長岡市医師会たより No.335 2008.2

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もくじ

 表紙絵 「魚沼早春」 丸岡稔(丸岡医院)
 「平日夜間大人の急患診療がいよいよ始まります」 会長 大貫啓三(大貫内科医院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その6」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「ボウリング大会優勝記」 佐藤 充(幸町耳鼻咽喉科)
 「新春囲碁大会」 新保俊光(新保内科医院)
 「新年麻雀大会優勝記〜再挑戦」 小林 徹(小林医院)
 「鞍馬天狗参上」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「魚沼早春」 丸岡 稔(丸岡医院)


平日夜間大人の急患診療がいよいよ始まります  会長 大貫啓三(大貫内科医院)

 昨年7月の長岡市医師会臨時総会(ビールパーティー)で、長岡市中越こども急患センター診療事業は順調に行われているなか、大人の夜間の急患については依然として3病院を受診する傾向が強い実情を踏まえ、勤務医の疲弊の解消と病院には本来の二次救急業務に専念していただこうとの考えから、平日夜間の大人の急患診療事業を行うことを提案し満場一致で会員の皆様からお認めいただきました。それから半年余りを過ぎようとしております。
 医師会として、長岡市の二澤副市長様や五十嵐福祉保健部長様を通じて、長岡市と粘り強く交渉を続けて参りました。また、昨年12月の長岡市議会の代表質問でも大人の夜間急患診療事業についての質問があり、これに対し市からの答弁で、森市長様からは周辺市町村と調整の上、前向きに考えるとのお答えをいただき、五十嵐福祉保健部長様からは、平日夜間診療は、長岡の医療体制を堅持するのに有効な手段であるとの心強
い答弁がありました。
 このような中、2月21日の森市長様の平成20年度長岡市当初予算の発表記者会見で、平日夜間大人の急患診療事業に予算を付けていただくことが発表され、議会のご承認を得て、正式に平日夜間大人の急患診療事業が行われることが決定いたします。
 森市長様の英断と、二澤副市長様、五十嵐福祉保健部長様をはじめとする関係者の皆様には心より感謝申し上げます。
 これからは、医師会で開設に向けての準備を行いますが、出務していただく先生方は、原則として内科系の先生ならびに外科系でも内科疾患の診療を行っている先生のすべての先生方にお願いしたいと考えており、事務局からアンケート調査を行っている最中であります。先生方におかれましては何卒ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
 広く市民にこの大人の急患事業を周知していただくために、各医療機関に掲示していただくA2版の大きさのポスターの作成も、現在事務局で準備中です。
 また、各病院におかれましても、平日準夜帯に受診された患者さんで、軽症の方で十分大人の急患診療所で対応出来ると思われる方がおられましたら、カルテを作成する前に大人の急患診療所への誘導をお願いするとともに、病院への電話での問い合わせがありましたら、大人の急患診療所への誘導を積極的にお願いしたいと存じます。
 この事業を通じて、長岡の夜間の医療から少しでも勤務医の負担が軽減され、夜間の診療が市民にとっても安心を与えるものとなってくれる
ように願っております。

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南アフリカにルーツを求めて〜その6  田村康二(悠遊健康村病院)

3 私たちのルーツ

 ある時、家内に「実はあんたと私は兄弟なんだ。同じルーツに繋がっているんだ」と言ったら、「エッ!そんな気味が悪いことってあるの?」という。「長年連れ添えば似たもの夫婦になるって言うじやないか!」と言えば 「イエ、イエ!どうして、どうして、似ていません」とむきになって否定する。「それはともかく、またアフリカヘルーツ探しに一緒に行ってみようじやない
か!」というと、直ぐに話が纏まっての旅だったのだ。
 「あなたはご自分のルーツを探がしていますか?」と問うと、探り当てているルーツが誇るに足る方は真に羨ましい。「苦労してルーツを探して、タダの人と知ったところでしかたがないじゃないか?」少なくとも私は長年そう思っていた。
 昔から日本では、貴族・武士の家にはルーツを示す家系図がある。家系図はその家の歴史の証しである。平民はお寺の過去帳がその証となってきた。だから確かな過去帳や系図がない家柄を、「どこの馬の骨かわからない」といっているのだ。

