長岡市医師会たより No.329 2007.8

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。
誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。


もくじ

 表紙絵 「越後七浦海岸」 下田四郎(下田整形外科医院)
 「故内田俊夫先生を偲んで」 丸岡稔(丸岡医院)
 「鬢のおくれ毛」 下田四郎(下田整形外科医院)
 「里山を彩る花達〜雪国植物園より」 小西徹(長岡療育園)
 「アルビレックス新潟、印象に残る選手たち」 山本和男(立川綜合病院)
 「夏祭り、今年も」 岸裕(岸内科・消化器科医院)



「越後七浦海岸」 下田四郎(下田整形外科医院)


故内田俊夫先生を偲んで  丸岡稔(丸岡医院)

 内田俊夫先生の突然の計報をお聞きしましたのは7月の半ば近くで、すでに葬儀は先生のご遺志によって密葬で行われておりました。
 空梅雨気味とは言え、例年なら雨の季節です。ふと先生が、ブラームスのヴァイオリンソナタ第一番「雨の歌」がお好きだったことを想い出しました。この曲は、私の最も好きなもので、しみじみとした優しさが溢れていて、先生も私と同じ想いで聞いて居られたことを知って嬉しく思ったのでした。
 先生は、稀に見る豊かな才能と感性の持ち主で、しかも、そのご努力には頭が下がるものがありました。
 東大の工学部をご卒業の後、心機一転、信州大学医学部に学び、長岡でご父君の跡をお継ぎになりました。
 学生時代から、ヴァイオリンを奏き、絵筆もお持ちでしたが、特にエスプリの効いた軽妙酒脱な文章では“ぼん・じゅ〜る”誌上で、大いに私達を楽しませて下さいました。
 2年余に亘って担当して下さった表紙の絵とそれに寄せた短文、各種の随想、紀行の文章に、それは如何なく発揮されていました。特に「アキレス腱断裂体験記」など先生の面目躍如たるものがありましたし、「皮膚電位」というような学術論文に於いても例外ではありませんでした。
 先生の得意な分野ではありましたが、インターネットへの挑戦は、わが医師会では最初の人ではなかったでしょうか。“ぼん・じゆ〜る”に最も多く登場したのは内田先生ですが、そのジャンルは実に多岐に亘り、しかも巧まずして、よくコントロールされた語り口に品格を感じたのは私だけではないと思います。
 先生がお元気の頃、度々お宅のサロンで、お仲間を集めて、弦楽四重奏や、ピアノ三重奏を演奏され、私なども家族と一緒に招んで頂きましたが、正に至福の刻と言っていいものでした。そんな時、ヴァイオリンを奏く先生の一寸自信のなさそうな表情や、にこやかな笑顔が実に魅力的でした。
 先生についての想い出は盡きないのですが、どうしても忘れられないことがあります。
 昭和63年の4月に、先生のご母堂絹子様から、その前年に亡くなられたご父君主計先生のご遺志として、高額のご寄附を医師会に頂きました。
 理事会で相談して、ご父君も絵がお好きだったこともあって、会館に飾る絵画を購入することになり、その作品選びを当時、理事の一人であった私が任されました。何しろ大任なので内田先生と相談して、先生が懇意にしている東京の有名な画廊から何度か作品を持って来てもらいましたが、すんなりとは決まりませんでした。最終的には、江部恒夫先生と丸山正三先生にも立ち合って頂き決定致しました。今、医師会館に飾ってある竹谷富士雄の「池畔」がそれです。初めての体験でしたが、三人の大先生との作品選びは、わくわくする程楽しいものでした。(先生からは、その後、刑部人作「山桜(室生寺本堂)」もご寄贈頂き共に会長室に飾ってあります。)

