長岡市医師会たより No.326 2007.5

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もくじ

 表紙絵 「五月の朝(水梨)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「弔辞」 会長 大貫啓三(大貫内科医院)
 「追悼 吉原正博先生のこと」 丸岡稔(丸岡医院)
 「ヨシキリ目覚まし時計」 一橋一郎(一橋整形外科医院)
 「山と温泉48〜その54」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「高輪の白いチョウ」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「五月の朝(水梨)」 丸岡 稔(丸岡医院)


弔 辞  会長 大貫啓三(大貫内科医院)

 本日ここに故吉原正博先生のご葬儀にあたり、先生のご霊前に額ずき、深く哀悼の意を表し、長岡市医師会員を代表してお別れの言葉を申し上げます。
 「生者必滅、会者定離」は世の定めとはいえ、あまりにも突然な、早すぎる先生の訃報でした。
 去る2月16日に先生が体調を崩され、入院されたとの連絡を受け、2月26日にお見舞にお伺いしましたが、その際は、残念ながらご都合が悪くお会いすることができませんでした。その後、3月10日にご退院され、しばらく療養されるとのご連絡が医師会にあり、少しばかり安心しておりましたのに、この度のご訃報に接しただただ残念で信じられない思いでいっぱいであります。
 先生は昭和17年のお生まれで、昭和43年新潟大学医学部をご卒業後、精神神経科学教室の研究生として新潟精神病院に赴任され、その後、新潟市の河渡病院精神科医長を経て昭和58年に当市の宮内病院に赴任されました。平成4年に宮内病院を退職され宮内駅前に「駅前診療所」をご開業になり、平成6年には「宮内中央診療所」として現在地に新築移転され、地域医療に邁進されてこられました。
 先生は、多忙な診療の傍ら保育所の嘱託医、小学校の学校医として、また、長岡市の介護保険認定審査会の委員としてもご尽力をいただきました。
 先生が平成5年に当医師会の会報に寄稿されました開業後一年の手記を読みますと、とにかく患者さんへの責任を果たしたいとの思いから薬とベッドだけを用意してわずか一ケ月間の準備で開院にこぎ着けたこと、また、愛読書の論語にまつわる先生の思いや、開業後一年間ご自分が無事に過ごせたことに相対して、主治医として見送った患者さんへの思いなど、そこには、多くは語らずとも実直誠実な先生のお姿が目に浮かんでまいります。手記は、「日々の汗に我が天命を知るべく努力していきたい」と結んでおられますが、このことがまさに先生のお人柄を表しております。
 昨年の3月には、ACLS(二次救命処置)講習会にも、日曜丸一日という厳しい日程にもかかわらず積極的に受講していただきました。65歳という医師としてこれから益々ご活躍なされる時に、こうして先生に最後のお別れをしなければならないことは、全く残念の極みであります。
 ご親族のご心痛も如何ばかりかとお察し申し上げます。心からお悔みを申し上げます。
 永年にわたる先生の長岡市医師会へのご尽力に会員一同心から感謝申し上げます。本当に有難うございました。安らかにお眠り下さい。(平成19年5月20日)

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追悼 吉原正博先生のこと  丸岡 稔(丸岡医院)