 1.温故知新に、何故かたじろぐ日本人

 古きを尋ね新しきを知ろうとすることは世の常だろう。しかし一方では日本人にはご先祖の古傷には係わりたくないという面があるらしい。だからこそ過去を振り返えって学ぼうという「温故知新」の思いにはたじろぐ人もいる。恐れるのは真実なのだろうか?戦争責任などはまさにそうだ。しかし中国人やユダヤ人達は、過去を遡って調べれば調べるほど自分たちの偉大さが証明されてくると思っている。だから彼等からすると、日本人は歴史感覚が喪失しているように見えるのだろう。
 「温故知新」という言葉は、論語(為政論)に由来する。孔子は「子日く、古きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」と説いている。だからヒトの根源まで尋ねて、動物とは違うヒトの心の拠り所を求めようとアフリカヘ旅立ったのだ。旅にはそういう楽しみがある。

 2.ルーツ探しで、三代辿ればタダの人と知る

 東京に三代住まなきや、俗に「江戸っ子」とはいえないそうだ。「新潟っ子」である条件も同じなのかもしれない。三代かけて江戸に同化して始めて身につくのが「江戸っ子の気質」や「江戸しぐさ」と呼ばれるものだ。
 江戸っ子も三代前以前は問わないらしい。「三代辿ればただの人」となるからだろう。その意味で日本人の多くは自分のルーツを探す必要性や必然性があると思っている人は少ないのではないだろうか? だが探して確かな良い証拠を得られる人は幸せだろう。しかしそういう証拠の内の多くは実にうさんくさいものだと多くの人は感じているらしい。だから日本の史実や史観は隠蔽そのものだ。この様な隠蔽体質は、日本での人の遺伝子学での研究の発展に未だに大きな妨げとなっている。病歴を聞くと、家族歴では構える人は意外と多いのだ。言いたくない負の家族歴も多いからだろう。

 3.アフリカ系アメリカ人のルーツ探し

 アフリカへ旅立つまえに「ルーツ」(アレックス・ヘイリー著、安岡幸太郎・松田銑共訳、社会思想社)を読み返した。この作品は、系図からするとアフリカ人のクンタにつながるアフリカ系アメリカ人のヘイリーが自分自身の「ルーツ」を辿って調べた200年にわたる史実に基づいて書かれた物語である。映画にもなったから覚えている方もいるだろう。
 1750年、西アフリカ・ガンビアの小村でへイリーの誇り高き曾曾曾曾祖父「クンタ・キンテ」は何の不自由も無く平和な生活をしていた。ある日自分の太鼓を作るために森へと入った。そこで待ち受けていた原住民の皆が恐れていた「白い人食い人」に誘拐された。余りにも多くの原住民が突然跡形も無く失踪するので、当時の原住民達はこの白人という人食い人に皆が食べられたのだろうと考えていたのだ。
 何しろ現在アメリカ合衆国だけでも3,000万人も黒人がいるのだ。よくもまあこんなにまでヨーロッパ人が国がかりで組織的に人攫いをやったも
のだと呆れてしまう。だから今ではイギリスには奴隷博物館がある。何時の世にもこの手の野蛮人はいるものだ。やはり白人の遠い昔のご先祖が人食い人種だったからかも知れない。
 さてイギリス兵を中心とした組織的犯罪者達に誘拐されて、多くのアフリカ人達は主に南北アメリカに奴隷として売り飛ばされた。子孫のヘイリーが探し出した6代にわたる見事な系図(図3・2)を見ると、そこに一族に降りかかってきた苦難、偏見、差別やがて栄光への歴史を見てとれるだろう。
 このヘイリーが「アメリカ生まれの日系市民の経験を聞かされて悲しくなった。その人達が日本に飛行機で飛んで行って、日本人を見た。彼等は自分たちと同じ日本人の血を受けた人達だった。しかし彼等がその先祖の地で日本人でないことをしみじみと思い知らされたというのである。それは多くのアメリカの黒人がアフリカを訪れて帰ってからの感想とまったく同じであった。今日普遍的にみられる人間の実情は、わたしたち人間が余りにも互いの相違を強調し過ぎて、わたしたちが誰であろうと、どこに住んでいようと、私たちが一緒に住んでいることを無視するようになったことではあるまいか(アレックス・ヘイリー、「ルーツ(下巻)、日本の読者へ」より引用)と書いている。この話からアメリカでは自分たちのルーツ探しが盛んになったという。
 私は若いときにロスアンジェルスで医師をしていた。だから日系アメリカ人がかれらのルーツを語るときの慎重な言い回しには、今も思い当たる節がある。今こそヒトのルーツは実は一つなのだという科学的な証拠に目を向けるべきだろう。そうすれば人への偏見や差別の無い人類愛が湧いてくるだろう。
 知人のアメリカ人や中国人に「日本語は難しいですか?」と尋ねると答えは決まっている。「日本語は難しくはありません」と異口同音に言う。「ですが、相手を見て言葉・言い方を変えるという、英語や中国語には無い難しさがあります」と答えてくれる。日本の社会は実は根本的に差別社会である。しかもそれを異常だと多くの人々が、深く考えていないことが問題なのだ。そのことにもっと我々は思いをめぐらし深く考える必要があろう。
(続く)