 内田先生のご病気が、そんなにお悪いとは計報を耳にするまでは知りませんでした。
 病床の先生を慰めてくれたのはやはり音楽で、しかもバッハではなかったろうかと思いました。
 先年、先生が手術で入院される日が迫った時、「そうだ、バッハを聴こう」と思ったと書いておられます。
 バッハの「マタイ受難曲」の、先生がお好きなNo.72のコラール「いつの日かわれ去り逝くとき……」は涙なくしては聴くことが出来ないと仰言っていました。
 先日、近代美術館で「パリヘ〜洋画家たちの百年の夢」展を観ましたが、その展示の最後に、福本章の大作「サント・ヴィクトワール」がありました。先生はこの画家がお好きでコレクターでもありました。弱音器をつけたヴァイオリンの音色にも通ずる、静謡な色調の前に立った時、「マタイ受難曲」の最後のコラールを想い出しました。「心地良き褥(しとね)。心の憩いの場所とならん。いと安らけく眠りたまえ。」
 今、かけがえのない一つの美しい感性を失った痛恨の想いに駆られています。
 先生を外でお見かけする時は、いつもお優しい奥様がご一緒でした。
 どうか先生、いつまでも奥様を守って上げて下さい。
 内田先生、沢山の美しい想い出を頂き本当にありがとうございました。

 目次に戻る


鬢のおくれ毛  下田四郎(下田整形外科医院)

 数年前、医師会のビールパーティの席で、S女史に着物文化のことについて、いずれ文章にすると約束をした。此の度、その責任を果たそうと思う。
 文献的?考察をしたり、その筋の人に聞いて文章にしたので、概ね正しいと思っているが、誤っていたら御叱責を賜りたい。

 昭和51年、(日記で確認)年越しを芦原温泉紅屋旅館で過ごした。知人の紹介であったが、かなり高級で、分不相と思った。花戸筐という作家が、彼の妻である何とかという女優と毎年来ていたと聞いた。
 私達の宿泊する部屋に通ずる階段の踊場に一枚の襖があった。好奇心でそっと開けてみた。広さ三畳程の部屋に、左右に姿見と行灯、箱枕と布団一式が敷かれていた。何となくその部屋の雰囲気を読みとれたが、夜半、番頭さんと仲居さんが雑談している部屋にて、それとなく問うてみた。不承不承であったが答えてくれた。宿の主人が、現在使用する訳ではないが、往時の姿を残しておくようにと云われてのことだった。思惑通りであったが、長岡に帰って、更に、芸妓達に尋ねたりした。
 一昨年、同じ旅館に三十数年振り
に訪れたが、時代が替わって、その部屋は事務室になっていた。そして従業員の誰もが、以前の部屋の停まいを知っている者は居なかった。

 何時の時代から和服が常用されるようになったかは、不勉強で知らないが、男にとって都合のよいものになって、今日に至っているようだ。
 和服の婦人ものは、身八ッロというのがあるが、男性の着物には、それがない。つまり腋の下に隙間があって、男性が手を入れることができるようになっている。
 腰巻きは、素人のは白い布地に紐が付いており、これをキリリと結んだのに対して、玄人のそれは、朱色で結ぶ紐がなく、絹地の布がついていて、それを内側に折り込む式になっていたから、他の人が裾から手を入れて、下に引けぼ、スルリと抜け落ちる按配になっていた。

 さて、玄(ここ)で寸劇を書くが、文学的素養が乏しいので、一寸触れておくにとどめる。皆様の想像力にお任せ。

 旦那と馴染の芸妓の意気が合ったところで、件の部屋にて、たおやかな情愛タイムが持たれる。朱色の腰巻きは、行灯の明かりに照らされて、女体を艶めかしく、美しく映し出したことだろう。

 柳の下を女が帰る。駒下駄がカタコトと小さな音をたてて、伏し目勝ち、頚すじが見え、帯がやや斜め、撃のおくれ毛に手をやりながら……
 正に色っぽいですなあ。

 ここで、素人の御婦人達よ! 和服は如何なる時でも襟を立て、帯は左右対称に!!。芸妓は昼の式典は、キリリと着るが、夜の宴会は少し崩すそうだ。

 成人式に多くの女子が和服を着用しているが、美容師さんのお陰で、概ねよく着ているようだ。着こなしてはいないけど。

 数年前、チェコのプラハにて、着物パレードに参加させられたが、猫背の典型的と云える骨粗鬆症の老婦人が、11月の肌寒い朝の8時と云うのに、頚をはだけ、帯を斜めにして「色っぽいでしょう。」と若い女性に挨拶しているのにはタマげた。