 吉原先生が入院されたとは聞いていましたが、経過はいいということだったので、診療所再開は間も無くだろうと思っていました。
 3月末にどんな具合かと電話をしたら、どうも元気の無い声なので行ってみました。ふとんの上に起きておられましたが、両下肢の著しい浮腫があり驚きました。傍にご子息が居られ、お茶を出して下さいました。
 今から20年程前に、先生と飯豊に登った時、麓まで同行し、下山するまで待っていてくれたお子さんがこんなに大きくなっている。
 「先生、よくここまで育てられましたね。」といろいろなご苦労があったであろう日々に思いを馳せていました。二番目のお子さんは大学生とのこと。
 先生は、昭和58年に私が居た宮内病院に赴任され、10年近く一緒に仕事をしました。サンケイスカラシップでアメリカに留学され、船医をされたこともあり、若いながら博覧強記、楽しい話を沢山聞かせてくれました。講演の通訳を頼まれたり、翻訳をしたり、病院外でも活躍していましたが、マルクスの伝記を翻訳した時、一頁毎に出来上がると私に見せてくれました。マルクスの人間的な部分を知ったのもこの時でした。
 奥様が二番目のお子さんをお産されたのは宮内病院で、私がとり上げさせてもらいました。
 この時、奥様がかなり進んだ乳癌に侵されていることが分かり、乳呑子を抱えてご実家の秋田で療養されることになったのです。
 今、お父さんの枕元にいるご子息を見て、「よくがんばってくれた。」と言わずにはいられなかったのです。
 先生の病状を一見しただけで、このままではいけないと思い、直ちに入院をすすめたのですが、もう少し様子を見たいと言われます。仕方なく、先生の診療所で開業以来、片腕となって働いて来た看護師の?さんと息子さんの三人で見守ることにしました。
 しかし、病状は徐々に悪化、4月3日の晩、救急で日赤病院に入院して頂きました。
 前に入院した時、もう少し居るように言われたのに早く退院されたと聞いていたので、「今度は、主治医の先生がいいと言われるまで帰ったらだめですよ。」とまるで子供に言い聞かせるように言いました。
 「とかくお医者さんは良い患者さんになれないものだ。」といつか聞いたことがありましたので、「先生、いい患者さんになるんですよ。」と言いました。
 吉原先生と一緒に勤務していた頃、登山好きな先生と、先生の生まれ故郷の妙高山をはじめ、白馬や飯豊に登りました。飯豊山は胎内市出身の私が常に遠望していた山で、農家の人は飯豊が白くなったり、消えたりするのをよく話題にしていたものです。ある日、私に「先生、飯豊に登りましょう。先生は今60才、今登っておかないと、後では無理です。」と言われ、吉原先生のすすめに従って、二回も故郷の山に登ることが出来、今でも心から感謝しています。「吉原先生、いいですか、元気になったら又一緒に山に登りましょう。さあ、えいえいおう!です。」と先生の右腕を持ち上げました。
 先生の患者さんが私の医院に何人か来られるようになりましたが、その方たちの話から、如何に先生が患者さんから慕われていたか分かりました。嬉しいことでした。「先生の帰られるのを待っている患者さんのためにも、一日も早く快くなるようがんばって下さい。」と救急で病院に送って行った時言いました。「また仕事ができるでしょうか。」と開かれ、「勿論です。前と同じようには出来なくても、一つの机と二つの椅子と診察台があれば、医者の仕事は出来るのです。今度の病気の体験が、きっと患者さんの役に立つ時が来ます。」と言いますと、「ああ私が初めて開業した時、同じことを先生が仰いました。」と言われ、そんなことをよく憶えていてくれたと胸が熱くなりました。
 「吉原先生、とうとう帰ってこられなかったけれど、さよならは言いません。どうかいつまでも、二人のお子さんと、先生を頼りにしていた患者さんを見守っていて下さい。」

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ヨシキリ目覚まし時計  一橋一郎(一橋整形外科医院)

