長岡市医師会たより No.333 2007.12

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もくじ

 表紙絵 「犀川初冬(安曇野)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「NOVAX症候群」 小林由夏(立川綜合病院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その4」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「山と温泉48〜その56」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「シャル ウィ ダンス II」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「犀川初冬(安曇野)」 丸岡 稔(丸岡医院)


NOVAX症候群  小林由夏(立川綜合病院)

 平成19年10月26日、英会話学校「NOVA」が閉鎖した。
 えーっ。危ないとは思っていたけどまさかこんなに突然に終わるなんて。……ショックだった。
 私は足掛け3年、NOVAに通っていた。いくつかの教室に話を聴きに行き、始めたのは平成16年の5月だった。
 そのうちにどこかスポンサーがついて、また授業が復活するだろう。イオングループあたりだといいのだけれど。希望もむなしく、大手企業の経営参入はなかった。11月現在、新潟県内のNOVA存続はまったく見通しがたたない。
 NOVAの授業は面白かった。
 なにが一番いいかというと、毎回緊張感があるところだ。一応教科書はあるが、その場になるまでどこをやるのかわからない。そんな状態で「私はパチンコ好きの亭主。貴女はその妻で、パチンコを辞めるように説得しろ。」という設定でインストラクターとやりとりをしたり、「インスタントラーメンの作り方を説明しろ。」などと言われる。
 当然、うまく話せない。話せないと、もどかしい。悔しいから、家に帰って「どういえばもっとうまく言える?」と考える。辞書を見たりして「こう言えばよかった。」と納得し、「次はこの言い回しを使ってみよう。」と目論む。決まった範囲の予習が必要なわけではなく、英語のイメージで日常生活を考える訓練をするようになった。「外人」のインストラクタ一に身構えることは回を追うごとにほとんどなくなり、どうやればもっと意思疎通を図れるのか、が重要になる。英語が「勉強」ではなく「興味」に変わった。
 そう、わくわくする。英語は、日本語で話しているときと明らかにテンションが違う。大げさに驚いたり、感謝したりする。それが嬉しい。無表情に話していると「もっと気持ちをこめて。」と言われて、照れながら真似をした。下の名前で呼びかけられると、世代や立場を超えて親しくなった気がした。英会話を通して、私はハッピーになった。
 一般的なNOVAのシステムでは、
一番最初の授業の前にどのくらい英語が話せるかというレベルチェックがある。7から始まって1まで、7Aはまったくの初心者である。同じレベルの4人で、一回40分のレッスンを受ける。このクラスは卒業と言われたら、レベルアップ試験を受けて、合格すれば次の段階に進める。
 そしてNOVAの一番の「うり」は、空いてさえいれば自由に授業の予約がとれるというところだった。キッズのクラス以外、定期の授業というものはない。平日でも、土日でも、午前でも午後でも、暇な日があれば続けて4回の授業を受けていいし、忙しい時は2ケ月くらいお休みして、また時間ができたら通い始めればいい。
 私はレベル6からのスタートだった。主に休日の午前中からお昼にかけて、余裕があれば週2回くらい通った。1年で、レベル3に上がった。
 あるとき、長岡地区に1人しかいないレベル2の方と一緒にレッスンを受ける機会があった。とにかく、会話に淀みがない。言いたいことの難しいニュアンスを、うまく表している。でも、それ以上に感じたのは言葉の裏にある、文化をきちんと踏まえて話していることだった。そのため、インストラクターもいつも以上に饒舌になり、自分のことを次々と語った。食生活が違う、宗教が違う、風土が違う、「英会話」だけでない別のことを伝え合っている気持ちになれた。
 閉鎖から1ケ月。親切だったインストラクターの方々や、生徒たちはどうしているのだろう、と思う。六日町から通勤し、長岡のインターチェンジから毎朝歩いていたS、ペリーダンスの教室を開くんだと言っていたC、毎日通っていたご婦人方、めちゃめちゃ明るかった名物生徒のNさん。
 おそらく多くのNOVAX症候群患者は、「お金を返すよりも、これまで通りの授業を再開してほしい。」と思っているはずだ。NOVAはたくさんの問題を抱えながらも、それでも確かに私たちに、異文化に触れるという「英会話の楽しさ」を教えてくれたのだから。
 NOVA長岡校に再び灯りが点る朗報が届くことを願ってやまない。そしてもしも次に通うことがあればスペイン語にも挑戦したいという野望を抱いている。

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南アフリカにルーツを求めて〜その4  田村康二(悠遊健康村病院)

