長岡市医師会たより No.330 2007.9

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。
誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。


もくじ

 表紙絵 「妙高遠望(光ヶ原)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「チングニア熱〜本邦二例目」 木村嶺子(木村医院)
 「道場訓」 下田四郎(下田整形外科医院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その2」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「百日紅をくすぐる」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「妙高遠望(光ヶ原)」 丸岡 稔(丸岡医院)


「チングニア熱」本邦二例目  木村嶺子(木村医院)

 帰路のスリランカ航空の機内はエアコンの効き過ぎだろうか? 膝掛けを二枚もらい、手持ちの衣類を全部身にまとったが寒くて耐えられない。なんとなく風邪を引いたのかな?と思った。
 平成18年12月4日、11時間以上のフライトの後、成田に着いた時はホッとしたが、長岡に着いてもだるくて、寒くて……一週間のスリランカ滞在がこんなにも疲れるものかと思った。その夜から40度以上の熱が出た。抗生物質の内服と水分補給に努めたが下熟する気配がない。ひょっとしたら悪性の熱病にやられたのかも知れないと思った。翌朝は外来診療も出来ないので検血したところ白血球減少が見られた。この時点で何かのウイルスに感染した事を確信した。
 感染症科がある日赤病院へ行きたいと、朦朧とした頭で考えるのだが足も体も動かないので救急車を頼んだ。仕事柄、時々救急車の手配をするけど、自分がお世話になるのはそうたびたびあるものではない。この時ばかりは、救急隊員のなんとたのもしい事、病院の先生の声を聞いたときは、地獄で仏に出会った心境であった。受診直後より、酸素吸入と検査・持続点滴が始まり、救外病棟の一番端の部屋に入れられたが、退院までの8日間、部屋の外へは一歩も出してもらえなかった。もしも、たちの悪い鳥インフルエンザのような感染症なら、こんな扱いではすまなかっただろうと思った。3日間高熱が続き、体位変換も足の位置を変えることもままならず、トイレの度に看護師さんを呼び、世話をしていただいた。スリランカで発症していたらどうなっていただろうか? 日本で医療を受けられて本当に良かったと思った。数日後、下熱に伴い、躯幹と四肢に淡い紅斑が見られたが、かゆみはなかった。
 詳しい臨床経過や検査データは、本邦第二例日のチクングニア熟の一例として西堀先生が発表されるので、そちらを見ていただきたい。

 「どうして、こんな病気になる様な所に行ったの?」と聞かれるのだが……

 十数年来のスリランカ人の友だちから、故郷の村の病院にオペ室を建てる援助をしてほしいと申し出があった。オペ室と言えば聞こえは小いが、日本のそれとは設備も規模も違い、ささやかで清潔さが感じられる小部屋でしかないのだ。医療関係の援助なので、数人のJOY会の先生に声をかけたところ森下先生と児玉先生が仲間になって下さった。その援助は、総額で160万円であるが、はたしてオペ室が完成しているのかどうかを確かめたくて、スリランカに行ったのである。12月上旬には竣工式の筈であったが、まだ工事中で側壁にタイルを張るかどうかが問題になっていた。因に、3月に譲渡式が行われ、友人が代表して出席してくれた。
 コロンボに着いて2日目の夜のこと、1875年創業の植民地時代の名残のある有名なホテルに一人で泊まったが、顔と手首と足首の数ケ所を蚊に刺された。蚊取り線香やキンチョールを持っていなかったのが失敗だった。その夜以外は、いつも友人と一緒だったし、キンチョールもあったのだが……。何故、立派なホテル内で蚊が飛んでいるかが問題である。コロンボ市内をあちこち見て回るうちに、市場の脇や道路端にゴミが山積みになっていて、そこにはカラスや犬猫が集まっているのに気付いた。ゴミ収集をはじめとした環境整備、教育、医療に手がまわらない理由には、スリランカから独立を求めているタミル人反政府組織と政府間での内戦状態があると思われた。
 スリランカ滞在中は、潜伏期だったためか元気に歩き回って、小中学生の奨学金授与式に参加したり、建築途中に資金援助が止まった幼稚園を見たり、お寺が世話している孤児院も見学した。その場に、発熱していた子がいて、「最近ここで流行している熱病らしいから、その子には近寄らないで。」と友人が私に忠告してくれたのを思い出した。