 話は2年前に遡るが、東京から息子夫婦が孫たちを連れて遊びに来てくれたゴールデン・ウィークの賑わいもあっという問に過ぎてしまい、一抹の寂しさの残る5月中旬の或る日、未だ夜も明けぬ午前3時半頃に突然時ならぬけたたましい鳴き声に眠りを破られた。何とそれはヨシキリの声だった。
 実は平成16年の7.13水害後、行政は治水に一段と心血を注ぐためか、我が家の脇を流れる栖吉川にも川底渡せつ作業が始められ、17年の夏一杯かけて巨大なロングアームブルドーザで川床を平らにし、水流を中央に括める工事が続けられたので、土手から河川敷にかけての一切の草木は根こそぎにされ、それ迄毎年初夏になると渡って来て、川床の豊かな葦やその他の草々の茂みに営巣して日がな一日囀り暮していたヨシキリ達は、恐らく仔育て半ばでその治水工事の犠牲となり、泣きの涙で南の國に逃げ帰り、その賑やかな夏の風物詰も早々に影を潜めてしまったので、きっとこのような仕打ちに遇えばもう二度と此の辺りには渡って来まいと思っていた。
 寝惚けまなこをこすりこすり布団を抜け出して、東に面した廊下のガラス戸を開け、鳴き声の方に眼をやると、何とその先の庭に聳える大けやきの素天辺にこれ又一本だけ空に向けて突き上がった裸の枝の頂に留まって声高らかに「ギョウギョウシ・ギョウギョウシ・ギョウギョウシ・キシ・キシ・キシ・キシ・ピピッ」との節回しの囀りを繰り返している小鳥のシルエットが、茜さして来た空を背景に浮かび上って見えた。
 その日以来、決まってその時刻頃になると、その定位置に留まっての行々しい囀りに限を覚まされるようになった。家内も娘も流石にこの鳴き声には眼を覚まさざるを得なくなったようで、皆して“ヨシキリ目覚し時計”の称号を贈ることにした。
 更には日がな一日この鳴き声は疲れ知らずに響き渡っていると家内は言っていた。
 後にこの話を知人にした処、ヨシキリは葦原の葦の高みに留まって囀るのは見たことがあるが、そんな大樹の素天辺に留まって鳴いているなど聞いたことが無いと言った。
 その後、朝早くの愛犬の散歩の途中で近くの公園の傍を通った時、そこの桜の大樹の梢から馴じみの行々しい鳴き声が聞こえて来たので、やはりヨシキリも大樹の枝に留って噸ることもあるのだと知った。
 ヨシキリには「コヨシキリ」と「オオヨシキリ」との二種があり、昼間同じ処で鳴いているヨシキリを双眼鏡で観察したら、大きく開けた嘴の内側が黄色に彩られていたので、「コヨシキリ」だと判ったが、ちなみに「オオヨシキリ」は嘴の内側が真っ赤で少し大柄だと野鳥の解説書に記されていた。
 兎に角、行々しく鳴き囀る処からヨシキリは「行々子」の別称で呼ばれているが、俳句の世界では夏の季語となっているようである。
 これ迄、毎夏訪れて来てくれた同じ鳥では無いにせよ、その元気一杯の囀りには懐かしさを覚えずには居られぬものの、たまさかの日曜日の昼寝時などは些か喧騒に過ぎるキライが無いではない。
 その後、ヨシキリの囀りは川原のあちこちで聞えるようになった。
 例年の如く8月も近くなる頃に、人の身の丈より高く伸び茂った土手道傍の草むらを、行政の担当員が草刈自動車で刈り取って、朝夕の散歩やジョギングの人達の通行に便ならしめてくれるのだが、昨夏は早々と川の上流域の方から土手道の草だけでなく川床の草原まで刈り倒しが始められたので、ヨシキリの営巣が又ぞろ心配になった。日数から推測すると、そろそろ卵も孵化して仔鳥に成ったであろうかと思い、何とか災難の及ぶ前に飛び立って逃げおうせる迄に成長していることを祈ったことであった。
 今年も5月半ばを過ぎたが、心待ちにしていたヨシキリ目覚まし時計の御到来は一向に無く、川原の枯葦の根元からは若い葦が勢いよく伸び始め、そこそこにヨシキリもしきりに鳴き出したのに、残念ながら大けやきの天辺にはヨシキリはやって来なかった。
 実は雪のチラつく2月半ばに、今度はカラスが何を気に入ったものかこの大けやきに目を付けて、高みの三つ又分れの中幹部分に巣を掛けたのである。こうなると今年の先住者はカラスということになり、ヨシキリにとっては相当に手強い相手であろうし、まして囀りに飛来するだけとは言え、その行々しい鳴き声では到底カラスの赤ちゃんの子守唄にはならぬだろうから、ヨシキリ目覚まし時計の設置の夢は期待はずれとなった。
 それでもカラスも仲々の早起きと見えて、最近ではもう陽の出前からあのお馴染みのカアー・カアーというダミ声で鳴くものだから、結構目覚ましには役立つが、やはりヨシキリの威勢の良い目覚まし時計が懐かしい昨日今日である。

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山と温泉48〜その54  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 大正6年発刊、布施秀治著『上杉謙信伝』に拠れば、甲州武田信玄との川中島合戦のため、居城春日山城からの出兵ルートは三つあったと言う。

一:春日山城・中山八宿・大田切・小田切・野尻湖・相原(柏原)・牟礼付近から千曲川支流の鳥居川沿いに下り、浅野付近から千曲川沿いに遡行、善光寺に出る。(更に犀川沿いに川中島周辺の山に入る。著者註)

二:相原(柏原)より分岐、西方に向かい進み、黒姫山を右手に、飯綱(縄)山を左手に見て、両峰峡谷を通過し、戸隠山山麓を経て善光寺に出る。

三:開田越又は外様越と称す。開田峠を越え、富倉峠を踰えて信州に入り、飯山に到り千曲川沿いに川中島に出る。(『上杉謙信伝』)