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ボウリング大会優勝記  佐藤 充(幸町耳鼻咽喉科)

 あっ、ボール忘れた。家をでるとき何か足りないような気がしていたのだが…。平成20年1月21日ドリームボウル長岡で新年ボウリング大会が行われました。よりによって大切なボールを忘れてしまうとは。取りに帰る時間もなく、ボウリング場に置いてあった古いボールを使うことにしました。また今年もだめかな?レーンは比較的いい状態でしたが、1ゲーム目は142と実力どおりのスコアー。2ゲーム日はミスが少なく、10フレームには4−5ピンのスプリットを倒し気分爽快。172とまずまずのスコア一にまとめました。3ゲーム目はターキーもあり194と最近の中では上々の出来でした。途中周りをみまわすとあまりいい調子ではない様子。窪田名人も伸び悩んでいるようでした。このままいけばひょっとして……“ぼん・じゅ〜る”の原稿?とも思いましたが、まずは集中と4ゲーム目に臨みました。このゲームはミスも多かったのですが、ターキー・ダブルがあり、最終的には176とまずまずのスコアーでした。4ゲーム合計684ピン。156と高ハンディをもらっているため、トータル840点で14年日にして始めての優勝カップを手にすることができました。
 私が長岡メジカルポウリングに入会させていただいたのは開業3年目の平成7年です。当時のメンバーは窪田武久先生、鳥羽嘉雄先生、田辺一雄先生、三上英夫先生、笛田孝雄先生、野村権衡先生、一橋一郎先生、茨木政毅先生、中村敏彦先生、大貫啓三先生、明石明夫先生、福本一朗先生そして事務長の竹樋智さんです。最年少で一番下手。親指を穴に全部入れることも知らずに投げていました。初回のスコアは123、110、123、133。例会の翌日は手が震えて字を書くのに難渋する程でした。それでも少しずつスコアーアップし、平成8年の年間アベレージは138。この年、市川健太郎先生が入会してくださり、最年少脱却にほっとしたものです。その後マイボールを作ったもののなかなかフックボールを投げることができません。ふとしたことからメカテクターという手首を固定する道具を使用したところよく曲がるではないですか。これはいいと私にしては足繁くボウリング場に通うようになりました(窪田久先生には遠く及びませんが……)。スコアーはそう伸びないもののやはり曲がるのはおもしろい(ボールも新調しました)。ところがいつしか膝痛が出現。6〜7kgも有るような重いボールを投げるため色々な所に障害が出るようです。私の場合は膝で、しばらくやめていたら少しずつ良くなってきました。ということで現在は例会だけの月1ボウラー!細く、長くやっていきたいと思っています。
 今年の新年ボウリング大会には新会員として三上理先生が参加してくださいました。なかなかの腕前で、これからこの会を盛り上げてくれるものと期待大です。長岡メジカルボウリングクラブでは年間獲得ポイント賞、皆勤賞、アベレージアップ賞、最多ハイゲーム賞などの賞を用意し、それぞれの年間成績に応じて豪華景品を用意しています。多くの方の参加を期待します。新年ボウリング大会は今回で39回を数えますが、クラブ開設以来尽力されてきた野村権衛先生、茨木政毅先生には感謝の言葉もございません。これからもアドバイスよろしくお願い致します。ボウリングは老若男女だれでも楽しめる有酸素運動です(1ゲーム40kカロリー)。
 メタボ対策にもいいですよ!