3 ザンベジ川の遊覧クルーズ

 午後の4時過ぎから一同ザンベジ川の遊覧クルーズに出かけた。ホテルはザンベジ川の川辺にあるので、庭先の桟橋から遊覧ボートに乗った。まずシャンパンを振舞ってくれたので、長旅の疲れもありすぐにほろ酔い機嫌になった。こうして「遥々アフリカヘ、再び来れた!」という旅の楽しさにひたれた。
 このザンベジ川はアフリカ南部を東西に横断する大河で、ヒトの進化の歴史上でも重要な意味を持っている(図3・1)。ザンベジ川は川の中央が国境になっており、川の手前の岸には樹木が生い茂っているが、対岸のザンビア側は果てしない草原になっている。だから雨季と乾季では川幅は非常に違うらしい。水中にはワニやカバが居るし。岸辺には野牛やカバ、象の姿が沢山見られた。「アフリカの水を飲んだ者は、アフリカに帰ってくるって本に書いてあったわよ」と家内が言う。つまり我々は鮭なのだ。
 アフリカの夕日は何時見てもことの他美しい。太陽はちょうど卵の目玉焼きの溶けたように、何故かグジャグジャに溶けた太陽になって地平線に沈む。この果てしなく続いている大陸に沈む太陽の何んともいえない美しさは、見た者でなくては分からない。人生を充実させるには絶えず新しいことを探す好奇心と行動力を持つことだとつくづく思う。それに叶うには旅が一番手っ取り早い。

4 ザンベジ川は東アフリカ大地溝帯の南端だ

 ザンベジ川(Zambezi River)は全長2,750km。水源はザンビアとアンゴラにあり、ザンビアとジンバブエの国境を流れ、モザンビークを通ってインド洋(モザンビーク海峡)に注いでいる。この川の中程、南アフリカの中央部、にお目当ての世界三大瀑布の一つ、ビクトリア滝(図3・1の中央部分)がある。
 アフリカの大地溝帯(図3・1)が人類揺籃の地であることには学問的には、もはや誰しも異論は無いようだ。大地溝帯とは、ほぼ平行に走る断層、すなわち両端が垂直にそそり立つ崖のあいだに挟まれた層状の平地がある地形をいう。この地溝帯(リフトバレー)は実は2本ある。まず北はエチオピアに始まり南は南アフリカのモザンビークに河口をもつこのザンベジ川で遮られて終わっている。これを東リフトバレーという。残るもう一つの大地溝帯は西リフトバレーである。これはブルンジやルワンダやコンゴの国境にあるルウェンゾリ山地の麓に始まる。
 この山地はルウェンゾリ国立公園となっている。長さ120kmほど、幅65kmほどの山域はさほど広くは無いが、起伏に富んでいる。地溝帯の拡大によって押上げられ形成された山地で、山域は西リフトバレーに沿って細長い。深い渓谷で区分される山塊6つから成り、ルイジ・ディ・サヴォイア山(4,627m)などという万年雪で覆われた高峰が連なっている。
 余談になるが、この山地には2つの宝物がある。一つは「タンタル」と言う希少金属だが、その意味をご存知ですか?希少金属とは非鉄金属のうち、産業上様々な理由から利用できる量が少なく、希少な金属のことで、地球上の存在量が少なく採掘のコストが高い。タンタルはペリリウム、ホウ素チタン、バナジウムなどと並んで貴重な金属である。Coltanという重要な鉱石から採れたタンタルはコンピューターなどに使われる、小型のコンデンサーを作るのに欠かせない素材である。また、携帯電話のノイズをとる部品に使われたりしていて、ITテクノロジーの発展と共に需要が高まっている。その殆どがこの地に眠っている。そこでこれらのアフリカの莫大な天然資源を狙って、国内勢力だけでなく、海外の様々な勢力が利益を得ようとしているのだ。
 もう一つの宝物はマウンテン・ゴリラである。ゴリラはその昔進化の過程のなかで、人類から枝分かれした哺乳類である。図3・1の左上の黒い部分は、コンゴ共和国でゴリラを始めとする哺乳類の巣である。この地形はタンザニアのオルドバイ渓谷に極めて似ている。そこでこの地でも人類は発生したのではないか?と最近になって古代生物学者の関心を集めているらしい。
 東リフトバレーを遮って流れているザンベジ川を横断して南に越えて行くと、連なる高地の山間に至る。そこが南アフリカ共和国の首都・プレトリアの近くの最近新しく「人類の揺籃の地」と名付けられた地である。1947年に類人猿・アウストラロピテクス・アフリカヌスの頭蓋骨がSterkfonten洞窟内で発見されたからだ。この骨は約250万年前の古類人猿と判定された。それに続いてマカバンスガットの地で古類人猿、A・アフリカヌスが、クロムドライ(A・ロブストス)、ドリモレン(A・ロブストス)、スワートランス(A・ロブストス、150〜200万年前)、タウング(A・アフリカヌス)と相次いで人類の祖先の化石が発掘された。
 最近になって北アフリカのチャドで、700万年前の最古の人類と推定されている化石がみつかった。最古の人類・アウストラロピテクスの仲間達がタンザニアのオルドバイ渓谷やエチオピアの大地以外に、アフリカの各地で見つかってきた。東アフリカで発生した人類が広がってザンベジ川を越えて南アフリカへ南下したのかもしれない。一方では、化石の古さから推測すると、逆に南アフリカから発生した人類が北進し、やがてザンベジ川を越えて大地溝帯に入り、東アフリカからエチオピアを経て世界に拡散したと唱える学者も現われてきた。つまり私のご先祖は南アフリカから日本に向けて出発したのかもしれないのだ。
 今から300万年から700万年前の東アフリカの大地溝帯やそれに繋がる地には、森林もあれば草原もあるというモザイク状の環境が各地に点在していて、人類の祖先が誕生する環境が方々に出来ていたと考えられている。このように考えると、このザンベジ川の人類の進化に係わる役割は大きい。