 一のルートは、現在の「北国街道」とは一致しない古い「北国街道」を巡っている。「北国街道」の歴史は古く、平安時代には、既に存在していたと言う。上杉謙信、上杉景勝時代に、軍用道路として整備されている。又、江戸時代に入り、佐渡金山からの輸送道路として、海産物、小千谷、吉木(新井)の蝋輸送、大名の参勤交代の道として整備された。そのルートは次のようであったであろうと思われる。
 北陸道−春日−高
田・春日山城−荒井(新井)−二本木−関山・関山の険・関山宿−二俣宿−田切宿−関川(関所)−野尻宿−相原(柏原宿)−古間−牟礼−長沼−松代−?(松代から先は判らない)。
 北
陸街道は、相原から県道60号線を通り長野豊野線となり、善光寺門前を通過するのではないか?(推測)
 春日山城を出て、北国街道を行く多数の軍兵は、野尻湖畔の野尻城が中継の城となり、攻撃と守備の拠点になったものと思われる。三のルートの関田峠越えでは、野尻城の役目同様、飯山城が拠点であったのでしょう。現在も旧飯山市に広い敷地を持つ城跡が史蹟として保存されている。春日山城から遠望される関田峠は、二日あれば峠を越えて飯山城に入れる。武器、糧食は飯山城に用意されてあるので、飯山城までは身軽に行動が出来る。同じ事が関東出兵の場合も言える。春日山城から直峰城(安塚)が拠点となり、外丸、木落(十日町)で信濃川を渡り、八個峠等、魚沼丘陵を越え、上田長尾の居城、坂戸城(南魚沼市・六日町)が出兵拠点となる。更に前線基地は、三国峠越えでは荒戸城(南魚沼市浅貝三国トンネル近く)、清水峠越えでは清水城(南魚沼市清水集落外)(『越後歴史考』渡邊三省)との記載がある。両城とも、遺蹟として残っている。いずれも砦と言った方が良いのかもしれない。当時の路はどうであったか?。三国峠越えは、三国トンネル越後側入り口の左に真っ直ぐに峠に向かい急登する山路。峠より上州側に入る。現在も立派に残っている。平安期、西暦800年代には、峠に現在と同じ三国権現の社殿があったと、三国権現縁起にあると言う。峠の伐開は大同元年(806年)と伝えられているが、古文書等の記載はない(『越後の歴史考』渡邊省三)。清水峠越えは、三国峠の裏道と考えて良い。上杉時代、殊に上杉謙信が、上杉姓と関東官領職を譲られてから、関東出兵が頻繁となつたためこの路が整備された。三国峠越えが本道であったが、急峻難路の清水峠越えとは言え一刻も争う関東出兵には、距離が短い事で好都合であったのでしょう。清水峠越えを、直路(ジキロ)と言い、三国峠越えを上田大手と呼称した(『越後の歴史考』)。清水集落の外れに関東出兵の前線基地・清水城跡・砦跡が遺蹟として見られる。清水峠迄の路は、十五里尾根路、謙信尾根路として残っている。現在の清水峠路は井坪坂路と言い、明治時代に大々的に改良工事が行われた路。崩壊がはげしかったが登山路として改修された路。清水集落から登川右岸の井坪坂路を約3キロ行くと追分(770米)に着く。右に分岐、登川の川原に下り、川を渡る。前方に、天空に奪え立つ大源太山、高圧線の鉄塔の並ぶ尾根が見渡せる。この尾根が十五里尾根、通称・謙信尾根。急登につぐ急登、3時間で峠に立てるか?。十五里尾根の十五里は、清水から上州・藤原村迄を言う(『越後の山旅』)。上杉謙信の関東出兵13回の内、積雪期以外では、8月の2回だけ、三国峠越えと共に、どのようにして雪中難路を行軍したものか?。『越後の歴史考』の渡邊氏も、どのようにし行軍したものか?につき、「今日では想像を超えるものであった。」と記されている。
 越後勢は、清水峠からは藤原村の方向に下り、関東出兵の拠点・沼田城に入っているようだ。
 では、川中島の合戦はどのようであったか。文献の『上杉謙信大辞典』(花ケ前盛明・編集)を参考に書いてみる。

 川中島合戦

 第一次 天文22年(1553年)4
 長野市小島町(八幡原史蹟公園)合戦の発端となったのは、北信濃の豪族、殊に川中島地方の豪族の一人、村上義晴の本城、葛尾城(長野市茂管)が武田晴信(後の信玄)により占拠されたことにある。葛尾城は、善光寺北西にある標高815米の葛山にあった山城。この時上杉勢は五千の兵で、善光寺平南部・現在の上田・粉本市まで武田勢を押し返し、越後に引き上げた。しかし、間もなく善光寺平南部は、武田勢に占拠された。
 この年、天文22年9月、戦の最中に上洛している。春日山本城は、余程信頼のおける家臣が留守居役として守ったものだろう。長尾景虎(後の上杉謙信)24歳。

