長岡市医師会たより No.325 2007.4

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もくじ

 表紙絵 「安曇野の春」 丸岡稔(丸岡医院)
 「開業一年を振り返って」 齋藤修(耳鼻咽喉科斎藤医院)
 「二風谷と違星北斗」 石川忍(石川内科クリニック)
 「山と温泉48〜その53」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「さくらさくら」 岸裕(岸内科・消化器科医院)



「安曇野の春」 丸岡 稔(丸岡医院)


開業一年を振り返って  齋藤 修(耳鼻咽喉科斎藤医院)

 医院に入り早くも1年になります。長いようで短いと感じた1年でした。平成18年3月末、新潟大学の医局を退局し、4月から父の医院に入りました。できればもう3年、大学に残りたかったのですが、もろもろの事情からの決断でした。私の曽祖父は外科医だったのですが、中越に開業の耳鼻科がないことから、大正7年頃、長岡市ではじめて耳鼻科として開業したのが始まりで、私で4代目になります。初めの頃は病床が20以上あり斎藤病院でした。その頃は診療科目に縛りがなく、ベッド数のみで医院、病院を区分していたようです。手術室もいまと違い、下はタイル張りで、手術で流れた血液などを直ぐ洗い流すためだったのだと思います。幼少の頃、昔の手術室をみて、子供ながらにここは特別な場所で、立ち入ってはいけない場所と思ったのを今でも覚えています。父の代も当初は何年聞か手術をしていましたが、入院患者さんの食事を私の母が担当していましたので、食事内容を(3分粥、5分粥、7分粥、全粥)それぞれ変えて作らなければならず、私たちの育児もあわさって猫の手も借りたいくらいの忙しさだったと聞かされました。今は外来診療のみですので、その当時の忙しさは眼をみはるものがあったと思います。
 幼少の頃は、父の診療所は住宅と別でしたので、診療所に行く機会は少なかったこともあり、そこに行くのが好きでした。今と違い昔の医院は昔ながらの消毒液(クレゾール)の匂いがしみ込んだ木造の建物で、ドアをあけるとクレゾールの消毒臭さがお医者さんの所にきているといった感情を引き立ててくれました。入ると長い廊下が奥の入院室まで続いており、そこにたどり着くためには相当距離があると感じるほどの長さでした。昔の入院室は、とても物珍しく、幼少の私には新鮮でした。
 医院の中庭は、全く手入れが何十年もなされなかったため草が茫々と生え茂り、まるでジャングルを思わせるようでした。そこにはたくさんのカタツムリを限にすることができ、幼少の頃はよくカタツムリとりをしたものです。時には牛ガエルの鳴き声まで響き渡り、街中とは思えないほどでした。
 幼い頃から父の姿をみて育ったためか自分も将来は父のように耳鼻科医として医院に入りたいという気持ちがその当時から芽生えていました。当時は診療所内を探検するのが好きで何度も診療所に通ったことも影響していると思います。
 その後、昔の医院は昭和60年頃に建て替えになり、幼少の頃から慣れ親しんだ診療所がなくなり少し残念な気持ちになったものです。父のように自分も街のお医者さんになりたいという長年の夢が叶い、今年4月から父の医院に入ることができました。自分で経営し診療していく点で気持ちの変化はありました。当初は戸惑いもありましたが、優秀なスタッフ4人に囲まれ、なんとか明るいスタッフのいる診察室で仕事ができ喜んでいます。おかげで、無事に今に至っています。
 待合室には子供が好きな本を並べるため、自分の息子に「読み終わって今いらない本、あったらパパに貸して?」と頼むことも度々で、当初躊躇気味だった息子も「返してくれるならいいよ。返してね。」と気持ち良く?貸してくれています。待合室の気配りを気にかけるようにもなりました。父もいまだ現役で診療に当たっていますので、思い切って2診制としました。
 当初は隔日ごとの診療にすることも検討しましたが、それだと週3日休みができてしまい、私がすることがなくなってしまう事と、これまで父についていた患者さんを減らしたくないという理由からでした。自分についてくれる患者さんも少しつつではありますがようやく増えてきました。ありがたいことです。
 幼稚園児だった息子も今年から小学校に上がります。趣味らしい趣味はないのですが、息子と一緒に始めた昆虫飼育(今は色彩豊かなカナブン)にはまっています。今年の4月でちょうど1年になりますが、これまで以上に頑張っていきたいと思います。
 地域の方のニーズに少しでも答えられるように勉強していきたいと思います。患者さんを診せていただくことで勉強させていただいていますので安全で丁寧な外来を心がけていきたいと思います。
 病院、開業されている諸先生方にいろいろとお世話になることが多くあると思いますが暖かくご指導、ご鞭撻のほど宜しくお願い致します。