 目次に戻る


里山を彩る花達〜雪国植物園より  小西徹(長岡療育園)

 約10年前、診療・研究・教育に追いまくられていた頃、ある女性から誕生日プレゼントに小さなスケッチブックと12色の色鉛筆を貰った。元々絵を描くことは嫌いではなかったが、小学校以来殆ど描いたことはなかった。とり合えず身近な風景や花(園芸種)を描いてみたが簡単ではなかった。ある日、道端に咲いているツエクサを描いてみてビックリ、自分の絵ではないようにそれなりの出来映えであった。薔薇などの整った花は難しいが、雑草ならば上手く描ける、“雑草は草全体で自分をアピールしている”と思えた。以来、目立たない花や山野草を主に描くことに決めた。
 長岡市宮本に雪国植物
園がある。珍しい花や植物を収集するのでほなく、里山をそのままの形で保存し、自生する草花を見せる植物園である。数年前に雪割草を観に行ったのを境に、ほぼ毎週の様に足を運ぶようになり、一気にスケッチの枚数が増えた(6年で300枚を突破)。“山野草を愛でる”年寄り染みた趣味、と言われそうだが、3時間以上の里山散策はかなりの運動量である。季節毎に移り変る里山の風情、次々に咲く可憐な花達、飛び交うトンボや蝶々、日常生活の中の息抜き、心のリフレッシュにはもってこいである。そして、忍び寄る老化の予防にも?植物園通いは中年夫婦の生活リズムの一部としてこれからも続きそうである。

 初夏に咲く花を集めてみました。少しでも、心・眼の癒しになれば…。

1.イチヤクソウ

 6月未に咲く草丈10cm程度の小さい花。

 最も好きな山野草の一つである。

 白い花と黄緑の茎の調和が素晴らしい。

 じると利尿薬になるそうだ。

2.タマガワホトトギス

 深い山の谷すじに生える。

 広い卵形の菓が茎を抱いて付いている。

 植物園で自生しているのは1箇所のみで、

なかなか会えなかった。

3.キキョウ

 花屋でも売られているが、

秋の七草(アサガオの名)の一つで、

元々は野の花である。

 清楚な紫、整った花、すらっとした草形で遠くからでも目立つ。

4.ナツツバキ

 木肌が椅麗なことから

「沙羅双樹」と間違えられ

「沙羅の木」と呼ばれることがある。

 沢山の花を付けるが一日花で、多くの蕾が見られる。

5.ソバナ

 キキョウとは違った青紫の花で、清楚で涼しさが感じられる。

 草丈は1m以上になり、面から覆いかぶさるように生えている。

 美味な山菜だそうだ。

6.クルマユリ

 小型の可愛い百合で、車状に付いた薫から茎を伸ば

先端に数個の花が咲く。

 薄暗い所に多く見られ、朱色の花は

目に付き易く印象的である。

7.キツリフネ

 植物園のあちこちに群生している。

 ツリフネソウは葉の上に花を付けるが、

キツリフネは必ず葉の下で隠れるように

いている。

 奇妙な形をした花である。

8.ヤマハギ

 7月頃に咲き始めるが花期は比較的長く

植物園のあちこちで見られる。

 青緑の薄い葉と赤紫の花のバランスが良い

 花はマメ科特有の形をしている。

 目次に戻る


アルビレックス新潟〜印象に残る選手たち

山本和男(立川綜合病院)