 第二次 弘次元年(1555年)4月
 武田勢の北上に対抗し、横山城(善光寺裏山の城山)に入り、武田勢も大塚(中瀬の市青木山町)に陣を張り、犀川をへだてて両軍が向かい合った7月に犀川付近で両軍の衝突があった。その後、小競り合い程度の衝突で秋まで対峠を続けた。10月、今川義元の仲裁で両軍和睦、無条件撤兵であった。

 第三次 弘次3年(1557年)2月
 武田勢が不意に葛山城占拠。越後勢深雪のため、4月、善光寺に陣を布き、旭山城(長野市安茂里・旭山789米)を再興し、越後に引き上げた。
 永禄2年(1559年)4月、二度日の上洛。

 第四次 永禄4年(1591年)
 川中島合戦最大の激戦は、9月10日川中島八幡原(中瀬の市、小島田町・八幡原史蹟公園)で戦われた。八幡原は千曲川の川原。史上有名な謙信・信玄の一騎打ちは此処で戦われた。その結果は、いずれも勝敗ははっきりせず、互いに自軍の勝利とした。上杉勢は、3回にわたる合戦によって得るものはなく、善光寺平から北信濃一帯は武田勢の支配地となり、海津城(長野市松代町・松代駅前・松代城址)を構築し、この地の拠点とした。上杉謙信は、永禄4年3月、上杉憲政より関東管領職と上杉の姓を譲られている事があって、武田勢によって支配された川中島を取り返す事で、関東管領職の権威を示そうとした(『上杉謙信大辞典』小林計一郎)。しかし、川中島は取り返す事は出来なかった。

 第五次 永禄7年(1564年)4月
 武田勢、突如野尻城攻撃、占拠、越後領内に侵入する。上杉勢反撃、野尻城を取り返す。同年7月善光寺に入る。八月武田勢は南信濃より塩崎(中瀬の市、篠ノ井・JR線篠ノ井線稲荷山付近)に至り布陣。両軍対時のまま秋となり、上杉勢は飯山城に引き上げた。

 川中島合戦はなんであったか。信義を重んずる謙信が、北信濃の豪族が救いを求めた事に対して、これに応じただけでなかったか?。謙信は、男らしく豪快、事あらば勇猛果敢、疾風迅雷、戦さ巧者で合戦では負け知らずと。越後勢が現れると、相手は直ちに後退したと言う。反面、戦う相手を徹底して攻め滅ぼす事はしなかった。ましてや、無辜の戦場住民を惨殺するような事はなかった。(『わが町の歴史』(上越)・渡邊慶一)越後国内では、反乱、謀反事件が、しばしば起きている。にもかかわらず、これを許している。我国時代の武将には不向きであったと言うのが、多くの研究者の一致した見解であると言う。この時代、越後の国は経済力があった。米・金銀・青苧(そ)がその経済を支えたと言うのだ。いずれにしても、上杉謙信は、傑物である。

※参考文献
 上杉謙信伝
 上杉謙信大辞典
 越後の歴史考
 日本城郭体系 八巻
 我が町の歴史・上越
 北国街道
 吉川英治・上杉謙信
 日本山嶽誌
 新日本嶽誌
 高志路
 温古之栞
 日本史年表
 信州百名山
 信州百峠
 長野県道路地図
 新潟県道路地図
 越後の山旅
 新潟県の山旅・新潟のハイキング
 新井市史
 高田市史
 長野市史
 湯沢町史
 中頚城郡誌・南魚沼郡誌
 その他町史・村誌・郡誌
 国土地理院 二万五千分一・五万分一・二十万分一

 宇津俣温泉(鉱泉)深山荘

 上越市牧区宇津俣(東頚城郡牧村宇津俣)