 皆様方のおかげで、今は元気に仕事をしているが、(退院後二週間は足が前に出ず、歩くのが不自由であり、足首の蚊の刺し口の発赤と硬結は三カ月も続いていた。)当分の問は危険地帯への旅行は自粛しなければならないと思っている。お世話になった方々にはこの紙面をお借りして厚く御礼を申し上げたい。

 先日のJOY会には、30人以上の女医が集まりました。その席で、新しく編集委員になられた小林眞紀子先生から“ぼん・じゅ〜る”への投稿をたのまれました。リレー式にJOY会のメンバーで紙面を埋めるのだそうです。次のバトンは、「医者になった時点で2600万円もの借金持ちです。」と自己紹介されていた研修医の先生に渡しますので、よろしくお願いします。

(注)チクングニア熟とは、ウイルスを持っている蚊による媒介で、ヒト→蚊→ヒトの感染である。2005年の流行では、インド洋のレユニオン島で人口77万人のうちの三割強の26万4000人が発症し、死亡者は237人。チクングニアとは、関節痛のためにかがんで歩く様子をあらわす、アフリカの現地語に由来している。症状はデング熱に類似しているので鑑別を要す。治療法は特異的なものはなく対症療法である。

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道場訓  高野 勝(高野医院)

道場訓
 一、人格完成に努むること
 一、誠の道を守ること
 一、努力の精神を養うこと
 一、礼儀を重んずること
 一、血気の勇を戒むること

 空手道に出会って、もうすぐ30年になります。

 一概に空手道といっても種々雑多な流派があり、私が所属するのはその中で、唯一、文部省(当時)より認可を受けている、国内外で数百の支部を持つ、世界最大規模の伝統空手道実技団体である社団法人日本空手協会です。
 空手の原型といわれるものは沖縄で生まれ、沖縄古来の武術と中国伝来の拳法が融合して、発展したものと言われています。
 その後の「禁武政策」にて、武器の所持が禁じられ、自らの肉体そのものを武器として戦う琉球唐手が武術として体系化されました。
 その唐手が全国的に認知され始めるのは以外に遅く、大正時代になってからです。空手道の開租といわれる船越義珍師が本土で演武を行った事がきっかけとなり、昭和の時代となり、師が「唐手」を「空手」と改称。町道場や大学などより全国へと普及していきました。
 近年、オリンピックの正式種目化を目前に空手熱が高まっており、加えて本県においては二年後に国体をひかえて、選手強化の真最中。更に礼節を身に付けたい、強い子になってほしい等、子供に武道を学ばせたい親が増えており、道場は子供達の元気な気合いに満ちております。
 支部創設約8年。私が指導を手伝い初めて6年と、まだ歴史の浅い支部ですが、道場生も幼児からマスターズ世代まで幅広く、選手として全国小学生大会、中学生大会、国体などに出場する選手もいれば、生涯
武道を追及する者、生涯体育を実践する者もいます。個々のニーズに合わせた指導には高い技術が要求され、私自身の大会出場、生徒の監督、大会救護、更には公認指導員講習など、休日の大部分が空手漬けの日常です。
 病院の先生方の「お前、もっと働け!」というお叱りとハゲ増しに耳を傾けるふりをして、同業の先生方が夜の殿町を闘歩するお姿を涙ながらに見送り、表題の道場訓にあるように人格完成に努めながら、誠の道を守り、常に努力の精神を養い、礼儀を重んじ、血気の勇を戒めながら、協会の指導員として恥ずかしくない空手を維持すべく、本日も稽古です!

 興味のおありの先生方は、一度、日本空手協会長同支部悠空会のHPをご覧ください。

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南アフリカにルーツを求めて〜その2  田村康二(悠遊健康村病院)

2 野蛮人とは誰か?