 昨日夜はアジア杯決勝でイラクがサウジアラビアに快勝した。国難にある選手たちがイラク魂を見せつけた感動的な試合であった。あの暑さの中、イラク選手の運動量はすさまじく、また技術体力ともサウジに勝っていた。日本代表もあのようなプレーをしてくれたらいいのにと思う。日本選手は確かにパスはうまいが、ドリブルで突破もして欲しいのだ。そうすれば相手の守備が乱れ、ファウルをもらえたり、そのままゴールとなることだってある。
 日本
代表のことはさておき、今年のアルビレックス新潟は確かに強くなった。ディフェンスが良くなつたのが一番ではないかと私は思っている。J1に昇格して以来、ここ3年はディフェンスに泣かされてきた。ゴールが量産されれば無論言うことはないが、そんなことは普通ない。ディフェンスがよくて相手を0点に抑えれば負けることはないのだ。今年は千代反田充・永田充のセンターバックがよく守っており、内田潤・坂本将貴のサイドバックも好調だ。攻撃ではやはりエジミウソンが強い。またマルシオリシャルデスの攻守にわたる能力は1リーグのトップクラスなのではないだろうか。本県出身の本間勲のボランチがまたすばらしい。同じく本県出身の田中亜土夢も現在はリザーブであることが多いが、センスあるところをしばしば見せている。FWは矢野貴章だけでなく河原和寿にも期待したい。リーグ戦3位につけているのも、まぐれではないと思う。鈴木慎吾がレンタル移籍して(これはとても寂しいことだ、)トップチームが25人とJ1最小人数になっているので、ケガによる戦線離脱が心配なことではある。しかし今年は後半も十分期待できるのではないか。アルビレックスは超有名企業がスポンサーになっているわけではないが、ホーム戦入場者が浦和レッズに次ぐ第2位であり、多くのサポーターがチーム力アップに貢献している。私もサポーター(ファミリー会員)ではあるが、今年はまだ1回もビッグスワンにかけつけておらず、本来はこのような企画に参加する資格もないのであるが、機会をいただき光栄なことでもあるので書かせていただいています。
 過去をさかのぼってみると、ビッグスワンに初めて足を踏み入れたのは4年前の夏、一家5人での応援でした。コンサドーレ札幌との対戦で1点を先制された後、ファビーニョ、マルクスなどが計3点か4点を入れ返し、快勝した試合だった。この時の興奮がたまらず、この年は何度か観戦に行った。大またで走るアンデルソン、ベテラン山口素弘の献身的なボランチ、鈴木健太郎や三田光のディフェンスなどが印象に残っている。その年は最終戦、上野優作の魂の乗り移ったようなシュートで大宮に勝ち、J2優勝を飾り、J1に昇格したのであった。
 J1昇格の年、マルクス、アンデルソンは契約更新されず、ブラジルキャンプ後、エジミウソンが加入した。寺川能人、鈴木慎吾がこの年アルビに復帰し、J1残留に大きく貢献したのであった。J1で戦えるのは何とすばらしいのかと思った。
 平成17
年(2005年)は反町監督の最後の年になった。この年は開幕緒戦に大敗し、苦しいスタートだった。レンタル移籍の菊地直哉、萩村滋則が守備に貢献してくれた。またアンデルソン・リマ、オゼアスの集中力で何とかJ1残留にこぎつけたのであった。野澤洋輔のケガの代役として木寺浩一一時期スーパーセーブを連発してくれたことも記憶に残る。木寺浩一はその翌年帝京長岡高校サッカー部を訪れたことがあり、私の息子(小学生)はサインをもらって喜んでいた。
 平成18年(2006年)は鈴木淳監督がデ
ビューした。緒戦に川崎フロンターレに大敗し、どうなることかと思ったが、第2・3戦に連勝するなど、時々強い相手に勝つことがあり、何とかシーズンを乗り切った。海本慶治が奮闘してくれたものの、この年加入したDF永田充がケガで出場できず、ディフェンスでは大変苦労した。何とか少なめの失点に抑えたときのみ勝つ可能性が出るという年であった。エジミウソンも良いシーズンではなかった。ファビーニョ、鈴木慎吾、そして新加入のシルビーニョが何とかふんばってくれた。この年の途中から北野貴之がGKに入ったが、彼の活躍も大きかった。
 このような歴史、そしてそれよりさ
らに以前のJ2時代もあって、今のアルビレックス新潟があるのだ。本稿には書けなかったが、その他にがんばってくれた選手も数多いのである。サッカー選手はともかく走らないといけない。大変なスポーツと思う。夢、興奮、感動を与えてくれるアルビレックスの選手たち、ありがとう。そしてがんばれ、アルビレックス!