 2時間程でクルーズが終った。その後ホテルでジンバブエの民族音楽と踊りを楽しみながら夕食を食べた。こうしてようやく長い長い旅の初日の1日が終わりになった。(続く)

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山と温泉48〜その56  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

黒倉山 1,242米

鍋倉山 1,289米

 関田山塊のほぼ中央に位置し、頚城平野から望見すると、双耳峰に見える。山塊の最高峰。(山塊の一つではないが、斑尾山1,383米を除いて)。処によって、一つに重なっても見える。関田山塊に観られる最大の溶岩台地、広大な「光ケ原高原」の頂稜と、双耳峰を展せる山が、西方に黒倉山、東方に鍋倉山。
 地籍は、共に地図上では、新潟・長野県境の稜線上の山ですが、黒倉山は新潟県上越市、鍋倉山は長野県飯山市にあるようです。
 頂稜は、巨木が少ない樵林が濃くあまり高くない雑木林が混じる。この二、三年、関田峠からの稜線を歩いていないので、最近の状況が解らないが、少なくとも七、八年以前は、菱が岳周辺に観られるような喬木・潅木の高い木は見あたらない。何故だろう。
 登路は、関田峠より頂稜を行くしかない。マイカーならば峠に車を停め、頂稜稜線から入山すれば良い。列車ならば、信越線「新井駅」より、「上関田」(旧板倉町・現上越市板倉区)が起点。ここから、「光ケ原高原」、関田峠1,120米へと登る。昭和47年に車道R95が完成、峠東側の長野県飯山市温井と車で自由に往来できるようになった。従ってR117への近道にもなった。
 「光ケ原高原」は牧場、森林公園となり、遊園地、ホテルまで設備されたが、現在は牧場を残し、廃墟となっている。
 登路は、上関田からR95の車道を関田峠に向かい、歩くしかない。旧道は別所川沿いに稜線に向かって登るのですが、殆ど廃道に近い。この登路を利用する場合は、上越市役所板倉区支所で確認して下さい。
 車の場合は、国道柿崎・新井線R30を利用、新井の手前の旧板倉町下米沢で左折、R95に入り、そのまま光ケ原高原に登り、関田峠に達する。
 小千谷市・十日町市を通るR117を利用する場合は次の様になる。津南町より長野県栄村に入り、JR飯山線に沿って南行、上境駅を過ぎ右折、JR飯山線のガードを潜る。右側急斜面に集落があり、その上に樵林の頂稜稜線が天空に見える。その稜線に向かい、集落内の路をジグザグに登る。温井集落でR95に出る。此処からの路は展望抜群。東南に展けた景観は、天空に浮かぶ苗場山連峰、眼下に流れる千曲川(新潟県に入って信濃川)、山間に野沢温泉集落。路は左折右折を繰り返し、樵林に入り神秘的な茶屋池を過ぎると、突然、明るく広い関田峠に出る。
 登山のための駐車場はないようです。峠は充分に広いので、交通に支障をきたさないだけの駐車の余裕はあるようです。

 関田峠からの登山口。
 峠(川米)の西に(頚城平野・日本海方面)向かって左側、車道路肩の上に、登山口の標柱があります。私の山行記録を観ると、「森林浴道と書いてある。」とあります。車道より登路に入って間もなく、西側の稜線の端に出ます。展望は頗る良い。間もなく筒方峠。筒方峠・標柱から、雑木林、樵林の中に入る。筒方峠からの西の下り路は、低い池跡のような湿地はあるが、そこからの先の路は無い。筒方峠からは、刈り払いが良くやられている故か、明るい、高低差の無い路を行く。何時の間にか小広い広場に出る。黒倉山山頂(1,247米)。展望なし。関田峠から此処まで三十分。山頂標柱の脇から南東に向かう。なんとなく歩いている間に、約二十分位か、柱、板きれの散乱する小屋の廃墟跡に出る。汚れた白い標柱に、鍋倉山とあった。帰路は峠まで一時間とみればよい。(その後、廃墟は片付けられている筈)