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二風谷と違星北斗  石川 忍(石川内科クリニック)

 札幌での学会の折、酔っ払って入った書店で変わった名前に惹かれて買った本が、違星北斗遺稿集「コタン」だった。ホテルに帰って寝転んで読み始めそのまま最後まで読んでしまった。随筆、短歌、日記などからなる小さな本で、違星は本名でイボシと読みアイヌ語の当て字だという。明治35年アイヌとして余市で生まれ、15才から木材伐採、錬漁場、鉱山などの職場を転々とし、その後薬売りをしながら北海道各地を周り同志を募ってアイヌの地位向上のための活動をし、一方ガリ版の同人誌「コタン」を創刊編集していたという。甲種合格の立派な体だったが26才で結核を発病、27才という若さで早世している。読んでいていろいろと考えさせられることが多かったが、その人となりがよく現れている短歌を少しだけ抄出する。

 ・骨折れる仕事も慣れて一升飯けろりと食べる俺にたまげた

 ・昼飯も食はずに夜も尚歩く売れない薬で旅する辛さ

 ・「ガツチャキの薬如何」と人の居ない峠で大きな声を出してみる(ガツチャキは痔のこと)

 ・我ながら山男なる面を撫で鏡を伏せて苦笑するなり

 ・何事か大きな仕事ありやいいな淋しいことを忘れる様な

 ・暦無くとも鰊来るのを春としたコタンの昔慕はしきかな

 ・喀血のその鮮紅色をみつめては気をとりなほし死んぢゃならない

 ・これだけの米あるうちにこの病気全快せねばならないんだが

 北斗が活動の拠点にしていた日高平取町二風谷のコタンに、学会の合間を縫って行ってみることにした。出来れば静内まで足を伸ばしてアイヌの英雄シャクシャインの砦跡まで行きたいと思った。
 11月も末のことで周囲の山々はもう雪を被っていた。早朝6時札幌発の鈍行列車に乗った。苫小牧を過ぎると原野と海だけの淋しい景色が続いた。富川という駅で降りたがバスは駅から出ていず、沙流川に沿った道を暫く歩かされた。薄日の差すような日で、日高連峰が遥かに望まれたが幌尻岳、楽古岳など名の知れた山がどれなのかよく分からなかった。路線バスは地元の人が少し乗っているだけで空いていた。途中の平取で乗り継ぎに時間を費やし、昼過ぎに漸く二風谷に着いた。降りたのは私一人で、小さな土産店が数軒淋しそうに開いているが観光客は一人もいない。店番のおばさんに声を掛けられ、何処から来たの?私も若い頃内地に仕事に行って仙台、東京、あちこち行って最後は名古屋で結局帰ってきてしまった、というような話を聴かされ、最後にこのバンダナは手織の良いものだから買わないかと。使わないからいらないと答えると、別にがっかりした様子もなくアイヌ資料館へいってみるといいよと教えて呉れた。
 資料館は教室のような部屋の中に民具や写真がずらっと並べられていて、一周すると春夏秋冬一年間のアイヌの暮しと行事が具体的に解るようになっていた。暖房はなく見終わる頃には体の芯まで冷えてしまった。外に出ると竪穴式住居のような小屋があり、覗くと民族衣装を着たお爺さんが手招きをする。中に入るとほんのりと暖かく、指差された切り株の様な椅子に座った。お爺さんは特に話をするわけでなく、黙々と木彫の人形を見事な技で作り続けている。外は寒いから中で観るようにという事だったらしい。15分ほど観て御礼を言って外へ出た。それから村の中を歩いた。二風谷は人口の9割をアイヌの人々が占め、最後のコタンと言われている村だが、アイヌの生活や歴史を訪れる人々に知ってもらうための二、三の施設を除けば、魚沼あたりの農村と特に変わったところは無く、農閑期のためか畑にも人の姿は殆どない。偶に会う人も軽く会釈をして通り過ぎるだけで観光地らしい様子は全くない。
 二風谷小学校の校庭に違星北斗の歌碑が落葉に囲まれて立っていた。碑面には金田二月助の書で二首。

 

 ・沙流川は昨日の雨で水にごりコタンの春ささやきつつゆく

 ・平取に浴場一つほしいもの金があったらたてたいものを

 

 そうか殆どの家には風呂がなかったんだろうな。資料館で見てきた写真や民具を思い合わせてその頃の村の生活を少しだけ実感出来る気がした。
 再び連絡の悪いバスと列車を乗り継ぎ、静内に着いた時にはすっかり日が暮れてしまった。それでも第二の目的地シャクシャインの砦跡に歩いて向かったが、家並みを外れた途端、足下も見えない漆黒の暗闇になってしまった。闇が肌に粘り付くような感じで恐ろしくなり、慌てて引き返し、駅前の食堂で夕食を食べた。
 帰りのがら空きの最終列車はひたすら暗闇の中を走り続けた。海の遥か沖合に漁火がぼつぼつと見えるだけ。電気のない頃のコタンの生活を思い浮かべたりしているうちにいつのまにか寝込んでしまった。やっと着いた札幌の灯が眩しかった。