 「アフリカっていうところは、未開で野蛮なところでしょう?」「あそこの人々は野蛮人なんでしょう?」などと聞かれることがある。アフリカは実に広い。このアフリカは、既に述べた様に私たちのゆりかごの地でもあるから、訪れるたびに、DNAのせいか、故郷のような懐かしい気がする。実はヨーロッパの白人達だって古代ギリシアの時代から、文明の全てはアフリカから来たといってきたのだ。
 アフリカについての私たちの知識は真に乏しい。だから、アフリカは貧しく、未開で野蛮人の住む国だという誤ったイメージを、未だに多くの日本人は持っているらしい。アフリカの文明を否定しなければ、西欧人の文明の優位性を示せないという白人の身勝手な思想が一方的に日本に伝えられているからだ。
 「我々はこの南の国(インドネシア)の人々から学んだことがある。それは先進国の科学・文明の発達の結果は多くの苦悩、罪を生み出しているが、富と知識の積み重ねは前進とはいえない。我々(西欧人)の生活が熱帯の人々の生活よりも優れているとは言えない。未開の、あるいは自然の上に我々が位置することはない。野蛮なのは、むしろ我々先進国の文明なのだ。これが私の結論であり、このことを知るべきだ」
 これ
は進化論の真の発見者であるウォレスの有名な言葉だ(『マレー諸島』:A.R.ウォレス、ちくま学芸文庫)。ウォレスがアフリカヘ行ったなら、野蛮人は誰か?についてインドネシアで体験したと同じ思いを持ったに違いない。
 1855年、ダーウィンは進化論で人類の進化についての画期的な体系付けをした。実は、博物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスは進化についての自説のサラワク法則を書いた手紙を、その前にダーウィンに対してインドネシアのテルナテ島(マレー半島の南)から送っていた。実はこの進化論で記念すべき島はインドネシアのバリ島のはるか沖合いに見える位置にある。しかし島内では宗教闘争が激しくて、立ち入りは許可して貰えなかった。今も禁止されている。
 手紙を送ったのは、当時の学会の権威者・ダーウィンの意見が聞きたかったからだ。彼は生活費を得るために、そこで蝶の採集をしていたので、ロンドンまで旅することが容易ではなかった。ダーウィンはこの手紙を読んで発見の斬新さに驚愕した。そこで、手紙にあった自然淘汰の説を盗んで、急いで進化論を作り上げたと言われている。しかも狭滑なダーウィンは、陰謀と策略をもってウォレスを学会から消したのである。科学の歴史の中で他人の仕事を盗んで自分の手柄にしたり、密かに真似して自分は数多くある。その一人がダーウィンだと言うと、多くの人はやはりそうだったのかと失望するだろう。
 野蛮人とは誰か?、文明人とはどう言うか?については、既にウォレスがこのように見事に答えている。更に、広大なアフリカの大地に、人類発生以来住んでいる人々に接してみると、その答えの正しさを良く理解出来るようになる。
 南アフリカは1910年から1999年まで悪名高い人権無視の人種差別主義をとったので、国際的な非難を浴びて長年にわたり経済制裁を受けてきた。丁度今の北朝鮮のようなものだ。この国の地下資源は豊富で、国の財政は裕福なのだが、西欧諸国からの輸入は極端に制限されてきた。そのせいでこの国のインフラ構築は非常に遅れた。その代表的な例は、劣悪な飛行場である。実はこの国際的な経済制裁協定に違反して、政府主導で密貿易をしてきた国がある。それが何と我が日本であった。そのお陰で南アフリカでは白人に準ずる「名誉白人」の扱いを日本人は受けてきた。「名誉白人なんて、野蛮人の勲章なのさ。人権意識が欠けているサルと同じさ」と、真の西欧の白人諸国からは蔑まれてきたことを私たちは知るべきだ。
 現在人権無視の国として世界から経済的な封鎖を受けているのが、後に訪れるジンバブエ共和国だ。先の仏大統領選で敗北した社会党のロワイヤル女史は選挙中にこう言っていた。「アフリカのジンバブエヘの経済制裁の網を破って、中国が経済支援するのは許せない!」ジンバブエ共和国が成立し、ムガベが初代首相に就任するや、2000年から白人所有大農場の強制収用を政策化した。「白人の所有物なら何を取ってもいい」という無茶苦茶な法律である。その為に人種間の対立、食程危機や世界一のインフレが起きている。人権軽視として国際的には評判が悪い日本も、北朝鮮の人道問題もあるので、今度は流石に密貿易は出来ないらしい。
 所で、最近柳沢伯夫厚生労働相は、桧江市の集会で少子化対策に言及する中で、「15から50歳の女性の数は決まっている。生む機械、装置の数は決まっているから、機械と言うのは何だけど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかないと思う」などと述べたという。未だに19世紀のルネ・デカルトの徴くさい人間機械論の信奉者がいるのには驚かされる。こういう人を「ヒト生物学」を研究している者からすると、野蛮人というのだろう。人権というものへの意識が欠如しているからだ。社会の責任ある立場の人々でさえ、セクハラだのパワハラだのという罪悪感がない知性の低さにはしばしば驚かされる。日本は未だに国連で決議された人権関連の条約の半数以下しか批准していない野蛮な後進国であることを、私たちは認識する必要がある。医療の現場でも人権無視はいまだに随所に見られている。
 南アフリカ共和国は今では人種差別主義を捨てているので、文明国の仲間入りできている。そこで第19回FIFAワールドカップが2010年に、南アフリカ共和国で開催される予定だ。これは国際サッカー連盟(FIFA)が主催するサッカー大会の最高峰で、世界的なテレビの視聴者数では、オリンピックを凌ぐ世界最大のスポーツイベントである。そこで今や空港を含めて道路や公共機関は建築ラッシュである。

