあみ」
 旧東頚城郡浦川原村
 R253保倉トンネル近く。ほくほく線虫川大杉より、歩行20分。霧ケ岳(507米)山麓。保倉川原に自噴していた鉱泉・冷泉を平成4年に村営の温泉保護施設として開湯したもの。

(3)大山温泉「あさひ荘」
 R253沿い。霧ケ岳温泉より更に松代・松之山寄り。ほくほく線大島を過ぎ、儀明峠下儀明トンネル手前の高台。
 昭和49年、峠のトンネル掘削中、ガスと共に湯が噴出、大島村から昭和57年、温泉施設として、開湯したもの。R253を十日町市・松之山町からは、トンネルを抜けて左に急カーブする左上に、建物がみえます。
 最近は、温泉ばかりで、銭湯と言うのが見あたらない。入浴料金を払って入浴するのですから、同じ事ですが。

(続く)

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干支うらない  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 2006年の新潟空港国際線利用者が過去最高を記録し、お正月を海外で過ごした方達も多かったとのこと。皆様それぞれ楽しいお正月を過ごされた事と存じます。
 当方は、毎年、元旦の寺年始、新年賀詞交換会といった村の大切な正月行事をすませた後、近場の温泉に出かける事にしております。で、村のお寺様にお参りをすませたうえで、もう一度温泉の近くの神社にも初詣。
 今年は厄年の長女の厄除けと、家内安全をお願いする。この歳になると、「困ったときの神頼み、なんて神様にお願いするだけで病気が治る訳ないでしょ。」などとは、若い時とは違って、思わなくなっています。
 神様仏様にお参りする事により心の平安が得られるなら、それで病気が治るなら…と考え、その土地に古くからあるお寺や神社を詣で、その由来や建築を拝見し楽しむ事としております。

 今年は柏崎の岬館に宿をとる。部屋の壁面いっぱいの大きなガラス窓を通して、番神岬の高い位置から冬の日本海と佐渡を一望できる。しかしこの時期にこんなに穏やかな日本海が見れるとは。数年前に訪れた時には、吹雪が舞い寒風ふきすさび三角波に潮の花が飛び散っていたが。
 夜も、雲間から見え隠れする月の光が、凪いでゆったりと波打つ海面に映えてロマンチックな程に幻想的。
 翌朝さっそく番神堂へお参りに…。宿から歩いてゼロ分。すぐとなり。時々鐘の音が聞こえてきたのはここからだったんだ。古い木造の伽藍が歴史と風雪を感じさせる。
 参拝の善男善女の列に加わり、お参りをし、破魔矢をもらい、厄除け祈願をお願いする。これで今年の備えは、ばんぜんみさき。

 で、お屠蘇の回った頭に浮かんできたのが、なぜかしら水澤うどんで有名な、いや水澤観音で知られた水澤寺。随分まえに行ったと思うのだが広い境内のあちらこちらに十二支の守り本尊がおわします。
 いつだったか、当時小学生だった子供たち。長男は卯年。「三人よれば文殊の知恵」。仏様の知恵(覚り)の徳を顕しておられる、の文殊菩薩にお参り。
 長女は「考え深くして口数少なく知恵多く、金に不自由なけれど見栄と嫉妬が玉にキズ」となっている巳年。守り本尊、普賢菩薩(仏の慈悲を象徴している)にお参り。
 年女の家内は、やはり猪突猛進。「あとさき見ずの気早で損もするなり」。亥年です。守り本尊は阿弥陀様でした。
 最後に控えし私は子年。「細かな事に気づいて掃除好き。(違う、という声あり。)苦労して貯めた金、色で失い、人に倒されやすい」性格なそうな…。干支守り本尊は千手観音菩薩(千の眼を持つ手を持って、病を治し願いを叶える)でした。…有難いことで、“職業上ぜひお守り下さい”とお願いしたのでした。
 努力を重ねて一心に祈れば、すべての願いが叶う…かな。

 なんで占いにこっているかと言うと、手元に正月の新聞にはさまってきた高島易断のちらしがあるから。
 こたつに入ってぬくぬくとし、過去と照らし合わせて本年の禍福を占う。仏様のご威光をお頼みしてもなかなか思い通りにいかないことも多いこの世の中。はて…。
 しかしながら日本は八百よろず、沢山のご神仏に守られた(安倍総理風に言うと)美しい国。
 本年の願い事、沢山叶いますように。いや一つだけでも…。

 最後に皆様方の本年の願いがどうぞ叶いますように…。

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