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山と温泉48〜その53  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

開田峠 1,129米

 開田山塊のほぼ中央に位置する峠、別名「大明神峠」とも言う。峠に古くから大明神の祠があったので「大明神峠」としたと言う(『信州百峠』)。上越市板倉町関田と飯山市温井とを結ぶ。古くは関田街道と呼ばれた道路の新潟、長野県境峠。
 『北越雑記』に見る関田山はどの峰を言うのかわからない。おそらく峠の頂峻に続く北方の高まりを言っていたのではないか?。
 関田峠は、関田山塊の十七の峠群(『越後の山旅』)の中央に位置し、古くは良く整備されていた。いずれも間道の峠であったが、この峠だけは登り口の越後側「上関田」、信州側「温井」(ぬくい)のそれぞれに、関所があったと伝えられている。広い峠です。
 峠に碑が二つある。「関田嶺修路碑」、「自動車開通記念碑」。
 「関田嶺修路碑」は嘉永二年(1849年)越後国別所村(現・坂倉町別所)の住人、「藤巻勘之丞」が私財を投じて、三年がかりで峠道を改修した記念碑。碑文には、天正年間(1573〜92年)上杉謙信が修理を命じて峠道を完成させ、関所を置いた、などの由来が記されている。(『信州百峠』)
 R117号線を長野に向かって南行する。県境を過ぎ、飯山市の北の端、国道と平行して走るJR飯山線「上境駅」の手前を右折、上境温井線に入り、葛折り(九十九折り)の急坂を上る。温井集落を過ぎると、喬木、潅木の無い、身の丈程の高さの薄(ススキ)の多い、天空に伸びた広大な斜面の雑草地を行く。右に廻り、左に廻り、ジクザクに、天空との境目、関田山塊の境線に向かう。此処が最高の眺め。広い斜面の底に、線がかかった千曲川、川の縁を白い国道が走る。対岸は川面から急斜面で山峻に向かって走り上がる、そして天空に駆け抜ける。なんとも爽快な眺め。斜面の中央に野沢温泉とスキーリフトがマッチ箱をひっくり返したように見える。
 関田山塊の頂峻は、椈、楢など、潅木に覆われているが、雑木が多い。椈の木も余り太くなく、木高も高くない。頂稜の関田峠直下、長野県側にある「茶屋池」は森中の池、大きい池ではないが、神秘で静寂。古くは、海と山の交易の場であり、多くの軍兵が水を飲み、休息を摂ったところであったのでしょう。
 茶屋池の縁を廻ると道は広くなり、切り通しの広い関田峠。展望は北、西、南方向に開け、日本海、遠くに能登半島、海岸線から頚城平野、妙高連峰、後立山連峰が拡がる。足下の西南方向に緩く傾斜する広大な高原大地・光ケ岡高原には標高800〜900米、広さ100ヘクタール(『越後の山旅』)の牧場がある。(昭和43年、町で開発、牧場を中心にリゾート施設が出現したが、数年前から何もなくなり静かになった。牧場は残っている。)
 峠から急坂をジグザグに平坦部迄下り、更に台地の西の端を直進、緩やかにR95号線「上越飯山線」を下り、別所川沿いに進むとR30号線「新井柿崎線」と交差、ついでR18号線に出る。
 歩行の場合は、バスを利用。バスは、信越線「高田」駅前より、「板倉町経由関田行き」の路線がある。関田からは歩く。現在このバス路線を運行しているかどうかは不明。頚城バス会社に確かめて下さい。
 長野県側からは、飯山市温井まで、JR飯山線「かみざかい」、又は「とがり・のざわおんせん」駅・下車になります。温井集落より峠まで、直登の路がある筈です。飯山市観光課に確かめて下さい。
 この峠は、上杉謙信・景勝時代以後は、上杉家会津移封により荒廃した。江戸時代に入り、内陸信州と海浜越後との交易、更に越後から善光寺参詣、野沢温泉の湯治と、人々が峠を越えた。しかし豪雪地で在る事もあって、信越線、飯山鉄道の開通後は、再びこの峠は荒廃した。戦後、越後側からの車道の完成は、昭和40年代となりました。峠道は、苦労しました。
 歴史上登場する中世越後を支配した英雄、上杉謙信の話に脱線します。御勘弁願います。脱線理由は次の話からです。
 世に言う「川中島の合戦」に、上杉謙信は、居城・春日山城から北陸街道と関田峠越えで出兵したとあります。では、どのように行われたのか? それを調べたかったのです。