3 クールはアフリカから

 クール(Cool)という流行り言葉がある。大リーガーのイチロー選手に代表される大リーガー達は一様にクールである。なんでもない打球をさも難しそうに捕って見せた巨人の長島茂雄選手の活躍したホットな時代は、アメリカではとっくの昔に終わりを告げた。難しい飛球をなんでもないようにあっさりと捕ってみせるイチローの美技にこそ、観衆は喝采を送るというクールな時代になっている。今やクールという名の新しい個人主義が世界を制覇しているのだ。しかし日本語にはクールに相当する言葉はない。このクールという言葉の源は、実はアフリカにあるのだという。

 「たとえほれぼれするような美男子で

  水の中の魚のようにいい男であろうとも

  その男に品性がなければただの木偶の坊にすぎない」

 この詩を周りの女性に見てもらうと、誰もが「その詩は素敵です!それならアフリカは日本よりも先進国ですよ」と言う。この詩はアフリカの中部から南部に広がっているヨルバ族が古くから伝承してきた詩である。彼等の文明は言語、神話、伝承、芸術などで今に伝えられている。仏教やキリスト教が生まれる前には、この世にはどんな倫理や道徳があったんだろうか? アフリカの民族は、現在の巨大宗教が生まれる以前の、気が遠くなるような何万年も前から、倫理や哲学を神話や詩として今に伝えて来たのだという。ヨルバ族とイボ族は古代から「イトゥトゥ」という概念を尊重して継承してきた。それは「友好的で穏やかな性格、喧嘩や口論を鎮める能力、寛大さや慎みという言動」を意味している。今にしていえばEQ(心の知能指数)の高さを示していることになる。つまり歴史的に、部族は常にクールでなければ、生存競争では勝ち組になれなかったのだということを示している。今に言うクールという概念は、実はアフリカ起源であることを西欧人はよく承知している。だから彼等は何時も「クールが勝つ」という。
 更にヨルバ族は、伝統的な道徳と美学のなかで「もし人間がいなければ、神はいないだろう」と言っている。これは「始めに神ありきとするユダヤ・キリスト教の神学とは相容れない」とナイジェリア生まれの劇作家でノーベル文学賞を受賞したウォン・ショイカは説明している。このように理解してくると、アフリカは野蛮だなんて、一体日本人の誰が言えるのだろうか?
 ヨハネスブルグ空港で約4時間もの間、次のビクトリア滝への接続便を待った。11:25になってようやくブリテッシユ・エアウェイズBA6285便で1時間半ぐらいかかって隣国であるジンバブエのヴィクトリア・フォールズ空港へ飛んだ。着いたのは13:00だった。