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新春囲碁大会  新保俊光(新保内科医院)

 新年あけましておめでとうございます。

 大会模様

 1月22日、恒例の医師会新春囲碁大会が魚藤で開催されました。参加者は敬称略50音順で、太田裕(太田こどもクリニック)、大塚武司(大塚こども医院)、小林和夫(栃尾郷病院)、小林矩明(喜多町診療所)、斎藤古志(さいとう医院)、新保俊光(新保内科医院)、杉本邦雄(杉本医院)、関根光雄(関根整形外科医院)、戸枝一明(長岡西病院)、増村幹夫(長岡西病院)、三間孝雄(三間内科医院)、高橋正明(長岡中央綜合病院)、大山登喜男(長岡赤十字病院)、各先生総勢13名でした。昨年準優勝の立川病院小児科遠藤彦聖先生や毎年参加される黒川和泉先生(魚沼病院院長)、斎藤良司先生(斎藤皮膚泌尿器科医院)は残念ながら今回欠席されました。高橋先生は杉本先生のお誘いで約20年ぶりの参加となりました。
 大会は和気藹々とした雰囲気で始まりました。私は最年少ですが、その和やかな雰囲気のためリラックスして参加させていただきました。
 太田幹事のあみだ籤で対戦相手が決まり全3回のハンディー戦が行われました。ハンディーは一段一子の置き碁です。私は、一回戦は小林和夫先生と互い先、二回戦は斎藤古志6段に私が2子置いての対戦。三回戦は高橋正明六段に同じく私が2子置いての対戦でした。今回の大会では総じて序盤戦が悪く、特に上手の先生と対戦した時はいつの問にか置き石の効がなくなり、地合で苦戟を意識しながらの石運びとなりました。粘りと指運(悪運?)で優勝できましたが、逆に棋力差を感じた一日でした。

 囲碁の楽しみ方あれこれ

 夏場はDIYや医院改造に熱中しますが、寒くなるとネット碁を楽しんでいます。8才の娘に「お酒と囲碁は控えめに」と言われながら雪見酒、雪見碁を楽しんでいます。雪がちらちら舞う夜更け、部屋の電灯をしぼり、静かで暖かい部屋に一人お酒を傾けながら烏鷺を戦わせる。相手は日本の他に、中国、韓国、アメリカ、香港、台湾、シンガポール、オーストリア、ルーマニア、ブラジル等々世界の愛棋家です。本当に楽しいリラックスできる時間です。囲碁の他に会話を楽しみ異文化に触れてみたいと思いますが、感想戦をするほどの度胸も語学力もなく、開始時は「 hi! または Let's play a great game! 」。終局時は「thank you または Thx! 」で終わってしまうのが残念なところです。なお国による棋風の差は感じませんが総じて力戦家が多いでしょうか。マナーはどこの国も立派です。ネット碁は何時誰とでも打てるし、費用も毎月2,000円程度と手軽で喜んでいます。
 そうはいっても人と人が盤を挟んで対戦する楽しみはまた格別です。ネット碁はゲームを楽しむ感じですが、実戦はコミユニケーションを楽しむ感じです。相手の会話、息遣い、表情、そして指先につたわる碁石の感覚など五感全てで楽しめます。また、囲碁には「ぼやき」の文化がありこれは素人もプロも大変面白い。時には口三味線もあり「ぼやき」を嫌う人もありますが僕は好きです。多くは本人が盤上没我した結果、無意識が表出したものであり、その人の稚気がみられ非常に愉快です。プロでは趨治勲や王銘苑、故加藤正夫棋士が秀逸で、さながら落語を聞く感じです。思うに過度の集中でいわゆる酩酊状態や三昧境に近い状態なのではないかと推察します。酩酊と
言えば藤沢秀行棋士はお酒に酔ってNHK杯の生放送に出場し、碁の解説そっちのけで女性アナウンサーを口説き放送禁止用語を連発したのは有名です。しかし、藤沢秀行といえば、愛棋家にとって仙人のような神様のような人なのでした。こんな風に実戦ではゲームの楽しみだけではなく、人と触れ合い一緒に幽玄に遊ぶ楽しみがあります。