 私の山行記録に次のように記録されている。
 「鍋倉山は、山頂と思われない。稜線であるなら、稜線縦走路がある筈と周辺を探す。踏み跡すらない。先に進むのを諦めた。なんとなく『狐につままれた』ような気になり、関田峠に戻る。峠で味噌汁を作り、暫く休んだ。」単独山行はこんな事が多い。
 鍋倉山より先の稜線登行は、次のガイドを参考にして下さい。
 『越後の山旅』下巻に僧、次のようにガイドされている。
 「縦走路は、頂稜の樵林を縫って標高約1,150米まで低下するが、再び緩登で約1,220米峰を越して緩降し標高点1,154米から急坂僅かで、仏ケ峰峠(約1,120米)に出る。縦走路は終わり、北西へ峠路を下る。ヨシハナ池近くの原を過ぎ、新井市上小沢村落へでる。新井駅迄バス。」(現在このバス路線は無い?確認の必要有り。)(続く)

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シャル ウィ ダンス II〜メダルテスト  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 早いもので平成の年も20年を迎えようとしています。19年度を振り返って見ると中越地震からたった3年程で起きた中越沖地震、安倍内閣総辞職や防衛汚職事件、年金発言問題(私自身の職歴は私鉄勤務から始まり、医師となってからは大学と病院を移るたび農林年金、厚生年金と国民年金を掛け直して今日まできたが果たして年金は頂けるのか?不安だ。)など暗いニュースの中、年末に行われたサッカーのクラブワールドカップで浦和レッズが世界3位に輝くという嬉しい出来事で締めくくられました。準決勝戦はあの世界一のACミランを相手に1−0で敗れはしたものの堂々たる試合でした。ありがとう。
 そしてスポーツは見て楽しむものと思っていた私ですが、昨年より家内と始めた社交ダンスは途中で投げ出す事無く続けています。ダンス教室でいつも同じ時間にレッスンする年配の紳士の方と自然と話をしていたが、なんとお年は90歳との事。セダンの車を運転して来られ、軽やかなステップに正しい言葉使いの会話、たいしたものです。で以て私たちはと言うと、マイペースで練習していたのですが、先生より「岸さん、メダルテスト受けてみませんか」と聞かれ、全然上手くなっていないのに「はい。お願いします。」と明るく返事をしてしまって、結局7月にスタンダード3級、12月にスタンダード2級を受験し、めでたく合格証を頂いたのです。
 メダルテスト当日はダンス用のタキシードと蝶ネクタイですっかりその気になっている私に娘が「お父さん、決まってるね。ウエイターさんスタイル。」との言葉。確かにホテルのウエイターも同じ格好です。メダルテスト受験の応援に来た息子の感想は「目立ってたよ。お父さんの先生はかわいいし、お母さんの先生は背が高くって良かったよ。」そう。私達の先生は若くてカップルバランスの良い美男美女。ダンスのレッスンで音楽に合わせて身体を動かす事の楽しさを教えてもらい、姿勢も良くなり感謝です。平成20年はラテンにも挑戦してみようかな。
 それにしてももう年が新しくなるのか。で、12月は私の医院の忘年会とクリスマス会を兼ねて釜沢に新しくオープンしたレストランで夕食会をした。しんとした森に狸達が帰る道。その途中にひっそりと立つ隠れ家のようなレストランです。
 赤ピーツのゼリーの上に白いクリームとさらにアスパラの緑色のソースのかかったカクテル。ご主人が「釜沢の大地の昧」と言われただけあって野菜の旨みだけでこんなに美味しく作れるのかと感心すると共にクリスマスカラーに仕上がっていて心にくい一品。ホタテ貝のスフレは口の中でとろけて、白葱のクリームスープは葱の青い所を生かした鮮やかなソースが渦を巻いていた。カリッとした鰈のムニエル、みごとなローストビーフ、フォアグラと鴨のふきよせ、デザートのクレープの中は暖かいチョコレートソースとカスタードソースが絶妙のハーモニィを奏でていて、口当たりの良い白と赤のワインとで食事を楽しみながら会話も弾みました。そして「この年になって社交ダンスを始めて……。」と話していたら一人が「子供のころ習っていたバレエを又始めました。」と言う話が飛び出しました。……“プリマダム”と言うドラマがあったそうですね。僕もセクシーなタイツ姿で……。
 ……や、やめてください。と妄想
を抱きつつ腹を抱えて床についたのでした。皆様、どうぞ良い初夢をご覧になりますように。

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