 目次に戻る


夏祭り、今年も  岸裕(岸内科・消化器科医院)

 8月に入ってこの猛暑。体調を崩された方もいらしたのでは……、とお見舞い申しあげます。

 その猛暑の中、今年も河川敷に長岡大花火見物に行ってきました。毎年いくばくかの大花火協賛の寄付のお礼に、と戴く協賛チケット席に敷き物を敷き、ビール片手にアナウンス嬢のガイドと人々の興奮と歓声につつまれて、心ゆくまで大花火を楽しみました。

 長生橋いっぱいに流れ落ちるナイアガラ、ベスビアス超大型スターマインの競演。今年は6か所の打ち上げ場所から次々と色鮮やかな花火が打ち上げられ、「やっぱり花火は長岡だのう。」「うーん。すごい。」と拍手をしかけると更に大きな花火が上がり、土手で見ている人達皆が「うおう。」と歓声をあげる。
 二度目の三尺玉も見事に上がるともうフェニックスの時間となる。8月2日は郷ひろみを招いてコンサートがあったという事なので「今年のフェニックスは“お嫁サンバ”で打ち上げかなあ」などと話していると(なにしろ30年ほど前は結婚式の披露宴では必ずと言っていいほど歌われていたもので)……。

 --- “エブリイデイ・アイ・リッスン・トウ・マイ・、ハート、一人じゃない…”--- やはり平原綾香のジュビターと共にフェニックスの打ち上げが始まった。
 中越大地震で家が全壊の被害を受けたうちの従業員は、2年前被災者席で泣きながらフェニックスを見たそうです。彼女はその昔木曜ロードショーが終わると流れていたこの曲が大好きだったそうで、一層胸にこみ上げるものがあったのでしょう。また平原綾香の詩も心を打つ言葉で綴られています。今年もフェニックスは“一人じゃありませんよ。復活しましょう。”とばかりに思いっきり綺麗に飛びました。

 花火の最中に4〜5歳の男の子が3人ほど無心に土手を走り回って遊んでいました。子供達のはしゃぐ声。花火に歓声をあげる熱々の若いカップル。まがった背中を精一杯のばしながら上を見上げているお爺ちゃん、お婆ちゃん。
 この方達の中にも被災され、ご苦労された方もいらっしやったことでしょう。それでもこの一瞬々々の花火を心から楽しんでおられるご様子。花火は消えてもその楽しさの思い出はそれぞれに消えることなく輝いていくことでしょう。
 子供たちが安心して走り回れる美しい国。老若男女、骨が笑顔で歓声をあげられる国。そんな回になっていくのだろうか。

 今年また中越沖地震で被災された方々には本当にお気の毒と思うし、心が痛む。お見舞い申し上げます。
 しかしながら原発から極微量の放射能しか漏れなかったことは神様がなんとかしてくださったのだろうか。それとも警告だったのだろうか。

 30年以上も前、学生のころに「放射線にはα線、β線、γ線の3つがある。γ線は電磁波だからスイッチを切るか鉛板を重ねるかでふせげるが、α線、β線は隙間があればそこから漏れ出るし、薄い壁なら反対側に飛び出る。原子力実験船“むつ”の失敗がその例だ。」と習ったように思う。

 地震後の崩れた壁、傾いた柱の隙間から透けて見える日差し、壊れた土台、ひび割れたコンクリート道路。

 思い出したくはない思い出。

 自分たちの周りはあれから3年たって建て替えがすすみ、まったく新しい街並みへと変わった。一見美しく見えるが、昔を思い起こす由もないほどに変ってしまうと複雑な気持ちになることもあるのです。

 目次に戻る