 将来の夢

 将来やってみたいことが二つあります。一つは子供囲碁教室を開くかそのお手伝いをすること。一つは365日間休み無く一次救急を行なう診療所を作ることです。両方ともまだ夢(妄想?)の段階で達成の目途もなにもありませんが、出来ることから少しずつやりたいと思っています。
 若輩者ですが、長岡市医師会の皆様今年もよろしくお願い申し上げま
す。

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新年麻雀大会優勝記“再挑戦”  小林 徹(小林医院)

 麻雀大会前夜妻との会話

妻「明日麻雀大会だよね。何人くらいでするの?」
俺「3卓くらいじゃないの。」
妻「去年は何位だったっけ。」
俺「ハイ、ドンケツでした。」
妻「今年は優勝ですね。一着は小学校以来ないですよね。麻雀以外でも。」
俺「ウルセェー。」

 大会当日

俺「行って来ます。2位ねらいで打ってくるからね。」
妻「何んで?」
俺「優勝すると『ぼん・じゆ〜る』に原稿書かないといけないから、やだもん。」
妻「がんばってね。行ってらっしやい。」
俺「2位ねらいだからね。」

 大会当日2月2日、雀荘「トツプ」に午後1時50分到着。会場には幹事の高橋暁先生。○○さんが待機してました。
「高橋先生、今日は何卓でやるの?」
「2卓の予定です。」
「何人くるの?」
「7人です。1人○○さんに入ってもらいます。」

 続々と春谷先生、鈴木先生、新保先生、児玉先生が来場。
 午後2時をすぎ、「もう一人の先生まだ来ないね」「もう少し待ってから○○さんに入ってもらって始めましょう」と高橋先生。
 午後2時15分スタート。ここで麻雀にくわしくない先生もおられるので医師会ルールを紹介します。
 一回戦毎にメンバーを交代し、全三回戦が行われます。「一回戦一時間で打ち切り」「喰いタンなし」「三本場から確定リャンハン縛り」「三万点持ち三万点返し」「順位点なし」大会ルールでは一回戦毎の勝ち負け関係なく三回戦ルールで勝敗が決まります。通常行われているルールとちがい競技麻雀に近いものです。順位の価値がないので安い手で上がっても意味がなく大きな手が大切です。またいかに相手に振らない事が大切です。昨年は椀飯振舞でトータル8万点弱の最下位でしたので、今回は上がる事より振らない事を頭に行いました。まず一回戦高橋先生、春谷先生、○○さん、筆者。他卓では鈴木先生、児玉先生、新保先生、○○さんです。本卓ではビールを飲みながら局が進みます。
 まず春谷先生が順調なスタート、高橋先生は手がつかずやや不調、春谷先生トップ目がでてきたところで、『ぼん・じゆ〜る』決まったなとの発言。他卓では昨年優勝の新保先生が苦戦中、鈴木先生のロンがいやに聞こえてきます。ここで筆者「今日は敬老の日だっけ」と暴言。皆さんにが笑い。局も進んだ頃、春谷先生のリーチ後○○さんが役満の大三元のテンパイ。春谷先生の上がらなくてもよい、振りたくないとの思いがツモの毎に表情及び言動にでてきます。結局この局は流局。春谷先生おもしろかったです。順調に進み三回戦はトップ鈴木先生、二位筆者、三位春谷先生、四位○○さんで終盤まで思いどおり二位で進んできましたが終わってみたらなぜかトップ。雀荘の名と同じになってしまいました。嬉しいのは嬉しかったですが、原稿が頭に浮かび半分半分の気持。一昨年の医師会旅行記で大変苦労した事を思い出しました。小さい時から書く事が苦手で今も同様です。表彰式も終わり帰りぎわ児玉先生の「楽しかったわ」との声が聞こえ来年もまた参加しようと思いながら帰路につきました。来年は大勢の先生方の参加を期待しております。楽しいですよ、おもしろいですよ。また来年!!
 最後に皆さんご苦労様でした。ありがとうございました。