 関田三塊の新須川峠の南側に位置する伏野峠は、踏み跡しかない、との事で、確認を諦めた。次の字津俣峠は、山越え程度の山路。次の峠は梨平峠、開田峠に続きます。この宇津俣峠を、新潟県側に下ると、山腹に、2階建の一軒家を見る。庭先を山路が通っている。これが、古い鉱泉宿「鷹羽鉱泉」。宇津俣温泉の源泉と言う。宿の庭先を通り、路をジグザグに下ると、集落に入る。右の高台に宇津俣温泉宿。鉄筋の新館が見える。
 高田、直江津の国道高速道インターからは、30分から40分は掛かるようだ。R405号線を旧牧村役場から右折、暫くして宇津俣集落に入る。簡単に判る。高田駅前から定期バスが運行している。
 昭和60年開湯。極めて静か。風呂場から、頚城平野が一望、夜は、高田市街の灯が瞬く。

 鷹羽鉱泉(温泉)

 2回程訪れた。いつも無人であった。看板もなかった。しかし、集落の住民を尋ね、得た事は、源泉であるとの事。はっきりしません。(続く)

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高輪の白いチョウ  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「ちょっと、起きて見て。木立に白い蝶がたくさん飛んでる。」

「どれどれ、わー、ほんと。すごいね。なんか外国の森の朝みたいな風景……。」とまだ寝起きの家人。

 場所は東京高輪Pホテルの高層階客室。6月の早朝の窓から鬱蒼とした木立を眺めると、白い蝶が無数に樹上を乱舞しているのが目に入りました。研究会出席のため上京、その会場のホテルが高輪にありました。家人はたまにはとお伴でオノボリさんの見物で、いっしょに一泊。
 レストランで朝食後コーヒーを飲んでいたら、ようやく目が覚めた家人の灰色の脳細胞が名探偵ポワロのように活動し始めたのでしょうか。

「さっきのチョウだけど、あれガかもしれないわ。前に近所の林でも白くひらひらと昼に飛ぶのを見たことがある気がする。あんなに数え切れないほどたくさんじゃないけど。」

 夫婦で自然に親しむうち家人も野鳥や昆虫を見る目は育ち、門前の小僧なんとやら…なんと我が家の庭先でギフチョウを二回も捕獲した実績の持ち主であります。
 帰宅してさっそく、インターネットでヤフー検索。キーワードは「高輪+蝶」、その結果は成果なし。次に「高輪+蛾」で試すと、ある個人ブログにヒットです。(以下引用)

“最近、高輪にはモンシロチョウが大量発生しています。……”−これに寄せられた別のコメント。

“突然失礼します。……例のアイツですが、「キアシドクガ」という蛾らしいっす。ドクガという名でも、毒は無いみたい。白金台でも大量発生中だって……。”

 あっと言う問に関連情報が入手できました。さらに名前から調査すると以下のことがわかりました。

 キアシドクガーチョウ目、ヤガ科、エグリバ類 Oraesia excavata
 年に1回の発生で公園などでまれに多発。食草はミズキの樹木の葉。越冬した卵塊は4月に孵化して毛虫となり、5月下旬に蛹化。成虫発生時期は6月。4センチほどでモンシロチョウに似る。ドクガの名は付くが毒はない。なお昼から多数で樹上を舞うモンシロチョウに似た白い蛾は初夏の本種と初秋のウスバツバメガの二種が有名。

 実は数日後に帰宅途中に近所の林に白い姿を数匹見かけました。さっそく家から採集用捕虫網を持ち出しました。ひらひらと飛ぶ白いやつを一匹あっさりと捕獲。ルーペで観察すると羽毛型の触角でモスラ似の顔立ちで、前脚が黄色です。つまり「黄脚毒蛾」なのでありました。
 手元の昆虫図鑑によると蛾・蝶の仲間は「鱗翅類」と呼ばれ、厳密な区分はないが、一応のめやすは、(1)活動時間は蝶が昼、蛾は夜。(2)とまりかたは蝶が羽を立て、蛾は羽を伏せる。(3)体つきは蝶は細く、蛾は太い。(4)触角は蝶は棍棒型で蛾は糸型ないし羽毛型である。このキアシドクガは昼に活動する変り者。デジカメで撮影してからリリースしました。
 たまたまこの採集場面を目撃された近所の町内会長?さんに訊ねられて、名前を教えてあげました。

「ほう、ウチの庭のミズキの木にたくさん来とるなあ。今まで白いチョウチョだとばつかし、思ってましたて。キアシ……毒蛾ですか?」といささか心配そう。

「あっ、でも名前だけで毒はないんだそうですよ。葉を食うので害虫に分類はされるようですけど。」

「お医者さんは、昆虫にもお詳しいのですなあ。」と付け焼き刃の知識にとても感心されてしまいました。

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