(続く)

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百日紅をくすぐる  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 「秋暑し」という季語がぴったりの気候が続きますが、夜だけはようやく涼しくなりました。早朝に犬と散歩をして、家へ戻り、朝食の用意ができた時間にはもう暑いです。

 暑いほど元気な様子の苦瓜(ゴーヤ)とオクラをけさも庭先で収穫。その後は先週までズッキーニの大株があった場所に新たな種まき。あらかじめ耕して過リン酸石灰などまいて準備すみ。平凡な作物だが病害虫につよい葉物の代表、春菊(シュンギク)を播きました。秋に春菊とはこれいかに?……小松菜や春菊はけっこう季節を問わず適当に育つ(もちろん長岡では冬はだめ!)ので、重宝しております。

 播いた表面をならしながら薄く土をかけ、水播き。さらにこの日照ですから濡らした新聞紙で覆い、風でとばされぬようレンガを端に置き、今朝の園芸作業終了。

 純和食の献立のあと、好みの苦みの強いコーヒーを淹れてもらい、新聞に目をとおすとおもしろい記事を発見しました。

「知ってるかい、こんな話?」とその新潟日報の投書欄を指し示す。

「えっ、どれどれ。」と家人。

「へえー、初めて聞くわね。ちょっと試してくるわ。……」とすぐに朝日の照る庭先へ出て行きました。

 その投書は、新潟市のOさん(66歳)からで、今を盛りに花を咲かすサルスベリの木の思い出。「この木の幹をこちょこちょとくすぐると枝の先端の葉っぱが揺れるので“こちょこちょの木”というんだ」とこどもの頃に友達に教わった。本当に風もないのに幹に触ると、菓が揺れて不思議だった。つい最近視聴したテレビの紀行番組で、ある中国の村の年配の男が、サルスベリの木について、この木は幹をなでると喜んで枝先の葉が動くんだと話していた。そこでは○○の木と呼ばれると言うのを聞き逃したが、おかげで長年の謎が納得できたとのこと。

 さっそくこちらはパソコンを立ち上げ、ネットで調べてみました。

 百日紅は中国原産で江戸の初期に紫薇(宮廷の別名に由来)の名で伝えられた。和名は樹皮が滑らかで剥げやすいため、猿もすべり落ちるの意でサルスベリ。一見滑らかに見える樹皮もスベスベよりギシギシとした触感。その幹の表面を撫でると振動が梢に伝わり、葉が一斉に揺れ動く。そのため「擽りの木」または「怕痒樹」(痒いのをいやがる樹)という別名があるとのこと。

 一方、百日紅と呼ばれるのは鮮紅色の花が十月初旬まで百日間も炎天下に咲くから。学名は Lagerstroe maindica grapemyrtle で、なんでもブドウ状の花序という命名らしい。赤色の他に白と中間の紫がある。

 さて我が家の庭に戻りますと、二種のサルスベリの木が花盛りです。芝生の上に花穂が散り落ちますが、長く咲きます。赤の方は珍しい色合い……マゼンタよりは、伝統色の薄めの紅紫(べにむらさき)。

 もう一本のやや低めの木は数年前に夫婦で苗木を購入して窓辺に涼しく見えるように植え付けた白です

 窓越しに見ますと、まず家人が間近な幹の直径数センチ、樹高三メートル弱の立木に手で触れました。茂った菓先や白い花が揺れます。おりからの風のためかもしれません。大きくうなづいた家人は、次にその足で紅紫の大木へ向かいました。

 さて百日紅の木は人の手でくすぐられると、ほんとうに笑うのでしょうか?……みなさまご自身で童心にかえってお試しを。

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