(参考文献後記)

 上杉謙信(1530〜1578年)は、合戦に明け暮れ、49歳の若さ(当時は隠居の身であったが)で生涯を閉じた。北陸地方での初陣をかわきりに、関東出兵13回、川中島合戦5回、北陸地方へは休む事無く出陣。この間、京都に2度の上洛を果たしている。生涯で70回余の合戦をやっている。
 終生、敵であった武田信玄は、天正二年(1573年)没。上杉謙信は、信玄没五年後の天正六年(1578年)に亡くなっている。
 川中島の合戦のため、上杉謙信が春日山城から出兵したのは、5回と言われ又、そのように信じられている。合戦は5回。東信州・北信州に割拠する小豪族所領の上杉と、武田による切り取り争いであったわけで、結果は、飯山城を漸く守り切っただけで終わった越後勢・上杉の敗北と考えて良い。甲州勢・武田は、北、東、中信州に加えて、南信州も支配した。(続く)

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さくらさくら  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 4月に入るとTVから流れてくるさくら便り。関東からやや遅れて長岡でも柿川沿いから始まり、福島江から悠久山へとすすみ、そのうちお山がそろそろ見ごろ、来週ならお山でお花見…。一番見ごろの時期とお花見場所を考えるだけで心浮かれる日々でした。でも今年は開花が早かった分、少し早めの散り始め。そろっと“さくら若葉と青い空”、智恵子抄の季節へとかわります。
 古来、日本人に愛でられて来たさくら。私のまわりの家でも庭にさくらを植えてあるお宅がかなりあります。我が家の庭にはさくらは去年までずっと一本だけでした。ソメイヨシノではなく山桜です。開花もすこし遅めで、市内のさくらが散り始めるころ若葉と一緒に白い花が咲き始めます。
 ソメイヨシノのように、紺碧の空をさくら色に染め華やかに咲き誇る、という感じではなく、暮れなずむ空にぼうっと白く浮かび上がる山桜は、まだ若葉の目立たない竹林の揺れるうす緑を後ろに従え、すっきりと高貴な立ち姿に加えて、なにやら寂しげにも妖しげにも見え、遅いさくら、名残りのさくらを演じてくれます。
 その昔、外国のメディアが当時のプリンセス美智子の美しさを夜桜にたとえましたが、私としてはまことにもっとも、と感心したものです。
 思い起こせば、当時、自分が少年だった頃、今で言うアイドル?、憧れの女性は吉永小百合さんでした。かの白い花の如く、今にないその清楚な美しさ、可憐さがそこにありました。
 今ぼくの手許にあるのが「JR大人の休日倶楽部」会員募集のパンフレット。その宣伝ポスターの吉永小百合さん。さくらの背景がまことに良くお似合いで、思わず私も入会申し込みをしてしまいました。(あ、「JR大人の休日倶楽部・ジパング」ではなく、まだ「JR大人の休日倶楽部・ミドル」です。ちなみに前者は65歳以上、後者は50歳以上。)
 さあ、これからJRでお得な旅にでかけよう。…今年はちょっと間に合わないかも知れないが、山桜と言えば吉野山のさくら。先日も朝のTVでNHKが放送していましたが、シロヤマザクラが山一杯に若葉と同時に開花し、凛とした気品が感じられるとのこと。また役行者が金峰山寺を開くとき、感得した蔵王権現を桜の木に刻んだことからご神木として保護され、それから桜の名所になったということです。
 ところで家の桜はどこから来たのだろう。自分の子供のころにはなかったのに。父の仕事上の転勤のため東京に出ていっていて、定年退職に伴い長岡に帰って見ると思いがけず、ひょろりとやせた、白い花をつけたさくらがあったのです。今はかなり大きくなりましたが。
 そのさくらの花を鳥たちが好んでついばみに来ています。山から里へと遊びに来た彼らの落し物(ふん、糞、フン)が春になって芽ぶき、だんだん大きく育ったのでは、と勝手に推測しています。一本だけではちょっと寂しい。と言うわけで、実は昨年電線に届きそうに伸びてしまった杉の木や雑木を何本か伐採したので、切られた木への申し訳にとソメイヨシノを2本植えました。今年はまだ咲かないものと思っていましたが4月も下旬に入って、ぼんぼりのようなかわいい白い花を、すぐ数えられるほどですが咲かせてくれました。さくら色ではなく生まれたての白い小さな花を。
 でも成長は期待できそう。がんばれよ、さくら。来年には花見酒。さくら舞い散る空の下で。

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