 余談

 当家の廊下の壁には今でも賞品の「優勝 長岡市医師会」の“のし紙”がはってあります。妻により。
 来年はほんとうに二位になろう。

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「鞍馬天狗参上」  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 NHKの木曜時代劇「鞍馬天狗」を見ていた時の事。
「昔の天狗さんの歌、憶えてる? 歌おうとするとね、…くーらま天狗のおじさんはせーいぎの味方さ、よーい人さ…で、月光仮面の歌になるのよ。」と家内が聞いてきた。
 あったりまえでしょ。…あれ?…杉作きちべえ供につれ…まーかりとおるは京の町…途中しか出てこない。よほど月光仮面の曲のインパクトが強いのかなあ?
 それでは…「とんま天狗の歌なら歌えるぞ。…とんとんとんまのてーんぐさん。とんまでおセンチお人よし。にーぎる刀は大刀だ。エイッ。悪人どもをなぎ倒す。ホイッ。」
 「お父さん、すごーい。」との娘の賞賛の声。(単に、すごくレトロな歌を知っているのね、程度の賛辞なれど)。で、更に蘊蓄を傾ける。
 「月光仮面の主題歌は…疾風のようにあらわれて、疾風のように去ってゆく。月光仮面は誰でしょう。月光仮面は誰でしょう。…という歌で小川寛興さんという有名な人の作曲。主演は大瀬康一さん。(鞍馬天狗を演じたこともあった筈)。子供や善人がピンチに陥ると、全身白装束でやはり白塗りのバイク(スーパーカブ)に乗って颯爽と現れる。(今から見ると、ママチャリにむりやり小さいエンジンを取っ付けたような、ちっちゃくてかわいいバイク)。近くのラーメン屋の配達の兄ちゃんがそのスーパーカブに乗ってビューンと配達をしていた。あの姿を見てラーメン屋になろうと心に決めた少年達が日本全国に多数いた筈だ。(本当か)。
 …で、とんま天狗は喜劇役者の大村崑さんが鞍馬天狗ならぬとんま天狗に扮するのだけれど、とんま天狗が驚くとメガネがずり落ちる。それがすごく良かったんだよ。」
 「あ、そうそう。桃屋の海苔の佃煮のCMもしてたわよね。」と家内。
 「そーよね。…ん、違う。あれは三木のり平さん。海苔だから。似てるけどね。…大村崑さんは『拙者、性は尾呂内、名は楠公。』と大見得を切るんだ。あの歌はオロナイン軟膏のCMソングでもあったんだ。」。
 などと昭和30年代から40年代の昔を偲びながら見ました。
 鞍馬天狗は映画、ラジオドラマ、テレビなどで何回もリメイクされ、いろいろな大物俳優主演で放送されていますが、月光仮面の大瀬康一さんや、天下の二枚目、高橋英樹サマも演じたはずです。(あっ、そうそう、三波春夫サマの朗々と歌う『嵐うずまーく勤皇佐幕…菊は栄えーる、葵は枯ーれる…』という鞍馬天狗の歌もあったはずです。) 今、日曜大河ドラマ「篤姫」で高橋英樹サマの演じている島津のお殿様はさすがにすごい貫禄です。
 久しぶりにふたたび現れた鞍馬天狗。今回主役の野村萬斎さんの天狗もいいですね。狂言や舞台で活躍している役者さんだけあって、身のこなしも軽やかに、立ち回りやせりふの決めるところをきちっと決めています。
 良い時代劇で、木曜の夜の楽しみが増えました。
 いよっ。待ってました。
 鞍馬天狗、ふたたび参上。
 (正確を期すため、ネットで調べて見ましたが、何人かの人が鞍馬天狗の歌を歌おうとすると月光仮面の歌になってしまう、と書いておられるのに笑ってしまいました。TV版鞍馬天狗では大瀬康一さんが歴代5代目、高橋英樹サマは6代目。今の野村萬斎さんで12代目だそうです。ついでに「なつかしの昭和テレビラジオ主題歌集」なるCDを購入しました。)

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